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History Members 三国志編 第41回
「ポンコツじいさんの97年闘争」

 モスコヴィッツじいさんは、土地の領有権を巡る裁判の陪審員に選出された。原告・被告いずれもじいさんと同じくらいの年齢で、互いに相手の声を聞き逃すまいと耳を澄ませ、声を張り上げる。
「アイツはワシの財布から、10年かけて偽造した20万ドル札を盗んだのですじゃ!」
「何を云うか! お前はワシの密造酒を地面に埋めて、ビンだけ持って来たではないか!」
 互いに譲らないふたりの様子に、じいさんは怒って声を上げた。
「いい加減にしなされ。聞けば彼女はお前たちの母親じゃというではないか。仲良くしなくてどうするのじゃ」

F「以前ブログでさらっと触れたンだけど、正史三国志で享年の明記がある最高齢の人物は張臶(チョウソン)と云って、これが105歳。老将の代名詞たる黄忠さんでも演義の享年は75歳(戦傷死)だから、それと比べてなお30歳プラスになる」
A「尋常じゃない数字だな、オイ」
F「僕は四十までもたないと云われてるから、3倍近くなんてちょっと想像もつかない数字なんだよなぁ」
A「あっさり公表するな!」
F「養生につとめれば10年はもつだろうけど、その先はないってさ」
Y「コイツのバカ親が、病院の警備かいくぐって侵入してな。アレがなかったらこんな数字じゃ死なせないンだが」
F「いや、仮にも僕の親だったワケだ。しばらくぶりに死にかけたよ」
A「ホント、こっちの病院に入れればよかったよ……」
F「現世では親兄妹と二度と会わないで済むことになったから、それで充分だよ。絵空事はさておいて今回は、正史に享年の明記がある高齢者ランキング2位、蜀の来敏(ライビン)についてー」
A「いや、お前が問題ないならいいけど……聞かない名前だよなぁ。演義に出たっけ?」
F「確か91回だと思ったが、孔明が北伐に向かうとき、成都の政務を任されたひとりだ。まぁ、そこでしか出てこないから、演義派の皆さんがご存知ないのは無理からぬひとりになる。テンプレ入ろう。出自は荊州義陽郡(ぎよう)となっているが、いつぞや触れた通り義陽郡は222年設置なので、正確には南陽郡(なんよう)の出自になる」
A「どの辺りなのかは17回の地図参照、ということで」
F「あの地図には、出身の新野県(しんや)までは書いてないので、(えん)の南辺りに脳内補完してください。蜀の景耀(けいよう)年間に享年97で亡くなったと明記があるが、生年の記述がない。景耀は258年から263年だから、数えで97なら、曹操劉備とたいして違わない生年になるな」
A「つまり、劉備が蜀の滅亡まで生きていたなら、そんな年齢になっていただろう、と」
Y「さすがにあの男でもそこまでは長生きしないだろうがな。しかし、景耀といえば蜀の最後の年号だったか?」
F「覚えてたか。蜀滅亡に際してのゴタゴタに加わっていないことを見ると、それまでには死んでいたンだろうね」
A「蜀を看取れなかったひとりか。……重要な人物なのか? 確か『私釈』では出なかったと思うが」
F「一度だけ出したよ。で、血統で云えばかなりの大物なんだ。光武帝劉秀の腹心に来歙(ライキュウ)という武将がいるが、その末裔にあたる。父は来豔(ライエン)という『学問を好み、謙虚な態度で士人に接し、屋敷を解放して士人を養った』人物でな。若い頃から高位を歴任し、172年4月には、九卿太常から三公司空になっている」
A「そう考えると、三公を輩出した家って珍しくないンじゃないか?」
F「周家もそうだが、権力を得てもそれを維持できなければ名家とはなりえないンだよ。172年5月に地震があったモンだから、7月には免職されてな」
Y「またこん畜生なエピソードかよ」
A「あー……権威はあっても権力がないから切られるためのクビと化していた、三公ねー」
F「すでに政治の実権は尚書台に移行していた時代だからねェ。来豔は太常に復帰というか降格して、182年には再び司空に叙され、在職のまま没している」
Y「死に臨んで功績を鑑みた、というパターンかね」
F「見るからにねェ。で、来敏には姉がいて、その夫は黄琬(コウエン)。陳蕃らとともに政治の実権から追放されたが、董卓が実権を握ると中央に呼び戻され、ところが董卓暗殺に協力し、李・郭に殺された当時の司空だ」
A「激動な人生じゃね、そっちの司空は」
Y「司空の息子で司空の義弟か。割といい家柄だな」
F「だが、来家は周家同様、袁家・曹家に及ばなかった。来敏は『漢末の大乱で、姉に従い荊州に逃げた』とある。どうやら来豔は士人の養いすぎで、来敏に財産や官位を残せなかったようでな」
A「権力を維持できなかった、と」
F「この『漢末の大乱』がどれを指すのかよく判らんが、黄琬が死んだのは192年。こちらも妻に財産は残せなかったようで、劉焉から劉璋へ代替わりした頃に、姉と来敏は益州入りしている。『黄琬は劉璋の祖母の甥』とあり、つまり劉焉のいとこだった縁で、賓客として遇されることになってな」
A「えーっと、姉の夫の父の姉か妹の孫に頼った、と」
Y「ほとんど他人じゃねーか……と思ったが、来敏から見たら完全な他人だな」
F「というわけで、ようやっと定職を得た来敏は、劉璋の庇護下で書物を読み漁っている。漢王朝の古い制度に詳しい孟光(モウコウ)と、左氏春秋がよいか公羊春秋がよいかという議論を交わしたとか、訓詁学を修め、文字の校正を好んだとか」
A「典型的な文官だね」
F「それだけに、劉備の入蜀に際しても抵抗したという記述はないし、劉備が益州を平定してからは典学校尉に任じられている。それこそ『漢末の大乱』からすでに十数年で、学問は衰退していた。そこで劉備は、来敏や孟光・許慈(キョジ)・胡潜(コセン)らに、宮中の制度や慣例を扱わせて整備をはかっている」
A「えーっと?」
F「相手取った孟光も、三公の太尉(184年12月就任、翌年1月に罷免)たる孟郁(モウイク)の縁者でな。官僚だったンだが、董卓が献帝を連れて長安に遷都したときにそのまま益州に逃げ込み、劉焉に受け入れられた経歴を持つ。こちらも賓客として遇され、そのまま劉璋を経て劉備に仕えている。劉禅の代で大司農まで昇進した人物だ」
A「こちらはそれなりの文官か」
F「許慈は三礼(礼記・周礼・儀礼)や論語に通じた典礼のエキスパートでな。劉備が帝位に就くセレモニーを担当したのが、孟光と許慈だったと記述がある。胡潜は、学識は乏しかったものの記憶力がずば抜けていて、祭祀や儀式の手順・規則を丸暗記していた。先人の教えを口伝する習慣はアジア圏に珍しくないが、それの伝承者だな」
Y「そういうのがひとりいると何かと便利だが、ふたりいると周りが凄ェ困るのは身に染みてる」
A「あっはは……蜀の学術振興に尽力したワケじゃね」
詳しい片割れ「……で、劉禅が皇太子になると、来敏は劉巴の推薦で世話係となり、劉備の死後に劉禅が即位すると護衛兵を統率する虎賁中郎将に任じられた。その後に、孔明は北伐を始めると来敏を漢中に呼び寄せて軍祭酒・輔軍将軍に任じているが、事件を起こしてショクを追われている」
A「職を追われたのか、蜀を追われたのか?」
F「明記はないンだが、どうも2番みたいでな。孔明が死ぬと成都に戻ったとはあるが、だからといって漢中に留まれる雰囲気じゃなくて、いち時期は下野していたらしい。で、成都では皇后の世話係の大中秋という役職に就くが、また免職。あとで復官して光禄太夫になっているが、過失で今度も失職している」
A「おいおい。問題児なのか?」
F「問題じいさん。泰永が大喜びしそうな、余人ならぬ孔明その人のお言葉があってな」

「あのジジイは私に向かって『あの若造(たぶん楊儀)にどんな手柄や徳があって、ワシの役職を取り上げ奴にくれてやるというのですじゃ!』と陳情してくる。自分が老いぼれて常軌を逸している自覚がなく『諸人がワシを憎んでいるのはどんな理由じゃ』とほざいておる。かつて有識者は来敏を『和を乱す』と主張したが、益州を平定した折も折で、劉備様は我慢して用いられた。劉巴が皇太子のお世話にと勧められたときも、不機嫌ではあられたが拒絶されず、だが冷遇もされなかったのだ。劉備様亡きいま、私は愚かにもあのジジイを抜擢してしまったが、軍中の軽薄な風俗を道義で指導してくれると期待してのことだった。それができないと判ったからには、あのジジイを排除するしかない」

Y「ぶははははは、ヒトの和の蜀! どうしてこの丞相サマは劉備の遺言に逆らうのか!」
A「やかましいわ!」
F「陳寿としてもこのじいさんのフォローができず『来敏が何度も免官されたのは発言に節度がなく、行動が異常だったからだ』と正史の本分に明記している。孟光についても『大事に対して慎重な態度をとらず、余人の風潮に反する議論をしていたが、それでも来敏よりはマシだった』とあってな」
A「個人的な恨みでもあったのかと思えるくらいボロクソじゃね……じゃぁ、何で復官できたンだ?」
F「悪しき儒教の教えあればこそだったようでな。孟光ともども、高齢で徳望あふれる(笑)学者だったので大事にされていた。それに、実権は握れなかったとはいえ三公のご子息であられ、劉禅が皇太子だった頃からお仕えしているワケだ。劉備ならまだしも、劉禅の代では無碍に扱えなかった次第でな」
A「ために、何度退けられても、何度でも復官できたワケか」
F「『官位というものの重さを自覚し、行いを自戒するよう』執慎将軍という地位につけられ、景耀年間に亡くなっている。だが、陳寿が『許慈も孟光も来敏も徳行では褒められなかったが学者としては一流だった』と締めている辺り、どーにも行いを改めることはなかったようでな」
A「楊儀といい馬謖といい、どーして孔明はこんな連中ばかり起用しでかすのか……」
Y「わざとやっているとか」
A「するか!」
F「ところで、来敏・孟光・許慈・胡潜らの、慣例や制度に関する議論がどんなものだったのか、陳寿はしっかり書いている。書き下して引用してみよう」

「来敏と左氏春秋・公羊春秋について議論するとき、孟光は自分の主張を大声でわめき散らした」
「蜀の創業期だったので慣例に関する議論には異論が続出したが、許慈と胡潜は互いに相手を論破しようと、感情むき出しで批難しあい、顔色を変えて声を荒らげた。ムチを振りまわして相手を威嚇するほどで、彼らの我を通し相手を嫉妬する様子はそれほど非道いものだった」
「さすがに呆れた劉備は、群臣を集めての宴会で芸人にふたりの格好をさせ、声を荒げて刀や杖を振りまわす姿を真似させて反省を促している」

F「頭の固い学者肌の連中にはしっかりした手綱がなければ、まっとうな議論なんて望むべきもないってオハナシ」
Y「魏なら曹叡がやったように全員免官だろうな」
F「簡雍がどんな人物だったかは以前触れたが、蜀の文官にはどーにもこの手の、朝廷の調和を乱してでもマイウェイを暴走するタイプが多くてな。黄権辺りは割とまっとうだが、それだけに蜀にいられなくなった感がある。まぁ、まっとうな文官がこんな連中の中でやっていられるかという切実な問題でな」
Y「弱い味方は強い敵より脅威だと云うが、こーいう連中が幅を利かせる辺り、黄皓が権力を握る下地は長年かけて整えられていたワケかね」
F「こんな連中に成都の政務を任せなければならんかった孔明が過労死したのも、まぁ無理からぬオハナシになる」
A「費禕は費禕でトンでもない奴だからなぁ……馬良が生きていればどんなにか」
Y「アキラ、それあからさまなフラグだぞ」
A「うわあああっ!?」
F「ちなみに、正史に注を施した孫盛が、割と手厳しい意見を述べている」

「蜀は人材に乏しかったから、陳寿サンは許慈みたいな奴でも伝を立てなくちゃいけなかったみたいですねェ」

Y「ヒトの和の国が人材不足に陥ってどーするのか」
F「長生きしたからって賞讃されるワケじゃない、という生きた見本な皆さんでしたー」
A「お前らそんなに蜀が嫌いかー!?」
F「続きは次回の講釈で」


来敏(らいびん) 字は敬達(けいたつ)
生没年不詳(蜀の滅亡前には死んでいた模様)
武勇1智略3運営4魅力1
荊州南陽郡出身の、蜀の文官。
古今の典礼に通じていたが我が強く、蜀の宮廷では厄介者扱いされていた。

孟光(もうこう) 字は孝裕(こうゆう)
生没年不詳(蜀の滅亡前には死んでいた模様)
武勇1智略3運営3魅力1
司隷河南郡出身の、蜀の文官。
古今の典礼に通じていたが我が強く、蜀の宮廷では厄介者扱いされていた。

許慈(きょじ) 字は仁篤(じんとく)
生没年不詳(劉禅の代に死去)
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荊州南陽郡出身の、蜀の文官。
「載せられる人数が少なかったからやむなく伝を立てた」と名指しされている人物。

胡潜(こせん) 字は公興(こうこう)
生没年不詳(劉禅の即位前には死んでいた)
武勇3智略2運営3魅力1
冀州魏郡出身の、蜀の文官。
同上

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