History Members 三国志編 第31回
「引き立て役なわたしたち・2 会長不在の孫策被害者連絡会」
F「小覇王では項羽に及ばない、というのが前回の結論だった」
A「ま、そりゃそうだろう」
F「だが、孫策が戦上手だったのはどうも事実なので、今回はその辺りを追求してみる。いちおう表題としては劉繇・笮融に厳白虎というところなんだが、基本孫策の江東戦役なので」
A「敵将を通じてみる孫策の戦い、か。だから被害者連絡会なんだな」
Y「会長誰だよ」
F「袁術。とりあえず、略地図おーぷん」
江東地域(揚州)略図
A「マメだよなぁ……」
F「まず、背景的なものから確認しよう。江東なり江南なりと呼ばれる長江南岸は、春秋の昔から蛮夷の地とされてきた。朝廷におもねらない連中が住まう地として蔑視され、また警戒されていた。それだけに、項羽のような世の中をひっくり返すバカも現れるが、基本的には搾取される側だった」
A「奪う側か奪われる側かで云えば奪われる側、と」
F「この時代も、中原の都合で揚州は左右されていたからね。袁術が寿春(じゅしゅん、地図外)に根拠地を遷すと、袁紹は会稽郡(かいけい、地図C)出身の周昂(シュウコウ)を九江郡(きゅうこう、地図外)の太守に任じている。これを怒った袁術は周昂を討伐しているけど、派遣されたのが孫賁(ソンフン)だった」
Y「ふんふん」
F「翡翠ちゃん、泰永の座蒲団持ってけー。孫賁が周昂を打ち破ったので、袁術はさらに領土を広げようと、長江南岸の丹楊郡(たんよう、地図B)に呉景(ゴケイ、孫堅の義弟)を送った。当時の丹楊太守は周昂の兄の周マ(シュウキン)で、これが曹操と昵懇の仲。反董卓連合軍に参戦した曹操に一万からの丹楊兵を送って援けた人物で、この時点では間接的に袁紹派だったと云える」
A「ために攻撃された、か」
F「袁術が『暴虐だから』と距離を置いたこともあってな。だが今度は、呉景が弱いのか周マが強いのか、それとも丹楊兵のせいなのか、勝てなかった。そこで呉景は『周マに従う奴ァ官民問わず死刑にする』と布告している」
A「げっ……!?」
Y「おいおい、そこまでやる必要があるのか?」
F「勝てないから、というだけじゃないみたいなんだ。かつて袁紹の下で、豫州をめぐって袁術配下の孫堅相手に戦闘していた(ただし、負け続き)のが、周マ・周昂の弟にあたる周喁(シュウグ)でな。つまり、三兄弟で孫家と刃を交えたことになり『……コイツ、敵だ』と思い詰めた、というところじゃないかと」
Y「とりあえず、相容れない相手だと思い込んだのか」
F「対する周マは『私はともかく、民に何の罪があろうか!』と云って、兵を解散して会稽に引き揚げてしまう。かつて『強禦不畏陳仲挙』なんぞと称されながらあっさり死んだ陳蕃(チンハン)の弟子らしい、あっけない潔さであった」
Y「儒者に恨みでもあるのか?」
F「心根が腐るほどあるよ。まぁ、そんなこんなで呉景は丹楊を制圧し、一度は祖郎(ソロウ)を討ち破ったりもしている。そこで袁紹は、一族の袁遺(エンイ)を揚州刺史として送り込んできたけど、これが袁術(つまり、孫賁か呉景のどっちかだろう)に打ち破られて、徐州まで来たところで兵士に殺されている」
A「あっけないなぁ」
Y「つーか、揚州刺史は空席だったのか?」
F「陳温(チンオン)という名が見えるンだが、記述が混乱していてな。袁術と戦って死んだのかそれともただの病死なのか、よく判らんのだ。とりあえず、この頃の揚州刺史は空席」
A「ちゃんとした太守がいればもう少しマシな統治が行えただろうに」
F「そうでもないという状況だったンだがなぁ。とりあえず、袁紹は袁遺を、袁術は陳瑀(チンウ)を刺史に任命したンだが、袁遺はそういう次第で脱落。陳瑀は陳瑀で、袁術が許昌(きょしょう、当時は都ではない)に攻め込んで曹操に返り討ちにされると、袁術を見限って門を閉ざしたモンだから攻撃されて、結局郷里の徐州に逃げ込んでいる」
A「どいつもこいつも情けねェ……」
F「というわけで、そこへ後任の、そして正規の揚州刺史として劉繇が送りこまれてきた。とりあえず袁術を刺激すまいと揚州治所の寿春には行かず、長江を渡っているンだが、この時点では袁術としても事を荒立てるつもりはなかったようで、呉景・孫賁が劉繇を曲阿(きょくあ、地図A)に迎え入れている」
A「この時点では、か」
F「うむ。193年ないし194年のことと思われるが、袁術が帝位への野心を見せ始めた時期でな。ために、袁術と劉繇の関係は悪化し、呉景・孫賁は『丹楊にいられなくなった』とある。つまり、正規の揚州刺史から『お前たちは逆賊に与するのか、ワシにつくのか!』と迫られ、袁術を選んだと」
A「何でそっちを選ぶかな……」
F「孫策がまだ袁術の手元にいたからねェ。正史の注には、孫策が孫賁に宛てた手紙で『兄貴!』とやっているのが見える。呉景から見れば姉の息子だ。まぁ、見捨てられないだろう」
A「……むぅ」
F「というわけで江南を追われたふたりは、長江の北岸の歴陽(れきよう、地図C)に陣取って劉繇の軍と戦火を交えたが、何年戦っても勝てなかった。これについて、孫権の妃のひとりの徐夫人伝に『揚州の役所(曲阿を指す)から水軍を出されて迎撃されたら不利になります』という興味深い記述があってな」
Y「水軍が不利だった、と?」
F「そうらしい。劉繇の部下の張英(チョウエイ)や樊能(ハンノウ)らは横江(おうこう、地図D)という渡し場を抑え、呉景らが攻めてきたら船で長江に逃れる、水上から矢を射かけて時間を稼ぎながら劉繇本隊の到着を待つ、という戦術で退けていたようなんだ」
A「となると、純粋に船をそろえるしか対応策がないな。直接曲阿を狙おうとしても張英たちが横槍入れてくるのは明白だ」
F「だが、そんなことは百も承知だったようで、195年に、孫策が周瑜らを率いて合流しても、呉景らの軍中では船が不足していた。手に入らないよう画策していたワケだ」
Y「そもそも、五千からの増援だろ? そんなモン運ぶのにどれだけの船がいるやら」
F「そういう事情もあって、孫策が軍をすぐには動かさず、船の手配に乗り出そうとした……ところへ、先の記述が出てくるンだ。孫堅と親交のあった徐真(ジョシン)の子の徐琨(ジョコン、娘がのちの徐夫人)は、孫堅に従って転戦していたが、孫堅の死後は孫策配下におさまっていた。で、この戦闘にも従軍していたンだが、徐琨の母が云った台詞」
「揚州の役所から水軍を出されて迎撃されたら不利になります。軍を止めてはなりません。そこらに生えている蒲や葦でいかだを作って、船の替わりに軍を動かせばいいでしょう」
F「徐琨は孫策にこのまま伝え、孫策はこれを実行し、張英を打ち破っている。ちなみにこの母親、孫堅の妹だ」
A「只者じゃないと思えば、ホントに只者じゃなかったよ……」
F「呉景らが数年戦っても勝てなかった張英を、孫策があっさり打ち破ったからには、やはり将の質も兵の強さも孫策らのが上だったと考えられる。それを張英は、純粋な戦闘ではなく船を渡さないことで補っていたワケだ。また、寿春から歴陽まではかなりの距離があるが、曲阿から横江津までは水運を使えることもあってさほどの距離でもない」
Y「近いから劉繇も援軍を出しやすかった、か」
A「袁術が援軍を積極的に出すとは思えないしなぁ」
F「で、徴発した船や、他の軍需物資は長江南岸の牛渚(ぎゅうしょ、地図E)という砦に備蓄してあった。張英を破った孫策はそのまま牛渚を制圧し、物資を収容しているのね。張英の名は見られくなるから、横江津で死んだか捕虜になったかというところなんだが、捕虜だったならコイツを先頭に近づけば牛渚はあっさり制圧できるだろう」
A「あるいは、張英の割符でも手に入れて門を開けさせたか」
F「いずれにしても、孫策は牛渚を攻略し、江東に入った。これには劉繇もうかうかしておれず、配下の薛礼(セツレイ)・笮融に迎撃を命じている。ふたりとも、もともと徐州の陶謙の下にいたンだけど、曹操の徐州侵攻のため劉繇を頼ってきてな。で、薛礼は牛渚から北東にある秣陵(まつりょう、地図B)の城に入り、笮融はその南に陣を張った」
A「太湖があるから、曲阿に向かう針路上になるのか」
F「そうなる。まず孫策は笮融を攻めて、500からの首級を挙げている。これに震え上がった笮融が陣を固めてひきこもった、のは前回触れたが、仏教徒笮融が率いていたのは一万からの信徒でな。非戦闘員もいたようなので、籠城されては孫策としても攻めあぐねる」
A「兵数が劣勢だからなぁ。数の多い方が籠城するのはどうかと思うが」
F「しかも、いちどは打ち破られた樊能たちが、兵を再編して牛渚を攻略してしまった。劉繇水軍の機動力を軽視していたようで、これにより孫策は長江南岸での拠点を失ってしまう」
A「まさかいかだの奇襲がもう一度通用するとは思えないしなぁ」
F「そこで孫策は、笮融を放って秣陵へと攻め入った。帰る場所を亡くした孫策が前進してくるとは思わなかったようで、薛礼はあっさり逃亡。こうなると、樊能たちも牛渚に留まっている理由はないのが判るだろう」
A「長江の水路をふさがれたら帰れなくなるからな」
F「というわけで、牛渚へ攻め入ってきた孫策相手に、樊能はろくな抵抗もしないで撤退をはかったようで、一万からの捕虜が出ている。残るは笮融だけ……となった孫策が、自分が死んだという情報を流して笮融の兵を誘い出し打ち破った、のは前回触れたな」
A「さらに笮融は動かなくなった、と」
F「ただ、そのせいで『孫策が死んだ!』と牛渚にいた『一万からの捕虜』が蜂起したモンだから、孫策は呉景を牛渚に留めている。さすがに、そのクラスの武将で後方をかためる必要性を感じ取ったらしい。かくて、笮融には抑えの兵を残し、後方にも兵を配した孫策は東進し、曲阿に至る都市(地図では省略)を攻略しつつ、劉繇の別働隊も打ち破っている」
A「事態は完全に孫策ペースで進展したワケだ」
F「追い詰められた劉繇は、曲阿から丹徒(たんと、地図@)に逃げ、さらに会稽(かいけい、地図C)に落ち延びようとしたが許子将に制止され、でも笮融に裏切られて太史慈には見捨てられて、だった。それだけに、逃げ込む先に選んだ豫章郡(よしょう、地図外)入りに際してはかなり問題が起こっている。当時の豫章太守は朱儁(シュシュン)の息子の朱皓(シュコウ)だが、劉表も荊州から諸葛玄(ショカツゲン、孔明の叔父)を派遣していた」
Y「実権争いが起こっていた、と」
F「うむ。そこで劉繇は笮融を送って朱皓のカバーをさせるンだが、このブッディストは諸葛玄を殺すと朱皓も殺し、豫章の城を乗っ取ってしまう。云い忘れていたが、秣陵から逃げた薛礼も、同じく丹徒に逃げこむ途中でコイツに殺されている」
A「仏教徒が無益な殺生するなよ!」
F「アキラ、それはちょっと誤解だ。笮融は陶謙の下にいた頃、勝手にひとを殺して物資を奪っている。曹操が侵攻してきたので長江に面した広陵郡(こうりょう、地図外)に逃げ込んだが、この地が水運で栄えていたモンだから太守の趙c(チョウイク)を殺して略奪を働き、そのままあとにした。コイツがひとを殺すときは、必ず現世利益があるンだよ」
A「それじゃなおさらタチが悪いわー!」
Y「煩悩を捨てろと云うのが仏教なんだがなぁ」
F「この世は全て絵空事。というわけで、劉繇は豫章に攻め入るも笮融率いる仏教徒軍団に返り討ちにされ、山越まで駆り立ててようやっと豫章城に入城できた。笮融は城を脱出して山中に逃げ込んだものの、付近の住民によって殺害されている。それを見届けたのかは不明だが、劉繇も間もなく病死した」
A「演義では割とボンクラだけど、こうしてみるとかなり不幸だな」
F「それでも197年までは生きていたらしいしな。曲阿に入った孫策は『劉繇・笮融の部下でも、帰順すれば罪に問わない。帰順しなくても強制はしない』と布告し、これによって2万からの兵を得たとある。これによって孫策は『これだけ兵がいれば、俺ひとりで呉・会稽を攻略できる』と豪語したほどだ」
Y「劉繇でもそれなりに、民衆には慕われていたようだな」
F「というわけで、呉景・孫賁を袁術のもとに送り、周瑜を丹楊に残した孫策は、さらに南方へと兵を進めた。曲阿から南下して孫静(ソンセイ、叔父)と合流すると、朱治(シュチ)を呉郡に送って太守の許貢(キョコウ)を討たせ、自身は南下して会稽の王朗に向かっている。もちろん王朗も坐してはおらず、豫章を治める華歆(カキン)のところに使者を送った」
Y「野郎が太守になったのか?」
F「んー。朱皓・笮融亡きあとに、本人が『劉繇刺史から任命されたのだ』と云っているが、郡の太守ではあっても劉繇とは別の城にいたらしい。で、劉繇の死後に残党が華歆のところに集まって『殿の後を継いでください!』と訴えるけど『時流に恵まれたからと云って、勝手に位を名乗れるか!』と追い払っている」
A「劉繇の恩に報いるのか仇で返すのかはっきりせえよ」
F「華歆はともかく、王朗な。反董卓連合の当時、趙cと王朗が陶謙に『長安の陛下に使者を送って勤皇の態度を示しましょう』と進言し、趙cが自分で行くことになった。これによって、陶謙は安東将軍、趙cは広陵太守、で王朗は会稽太守に任じられている。王朗も、朝廷からちゃんと認められた地位だったワケだ」
A「演義だと、孫策が攻め込んできても、さっきの華歆と似たようなこと云ってるしなぁ」
F「うん。それだけに、豫章が孫策の後方を扼してくれると期待していたンだろう。だが、使者に出された虞翻(グホン)は、途上で、孫策が会稽に向かったのを聞きつけて、豫章に行かずに戻っている。のちに華歆に向かって『アンタと王朗殿、どっちが上だと思ってる?』とはっきり聞いている辺り、あまりあてにしていなかったらしい」
A「五十歩と百歩なら比べられるけどなぁ……」
F「だが、緒戦では王朗は上手くやった。孫賁・呉景・周瑜に朱治が離脱し、ここまで戦ってきた兵たちもそれなりの数がそれぞれについていったと思われるので、孫策の軍はやや弱体化していたと云えるンだ。さらに、北から会稽郡に向かうには浙江(せっこう)を越えなければならないので、王朗はこの川を防衛ラインに孫策を迎撃した。ために、孫策でも攻めあぐねている」
A「意外な苦戦じゃね」
F「それをフォローしたのが孫静だった。このまま戦闘してもらちが明かないと孫策に進言し、自ら一軍を率いて夜陰に乗じて浙江を渡る。そして、王朗軍の背後に周り、補給路を占領してしまった」
A「おー、意外な活躍」
F「事前に孫策が『連日の雨で腹を下す者が多い、カメを用意して水を綺麗にしろ』と命じ、夜になったらそのカメに火を灯して、孫静隊の人数が減ったのをごまかしていたモンだから、王朗はあっさり騙されている。補給路を断たれたと知った王朗は、慌てて周マを差し向けた」
Y「……あぁ、会稽出身だったか」
F「周昂は九江太守、とさっき云ったが、袁術に『アイツ倒したら太守にしてあげる』と最初に云われたのが九江郡だった。ために、周喁は兄の救援に向かったンだが、孫策に兄もろとも蹴散らされてしまう。やむなく会稽に戻ろうとしたところ、ちょうど悪く許貢が呉郡を乗っ取った時期でな。周喁は殺されている」
A「通りがかりで、というワケじゃなさそうじゃね」
F「周喁の軍を奪って、それで呉郡を制圧したンじゃないかな。たぶん、周昂もそのときに死んでいるだろう」
Y「弟たちの仇討ち、とは云えんな」
F「許貢はこの頃、朱治に『徹底的に打ち破』られている(本人は逃亡)から、仇を討ってくれたとは云えるが、ちょっと筋違いだね。だが、ここで王朗が大きすぎるボケをかます。何を思ったのか周マを、孫策本隊に差し向けたンだ」
A「お前、何やっとんね!?」
F「孫策本隊が手薄と踏んだ、というところなんじゃなかろうか。だが、そうであってもまずは後方を安定させるべきだった。士気上がらない兵を率いた周マは孫策に敗れ、戦死してしまう。これがきっかけになって王朗軍は総崩れとなり、孫策は会稽の治所を攻略している」
Y「会稽郡そのものを攻略できたワケではなかった、と」
F「だ。なにぶん、山賊の親分とはいえ厳白虎が健在だし、不服住民のが多かったワケだから。演義での厳白虎は、この前に弟を殺されて震え上がり、王朗のところに逃げ込んで、孫策と戦って死んでいるンだが、正史では前回見たような経緯で打ち破られ、そのまま生死不明となっている」
A「孫策は、相手がよかったようだな……」
F「ところで、と云おうか。繰り返しになるが、笮融や厳白虎はともかく、劉繇や王朗といった正規の州刺史・太守を敵に回したのは孫策の失敗だった。そのせいで江東での人心を得るのに難儀したワケだから」
A「まぁな。演義だとろくでもない連中だけど、漢王朝の認めた地位や官位なんだから」
F「そゆこと。とはいえ、必ずしも孫策が悪かったとは云いにくい。疑わしいが、孔明が書いたことになっている『後出師表』には『劉繇や王朗が口ばかりで戦わなかったせいで、江東は孫策の手に落ちた』とあるように、歴史的には孫策の踏み台くらいの価値しかなかったと云えるンだよ」
Y「演義での扱いもあながち間違いではない、と」
F「そんな彼らについての、正史での評を書き下して引用しておく」
「劉繇は立派な行いをすることにつとめ、物事の善悪を判断するのに心を砕いたが、混乱の時代に自立する術策には長けていなかった」
「王朗の性格は厳格で、高い才覚と学識を備えていたが、妻には優しかった。たいへん礼儀正しく、謙虚で慎み深く、妻の実家からの贈り物などは受け取ろうとしなかった。世間で情け深いとされながら貧窮している者を救おうとしない輩を非難し、困窮する者には財貨を施していた」
F「これじゃ孫権や二張が関係修復に努めても、そう簡単にはいかないのがよく判る高評価でな」
A「……負けて当然とはいえこれでは、江東の人心をつかむのは難しいだろうな」
Y「それを成し遂げた辺りに、孫権の底深さはあったワケか」
F「まぁ、そう云えるな。ちなみにもうひとり、周マについても同様で、割と凄まじい文章がある」
「兄弟にも等しい孫輔を殺したのは誰だ! 『丈夫の雄』盛憲(セイケン)を殺したのは誰だ! 世間に名高き賢才・周マには安定した老後が約束されていたというのにそれを殺し、盛・周の一族郎党殺し尽くしたのは誰だった!? すべて孫家の兄弟ではないか!」
『文選』巻四四 陳琳による『呉の将校武曲に檄す』を翻訳して抜粋
F「なまじ直接の借りがあったモンだから、曹操は『建安七子』が誇る天才アジデータに『よくも周マを殺したな!』という文を書かせて『呉の将校・武曲よ、あなたは本当に孫家に仕えますか?』と迫っているンだ。212年の侵攻に先立って布告されたものだから孫家をおとしめる政治的な色合いが強いとはいえ、周マが実は高く評価されていたのが判る」
A「演義だとあっさり孫策に殺されるだけの武将なのに……孫家のためには仕方ないことでも、江東のみならず中原でも悪評のネタにされたワケか」
Y「しかし、殺っちまったのか? 一族郎党」
F「どうやらそうらしい。結果論になるが兄弟3人で孫家と敵対しちゃった連中だ、仕方ないと云えば仕方ないだろう」
A「いまさら孫家に仕えると云っても、周りが納得しないだろうからなぁ」
Y「違いない」
F「続きは次回の講釈で」
劉繇(りゅうよう) 字は正礼(せいれい)
155年〜197年(長年の戦乱に疲れ果てて死去)
武勇2智略1運営4魅力3
東莱郡出身の揚州刺史。
演義ではかなり情けない男だが、正史では割と高く評価されていてる。
笮融(さくゆう) 字は不明
?〜197年(仏罰が下った)
武勇3智略2運営3魅力3
揚州丹楊郡出身の、三国時代を生きたブッディスト。
物欲我欲にまみれた人生を送り、山越に殺された。
"徳王"厳白虎(げんはくこ) 字は不明
?〜196年?(演義では孫策軍と戦って死亡)
武勇1智略1運営1魅力3
出自不明の、江東の有力者。たぶん山越。
実史では山賊の親玉というところだが、演義では「東呉の徳王」を名乗る。
曹豹には及ばないもののコアな人気を誇る。
周マ(しゅうきん) 字は泰明(たいめい、正史の注では大明となっている)
?〜196年(孫策と戦い死亡)
武勇2智略1運営4魅力5
揚州会稽郡出身の名士。陳蕃の教えを受け、風占いに通じていた。
兄弟そろって孫家に敵対したため、本人の死後に家族は皆殺しになった模様。