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History Members 三国志編 第42回
「兵は拙速を聞くもいまだ巧久をみず」

泰永は冬の準備で欠席です。

F「正史を読んだあとで演義を読み返すと、羅貫中による演出の見事さとオハナシの強引さが目につく」
A「いきなり演義批判かよ」
F「たとえば、赤壁戦で劉備が後方にいたなんて記述は『江表伝』にしかなく、それについて孫盛が『ぶっちゃけありえなーい』と云い切っているのに、劉備をコソ泥じみた火事場泥棒に仕立てたのには、むしろ悪意さえ感じられる」
A「……コイツから悪意を取ったら何が残るンだろう」
F「『本当のこと』が残るけど? 偉大すぎる先人を悪しざまに罵るのはほどほどにするが、基本的に羅貫中は劉備一家が大好きで、そのための演出を欠かさなかった。現代まで続く曹操悪人説を完成させたのが演義だが、同様に『コイツを活躍させちゃまずいな……』と判断されたようで、演義ではほとんど触れられていない人物もいる」
A「少なくないと思うが」
A2「……いあ、いあ」
F「まったくもって、おっしゃる通りでございます、ハイ」
A「で、誰なんだ? 甘寧での前科から察するに呉の武将と見たが」
F「察しがいいな。今回取り上げるのは、正史に享年の明記がある高齢者ランキング3位、呉の呂岱になる。享年実に96歳。来敏とは違って生没年もはっきりしていて、256年に数え96で没したから生年は161年。つまり、劉備と同い年だ」
A「あー……そりゃまた」
F「これでは、演義に出せないのは無理もないと判ってもらえるだろう。もともと戦下手だったとはいえ、トシ取った劉備が若造の陸遜にしてやられたとゆーのに、その陸遜の後任になったのが劉備と同い年では」
A「長幼の序が乱れまくりだからな。陸遜との年齢差はいくつになるンだ?」
F「いつぞや云ったが、陸遜の実年齢はいまひとつ判らんのだ。孫権に仕えたトシが正しいなら180年生まれ、正史に記述されている享年が正しいなら183年生まれ。いずれにせよ劉備・呂岱とはひと回り以上離れていたことになるが、二宮の変がなければもう少し長生きできた、とは考えにくい」
A「呂岱と孫権が長生きしすぎていた、と」
F「そゆこと。演義では、孫権の崩御に際して諸葛格とともに後事を任される人物としか出てこないが、これが252年のことだから、当時ですでに92歳になる。ともに任された諸葛格でも数えで50歳(203年生まれ)といいトシだが、彼と比べても2倍近くだ。どれだけの年寄りか判ろうというものでな」
A「劉備と同い年だとそうもなるか……。曹操と同い年ってどんな奴がいる?」
F「んー、すぐには思いつかんなぁ。孫堅と同い年なら割と驚く奴がいるけど」
A「誰?」
F「霊帝。実は156年生まれだ」
A「……うわー」
F「まぁ余談はさておいて、テンプレに戻ろう。出自は広陵郡(こうりょう)とあるから揚州の長江北岸部。つまり、揚州人でありながら江南人ではないという微妙な立ち位置の人物になる。いつくらいのことかは不明だが、もともとはお役人だったものの戦乱を避けて江南に逃れている」
A「場所が場所だけに袁術陛下のせいじゃろうね」
F「だろうかね。呉に仕えるに至った経緯が呉書呂岱伝に書かれているな。孫権が孫策のあとを継いだ(200年)ころに幕下に入り、地方……といっても呉郡(ご)のお役人になっている。孫権は地方の司法・行政に関して、本庁に役人を召喚して諮問していたけど、呂岱の事務処理と応答を気に入った孫権は、呂岱を本庁に呼び戻した」
A「才覚を認められた、と」
F「ところが、のちにまた地方に出されている。事態の詳細は不明だが、内よりは外、文官よりは武官として使った方がいいと思わせる事態が何か起こったようでな。今度は県長に任じられたが、一千からの兵を徴発して精鋭部隊を編成して、蒋欽(ショウキン)とともに会稽など孫呉領南方の叛乱鎮圧に乗り出し、あっさり首魁を捕えている」
A「まだ呉が安定していなかった当時か」
F「意外と長いンだけどな、その期間って。戦後の行賞で蒋欽は討越中郎将、呂岱は昭信中郎将に任じられている。蒋欽といえば袁術時代から孫策に仕え各地を転戦した勇将だが、先代からの先輩、しかも主将に匹敵する行賞を受けているンだから、このとき呂岱がどれだけ勇戦したのか想像に難くないな」
A「新進気鋭の勇者と」
F「どう見繕っても四十路回ってるはずだがな。孫策が死んだ200年に数えで40だから。ちなみに、中郎将いうのは将軍位のひとつ下だと考えていい。将軍>中郎将>校尉>都尉、という具合だ」
A「そんなに高くないワケか」
F「周瑜どころか賀斉でも、偏将軍に任じられるのは208年だからねェ。これがいつごろのエピソードかは不明なんだが、203年くらいと思われる。で、呂岱伝は注を挟んで、ここから215年まですっ飛んでいる」
A「特に書くことがなかった、と?」
F「いや、おおっぴらには書けないことをやっていた。それについてはあとで触れるが、215年に何があったのかはいいと思う。孫権と、蜀を得た劉備との間に国境紛争が起こった年だ。このとき、呂蒙の指揮する軍が関羽の守る荊州へ侵攻したが、長沙方面に向かった部隊を率いたのが呂岱だった」
A「何があったかは知らんが、この頃には、一軍を率いるに足る武将と目されていたワケか」
F「そうなる。長沙・零陵桂陽の三郡は呂蒙の謀略で開城したンだが、県単位ではまだ抵抗が強かった。安成など長沙内四県のお役人が合同で抵抗する姿勢を見せると、呂岱は瞬く間に包囲してあっさり降伏させ、抵抗を鎮めている。期待に応えた呂岱を、孫権は長沙に駐留させて三郡の鎮撫に当てた」
A「軍将としてだけではなく、その辺りの気配りもできる人物だと思われた?」
F「かつての文官ぶりを思い出したのかもしれん。が、そういう措置をしたということは、裏を返せばこの辺りの治安がまだ不安だったということでな。不安は的中して、安成の県長・呉碭(ゴトウ)がまたしても蜂起している」
A「孫家への反発が強かった、と」
F「これに関しては『関羽に気脈を通じた』と呂岱伝に明記があってな。しかも、呉碭は安成ではなく攸県で挙兵し、部下の袁龍(エンリュウ)は醴陵県(れいりょう)にこもっているンだ。都合三県で叛乱が起こっている辺り、呉への反発の強さは尋常ではない」
A「劉備と関羽への思慕の念が強かったワケですね、判ります」
F「お前、泰永がいないからって云いたい放題……事実なんだが。孫権は切り札の魯粛(周瑜は故人)を動員して呉碭を討伐させ、呂岱には醴陵攻略を指示。呂岱こそあっさり醴陵を降して袁龍を斬っているが、魯粛が呉碭を取り逃がすほどの激戦だったことからも、劉備の統治が行きとどいていたことがうかがえる」
A「きっちり反抗してのけたワケだからな」
F「しかも、戦後に呂岱は盧陵(ろりょう)太守に昇進し、荊州からは離れている。周知の通り、曹操が漢中入りしたことに危機感を覚えた劉備・孫権の間で講和が成立したモンだから、先陣切って働いた呂岱を荊州に残すのは、劉備・関羽を刺激しかねない……という配慮での人事と考えてよさそうでな」
A「試合に負けて勝負に勝ってないか? 劉備」
F「うん。荊州の半分は割譲したけど、県長レベルまでしっかり人心をつかみ、功労者たる呂岱を前線から外させている辺り、政略的には劉備が勝った感は否定しない。争地で交地で衢地なだけに力ではなく心を攻めようと、孔明が南荊州に作り上げた親劉備の気風は確かなものだったと云っていい」
A「劉度たちの犠牲は無駄ではなかったワケだ」
F「露骨に無駄に聞こえたのは気のせいだよな。だが、この敗戦がのちの呂蒙に、荊州民の人心をつかむことで関羽の後方を切り崩し、孤立させることを成功させたとも考えられる。誰もが智略の限りを尽くしていた時代だ、アレもまた敵から学ぶことができない男だったとは思えない」
A「……なにがどこでどう影響しているのか判らんものだなぁ」
F「敵から学ぶのは陸抗の専売特許ではなかった、というワケだ。さて、呂岱伝の記述は、この辺りの戦闘が終わると220年まで飛ぶ。関羽を討ち荊州を得たことでいずれ必ず来る蜀軍に備えるべく、交州から歩隲が1万の兵とともに長沙に入っているが、その後任の交州刺史となった、という記述だ」
A「つまり、夷陵の戦いからは外されたワケか?」
F「そうなる。関羽戦にも従軍した旨の記述はないから、どうも蜀軍とは相性が悪いと思われたようでな。まぁ、南方の鎮撫も重要な職責なんだが。呂岱は交州に入ると、歩隲の頃から呉に叛していた山越の降伏を受け入れたり、郡県を攻撃していた山越を平定したりと大忙しだったから」
A「南方も安定はしてなかったワケか」
F「さらに、南荊州の桂陽から北交州にかけて勢力を誇っていた叛徒の王金(人名)が、交州治所の南海郡まで兵を寄せてきていた。何とかしろと孫権から命じられた呂岱は、あっさり王金を生け捕って建業に送り、挙げた首級や捕虜は万余を数えたとある。これにより、安南将軍に昇進している」
A「……220年当時なら、まだ士燮(シショウ)は健在だったよな?」
F「南方王士燮の死は226年のことだな。つまり、王金らは士家ではなく孫呉への叛逆者だったワケでな。歩隲が交州を離れるまでの10年で何をしでかしたのかは本人か士燮の回で検証するが、士燮存命当時、交州は呉の領土ではあったものの、その支配力は揚州寄りの地域にしか及んでいなかったようでな」
A「揚州から離れている辺りは、士燮治める地域だったと」
F「というわけで、226年に士燮が死ぬと、呉は士家勢力の撲滅に乗り出している。まず、呉の支配域だった交州の北・東側四郡を広州として独立させ、残る三郡のみを交州として分割。広州の刺史が呂岱なのはまぁ仕方ないと士家でも思うだろうが、交州の刺史は戴良(タイリョウ)という武将が任命された」
A「だれ?」
F「実は、この一件でしか出てこない武将だ。しかも、士燮の晩年の地位は交阯(こうし)太守だったが、この座にも校尉の陳時(チンジ)という、やはりこの一件にしか記述がない武将が任命され、士燮の息子の士徽(シキ)は安遠将軍(三品官だが雑号)・九真太守として、さらに最果ての地への赴任が命じられている」
A「士徽に叛逆しろって云ってないか?」
F「まぁその通りでな。戴良・陳時が交阯に入ろうとしたけど、士徽は兵を集めてふたりを交州に入らせない。それを見届けた呂岱は、孫権に『あの野郎の罪は明らかです』と上奏し、討伐命令を出させている」
A「マッチポンプもいいとこだな」
F「だが、士燮に採りたてられた桓鄰(カンリン)というお役人が士徽を諌めて怒りを買い、殺されていてな。兄の桓治(カンチ)が桓家の世兵を動員して交阯城を攻めたが、堅く守る士徽を数ヶ月攻めても攻略できず、停戦して引き揚げている。このように、士燮以来の影響力は、いまだ根強かったワケだ」
A「まぁ、死んで間もないしな」
F「で、この辺りの戦闘の様子が呂岱のところにも届いていたようでな。部下が『慎重に攻めるべきです』と進言したが、呂岱はそれを突っぱねて『奴はワシが早く来るとは思うまい。ぐずぐず時間をかければ七郡すべてが集結しかねん。そうなったら誰が対処できるか』と、昼夜兼行、海路で三千の兵を進軍させている」
A「速攻策に走ったワケか」
F「ここで搦め手も用いている。呂岱は、士燮の甥、士徽のいとこの士匡(シキョウ)とかねてから親交があったンだが、彼を交阯城に送りこんだ。城内には『叛乱に加われば悲惨な目に遭うぞ』と、かつて王金らがどうなったかを伝聞させ、士徽には『降伏すれば官職は失うが、他に罰は受けない』と説得させている」
A「いとこでは城内に入れないワケにもいかんか。で、甘い誘惑を」
F「それでいて、呂岱の軍は士匡の入城からほとんど間もなく、交阯に到着しているンだ。降伏するか抗戦するか心が揺れていた士徽がアタマを使う余裕を与えない措置で『恐慌をきたした士徽は兄弟6人で肌ぬきになって呂岱を出迎えた』とある。呂岱は労いの言葉をかけて、彼らに服を着せてやった」
A「交州が平定された、と」
F「翌日には6人とも処刑されているンだけどな」
A「なんでさ!?」
F「おいおい、呂岱が受けた勅命は士徽の討伐だぞ? 勝手に許せるわけがないじゃないか。孫権からの討伐命令書を読み上げ、刑吏に命じて斬首しているンだ。首級は武昌の孫権のところに送られ、士匡やその父(士燮の弟)の士壱(例によって士懿の可能性あり)は庶人にに落とされ、数年後に誅殺されている」
A「……士家勢力の排除には成功しても、後味は悪いな」
F「士家の恩徳を慕う民衆は少なくなく、ひともあろうか桓治が民衆を動員して呂岱に攻撃してきたモンだから『積極的に反撃してさんざん打ち破った』とあるな。年内には桓治も打ち破られ、南方平定の口実に過ぎなかった広州は廃止された。だが呂岱はおさまらず、九真まで進軍して何万もの捕虜・首級を挙げている」
A「えーっと……226年ってことは六十代半ばか」
F「この進軍で南方異民族の王たちも貢ぎ物を送って寄越し、南方が呉の支配域に加わった。孫権は呂岱の働きを喜んで、鎮南将軍に昇進させている。だが、さすがにすぐには平定できず、これは231年くらいのことでな」
A「5年近くかかったのか? もう70になってるじゃないか」
F「そのためだろう。229年に皇帝になっていた孫権は『もう南方は平定された』と、呂岱を長沙に呼び寄せている。この頃、隣接する武陵郡で異民族が活発だったのは事実で、討伐に差し向けられた潘濬のフォローというのが口実だが、高齢の呂岱を楽隠居させるための措置と考えてよさそうでな」
A「まぁ、早死にしまくりの孫一族からみれば、こんなおじいちゃんは貴重だよなぁ……」
F「だが、呉では呂岱の後任足りうる武将が育たなかったというか、生き残らなかったというか。かつて関羽を捕えた潘璋が234年に死ぬと、その軍勢は呂岱が引き継いだ。で、翌年には盧陵・会稽・南海などの郡での叛乱を鎮圧して回り、孫権から『好きに論功行賞していいよ!』と絶賛される働きを見せている」
A「老いたりとはいえ、その分信頼度では十全だったワケか」
F「陸遜と……」
ヤスの妻「……えーじろ、ちょっとー。判断がつかない事態だよー?」
F「はい、何ですか? だから、えーじろやめろ。……すまん、ちょっと外す」
A「いってらっしゃーい」
(ちとてとしゃん、ちとてとしゃん♪)
F「ただいまー」
A「おかえりー」
F「何で踊ってンだ、お前は? 思ったより時間がかかってたのを娘に指摘されたので、ちょっとペースを上げるが……どこまで行ったっけ?」
A2「……234年の叛乱鎮圧」
F「そこか。陸遜とともに荊州の統治にあたっていた潘濬は239年に死んだが、ために呂岱が後任となっている。そのまま何事もなければ武昌で死ねたかもしれんが、この年の10月には荊州南方から交州北部を巻き込んだ廖式(リョウシキ)の叛乱が起こっている。座しておれずとばかりに呂岱は自ら志願して鎮圧に乗り出し、一年がかりですべてを平らげた」
A「このじいちゃんでも1年かかった……か」
F「それだけ老いたということでもあるが、この叛乱が大きかったということでもある。さらにさらに245年、陸遜が憤死すると、孫権は呂岱と諸葛格に荊州方面の統治を二分して任せている。さすがに陸遜の代わりは単身では務まらないと思われたようだが、八十を回っていては無理もないと云える」
A「二宮の変ではどっちについたンだっけ?」
9月15日生まれ「孫覇派だ。決着まで生き残っていた孫覇派では数少ない、事後の処罰を免れたひとりだが、これは年齢が年齢だからの措置と考えるべきだろうな。こののちはさすがに前線には出なくなり、全j・歩隲・朱然、ついに孫権と見送り続け、ようやっと呂岱が死んだのは256年9月16日のことだった。繰り返しになるが、享年96」
A「一日早かったら大笑いしたのに。……しかし、ほとんど呉の歴史そのものを振り返ったなぁ。そのときどこにいたのかはさておいて、大きなイベントはほぼ起こったンじゃないか?」
F「そうだな。対北・対西、つまり魏や蜀との戦闘では主役たりえなかったものの、南方での戦闘については220年以降死ぬまで、圧倒的な存在感で君臨していたと云っていい。それだけ、呉では南方問題が大きかったと云える」
A「呉の軍事で欠くことのできない人材だった、と」
F「だが、人格については、正史の著者たる陳寿と注を施した孫盛との意見がほぼ相反している。陳寿は『呂岱は純粋な誠意をもって公務に従事した』としているが、孫盛は士徽兄弟殺害を『心も命も捧げて服従してきた士徽兄弟を殺し、自らの利益と手柄にした』と痛烈に批判している」
A「……どっちも事実ではあるンだよなぁ」
F「事実だとも。張承張昭の長男)は『忠勤に励んで人々の指針となり、勲功はひとに譲り、手柄は名声で完全なものとなった』とし、孫権からも『自ら万里の彼方に赴き国家のために尽くしてくれる』と絶賛されたが、士徽・王金ら『叛逆者は除かれ、小悪党は族滅された』のも事実。任務のためならひとも殺すことの是非は論じるべきだろうか」
A「……手段を選ばない面があったワケか」
F「誰もが智略の限りを尽くした時代だが、呂岱にはそうする他の方法は思いつかなかったようでな。親交のあった徐原(ジョゲン)という人物は、呂岱がミスするとひと前でも怒鳴りつけたンだが、それを注意するよう促された呂岱は『だからワシは彼を貴ぶのじゃよ』と応えている。それだけに、徐原に先立たれたときには声を上げて泣いたという」
A「自分の過ちを諌めてくれる部下を先に亡くしてはなぁ」
F「うむ。『徐原に先立たれては、ワシは誰から助言を受ければいいのか……』と哀惜したそうな」
A「…………………………」
F「…………………………」
A2「……ツッコんだ方がいい?」
F「ところで」
A「本調子じゃないのは判ってるから、無理はよそうな?」
F「ところで、陳寿はスルーしているが、呂岱は漢中入りを果たしていてな」
A「は!?」
F「最初の方で触れた呂岱伝の注によれば、211年に呂岱は二千の兵を率いて西方に向かい、漢中の張魯に『ちょっと漢水を下ってこないか?』と誘いをかけているンだ。この前年、210年に死んだ周瑜が『蜀を得て張魯を降し、馬超と組んで曹操と対決する』天下二分を唱えていたのは周知の通り」
A「……えーっと、劉備に『益州を攻めるから道を譲れ』みたいなことを云っていたか」
F「うん。蜀書先主伝(劉備伝)の注に『孫瑜に水軍を指揮させ夏口(かこう)まで進ませた』とある。この軍に呂岱は加わっていたようでな。関羽の警戒を抜けて漢水を遡上し、張魯のところにたどりついたらしい。ただ、張魯は呉の真意を疑い、道路を遮断して往来できなくしたので、孫権は呂岱に引きあげ命令を出しているが」
A「益州を得るため、まずは張魯と手を組もうと考えたワケか……だが失敗した」
F「陳寿がこの一件をスルーしたのは、劉備軍の警戒を抜けて漢中までたどりついた奴がいるなんて書けるワケがないという切実な事情による。だがもうひとつ、呂岱のしでかしたことを書いていいものかと悩んだのがうかがえてな」
A「というと?」
F「呉に帰ったルートがまずいンだ。さっき云ったが、漢中から東への道は張魯が遮断した。つまり、来た道からは帰れない。北は曹操の支配下に向かうし、西では呉とは逆方向になる」
A「……おい、まさか」
F「そのまさか。劉璋を助けるために漢中を攻めに来た劉備のいる南方路、すなわち蜀の桟道を渡り、長江に出て呉へと帰還したようでな。できるワケがないと思うだろうが、実は、呉書呉範(ゴハン)伝に『呂岱は蜀から帰ってくる途中、白帝で劉備に会った』そして、蜀攻めで苦戦している劉備軍の様子を報告したという、洒落になんない記述がある」
A「お前、何やっとンね!?」
F「見てきた通り、呂岱の用兵は速攻を根本とする。敵が体勢を整えないうちに素早く動き素早く攻めるというものだが、機動力に長けているだけにそんな真似までしでかしたみたいでな。ただ、コレがホントのオハナシなのか判断つきかねるンだ。蜀まで行って張魯・劉備に会って生きて戻るなんて真似が、さすがにできるものかどうか」
A「……ひと言云えば、コイツならやりかねないとは思う」
F「うん。この行動力に長けるおじいちゃんなら、そんな真似でもやりかねないよな。荊州争奪戦で先頭切って奮戦したのも、蜀攻めでの『配下はバラバラに落伍し、死者は兵の半数を数え、きっと侵攻は失敗する』という劉備軍の惨状を見ていたからかもしれない」
A「……まぁ、アレだ。長生きしたからといってボケて害になるじいちゃんだけじゃないというオハナシ」
F「続きは次回の講釈で」
A2「……いあ、いあ」


呂岱(りょたい) 字は定公(ていこう)
161年〜256年(96歳での大往生)
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揚州広陵郡出身の、呉が誇る老将。
生涯をかけて江南、特に交州の統治と叛乱鎮圧に従事した。

徐原(じょげん) 字は徳淵(とくえん)
生没年不詳(230年代には死んでいた模様)
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揚州呉郡出身の、呉の文官。
歯に衣着せぬ物云いで呂岱には気に入られたが、そのためか、遺族は埋葬費にも事欠いた形跡がある。

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