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History Members 三国志編 第18回
「赤穂浪士、討ち入りしなけりゃただの浪人、討ち入ったなら悪質な暴徒」

F「娘の前だからいいとこみせようと、お父さんちょっと説教するぞ」
翡翠「はいっす、おとーさん」
F「僕は学生時代、教務主任の隠し子に殴り返したのを怒られて、吊し上げにあったことがある。何がどうしてそんなことになったのかを多少のフェイクを交えながら説明したら、当の教務主任から『どうして嘘をつく!』と怒鳴られた」
翡翠「自分に都合の悪いことはすべて嘘と断定するっすか。ろくでもない教員っすねー」
A「しかし、嘘をつくとはお前らしくないことを」
その場に同席していた被害者「そーでもないのよ……」
F「僕は怒鳴り返したよ。『オレが本当のことを云ったら、お前の息子がどうなると思っている!? オレは、お前の息子のためを思って嘘をついているンだぞ!』と。というわけで、そのあと僕の云ったことは全て本当のことと扱われ、教務主任と隠し子は処罰されましたとさ」
A「……『毒ヘビ注意』と書いてある藪に片足突っ込む真似をしないために、お前の口車に乗らざるを得なかったのか」
F「嘘をつかずに生きていくことは難しいが『アイツは正直者だ』という評価は一生の財産となるものだ。ヒトをだましてもいい。だが、嘘を云ってはいけない」
翡翠「おとーさんみたいに生きていけたら、人生充実するっすよねー」
F「いやいや、それほどでもないよ」
翡翠「ただ、長生きはできなさそうっすけどね」
F「……だんだん云うことが母親に似てきたよ、この娘。まぁ、本題に入ろう。今回は、田疇について」
A「でんでーん……ちゅう?」
F「可愛く云うな。でんちゅうと云っても、例の、老人を後ろから斬りかかっておいて殺せず、処罰されたのを逆恨みした舎弟が襲撃した事件のアレじゃないぞ」
A「殿中ね。何者だっけ? 名前は聞いたことがあるような気がするけど」
F「意外にも、劉虞の配下だ」
A「いたの!?」
F「そりゃいるだろうよ。えーっと……生き字引いないと、自分で資料整理しないといかんからなぁ。演義だと、袁紹配下だな。曹操に帰属し、烏桓平定の際に道案内で出てくるくらいの役どころだ」
Y「お前がいないのかと一瞬悩んだ。劉虞の死後に、袁家に仕えたンだったか? 寝返り組の文官連中は記憶に残らん」
F「そりゃお前のうっかりのせいだろ、という本音はさておいて。演義での扱いは正史と割と違っている。正直云って田疇は、いい家臣なのか悪い家臣なのかよく判らん人物だ。というか、何がしたかったのかよく判らんとさえ云える」
A「はぁ」
F「1回挟んだが、主の劉虞の回で、董卓の出した使者が袁紹に阻まれていきつけなかったのを触れてある。董卓によって都と皇帝が長安に遷されたあとだから、反董卓連合を率いる袁紹からすれば当然の措置だ」
A「だな」
F「ただ、あのときはスルーしたンだが『帝位につくのは断ったが、劉虞は袁紹との関係は維持していた』と正史にもある。ために、劉虞が『漢の皇室に連なる私が、袁紹らのような態度はとれん。使者を派遣して陛下に節義を捧げたいがどうしたものか』と、献帝(というか、董卓)と袁紹の板挟みで苦しんでいる姿が書かれている」
Y「乱世における最低の政治思想『みんなでなかよくしましょう』が、足を引っ張ってるのか」
A「そんなモンが実現できたら苦労はないな」
F「できなくはないンだよ。ただ、それをするためには劉虞の手元に60万程度の軍勢が必要だった。反董卓連合と董卓、それに残る群雄が手を組んでも太刀打ちできないくらいの軍勢が、だ」
A2「……不可能」
F「軍師から書簡を預かっております」

ヤスの妻「この頃の総人口を概算で800万(魏440万、呉240万、蜀100万)とすると、人口に占める兵士数の割合は1割が限度だから、漢土全体では多くて80万の兵士が存在できたことになるの。そのうちの75パーセントを抑えてしまえば、まぁ逆らえる勢力はいなくなるね」

Y「280年時点での晋の総兵数が推定54万というのは、呉の総兵数が23万だからあながち間違ってないのか」
A「日頃のコイツの云い方をすれば、不可能ではないがまず無理な話だ、と」
F「そうなる。もちろん、劉虞にそんなモンはなかったので、使者を送って誠意を見せることにした。当然だが袁紹にさとられるワケにはいかないので、妨害を排して長安に行きつける器量の持ち主を選ばねばならない。家臣たちにその旨を諮ると、みな『田疇こそが!』と若干22歳の若者を指名した」
Y「恨まれてたのか?」
F「そーじゃなくて『トシは若いですが多くのヒトから評価を受けています』ということでな。劉虞は礼を尽くして彼を招聘し、実際に会ってみてその通りだと思ったようで『大いに気に入った』とある。田疇を正規の使者として、馬車やお供の騎馬を用意し、長安に送り出すことにした」
A「高く評価したワケか」
F「その評価が正しかったと確認されたのが、その場での返事だ。田疇は『袁紹と董卓が互いに街道を封鎖しているのに、こんな行列を仕立てて行ったら、捕まるのは当然ですよ』と、自分ちの食客20人だけを連れて出発したンだ。個人の旅行という名目なら、そうは怪しまれないだろうということでな」
A「いや、そんな時代に旅行なんてなおさら怪しいよ」
F「田疇も内心はそう思っていたようでな。劉虞に見送られて(けい、幽州治所)を出ると、そのまま北に向かい万里の長城を抜けて、北狄の地を進んだンだ。陰山山脈を西に沿って、間道を進んで雍州に入り、ついに長安にたどりついている」
A「お前、何やっとンね!?」
Y「いい意味でそう思うな、確かに」
F「今度はみんなそう思ったみたいで、献帝から三公まで『よくやった!』『俺に仕えろ!』と官位を与えるわ自分の府に招聘するわと絶賛した。ところが本人は『陛下が洛陽に戻られていないのに、富貴を得るワケには参りません』と全て辞退し、劉虞のもとに戻ることを願い出ている」
Y「立派だなぁ、オイ」
F「お前が云うと皮肉っぽく聞こえるンだがな。望みは容れられて、田疇は劉虞への返書をもらい帰路についた。帰りがどんなコースだったのか明記はないが、この頃すでに董卓は亡いので、まぁ行きよりは楽だったように思える」
Y「だが、董卓が死んでるってことは間に合わなかった可能性がないか?」
F「うん。帰りつく前に劉虞はコーソンさんに敗れて、処刑されてしまっていたンだ。コーソンさんへの挑発状とも云える書簡を持ってきた献帝の使者は、田疇より早く薊に到着していたことになり、つまり田疇は、また北狄の地を渡ったらしい」
A「タイミングが悪かったなぁ……」
F「劉虞から見ればな。田疇本人の立場でなら、劉虞もろとも殺されずに済んだと考えられるンだ。だが田疇はそれを喜ばず、劉虞の墓に詣でるともらってきた返書を読みあげて、声をあげて泣き、涙を流している」
A「いい家臣じゃないか」
F「そう思うよな、ここまで聞いている分では。このあと田疇がナニをしたと思う?」
A「え? んー、パターンから行くならコーソンさんの前に引き出されて、主のために泣いて何が悪い云々と釈明を」
F「大筋ではそれであってるンだが、今回はその前にワンクッション挟まるンだ。田疇、逃げてな」
A「……は?」
F「泣くだけ泣いて『墓から去った』と明記がある。お前の云う通り、パターンならそのままコーソンさんに捕まるか出頭するかだが、この男はあっさり逃亡。これにはコーソン怒って、懸賞金を出して田疇を探させている」
A「えーっとぉ……? これはちょーっと反応に困るかなぁ」
Y「忠臣なら逃げないが、侫臣なら泣かんよなぁ」
F「そゆこと。捕まえた田疇にコーソンさんは『劉虞の墓で泣くとはなんだ!』と怒鳴りつけるけど『漢王朝が衰退し誰もが異心を抱く中、劉虞サマだけが忠節を失っておられなかったのに、泣いて何が悪いか!』と返している」
A「ごくありふれた忠臣の態度じゃな」
F「さらにコーソンさんが『献帝からの返書はオレによこすべきだろうが!』と云いだせば、田疇『読みたい? ねえ、ホントに読みたい? やめておいた方がいいと思ったから渡さなかったンだけど、ホントに読んでみる?』とやり返す。内容は残ってないが『コーソンさんを褒めているとは云えず、たぶん喜べないもの』だったらしい」
A「話が最初に戻ったよ!?」
Y「ヘビがいると判っている藪を、白馬で越えるような真似はコーソンでもできんか」
F「馬はヘビを怖がるからねェ。とにかく『罪のない劉虞サマを殺し、今またオレを殺したら、燕・趙の人材は全て東海に入水するぞ!』とまで云い放つ田疇に、コーソンさんは感心したとあるが、むしろ怖気づいたみたいでな。処刑こそしなかったものの軍の管理下に拘束し、外部と連絡を絶ったンだ」
A「なんか、物凄い男じゃね……」
Y「烈士というか、壮士というか」
F「それだけに、誰とはないがコーソンさんに『義士である田疇を、礼をもって待遇できずに閉じ込めるようでは、人心を失いかねません』と進言するヒトがいてな。さすがにコーソンさんでも釈放せざるを得なかった」
A「だろうね」
Y「いや、逃がしていいのか? そこまでの男なら配下に招くか、でなきゃ殺しておくべきだ」
F「普段ならその通りなんだが、この場合は違った。薊を離れるにあたって一族郎党数百人を前に『主君の仇を討たねば、私は世に立つわけにいかない』と誓いを立てたンだ。で、徐無山(じょむさん)という山中に立てこもると、自給自足の共同生活を始めている」
A「……ごめん、アキラバカだから『で』の前後の関連がよく判んない。山塞に立てこもって打倒コーソンの兵を募りだした、ってことじゃないの?」
F「違くて『平坦な場所には住居をつくり、田疇自ら農耕をして父母を養った』とある。名声はあったモンだから次々とひとが集まってきて、数年で五千軒以上の住宅ができたという」
A「……何がしたかったの?」
F「本人が正直だとしたら、という前提で考えると『主君の仇を討たねば、私は世に立つわけにいかない』と云っておきながら、山中に分け入って世捨て人になっては『劉虞の仇を討つ意志はない』と云っているに等しい」
Y「そう考えざるを得ないな」
A「いや、それは……でも、劉虞の遺徳を慕う連中も集まったンだろ?」
F「そのようなんだが、この五千戸の山中の居住区は、田疇自身が認めていたように『諸君は遠くから私を頼ってきてくれて、大勢で街を形成したが、ひとつにまとまっていない』状態だった。やはり、田疇の名声に惹かれた者と劉虞の遺徳を慕う者とがいて、そして意見対立があったと考えていいようでな」
A「うーん……」
F「そこで田疇は、とりあえず居住区の指導者を決めるよう、集まった人々の長老格に求めた。ここではもちろん田疇が選ばれるが『私がここにいるのは大仕事を考え、恨みに報いるためだ。この意志をかなえられるかと懸念しているのに、軽薄な連中は一時の快楽におぼれて計画も将来への考慮もない』と、集まった連中への愚痴をこぼす」
Y「コーソンの下が嫌で逃げてきたと云っても、田疇のために働こうって輩だけじゃなかった、と」
F「というわけで『私につまらない計画があるが、従ってくれるか』と持ちかけ、長老たちは合意した。田疇は法令を定め、婚姻の規定を設け、教育制度を整えている。ひとびとはこれをありがたがり、道に落ちている物も拾わなくなった。名声は北狄にも広まって、烏桓・鮮卑は徐無山まで貢ぎ物を届けてきたという」
A「……コーソンは、徐無山をどうしたの?」
F「攻撃した様子がない。袁紹との対決でそれどころじゃなかったというなら、むしろ、袁紹から何度となく招聘を受けていた田疇と徐無山を放置するはずはない。なのに『アイツはこっちに来ない、袁紹にも通じない』という確信でもあるかのように、奇妙なまでにスルーしていた」
Y「確かに妙だな。コーソンの性格からして討伐してもおかしくないが、袁紹に防戦するのが手一杯で、そっちに兵を回す余裕がなかったとか?」
F「いちおう徐無山について『南は要害を守って』との記述もあるンだが、どうも烏桓か鮮卑に攻められたみたいでな。とりあえず、コーソンさんは田疇に手出ししないまま袁紹に敗れて死んだ。これが199年のことで、3年後には袁紹も死んだが、袁尚(袁紹三男)が田疇を招聘しては拒否され続けていた」
A「劉虞の死は193年……10年近く山にこもりきりか」
F「で207年、ついに曹操が招聘の使者をよこしてきた。徐無山中に邢顒(ケイギョウ)という人物がいて、彼がまず曹操のもとに行き、曹操のもとからは田豫が派遣されてきて、ついに田疇は世に出る決意をしている」
A「何回か前に、同じことがなかったか?」
F「程c劉岱の誘いを袖にしながら、曹操の誘いを受けた話だね。今回も『袁紹は5回もあなたを招き、あなたは道義を理由に拒否されたのに、曹操の使者が来た途端間に合わないかと気にかけるなど、筋が通らないのでは?』と家の者にとがめられて、でも『お前にゃ判らん』と突っぱねている」
Y「同じ展開だな」
F「劉虞の息子の劉和や部下は、袁紹に仕えてコーソンさんと戦っているけど、田疇はそれに呼応していない。ただ山にこもっていただけだ。袁紹・袁家はダメで曹操はいいというのは何なのか……という問いの答えは、実は明らかだったりする」
A「というと?」
F「曹操の招聘に応じた田疇は盧龍の計を進言しているンだ。田疇を自ら引見した曹操は、彼を県令に任じたものの任地には送らず手元に置いて、北方へと攻め入っている」
Y「……おや?」
F「時期はおりわるく雨季で、細い街道は水につかって車も馬も通れないし、舟を浮かべる深さもない。そのため、北狄対策は長いこと難儀していたが、田疇は200年前に崩落していた小道に注目。曹操軍は雨で街道がふさがっている限り来ない、と油断している烏桓の背後を突くべしと進言し、自ら手勢五百を率いて先発している」
A「劉虞に仕えたり、長いこと山ごもりしていたから、その辺りの情報も仕入れていたのかな」
F「情報を集めていたのは山ごもりする前からだろうな、でなきゃ長安まで往復できると思えん。徐無山から北狄の地に入った田疇は、険しい山地を走る細い道をたどり、烏桓の背後に回った。盧龍(ろりゅう)とは地名で、水没した街道を抜けてくるはずの曹操軍を待ちうける烏桓を、迂回作戦でそっち側から襲撃しようという策だった」
A「それにまんまとひっかかった?」
F「曹操が曹操で、街道に『雨季だから通れないや、秋になったら行くよー』と立札を立てていて、烏桓の斥候が真に受けて『あ、退くンだ。それならひと安心〜♪』とウキウキ思いこんだ、なんてこともあってな」
Y「バカか」
F「というわけで、田疇の案内で烏桓に接近した曹操率いる大軍に、気づいていなかった烏桓軍は驚き慌てた。この戦闘がどうなったのか……は周知なのでさておこう。戦後の論功行賞で、田疇は功績を評価され『文武と仁徳を備え、袁紹の誘いに乗らなかった田疇は李左車にも引けを取りません』と上奏され、五百戸の亭侯に取り立てられている」
Y「李左車……韓信の知恵袋だったな」
A「ぅわ……自分を韓信になぞらえたのか、曹操は」
F「ところが、田疇はこれを辞退した」
A「……主に倣ったのか?」
F「コーソンさんのせいで衆を率いて山中に逃れ、結果として功をあげたが、志や道義が果たされないうちに栄誉を受けるのは本意ではない、と辞退しているンだ。一方で、袁尚が公孫康に処刑され『泣いたら斬るぞー』と布告されていたのに、田疇は袁尚を弔った、とある」
A「何で?」
F「この件については、裴松之が『盧龍の計をもって烏桓を打ち破ったのは田疇であり、そのせいで袁尚は死んだに等しい。ひとを殺す計画を立てておいてそのひとを弔うのは正当性がない。王修袁譚を哭いて悲しんだ(『私釈』38後編参照)のとはまるで違う』と非難しているくらいでな」
A「……でも、斬られなかったンだろ?」
F「うん、曹操は不問に処した。いちおう、身の危険を察したようで、徐無山から一族郎党を呼び寄せて(ぎょう、冀州治所)に移住し、赤壁戦にも従軍している。赤壁でどう働いたのかは記述がないが、2年後に『本人の意見を尊重し以前の封爵は辞退を許したが、国の法を曲げてはならん』と、以前与えようとした亭侯に改めて叙任しようとしている」
A「で、またしても……」
F「オコトワリしている。曹操から『お前の功績と人格は立派だが、それを理由に行賞できなくては国の制度がはなはだ揺らぐ。ワシの間違いを放置するような真似はよしてくれ』という書状が届いても『私にはそんな功績なんてありませんよ』と軽く返してな」
Y「態度としてどうなんだ、それ」
F「曹操は田疇を呼びつけて四度説得するが、まったく受け入れない。これにはお役人(たぶん陳羣辺り)が『小さなプライドにこだわって国法を軽んじるなら、免職して罰を与えるべきです』と曹操に進言したが、荀ケ鍾繇曹丕までが『彼の意志を尊重しましょう』とフォローし、とりあえず処罰は免れた」
A「人柄を認めてくれるヒトもいたワケか」
F「だが、どーしても田疇を侯に取り立てたい曹操は、いつの間にか田疇と親しくしていたらしい夏侯惇に『何とか説得してくれ。でも、ワシの意志だとは云わないでくれ』と無理難題を押しつけた」
A「無茶振りするなぁ、オイ」
F「ひと晩説得したもののいい返事を得られなかった夏侯惇は『主上の意志なんだよ……』とこっそり漏らすが『道義に背いて山にこもった私が、盧龍の計で報奨を受けるなど許されません。たとえ国が認めてくれても、私が恥じずにはいられないのです。どーしてもと云うならオレは死にますよ?』とまで泣いて訴えた」
Y「コーソン相手に見せた素が出たな」
F「夏侯惇から報告を受けた曹操は『世の中には、そんな奴もいるモンだなぁ』と溜め息ついている。田疇が亡くなったのはこの4年後で、214年のことだった」
A「……なんだか、よく判んない奴だなぁ。劉虞に忠節を尽くしてコーソンさんに反発し、でも、コーソンさんを討とうとせずに山中にこもった。袁家からの誘いは突っぱね、曹操に仕えて烏桓を討つ。でも、袁尚は弔って、曹操からの封爵には応じなかった。何がしたかったの、コイツは?」
F「泰永」
Y「烏桓に対して含むものがあり、劉虞とは意見が合わなかった、ということはないか?」
F「前半は明記があり、後半については『アンタはトロいから心配だ』と発言している」
A「は?」
Y「北狄への宥和策をとっていた劉虞の配下にしては、いやにあっさり出兵しているな、と思ったンだ」
F「田疇が『烏桓が出身の郡に侵攻し、高官の多くが殺害されたことを根に持ち、討伐したいと思っていたが力不足だった』ことは正史の本文に明記がある。聞かれなかったから云わなかったが、この田疇、どうも『多くが殺害された』高官の子か一族に連なるようでな」
A「いや、でも、お父さん健在じゃなかったか?」
F「徐無山にこもって『父母を養った』とはあるが、これが実の父母なのか、それとも集まった中の年長の男女なのか判断がつきかねる。年長者に対し父母の礼をもって接する、のは孝徳としては珍しいことじゃない。そして、実際のところ血縁はどうでもいい。とにかく田疇は北狄を恨んでいた、それが現実だ」
Y「誰かを殺された、だから恨んだ……か」
F「つまり、最初に田疇を招聘したのがコーソンさんだったなら、彼は忠実かはともかくいち武将として奮戦したことは予想に難くない。北狄に対し強硬論を唱えているという点で、コーソンさんと田疇の意見は一致している。だが、運り悪く田疇は劉虞に仕えるに至った。出発前に、劉虞と直接語らっている」

「現在、皇帝は幼弱であらせられ、董卓が勝手に命令を下しております。上奏文を奉って返書を待っておられるようでは、ことを起こす機会を逃す心配があります。さらに、コーソンさんは兵力を恃んで残忍なことも平気でやるので、早く始末しなければ後悔することになりますよ」

Y「幽州の情勢を完全に把握していたのか」
F「そして、劉虞が殺されたため、田疇にはコーソンさんに仕える道はなくなった。その後、徐無山に立てこもったことについて、リップサービスはあるだろうが、烏桓平定戦後の上奏文に『山にこもって、北は盧龍からの攻撃を防ぎ、南は要害を守って……』という一文(ただし、山の名前が違う)があり、北狄に孤軍で徹底抗戦していたとも考えられる」
A「恨みはさらに募っていったが、戦ううちに慕われるようになってしまった。さらに、攻めるには五千戸では足りないか。袁家の招聘に応じなかったのは?」
F「袁紹は、劉和を含む劉虞の旧臣が多く仕えたので判るように、ある程度劉虞の政策を継承している。特に異民族対策では、宥和論を唱えて手なずけていたのは周知の事実だ」
Y「だから、袁家の招聘には応じなかったのか」
F「そして、対北強硬論を唱えている曹操から招かれたら『遅れちゃう、遅れちゃう!』と時計ウサギみたいな慌てぶりで馳せ参じ、後々までの語り草となった盧龍の計で烏桓を叩き潰した」
A「……じゃぁ、曹操からの封爵を受けないのは当然じゃないか。内心がどうあれ、劉虞の宥和策を継承すると思われていた田疇が、烏桓を打ち破った功績を賞されたら、今までの名声は地に落ちるぞ」
Y「襲ってきた相手から身を守る、というワケじゃないからなぁ。それならまだ理解は得られるが、自分から長城を越えて攻め入っては云い逃れはできん」
F「というわけで、よくよく読むと『主君の仇を討たねば』とは云っても、その主君が誰なのか口にしなかった田疇は、曹操からの封爵を受けずに世を去った。陳寿は云う。田疇の節義・王修の忠誠は、世俗を矯正するのに充分なものだった、と。ところで……」
Y「袁尚を弔った件か」
F「……見抜かれたのは悔しいが、それだ。さっき云ったが、劉虞の息子の劉和は、袁紹に仕えてコーソンさんと戦っている。そのあとどうしたのかは明記がないンだが、田疇が袁尚を弔ったのは、あるいは劉和を、手厚くとまでは云わないがきちんと扱っていたからではないかと思う」
A「……あー」
F「袂を分かったとはいえ、劉和は旧主の息子だ。袁紹が遇してくれたなら、それなりの礼をもって応えねばなるまい。袁紹・袁譚はすでに死んでいたから、袁尚を弔うことで義理を果たしたように思えてな。実は、裴松之には否定されているが、田疇は王修とともに袁譚の首級にすがりついて泣いた、という記述も正史の注にあるンだ」
A「忠誠の対象が自分と違う意見の持ち主だったから、仇は討たないけど、意見が同じ仇にも仕えない。違う主に仕えて働いても、封爵は受けない。……なんとも云い難い男だなぁ」
F「まぁ、単純に云えば不器用なんだ。かくて討ち入らざる忠臣は曹操に仕えたものの、封爵は辞退し続けて世を去った。享年は四六。子も早く亡くなっていたため、帝位についてから曹丕は親戚の田続に、改めて爵位を授けて後継に任じている」
Y「きちんと惜しまれたワケか」
F「続きは次回の講釈で」


田疇(でんちゅう) 字は子泰(したい)
169年〜214年(……死因は不明)
武勇3智略5運営2魅力2
幽州右北平郡出身の、劉虞の旧臣。
烏桓への復讐のため劉虞の死後は世捨て人となるも、曹操に協力して烏桓を討ち、だが曹操からの封爵は受けなかった。

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