History Members 三国志編 第39回
「引き立て役ではない男たち・8 義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界」
ぎり▼義理
@人として行わねばならない道をいう。現実には、気が進まないが交際上やむなく、というニュアンスで使われることが多い。集団社会には必ずある足かせである。(コーエー『三國志V事典』より)
F「『私釈』の番外編は公称10回、ただし4・5は諸事情で欠番になっている。僕の体調不良と、なじみの印刷屋さんが潰れたモンだから、総集編は出せていないというのが現状」
A「とかく、この世は住みにくい」
F「不景気は困るねェ。ともあれ、5番で収録したもののバラしてこっちで使うことにした、のが夏侯家および曹家の一門衆、魏の親藩と呼んでいい面子だ」
A「義弟ふたりはともかく、劉備には有力な血縁者なんていなかったモンねェ」
F「対して、曹操には藩屏があった。中原での抗争から劉備が落ちこぼれ曹操が勝ち残れたのは、この両家と荀ケのおかげと云っていい。呂布に本拠地を脅かされるという同じ戦局に対し、曹操は勝ち、劉備は敗れた一件からも、絶対の信頼をおける血縁者は群雄にとって不可欠な存在だったのが判る」
A「地力の違いは如何ともなぁ」
F「まぁ、血縁だからといって信頼しすぎるのはよろしくない、というのが僕の本音だが。袁紹しかり劉表しかり孫権しかりで……ともあれ、そんな曹操の一門衆から、今回は夏侯尚について」
A「また、えらく地味なので来たなぁ。夏侯惇か夏侯淵やろうぜ?」
F「まだその辺りが講釈できるほどは回復してないンだよ。演義だと、ホントに出番は少ない。初登場は70回で、黄忠さんの捕虜になって陳式との交換に使われるものの、背中を射られてブっ倒れる役どころだ」
A「ただのザコじゃないか」
F「だが、正史だとそうでもないのは『私釈』で見てきた通り。いつぞや云ったが、魏における武の柱のひとつだ。まず、正史夏侯尚伝および黄忠伝のいずれにも、夏侯尚が黄忠の捕虜になったり射られたりというエピソードはない」
A「ないのか?」
F「定軍山の戦いは219年のことだが、この頃に夏侯尚は鄴(ぎょう)の曹丕のもとにいたようでな。翌年に曹操が亡くなると、曹丕に代わって洛陽へ赴いた記述がある。曹操存命中から、夏侯尚は曹丕の腹心のひとりだったと云えるな」
A「仲達や陳羣と似たような?」
F「連中はまだ文官だった当時だ。武官としての腹心、と云っていいと思う。献帝から禅譲を受けて皇帝となった曹丕は、ほとんど即座に夏侯尚を征南将軍・荊州刺史・南方軍総督に任じているから」
A「大盤振る舞いじゃないか」
F「荊州の重要性は確認するまでもないと思う。孫子は九地篇で『こちらが取ればこちらが有利、敵が取れば敵が有利な地を争地』『敵も味方も往来しようと思えばできるのが交地』『四方の交流の中心が衢地(くち)』と云っているが、荊州はこのみっつがみっつとも該当している土地でな」
A「それを任されたということは、それだけの人物だと期待されていたワケか?」
F「そして、その期待はあっさりと結果で現れている。219年末の荊州争奪戦で、結果として関羽を見殺しにし、蜀の上層部から白眼視されていた孟達が、投降先として選んだのが夏侯尚だった」
A「おや?」
F「孟達が誰にどう降ったのかは魏書・蜀書のいずれにも明確な経緯が記されていないンだが、荊州に赴任した夏侯尚は曹丕に『上庸を攻めましょうぜ、なぁに勝てますって』と上奏しているンだ。当地を守っていたのは云うまでもなく孟達本人で、魏に降った彼が夏侯尚・徐晃とともに劉封を攻めたのは周知の通り」
A「……孟達が、手土産に上庸を献じようと夏侯尚に持ちかけ、それに乗った夏侯尚が曹丕に上奏した?」
F「かくて、益州から中原へと向かう三郡九県が陥落し、魏の領土となったワケだ。この功績で、孟達は堂々と魏に仕えることができたと考えられる。孟達と夏侯尚が親しかったというのは割と知られているが、最初に頼った相手で、曹丕の腹心のひとりだ。孟達としては離せない伝手だろう」
A「夏侯尚のお墨付きがあったと考えれば、曹丕からの評価が高くても仕方ないってことか」
F「それくらい、夏侯尚は曹丕に信頼され、そして曹丕の腹心なのが周知だったと云っていい。何しろ、夷陵の戦いで進退窮まって、呉に降るくらいなら……と思い詰めた黄権の頼った先が、これまた夏侯尚だった」
A「あら?」
F「こちらは正史文帝紀(曹丕伝)の注にはっきりと『荊州刺史に黄権ら318名が降った』と明記がある。ちくま版正史三国志1巻の192ページから193ページにかけて、黄権がなぜか孫権になっているンだが、まぁ誤植だろう。ともあれ、夏侯尚はこれを受け入れて黄権たちを許昌へと送り、曹丕は歓迎の宴を開いて『勝敗は兵家の常であるぞよ』と労っている。こうなると、やはり夏侯尚と曹丕の信頼関係は周知かつ確かなものだったと考えてよさそうでな」
A「はぁー……意外な人間関係が」
F「まぁ、それだけに、両者の関係を割こうとする者もいた。杜襲(トシュウ)という、演義ではやはり定軍山で黄忠さんに蹴散らされる人物が、曹丕に向かって『野郎を友とするメリットなんてありませんよ』と発言していてな」
A「曹丕だと、処刑はしないけど死んだ方がマシって扱いにするよね?」
F「とーぜん『不愉快に思った』と記述はあるが、曹丕が杜襲にナニかした記述はない。というのも、この杜襲、演義にある通り魏の西方軍に属していてな。郭淮とともに夏侯淵亡きあとの西方軍をまとめ、曹操から『目の前の駿馬を放置して、余所から馬を探そうとするな!』と長安を任された軍政官なんだ」
A「うわっ……」
F「曹丕の即位後は中央に召されているけど、明帝曹叡の代になって孔明の北伐が始まると、経歴を買われて曹真、次いで仲達の軍師に任じられている。つまり、西方の情勢に通じた人物だったワケだ。それだけに、曹丕としても迂闊には処罰できなかったようでな」
A「そして、そんな人物だけに、皇帝が南方軍主将ばかり重用しているのが面白くなかった?」
F「公正な人物だからそれはないと思う。とりあえず、曹丕は杜襲の言を聞き入れずに夏侯尚を重用し続けた。期待に応えて夏侯尚は、223年の呉への三路進行では曹真とともに江陵侵攻軍を率い、城を抜くことはできなかったものの瑾兄ちゃんを打ち破った功で荊州牧に(戦前には征南大将軍に)昇進している」
A「軍を率いての働きも認められた、と」
F「行政面では、さっきも云ったが争地で交地で衢地な荊州をよく治めた。蜀呉に面しているだけに土地は荒廃し、住民は呉によって移住させられていたが、上庸から七百里の交通路を整備したため、5年くらいで数千家が帰順してきたとあるンだ。軍事寄りとはいえ、ちゃんとした施策をしていたらしい」
A「夏侯一族って、どーにも万能型が多いよなぁ……」
F「225年に没しているが、このとき出された詔勅に、曹丕の信頼がはっきりと表れていてな」
「夏侯尚は若い頃から俺の側に仕え、誠心誠意忠節を尽くした。一族ではないが肉親に等しい。宮中では腹心となり、外に出ては爪牙として働いてくれた。智略は深謀を極め策略は人並み外れていたのに、不幸にも早死にしてしまった。運命ってのは悲しいな、オイ」
F「夏侯尚が病に倒れると、曹丕はたびたび彼の邸宅を訪れては、手を取って涙を流したという」
A「まぎれもない腹心だった、と」
F「血統も血統だ。正妻は曹真の妹だから、曹一族とも姻族関係にあった。生年が不明だから享年も判らないけど、曹丕は早死にとしている。長じていれば大将軍まで昇進していた可能性は高いな」
A「惜しいヒトを亡くしました、かな」
F「それだけに、遺された息子の夏侯玄(カコウゲン)は不幸だった。姉か妹かは不明だが、司馬師に嫁いでいた夏侯徽(カコウキ)が春華さんに殺されたせいで、同族の夏侯覇から『一緒に蜀に逃げよう!』と誘われても『いや、敵に仕えて生きながらえるわけにはいかん』と、事実上司馬一族が治めていた洛陽に戻れば殺されるという認識を持っていた、のは前にも触れた」
A「夏侯尚の息子で曹真の甥だけに危険視されていた、と」
F「仲達が死んだことで『もう心配ないぞ』と囁いた者もいるが、溜め息吐いて『あのヒトならまだしも、司馬師や司馬昭がワシを許すものか』と応えている。針のむしろの上にいた夏侯玄が死んだのは254年。司馬師暗殺計画にかかわっての処刑であったが、刑場に引き出されても顔色を変えず、堂々たる振る舞いだったという」
A「……まぁ、立派な人物だったワケだ」
F「ところで、立派じゃなかったのは父親の方でな」
A「ここまでの夏侯尚に関する講釈を自分で覆すなよ!」
F「さっきも云ったが、夏侯尚の正妻は曹真の妹だ。ところが、夏侯尚にはお気に入りの愛人がいてな。第二夫人としていなかったからには身分が低かったンだろうけど、愛人をとにかく気に入っていて、正妻をないがしろにしていた」
A「お家の都合での結婚だったのかな。……夏侯玄の母は?」
F「それが、正妻なんだ。だから『曹家への義理は果たしたぜー』みたいな感覚だったのかもしれない。曹真が文句を云ったのかもしれないが、とりあえず『ドS』曹丕は事態を憂慮して、刺客を放って愛人を絞殺させてしまう」
A「処刑はしないけど死んだ方がマシ……まぁ、アイツらしい行いで」
F「ところが、思わぬ事態が発生。愛人を殺された夏侯尚だが、相手が曹丕では文句も云えない。悲嘆にくれて、埋葬した愛人の墓を掘り起こして顔を眺める、という真似をしでかしたのね。曹丕は『杜襲は正しかったなぁ……』とほざいたものの、これが224年のこと」
A「死んだの、225年だったよな?」
F「うむ。『病気になって頭がボケた』と正史にも明記されているが、さすがの曹丕でも『俺が悪かった!』とばかりに何度も何度も夏侯尚を自ら見舞っている。結局、快復せずに逝った夏侯尚に、曹丕は悼侯と諡した」
A「こういうの聞くたびに思うンだ。自分で殺しておいて哀悼するってどういうこと?」
F「続きは次回の講釈で」
夏侯尚(かこうしょう) 字は伯仁(はくじん)
?〜225年(曹丕のせいでノイローゼになって死んだ)
武勇3智略3運営4魅力4
豫州沛国の、夏侯一族に名を連ねる魏の名臣。夏侯淵の甥にあたる。
曹丕の腹心として荊州に鎮座し蜀・呉ににらみを利かせたが、その曹丕に愛人を殺されボケて死んだ。