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History Members 三国志編 第27回
「三強の一角・1 反董卓連合を看破した男」

F「3はやりません」
A「されても困るわ。つーか、1と2もな!」
F「お前は鄭泰(テイタイ)と禰衡(デイコウ)と石印三郎(セキインサンロウ)と智鬱築鞬(チウツチクケン)と雅丹丞相(ガタン)と越吉元帥(エツキツ)の何が不満なんだ。民族差別はよくないぞ」
Y「はんぶん異民族じゃないぞ」
A「前3人は人間としても認めたくねェよ……」
F「その台詞、僕も若い頃よく云われたなぁ。ともあれ、今回は『私釈』三強の一角、我らが鄭泰について」
A「だから、その『我ら』に含まれてるのはお前と誰なんだよ!?」
F「強いて挙げるなら范曄だ。正史三国志に鄭泰の伝はないが、後漢書の列伝第60巻に伝が立てられている」
A「強いて挙げなきゃいないのかよ!?」

 公業は豪胆とたたえられ名声高く、董卓が権力を握ると金をバラまいて(董卓を討つ)同志を募った。北海は天道を外れ名声は頓挫した。彼が世俗をこえることは驚くほどたやすかったが、それは孤独であったためだ。主君のフンドシを締め直すようなことをしてもその君主に帰順したことにはならないという、高尚すぎる考えに誰がついていけるのか? その点、荀ケの行いは立派だった。うん。

F「締めの一文だが、公業は鄭泰の字な。ちなみに、後漢書では鄭太になってるが鄭泰で通す」
A「いつも通り、諱を避けていた、と」
Y「俺がこの時代にいたら泰永じゃなくて康永とかそんな感じになってたワケか」
F「発音違うからそうはならんと思うぞ。まぁその辺さておくが、文中の『北海』というのが孔融(コウユウ)のことでな。後漢書では鄭泰と孔融を同じ伝に入れて『鄭泰は名声が高かった』『孔融は天道を外れて頓挫した』としたうえで『主君に忠言をしておいて、オレはアイツの配下じゃない、は通らないだろう』としている」
A「孔融の場合の『アイツ』はもちろん曹操で?」
F「鄭泰の場合は董卓だった。まぁ、とりあえずテンプレいこう。鄭泰の生没年は正史三国志・後漢書のいずれにもない。というか、後漢書の記述は正史の注に引かれた記述とほぼ一致しているので、正史に書いていなければ後漢書にもない、というのは無理からぬオハナシになる」
Y「単純な引き算だな」
F「推定はできる。霊帝が死ぬ(189年)と何進が権力を握り、荀攸華歆といった若手の名士20人あまりを招聘したが、その中に鄭泰もいてな」
A「となると……えーっと、荀攸は157年生まれだったか」
F「華歆も同い年だ。したがって、鄭泰も150年代の生まれと考えていいだろう。高祖父(祖父の祖父)は大司農、その父は諫議大夫(光禄勲配下の相談役)まで昇進した名高い儒学者でな。地方官を三年やれば孫の代まで寝て食えると云うが、中央での役職だけに鄭家にはもっと貯えがあったと考えていい」
A「儒者が金儲けするのかよ」
F「家は財産豊かで土地も持っていた、と明記があるンだ。本人の言葉によれば、姜維は百頃の土地を貰って母と魏を捨てたが、魏にいた当時は一畝の土地しか所有していなくて、これがだいたい350平方メートル。百畝で一頃になり、孔明が家族に遺したのは十五頃。で、鄭泰は四百頃の田地を持っていた」
Y「1400万平米となると3500エーカーになるか? そりゃずいぶんだな」
A「アキラに判る単位で云ってくれんか!?」
F「いや、1400万平方メートルで判ろうよ。ただし、霊帝の死とそれに先立つ黄巾の乱で、乱世の到来を予見していたようでな。鄭泰は各地の豪族と親しくつきあうため私財を放出し、土地からの収穫を使い果たして家族は食糧不足に陥っていた。ために、鄭泰の名声は広まったとある」
Y「実を捨て名を取ったか」
A「ダメなヒトじゃね? それ」
F「まぁ、名声はあった。孝廉に推挙されると、三公の府(役所)から招聘され、宮廷から直接誘いもあったくらいだが、本人はそれをすべて断っている。漢王朝の衰えを察していたため、と考えてよさそうだね」
A「だが、郭泰(カクタイ)とは違って世捨て人ではいなかった?」
F「うむ。さっき云ったが、何進の招きに応じた、荀攸ら若手名士衆の中に鄭泰もいた。この時点では、何進こそが次代のリーダーだと考えることそのものは間違いではない。問題は、何進がアホだったことでな」
A「でっけぇ問題じゃね」
F「時系列では少し後になるが、華雄の『ニワトリをさばくのに牛刀を使ってどうする』という名台詞があるな。何進が、宦官を討つのに董卓を呼び寄せると云いだすと、それを聞いた曹操が『宦官を処断したければ獄吏ひとりで充分だ。外から軍隊を呼んで皆殺しにしようとしたら失敗するのは明白だぞ』と、似たようなことをのたまっていてな」
A「実際にそうなったもんなぁ」
F「鄭泰も『アイツが信用できますか! 朝廷が危機に陥るのがオチです!』と、董卓を呼ばずに自力で宦官を排除するよう進言している。また、董卓の到着を待っていては事態が長期化し、思わぬ変事が起こりかねないとも云っているンだが、それに何進がどう応じたのかは周知の通りだ」
A「いさめを聞かずに董卓を呼んだ、だったな」
F「曹操は不満でも宮中に残ったが、鄭泰はサジなげてな。荀攸に『お仕えしにくい主人です』と云い残し、官職を捨てて宮廷をあとにしている。何進が宦官の反撃に遭って死んだのは、それから間もなくのことだったが、おおかたの予想通り董卓が権力を牛耳っている」
A「読みは確かなんだよな、いちおう」
F「だ。正史三国志ではその後の動きをカットしているが、後漢書では何進が死んだあと、いつの間にか宮廷に復帰している。で、何顒(カギョウ)や伍瓊(ゴケイ)らとともに董卓を説得して袁紹を勃海太守に任じさせ、宮中から外に出した。曹操もこのどさくさにまぎれて宮中を出ているが、これによって反董卓連合は結成された……となっている」
A「おいおいっ!?」
F「つまり、外には袁紹を主軸とする董卓包囲網を形成し、中には自分たちが残っていざというときに呼応する、そんな状況を作ったワケだ。もと何進配下同士、結託していたと考えるのが筋だろうな」
Y「だが、董卓は座視しておらんだろう? 長安に遷っては袁紹とのラインも切れる……ああ、だから失敗したのか」
F「ちょっと先走りすぎだぞ、泰永。遷都する前に、董卓は兵を募っているンだ。戦略の根幹は多勢をそろえることにあるが、兵を徴発して袁紹らに対抗しようとしたワケだ。群臣は董卓を恐れて反対しなかったが、鄭泰は堂々と『政治の成否は徳にかかっており、兵の寡多では決まりませんよ!』と反対している」
Y「董卓の勢力が増すのを恐れた、か。確かに、袁紹への援護射撃だな」
A「うーん……」
F「袁紹と通じていると疑っていたのかいなかったのか、董卓は『ほほぅ、貴様兵は役に立たんと云うか?』と不機嫌になったモンだから『謝りなさい!』と群臣が顔色を変える。さすがにまずいと判断して、鄭泰はやっちまった。『役に立たないワケではないですが、あんな連中兵を差し向けるまでもありません!』と」
A「アホか!?」
Y「というか、賈充か? 100年後に似たようなこと云ったンだろ」
F「割と、というかあからさまに重要なことなので、この時鄭泰が云ったことを、あえて書き下して引用しよう」

「御大将があっしを信じられねェと仰るならよござんす、講釈してさしあげましょう。
 確かに袁紹どもは山東で兵を挙げようと画策しており、州郡が連合すれば一大事でさぁ。ですが、我が国では光武帝劉秀以来騒乱もなく、人々は長いこと戦を忘れております。論語にゃ『訓練していない兵で戦うのは、彼らを捨てることになる』ってありがたいお言葉がありまさぁ。これでは数が集まっても怖いモンじゃぁありやせん。これが第一。
 御大将は若くから軍を率い、何度となく戦場で勝利を重ね、当代に並ぶ者なき名声を得ておられる。その御大将が民に威光を示せば服従しない者なんざぁありませんぜ。これが第二。
 翻って山東の者どもはと見てみれば、貴族のボンボンな袁紹、頭でっかちのインテリにすぎねェ張邈(チョウバク)、花咲かじいさん孔伷(コウチュウ)と、御大将の相手が務まるタマじゃありませんぜ。これが第三。
 その配下どもにもロクな人材がいないのを第四に挙げましょうか。
 仮にいたとしても、袁紹たちがそいつに実権を与えるとは思えません。これが第五。
 まだありますぜ。関西の諸郡は西羌の脅威にさらされ、女でも怖い。まして御大将が率いる男どもときたらますます怖い! そんなモン率いて山東の、戦を忘れた兵どもと戦うンですぜ? 勝ちは揺らがんでしょう。これが第六。
 その西羌どもにしても、御大将の威光に屈しているじゃぁありやせんか。第七でさぁ。
 御大将の配下の諸将はみなご親族で、長らく苦楽を共にされ、忠誠心は格別。山東の連中とは比べ物にならない結束力じゃありやせんか。これが第八。
 そもそも戦争にはみっつの法則があり、乱をもって治を攻めれば滅び、邪をもって正を攻めれば滅び、逆をもって順を攻めれば滅びます。御大将に牙を剥くのはみっつがみっつとも当てはまりまさぁ。これが第九。
 そして第十に、山東の賢者たちも袁紹どもに、御大将に逆らうことの愚かさを説くでしょう。
 この十の中にとるべきことがあるようなら、兵を徴発しようなんて考えねェでくださいよ。民衆が兵役嫌がって、連中に味方しないとも限りませんからねー」

Y「なんでべらんめえ口調なんだ。しかも、途中で飽きただろ」
F「うん。えーっと、まとめてみよう。鄭泰は、反董卓連合の弱点と董卓側の優位点を10数え上げて、董卓が兵を徴発するのを断念させている。このうちの2・6・7・8は、董卓軍の強さを強調している」
A「董卓は若くから兵を率いていて、配下は親族だから裏切らないし、兵は羌族と戦って精強、羌族も配下にある。まぁ、マトモに戦おうとは思えない相手だな」
F「この辺りを、董卓は自覚していただろうからな。一方で3・4・5、つまり連合側の人的な問題点は、まったくもって仰る通りでございましてな」
Y「頼りにならない盟主にあてにならない部下、孫堅や曹操がガンバろうとしても実権を与えるとは思えない……か」
A「つか、花咲かじいさんって何だ?」
F「孔伷と云って、袁紹らとともに反董卓連合主軸になったひとりなんだが『野郎の弁舌は、枯れ木に花が咲いていると信じさせるほど大したモンです』と云っていてな。まぁ『軍を率いる才なんてありませんがね』とも酷評しているが、袁紹がボンボンに過ぎなくて、配下もあてにならない……というのは、表面上否定できることじゃない」
A「まぁ、袁紹が頼れないってのは否定できんな」
F「そう思われていたのが、袁紹が曹操に負けた理由のひとつだからね。残る1・9・10は董卓への阿諛追従にも見えるが、当時の大陸の情勢からして一概には否定できない発言だ。この長い長い発言から読み取れるものはふたつ。まず、鄭泰が反董卓連合の実情を把握していた、つまり何らかの情報網を維持していたこと」
Y「やはり、袁紹辺りとつながりがあったと考えていいか」
A「そうなるなぁ……もうひとつは?」
F「判らんか? 僕が『我らが鄭泰』と云い続けてきた理由だ。鄭泰は、本当のことを云って董卓をだましている」
A「あ」
Y「おい!?」
F「僕が人生を賭けて追及している『本当のことを云ってひとをだます』真似を、鄭泰はしでかしているのさ。周知の情報4割に相手に都合のいい情報が3割、残り3割は事実ともそうでないとも云い切れない、だがどちらとも云えるもの。提示する情報の配分比率が理想的なんだ」
A「そーいうものなの?」
F「僕ならそう思える。何しろ、まんまとだまされた董卓の反応が、もう笑うしかないンだから」

「よう云ってくれた、鄭泰殿! お主がいてくれれば袁紹など恐れるに足らん。我が軍を預けるので、山東の軍を打ち破ってくれ!」

Y「うぉい!?」
F「董卓は『あっさり喜んで公業を将軍に任命し、諸軍を率いて関東を討たせようとした』とあるンだ。タイムマシンができて鄭泰に会えたなら、僕は『いい勉強させていただきました』と跪いて頭を下げ、鄭泰の足を頭に乗せるぞ」
A「そんなことのために1800年さかのぼるなよ……」
F「だが、誰かの明記はないが、おそらく王允辺りだとおもう。『鄭泰の智略は人智を超越しております。彼が山東の勢力と組んでいたなら、兵馬を与え仲間の元に行かせるようなもの。御大将のためにそのことを懸念いたしますぞ』と進言するひとがいたものだから、出立には至らず長安にとどまっている」
A「あらら……」
Y「口先三寸でヒトの上に立てると思うなよ、お前も。そんな地位は長続きせんぞ」
F「その辺わきまえてるから、僕は腕先三尺でヒトとしての扱いを勝ち取ったンじゃないか。ともあれ、というわけで長安にとどまった鄭泰だが、ともに袁紹を推挙した伍瓊がそれを理由に処刑されると、自分の身も危ういと判断したのか、荀攸や何顒らによる董卓暗殺計画に加担している」
A「ところが、それには失敗した」
Y「しかし、ここまでの講釈を聞いていると、鄭泰のせいではないように思えてくるな。誰のせいなんだ?」
F「正史の注では、事前に発覚したため荀攸らは捕縛され、鄭泰は逃亡したとなっている。王允の策でな」
A「……えーっと?」
F「荀攸らの董卓暗殺計画は事前にバレてしまい、投獄された何顒は獄中で自害している。で、董卓が王允と呂布に殺されたのはそのあとなんだ。前後の事態から察するに、王允は、荀攸らを捕え『御大将、叛逆者は捕えました。もう安心です』と董卓を油断させた……ようでな」
A「荀攸を利用したのか!?」
F「董卓殺害という歴史的偉業を成し遂げるのが誰なのか、というオハナシだな。さっき賈充の名が挙がったが、王允も自分で殺らねばならないと考えたとすれば、長安遷都後のイベントにおける王允の立ち位置が判ると思う。荀攸にも鄭泰にも殺らせるわけにはいかない、あくまでワシが殺らねば……と考えていたと仮定すると、歴史の流れをスムーズに把握できるンだ」
A「徴兵は断念されたものの、袁紹に内通していたと思われる鄭泰も軍を預かることはなく、董卓を殺そうとした荀攸らの計画は発覚して失敗した……どれも王允が絡んでいたと考えられるワケか」
Y「このじいさんにとって『味方』とは『敵の敵』だった、ということか?」
F「その表現はえくせれんとだな。董卓を討ってからは呂布でもないがしろにしたことからも、そう考えるのがしっくりくる。自分に取って代わりかねないから、鄭泰も荀攸も呂布も『敵の敵』ではあっても『味方』とは思えなかった。ために、それぞれの理由で長安から去ることになった、と」
A「鄭泰の頭はいいけど、王允はその上を行っていたのか」
F「鄭泰の智略に問題があるとしたら、ひとを見る目がなかったことだろう。まず、本人をして『お仕えしにくい』と云わしめた何進に仕えるというミスを犯し、そのミスを返上すべく董卓を討とうとしたのに王允にしてやられる。そして、長安から脱出して逃げ込んだ先は、人もあろうか袁術のところだった」
A「袁紹でなくて袁術につながりがあったのかな」
Y「そういう問題じゃねェよ」
F「袁術は鄭泰を揚州刺史に任命したが、現地に向かう途中で死んだとある(正史・後漢書で共通)。この頃の揚州、というか中原から東は割と群雄割拠していて、享年も41とあるから病気や老衰とは考えにくい。どこかの戦闘で死んだ、と考えていいだろう」
Y「誰かとの、じゃなくてか?」
F「ところで、最初に云ったが、後漢書の列伝第60巻に鄭泰の伝はある。併記されているのは孔融と荀ケでな」
A「……劉備を別にするなら、曹操被害者連の上からふたりと云っていい人選なんですけど」
Y「孔融はともかく、荀ケや劉備をそこに入れるなよ」
F「いや、劉備はともかく、後漢書では荀ケをそう云ってもいいンだ。例の空箱のオハナシをバカ正直に載せている范曄が、荀ケを曹操被害者連の一員だとみなしていたのは明白。そんな荀ケや孔融と並び称している辺り、鄭泰もそうだと考えていたようでな」
A「ナニされたのさ……って、相手が曹操か!?」
F「繰り返すが、この頃の東国一帯は袁紹と袁術を両軸とした群雄割拠の様相を呈していた。董卓の死んだ192年から193年にかけて、曹操は袁術を相手に戦闘を繰り広げているンだ。その最中に死んだンだろう、たぶん」
A「物理的な被害者かよ……」
F「そんな鄭泰の弟は、鄭泰の息子を連れて袁術のもとを離れ、豫章の太守になっていた華歆のもとに逃げ込んでいる。息子は鄭袤(テイボウ)と云った(ただし次男)が、彼を見た華歆は大喜びした」

「この子がいれば、鄭公業は死んでいないと云えるぞ!」

F「のちに荀攸も鄭袤に会って『鄭公業は喪われていない!』と絶賛している。鄭袤は魏を経て晋の時代まで生きて、273年に亡くなった」
A「父に恥じない息子、ねェ……どんだけの奇人変人だったンだ?」
Y「1800年後のロシアに生まれた血のつながらない子孫を見ていると、ロクな野郎には思えんがなぁ」
F「お前らねー!?」
A「はいどーどー、落ちつけー」
Y「続きは次回の講釈で」


鄭泰(ていたい) 字は公業(こうぎょう)
152年?〜192年?(おそらく戦死)
武勇1智略5運営2魅力2
司隷河南郡出身の、董卓を手玉にとった謀略家。
智略には長けるもひとを見る目がなく、何進・董卓・袁術と時代の負け組を一巡して死んだ。

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