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History Members 三国志編 第40回
「衣食足りても金銭糧食が満たなきゃ栄辱とか何とか云ってらんないだろこのヤロ」

倉廩満ちて即ち栄辱を知り、衣食足りて即ち礼節を知る(管仲)

F「アキラがいないので、今回は曹操の屯田政策について」
Y「別にかまわんがな」
F「最初に大事なことを再確認するが、曹操は万能ではあっても全能ではなかった。その人生には失敗も敗戦もあったが、挫折はしなかった。失敗と敗戦を積み重ねながらそれでも次善の道を模索し続けたのが曹操だ」
Y「偉大な、だが神ではない男だったワケだな」
F「そう、神ではない。それだけに、曹操を全能だと考えると、官渡の決戦以前にどうして屯田がうまくいっていなかったのかの説明がつかないンだ。ちょうど、僕が入院している間に稲刈りが終わっていたが、そのおかげで曹操が全能ではなかったことを思い出してな」
Y「またこの雪男は、ヒマラヤから電波でも受信して……」
F「いや、聞けば納得するオハナシだから。さて、話は周までさかのぼる。つまり春秋戦国の時代だが、食糧を貯蔵しておく穀倉は大きく三種類あった。まず、地面に穴を掘って穀物を注ぎ込む窖穴(こうけつ)。深さは2メートルから8メートルというところだが、口は狭いが底に行くにつれて広がっていく」
Y「容量を増やすためか」
F「もあるが、中から土壁を崩しながら広げていくのはそんなに手間がかからない、という実利的な理由もある。対して、地上に建物を作るタイプは、円形なら囷(きん)、方形なら倉(そう)と呼ばれる。囷は円というか筒型の建物で、防犯およびネズミ対策で入り口は高いところにある窓。柱を建てるか地面を掘るかして床を浮かせ、通気性を確保する」
Y「地味な話をするときは、最初に告知すべきだと俺は思う」
F「寝てていいぞ、翡翠。倉は窖穴と囷の複合施設でな。2メートルくらい地面を掘って四角い建物を作り、地上からほど近いところに窓を作ってそこから穀物を注ぎ込む。この三種類を地理環境や用途によって使い分けられていたとされるな。城内に建てられて、厳重に警備されていた」
Y「日本の城とは違って、街並みそのものが城壁の中にあったから、備蓄する食糧の量もケタ外れだったと」
F「そうなる。ちなみに、倉庫という言葉があるが、倉は穀物、庫は物品を保管する施設だ。周の武王は殷を討つと鹿台(ろくだい)の庫から財物を、鉅橋(きょきょう)の倉から粟を民衆に開放している。で、鉅橋というのは鉅鹿水、つまり黄河に面した橋に隣接していたと云われ、水路を利用するため倉は河川の近くに建てられていた、と」
Y「封神演義の時代じゃないかよ」
F「紀元前277年には、秦の武将・司馬錯(シバサク)は益州の民衆10万を徴用して穀物600万石を1万隻の船に積み込み、楚との戦争に使っているが、これは窖穴200基分に相当する。平均的な深さの窖穴1基で1250人の兵を1年養えるから、司馬錯が動員できたのは、1年分では25万の兵だったのが単純計算できるワケだ」
Y「で?」
F「本題に入ろう。ひとは喰わないと死ぬ。というわけで、国なり群雄なりが動員できる兵士数は、確保できる食糧の量に正比例する。挙兵当時の曹操軍は5000で『数を増やしても喰わせられなきゃダメだろ』と本人が発言している通り、彼は『喰わねば死ぬ』という単純極まりない原則を理解していたと云える。当時の曹操軍は窖穴4基ほどの生産能力しか有していなかったワケだ」
Y「ただ兵を増やしてそれで良しとはしなかった、だな」
F「孫子に『智者は敵の食糧を利用する』とあるが、略奪を行わずに非生産人口である兵士を養える限界ラインは人口の10パーセント。とはいえ、三国時代の農耕・生産技術を考えるとこのラインを割るのは明白。姜維がこの辺りの原則を理解せずに兵士を徴発し、蜀の生産基盤がボロボロになってしまったのは以前触れたな」
Y「比べるのも酷な話だが、姜維ではできなかったことがどうして孔明にはできたのか」
F「魯迅は孔明を『アレは賢者というより妖怪だ』と云っているが、とりあえずその辺はさておこう。実際のところ『非生産人口である兵士を養』うには単純な方法がある。生産させればいい」
Y「……まぁ、そうだよな。生産しないならすればいいだけだが」
F「というわけで、兵士が駐屯地で耕作を行う屯田は行われるようになった。前漢時代から行われていたが、輸送の困難な辺境地域での自給自足として行われ始めた、というのが実情でな。歴史的には、これを軍屯と呼ぶ」
Y「対して、民屯というものが?」
F「目的が糧食の確保というのは変わらないが、辺境ではなく内地で、民衆を募って行ったンだ。軍屯も併せて行っていたが、のちの魏で云えば、蜀に面する長安の西や呉に接した淮水以南では軍屯が、敵地には面していない司隷・兗・冀・豫州では民屯が行われていた」
Y「中原だな」
F「もともと後漢の中心だった地域だ。後漢末の天災や黄巾の乱から続いた戦乱で、多数の難民が生まれた。この難民もまた非生産人口だ。それを収容し、生産を行う労働人口に転換せよと進言したのが棗祗(ソウシ)であり韓浩(カンコウ)であった」
Y「韓浩はともかく、棗祗は新顔か」
F「『私釈』では出さなかったひとりだ。字・生没年いずれも不詳なモンで、当時ではうまく出せなくてな。ために、韓浩を屯田、民屯の提唱者として出したンだが、棗祗の建議がなければ民屯はうまくいかず、曹操軍は軌道に乗らなかったとさえ云える。曹操が屯田を始めたのは196年だが、ことの起こりはこの4年前」
Y「192年……青州黄巾賊の降伏か?」
F「そゆこと。100万と号する黄巾の残党が猛威を振るい、鮑信(ホウシン)のいさめを聞かずに挑んだ兗州牧・劉岱(リュウタイ)が戦死している。そこで、曹操が後任の兗州牧となり、鮑信を失うも何とか鎮圧。正確には、彼らと雇用契約のようなものを結んで味方に引き入れたような状態だが、兵士30万を含む100万の民衆を得ている」
Y「大所帯になった、と」
F「この100万に30万の兵を含むのか含まないのかは異説あるンだが、ここでさっきの計算式が出てくる。兵士を養うには最低でもその10倍の人口が必要だが、30万の兵に対して非戦闘員は70万、労働可能人口で云えばさらに減るだろう。とてもじゃないけど喰わせられる数字じゃないンだよ」
Y「少なくとも5倍は非戦闘員がほしかったところだな」
F「実は鮑信、劉岱に『あの連中は秩序もへったくれもナシに烏合して、食糧もなく略奪しているだけですよ!』といさめているンだ。黄巾の乱からすでに8年。彼らが疲れ果てていたのは、降伏の一因だったことは疑う余地がない。それを収容した曹操も、そう簡単には食糧を確保できなかっただろうことは明らかでな」
Y「だろうな」
F「194年から夏侯惇が川をせき止めて稲を植えたりして、努力はしているンだ。だが、間の悪いことにこの頃の曹操軍は呂布と交戦中で、本拠の兗州をも失いつつあった。この頃に棗祗が、呂布に寝返らなかった東阿(とうあ)を抑えて『我が軍の食糧が欠乏したとき、彼が後方を抑えて補給をつないでくれたおかげで助かった』と絶賛される働きをしている」
Y「夏侯惇、韓浩、棗祗……留守番役が食糧生産に勤めていたワケか」
F「で、呂布との戦闘がひと息ついた196年、棗祗・韓浩が民屯を提唱した。戦乱で耕作放棄されたり収容した旧敵地に、流民や降伏者を定住させて農耕に従事させるものだが、食糧不足がどれだけ辛いか身にしみた曹操はこの意見を受け入れている。任峻(ジンシュン)を典農中郎将として、建前としては公募だが、実際には半強制的に民衆を屯田に組みこんだ」
Y「さすがの曹操でもなりふりかまっておれなんだ、と」
F「腹が減っては戦争もできんさ。ただし、この措置から逃れようと逃亡する者も多発したので『希望者だけにしましょう』という袁渙(エンカン)の進言を容れているが。屯田は食糧の確保が第一義だが、流民に職を与えて定住させ、治安を回復させる目的もあった。食も職もない連中が跋扈していては、平和な農業なんてできたモンじゃない」
Y「だから、はじめた当初はある程度強引な手法に頼らざるを得なかったワケか」
F「だが、もともとお上に縛られるのが嫌で流民になった連中だ。そう簡単に従うはずもない。開始した196年こそ『食糧が100万石集まりました!』とあるが、200年の官渡の決戦で、先に食糧が不足したのは曹操軍だった」
Y「軌道に乗らなかった……いや、乗るのが遅かった?」
F「農業というものを長期的に考えなくてどうする、というところだよ。曹操ともあろう男が開始年度の収穫に気を良くして、調子に乗ってしまったようでな。時期尚早とまでは云わんが農業資本的に考えるなら、屯田が軌道に乗る前に袁紹との決戦に踏み切ったと云わざるを得ない」
Y「早まったか」
F「袁紹軍に補給路を攻撃されたときには、食糧・物資の輸送を担当していた任峻がコンボイ輸送隊を編成して急場を凌いだが、結局許攸(キョユウ)の寝返りによる烏巣襲撃が王手だったろ? 許昌で後方を守っていた荀ケの不手際とも取れるが、輸送ラインに不備があったのは明白でな」
Y「いや、そこまで……」
F「孫子の注を施した曹操が『敵の食糧を利用』できずに烏巣を焼き払っている。袁紹軍の食糧を収容できなかったのは、時間的・状況的にそんな余裕がなかったのもあろうが、運び出せるシステムが確立できていたのか疑っていい」
Y「……農業方面に関して、曹操や荀ケには高い評価ができないと?」
F「ところで、と云おうか。曹操は夏侯嬰以来の漢の名臣の家柄だし、荀ケも穎川(えいせん)に名を知られた名士だ。対して、農民には『貧しい』という枕詞がつく。単純に考えてくれ、御大尽サマに農業の辛さが理解できるモンかね?」
Y「………………事態を単純に考えすぎていないか?」
F「露骨に、単純に考えていい話のようなんだよ。任峻伝の注に引かれた、屯田を開始したときのエピソードがそのものだ。当初曹操軍首脳部は、収穫した穀物を人頭税ならぬ牛頭税を課そうとした」
Y「えーっと?」
F「つまり、農民が使っている牛一頭当たりどれくらい、という税制度だ。当時の農業には牛が使われていたからね。牛を数えれば、どれくらいの耕地でどれくらい生産できるかが逆算できる、という杓子定規な考え方なんだ。現代風にかつ単純に例えるなら、トラクターを数えて収穫を試算している状態」
Y「おいおい」
F「当然、棗祗は『牛頭税では、豊作でも税収は増えないし、飢饉や水害でも取り立てることになるではないか』と反発し、牛の数ではなく農地の広さで課税を決める分田法を主張した。上から見下ろし政策として考えた曹操たちと、現場の立場から考えた棗祗の意見対立があったワケだ」
Y「立ち位置が違う……のはやむをえんだろうな」
F「孫権なら判らんが、劉備なら棗祗に加担しただろう。アイツは貧しい出自だ。だが、曹操は『棗祗は何度も進言したが、ワシは旧来のやり方が正しいと考え、豊作でも税収を増やすことはないだろうと思った』と述懐している」
Y「つまり、もともと牛頭税でやっていたワケか?」
F「そうなるンだよ。そもそもの建議者たる棗祗を無碍には扱えず、曹操は事態を荀ケにマル投げした。荀ケは多少事態を理解できていたようで『迷った』とはあるが、部下には『お前の云っていることは、お上にとって都合はいいが民衆のことを考えていない!』という意見を云わせている辺り、棗祗の見解には否定的だった感がある」
Y「曹操や荀ケでも、農業振興には詳しくなかったワケか……」
F「棗祗はそれでも諦めず、分田法ならどれくらいの税収が見込めるかを試算し、実際の数字として曹操に叩きつけている。曹操は『そこで、この施策に賛成した』とあり、事実196年の『食糧が100万石集まりました!』に気を良くして、棗祗を屯田都尉に取り立てている。この辺り、曹操もお坊ちゃんだったンだな……と思わずにいられない」
Y「いいとこの生まれだったンだよなぁ……」
F「屯田、民屯の成功により、曹操は多大な食糧を得て、中原・河北を制した。のみならず、治安の回復と農業の発展は、地方の流民を曹操領へと流入させ、さらなる農地回復へと、よいスパイラルを生み出している。棗祗は生没年不詳だが早死にし、のちに侯位を追贈され、204年に任峻が死ぬと曹操はしばらく泣きやめなかったという」
Y「そりゃ惜しまずにはおれんだろうな」
F「のちに曹操が漢中を攻略すると、韓浩を現地に残して西方を統治させるべきだという意見があがっているが、曹操が『ワシが韓浩ナシでやっていけるか!』と応えたのも、この辺りのつながりだったように思えてな」
Y「……ハラが減っちゃ戦はできんよなぁ」
F「続きは次回の講釈で」


棗祗(そうし) 字は不明
生没年不詳(官渡の決戦前には死んでいた模様)
武勇2智略3運営4魅力2
豫州潁川郡出身の戦う文官。
初期の曹操軍で後方をかため、屯田の実施を方向付けた。

韓浩(かんこう) 字は元嗣(げんし)
生没年不詳(演義では219年に戦死)
武勇3智略2運営4魅力4
司隷河内郡出身の戦う文官。演義ではなぜか韓玄の弟。
当初は夏侯惇の副将として奮戦し、のちに曹操軍の重鎮となる。

任峻(じんしゅん) 字は伯達(はくたつ)
?〜204年(死因は不明)
武勇2智略3運営5魅力3
司隷河南郡出身の、補給・輸送のエキスパート。
曹操軍の後方支援を一手に引き受けていたが、赤壁より前に死亡している。

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