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History Members 三国志編 第20回
「最近の若い人は矢ガモって云っても判らんかもなぁ」

ヤスの妻「どなどなどーなーどぉーなぁ〜……こうしをのせてぇー……」
Y「ナニ歌っとるか!?」
ヤスの妻「ドナドナ」
Y「聞き方が悪かった、なぜ歌っとるか」
ヤスの妻「だって、アキラがいないンだよ!? わたしが必死でお仕事に隙間つくってアキラが来るのを待ち受けていたのに! きっとあーちゃんといちゃいちゃしてるんだよ!」
Y「テーブルを叩くな!」
F「……僕のテンションなんかどうだっていいなぁ、オイ」
翡翠「人生諦めるのは14年ほど遅いっすよ、おとーさん。もうすぐ15年めっすけど」
Y「うちの夫婦関係の前に、お前らの親子関係はどうなんだ? だいたい、アキラとあー子がいちゃいちゃしても問題なかろうが。夫婦なんだから」
ヤスの妻「人生の選択を間違えたかなぁ。ヤスにあーんな可愛い義弟ができると判っていれば、あのときプロポーズを」
Y「だから、その先は口に出すな!」
翡翠「どんなプロポーズだったんすか?」
F「子供は知らなくてよろしい。とりあえず、講釈始めていいか?」
ヤスの妻「アキラいないなら、わたしはお休みだよ。明日も休日出勤だから」
翡翠「お休みなさいっす〜」
ヤスの妻「どなどなどーなーどぉーなぁ〜、どなどなどーなーどぉーなぁ〜……」
(退場)
F「歌詞覚えてないな、アレは。では、予定を変更して第20回だけどケ芝(トウシ)について。当初、誰を講釈する予定だったのかは本人の回まで伏せる」
Y「何でアキラも女房もいないときに蜀将やりたがるンだ、お前は」
F「方向性としては正しいだろ? お前にこそ聞かせないといかんのだから」
Y「そういう意味での方向性か。それなら正しい……のか?」
三妹「(ひょっこり)ねェ、義姉さんが部屋でどなどなうるさいンだけど」
F「荷馬車が揺れる、と云ってやってくれ。それで収まるから。222年に夷陵の戦いが終わってから263年の蜀滅亡までに、蜀と呉の関係が本格的にまずかったことが2回ある。223年の劉備と、234年の孔明の死のあとだ」
Y「どうして孫権がそのタイミングでいらんこと企んだのか、といえば明らかなんだな。蜀の指導者が死んだとき」
F「そゆこと。支配体制が緩んだのにつけこめるかな、つけこめるといいな……とちょっかい出そうとしたワケだ。一度めとなる劉備の死後、南中の雍闓(ヨウガイ)を使って蜀の南方を揺るがしていたときに、呉へと乗り込んできたのがケ芝だった。どうして抜擢されたのか、は正史と演義でほぼ同じ流れになっている」
Y「つまり、演義が正史に順じたワケだな」
F「だ。演義では、劉備の死後、蜀は仲達の立案した五路侵攻計画の脅威にさらされていた。内訳は『私釈』の112回を参照ということで、劉禅は慌てふためくものの、屋敷にひきこもっていた孔明はいながらにしてよっつまでを対策している。劉禅がひと安心したのを見て他の大臣たちが呆気に取られているなか、たったひとりご機嫌そうにしているのを孔明に眼をつけられた、という次第だ」
Y「云うまでもないが、五路侵攻は演義でのフィクションな」
F「残る呉との関係をどうするか……で『すぐに魏には勝てないし、こちらの陛下は即位してまだ日が浅い。まずは呉との関係を修復すべき』と進言。『私もそれを考えていたが、それをなせる者がいなかった。だがきょう、やっとそれを見つけたよ。頼むぞ(ぽんっ)』と、送りだされることになった」
Y「相変わらずOJTなんだよな」
F「正史では、五路侵攻がなかったのみならず、夷陵の戦闘終了から劉備の存命中、宗禕(ソウイ)や費禕(ヒイ)が関係正常化のため呉に送られていた。が、劉備の死を聞いた孫権がいらんことを考えかねないから……と『大使を送り呉との関係を修復すべきです』と孔明に進言したのがケ芝だった」
Y「確かに、ケ芝が送られた経緯だけを見るならほぼ同じか。使者を送って孫権にクギをさすべき、と進言した本人を行かせることにした」
F「蜀の首脳部としては、雍闓の動きの黒幕は呉だと、判っていても直接口に出すのははばかられていたのか、それとも判っていなかったのか。ともあれ、ケ芝は呉に向かった……が、さすがに孫権でもすぐには会おうとしない」
Y「そりゃそうだろうな。演義ではともかく、正史では南中を動かして蜀への敵対姿勢を見せていたンだから」
F「ツラの皮で云うなら劉備と曹操の次くらいには厚いように思えるが、孫権でも恥なのか何なのかはわきまえていたワケだ。そこでケ芝は『私が来たのは呉のためにもなることのためであって、蜀のことばかり考えているわけではありませんぞ!』と上奏文を孫権に送りつけ、ようやく孫権も会うことにしている」
Y「一毛を抜かば天下を利するも為さざるなり、か」
F「アキラでは絶対に出ないフレーズだな、オイ」
翡翠「どういう意味っすか?」
F「たとえ天下の利益になることでも、それが毛の一本ほどのわずかなものであろうと、己にとっての損失になるなら楊朱(という道家の徒)はやらないだろう、という孟子のお言葉だ。ともあれ、ケ芝に会った孫権とのやり取りは、正史ケ芝伝にも生々しく描写されている。陳寿がこの一件を重く見ていたのがうかがえるな」

孫権「蜀と手を組みたいとは思うが、劉禅は若いし国土は小さい。それでは、魏につけこまれるのではないかと心配だ」
ケ芝「呉・蜀二国で四州を支配し、呉王陛下は一世の英雄であらせられ、孔明もまた一代の傑人です。蜀には峻険が、呉には長江があり、このふたつを頼って互いに助けあえば、進んで魏の併呑も可能でしょうし、退いては三国鼎立も可能でしょう。これこそが、自然の理にございます。では呉が魏に臣従すれば、を申し上げれば、曹丕(※)は陛下と太子の入朝を求めるに違いないでしょう。これに背けば魏は『叛逆者を討つ!』と兵を挙げるでしょうし、我らもまたその流れに乗って呉に侵攻いたします。そうなっては、江南を保つことなどできますまい」
孫権「……君の云う通りだな」
 ※ 当時、すでに曹丕は後漢から禅譲を受けて皇帝となっており、降伏してから逆らうなら叛逆と扱われても文句は云えない。

翡翠「長いっすねー」
F「簡単にまとめると『蜀と組まないなら、魏と組んで攻めるぞオラ』と云ってるンだ」
Y「簡単すぎるわ。孫権は、あてにならない君主と国力不足という、蜀の欠陥をあげつらっているンだな?」
F「その辺りを口実に雍闓をけしかけただろうことは、以前触れた通りだ。対してケ芝は、呉と蜀がそれぞれ単独で魏に対抗する必要はなく、協同で対抗すればよいと応えている。忘れられがちだが、そもそも天下三分は、曹操に対抗するための手段であって目的ではない」
Y「天下三分は『永遠ならざる平和』を実現するための手段にすぎなかった、と」
F「対する呉の国是は天下二分であり、長江南岸を統一して北岸に対抗するという、中原に搾取されてきた江南人の悲願とも云うべきものだった。かたちは違ってもそれが成し遂げられるなら、蜀と手を組むメリットはある。何より、魏と蜀の両方を敵に回して勝つ自信は孫権にもなかった」
Y「222年の魏軍大侵攻を退けたのもやっとこだったからなぁ」
F「直接の侵攻なら陸遜健在のこの頃ならどうとでも防げるが、問題は、この頃なら二正面じゃ済まない事態になることだ。交州王・士燮(シショウ)がすでにいいトシで、その死後に息子が処断されている。孔明であれ仲達であれそれに目をつけないとは思えない。まずは交州で呉への叛乱が起こり、その鎮圧に忙殺されているところへ魏・蜀が動くだろう」
Y「呉が蜀にやろうとしたことを逆にやられる、か」
F「そして、晋がやったように呉は負ける。そのあとで蜀がどうなるのかはさておいて、孫権がその辺りのソロバンをどう弾いたのかの答えが蜀呉同盟なワケだ。演義では、ケ芝を脅すために用意していた油の煮えたぎる大釜に、誠意を示すため本人が飛び込もうとするという演出がなされるが、まぁフィクションだ」
Y「事前に、油の釜だの武装した兵士だのを用意しておいて『ケ芝が勝手に飛び込みました!』が通じるワケがないな。死んでたらおおごとになった」
F「そゆこと。というわけで、ケ芝は蜀に無事帰還。呉からも返礼の使者が出されたので、もう一度お礼参りでケ芝が呉に派遣された。その席でのことだが」

孫権「魏を討ち天下泰平となった暁には、二人の王が天下を分けて治めるというのも面白いのではないか?」
ケ芝「天に太陽がふたつございますか。地にも王はひとりですよ。魏を併呑したのちには、我らはそれぞれの主に忠節を尽くし、命令とあれば呉王陛下とでも一戦を交える所存です」
孫権「うん、うん。君の性格ならそう云うと思ったよ」

翡翠「マゾの暴君って珍しいと思うっす」
F「忠言でもそうは聞こえないというのが暴君の特徴のひとつなんだが、このノンダクレの直言好きは相当なモンだからなぁ。孫権自ら孔明のところに『ケ芝が我らの関係を結びつけてくれたんだよ』と書状を送っているくらいだ」
Y「どこまでケ芝を気に入ったンだ?」
F「後々まで『元気にしてるか?』と安否を尋ねる書状にプレゼントをつけて本人のところに送っていたくらい」
Y「一国の主が他国の家臣に、そこまで執着していいのかよ」
F「まぁ、孫権だしな。正史でのケ芝の出自は荊州義陽郡(ぎようぐん)となっているが、彼が生まれた頃の荊州に義陽郡はない(222年設置)。南陽郡出身だね。後漢末の混乱から逃れて蜀に入ったところ、予言者の張裕(チョウユウ)から『君は七十を超えてから大将軍となり、侯に封じられるだろう』と評されている」
Y「よくある話だな」
F「で、龐羲(ホウギ)の下にいたンだが、劉備が益州を平定するとケ芝も取り立てられて地方都市の食糧庫を預かることになった。ある日劉備がその都市を訪れ、ケ芝は面会する機会を得てな。直接語りあってケ芝が只者ではないと踏んだ劉備は、この都市の令に抜擢している」
Y「話しただけで高く評価された、と」
F「『任地では清潔かつ厳正な態度をとって統治に功績をあげ』た旨が書かれており、広漢(こうかん)太守を経て中央に入り尚書に任じられている。劉備の生前は宗禕や費禕、ケ芝の前にも丁厷(テイコウ)・陰化(インカ)が送られていたンだが、彼らが成し得なかった蜀呉同盟を成し遂げたのはそのあとになる」
Y「ケ芝の前にも、誰かが行っていたか?」
F「直接の記述はないンだが、さっき見た、孫権から孔明への書状で名が挙がっているンだ。ただし、どんな人物かはほとんど不明。陰化は派閥として蒋琬(ショウエン)の流れを汲んでいそう、つまり荊州閥みたいだが、丁厷に至ってはこの書状にしか記述がなく、何者なのかまったく判らん」
Y「だから、俺の記憶にもなかったのか」
F「お前のはただのうっかりだ。ちなみに『丁厷は口だけで、陰化には口数が足りない』とのこと。話をケ芝に戻すと、このあとは孔明に従って北伐に従軍し、趙雲の副将格で曹真と一戦交えている。負けたが、その20年後の248年には(ふ)で起こった叛乱を鎮圧しているので、いちおう軍才はあるンだろう」
Y「いちおう、のレベルだろうがな。俺もいつぞや云ったが、魏で通じるとは思えん」
F「あっはは。さて、そんなケ芝だが、能力はともかく性格的なことはあまり知られていないように思える。正史におけるケ芝は感情をむき出しにすることが多く、妻子の困窮のような細かいことは気にしない性格で、ために朝廷では浮いていた。あの費禕でさえ『遠慮して彼を立てていた』くらいはばかられていてな」
Y「……えーっと、穏やかな外交官みたいなイメージがあったンだがな。ここまでの講釈で出てきたのは、相変わらずの私釈オマエ補正だとばかり」
F「この辺り、はっきり正史に明記があるぞ? さっきも云ったが、性格は清潔かつ厳正。賞罰は明らかで兵卒はいたわり、質素・倹約は考えなかった半面利殖をはかろうともしなかった。ために、妻子は飢えや寒さに困窮し『ケ芝の死後、家には少しの財産も残っていなかった』とある」
Y「割といい性格だな」
F「うん。豪気で細いことは気にしない。感情を表に出すので周囲とはうまくやっていけなかったし、驕慢な性格で費禕でも遠慮していた。周りの人物を評価することは少なかったが、姜維の才能だけは高く評価していた……などなど。要するに、蜀におけるマイノリティだったワケだ」
Y「性格的に孤立していたのはうかがえるが、それでいて孫権からは下にも置かぬ扱いだろ? 呉に通じていると誣告されそうなモンだがなぁ。特に、費禕が放任していたというのが判らん。アイツがマイノリティを放っておくか?」
F「ケ芝に関してはおかねばならんだろうな。何しろ、ケ芝をとりたてたのは劉備であり孔明(健在)だ。加えて、費禕本人では成し得なかった蜀呉同盟を成し遂げている。先帝と蜀唯一の丞相が認め、孫権が一目おく功績明らかな男では、費禕でも迂闊な扱いはできなかったワケだ。孫権がたびたび安否を尋ねていたのは、費禕への牽制だったのかもしれん」
Y「ケ芝を殺したらただじゃすまさんぞ、とか? ホントにどこまでこの男を……」
F「そんなケ芝に、唯一遠慮もナシに接していたのが宗預(ソウヨ)だった。宗預が昇進して兵を預かることになったとき、たまたま参内していたケ芝が『礼記(らいき)では六十になれば軍務に従事しないことになっているが、お主は還暦過ぎているのに、はじめて軍を預かるのか』とからかえば『アンタはもう70過ぎているでしょうが』と応じている」
Y「いつの話だ?」
F「247年。話はガラっとさかのぼるが、孔明の死んだ234年に、孫権は2回めのいらんことをしでかした。魏が孔明の死につけこんで蜀を奪うのではないかと懸念して、国境の巴丘(はきゅう)に駐留する兵を増やしているンだ。緊急時の救援に役立てるのと、いざというときには兵を出して蜀を奪うためだが、雍闓が意外と頼りなかったので今度は実力行使に出たとも云える」
Y「この野郎は、まったく」
F「その辺の動きは蜀の側でも察知されて、対呉前線・永安(えいあん)の守備兵を増やして非常時に備えさせている。で、宗預が孫権のところに赴いて孔明の死を伝えているが、そこでひと悶着あった」

孫権「呉と蜀はひとつの家のようなものだが、蜀では白帝の兵を増やしているそうだな。それはどういうことだ?」
宗預「そりゃ、呉が巴丘の兵を増やせば、こちらも兵を増やしますよ。情勢が情勢なんだから仕方ないでしょう」

F「孫権は大笑いして、宗預に目をかけるようになった」
Y「相変わらず、直言する輩に弱いのな」
F「だが、孔明の死の直後というタイミングに起こった、下手をすれば呉と一戦を交えることになった一大事に、実績のあるケ芝が動員されなかったのは、費禕の意向が働いていたと考えていい。劉備の死後に次いで、またしてもケ芝に国交正常化を任せては、蜀朝廷内におけるケ芝の発言力が大きくなりすぎる。234年にケ芝は前将軍・兗州刺史・陽武亭侯に昇進しているが、これなんかいつもの称薦の計に思えるし」
Y「曹操や王修がやられたアレか。しかし、お前がさっき云った通り、もともと荊州人で益州住まいの、劉備・孔明の肝煎りだろ?」
F「今度は孔明がいないンだ。当時まだ蒋琬が健在とはいえ、費禕が自分の政敵となりかねない男を放っておくとは思えん。また、のちに反北伐を唱える費禕からすれば、主戦派な姜維の後見になりかねない人物を昇進させるのは避けたいところだろう。だから、性質的にケ芝に遠慮せず、孫権にも気に入られそうな宗預を送り込んだワケだ」
Y「ふむ……『なぜケ芝ではなかったのか』ではなく『なぜ宗預だったのか』と考えると、費禕の関与があったと考える方が、ある程度説明がつくのか」
F「そゆこと。孔明の死後、ケ芝は政権から遠ざけられることはなかったものの、呉からは遠ざけられている。また、さっき云ったが侯には234年に封じられたが、大将軍には結局なれず、車騎将軍どまり。昇進したのは243年のことなんだが、生年が不明なのでこのとき何歳だったのかは不詳になる。これが張裕の予言通り70歳のときだとしたら、宗預と揉めたのは74歳のときだな」
Y「後進に道を譲ってやれよ、そろそろ」
F「だが、ケ芝は姜維を認めはしても、そもそも派閥をつくる真似をしなかったため、その辺りの気遣いはしなかったと云える。ちなみに、弩が大好きで、涪での叛乱鎮圧に際して、黒いサルを見かけて矢を射かけたところ、サルは刺さった矢を自分で抜いて、木の葉を巻いて傷口をふさいだ」
Y「それ、サルじゃなくて小柄な異民族か何かじゃなかったのか?」
F「可能性としては否定できないな。それを見たケ芝は『ワシは生物の本性に背いてしまった!』と嘆息し、弩を水中に投げ込んだという。自分の死を予見したケ芝が死んだのは、それから3年後の251年のことだった」
Y「文官なのか武官なのか、よく判らん男だったが、性格についてははっきり云える。狂暴だ」
F「直言癖が行きすぎた男の事例、と云えよう。ところで、例の宗預について、孫権が『ケ芝・費禕に次ぐ敬意を示した』というのは正史にも明記がある。やはり費禕の見立て通り、孫権は宗預も気に入ったワケだ」
Y「だろうな」
F「その気に入りようは演義でこそむしろ顕著でな。第百五回で、孔明が死んだことを伝えに来た宗預に、やはり兵力増員の話をしてやりこめられた孫権が、大笑しつつ云った台詞がまた非道い」

 君は、我がケ芝にも引けを取らぬ男だな。

F「この台詞に宗預がどう応えたのか、はさすがの羅貫中でも書いてない」
Y「喜ばなかっただろうことは明らかだぞ」
F「続きは次回の講釈で」


ケ芝(とうし) 字は伯苗(はくびょう)
173年?〜251年(自らの死を予見しながら3年生きた)
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荊州南陽郡出身の、蜀呉同盟の立役者。
孫権からはいたく気に入られ、それが理由で対呉外交から外された節がある。

宗預(そうよ) 字は徳豔(とくえん)
187年?〜264年(洛陽への移住の道中に、病に斃れた)
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荊州南陽郡出身の、後期の蜀を支えた文臣。
相手がケ芝だろうが孫権だろうが諸葛瞻だろうが堂々と相対し、誰にも媚びることはなかった。

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