戻る

History Members 三国志編 第35回
「古来女性は太陽だったがこんな太陽なら沈んでいた方がいいと思うンだ」

 もと大統領のクリントンが妻のヒラリーと故郷をドライブしていると、ヒラリーの昔馴染がガソリンスタンドの店員をしていた。ヒラリーが懐かしそうに話すのを見ていた夫だったが、店を出て少し走ってからからかうように、
「キミが彼と結婚していたら、キミはファーストレディにはなれなかったね」
 ヒラリー、にっこり応えたね。
「何云ってるの、そのときは彼が大統領よ」

F「あえて呼ぼう、義姉よ。反省という言葉を知ってるのか」
ヤスの妻「あえて応えましょう、お義父さま。知ってるけど漢字では書けません」
↑の母の愛人「……もう口では勝てんな。えー、あー子から出された条件ふたつ、ゆってみなさい」
ヤスの妻「あーちゃんいないときは講釈の席にいないこと、あーちゃんいてもアキラに近づかないこと」
F「近づきすぎない、でなくて、近づかないだからね。キミ何したよ」
ヤスの妻「トイレットペーパーがなくてアキラが困っていたので、持っていってあげました!」
F「アンタが娘どもに便所紙で折り鶴作ってあげていたという、本人からの証言があるンだが」
ヤスの妻「作りすぎたのは事実です、ハイ」
F「というわけで、今回の講釈にはいてもいいけど、発言はイエスかノーだけだ。他は許さん」
ヤスの妻「のー! のー!」
Y「暴れるな。アキラも、犬にかまれたと思って諦めろ」
A「……あぅ」
A2「むぅ」
F「ったく、アタマ痛いのに……。それはともかく今回は郭槐(カクカイ)について。コレが誰なのか、が一発で出るのはそこの人妻参謀くらいだと思うが」
ヤスの妻「いえーす」
Y「変なフレーズつけるなよ。郭淮辺りの親戚筋か?」
F「いいところ行ってるな。郭淮の弟の娘だ」
A「姪っ子……つーか、女か? 『私釈』で女がメインになったのは、終盤も終盤の196回だったのに」
Y「日付としては王異メインの回が先だったがな」
F「郭淮の弟は郭配(カクハイ)と云うが、その娘が郭槐で、賈充(カジュウ)の後妻になる。えーっと、賈充には当初李婉(リエン)という夫人があったが、これが当時の侍中・李豊の娘。李豊というのは『私釈』158回で見た通り、司馬師に信任されておきながら夏侯玄と組んで司馬一族を討とうとして失敗した男でな」
A「いたな。……じゃぁ、父親に連座して?」
F「司馬家の大番頭とも云うべき賈充に嫁いでいたからだろう、処刑は免れて流刑に処されている。これが254年のことだが、賈充が後添えに娶ったのが、郭配の娘で郭淮の姪にあたる郭槐だった。これが大失敗」
Y「あんな娘を産んだからか?」
F「それもそうなんだが、賈南風がどうしてあんな性格なのかがはっきり判る母親なんだ。賈充には、李婉との間に娘がふたり、郭槐との間にも賈南風ら娘がいたが、息子もふたりいた。が、郭槐のせいで3歳で死んでいてな」
A「虐待?」
F「うむ。郭槐が、息子の黎民(レイミン)を乳母に預けて屋敷でのほほんとしていたところ、乳母は賈充が帰ってきたので黎民を連れて迎えに出た。すると、賈充を見た黎民が笑ったので、喜んだお父さんは乳母の腕の中にいる黎民にちゅーしてやる」
Y「父親らしい姿も見せるじゃないか」
F「ところが、道端でンな真似しでかしていたもんだから、郭槐が『あのアバズレ、亭主を誘惑したわね!?』と曲解し、乳母をムチでブチ殺してしまうンだ。侍女くらい張春華さんも殺っているが、司馬家ほど母子仲はよくなかったのが悲劇のタネ。黎民は乳母が殺されたのに心を痛めて、そのまま衰弱死してしまった」
A「可哀想に……」
F「のちに郭槐はもうひとり男の子を産んだンだが、次男が一歳を過ぎたくらいに同じことがあってな。今度は頭をなでただけなのに、またも郭槐は乳母をブチ殺し、次男もこんな怖い母ちゃんより乳母が恋しいと衰弱死してしまう」
A「悪いのは母親だと判ってるけど、賈充の態度もまずいよなぁ……」
Y「いや、笑った子供の頭をなでたくらいでそんなことになるとは思わんだろう」
F「子供のいないアキラと養子とはいえいる泰永の意見が分かれるのは無理からぬところか」
A2「……本人の性格だと思う」
Y「ほっとけ。子供が幼いうちは愛情を注がんとどうなるのかという生き残った見本がいるンだから、俺としては愛情を注ぐのは必要だとしか思えんよ」
F「僕は、農家の次男でな」
A「知ってる」
F「みっつ上の兄がいるから、跡取りは間にあっていたンだ。だから、僕はどうでもいい子供だった。3歳のとき、母と話していた親戚が僕のところに来て『えーじろ、うちの子になるかい?』と聞いてきたンだ」
A「……覚えてるのか」
F「僕のアタマにある、最初の記憶だ。あのときのことは、聞いてきたおばさんの顔も、どうでもいいという母の表情も、遊んでいたカメの様子も、よく晴れた秋の空も、はっきりと覚えている。僕の記憶はそこから始まる。親に捨てられたあの秋の日からな」
A「……幼児期とはいえ、迂闊なことはしちゃいけないって生きた見本か」
F「まぁ黎民は生き残っていても、マトモな感性には育てなかっただろう。その点は、経験から僕が保証する。乳母ならまだしもこの女が育てたのでは、ロクな育ち方はしない。司馬炎が即位した265年に大赦があって、健在だった先妻の李婉も配流先から帰還してよいことになったのね」
A「11年ぶりか」
F「司馬炎は賈充に『あんなことがあったが、これからはふたりと仲良くな』とわざわざ詔を下して、李婉と郭槐を並べるよう勧めた。それに郭槐が反発して『アンタが王佐となれたのはアタシのおかげじゃないの!』と、賈充の胸倉つかんでわめき散らす。ために賈充は『妻がふたりなど畏れ多いっすよぉ』と司馬炎に頭を下げてオコトワリした」
Y「誰のおかげといえば、賈逵(カキ、賈充の父)の遺徳と賈充本人の才覚だと思うンだがなぁ」
F「このおっさん、とことん後妻に弱いンだ。毌丘倹(カンキュウケン)の孫娘が司馬炎の母の親族筋にあたる、羽林軍(親衛隊)の王虔(オウケン)に嫁いでいたンだが、賈充が『それは許されるのか?』と儀礼担当官に聞いたと晋書に記述があるのは、どう考えても李豊の娘を排除しようとする郭槐の差し金だろう」
A「自分で何とかしろよ、とか云ったら直接殺しに行きそうだな」
F「うん、賈充から『アレは才気があるからやめておけ』と云われたのに、郭槐はわざわざおめかしして行列を従え、李婉のところに乗り込んでいる。賈充が李婉を屋敷に入れなかったから、李婉は別のおうちに住んでいたンだね。もっとも『郭槐とも別居していた』という記述もあるンだが」
A「ダメ夫婦じゃないか」
F「賈充が李婉のために建てた(ただし、生涯訪れなかった)家に着飾った行列が到着すると、李婉は門のところまでお迎えに出た。すると、李婉の気品に郭槐は腰を抜かしてしまい、慌てて拝礼して取り繕う。すごすご自宅に帰ってきた郭槐に、賈充は『だから云ったのに……』と声をかけている」
A「止めてやれ……と思ったら、先に止めていたなぁ」
Y「こういう女は、止めるとなおさら行きたがるンだよ」
ヤスの妻「いえーす」
F「だからといって『いつでも気軽に来てね』とは社交辞令でも云えんだろうな。もっとも、この辺のエピソードは世説新語からのもので、晋書では、賈充が『行かないより行った方がいいぞ』と郭槐をけしかけている。それでいて、ことあるごとに『李婉を殺してないだろうな?』と確認するンだから、気の使い方を間違っているとしか云えん」
A2「……ろくでもない夫」
M「気の毒よねェ」
ヤスの妻「いえす……」
Y「何で俺見ながら云うンだよ、お前ら!?」
F「フォローはしかねる。そんなワケで郭槐は多数派工作に出た。自分が賈充の(いまの)正妻だということを利用して、宮中で『李婉と娘の相手をするンじゃないよ!』と喧伝したらしい。李婉の娘というのが、実は司馬攸の夫人でな」
A「司馬炎の弟の!?」
F「兄弟に、腹違いとはいえ娘をふたり娶らせているンだから、賈充の政治手腕は確かなモンだ。司馬攸に嫁いでいた長女の賈褒(カホウ)は『お母さんと復縁して!』と懇願したンだが、賈充は聞き入れない。そこで、賈充が関中に出陣する壮行会に妹の賈裕(カユウ)とともに乗り込んで、衆人環視のド真ン中で地面に頭を叩きつけながら『ふっくえん! ふっくえん!』としでかした」
A「行動力は凄まじいな、オイ……」
Y「その場に郭槐がいたらムチで殺されてるだろうがな」
F「幸いにもいなかったンだが、約一名を除いて郭槐の息がかかっていてな。出席者は全員驚いて逃げ出し、残ったのは賈充だけ。兵士を呼んで何とか帰らせたものの、父としても男としても面目が丸潰れだった」
A「孔明もそうだったけど、宰相に家庭を顧みる余裕はないンだなぁ……」
Y「賈充がこのザマでは、猫の額ほどの小国であんなでも無理はないか」
A「何だとオラ!?」
F「はいはい、仲良くしなさいよアンタたち。挙げ句の果てに、タイミング悪く賈南風が皇太子司馬衷(シバチュウ)の后になったモンだから、司馬炎でも李婉の味方はできずに『叛逆者の娘に大赦を出したのは間違いだった』と発言している。これには、司馬攸の立場を悪くしたい意思もあったようだが、賈褒は憤慨して死んでしまう」
Y「賈充の子のうち、3人が郭槐のせいで死んだな」
F「さっき云ったが、李婉の才気は賈充が認めるほどで、晋書でも『美人で才能があふれ行いも立派だった』とある。対して郭槐は『嫉妬深い』と明記され、賈充の胃袋はかなり追いつめられていたンじゃないかと推察できる。282年に賈充が亡くなったとき、家を継ぐ男児は残っていなかった」
A「郭槐のせいでな」
F「まぁ、自分のせいだと自覚はあったようで、お家を残すため彼女は小細工を弄した。韓寿(カンジュ)に嫁いでいた下の子が産んだ韓謐(カンヒツ)を黎民の子として、賈充の家督を継がせようとしたのね」
A「無茶苦茶だなぁ」
F「『当主が死んだら子供か分家に家を継がせるべきで、異性の養子などもってのほかです!』と反対の声が起こっている。司馬炎からも、韓謐ではなく別の子を養子にするよう勧められたのに、郭槐はそれを無視して『夫の遺言よ!』とゴリ押しした。そこまで云われては、司馬炎では逆らえない」
A「認めたワケか」
F「うむ。詔を出している」

「賈充ねェ……。アイツは手柄を立てて晋のために貢献したから、死んじまってホント残念。男の子が先に死んでて、後継ぎいないンだよな。古来、蕭何(ショウカ)みたいな元勲は別だが、後継がいない家は分家なり庶子なりから立てるもので、いまはお家を取り潰すのがアタリマエ。どーしても、賈充が外孫を後継者に指名していたと云うのなら俺が退こう。家を継がせろ。だが、これは賈充だからこその特例だ。次はないぞ」

F「読んでいると『何で俺がこんな苦労をしなきゃならんのだ?』という司馬炎の本音が見える」
A「えーっと……?」
F「蕭何の家系は何度も直系男子不在で途絶えているンだが、前漢王朝はその都度子孫を探し出して家督を継がせている。漢書には『妻に爵位を継がせた』という記述さえあるな。ともあれ、そんなこんなで郭槐はワガママを押し通し、韓謐を賈謐(カヒツ)と改めて家督を継承させた。娘の賈南風も皇太子に嫁いでいて、もはや彼女を制止できる者はいなかった」
A「非道いありさま……」
F「その後、司馬炎が死んで司馬衷が帝位に就くと、賈南風は母にも爵位を与え、死んだら諡号まで送っている。これについて晋書は『みなアホらしく思ったが、誰も口には出さなかった』と、この母娘が民からどんな具合に思われ、またどう扱われていたのかがはっきり判る記述をされているワケだ」
Y「バカを見る目で見られていても、それに自覚はなかったと」
女性陣『……………………』
Y「泣くぞ!? 大の男が声出して泣くぞ!?」
F「この世はすべて絵空事……。李婉が死んだのがいつなのか明記はないが、賈充の死後だった。晋書では『娘ふたりが』となっているが、さっき云った通り賈褒は故人だ。賈裕が、李婉を賈充に合葬したいと申し出たが、賈南風はそれを許さなかった。賈一族が排されたあとでようやっと合葬できたが、その頃にはすでに晋王朝の命脈も尽きかかっていたのは周知の事実になる」
A「……なんだかなぁ」
F「賈充は、晋王朝の発展と滅亡に大きく貢献した。だが、滅亡には賈充本人より妻子の影響のがはるかに大きい。寄り正確に云えば娘だが、その娘が何であんな女だったのか……と考えると、やはり郭槐の影響は無視できない」
A「大トラにも引けを取らない化け物だからなぁ」
F「かねてから『子が親の罪で殺されてはならない』と云ってきたが、やはり儒教圏では、どうにも子は親に似るもののようでな。ところで、賈充にも母がいた」
A「そりゃいるだろう」
F「郭槐や僕の母のみならず、いない方が子は幸せな親というのは確かにいてな。賈逵が死んだのは228年で、賈充が生まれたのは217年。割と若くに父を亡くしていたので、賈充は、母を大事にしていたらしい」
A「片親だと大事にするだろうな」
F「何しろ、自分が成済(セイサイ)を使って魏帝曹髦(ソウボウ)を弑逆奉ったことを、母に聞かせまいと苦心していたくらいでな」
A「お前、何やっとんね!?」
F「母は、曹髦を殺した成済のことを折につけて非難していたンだが、侍女たちはそれを聞いてこっそり笑っていただけで、真相を教えることはしなかった。そんな母が臨終の床につくと、賈充は『何か云い遺されることはありますか』と尋ねている。曹髦弑逆を知っていたなら、こんな場でなければ云わないだろうと考えてのことだろう」
A「だが云わなかった?」

「ワタシはお前に李婉とよりを戻すよう云い続けましたが、あの嫁がそれを許しませんでした。李婉のほかに云い遺すことなんてありますか」

F「その点について母から責められなかった、というのは賈充の人生に大きな安堵を与えただろう」
Y「賈充が苦労していたのはよく判った。こんな母でこんな妻でこんな娘どもではな」
A「マトモなのは李婉ひとりだけみたいだからなぁ……」
Y「ひとりでもいるなら御の字だろ!」
F「続きは次回の講釈で」


郭槐(かくかい)
生没年不詳(欲望にまみれた人生を送った)
武勇3智略1運営1魅力2
并州太原郡出身の、賈充の後妻。
晋書にも明記される性格の悪さで夫の胃袋と社会的立場を危機に陥れ、間接的に晋の滅亡に貢献した。

李婉(りえん)
生没年不詳(穏やかに控えめな人生を送った)
武勇1智略1運営2魅力4
涼州北地郡出身の、賈充の最初の妻。
性格と才覚は認められているが、長女の育て方には失敗した感がある。

戻る