History Members 三国志編 第24回
「蜀を滅ぼしたもの・1」
ヤスの妻「ねーねー、アキラぁ」
A「いや、あの、だから……」
ヤスの妻「義姉さんとお出かけしよーよぉ、ねー」
Y「甘ったれるなー!」
ヤスの妻「ふぇっ!?」
Y「俺でもお前のそんな猫なで声聞き覚えがないわ! ナニをしている、何を」
ヤスの妻「国宝のお仏像が来る予定が、新潟の美術館から長岡に流れたでしょ? だから、アキラと一緒に行く予定を今から入れておこうと」
A2「(ふるふる)……だめ」
ヤスの妻「何年かぶりに御仏と再会したいのー!」
Y「いけません! お父さんに連れて行ってもらいなさい!」
F「僕を指差すな」
A「ヤスが自分で連れていくという選択肢はないのか!?」
三妹「ヤス兄にないのは選択肢じゃなくて甲斐性よ」
M「まったくもっておっしゃる通りなのよねェ」
A2(こくこく)
Y「……ときどき、お前の気持ちが凄まじくよく判る」
F「僕は常時そんな心境だ。市内でやるなら行ってくるつもりだったけど、さすがに長岡まで行く気にはならんからなぁ。どーするのかはまた今度考える。では、今回は『蜀を滅ぼしたもの・1』でケ艾(トウガイ)について」
Y「2か3で姜維についてやるンだな、判ります」
A「判ってないだろ!」
Y「この点については声を大にして云おう、蜀を滅ぼした犯人リストに姜維が加わっていないと考える方が判っていない。あの男には蜀滅亡に関する責任の4割は求められる。少なくとも、蜀側の軍事的責任のすべてを、だ」
A「……おい、ケ艾やめて姜維やろう」
F「落ちついてるのはいいが、頭に血がのぼってるな」
ヤスの妻「そういうときはぁ、別のところに血を集めればいいと思うなー♪」
Y「お前も、俺の前でそういうことを口にするな!」
ヤスの妻「とこのよーに、うちのヤスは意外とウブなのです」
A2「(くすっ)……見かけによらない」
Y「女房に笑われるのは死ぬほど慣れてるが、お前にまで笑われたくないぞ、あー子!」
F「もう始めるぞー。突然ですが、ここで問題です。ケ艾の墓はどこにあるでしょう」
A「へ?」
Y「……出自は荊州だと記憶しているが」
ヤスの妻「お墓だっけ?」
F「墓もあります」
A「どこに?」
F「剣閣」
A「……相手がお前じゃなきゃ『嘘だ!』って叫ぶところなんだが」
F「僕は、ジョークは云うけど嘘はつかんぞ。現在の地名で云えば四川省剣閣県の北方10キロほどの山中にケ艾廟というのがあったンだ。廟の中にはケ艾と息子の塑像が安置されていて、裏手には『魏征西将軍ケ艾墓』という碑が立っていたらしい。1921年に再建されたのに、文革でバカな農民どもが壊しやがった。ために、僕も現場には行ったことがない」
A「その石碑が墓だったワケか……」
Y「何でそんなところに墓がある? いや、剣閣で姜維と直接戦ったのは鍾会(ショウカイ)であって、コイツじゃないが」
F「実は、唐代の建立なんだ。正史の記述によれば、ケ艾は綿竹の西で田続(デンゾク、田疇の後継者)に追いつかれ、斬られている。まぁ、諸葛瞻(ショカツセン、孔明の息子)を討ち取った綿竹関に作るワケにはいかんだろう。鍾会へのあてこすりよろしく剣閣に葬ったのか、それとも勘違いでもあったのか」
A「唐代では勘違いも起こるか」
F「ケ艾廟そのものは他にもあったらしいが、墓が蜀にある、その点が問題でな。蜀を滅ぼしておきながら蜀の国内に墓を建てられたというのは、蜀の民に対して何らかの行いをなしていたということになる」
Y「何も関係がなかったら、廟は作らんだろうし、墓は残さんだろうな」
F「呉には顔良を祀る廟があったらしいけどな。ケ艾がいかにして姜維と戦い、いかにして蜀を滅ぼしたのか、は割と時間をかけてしっかり触れた。そこで、今回は別方面からのアプローチ。民政官としてのケ艾をみてみたい」
A「またへんなこと云いだすね、この雪男は……」
F「さっき出たが、出自は荊州だ。208年に曹操が荊州を攻略すると汝南(じょなん、豫州)に移住して、畜産に従事している。生年の明記がないのは以前触れているが、このあとで母とともに穎川(えいせん、豫州)に移住していて、これが12歳のとき。まぁ、190年代の生まれと考えてよさそうだ」
A「曹操からすると子供の世代だね」
F「曹操と面識があったとは思えんがな。曹操が荊州入りすると汝南に移住したからには、劉表に仕えていたということではなくて、移住させられる立場の農民だったと考えていい。畜産だから、正確には農民ではなく牧人だが」
Y「身分としては下位カーストだったと」
F「さらに云えば当人は、ケ一族の中でも低い地位にあった。穎川で『文は世の範たり、行いは士の則たり』と書かれた碑文を読んで、元服してケ範、字を士則と名乗ったところ、一族で同じ名をつけた者が出たので、ケ艾、字は士載と変えている。同族でも年少と思われる者に名を譲ったからには、そちらのが家格は上だったと考えられるワケだ」
A「下級民の家の、さらに低い家柄だった、と」
F「それだけに、出世したいという意欲、ぶっちゃけ野心は強かった。正史の注では12か13のとき、すでに襄陽(じょうよう、荊州治所)で典農部民をしていたことになっているが、上記事情を考えるとちょっと信じがたい。陳寿の記した通り、官職に就こうとしたが吃音を理由に採用されず、ドサ周りの下っ端役人になった……というのが正しいだろう」
A「いいことを聞いたとつけた名前を横取りされるようでは、利発でも発言力はなかったと考えてよさそうだしなぁ」
云われた奴「世の中には『お前が得た地位に俺がついてやる』と口にするバカがいるが、ケ範なる武将は正史に記述はない。名を横取りするようならそーいう真似もしでかしていておかしくないンだが、さすがにそこまではやらなかったのか、それともケ艾も相手にしなかったのか」
A「……ごめん、なんだって?」
最初から相手にしなかった奴「だから、ヒトが苦労して地位なり役職なりを得たと聞くと、十年以上会ってもいなかったのに『お前が得た地位に俺がついてやる、ありがとうございますと頭を下げろ』と云いだすバカがいるンだ。相手にしないなら、最初の名の時点からケ艾は相手にするべきではなかったンだがな」
A「……そいつ、本気?」
F「本気で、僕から強請りとれると思って来たみたいだったな。もっとも、兄を正気だと思ったことは、生まれてこの方一度もないが。まぁ実体験はともかく、ケ艾はつかんだ役職に専念した。稲田守叢草吏というのが彼の就いた役職だが、要するに、どこに農地を拓いて何を植えるのかを調査するものでな」
Y「適材適所の語源か?」
A「あまりにもケ艾にぴったりなお役目だな、オイ……」
F「うん。農地や水路をどう開拓するのか、その基礎的なものを見極めるお仕事だからね。どこに農地をつくるか、どこに水を引くか……を、長江や淮水の流域各地をまわって実際に見聞して歩いたらしい。それでいて、その頃から、山や湿地を見るとどこに陣地を敷くかを考え、測量して地図に起こしていたが」
A「将来、自分が軍を率いたときのことを、その頃から考えていたワケか」
F「当然だが『なんだ、下っ端のくせに生意気な』と笑われていたがな。燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんやとは云うが、この鳳の志を知ったのが司馬仲達だった。昇進して、当時太尉だった仲達のところに使者に出されると、面会した仲達はケ艾を高く評価して副官に取り立て、尚書郎に昇進させている」
Y「かくて中原に放たれた、か」
F「徐邈(ジョバク)が雍州の塩池を整備したのは前回触れたが、仲達は仲達で、233年に堤防を整備して雍州の食糧増産に貢献しているンだ。そんな経験があったため『呉・蜀を討つ国力の基礎をつくるため、農地を拡大して穀物を蓄えよう』という計画が立てられている。で、ケ艾が整備を担当したのは淮水流域」
A「えーっと、中原の東側だね」
Y「劉馥は、揚州の北部を整備したンだったか」
F「うん、そのさらに北の辺りになる。豫州の陳・汝南郡の灌漑施設を整備して、水運を整えた。そのうえで、淮水の北では2万、南では3万の兵を配備し、交代で8割に屯田を行わせ、2割は休息させた。このプランにケ艾は自信を持っていて『水源が確保されていれば西(仲達が整備した雍州)の3倍は収穫できます』と豪語している」
A「お前、それ云いすぎ!」
F「実際に3倍だったのかは雍州の収穫高が今ひとつ釈然としないので判断できんが、『毎年500万石、6年か7年あれば3000万石は収穫できる』と試算している。ただし、本人の云うように、前提条件として『良質の土地であっても、水が少なければ収穫は得られない』ので、水利が整っていなければならない」
A「淮水を治水しようと?」
F「それもあるが、それ以上のことを考えていた。淮水から長江にかけて運河を拓こうとしたンだ。ただの水路でも充分収穫は得られるはずなのに、軍隊輸送にも使える運河を整備しようとした。船を使えば、大量の兵員を陸路より早く安く、疲労も少なく移動させることができるからな。いいことづくめだ」
かなり船酔う「船酔いさえ考えなければの話だがな」
F「酒だけでなく船にも弱いからな、お前は。もちろん、人工の運河であるからには、ちゃんと水が流れるかどうか、本流が大水に見舞われたとき堤防が決壊しないか、土砂堆積などのメンテナンスは大丈夫か、などなど問題点がある。ケ艾はそれでもやるべきだと云い切り、仲達もそこまで挑戦的な上奏をされてはGoサインを出さないわけにはいかなかった」
A「で、実際に開通した?」
F「241年のことだった。これにより、王淩(オウリョウ)・毌丘倹(カンキュウケン)・諸葛誕(ショカツタン)という三度の挙兵劇を鎮圧すべく兵を動かす場合は、この運河を使って兵を動かしたとある。呉との戦闘にも貢献したのはいうまでもないだろうな」
Y「この男、土木だけでなく水運にも通じているよな。いつだったか、蜀軍の脅威点のひとつに『船で移動できること』をあげていたかと思うが」
F「うん、そういう水陸両用な辺りが、東方でのディフェンスに貢献し、西方軍主将に栄転することにつながったンだと思う。蜀軍との対決では水利ではなく土木面での才覚を発揮し、演義での話ではあるが姜維に『何で丞相が敵にいる!?』と云わせるほどの堅陣を敷いているからな」
A「何気に演義で厚遇されているひとり、じゃったね」
Y「実史での鉄壁ぶりも周知の通りだしなぁ」
F「だな。蜀に攻め入る前、涼州を張っていた頃なんだが、蜀への備えだけでなく西羌対策として、長城を修復して防御を固められるようにしていたンだ。蜀攻略に自分の動員できる限りの兵を連れ出すワケだから、防御が弱体化している隙に西羌が何かする危険性があった。そのための抑えだったンだが、時代が晋になってから羌族が猛威をふるい、胡烈(コレツ)・牽弘(ケンコウ)・楊欣(ヨウキン)が次々と討ち死にしていく中で、民衆はケ艾のつくった砦に逃げ込んで安全を保ったともある」
Y「蜀への侵攻が263年で、涼州陥落が279年だったか。16年経つまで劣化しなかったことになるな」
A「凄ェな!?」
F「ホントに、この時代きってのテクノクラートだったワケだ。だが、周知の通り、終わりはまっとうしていない。蜀を攻略した功績から太尉に任じる詔勅が下されると、やっちまった」
「蜀を平定した勢いに乗って呉を攻めると喧伝すれば、呉の民は震えあがるでしょう。いまこそが呉を席巻する好機です。しかしながら、蜀攻略戦の直後で兵は疲労しており、すぐには動かせません。今は4万の兵だけ残して、残りは労役に充てましょう。同時に船を用意して呉に攻め入る準備とします。そのあとで使者を派遣すれば、征伐を行わなくても呉は降伏するはずです。劉禅を手厚く遇して孫休を、蜀の民を安んじて呉の民を誘惑するのです。恩寵を呉に見せつけて彼らの帰服を待てば、来年の秋か冬までには平定できるはずです」
Y「下々から成りあがったせいで増長してしまった、と」
F「そゆこと。衛瓘(エイカン)を通じて司馬昭から『とりあえず落ちつけ。あと、勝手なことをするな』という書状が届くと、なんかカチンと来たようで『戦場に出たからには、国家に利益をもたらせるなら専断してもいいことになっておりますぞ!』と、許可がなくても呉を攻めると云わんばかりの上奏をしているンだ」
A「……やらせてみたら面白いことになっていたかもなぁ」
F「だが、鍾会には鍾会の、姜維には姜維の、そして司馬昭には司馬昭の考えがあったため、ケ艾は『アイツは叛逆しました!』と誣告され、結局綿竹で殺害されている。ケ艾の何がまずかったのかは、267年に段灼(ダンシャク)という人物が司馬炎に上奏した文書にはっきり書いてあってな」
「ケ艾の野郎は強情でせっかちで、名士であれ俗人であれ相手の気持ちを軽々しく踏みにじり、同僚の武将と協調することができませんでした。蜀を攻略したというのに刑を受けたのは、叛逆したからではなく、誰も彼を弁護しなかったからです。あっしはそれが残念でなりません」
A「殺されても無理はない、って云ってないか?」
Y「おかしいな。俺が読んだときはもう少しマシな文章だった気がするが、大筋では何も違わないぞ?」
F「僕は『王毌丘諸葛ケ鍾伝』を魏の叛臣列伝と称しているが、そうではなく『粛清列伝じゃないか』というご意見をいただいている。だから夏侯覇はいなかった、というご意見なんだが、ケ艾に関してはそうだと認めるところだ。アレは、鍾会と司馬昭に危険視されて殺された」
ヤスの妻「立ち位置の違いじゃないかな。えーじろは司馬昭の王権を認めてるから叛臣列伝でいいけど、そうじゃないひとの目から見れば、確かに、司馬一族に粛清された皆さんの列伝だよ」
F「……えーじろやめろ。そりゃそうですね。ただ、『私釈』の158回と179回で触れた通り、どこかで司馬一族がコケていても、ケ艾はこの列伝に加わっていたはずですよ。主をないがしろにして天下統一を成し遂げかねない男なんて、主にしてみれば生かしておけるはずがない」
A「まぁ、どっかで切り捨てられていたか」
F「切れすぎる刃は持ち主を傷つける、という危機感は、あらゆる時代の君主に共通していた。ケ艾が幸せな老後を送るには、いつか云ったように『司馬宣王の配下にケ艾という地図職人がいた』という程度の出世で満足していればよかった。だが、彼はあまりに有能だった」
Y「悲劇だな」
F「いちおう、こんな評価も正史の注には引かれている」
「孔明は慎重だった。それなのにたびたび兵を動かしたのは、蜀のような小さな国は、現状に安定していると長く存続できないことを知っていたからだ。魏は一戦で蜀を滅ぼしたが、征伐というものがこれほどうまくいったことは過去に例がない。ケ艾が山越えを決行し、鍾会は20万の兵で剣閣に足止めされていたとき、魏の兵はすでに飢えていた。もし劉禅が数日降伏しないでいれば、ケ・鍾は生きて帰ることも困難だっただろう。功業を成し遂げるのはそれほど難しいことなのだ。先に諸葛誕討伐戦があり、この蜀攻略戦がおこって、民衆は疲れ果て倉庫は空になった。小国は勲功を立てるべきときに勲功を立てて自国を存立させることを配慮し、大国は勝利して余力がなくなることに心を配るものである。成功のあとにこそ、自戒と危惧を抱かねばならない」
A「……ケ艾がどうして殺されたのか、がはっきり判る文章だね」
Y「要するに、ケ艾は孔明に及ばなかったということか」
F「そして、この文章の基準に当てはめるなら、司馬昭もまた慎重だったと評されてよさそうだ」
ヤスの妻「積極的には否定しないンだけど、このヒト、司馬昭を高く評価しすぎだよ」
F「あっはは。ところで、幕末当時、幕府方の船が座礁して多くの死体が浜辺に打ち上げられたのに、新政府ににらまれるのを恐れて誰も手を出そうとしなかった。ところが清水の大親分は『仏さんに敵も味方もあるかい!』と、その死体を埋葬している」
Y「千年以上飛んだぞ」
A「つーか、新撰組はダメで清水次郎長はいいって何なんだ?」
F「ケ艾が、魏兵も蜀兵も関係なく京観にしたのは覚えてるか?」
A「……あ」
F「お仲間が死んだ負け犬と同じく葬られたことは、生き残った魏兵の心を失った原因のひとつに数えていいが、蜀の民は『ひょっとして、あのヒト立派なんじゃね?』という考えを抱きかねない。何しろ、負け犬なのに勝者と同じ場所に葬られたンだから。また、劉禅を殺さないよう手配したのはそもそもケ艾だ」
A「……蜀の民に、ある程度気を使ったように見えるンだな」
F「結果としては、だがな。ケ艾にもケ艾の考え、つまり呉攻略のための前線基地としての役割を期待して、蜀の民心を得ようとしてのことだった。その考えはきちんと通じたように思える。ケ艾が死に劉禅が死んでも、蜀では晋への叛乱が起こらなかった、というのは何度も云ってきた通りだ」
Y「だから、蜀にケ艾の墓があった……か。劉禅がケ艾に降ったのは、間違いではなかったようだな」
A「惜しんでいいひとなんだよな、やっぱり」
F「続きは次回の講釈で」
ケ艾(とうがい) 字は士載(しさい)
?〜264年(益州動乱のどさくさで処刑された)
武勇5智略3運営6魅力2
荊州義陽郡出身の、蜀を攻略し太尉まで成りあがった羊飼い。
才はあったが下々の出身だったため、本人は増長し周囲からは疎まれ、それが原因で死んだ。