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History Members 三国志編 第23回
「輝け三国志盃争奪ざっつノンダクレグランプリ曹魏代表(国内5位)」

 禁酒法時代。
 保安官が夜間パトロールをしていると、変わり者で有名なモスコビッツじいさんがある民家の前で酔っぱらっていた。その民家は、こっそり酒を販売しているという噂だったが、今のところはお目こぼしされている。
 波風立てるつもりはなかったが10月も末、放ってもおけず保安官は声をかけた。
「じいさん、そんなところでナニをしているンだい?」
 じいさん、にっこり答えたね。
「はい、看板をしております」

A「アメリカンジョークって笑えないのと笑うしかないのと、両極端だからなぁ」
F「角川が昔出してた『ポケット・ジョーク』再版されないかなぁ。全巻持ってるけど」
Y「それでこのセンスだから、笑えないと云ってるンだろうが」
F「この世は全て絵空事。さて、今週は僕の都合でほとんど準備できなかったので、軽めのメニューで」
A「魏のノンダクレねェ……誰?」
F「徐邈(ジョバク)という。魏書では胡質(コシツ)や王基(オウキ)・王昶(オウチョウ)らと同じ巻に収録されていると云えば、どの時代の人物か、だいたい想像はつくと思うが」
A「魏の後期の人物か」
F「が、その想像を覆される人物でもある。249年に78歳で亡くなっているので、生年は172年(数え年)。うちの年表で云えば郭嘉辺りとたいして違わない年代でな」
A「……割と長生きなのか」
F「だね。曹操から曹芳くんまでの四代に仕えた人物で、民政面ではある程度の重鎮だったと考えていい人物だ。出自は幽州で、曹操が北方を平定すると召し出されたとあるが、その間なにをしていたのかに関する記述は何もない」
Y「経緯だけで考えるならコーソンを経て袁家に仕えていてもおかしくないな」
A「その前に劉虞がいてもいいけどね」
F「曹操は彼を召し出すと地方都市の令を任せているから、いちおう統治の才覚はあると事前情報があったと考えていいようでな。その三家のどこかにはいたンだろう。で、ちゃんと功をあげたようで、中央に戻して役職につけ、魏が建国されると尚書郎になっている」
A「いちおう、順調に昇進してるな」
F「ところが、ここでノンダクレイベント発生。当時、魏では禁酒法が施行されていたというのに、このオッサンはこっそり酒を呑んで酔い潰れていた」
A「こっそりって酒量か、それ」
Y「弱い奴は匂いだけでも潰れるぞ。潰れるくらい呑んだとしても、それが量に比例するとは限らん」
F「周りから云わせると、いちばん厄介なのは、呑めないくせに呑み続ける奴なんだが」
呑み続ける奴「……むしろ、何で禁酒法なんか出すのかが問題じゃないか? ヒトの欲望に直結する話だけに」
F「漢王朝では、酒は基本的に専売されていた。のだが、呑みたがる奴はどこにでもいるし、相場としては、同じ量の穀物の十倍という値段でな。戦乱の時代のせいで穀物(に、限らないが)の生産量は減っているし、反比例して需要は増えている。それなのに、酒は儲かるから……と密造が絶えなかった」
A「だから禁止した、か」
F「そゆこと。で、趙達(チョウタツ)……と云っても呉の予言者ではなく、魏で諸将の監察役だった人物が、そんな徐邈のところにも監察に来た。というか、酔っぱらっているのを観察して『……お前、ナニしとんね』と問えば、オッサンにっこり答えたね『うん、聖人にあたってね』」
A「聖人?」
F「隠語でな。清酒を聖人、濁り酒を賢人と呼んでいたンだ。趙達からそれを聞いた曹操が腹を立て……た理由は明記がないが、これが禁酒法に違反したからか、それとも『酒の中にしか聖人はおらんとでも云うか!』という怒りかは定かではない。とにかく処罰しようとする」
A「まぁ、飲酒運転は死刑でいいって本気で思うから、処罰はするべきだよな」
F「ところが、度遼将軍の鮮于輔(センウホ)が『アイツは慎み深い性格で、たまたま酔っぱらっていただけです!』とフォローしている。名称からして北方圏に関連した役職だと思うから、やはりその頃からの知己と考えてよさそうでな。徐邈は法で裁かれたものの処罰はナシ、ということになった」
A「呑み助同士でかばいあったか」
Y「こらこら」
F「曹操からの受けは良かったようだが、それが徐邈なのか鮮于輔なのかは判断しかねる。ともあれ、徐邈は曹操時代、地方の太守を転任し、曹丕が帝位に就くと、魏の五大都市のひとつ……なんだけど、他のよっつに比べるとちょっと影が薄い(しょう)の大臣を任されたりしている」
A「他のよっつって?」
Y「洛陽長安許昌(ぎょう)、だったよな」
F「だと思った。その後も各地の太守を歴任し、功績をあげて評価を得て、爵位を受けている。そんなある日、曹丕の悪い癖が出た。許昌を訪れた折だが、徐邈に『相変わらず聖人にあたっているのか?』とはっきり尋ねたンだ」
A「この二代めは、ホントに性格が……」
F「対する徐邈の返事が奮っていた」

「春秋の昔、酔い潰れて戦争に敗れたり、酒の席での暴言が理由で税が倍増された者がおりました。臣はそのふたりと同じ趣味(飲酒)を持っておりまして、性懲りなくときどきコレにあたっております。しかし、年を経たこぶは醜と知られますが、臣は酔と知られておりますな」

Y「?」
F「このエピソードにはちょっとした漢語の知識が必要でな、酒と醜は同じChouという発音なんだ。嫌味にジョークで応えた機転に、曹丕は『評判というものは勝手にうまれるものではないなぁ』と笑って、徐邈を昇進させている」
A「確かに、機転は利くみたいじゃね」
F「そんな徐邈が、どんな統治をしていたのか……が、正史にはちゃんと書いてあってな。明帝曹叡の時代、涼州は蜀に面し、西羌が多く居住していたため、何かと物騒だった。そこで、治安維持のために送り込まれた涼州刺史が徐邈だった」
A「かなり厄介な任務じゃね?」
F「その通り。何しろ、徐邈が赴任したのが孔明の北伐が始まる直前でな。着任すると隴右の三郡が蜀に呼応するという変事が発生している。曹真張郃がこれを退けるのに尽力したのは周知の通りだが、徐邈も刺史として部下を動員し、蜀軍撃退に協力した」
Y「まぁ、やらんとな」
F「で、見ていくのは戦後の復興事業だ。この年ちょうど雨が少なく、蜀軍の進攻もあって食糧は不足していた。そこで徐邈は、雍州の塩池を修理して収穫できるようにする一方、被害の少なかった外地(異民族居住区)でひとまず穀物を収穫させている」
A「西羌、怒らないか?」
F「手は打ってあるンだ。反発した西羌の柯吾(カゴ)という族長を血祭りにあげて、魏に逆らうとどうなるのかの見せしめにしている。それでいて、他の部族には温厚な宥和策を取った。羌族が罪を犯した場合、小さな罪なら見逃し、大罪でもまず族長にことを諮問して、死刑に同意したらやっと殺す、という措置を行っている」
Y「厳しいが、厳しいだけではないと」
F「柯吾こそいい面の皮だが、西羌の諸部族は徐邈を信頼して、魏の威光に服従している。西方を安定させクシャーナやペルシアとの交易が行えるようになったのは徐邈の勲功と明記があり、建威将軍・都亭侯となって領土を賜っているが、徐邈は部下の将兵に恩賜を分け与えている」
A「……かなり立派な人物だなぁ」
F「さらに、農地を開墾して、貧民を集め耕作させている。同郷の李敏(リビン)が妻を娶らないでいると『子孫がいないのは親不孝の最たるものだ!』と怒鳴りつけたというエピソードがあるから、多産を奨励したとも考えられ、生産力は向上。これによって涼州各地で飢える者はなくなり、州の倉庫には食糧が満載された」
A「手際がいいなぁ」
F「徐邈はこれでよしとしないで、州兵の軍用米を確保すると、残りを放出して絹や馬などの軍需物資を買い込み『蜀との戦闘に使ってください』と長安に送りこんでいる。これが、曹真の助けになったのは考えるまでもない」
Y「一州のみならず、戦略規模での判断と措置のとれる男か」
F「そんな具合に、民衆にやさしかったのは事実だが、優しいだけではなくてな。民が持っていた武器を没収して、蜀軍がまた来ても加担しないよう手も打っているンだ。いざ戦闘になったらそれを使えばいいから一石二鳥という奴だな」
Y「第二次以降の北伐で、涼州が脅かされても第一次ほどの叛乱が起こらなかった、直接的な理由を求めてよさそうだな。このレベルの民政官が涼州にいては、孔明では歯が立たん」
A「ぐむぬぬぬっ……!」
F「治政は仁義を基本とし、学校を立てて訓戒を明らかにした。手厚い葬儀やヨコシマな祭礼は禁止している。かくて徳は大いに広がり、民衆の支持を得たとある。北伐の始まった227年に涼州刺史となった徐邈が、中央に戻ったのは240年のこと。結局、孔明は徐邈に勝てなかった、という見方さえできてな」
A「蜀の出口にこんな奴配置されたら、そりゃ北伐がうまくいかんわ……」
Y「人材の質と量が蜀とはかけ離れてるからなぁ」
F「そーいうことだ。で、大司農・司隷校尉に昇進しているが、やはり切れすぎる人物は疎まれるのが世の常でな。百官は彼を敬いはばかったが、公的な事件で官を去ったとある。どんな事件かは本人の伝にも曹芳伝(曹叡は239年に崩御)にもないンだが、劉放伝の注には満寵とともに讒言されたとの記述がある」
A「お約束の『残念な老後を過ごしました』かな?」
Y「やはり曹芳の代となると、魏というよりは晋に近いからなぁ。曹操の頃からの男が生きていくには、何かと軋轢の絶えない時代だったと考えていいだろう」
F「いちおう、それまでの功績を認められて三公に次ぐ特別職につけられ、数年後には司空に任じられる辞令が出ている。ところが、本人は『三公は道義を論じる官職なのだから、しかるべき人材がいなければ空けておけばいい。年寄りをそんな座につけて何になる』と固辞している。こっちはちゃんと曹芳伝にも明記があってな」
A「ちゃんとお断りしました、と書いてあるワケか」
F「最初に云ったが249年、78歳で亡くなっているが、当時すでに公職から引退していた徐邈を、曹芳は三公扱いで葬っている。あるいは仲達の意志かもしれんが、いずれにせよ高く評価されていたのがうかがえるな。陳寿も、高齢でありながら地位と役職を保った韓曁(カンキ)・高柔(コウジュウ)を『その点では徐邈や常林(ジョウリン)に劣る』としているンだから」
Y「功成り名遂げて身を引く、を実践したワケだからな。高くも評価するだろう」
F「ところで、と云おうか。さっき云ったが恩賜は将兵に分け与えたので、私財は家になく、妻子は衣食に事欠いている。ために、朝廷は必要に応じて彼の家に直接、物資を支給していた」
A「民は飢えさせなくても、家族は飢えさせたのかよ……」
F「そんな徐邈について盧欽(ロキン)という人物が、著書でこう評している」

「徐公(徐邈)は高邁だが偏狭ではない。清潔だが頑固ではない。博大だが簡約だ。勇猛だが寛容だ。聖人は清廉であることが難しいというが、徐公には難しいことではなかった」

A「人格者だった、と?」
F「だが、この盧欽にあるひと(とあり、誰かは不明)が尋ねている」

「徐公は、武帝(曹操)の時代には洒脱とされ、涼州にいたころと都に戻ってからは狷介とされたのはなぜだろうな」
「武帝の時代では毛玠(モウカイ)や崔琰(サイヨウ)が人事を握って、清廉の士を尊重した。ために、人々は装いを改めて高い評価を得たが、徐公は平素の態度を改めなかったので、ひとから洒脱と思われたのだ。近年来、天下は奢侈が過度で、人々は互いに行いを模倣しあったが、徐公は平素の態度を取り続け、俗人に同調しなかった。それゆえに、かつての洒脱はいまの狷介となったのだ。世人の風潮は移り変わりやすく、徐公はまっすぐだった。そういうことさ」

F「周りに同調しなかったので狷介と誣告され身を引いた、というわけだ」
A「いや、狷介そのものじゃないか? 頑なに自分の生き様を貫こうとして、貫いた」
Y「清酒を聖人と呼んだのは間違いではなさそうだ。この漢が酒だったなら、一片の濁りもない酒だろうよ」
F「というわけで、酒を呑んで酒に呑まれても世間の荒波には呑まれまいとした不器用な聖人は、名を全うして世を去った。その死から5年後に、曹芳から田豫(デンヨ)・胡質と並んで『四代にわたって魏に仕え、外では兵を率い、中では政務を執った。忠義と清廉さは高く評価すべきである』と行賞され、遺族には穀物だけでも二千石が送られている」
A「喜んだだろうねェ」
Y「曹丕なら、穀物じゃなくて酒を送っただろうけどな」
F「続きは次回の講釈で」


徐邈(じょばく) 字は景山(けいざん)
172年〜249年(78歳での大往生)
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幽州薊出身の、陰から孔明の北伐を退けた涼州刺史。
後年の魏を支えた文臣で、まっすぐな人格ゆえに宮中では疎まれたが、人格と能力は高く評価されていた。

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