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History Members 三国志編 第34回
「演義では扱い悪いけど正史でも似たような扱いです」

翡翠「2時間っす! 9時になったら講釈やめさせるっすからね!」
F「お前、病身とはいえ僕に勝てるつもりか」
翡翠「勝ち負けじゃなくて純粋に心配してるっす! いい加減にしないと今からベッドに叩きこむわよ!?」
F「だから、母親と同じ顔と口調で喋るな!」
Y「根強いトラウマだな、オイ」
A「翡翠ちゃんのおかーちゃんて……」
F「ええぃ、やむをえん……。というわけで、今回は短めにやります。えーっと、『私釈』メインテーマのひとつが孔明の死後の再確認だった」
Y「その話、いい加減にしねェか!?」
A2「(くすっ)……根強いトラウマ」
F「お前のうっかりを利用させてもらったのは事実だが。黄巾の乱から呉の滅亡までの約100年のうち、孔明の死は真ン中と云っていい234年。その後46年がどーにも軽視されがちなのが気に入らなかった」
A「主役不在だからなぁ。横山三国志でも、234年までの50年は59冊で、そこから蜀の滅亡の263年までが1冊という非道い扱い。人形劇だって孔明が死んで終わったワケだし」
F「だよな。だが、その先を語らずに三国志を終わってどうすると僕は考えた次第だ」
ヤスの妻「考え方は立派だけど、えーじろでもそこまでは130回で、その先は70回に押し込んだけどね。急ぎ足だったのは歴然たる事実だよ」
F「歴史だけに。つーか、えーじろやめろ。ということで、今回は三国時代終盤から晋にかけての武将。羅貫中が演義で軽んじた、それでいて歴史的には一廉の人物だったと呼んでいい漢ですが」
Y「俺、帰ろうかな」
F「このヒト置いてか?」
ヤスの妻「愛されてないなぁ」
F「では、今回は吾彦(ゴゲン)について。アキラ」
A「…………えーっと、確か呉将だな? 木くずのヒトじゃろ」
F「はい、正解。演義では120回、つまり最終回に登場して、長江を下ってきた木くずを見つけて、呉への侵攻のため益州で軍船が作られているのを察知し、呉帝孫皓に警戒を呼びかける役どころだ。三国志で云うなら、正史でもほぼ同じことしかしていない」
Y「正史でも、その辺りのエピソードしかないンじゃなかったか?」
F「他にも一ヶ所だけ名は挙がっているンだが、それはおいおい。テンプレ行きたいところだが、生没年は不詳だ。揚州呉郡呉県の出自で、二宮の変で孫権に誅殺された吾粲(ゴサン)が同じく呉郡は烏程県の出身だが、血縁はよく判らん」
A「出自が違うと血縁も判らんよなぁ」
F「ただ、吾粲については顧雍伝で『牧童だったのを顧雍に見込まれた』みたいな記述がある。で、呉彦は『貧しい家柄の出だった』とあるので、無関係ではなさそうでな。ともあれ、貧しい呉彦だが身長は八尺(約190センチ:孔明並み)、文武に秀でて猛獣を素手で捕まえるような真似もしていた」
A「武はともかく、文には秀でてるのか?」
F「んー、とりあえず下級のお役人にはなっていたからねェ。269年11月に陶璜(トウコウ)らが交州に侵攻するべく荊州から南下したけど、これに従軍した薛珝(セツク、薛綜の子)を見送っているンだ。勇壮な薛珝の姿に吾彦は溜め息を漏らした、と晋書にある」
A「薛綜本人は文官だったのになぁ」
F「うむ。だが、人物鑑定士が『羨ましがることはありませんよ、あなたもいずれああなれます』と慰めてな。吾彦は改めて職務に励むようになり、やがて陸抗のお目に叶っている」
A「おー、呉終末期の人傑」
Y「だが、この頃の呉だと陸抗クラスの推挙でも、いきなり取り立てられるのは難しくないか? もともとが江東の寄り合い所帯だっただけに、そんな寒門の野郎となると」
F「まぁ、そうでな。陸抗は吾彦を評価しているけど、他の武将が納得するとは思えなかった。そこで陸抗は一計を案じる。諸将を集めた席に、トチ狂った兵士を乱入させたンだ。ダンビラ振り回す兵士に諸将は逃げ惑うものの、吾彦は動じないで床几でこれを防ぐ。これには諸将感服し、陸抗が軍を与えると云っても誰も反駁しなかった」
A「むしろ、他の武将叱り飛ばせよ」
F「名指しすると左奕(サエキ)・蔡貢(サイコウ)らだ。これが、西陵(さいりょう)の歩闡(ホセン)討伐戦の前でな。正史陸抗附伝で、西陵戦に従軍した武将として吾彦の名があるンだ」
Y「さっき云ってた他の一ヶ所か」
F「具体的にどう働いたという記述はないンだが、益州から長江を下ってきた徐胤(ジョイン)率いる晋水軍の迎撃戦に加わっていたらしい。徐胤の攻撃目標が国境線にほど近い建平(けんへい)で、戦後に吾彦はこの地の太守を任されているから」
A「となると、陸戦よりは水軍に通じていると」
F「そうでもないらしいが、ともあれ、西陵攻囲戦で晋軍は陸抗にしてやられている。ために、呉を討つには軍船が必要なのが痛感できた。そこで益州刺史の王濬は、益州で大々的な工事を行い軍船を建造していた。上流で造っているンだから、当然木くずが下流に漂着する」
A「流れ流れてな。孫皓に忠言するンだよな?」
F「うむ。正史三国志での吾彦に関するたったふたつの記述の、最たるものだ。自ら建業に乗り込んで孫皓に木くずを突き出し『晋には呉を攻める計画があるンですよ! 建平の兵を増やしてください、最前線さえ抜かれなければ長江を横行できませんから!』と進言している」
A「ところが孫皓、それを容れない」
F「何しろ、陸凱・陸抗の死後には陸家までヴェトナム送りにした孫皓だ。先の歩闡も大軍を預かっていながら晋に寝返っているモンだから、吾彦も寝返るかもしれんと疑ったようでな。それでも吾彦は、長江に縄を渡して鎖を噛ませ、水底には4メートルの杭を打ち込んでと、晋の水軍を迎撃する準備を整えた」
Y「通じなかったがな」
F「いざ呉への総攻撃が始まると、王濬は、杭にはいかだを突っ込ませて無力化し、封鎖は燃やして突破している。だが、吾彦はそれでも必死こいて建平を守る。5日で4城が陥落・降伏し、陸抗の長男も戦死する中、建平城は落ちなかった。熱血軍船ジジイでも攻めあぐね、抑えの兵を残してスルーしたくらいだ」
A「孤軍奮闘していたワケか」
F「結局、吾彦の建平よりさきに孫皓が降伏して呉都建業が陥落したモンだから、吾彦もようやっと投降したけどね。司馬炎は、奮戦した呉の武将だからといって冷遇するような真似はしなかった。吾彦を認めて金城太守に任じている」
A「忠臣を遇するすべは知っていたからなぁ」
Y「……はて、俺の記憶では、金城は涼州だったはずだが」
ヤスの妻「あら、珍しく覚えてた」
A「西ですか!?」
F「黄河のほとりだ。さらに敦煌雁門と西域の太守を歴任している。周処(シュウショ)も西戎の地で北馬して死んでいる辺り、どーも晋ではそういうことにしていたらしい。見所のある呉将は西に送り込め、と」
A「冷遇じゃないけどどうかと思うわ……」
F「陶璜みたいな例外はいるがな。だが、吾彦は周処より上手くやった。西羌相手に威光と恩恵を施して、行政官としての職務を成し遂げている。水軍のみならず陸戦もできると考えてよさそうで、ある程度結果を出せたので、今度は順陽王の補佐役に回された。順陽王は司馬師司馬昭の弟にあたる司馬駿(シバシュン)の息子で司馬暢(シバチョウ)なんだが、この男、父に似ないで割と暗君。罪のない補佐役を気分次第で処罰してきた経歴を持つ」
A「父親はマトモなのか?」
F「征西大将軍として蜀亡きあとの西方を守り、一度は禿髪樹機能(ジュキノウ)を打ち破っているンだ。司馬炎が弟の司馬攸を左遷しようとしたら、それを諌める見識も持つ。その辺りが悪かったようで、直後に『病気になって』そのまま死んだが、民衆は司馬駿を惜しんで碑を建て、碑を見た者で拝礼しない者はいなかったという」
A「……マトモじゃないのは司馬炎に思えてきた」
F「で、司馬暢は親の爵位は継いだものの、そんなことをしていたモンだからにらまれてな。弟の司馬歆(シバキン)に領土を分けるからと申し出て、何とか王としての位は維持していたンだ。司馬駿は扶風王だったけど、順陽王に格下げになっている。順番の明記はないが、事態の推移からして、補佐役いびりは天性だろう」
A「情けなきは晋王朝、司馬の子孫は羞じて死ね……だったな」
F「311年の、洛陽陥落のドサクサで行方不明になった、というのが司馬暢の最期になる。だが、吾彦は身辺を清潔にして司馬暢に付け入る隙を見せず、悪事には厳しく応えたので、司馬暢でもいびれなかった。ために、いつも通りの称薦の計で、昇進して朝廷に送られた」
A「朝廷でも何か起こりそうだな、この分だと」
F「ところが、タイミングよくと云っては本人と郭馬に悪いが、陶璜がこの頃死んでな。後任の交州刺史・南中都督に任じられたのが吾彦だった。かつて人物鑑定士が云ったように、南方への軍を率いる立場になれたワケだ」
A「そりゃまた……旧呉領とはいえ蛮夷の地だろ? 死んでこいとでも思われたのかね」
F「陶璜の死後に、九真郡(きゅうしん)では郡兵が叛乱を起こして太守を追放し、山越が郡を荒らしまわっていた。そこへ乗り込んだ吾彦は彼らをことごとく鎮圧し、以後20年に渡って交州を治めている。いい加減トシだからと上奏して洛陽に戻り、もう少し昇進してから死んだ。享年・没年いずれも不明」
A「……演義ではさらっとしか出ないし、正史でも扱いはほとんどないけど、そのあとは波乱に満ちた、でも充実した人生を送りました、というところか」
F「そうなる。最後まで王濬に対抗し、呉が晋に降ってから降伏したことで、一時は西戎送りになったものの、本人の才覚できっちり名を挙げ、交州だが呉への凱旋を果たしている。まぁ、立派な武将だったと云っていいな」
A「だな……ホントに羅貫中は、呉将の扱いが悪い」
F「いや、呉将としてよりは晋の将としての方が働きがよかったというオハナシだから。ところで、この頃は賄賂が流行っていた。恩のある相手には手厚い贈り物をする習慣があったンだが、吾彦は自分を見出してくれた陸抗の息子、といっても長男・次男は戦死していたので四男の陸機とその弟の陸雲(リクウン)に賄賂を贈ろうとした」
Y「受け取るのか? 陸抗の息子が」
F「豪華な食事を陸機に贈った、らしい。いつぞや陸機が龍肉のハムをもらったのを見たが、これではない。何しろ陸雲が『野郎はオヤジに取りたてられた貧乏人のくせに、俺たちへの態度がなっちゃいない』と受け取らないよう勧め、陸機は実際に拒んでいるンだ」
A「何でそんなことになってるンだ?」
F「これより前のことなんだが、薛綜の子で薛珝の弟の薛瑩(セツエイ)が、司馬炎に『何で呉は滅んだンだ?』と聞かれてな。バカ正直に『孫皓のせいです。小人がバカを補佐すれば、民衆も困り果てますよ』と応えたンだが、同じことを聞かれた吾彦は『呉主(孫皓)は英俊で宰相は賢明でした』と応えている」
Y「文武には秀でてもアタマは悪かったのか」
F「司馬炎も笑って『じゃぁ何で呉は滅んだ?』と尋ねると『天命です、天の運りが悪かったンです。人事がどうとかいうことじゃないンですよ』とのたまっている。孫休時代に、薛珝は馬を求めて蜀を訪問したンだが、政情を聞かれて『君主はボンクラ、臣下は自己保身ばかりにかまけて、民衆は浮かない顔をしています』と応えていてな」
A「……あれ?」
F「皇帝が孫休ということは蜀の末期だ。その頃の空気を知る薛珝の弟だけに、薛瑩は、呉の滅亡も人事によるものだと考えていた。ところが、蜀の内情を知らず、下賤の出自だけに呉の宮中のこともよく知らなかった吾彦としては、国はないと云っても君主のせいにはしたくなかったようでな。まぁ、陸抗は死ぬまで孫皓に忠実だったのは事実だ」
Y「だが、父や兄たちがそう死んだだけに、陸機や陸雲は面白くなかった」
F「陸機が『弁亡論』を書いたのは、孫皓をボロクソにけなすのが主目的だったからな。それなのに、孫皓をかばうような発言をした吾彦を陸雲が気に入らず、結局陸機も受け入れなかったのは仕方ないだろう」
A「その場に陸機たちもいたのか?」
F「いや、いたのは『陸兄弟を得たのは呉征伐最大の戦果だなっ』と、すでに亡き引き抜きメモリアルみたいなことをのたまった張華だ。陸機・陸雲のパトロンだった張華が、そのとき吾彦と交わしたやりとりが晋書にある」

張華「お主は呉の将となって長いそうだが、ひと目にも止まらんでさっぱり評判を聞かない。それはなぜだろうな」
吾彦「晋帝陛下が私をご存知だのに、なんでアンタは私を知らんのだ?」

F「"天地賢才"張華に向かって『知らないことがあったのか?』とやり返しては、気に入らないのも当然だろう」
A「それじゃ陸機も気に入るワケにはいかんだろうな……。下手をすれば妖狐のように焼き殺される」
F「続きは次回の講釈で」
ヤスの妻「8時50分、普段の半分のペースだね」
翡翠「ちゃんと時間までに終わったっすね……気に入らないわ」


吾彦(ごげん) 字は子則(しそく)
生没年不詳(波乱に満ちた人生を送った)
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揚州呉郡出身の、三国時代終末期というか晋代の武将。
呉から晋に仕え大陸を転戦し、各地で評価を得たが、正史・演義ともにほとんど記述はない。

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