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History Members 三国志編 第29回
「旧時代の守護神、新時代への踏み台」

F「では、今回は後漢末の人物について」
A「来週は呉将というわけじゃね、判ります」
Y「投票の意味がないンじゃないか?」
F「いや、20回で講釈する予定だった呉の二代め武将を、そろそろやろうかと思ってな。30回に繰り下げるなら回数的な問題もないだろう。だったら、今回はもうひとつの選択肢にしてもいいかなと」
Y「タイミングの問題か」
F「というわけで、今回は皇甫嵩(コウホスウ)についてー」
Y「後漢末の数少ない大物来たなぁ」
A「この間のヤスの台詞じゃないけど、興味がないのかどうでもいいのか微妙だなぁ。アキラ、抜けてもいい?」
F「そういう態度は久しぶりだな。まぁ、一般的にはあまり興味と評価がある人物でないのは認めよう。僕も『私釈』はじめた頃は重視してなかったのは事実だし」
A「じゃろ? せめて、盧植(ロショク)メインで朱儁(シュシュン)も併せて3人講釈するならネタもあろうけど、皇甫嵩単身ではどーだろう」
F「1番、津島幸市! あー子にイッキさせます!」
A「あまり呑ませるな!」
Y「というか、何を云いだした」
F「さぁ呑め。僕の酒が呑めんとは云わんだろうな」
A2「(こくっ)……私は、誰の酒からも逃げない」
ヤスの妻「あーちゃん、それカッコいい台詞じゃなくてただのノンダクレだから」
F「はい、きょうもごはんが喰えるのは、皇甫のお殿のおかげです。それ、簒奪! 簒奪! 簒奪! 簒奪!」
A「お前、何やっとンね!?」
Y「だから、何を云いだした!?」
A2「……吹くかと思った」(←それでも呑んだ)
F「1800年前にそんなことがありました。というわけで皇甫嵩について講釈しようと思うが、聞くか」
A「聞くよ……」
Y「オープニングジョークじゃ済まないネタだな、オイ」
A「というか、三国時代なのか後漢時代なのか微妙じゃないか? 正史に伝は……」
F「ない。後漢書の71巻に盧植・朱儁と伝が立っていて、基本的には後漢代の人物とみなされているな。いちおう『私釈』では5回で出てるけど、マトモに動かしたのは2回と12回だけで、他3回ではほとんど名のみ。まぁ、盧植センセはちょっとマシ(8回)だけど、朱儁も似たような扱い(5回)だから」
A「あからさまにないがしろだな」
F「テンプレ入れよう。生年は不明で、涼州安定郡(あんていぐん)の出自になる。194年に雍州が設置されると安定郡もそっちに地籍変更されているが、その辺の事情はさておいて。武門と云っていい家の生まれでな。祖父の皇甫旗(コウホキ)は扶風郡(ふふう)の都尉で、叔父にあたる度遼将軍・皇甫規(コウホキ)は異民族対策で名を挙げた武将だ。皇甫規の兄の皇甫節(コウホセツ)が、皇甫嵩の父になる」
A「えーっと、節度の息子で規律の甥?」
F「覚え方としてはそんな具合。皇甫旗が割とお堅い性格なのは簡単に想像できるな。皇甫嵩にもその辺りの性格と気質は受け継がれたようで、若い頃から弓馬に励みながら詩や書にも親しんでいたとある。ために、孝廉に推挙されると、太尉の『天下義府陳仲挙』こと陳蕃(チンハン)どころか大将軍『天下忠誠竇游平』こと竇武(トウブ)からも招聘されている」
A「えーっと、陳蕃が第3位で……?」
Y「竇武は総合1位だったか。高く評価されてるじゃないか」
F「ところが、タイミング悪く皇甫節が死んでな。喪に服すために皇甫嵩は官職を辞して、招聘に応えなかったンだ。これがだいたい160年代後半のことと思われる。竇武は11代桓帝の外戚だったが、167年に桓帝が没すると12代霊帝を擁立して大将軍に就任し、翌年宦官との政争に敗れて自害してるから」
A「招聘されたのは167年から168年にかけてのオハナシ、と」
F「その頃に皇甫旗が生きていたのかは判らんけど、実は竇武は扶風郡の出自でな。皇甫嵩を招聘しようとしたのには祖父からの情報もあったように思える。で、169年には第二次党錮の禁が発生し『強禦不畏陳仲挙』などとも云われた割にあっさり陳蕃も処刑されているンだ。招聘に応えていたら巻き込まれてエラいことになっていただろうな」
Y「あんがい、応えちゃまずいと思って逃げたのかもしれんな」
F「その辺のゴタゴタが落ちついてから、霊帝が改めて皇甫嵩を召し出し、議郎を経て涼州は北地郡(ほくちぐん)の太守に任じている。そのままなら皇甫嵩は僻地の太守で人生を終えていたのかもしれないが、十数年したある日、漢王朝を揺るがす変事が発生した。184年のことだが」
A「黄巾の乱じゃね」
F「天災・人災の相次いだ時代にあって、民を救い漢王朝を倒そうとした天公将軍・張角は、洛陽に潜伏させていた馬元義が内部告発で処刑されたため、急遽兵を挙げた。すると、議郎の座ももっていた皇甫嵩は洛陽に駆けつけ、宮中で開催されていた対策会議に乗りこんでいる」
A「ンなことしていいのか?」
F「郎官は官職のスタートラインでな。孝廉に推挙されて中央に来たお役人は、まず試験で郎官につき、その任期が終わると地方官になることができた。ただし、後漢も中頃を過ぎると試験は有名無実化していて、皇甫嵩くらいの家柄なら郎にはつけるようになっている」
A「はぁ……」
F「で、これがどんな役職かと云えば警備兵でな(光禄勲配下)。宮殿の入り口や廊下で戟を持って侍り、儀式の際には階の両側に控え、皇帝の外出に際しては行列をつくる。ただし、議郎は別で、警備には参画しないで皇帝の傍に仕え、政策について議論する役割なんだ」
Y「家柄だけじゃなくて、ある程度の頭も必要だな」
F「皇甫嵩はそれを備えていた、と云える。御前会議に乗り込んだ皇甫嵩は、党錮の禁で宦官ににらまれ官職から追放されていた清流派の者たちへの恩赦を出すよう意見している。いつぞや云ったが、黄巾のせいで一時的に宦官と外戚が手を組んでいたので『黄巾に通じられたら大変だぞ』と、清流派への恩赦もやむなしというのは間違いではない」
A「自分を取り立てようとした竇武や陳蕃への義理もあったかもな」
F「そこで、この時代だと痛感するイベントが発生する。常々『張譲はワタシの父、趙忠はワタシの母!』と公言していた霊帝は、この意見も『どうする?』と宦官に意見を求めているンだ。幸いと云っていいのか判らんが、聞かれた呂強は宦官の中でもマシな知能の持ち主で、皇甫嵩の意見に賛成したため、党錮の禁は事実上解かれている」
Y「このせいで、戦後劉備は官職にありつけなかったと以前触れていたな」
A「必要な措置だったのは認める……」
F「また、皇甫嵩は宮殿の金と馬を出して討伐軍に与えることも進言しているが、これには反対意見もあがっている。封諝(フウショ)という宦官が馬元義に通じていたモンだから『討伐の軍を出すより十常侍を斬れば済むことです!』と張鈞が声を上げてな。さすがに霊帝でも宦官べったりでは済まなかった」
A「ここぞとばかりに宦官追放に乗り出そうとしたのか」
F「ところが、張譲・趙忠ら十常侍の方が一枚上手だった。いらんことした呂強を『アイツが悪いンです! なにせアイツは陛下の廃立を目論んでいます!』と誣告して自殺に追い込み、それをもって『やっぱりアイツが悪かった!』と自分たちのせいではないと主張した。で、張鈞を投獄し、のちに殺している」
A「えげつないなぁ……」
F「張鈞は、演義では黄巾の乱を平定したのに劉備が官職につけていないのはアイツらのせいだ、と十常侍を責める役割なんだが、正史では劉備と無関係なワケだ。まぁ、このゴタゴタもあって張譲らでも強弁はできず、皇甫嵩の求めた金と馬は討伐軍に与えられている」
A「金は惜しいがいらんことはできない、と。よくこんな連中がうしろにいて黄巾に勝てたな」
F「演義では劉備や曹操にいいとこ持っていかれるが、実際に黄巾の主力を打ち破ったのは皇甫嵩だからな。死んでこいとばかりに朱儁とともに討伐軍を率いるよう命じられた皇甫嵩だったが、洛陽の南方・穎川(えいせん)で黄巾と対陣したものの、やはり当初は士気上がらず敗れて包囲された……のは『私釈』の2回で触れたな」
A「曹操の夜襲に呼応して火攻めをしかけ、包囲網を破って穎川を奪還した、と」
F「で、東方方面の黄巾を討つよう命じられた皇甫嵩は、汝南東郡を攻略して北上。もともと洛陽から東側は盧植センセが担当していたンだけど、宦官に賄賂を送らなかったせいで解任され董卓が後任となった。その董卓が敗れたので、皇甫嵩にお鉢が回ってきたわけだ」
Y「そして、今度も上手くやる」
F「人公将軍・張梁の軍と対峙した皇甫嵩だったが、董卓を破って勢いに乗る黄巾に緒戦では遅れを取っている。ところが、そのせいで油断が見えてな。夜襲で逆襲して張梁を討ち、8万もの黄巾を殺したという。通常なら数字を誇張したと考えるしかないが、何しろ相手は農民が黄色い布をかぶっただけだ」
A「それくらいの数がいてもおかしくない、と」
F「8万と云っても皇甫嵩の軍が殺したのは3万で、あと5万は黄河に落ちて溺れ死んだンだしな。夜討ち朝駆けというが、サーチライトも暗視スコープもない時代だ。夜襲という行為は割と危険だがメリットも大きかった」
Y「とりあえず、この男の夜襲スキルが大したものだというのは判った」
A「夜に戦う相手じゃないな」
F「で、そのまま北上して地公将軍・張宝も討ち、今度は十万余りを殺して京観を作っている。穎川で『数万』、汝南と東郡で併せて約2万。後漢末から三国時代にかけて死んだ人数の何パーセントかはコイツのせいだと云っていい」
A「二十数万ではなぁ……」
F「ただし、功績としてはさらに大きかった。すでに死んでいた張角の墓を暴いたことで、黄巾三兄弟の首級すべてを挙げているンだ。事実上、黄巾の乱を平定したに等しい。それだけに、演義では劉備を活躍させるため扱いが悪いが」
Y「困ったモンだ」
A「劉備が主人公だから仕方ないの!」
F「戦後の論功行賞で、皇甫嵩は左車騎将軍冀州刺史に任命されたが、朱儁は『後漢王朝発祥の地である南陽を取り返したのは、皇甫嵩に劣らぬ功績である!』と右車騎将軍に任命されている。皇甫嵩ひとりを昇進させず朱儁を対抗軸に仕上げようと、無理に行賞したように思えるのは僕の気のせいじゃないと思う」
A「車騎将軍がふたりもいちゃダメだよなぁ」
F「ところで、最初に戻ろう。刺史に任じられた皇甫嵩は、黄巾の乱で荒れ果てた冀州に着任すると『これから一年は、年貢を納めんでいい』と宣言している。軍中では兵たちがきちんと休んでから自分のテントに入り、兵たちが食事を済ませてから自分も喰った」
A「人格者だった、と」
F「割とズレているくらいにな。何しろ、配下のお役人が賄賂を受け取ると『あぁ、おカネがほしかったのか?』と金品を与えたくらいだ。恥じたお役人は自殺したが、これじゃ声望が高まらないはずがない。戯れ歌が流行っている」

「天下は大いに乱れたし、市場は空になっちまった。母は子を殺し、妻は夫を失ったが、皇甫のお殿のおかげで、ワシらまた安穏にくらせるぞい」
(天下大乱兮市為墟 母不保子兮妻失夫 頼得皇甫兮復安居)

A「きょうもごはんが喰えるのは、皇甫のお殿のおかげです……と」
F「そんなに名が高まれば、悪い虫も飛んでくるだろう。信都の県令だった閻忠(エンチュウ)が『ボンクラな霊帝は見捨てて天子になられませい! 韓信の故事をご存じないのですか!』とけしかけている」
A「軍事的に有能だったせいで劉邦に危険視され、項羽との戦争が終わると使い捨てられた韓信……か」
Y「簒奪を勧めたワケだな」
F「皇甫嵩はビビって『そんなバカな話を聞けるか!』と怒鳴りつけている。閻忠は出奔したが、このあとの皇甫嵩の人生は悲しいまでに下り坂だ。涼州で辺章(ヘンショウ。つまり韓遂)が叛乱を起こしたので鎮圧に差し向けられると、張譲に賄賂を送らなかったせいで召喚され、左車騎将軍の印綬も没収された」
A「あらら……」
F「それでも左将軍に復権して、董卓とともに王国(人名。つまり韓遂)の攻撃から長安を守るため出陣したところ、戦にゃ勝ったが董卓の進言を退けたモンだから、董卓ににらまれている。というわけで、董卓は政権を握るとほとんど真っ先に『皇甫嵩を殺せ!』と云いだした。周りが止めるのも聞かずに洛陽に赴いた皇甫嵩はあっさり投獄される」
A「あまり、ひとの意見は聞かないタイプなんだな」
Y「そういう問題じゃないと思うンだが」
F「王国との戦闘中に、甥っ子から『軍中で董卓を殺すなら罪になりませんよ』と勧められても『いや、命令違反は罪だが勝手に部下を殺すのもまずいさ』と応じているしなぁ。ただ、甥っ子は董卓になんか含むものがあったようだが、皇甫嵩の息子ふたりは董卓と仲が良かった。酒を持って行って助命を求めている」
Y「このうえなく効果的な説得だな」
A2「(こくっ)……いあ、いあ」
ヤスの妻「いい加減にしなさい」
F「呑ませたの僕だが、まったくだ。群臣も助命を嘆願したので一命は取り留め、董卓が都を長安に遷すと、皇甫嵩も同行している。入城する董卓を百官は拝礼して出迎える中、皇甫嵩はひとり頭を下げない。それを見た董卓がにこやかに『義真(皇甫嵩の字)、まだぁ?』と尋ねると、ようやっと頭を下げている」
A「なんだかなぁ……」
F「正直に云って、よろしくない頭だと云わざるを得ない。董卓に不満があるなら意地を通すべきだし、不満を呑みこむなら頭を下げるのを躊躇うべきじゃない。そもそも、不満なら袁紹に呼応して長安で兵をあげればそれでいいのに、何度かあった董卓暗殺計画に加わった形跡さえない」
Y「諦めた、というところかね」
F「結局は後漢時代の人物だったと云わざるを得ないな。漢王朝の時代が終わろうとしているのを何とか喰いとめ先延ばそうとはしても、自分が新しい時代の旗手になろうとはしなかった。それでいて、旗手になろうとした董卓に頭を下げるのは嫌がり、袁紹にも近づかないンだから、時流が読めなかったとしか云いようがなくてな」

「ワシが天子になろうなどとどうして考えられようか。黄巾が秦や項羽に匹敵するものか。人々は天子を忘れておらず、天は逆賊を助けることはない。分外な、実のない功績を云い立てて勝手に位を名乗れようか。朝廷に忠義を尽くし臣下の節義を全うすることで、名が永遠に残るのだ。そんなバカな話を聞けるか!」

A「……乱世の到来を理解できていなかった、と」
Y「時代の流れを読めなかったのか。その辺りの読みに関して、董卓には確かなモンがあったからなぁ」
F「張角から守った天下を董卓に奪われたことに意気消沈したのか、その董卓から、よりによって車騎将軍に任じられた皇甫嵩は、その後何もなすことなく、董卓の死から3年後の195年に世を去っている。後漢書では『将としては朱儁より上だったが、大義を捨てたことで世間の笑いものになった』と酷評されている」
A「仕方ないのかね。悪く云えば漢王朝にしがみついていたにすぎないンだから」
F「同僚だった朱儁や盧植も死に、後漢時代の残滓は失われた。曹操や劉備、孫堅といった英雄たちは、皇甫嵩によって平定された黄巾の乱を糧に、次の時代を、新しい時代を切り開いていくことになる。歴史の神が皇甫嵩に課した役割とは、次の時代への踏み台にすぎなかったンだろうな」
A「悲惨と云わねばならん人生だな……」
Y「まぁ……あれだ。英雄と呼ばれる器ではなかった」
F「続きは次回の講釈で」


皇甫嵩(こうほすう) 字は義真(ぎしん)
?〜195年(失意の中で死去)
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涼州安定郡出身の、後漢末の武将。
黄巾の乱を鎮圧し後漢王朝を救ったが、時代の流れを理解できず押し流された。

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