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History Members 三国志編 第43回
「三国志で元帥といえば越吉だけなのがなんか嬉しい」

F「はっけーん」
A「なんだ?」
F「コーエーが昔出してた雑誌でDaGamaというもの。いつぞややった『丞相といえば?』が載っているのが、やっと見つかったよぉ」
A「ヴァスコ・ダ・ガマからかね」
F「その割には大航海時代関連のページって少なかったンだよな。光栄の雑誌らしくあっさり休刊したし。ともあれ、97年9月号の99ページから100ページにかけての、三国志マニア度チェック。三国志で『丞相といえば?』と聞かれてすぐ出るのは誰か、で度数をはかるものじゃけど……」
 諸葛亮 10% 曹操 20% 陸遜 30% 董卓 40% 鍾繇 50%
 顧雍 60% 歩隲 70% 袁胤 80% 張悌 90% 雅丹 100%
F「真っ先に雅丹が出たならちょっと休養が必要、とのこと」
A「その意見は認めるが、おかしくね? どう見ても雅丹が100という面子じゃない」
Y「あからさまに変だな。何人か丞相じゃなくて相国が混ざってるし」
F「雅丹丞相が30でもおかしくないと思うンだ。そのせいで当時がったんがったん云われたし」
A「今でも云うよ!」
Y「最近、そういうネタが外せんのか?」
F「この世はすべて絵空事。それはともかく、今回は孫邵(ソンショウ)で」
Y「呉の初代丞相だな」
A「エントリーされていないひとりか」
F「です。孫姓だけど出自は青州北海郡。つまり孫家三代とは血縁がない。太守の孔融に『廊廟(朝廷)で用いるべきだ』と称賛されたが、邴原(ヘイゲン)や王修の扱いを考えれば、クサレ儒者という言葉が孔子より似あうこのバカが重く用いたとは思えない。そのためか、劉繇が揚州に入るとそっちに身を寄せている」
Y「あの男に関しては、お前がいくらボロクソ云ってもフォローする気にならん」
A「いいけどさ……あんがい、太史慈にくっついて行ったンだったり」
F「その辺りの記述はないなぁ。孫権孫策のあとを継いだ(200年)あとに、どういう役職かも記述がないが、外交問題に関する献策をしている。年代の記述もないンだが、盧江太守を経て車騎長史(孫権は209年に車騎将軍代行となっていた)となり、222年には丞相・威遠将軍に任じられ侯にも封じられている」
A「ないないづくしかよ。……あれ? 孫権が帝位に就いたのって229年だよな?」
F「それまでは後漢および魏の年号を使っていたのに、この年の9月から、呉は独自の年号を使い始めているンだ。つまり呉の独立宣言の第一歩になるが、どういう経緯で丞相を置くことにしたのかは呉主伝(孫権伝)に記述がない」
A「やっぱりないないづくしか」
Y「いちおう魏に臣従していたンだから、おおっぴらにそんなモン置いたら攻められるわな」
F「曹丕自ら攻め込んできたものの、徐盛の一夜城を見て引き揚げたのは2年後(224年)のことになる。対外的には『いろいろやることがあるから部下のまとめ役がほしい』という口実でな。正確には、このあとに『この責務は重大だから、張昭を任じることがあのジジイを厚遇することにはならないだろう』と続くンだが」
A「続かれてもなぁ。忙しいから丞相を置くけど、この役目は重責だから張昭にはやらせないよ、でもおじいちゃんを軽んじてるンじゃないよー、ってのは通らないンじゃないか?」
F「最初に丞相を置くことにしたときも、225年に孫邵が死んだあとも、呉の百官は張昭を推しているンだが、孫権はいずれもオコトワリしているな。最初はさっき見た通りの口実、今度は『いやいや、ワシが張昭殿を軽んじるワケないじゃないか。でも、丞相の職務は忙しいンだから、任じるのはジジイのためにならないよ』と云っている」
Y「とことん張昭が嫌いなら、いっそ罰してしまえばよかったのに」
A「何だろうねェ……おいちょっと待て。孫邵は、孫権が帝位に就く前に死んだのか?」
F「あぁ、話が逸れたな。いつのことかは不明だが、丞相となった孫邵は張温曁豔(キエン)の讒言を受けたモンで官職を辞したンだが、孫権が復職させている。で、225年に死去、享年は63。正史三国志に孫邵の伝はなく、呉の初代丞相の行跡に関する記述は、だいたいこれだけだ」
A「扱い非道くないか?」
F「非道いとも。ただ、陳寿が伝を立てなかった理由というのが、考えてみるとかなり恐ろしいものでな。羅貫中もやらなかった、その辺りを追求するのが果たして本人のためになるのか……はさておこう。坂口和澄氏は孫権をして『最も卓抜な外交感覚を持っていた君主』と絶賛し、外交センスについては『曹操でさえ及ばなかった』としている」
Y「最近、加来耕三からそっちに鞍替えしてないか?」
F「個人を掘り下げるスタイルだとネタにしやすいのは確かだ。『逸話で綴る三國志(徳間文庫)』194ページの記述」

 赤壁の戦い(二〇八)から劉備の呉東征(二二一)の間は、とりわけ孫権主従の研ぎ澄まされた外交感覚が光茫を放った。曹操・曹丕父子、劉備らはただ彼らに踊らされるだけだったと断じても過言でない。

A「過言だよ!」
F「この194ページからの『お人善しをころり瞞した面憎さ』で取り上げられているエピソードが秀逸でな。魏書・蜀書にはまったく記述がない浩周(コウシュウ)というボンクラなんだが」
Y「聞き覚えはないが……ボンクラなのか?」
F「うむ。曹仁の救援に来て関羽に捕らえられた于禁の領護軍(出征軍のお目付け役みたいなもの)で、于禁とともに関羽の捕虜になり、関羽が討ち取られるとそのまま呉に身柄が移されたひとりだ。もともと徐州刺史だったのに、何かミスでもしてそーいうお役目に回されたようでな」
A「えーっと、州刺史が軍目付けって、よく判らないンだが?」
F「浩周とは別に、東里袞(トウリコン)というのが軍司馬(武官長)として于禁につけられていてな。これが『HM』第3回で触れた『侯音の攻撃を受けた南陽の太守』そのひと。どうも、その一件での不手際からそんなお役目に回されたみたいなんだ。この人事から察するに、浩周も、なんかミスして領護軍に回されたと考えるのがいいみたいで」
A「……割と意外な人事査定」
F「その最大の被害者が于禁だというのは繰り返さないでおこう。220年に曹操が死んで曹丕が帝位に就いたが、当時の孫権の立場としては慶賀の使者を送らねばならない。そこで、使者に浩周と東里袞も魏に連れていくよう命じている。于禁本人が魏に送還されたのは221年だが」
A「順番おかしくないか?」
F「どうしてそんなことになったのか、を書いた曹丕への釈明書が浩周に預けられていてな。まとめると『亡き曹操がオレの誠意を認めてくれないから于禁は送れなかった。代替わりしたなら呉への態度が変わるかもしれんから、とりあえずこのふたりそっちに返すよ』というものだ」
Y「とりあえず部下を送って、魏の様子を見て于禁を返すか決めようってことか」
A「外交のカードに使われてたのね……」
F「曹丕は自らふたりに会って、孫権が魏に臣従する意思があるかを確認しているが、ここで意見が割れた。東里袞が『疑わしいモンです』と云ったのに、浩周は『彼は臣下としての節度を守るでしょう!』と太鼓判したモンだから、曹丕は浩周の意見を信じてしまう」
A「どんな根拠で?」
F「うむ、『浩周は、きっと根拠があってそう云っているンだろう』という根拠だ」
A「疑えよ!」
F「曹操なら疑った……というか、疑っていたから返せなかったンだしなぁ。というわけで、曹丕は孫権を呉王に任じる使者を出し、浩周はその使者とともに呉へ赴いている。孫権を呉王に任じるから、長子の孫登を魏に入朝させるよう要求する使者との会談が済んだあとで、孫権は浩周を個人的に接待している」
A「息子を人質に出せ、と云ってきたワケな」
F「そゆこと。浩周が接待の席で『陛下は呉王殿が登くんを入朝させるかお疑いですが、ワタクシ浩周は一族百人の命を賭けて、アナタがそうされると保証いたしました!』とのたまうので、孫権は『一族を挙げてワシの誠意を保証してくださるなら、感謝の言葉もありません……』と感動の涙を流している」
Y「茶番だな」
F「茶番だとも。使者と浩周が魏に帰るときには孫権自ら外まで見送りに出て、天を指差し『約束は守りますぞ』と誓約しているが、もちろん孫登が魏に赴くことはなかった。どういうことじゃオラと、一緒に来た返礼の使者を曹丕は問い詰めているが、そもそもそんな気がなかったのは明白だし」
A「国家間の外交に綺麗事は通じないとかいうオハナシかね」
Y「しかし、その鉄砲玉も哀れだな」
F「誰かは記述がない。しかも孫権、えげつない真似をする。翌221年の8月になって、曹丕に謝罪の上書を送る一方、浩周にもお手紙を送っているンだ。内容は『オハナシをうかがった時は大喜びでお受けしたが、何せ倅は13歳。あと数年はお役に立てまいと猶予を願った』というもの」
A「……年齢が年齢なのは事実だね」
F「孫権が後漢の宮廷、当時としては曹操の下に出仕したのは16のときだったから、主張そのものは図々しいものでもない。だがさらに、浩周への手紙には『倅に、魏の皇族から配偶者を得られるよう取り計らってもらいたい。そーしてもらえれば孫邵をつけて朝廷に赴かせ、結婚式を行うので』とあってな」
A「皇族のヨメってね!?」
F「孫権の弟の孫匡(ソンキョウ)に、曹操の弟の娘が嫁いでいるから、前例がある以上やっぱり図々しいとは云いきれない。個人的には充分図々しいとは思うが。挙げ句の果てに『まだ幼い我が子を手放すのは父として耐えがたく、心配でならない。張昭も一緒に行かせて倅の教育を行わせたいけど、大丈夫かね?』とまで書いているンだ」
A「お前、何やっとンね!?」
F「これで曹丕はだまされた。『孫権がひたすら低姿勢なのは、呉を保つ自信がなくなったからだろう。孫邵・張昭は孫権の手足とも云うべき重臣。このふたりを息子につけて来て、皇室と縁つながりになろうとしているのが、奴に異心がない証よ』とのたまっている。なお、東里袞がどうなったのかは正史に明記がない」
A「まぁ、そこまでやれば誰も疑わんだろうね……」
F「やったンじゃなくて云っただけ。孫邵や張昭どころか孫登も来なかったわけだから。曹丕が、孫権にだまされていたと自覚したがために、浩周は朝廷から追放されているが、半ば以上とばっちりとは云い難い。いつ死んだのかも不明だが、こののち官職に就くことはできなかったそうな」
Y「当たり前だろ、としか云いようがない」
A「だまされたのは浩周だけじゃなく曹丕もだったから、魏書には浩周の話は載せられなかったワケか」
F「浩周が横から、孫権に都合のいいことを吹き込み続けたモンだから、切れ者の曹丕でもだまされているンだ。このボンクラの罪は明らかで、そういう性格(というか、鈍い知能)を見込んで孫権も利用したンだろう。東里袞は割と硬骨な面があるから利用できないと踏んだ、と考えていいだろうけど」
A「……これじゃ州刺史も解任されるか」
F「具体的に何をした、という記述はないンだけどねェ。とまぁこのように、孫権の外交センスは確かなものだった。そして孫邵が、張昭と並ぶ呉の名臣と見込まれていたことが余人ならぬ魏帝曹丕陛下のおことばから判る」
A「あ」
F「長い前振りになったが、実際のところ、孫邵がどういう人物で何をしたのかという記述は、正史にはほとんどないンだ。演義には出てもこない。だのに、同時代の人物たちからは異常なまでに評価が高い。何しろ、孫権が張昭をさしおいて丞相に任命したときに、群臣が反対したという記述がなくてな」
Y「云われてみれば、たとえ孫権本人の指名でも、江東豪族の集合政権という性質上、家臣たちの反対が強ければそんな人事を決行はできんな。孫邵にはちゃんとした支持基盤もあったと考えていいのか」
F「えくせれんと」
A「だったらどうして伝も立ってないのさ? 一介の武将な厳顔張任の伝はなくても仕方ないけど、名声も支持もあった丞相の伝を立てないなんて」
F「うん、それについては正史呉主伝の注に記述がある。書き下して引用しよう」

 その名声や官位からすれば、当然孫邵の伝は立てられるべきだった。項竣や丁孚が手がけた呉書には孫邵の伝があったが、それには『張温と不仲だった』という記述がある。のちに韋昭が呉の歴史をまとめたが、おそらく、韋昭は張温の党与だったため、孫邵の伝は残らなかったのだろう

F「呉書薛綜(セツソウ)伝に収録された薛瑩(セツエイ、息子)附伝によれば、丁孚(テイフ)・項竣(コウシュン)というのは孫権晩年期の太史令(たいしれい、史書編纂課長)・太史郎中(たいしろうちゅう、課長補佐)で、その頃にはじめて編纂されることになった呉の史書に携わったが『天分がないから、彼らの著作は世に遺す価値もなかった』と酷評されているものだ。いずれも、この辺りにしか記述はない」
A「えーっと……? 孫邵は張温と不仲で、韋昭(イショウ)は張温と親しかったので、正史に孫邵の伝がない?」
F「文中の韋昭は、司馬昭の諱を避けて、呉書では韋曜(イヨウ)で伝が立っているので『私釈』でもそっちの名前で登場している。それはともかく、理由になっていないのは判るよな。韋曜が張温と親しかろうが、韋曜の著した呉書に孫邵の伝がなかろうが、陳寿が孫邵の伝を立てない理由にはならない。陳寿なら、自分で調べて書くだろう」
Y「だろうな。では、なぜ?」
F「それを考えるとき、ひとりの人物に焦点を当てなければならないだろう。張温じゃない方だ」
A「曁豔? ……何したヒト?」
Y「さて……?」
F「うん、こちらも本人の伝はない。張温伝に附されているが、それによれば張温ともども揚州呉郡の出自。張温にスカウトされて尚書まで出世したが、権力を利用して呉の役人の仕分けを行っている」
A「役人仕分けって……」
F「役人を人柄で仕分けして、良ならそれでよし、否なら降格、特に官職を悪用して利益をむさぼる連中は前線の兵営に送りこんでいる。高い地位にある者でも一気に何等か降格させられ、役職に残れた者は10人にひとりもいなかったという。孫邵が被った讒言も、十中八九これに関連してのものだろう」
A「本日のお前が云うなイベントですか? それこそ権力の悪用じゃねーか」
Y「呂壱(リョイチ)の前にもこんな真似をしでかした輩がいたワケか」
F「そこで張温だ。揚州呉郡の出自とさっき云ったが、父の代から孫権に仕えていた『呉の四姓』に連なる者でな。容貌が立派で行いも正しいと評判だったため、孫権が群臣に『張温は誰に比すべき人物か』と聞いたところ、顧雍が『現在、彼に比肩する者などおりません』と答えた、というエピソードがある」
A「若い頃から名を知られていた、と」
F「さらに、張昭からも『この老いぼれが君に期待しているのを忘れるなよ』と絶賛されている。224年には、関係修復のため派遣されてきたケ芝の返礼として蜀に行くことになったンだが、このとき実に32歳。年齢不詳のケ芝だがだいたい50歳くらいだったのを考えると、大抜擢と云っていい」
A「鄭泉(テイセン)も年齢不詳だったけど、それ以上だろうしなぁ」
F「ところが、蜀から帰ってくると、蜀の政治を賛美したモンだから孫権のご不興を買っている。親善使節に出しておいて相手の国を褒めるなというのも酷な話だが、劉備の弔問に行った馮煕(フウキ)がそれを曹丕にとがめられると『アレは敵情視察です!』と明言した実例もあるのは事実だ」
Y「何年か前に戦った相手なんだからあまり褒めるな、とお怒りだったワケか」
A「でも、演義では孔明相手に論戦を挑もうとするひとりなのに、正道に目覚めたのか」
Y「お前は黙っとけ」
F「正道と云えば正道だ。孫権は曁豔が役人仕分けを行った黒幕を張温と名指ししたが、曁豔を通じて張温がしでかそうとしたのは、豪族の集権政治からの脱却とも取れるンだから。豪族の推挙なら人品いやしい者でも高位に就ける政治体制から、ちゃんとした官吏登用システムを確立しようとした、と云えば云える」
Y「……おい、ちょっと待て」
F「呂壱のやったことは、権力を悪用しての利益追求だ。アレを認容したのが、燕王騒動・二宮の変と並ぶ孫権の大失態だが、呂壱と曁豔では覚悟が違う。曁豔ははっきり、呉の政治システムそのものの改革を行おうとしたンだ。当時の蜀が中央集権制だったのは事実」
Y「中央は孔明だったがな。馬を盗めば小悪党だが、国を盗むのは大悪党だぞ」
A「そんな大それたイベントなのか!?」
F「曁豔に反対した連中の口実が凄いンだ。朱拠(シュキョ)は『能力があれば人格なんていいじゃないか。彼らの官位を落とせば(お前に)災いが起こるぞ』と云ったし、陸瑁(リクボウ)は『人格でひとを仕分けしては現場が壊滅する。孔子や郭泰の前例を思い出せ』としている。孔子はともかく、郭泰は人柄を問わなかったというよりヒトを見限っていたンだが」
A「並べんなよ、そのふたり……」
F「そして、理由の明記はないが陸瑁の兄、すなわち陸遜も反対している。陸姓や朱姓が、こういう、豪族だからといって優遇『されない』政策に反対するのは、呉では当然のことと云えるな。張温も『呉の四姓』の一隅だが、その辺りに関しては、張温が孔明になりたかったンだろうと予想はつく」
Y「目指す相手を間違ってないか?」
F「蜀に使者として出される前に、孫権から云われた言葉が呉書に記述されていてな」

「あなた(張温)は本来、遠方に使者として行ってもらってはならないヒトなのだが、私が曹丕と意を通じている真意が孔明殿に判ってもらえんのではないかと心配でな。そこで、わざわざあなたに行ってもらうのだ」

F「以前触れた、張温の『孔明ははかりごとの本質に通じておられるので、必ずや陛下のお心遣いによる一時的な方便がやむを得ないのだと理解してくれるでしょう』という発言は、これに応えてのものだ」
A「孔明と面識があるのか?」
F「何か、そうとしか思えないやりとりだろ? 呉が魏と通じているとの疑念を、張温を出せば孔明が払拭すると孫権は期待しているのが判る。対する張温は張温で、孔明を直接知っているような物云いだ。ちなみに、張温については『才は豊かだが智に乏しく、一見華やかだが実はない』との評もある」
Y「どこの馬謖かと思うほど、野郎が好んでやまないタイプじゃないか」
A「やかましいわ! ……で、どうなったンだ?」
F「呂壱と曁豔では覚悟が違うとは云ったが、小役人は小役人だったようでな。呂壱は、当時の丞相たる顧雍を軟禁して『俺に逆らうと丞相でもこうなるぞ』と威張り散らしたが、改革が進まないのに苛立った曁豔も、丞相たる孫邵を讒言して『どうだ、逆らうのか?』と意思表示している」
Y「まぁ大変、じゃ済まない事態だな」
F「これに対して孫邵は、孫権に辞表を叩きつけた。これは『連中を重用するのは、江東豪族を敵に回すことになります。俺は逃げますが陛下はどうします?』と云っているに等しい。ために、孫権は孫邵を慰留し、曁豔は『不公平な人事を行い政治を壟断しようとした』と罪に問われ、ついに娘婿(と思われる)徐彪(ジョヒョウ)ともども自害している」
Y「夢破れた革命家は潔く散った、と」
A「そんないいモンかなぁ……?」
F「曁豔の死とともに張温も、孫権の命で幽閉されている。これが224年のことで、直接の罪状は『曁豔親子が人事を壟断した黒幕はお前だ!』とのことだが、いままで文官だったのに『軍備を整え魏に備えよと命じたのに、それをまっとうできなかった。曹丕が一夜城で引き揚げなかったらどうなったと思っている!』とも云われている」
Y「うわ、オープニングにつながった」
A「もうやだ、コイツ……」
F「曁豔の役人仕分けと、曹丕が侵攻してきたのに一夜城しなきゃいけなかった原因を問われたワケだが、駱統(ラクトウ)の、まとめると『人柄で家臣を裁いちゃいけないンじゃなかったンですか?』という、裴松之曰く『火に油注ぐなよ』な上奏は取り上げられなかった」
Y「積極的に反発した中に陸遜兄弟がいては、積極的にかばってはまずいことになるだろうしな」
A「孫権の君主権は、まだ確立されていなかったワケか」
F「それが確立されたのは、孫邵の死後4年経って、皇帝に即位してからだろうね。張温が死んだのはさらにその翌年、『殺すのは忍びないから下っ端役人にしてやる、命があるだけ感謝しろ』との処罰が下されてから6年めでの病死だった。張温の失脚を聞いた孔明が、張温について述べている」

「彼が失脚したと聞いたとき、何が原因か思い当たらなかった。数日考えて理由が判ったよ。張温は清濁に対してあまりにも態度が明らかで、善悪の区別をはっきりつけすぎたのだろうね」

A「そういう連中では生き辛い国だったワケだな……」
F「ところで、匿名の情熱という言葉がある。僕がこの言葉を知ったのは長尾剛氏の『ファンタジーRPG100の常識(富士見文庫、の275ページ)』で、この本は、文章にちょっと手を加えたものがDaGamaの読者投稿欄にそのまま載っていたほどしっかりした内容のものでな」
A「フォローもなしだが……それ、いいのか?」
F「この本を読んでからDaGama読めばひと目で判るのに、引用もとの記載もなかったからなぁ。ともあれ、ルーズベルト大統領の首席補佐官だったホワイトは、ルーズベルトの死後に、大統領の名演説の多くは自分が書いたと告白している。歴史に自分の名は残らなくても実績は残ることに喜びを感じるのが『匿名の情熱』だそうでな」
A「……孫邵も、そういうタイプだったと?」
F「考えてよさそうだ。孫権は皇帝に即位してから、外交センスに陰りが見える。先に見たが坂口氏も、外交限定だが孫権無双の期間を221年までとしていたな。だが、それよりは、孫邵の生前と死後で区分けした方がよさそうでな」
Y「孫呉の外交を裏で操っていたのが孫邵だった、と?」
F「世界を動かしているのが自分だという実感と喜びがあれば、歴史に自分の名が残らないことをいとわない。そーいうタイプなら、陳寿が伝を立てず、羅貫中が演義に出さなかったのも当然と云える。表舞台に立たず裏でほくそ笑むのが彼らの喜びなんだから、本人の意思は尊重されるべきだ」
A「そういう問題か!?」
F「張温は193年、韋曜は204年生まれだから、年代的には交流があってもおかしくないンだが、呉書張温伝に韋昭ないし韋曜の、韋曜伝に張温の名は、一切、ない」
A「……ホントに、交流なり関係なりがあったのか?」
F「素直な本音、なかったと僕は見ているな。韋曜は歴史家としては、君主(当時は孫皓)と対立しても絶対に我を曲げない男だったが『書物のことなら議論に応じますが、他の議論はしませんよ』とのたまっている。孔明の張温評が正しかったなら、とうてい気が合うとは思えん。そもそも、正史呉主伝の注だって『おそらく』で『だろう』だぜ?」
Y「確たる理由は裴松之の頃に、すでに判らなくなっていた……か」
F「かくて、孔明となることを夢見た男は与党の反発に遭って失脚し、失意の中で世を去った。張温を間接的に殺した孫邵について、正史は多くを語らない。だが、余人ならぬ呉帝孫権は云う。彼を大々的に取り立てることが、そのひとを重んじることにはならないのだ、と」
Y「人の世の表と裏を知っていなければ三国志は読み解けんか」
A「冗談みたいなオープニングからここまで持ってこれるから困ったモンだよ、コイツには……」
F「続きは次回の講釈で」


孫邵(そんしょう) 字は長緒(ちょうしょ)
163年〜225年(死因は当然不明)
武勇1智略3運営5魅力0(黒幕修正により魅力はゼロに固定)
青州北海郡出身の、外交謀略のエキスパート。呉の初代丞相。
孫権の外交面での功績には陰にこの男がいたと思われるが、正史はなにも記さない。

張温(ちょうおん) 字は恵恕(けいじょ)
193年〜230年(処罰され病死)
武勇1智略3運営3魅力4
揚州呉郡出身の、呉の文官。
呉の政治システムを変えようとして豪族たちの反発に遭い、公職から追放された。

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