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History Members 三国志編 第21回
「ひとりの二張」

「白人よ、アメリカを愛せ。愛さないなら返せ」
 ――ネイティブアメリカンのスローガン

F「そういえば、きょうのお昼に、へんな電話がかかってきてね」
M「あぁ、珍しく1分越えたという」
A「1分?」
F「僕が電話に出たら『いいお仕事をしませんか』という勧誘を始めてな。黙っていたらなんかキレた」
A「? どういう状況?」
F「だから、返事もしないで黙っていたンだよ。普段のセールスなら30秒ともたずに向こうから切るけど、きょうの奴は何か偉そうで『返事をしろ、その態度はなんだ!』って騒いでた」
Y「セールスや勧誘には無言電話で対応するンだよ、コイツ。小学校当時にいたずら電話が頻繁にかかってきていたから身についた知恵でな」
A「聞いてないワケじゃないンだな」
F「うん、聞いてはいるよ。返事も相手もしないけど。普段なら30秒とかけずに切られるけど、きょうのはなかなか長引いてた。ちなみに小学生当時、5分くらい互いに無言でいたら『なにしてるの!』って向こうで怒られる声が聞こえて切れた、なんてことがあった」
三妹「ちなみに、犯人は当時アタシのクラスだった奴ね。コイツへのいたずら電話は下級生が交代でやることになってたから」
F「実害はなかったから無視してたがな」
A「……まぁ、勧誘の電話ならマトモに応対しなくても問題はないか」
F「気にかける理由は僕の側にはないよ。まぁ、それはさておき。今回は呉の二張から張紘(チョウコウ)についてのオハナシ」
A「二張の地味な方じゃね。呉のご意見番としてあとあとまで君臨する張昭に対し、途中退場するだけあって、優秀でも存在感では劣るンだよな」
Y「ネタ振り御苦労」
A「この野郎」
F「まぁ落ちつけ。出自は徐州広陵郡(こうりょう)で、若い頃は洛陽まで遊学に出ている。その辺りの明記はないが、割と裕福なおうちだったと推察できるな。で、故郷に戻った頃にはすでに名声を得ていて、茂才に推挙されると、大将軍の何進・太尉の朱儁・司空の荀爽から、自分の役所に仕えるよう誘いを受けている」
A「大将軍と三公のふたつか。おそろしく評価されてないか?」
F「そうだな。だが、その面子が健在ということは黄巾の乱のどさくさな時代ということだ。ために張紘は、一家で長江を渡り戦乱を逃れている。ただ、性格よりは性質的に合いそうな劉表治める荊州ではなく、なぜか揚州だったが」
Y「その時代だと、また荊州は治まってないンじゃないか?」
F「時期的にそうとも考えられるか……うん。で、近い方に行ったと。それから数年後にやってきたのが、一族をあげて仕えることになる孫家の若大将、孫策だった」
A「まだ小覇王たりえなかったころの孫策じゃね」
F「演義では『孫策自ら訪れたために仕えた』としかないが、正史ではもう少し詳しい。なぜ羅貫中が詳細な記述をしなかったのか、は割と明らかで、当時張紘は母が亡くなっての喪中だったンだ。にもかかわらず孫策は『江東を制するにはあなたが必要なのです!』と口説き落としている」
Y「礼にも孝にも反する行いを、孫権ならまだしも孫策にはさせられんか」
F「正史での孫策は『爽やかなこん畜生』だが、演義では小覇王としての人格を演出するため、項羽のようにある程度以上儒教を重んじる姿勢を見せる必要があったワケだ。ために『母の喪に服すワタシを戦乱に巻き込もうとしないでください』と云われても『それが何度も来た俺への態度か!』と怒る姿は描写できなかった」
A「怒ったのか?」
F「母の喪に服している張紘のところへしばしば訪れ、天下の情勢を尋ねたが、張紘が答えを渋ると『アンタの高名さは知れ渡っているンだから、これから俺がどうしたらいいか、どうして教えてくれないンだ!』と逆ギレそのものの脅迫をしているンだ」
Y「勝手に乗り込んできておいてキレるのは、どうかとしか思えんな」
三妹「そういう連中って少なくないわよ。呼ばれてもいない結婚式に乗り込んできて『新郎の家族を呼ばんとは何だ!』って騒いだ連中もいるンだから」
M「ワタシも云われたわよ、それ。もっとも、こっちはそもそも式なんて挙げなかったけど」
F「まぁ、実際にンなことがあった身として、このときの張紘の迷惑気分は実感してあるからなぁ」
A「……孝とか礼とかをさしおいても迷惑だって気持ちと理屈は判った」
F「ただ、孫策はうまくやった。鼻水たらして誠心誠意説得したところ張紘も折れて『まずは江南に勢力の基礎を得られなさい。そうしたら、知人を引き連れて配下に加わりますよ』と応じている。これが194年ごろのことで、孫策が江東に自前の勢力を築いたのはそのあとになる」
A「張紘はそれまで配下とはなっていなかった、と」
F「正史孫策伝の注には『アンタに母と弟を預ければ、俺には後顧の憂いはないね!』と孫策が喜んだ記述がある。二張については『片方を戦場に連れていき、もう片方には留守を任せた』ともあるが、その辺のシステムはこの頃から確立されていた感があるな。正式な配下ではなかったものの、孫策の留守と家族を守っていたワケだ」
Y「それくらい信用されていたのか」
F「で、孫策が劉繇(リュウヨウ)・厳白虎王朗(生存)らを討って江東を得ると、張紘は孫策の下についている。何進や荀爽の誘いを跳ねのけて野にあった張紘が配下になった、という事実は孫策の声望を高めるのにもひと役買ったワケだ」
Y「朱儁辺りは『俺に仕えなかったくせに、孫堅の倅に仕えるとはなんだ!』とか怒りそうだがな」
A「あー、もと上官」
F「195年に死んでるから、ぎりぎり怒れないと思うぞ。196年くらいのオハナシだから。怒ったのは、ちょうどこの頃劉備を討って徐州を得た呂布だった。さっき云ったが張紘は徐州の出自だ。なのに、故郷の州に仕えないのはけしからん! と『孫策よ、張紘を返せ』という書状を送ってきた」
A「返せも何も、お前のモンじゃないだろ!」
F「その通り。ために、孫策は『楚で生まれたからと云って、故郷でしか働けないなんてアホなことがあるかい』と返書を送りつけている。張紘本人も呂布を嫌っていたとあり、結局……というかもちろん、この話は流れた」
Y「呂布に仕えていても、呂布ではもてあましただろうな」
F「たぶんね。ただ、孫策としても張紘を使いこなせていたとは云いにくい。あるとき、戦場に張紘を連れて出た孫策は、自ら陣頭に立って攻撃をしかけようとした。それを『軍の指揮官が軽々しい行いをしでかし、万一のことがあったらどうしますか!』といさめている」
A「そりゃ、いさめないとな」
F「そして、このあと張紘は、曹操のところに使者として出されているンだ。正史からいったん注を外して並べ直すと『孫策をいさめたら外に出された』という順番になっているのが判る。なにしろ、陳寿本人は裴松之の注なんて知らないンだから、張紘に対する孫策の心変わりがはっきり判る書き方をしているンだ」
A「あらら……」
F「これが199年のこと。何しに行ったかと云えば、この年に死んだ袁術の部下の劉勲が、荊州に逃れて劉表に保護を求め、孫策に攻められると援軍(黄祖の子+兵5000)を見捨てて曹操のところに逃げ込んでいてな。劉勲がいらんこと云わないよう、使者を送って『悪いのは劉表だぞ、文句あるのか?』と釈明するためなんだ」
A「釈明してねェよ」
F「張紘伝には『許の皇帝に上奏文を持っていった』とあるが、その内容は触れられていない。孫策伝の注でいちおう引用されているが、ものすごく簡単に要約すると『俺ァ弟ども(周瑜・孫権)と江夏を攻め、黄祖の野郎こそ逃がしたがその軍団は壊滅させた。これも全て皆様のおかげでゴザイマス』とあってな」
A「……釈明というか、何と云うか」
A2「……脅迫?」
F「陳登が厳白虎の残党を煽動して後方を扼さなかったら、劉表がどうなっていたのか判らんからなぁ。そんなワケで劉勲は、曹操に降伏して侯に封じられたものの、のちに罪を犯して処刑されている」
A「何だかなー……」
F「で、当然だが『引き抜きメモリアル』曹操も張紘を気に入った。当時司空だった曹操は、張紘を自分の役所に招いて人事の監査を任せようとしている」
Y「十数年前に同じことやろうとして失敗した連中がいたのを、曹操が知らなかったとは思えんがなぁ」
F「うむ。だが、この任用について、正史の本文では『任命した』とあっても本人の反応が書かれておらず、注では『固辞した』となっている。それでいて張紘は曹操のもとに留まり、孔融や陳琳と交誼をもっているンだ。前後の関係をみると、どうも受けたというのが実情っぽい」
A「……あらら」
F「朱に交わって赤くなった、というワケではなさそうだがな。翌200年に孫策が死んだのは周知だが、それを聞いた曹操は『今のうちに攻めるか?』と企んでいる。張紘がそれをいさめて『ひとの死に乗じるのは古代からの儀礼に反するのみならず、失敗したら恨まれますよ』と、むしろ孫権に恩義を施すよう勧めているンだ」
Y「……孫策でも使いこなせたか判らん男だな、確かに。考え方の第一義に『組織』というモノがある。孫策個人が死んだとしても国なりお家なりを残すためには、誰かが曹操の下に残るべきだと考え、それを自ら実行したのか」
F「そゆこと。そして、裏を返せば孫策が、そう長くはないことも予見していたととれる。何にせよ、張紘の考えと努力は実を結び、曹操は孫権に、孫策の公職を継がせるよう取り計らっている。そのうえで『孫権を、ワシの下につくよう説得してまいれ』と、張紘を呉に返しているンだ」
A「で、実際に帰ってきて……」
F「今度は孫権のために尽力するようになった。相変わらず、二張の『片方は戦場、片方は後方』というシステムで、孫権が江夏(こうか、荊州)に向かうときは本国でお留守番だったし、孫権が合肥(がっぴ、揚州)に向かったときは同行したりだった」
Y「合肥の負け戦に従軍していたのか」
F「そっちじゃなくて208年の劉馥攻めだ。このとき孫権は、自ら軽騎兵を率いて陣頭に立とうとしたが、張紘に『だから、それは軍の総帥がやるべきことではありません!』と叱りつけられ、思いとどまっている」
A「孫策が叱られた現場にいなかったのかね?」
F「従軍していなかったと思うぞ、確か。が、実際の戦場では、張紘からの『包囲がキツキツでは敵も命賭けで抵抗するでしょう。少し緩めて様子を見ては?』という進言を退けて包囲戦を続け、結局撤退している」
Y「『出ると負け』の本領発揮だな」
F「敗戦を根に持った孫権が、翌年も軍を動かそうと企むと『気持ちは判りますが時期がよろしくない。まずは兵を休ませましょう』といさめ、今度は孫権でも聞き入れた。云うことを聞かなくて失敗しただけに、少しは懲りたようでな」
A「少しだけ、だろうけどな」
F「いや、割と反省したようなんだ。『私釈』の74回でまとめたけど、この敗戦後は212年まで、荊州では周瑜が奮戦していたが、孫権本軍は大規模な動員をしていない。そして、張紘が死んだのは212年だ」
A「……おいおい」
F「劉馥相手の敗戦にどれだけ懲りたのか、とさえ考えてしまう。張紘は『兵を休ませ農耕を盛んにし、賢者を任用して能力のあるものを採用し、寛大で恩恵あふれる施策をとるべし』と進言したンだが、この間の孫権が動かなかったのには張紘の意見が働いたとしか思えん。他に理由が思いつかん」
Y「理由もなく動くということはあっても、理由もなく動かないというのは考えにくいよなぁ」
F「うん。軍を動かさない、つまり内政に専念していたということは、張紘の云う通りにしていたということなんだ。実際のところ、張紘は孫策・孫権から高位の役職を受けたわけではなく、正式な役職は後漢王朝(つまり、曹操から与えられた)会稽東部都尉というものだった」
A「意外と扱いは悪かったのか」
F「それだけに『孔融陳琳と親しいのだから、いつか北に帰るのではないか?』という疑いの眼を向ける者もないではなかった。だが孫権は、その辺りの声をまったく相手にしていない。張紘も、自分が疑われるのは仕方ないと考えていたようで、孫権から江夏攻め(失敗)で後方を守っていた功績を褒賞されても、それを辞退している」
A「信頼関係はあった、だが扱いは悪かった……か」
F「重臣でありながら孫策の死を看取らなかった、それが孫家で張紘が白眼視された理由と考えていい。当時曹操のところにいて、役職もらって帰ってきたンだから、疑いの目も向けたくなるだろう。曹操への伝手を持ちながら、それでも孫権のもとに留まっていただけに、陸機陸遜の孫)でさえ、呉の名臣に張紘を加えていないンだ」
A「……息子もいないのか? 早めに死んだから、という口実は」
F「いない。張紘より一年早く死んだ周瑜が2番めに入っているし、息子が魏に亡命した韓当や、占い師の趙達さえエントリーされているのに、だ。ちなみに、相方の張昭はトップで名が挙がっているのみならず、息子の張承(チョウジョウ、長男)までいる」
A「扱い非道すぎねェか!?」
F「ところで、とここで云おう。僕もそう思うし、どうして……と考えて『呉における親曹操派の筆頭』と加来耕三氏が評していたのを思いだしてぞっとした。存命中の張紘は、呉で疑われ、孤立していた可能性がある。合肥城の包囲を緩めろと進言したとき『反対意見があった』とはあるが、何かにつけて反発されていたのではないか、とな」
A「……ぅわ」
F「そして、それが判っていたからこそ、張紘は褒賞は辞退し、だが孫権に正しい道を示し続けた。張紘伝を通じて孫権が張紘を昇進させようとした形跡は先の一件のみ。それを辞退したところ『本人の意思を容れて強制しなかった』とある。強行していれば反発を受けるとの配慮だったのかもしれない」
A「家臣の使い方がなってないのか、それとも仕方ないのか……」
F「さっき泰永が云ったように、主や自分より組織を上において考え、行動できる。たとえ自分が非難され孤立したとしても、身を慎み忠言をやめない男。その辺りが、張紘が評価された理由に思えるンだ」
Y「それでは、呂布や孫策のみならず、空気読めない家系の陸機とも相性は悪かったと考えてよさそうだな」
A「あ、孫もそんなタイプなんだ」
F「割とね」
Y「しかし、張紘がもう少し長生きして呉の中枢に留まっていれば、『出ると負け』の称号は外されていたかもな」
F「いや、充分長生きだろう、153年生まれで還暦こえてたンだから。かくして、老賢人は先代自ら登用したと重臣とは思えないくらいあっけない最期を遂げるが、死に臨んで孫権に上奏した文書がある。建業に本拠を移すよう勧めたのは有名だが、問題はそのあとだ」

「理想の政治を実現できないのは配下が悪いのではなく、主君が配下を使いこなせないからです。困難を避け、同じ意見の者で群れたがるのは判りますが、そんな感情は治安に反映されますよ。善をおこなうのは坂を登るようなものであり、悪を行うのは坂を転げ落ちるようなものです。上に立つ者が不公平では下にいる者も不満を抱くでしょう。おべっか使いの耳にやさしい発言ではなく、実現困難でも正しい忠言をお聞き届けください。君臣のあいだがしっかりしていなければ、その隙間につけいられて賢者と愚者の区別がつかなくなりましょう。賢明な君主は道理を理解し、飢えているように賢者を求め、諫言を『聞きとうない』ではなくきちんと受け入れ、感情も欲望も抑えて正義を行い恩恵を施すものです。決して感情の昂ぶりにとらわれず、大きな仁愛で人々をお包みください」

Y「つまり孫権は、道理をわきまえず、賢者も求めず、感情と欲望をほしいままにし、恩恵も施さんで『余はそのようなこと聞きとうない』とやっていた、というワケか」
A「配下からの上奏文は裏返して読め、という鉄則じゃね……」
F「この上奏文を孫権が完っ全に忘れ去り、感情と欲望のままに悪の坂を転がり落ちたのは、張紘の死から30年後のことだった。二宮の変の頃の孫権が、まったくもってその通りでゴザイマスな人物だったのは周知の通りだ」
Y「あの頃に、二張の片方でも健在であれば、政変を回避することもできたように思えるが、それは、望むべきもないことだろうな。生きていても九十歳以上では」
A「孫皓のときもそうだったけど、誰も止められる奴がいなかったンだなぁ……」
F「続きは次回の講釈で」


張紘(ちょうこう) 字は子綱(しこう)
153年〜212年(孤独死)
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徐州広陵郡出身の呉の重臣。世に云う『二張』のひとり。
初期の呉における対魏政策を一身に担ったため孤立し、相方ほど高い評価は得られなかった。

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