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History Members 三国志編 第19回
「時間ができたのでやりました」

F「えーっと、今回子連れなのであまり大声は出さないでください」
A2「……白クマが、こども抱いてる」
三妹「云い得て妙ね」
M「ふふふっ、お父さん子だもの。きょうは一緒にいられて、よっぽど楽しかったみたいね」
F「ですねー……寝てても離してくれないのはアレですが」
翡翠「それはそうとおとーさん、お薬の時間っすよー」
F「こんな状況だから、その辺置いといてくれ」
翡翠「なう」
F「……判った、判った。まったく、お前がいてくれると身体がどんどん健康になっていく気がするよ。その分仕事の手は止まりがちだが」
翡翠「文句云わずに飲むっす。エロもの書くより身体が大事っすからね」
F「今やってるのは日ロの翻訳なんだが」
翡翠「『ひとたび生を享け滅せぬもののあるべきか』を『年を取らない女の子が、モニタの外にいないかなぁ』と訳す作業っすね、判るっす」
F「ロと云ってもロシア語だ。お前は、オレが日頃どんなものを書いていると思ってる?」
翡翠「そんなのだとばかり思ってたっすよ」
A「間違ってないよな」
三妹「そのものズバリよね」
Y「父の仕事をよく理解している娘だな、オイ」
A2「……いあ、いあ」
M「えーっと……そうでないのも書いてるのよね? いちおう。ワタシ、読んだことないけど」
F「最後がいちばんキツい集中攻撃だよ!?」
翡翠「実家から通える大学でよかったっす。こんな素敵なおとーさんと素面とは思えない毎日を過ごせるっすからねー」
F「お前が医者になって何人助けるか判らんが、最初に殺すのはオレにしとけ……」
翡翠「はいはい。親の云う通り、親の云うことなんか聞かないっす。いやー、悪い親を持ったっすねー」
A「翡翠ちゃんがいい子なのか悪い子なのか、親のいないアキラには判りません」
Y「はっきり悪い子だと俺は思う」
F「誰のせいでこんな子に育ったンだろう……」
全員『アンタだよ!』
F「この世はすべて絵空事! ……まぁ、娘が起きないように静かにやろう。というわけで、今回は王修について」
A「前回聞いた名だな」
F「『私釈』38回の後編参照とも云っただろうが。死んだ袁譚を弔わせてくれれば、一族皆殺しにされてもかまわないと曹操に云いきり、その態度を田疇と並び称された人物だ」
Y「田疇は、節度はあっても忠誠心はあったか判ったモンじゃない、というのが前回じゃないか?」
F「忠誠の示し方にもいろいろある、というオハナシになる。青州北海郡の出自になるが、7歳のときに母を亡くしてな。ちょうどその日村祭りがあったンだが、そのせいで翌年、隣村で村祭りが行われていると、母のことを思い出して非道く悲しんでいた。ために、隣村の皆さんは、それを聞いて祭りを取りやめている」
A「……何でそれくらいでやめるのさ?」
F「ただの子供が泣いていた、くらいでやめる祭りはあるまい。親についての明記はないンだが、王修が泣いてやめるなら、それなりの家柄だったと推察できる。権力者の都合で行事が左右されるのはよくあることだ」
Y「よくはあるが、あっちゃいかんとも思うがな」
F「まぁ、その通りだ。ただ、今回に関しては、本人の人柄もあったとも考えられる。正史王修伝では、この一件に続いて二十歳のときのエピソードがあってな。遊学に出たとき、宿をとった張奉(チョウホウ、後漢の中常侍)の家で、家中が病に倒れていた。普通なら避難するところだろうが王修は親身に介抱して、張奉たちが治るまで看病しているンだ」
A「そういうことをするなら、7歳当時から何らかの名声があったとも考えられる、な」
F「早い気もするが、早熟みたいでな。ともあれ、評判を聞きつけた北海太守の孔融に召し出されると、今度は武官としてのはたらきを重ねることになった」
A「孝行息子が一転して槍働きか?」
F「正確には治安維持活動だが。派遣された高密(こうみつ)県では、顔役の孫氏(諱不明)が幅を利かせていて、子分や悪党が法を犯しても孫氏のところに逃げ込めば、お役人は手を出せない状態だった。ところが王修は、堂々と捕縛に乗り出し『手心を加えるなら同罪だ!』と渋る役人を怒鳴りつけ、孫氏の屋敷を囲んでいる」
Y「パターンから行くと、掌は返るよな」
F「そゆこと。震えあがった孫氏は悪事を働いた連中を差し出してきて、顔役たちはおかみに服従するようになっている。……表面上は」
A「表面?」
F「『私釈』の11回で、曹操が栄転という名目の左遷をされたのを見たな? 堅苦しい奴がいるとかなわんと、褒めそやかして昇進させよそに回す。顔役たちは孔融に手をまわして、王修を孝廉に推挙させたンだ。これに応じたら王修は中央に召されるから、まんまと追い出せる」
A「つくづくえげつないよな、その策って……」
Y「理屈の上では褒めてるからなぁ、反応に困るというか」
F「何しろ孔融は『そなたは、身辺は清潔、困難を押しつけられてもそれを次々と成し遂げ、民衆には愛情と訓戒を注いでいる。だからそなたを朝廷に推挙するのに、それを辞退するとはなにごとか!』と云っているンだ。王修のことは認めていたようでな」
A「絶賛だモンねェ……」
F「アイツのはたらきは確かだから昇進させましょう、そう云われたら上司・上官としては反論できなくてな。それに反論するというのは『アイツは無能だ』と間接的に評価しているに等しく、むしろ処罰する口実を与えることになる。本人に思い入れがあればあるほど、昇進させざるを得ないワケだ」
Y「反論のしようもないか」
F「だが、さっきも云ったが王修は辞退した」
A「……あれ?」
F「別の者を推挙してください、と自分は身を引いたンだ。孔融がどう応じたのかは先に見た通りだが、これは190年代初頭の話でな。何進の死と董卓台頭のどさくさで、結局朝廷への推挙は沙汰やみになっている」
A「顔役ども、怒ったンじゃね?」
F「実はその通りで、北海郡で叛乱が発生している。孔融は側近に『ワシへの叛乱と聞いて駆けつける者がいるとしたら、王修だけだろう』と発言したが、実際に王修は、孔融の危難を聞くと夜中だというのに駆けつけているンだ」
A「認められるだけのはたらきをしていた、と」
F「この叛乱を鎮圧するのに奮闘したのが太史慈だった、というのはまた別のオハナシ。この叛乱に乗じて、膠東(こうとう)で孔融に反抗した公沙一族は、砦をつくって徴税に反発していた。王修はその鎮圧に差し向けられると、数騎だけを率いて砦に乗り込み、首謀者の公沙盧(コウサロ)と弟を斬り捨てている」
A「一騎駆けかよ!?」
F「公沙兄弟は斬り捨て、他の者は慰撫したので大人しくなった、とあるな。この頃の北海郡で何かあったら王修が動員されていて、『王修は非番でも孔融に何かあったら必ず駆けつけ、孔融は常に、王修のおかげで難を逃れた』とまで正史に書かれている。だが、そんなふたりの関係に棹差す者が北からやってきた」
Y「袁紹、だな」
F「冀州を得た袁紹は、袁譚(長男)に兵を預けて青州に攻め入らせ、孔融を攻撃している。治安維持ならできても、さすがの王修でも袁家には敵対できなかったようで、敗れた孔融は曹操のもとに逃げ込み、王修は野に下ったものの、評判を聞き知っていたようで、袁譚は彼を召し出している」
A「第二の人生がスタートした、と」
F「スタートから難航したけどな。袁譚配下の劉献(リュウケン)が、王修を誣告したンだ。ところが、その劉献が死刑になりかけると、裁判を担当した王修は劉献を助命した。これによって、袁家一党も彼の人格を認めている。いち時期は、袁紹の下に取り立てられたくらいでな」
A「いや、人柄はいいけど、進行早くないか?」
F「この頃、孔融の敗走から袁家に仕えてからは、あまり記述が多くないンだ。人格者と知られた王修が二君に仕えた姿は、陳寿としてもあまり描写したくなかったのか、それとも子孫なり史官なりが記録を残さなかったのか。とにかく、袁譚は王修を認めた。……まぁ、いつぞや触れた通り『位につけても実権は与えない』という扱いだったが」
Y「報われんな」
F「それでも、王修は尽力している。袁紹の死後、袁尚(三男)と内輪揉めをおっ始めて負けた袁譚のところに、役人・民衆を引き連れて馳せ参じたンだ。これには袁譚『我が軍は王修のおかげで成り立っている!』と大喜び」
Y「そりゃするだろう。本心かはともかく」
F「この時点では本心だったみたいだよ。袁譚が袁尚に敗れると、劉詢(リュウジュン、先の劉献との血縁は確認できない)が青州を煽動して袁尚派に鞍替えさせたンだ。ために『青州全てがオレのせいで袁尚についたのかなぁ……』と、王修に弱音を吐いているから」
A「追いつめられて、他に頼る者がいなくなったのか」
F「王修は応えて『東莱(とうらい)の管統(カントウ)は殿に背きません、きっと来るでしょう』と励ましている。事実、この管統は東莱の兵を率いて袁譚のところに駆けつけ、そのせいで妻子が劉詢の兵に殺される……という事態に陥っているンだ」
A「そこまでして袁譚に尽くす奴もいたワケか……」
F「袁譚は、管統を楽安(らくあん)の太守に任じて後方を任せ、率いてきた兵をとりあげて、もう一度袁尚と戦う姿勢を見せた。それを王修が『兄弟で争われるのは滅亡の道です!』といさめたので、袁譚との間に溝ができてきたっぽい。侫臣(郭図)を斬って袁尚と和睦するべき、との進言を退けている」
Y「その進言を容れていれば、袁譚はまぁ、袁紹の後継者たりえただろうな」
F「だが、袁譚は袁尚と戦った。鷸蚌の争い漁夫の利と云うが、貝が袁譚でシギが袁尚、で漁夫が曹操だった……のは歴史が示す通り。前線から外され楽安にいた王修が、食糧を輸送している最中に、本拠の南皮(なんぴ)陥落と袁譚戦死の報が入った。王修は馬から降り『殿が亡くなられた! これからどうすれば……』と号泣している」
Y「泣くほどの扱いを受けたようには思えんがなぁ」
F「実は、僕もそう思う。孔融を破り青州を奪った袁譚に、どんな義理があったのか判らん。だが、王修は曹操のもとに出頭すると『殿の遺体を埋葬したいのです!』と申し出ている。これには曹操、王修の器をはかりかねて沈黙するが、重ねて『袁家の御恩に報いるため、殿の遺体を埋葬できたなら殺されてもかまいません!』と断言した」
A「……この頃は、孔融まだ曹操の下にいたよね?」
F「口添えがあった気配はないな。演義では『一族皆殺しになってもかまいません!』と豪語する王修に、曹操もその赤心を認め、望みをかなえている。裴松之は否定しているが、田疇とふたりで袁譚の首級にすがりついて大泣きし、軍吏は『布告に沿って殺しましょう』と曹操に申し出たものの、曹操は『義士だしー』と許した、ともあるな」
Y「しかし、袁家に恩義ねェ……」
F「王修は曹操に認められ、配下に加わった。これを聞いた袁譚配下の諸城はこぞって曹操に降伏したものの、たったひとり、楽安の管統だけは、城に立てこもって抗戦する姿勢を見せている。まぁ、妻子死なせてまで袁譚に尽くした男だ、当然と云えば当然だが」
A「あぁ、再登場するンだ、そいつ」
F「劉詢がどうなったのか、は記述がない。管統の首級をとってこい! と命じられた王修は、どうやったのか記述はないンだが、いつぞや同様あっさり管統のところに乗り込んで、本人を生け捕りにしている。で、曹操のところに連れ込んで『彼は袁譚の忠臣です!』と釈明した」
A「それをされると許すよなぁ、曹操……」
F「もちろんだ。首級をとれとの命を撤回して赦免している。この後、曹操は王修を司金中郎将、金銀を管理する役職につける一方、魏郡太守に昇進させた。王修はそれに応えて、弱者救済と明確な賞罰を柱とした政治を行い、民衆の支持を得ている。曹操が魏公になると大司農として、国家の食糧・財政を総括する役職に昇進しているンだ」
A「高く評価されたンだなぁ、曹操に……」
F「ただ、根っこは孔融に仕えていた頃からあまり変わっていなかったようでな。大司農時代にで叛乱が起こると、王修は指揮下の馬車や騎兵を召集したものの、それがそろうより先に宮門に馳せ参じている。銅雀台の上からそれを見ていた曹操は『ありゃ王修だ、間違いない』とのたまったという」
A「いや、大臣がそんな真似していいのか?」
F「鍾繇(相国)にもそう怒られたンだが『録を食んでおきながら主の危難を見逃せますか!』と応えた。それからしばらくして病死したが、高柔王基を若いうちから高く評価したことで、世間は彼の人物鑑定眼をたたえている」
A「……好人物だなぁ」
Y「まぁ、魏に仕えたンだから眼は確かだろうな。どっかの団扇持ちとは違って」
A「誰のことだ!?」
F「娘寝てンだからあまり騒ぐな。ところで、と云おう。だが、敵も多かった。司金中郎将に指名されたのを、袁渙(エンカン)という軍師が『序列を飛び越して王修を昇進させるのは好ましくありません』と主張しているンだ。反対した中で名の挙がっているのは袁渙だけだが、他にも反対した者がいた記述がある」
A「袁家の……?」
F「いや、袁紹との血縁の明記はない。後漢の司徒だった袁滂(エンボウ)の息子だから、なくはない気もするが。曹操はその辺りの声を無視して王修を司金の職につけ、本人に『功績は軍師より司金のが大きいンだ』という書状を送っている」
Y「どうして曹操は、ここまでこの男を気に入ったンだ?」
F「考えてみると、王修の主は割とろくでもない連中が多い。孔融は王修を鉄砲玉や弾よけとして使い、袁譚は、口では感謝したものの結局重くは用いなかった。ちなみに、鄴を攻略した曹操は、鄴にあった審配らの財産を没収しているが、これは一万石以上あったのに、南皮にあった王修の財産は穀物十石、あとは書物が数百巻だけだった」
A「……本人が清廉だった、だけでは説明がつかないくらいの数字だな」
F「曹操曰く『王修に、みだりに名声があるのではないのが判った』とのこと。それなのに、王修は二君に忠節を尽くしているンだ。7歳で死んだ母を翌年まで悲しんだことからも、この男、与えられた恩に、より多くの忠節で応えることを心がけていたようでな」
A「あー……」
F「つまり、与えれば与えるだけ応えようとする。能力がなければ主君は迷惑するが、王修の才覚は確かなものだったから、曹操のように与えることを惜しまない君主の下では、能力は限界を凌駕して発揮できるンだよ」
Y「袁紹も物惜しみしない男ではあるが……使いこなす度量はなかったか」
F「少なくとも袁譚にはなかった。袁紹直属であれば袁家はもう少しいい方向に動けただろうが、歴史の流れを変えるだけの器量はなかったのか、それとも運りに恵まれなかったのか。ともあれ、王修は袁譚を弔うと、曹操のために尽力している。管統を殺さずに捕えたことで、袁譚配下だった諸城全てを降伏させたのは、高く評価していい」
A「たった十石の穀物しかなかった袁譚の御恩に、どれだけ奉公したのさ……」
F「表現は凄まじいがその通りだな。まぁ、忠誠の示し方にもいろいろある、というオハナシでした。そろそろ娘ベッドに置いてくるから、今回はここまで」
A「では、どーぞ」
F「続きは次回の講釈で」


王修(おうしゅう) 字は叔治(しゅくち)
生没年不明(病死)
武勇3智略3運営5魅力5
青州北海郡出身、孔融・袁譚を経て曹操に仕えた戦う文官。
袁譚配下の諸城を降伏させ、魏の政治・経済を支えた忠臣。その忠節は陳寿に高く評価された。

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