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History Members 三国志編 第26回
「五虎継ぐ若虎たち」

F「泰永、やすながー?」
Y「いきなりそれということは、また演義ネタか?」
F「あれ、気づかれた」
Y「そりゃ三度めだからな」(『私釈』125回・番外編6)
F「むぅ、いい加減パターンか。まぁ大目に見てもらおう。今回は手軽に演義から講釈しようかと思ってな」
Y「俺しかおらんときにどうしてそんなモンやりたがるンだ、お前は」
F「そりゃ、お前にこそ聞かせるべきことだからだろ。えーっと、お題は蜀の二代め武将たちについて」
Y「二代めというと、劉禅か?」
F「その手前だな。関興張苞辺りになる。正史では蜀の関家・張家のいずれも、関羽張飛の死後はほとんど記述がないが、羅貫中は関興・張苞をやたらと活躍させている。演義でのデビューは、関興は74回、張苞は81回」
Y「夷陵の戦闘の前だったか。……関興早くないか?」
F「関羽の北上の途中で、ほとんど名のみ登場してるンだ。成都にいたンだが、関羽が于禁を捕え龐徳を斬ったので、劉備から様子見に派遣された。で、関羽から『ワシらはこれだけの手柄をあげましたぞ!』という報告(という名目の自慢)を持たされて成都に戻ったので、関平とは違って難を逃れた次第だ」
Y「手元にいたらえらいことになったからなぁ。その意味ではいい判断か。トシは?」
F「関興・張苞のいずれも、正史・演義問わず正確な年齢は判らないンだが、演義ではない何かで203年生まれになってたのを見たな。それを信じるならこの219年では16歳になる。まぁ戦場に出られない年齢ではないが、この頃関羽は優勢だった。関平がいたから、関興まで使う必要はないと思ったンだろう」
Y「ために、父には殉じずに済んだと」
F「そうなる。関平は関平で、龐徳に向かって行くも『親父を出せ!』と打ち負かされるンだが。で、その2年後の221年、張飛が暗殺された81回に張苞が出てくる。首級のない張飛の遺体で葬儀を済ませ、呉に向かう劉備の前に、喪服の上から銀の鎧をまとって現れるンだ」
Y「演出というものを意識したンだろうな」
F「父を失った若武者が復讐の軍に加わりましたよ、とやれば嫌でも盛り上がるからな。だが、改めるまでもないが演義の演出過剰はいつものことだった。繰り返すが2年後なのに、関興まで白装束に銀の鎧で現れるンだから」
Y「服喪は3年間じゃなかったか?」
F「演義でそれが通じるようなら、そもそも劉備は軍を起こしておらんと思うぞ。そんなワケで、張苞が呉班とともに先鋒になることになっていたンだが、関興がそれにケチをつけた。どっちを先鋒になるのか揉めだしたので、劉備はふたりに腕を見せるよう命じる」
Y「よせばいいのに」
F「まず張苞が、百歩先に赤い的のある旗を立てさせ、そこに向かって矢を射かける。三射して三射とも命中させた」
Y「たいしたモンだな」
F「というか、正直、張飛が弓を使ったことって記憶にないンだがなぁ? どーにも、そういうモノに頼るのは張飛のイメージに合わないというか、何と云うか」
Y「……意見は認める、うん」
F「関羽も関羽で弓が似あわないイメージはあるがな。関興は張苞を嘲笑って『動かない的に当てたからなんだ!』と呂布をも否定するようなことを云い放ち、ちょうど空を飛んでいた雁の群れに『3番め!』と矢を放った。狙いたがわず、前から三羽めの雁が射落とされる」
Y「水滸伝で、花栄(カエイ)か燕青(エンセイ)が同じことしなかったか?」
F「お前ならちゃんとそれが出るか。ふたりともやってるぞ。弓自慢の花栄は腕を見せる意味でそんな真似をしたンだが、のちに燕青がクロスボウで同じことをしでかすと『俺たち108人の誰かひとりでも欠けちゃ嫌なのに、群れから射落とすなんて非道い!』とバカなことを天魁星がほざいている」
Y「懲りんなぁ」
F「まったくだ。ともあれ、この弓勢に喝采が起こったので、張苞は『だったらかかってこい!』と蛇矛を抜きだす。范彊張達はクビといっしょにコレも持っていかなかったのがある意味不思議だ。云われた関興が『おう、相手になってやらあ!』と朴刀を抜いたので、蜀帝陛下は『お前たち、バカなことはやめろ!』とおほざきになられる」
Y「やらせたのお前だろ」
F「どーして宋江(ソウコウ)といい劉備といいアホな真似をしでかすのか。さらに劉備は『お前たちの父は俺と3人で兄弟の契りを結んだのに、どーしてそんなに仲が悪いの! おじさんそれじゃ心配だよ!』と説教するが」
Y「だから、お前が云うな。仲違いの原因はお前だ」
F「やっぱり今回はアキラがほしかった。というわけで、トシがひとつ上の張苞を兄、関興は弟ということで義兄弟の契りを交わさせる。ちなみに、先鋒は呉班で決定。目を離せないと判断されたのか、関興・張苞はとりあえず本陣付に」
Y「ヒトの和の劉備」
F「としか云いようがないな。このふたりが、夷陵の戦闘でどんな働きをしたのかは先に触れたのでスルーしよう。実は、演義では夷陵のあと、関興・張苞の出番は割と先までない」
Y「おや?」
F「仲達プロデュースの五路侵攻作戦では『ふたりを要所に配して用心させた』とあるだけ。南征でも『いざというときに備えてふたりを残していく』と従軍してないンだ。まぁ予備戦力という扱いでな」
Y「この時点での孔明は、あまりこのふたりに期待していなかったともとれるが」
F「はいそこ、はっきり云わない。ところが、いざ北伐となると趙雲を国内に残して関興・張苞を従軍させると宣言」
Y「南征で何かあったか?」
F「何かと云えるようなことは起こってないと思うンだがなぁ。金環三結を殺して、阿会喃を捕えて……」
Y「捕えて?」
F「……目立ったことしてないな。祝融戦でも木鹿大王戦でも出てくるけど、孔明がいいところを持っていく。兀突骨戦では谷をふさいだだけ。ぅわ、割と衰えが目立ってたのか」
Y「意外にも、野郎もヒトの子だったか」
F「名目としては『南征後に馬超が死んだので、もしものことがあったら蜀軍の士気に関わる』ということなんだがなぁ。いざ北伐の軍が起こると、やはり衰えがあるようで、趙雲は程武(テイブ、程cの子)の計略で魏軍に包囲されている。が、張苞、次いで関興が魏将を討ちとって囲みを破り救い出した」
Y「世代交代を意識する段階か」
F「そうなるな。で、越吉元帥雅丹丞相を相手に死闘を繰り広げ……」
Y「コラ」
F「判った、判った。その辺も先にやってあるからノータッチで。だが、このとき、窮地の関興を関羽が救ったのは注目しておくべきだ。何しろ、関興が谷から落ちると張苞の前に化けて出て、関興を助けに行かせているのに、張苞が谷から落ちても関羽は助けに来なかったンだから」
Y「息子助けてくれた甥っ子なンだから、助けに来てもいいだろうになぁ」
F「それを云うなら親父はどうしたという気もするが、化けて出る張飛というのもイメージに合わんな。張苞が谷から落ちたのは演義の99回、229年のことだ。孔明の裏をかこうとした仲達の策で、蜀軍の後方を扼そうとした郭淮孫礼を、裏の裏をかいた孔明さんが待ち伏せしていたンだけど、功を焦っておっこちた」
Y「意外と親父に似たところもあるじゃないか、気ばかり焦って行動するとは」
F「若い頃の張飛を思い出すな。馬もろとも落ちたモンだから、引き上げると頭が割れている。とりあえず成都に送って養生させるが、ひと月少しすると『張苞が死にました!』と孔明のところに報告が届き、これが直接の原因になって第三次北伐は撤退した。蜀軍の擁する中でも屈指のカードが落ちたことになるが、彼を惜しむ詩を演義は載せている」

悍勇張苞欲建功 ――張苞は勇猛であったため功を焦ったが、
可憐天不助英雄 ――天は彼を惜しまず、英雄を遣わさなかった
武侯涙向西風洒 ――孔明はこのひとのために泣く
爲念無人佐鞠躬 ――命賭けで彼を助けてくれる者はもういない

Y「関興はどうした」
F「羅貫中がこの時点で張苞を退場させたのには、演出の都合に思える。何しろ、張苞が成都送りになった直後、郭淮たちに代わって張郃が前線に出てきて『アレが、張飛と互角に戦った張郃か……』と孔明をうならせているンだ。張苞は張飛に及ばない、よって張郃にも及ばないことになる」
Y「単純な計算だな。戦死されちゃまずいという話か」
F「そゆこと。関平は『親父を出せ!』で済まされたが、張飛亡きいま張郃がそう云うはずもない。斬られちゃまずいから戦わせられない、だが孔明の手札で屈指の武力を誇る張苞を出さないのも不自然だ。というわけで、張郃との対決を前に退場した、と」
Y「オハナシの都合で活躍させられて、オハナシの都合で退場させられるとはなぁ」
F「張苞の退場後、関興は義兄の分も背負っているように張りきって奮戦する。木門道の退却戦では、魏延とともに張郃を誘いだす役割を果たしたくらいだ。ほとんど趙雲の代理として使われている感もある」
Y「こっちの方が強いな」
F「まぁ、張郃には敵わなかったがな。だが羅貫中は、こちらもあっさりと退場させている。234年、北伐に臨む孔明のところに、いきなり『関興が病死しました!』と報告が届いてな」

生死人常理 ――生死はひとの世の常、
蜉蝣一樣空 ――空を往くカゲロウのようなもの
但存忠孝節 ――忠・孝・節度を全うできたのなら、
何必壽喬松 ――長生きできなくてもいいじゃないか

Y「おい、羅貫中はホントに関興を軽んじてないか? 早死にしたから立派だったンだよ、では親が黙ってないだろ」
F「関興が孔明最後の北伐を前に死んだ理由……と考えると、脚本上の都合としか思えない。孔明の臨終に立ち会わせるワケにはいかないンだ。孔明の死後に何をするのか、は正史に準じてひと通りキャスティングが済んでいる。魏延の乱に関して、魏延・楊儀馬岱の行いは正史と演義でほぼ共通しているからな」
Y「関興が入る余地はない、と」
F「だが、関羽の子で趙雲の代理を、そんな一大事で使わないわけにはいかない。となるとその前に退場させることになるが、だからといって戦死させるのはもっとダメ。じゃぁ出陣前に死なせて、孔明に『関興まで死んだ! でも戦わなきゃいけない、可哀想な俺様!』みたいな悲運を背負わせる……という使い方になったようでな」
Y「孔明の悲劇性の引き立て役かよ」
F「かくて、関興と張苞は、羅貫中と読者の『英雄の子がこれでは面白くない!』というワガママで生かされ、演出の都合であっさり死んだ。正史では『早くから評判が高く、孔明に高く評価された』とか『早死にした』としかないンだが、陳寿・羅貫中の両方から無視された陳到に比べればまぁ扱いはいいかな? と思うよ」
Y「よりによって比べる相手がそいつかよ」
F「ところで、ほかの虎の子たちはどうかと見てみよう。黄忠さんの息子の黄叙(コウジョ)は『早死にした』としかなく、演義では70まわってる黄忠の息子では、馬超辺りより年上でもおかしくない計算になる。演義でひと言たりとも触れられていないのは、たぶん、その辺が原因だろう」
Y「否定はしかねるな」
F「その馬超には、張魯に殺された馬秋と、蜀に来てから生まれたと思われる馬承という子、それに劉禅の弟の劉理に嫁いだ娘がいたンだが、陳寿は馬超の子についてほとんど触れていない」
Y「『子の馬承が後を継いだ』としかなかったか」
F「なんだが、馬超本人が死に臨んで『馬一門を受け継ぐ男子は馬岱しかいない』と上奏しているンだ。これを信じると馬承は男ではなかった、つまり、劉理に嫁いだ娘ということになるンだよ」
Y「……おや?」
F「説明がつかないので、僕も馬承についてはスルーする。順番がアレだが、趙雲の息子はふたりで趙統趙広。このふたりは、演義では趙雲が死んだのを知らせに出てきてそのままいなくなっている」
Y「元勲も元勲な趙雲の息子にしては、扱い悪いよな」
F「正史でもそんな扱いだからねェ。兄の趙統は『後を継いで昇進した』、趙広は『姜維に従って沓中で死んだ』としかない。父親がかなりのトシまで働いていたせいで息子たちを出せなかった。それでいて、第二世代は関興・張苞が出張っているから、羅貫中でも活躍させられなかったようでな」
Y「黄叙と似たような事情だ、と」
F「そして、魏延の息子に至っては、正史では魏延とともに逃げて馬岱に斬られた記述があるが、演義では一切触れられていない。名も伝わっていないこの息子を出すのは、演義のあーいう最期では無理だったワケだ」
Y「何と云うか、関興や張苞はまだマシな部類だが、劉禅含めて、父に劣る息子どもしか出てこないな」
F「惜しまれて死んだ英雄たちを息子どもがあっさり超えてしまったら、物語としては問題があるだろうね。往年の英雄たちが次々と退場していき、その息子たちにも先立たれながら戦い続けるからこそ、演義での孔明は称えられるワケだ。必ずしも彼自身が悪かったのではない、環境が悪かったのだ……と」
Y「天のせいにすればそれでいいって問題じゃないと思うがね」
F「続きは次回の講釈で」


関興(かんこう) 字は安国(あんこく)
203年?〜234年(突然病死した。なお、演義での生没年)
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関羽の次男(演義では関平が養子のため長男)。
正史ではほとんど記述がないが、演義では父譲りの武勇で活躍し、あっさり退場する。

張苞(ちょうほう) 字は不明
202年?〜229年(功を焦って谷から落ち、そのまま還らず。なお、演義での生没年)
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張飛の息子(弟と姉妹あり)。
正史ではほとんど記述がないが、演義では父譲りの武勇で活躍し、あっさり退場する。

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