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History Members 三国志編 第15回
「引き立て役ではない男たち・6」

F「だが、両雄は並び立たないのが世の常と云うべきだろう。劉曜(リュウヨウ)が即位するやほとんど即座に叛旗を翻したのは、人もあろうか大将軍、石勒(セキロク)であった。次回『私釈三国志』第207回『後趙成立』ここに、五胡十六国の時代が始まる」
A2「続きは次回の講釈です」
2人『待てぃ!』
A「お前、何やっとんね!?」
Y「俺たちのいない6回で何が起こったのか講釈してみろ!」
F「あー、やっぱり夢だったか。いや、麻酔が効いてる間に"先"に進んだ記憶があるンだが……そーいえばお前らいなかったな。このヒトおったけど」
A2「……いあ、いあ」
ヤスの妻「あーちゃん、乗らなくていいから」
F「まぁ、機会があったら思う存分講釈するが、夢だか妄想だかはさておこう。一時帰宅の合間にやる今回は、小シリーズ『引き立て役ではない男たち』の6番で程cについて。『私釈』の年表ではいちばん最初のイベントとして出てくるヒトになります」
A「意外とお年寄りなんじゃよね」
F「その割には、『真・恋姫』では正体不明なキャラになってたけどね。個人的に大好きなんだが、キャラソンがまたよくてな。きょーもーおひさまー、このてでーささえたーくてー♪(裏声)」
A「(地声がソプラノ)なんだかなにかとー、いけないーもーそーもんすたー♪」
Y「版権、版権。ほどほどにしとけ」
ヤスの妻「えーじろはともかく、アキラのうたはもっと聞きたいところだけどねー」
三妹「しかし、裏声でもまだそのキーが出せるのよね、コイツ」
F「お耳汚しでした。だから、えーじろやめろ。それはともかく、加来耕三氏は著作『諸葛孔明は二人いた』(講談社)で三国志最高の軍師を賈詡としている。積極的には異存はないところだ」
A「あえてボケるなら孔明、ボケないなら龐統じゃいかんのか?」
F「蜀・呉に対する魏の優位性を考えると、最高の軍師も魏に求めるべきだろう、とのこと。二見書房の『三国志おもしろ前史』にはもっと詳細に書いてあって『主君に恵まれなかった田豊、沮授のふたりは別として』『孔明は戦に勝てなかった。龐統は若くして没し、周瑜と陸遜はどちらかといえば、総司令官とすべき』とある(58ページ)」
ヤスの妻「鳳のセンセがそう落ちるなら郭嘉も落選だね」
F「ですね。『諸葛孔明は二人いた』に戻りますが、郭嘉は『風土病のために還らぬ人となっている』と、直ではないものの早世を落選理由にされています。荀ケ荀攸は『主君と袂を分かって、失意のなかでこの世を去』ったため、司馬仲達には『論外』『主君の国を事実上、簒奪したに等しい』と手厳しい意見です」
A「そーいえば加来センセは蜀贔屓だったな」
F「ひいき、でいいのか判らんがな。で、肝心の程cについては、57ページにこうあってな」

 程cも荀ケの推挙で曹操のもとに出仕したが、軍師としては的確なアドバイスはしたものの、いわゆる見せ場に乏しく、曹操の死後は隠退し、息子の程武が軍師を継いで出陣している。まずまずのところか。

Y「つまり、二荀や郭嘉とは比べものにならん二流軍師だ、と?」
F「ひと言でまとめると『全面的にやや劣る』というのが加来氏の評価のようなんだ。まぁ、軍師としての程cには、そんな評価でも無理はないと云える。食糧に人肉混ぜて配布したり、徐庶の母親を人質にしたりと、曹操軍の汚れ役なイメージが演義のせいで蔓延してるから」
A「そーいやコイツだったよ……でも、人肉給食は実史だろ? 徐母はともかく」
F「だな。裴松之に云わせると『ンなことしたから三公にはなれなかったンだよ!』というところだ。その割には、魏書十四巻では『程郭董劉蒋劉伝』と郭嘉を凌ぐ序列にあるンだが、郭嘉が長生きしていればその辺が入れ替わっていたことは疑う余地がない」
Y「惜しかな奉孝、だな」
F「孝を捧ぐべき親なくば八万地獄に落つべき罪もなし、と云ったのは誰だったかな」
ヤスの妻「何でそんなに、自分に都合のいい部分だけ抜粋して覚えてるの」
A「郭嘉が後回しになってるのは字面が気に入らないからかよ……」
F「本音はさておき。そんなこんなや、頼ってきた劉備を殺すべしと進言したことで、曹操軍団の汚れ役を羅貫中から仰せつかったと考えていい。何しろ、肝心の裴松之をして『あんな野郎(賈詡)は程cとでも並べておけばいいンだ!』と名指しさせるほど、才徳で云うなら徳に欠ける人物だから」
A「そーなん?」
F「出自は兗州の東郡東阿県なんだが、黄巾の乱が起こると、県丞(県令の下に位置する役人)の王度(オウド)が、黄巾に呼応して倉庫を焼き払っている。県令をはじめ東阿県の住人は東の山に避難したンだけど、この中に程cがいた」
Y「141年生まれ……当時43歳か」
F「それなりの年齢だね。ひとをやって東阿の城を偵察させると、王度はすでに城を放棄して、西に離れたところに陣を敷いていた。そこで、県内の豪族の薛房(セツボウ)と組んで、県令を捧げて城に戻り、王度に対抗しようと住民に呼びかけている。前後の状況から見るに、王度はこの薛房に負けて、東阿の城から追い出されたっぽい」
A「自分をわきまえていない小役人だな、オイ」
F「程cからも『アレは金目当てで、戦闘する意志はないンだぞ』と看破されているくらいだからね。ところが、それを聞いても東阿の民衆は『賊が西にいるなら東に逃げるだけだべ!』と、程cたちに従おうとしなかった。そこで程cは『バカな民衆はあてにならん!』と決断を下す」
A「民衆は大事にしようぜ……?」
F「しなかったが、民衆の意見は聞き入れた。賊が西にいるから東に逃げる。ために、数騎を東の山にやって『賊が来たぞー!』と叫ばせ、今度は東から西へと針路変更させたンだ。程cがその先頭に立って城に戻ると、民衆は慌てて後を追う。途中で県令も回収し、王度が攻撃してくるときっちり防いで、門から討って出て、返り討ちにもしている」
ヤスの妻「意外と熱血なんだよね」
A「そーいう問題じゃないような気がします……」
F「このあと、袁紹コーソンさんの北方争奪戦に巻き込まれた兗州刺史の劉岱(リュウタイ)に召し寄せられたンだけど、程cは応じなかった。この3人はもともと手を組んでいたものの、袁紹は劉岱に妻子を預け、コーソンさんは騎兵を劉岱のもとに派遣していたことからも、誰が誰をどう考えていたのかはわりと判りやすい」
A「袁紹は劉岱を信用していたけど、コーソンさんは劉岱を格下に見て利用していただけ、ってことか」
F「その通り。実際に袁紹と決別したコーソンさんから『野郎の妻子をよこさないなら、袁紹の次はお前だ!』という脅迫が来ているンだ。どうしたものかと劉岱はひとを集めて議論するが、なかなか結論が出ない。この段階では、さすがに程cでも動かないわけにはいかなかった」
Y「自分にも危機が迫ったから動いた、か?」
F「少し違う。コーソンさんと袁紹では役者が違うから、コーソンさんに味方する必要はない、と進言したンだ。自分に危機が迫ったと思いこんだ劉岱が軽挙妄動して、兗州そのものが混乱したら大変だから……と動いてきた、というところでな」
A「見通しは確かなんだねェ」
F「それだけに、コーソンさんが袁紹に大破されると、程cはあっさり『病気だしー』と劉岱のもとを去っている。その劉岱が死んだので、曹操が兗州を得た……のは『私釈』11回で触れた通り。で、曹操に召し寄せられると、程c今度はあっさり応じた。これには東阿の皆さん『おいおい、矛盾してね?』とやや非難の目を向けている」
Y「劉岱には将来性がないと見抜いていたってことだろ?」
F「東阿の皆さんには、その辺りが判らなかったみたいでな。笑って相手にしなかったとあるが、のちに程cが東阿を襲撃して、住民を人肉給食にしたのには、このとき浴びた非難を忘れていなかった……という見方もできる」
A「……えげつないなぁ」
F「いつぞや云った通り、程cの曹操軍中における担当は、広義での"謀略"だった。ために、周りから非難されてもそれを成し遂げたようでな。張邈(チョウバク)が呂布と組んで兗州に攻め入ってきたときには、県令の靳允(キンイン)に『親を捨てて曹公に仕えなさい』と、呂布に人質に取られていた家族を見捨てるよう説得しているンだ」
ヤスの妻「裴松之は『靳允は呂布のところに行くべきだった』って意見を引用して、この行いを非難しているね」
A「俺も非難するよ」
F「僕は手放しで絶賛するが、のちに太常(宮中の儀礼主任)となる邢貞(ケイテイ)相手にもめごと起こして免職になったことからも、素行に問題があったと考えられてな」
A「……ごめん、誰?」
F「96回で、張昭丁奉の態度から『コイツら、絶対服従する意思はねェな……』と嘆息した人物だ。もっとも、そのイベントも太常になったのも曹丕時代だが」
Y「程cでは、曹丕とはそりが合わなそうだからなぁ。いろいろ揉めそうだろ」
F「いや、曹丕どころか曹操の頃から『程cが謀叛を企んでいます!』と誣告されることがあったンだ。何しろ本人は『性格が強情で、他人と衝突することが多かった』と明記されているンだから。だが、曹操は程cを信じ抜いて、手厚く遇していた」
A「家臣を手厚く遇するのには、正当に評価している場合と褒美を与えて飼い慣らそうとしている場合がある、だっけ」
F「よく覚えてたな。程cに関しては前者だったと見ていい。曹操なら素行が悪くても使いこなせるンだから、実のない行賞はやらんだろう」
A「周りからは評価が低くても、主君からはきちんと評価される……か。軍師としてはこの上ない人物だったのかもな」
F「ところで」
A「急に来たよ!?」
F「体調が万全でないンだよ、まだ。正史程c伝における、曹操軍中における程cのはたらきは、今まで見てきたように、張邈や呂布から兗州を守り抜いたり、劉備を殺すよう進言したりだ。それだけに、劉備が徐州にこもって袁紹に呼応した折には、程cを差し向けるような恥知らずな真似は曹操でもできなかった」
Y「さすがに『俺が悪かった、だからお前が行ってくれ』では、君主としての格を問われかねんぞ」
ヤスの妻「『お前の云う通りにしておればなぁ』という伝説のダメ台詞をほざくようなヒトじゃないものね」
F「というわけで、官渡の決戦を控えた当時、程cは700の兵を率いて、黄河の最前線を守っていた。ところが、タイミング悪く10万と号する袁紹軍が南下してきたとの情報が入る。曹操は慌てて2000の兵を援軍に出そうとしたけど、程cはこれを断った」
Y「700の兵なら小勢と見て見逃すだろうけど、数が増えれば攻撃される。そうなったら2700の兵全てを損なうことになる、と断ったンだったな」
F「で、事実袁紹は数が少ないからと無視しているンだ。曹操はこれを絶賛している」
A「まぁ、絶賛もしたくなるか……」
F「このあと、逃亡兵1000をかき集めて、李典とともに食糧の輸送にあたったり、黎陽(れいよう)の戦いの戦いに従軍したりしている。また、『私釈』の15回で見たように袁紹からの降伏勧告をはねつけさせたり、赤壁の戦いに先立って劉備を警戒するよう進言している」
A「……あれ? 軍師なのに、自分で兵を率いることも多かったのか?」
F「正史の行いだけで見るなら、もともとは将の立場にあって、戦略的な進言もしていたというところなんだ。どちらがメインかと云えば将としての振る舞いで、軍師というよりは智将と呼ぶべき存在なんだよ」
A「おいおい!?」
Y「それじゃ、郭嘉や二荀に劣っても無理はないな。あの辺は専業の軍師なんだから」
F「二足のわらじにもかかわらず、曹操への貢献度で『やや劣る』くらいでは、陳寿が謀臣列伝のトップに挙げたのも無理からぬオハナシでな」
A「なんとも、巧妙な評価と序列だな……」
F「さすがと云っていいだろうね。さて、程cは、もともと程立という名だったンだが、若い頃、泰山で太陽を捧げる夢を見てな。それが、荀ケを経て曹操に伝わると『君は最後まで、ワシの腹心となってくれるに違いない!』と絶賛され、立に日を乗せてcを名とした、とある」
A「だから『おひさまささえたくて』なんじゃね」
F「ただし、これは正史の注にある記述でな。物語としては面白いンだが、本当に立からcに名を変えたなら、順当に考えると『天下好交荀伯脩』こと荀c(ジュンイク、荀攸の祖父の兄)に倣った、ンじゃないかと思うところだ」
A「面白みがないオハナシじゃね」
F「濡須の戦いで、日輪がみっつ現れる夢を曹操本人が見ているが、それに先立って程cは引退している。この手で捧げた太陽から『兗州の敗戦の折に君がいてくれなかったら、ワシはどうしてここまで来れたか』と称賛されると『満足を知る者は(強欲との)誹りを受けない』という老子のことばを引いて、兵を返上した」
A「あっさりとしたモンだね」
F「他の太陽があがったモンだから、自分の年齢を自覚したのかもしれん。だが、曹操が魏公を経て魏王になると衛尉(宮中検察官)に取り立てられてな」
Y「邢貞と揉めたのはその頃だったな」
F「功なり名遂げて身を退く、というのは漢民族の理想とされるが、引退と云ってもそれとはちょっと違うワケだ。ラインからスタッフに移ったというのが正しいだろう。馬超討伐の折には曹丕とともに留守居を張っているが、程cが軍師というイメージはその辺りを膨らませて作られたものではないかな、と思う」
A「それまでは、実際に兵を率いてたことのが多かったようではなぁ……」
F「曹丕はその辺りをちゃんと見ていたようでな。三公に任じられる前に逝去した程cに、涙を流して車騎将軍の位を追贈しているンだ」
Y「軍師に追贈する役職じゃないな、オイ」
A「ホントに、軍師として扱うのでいいのか、疑問に思えてきた……」
F「続きは次回の講釈で」


程c(ていいく) 字を仲徳(ちゅうとく)
141年〜220年(老衰)
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兗州東郡出身の、曹操軍が誇る謀略家。
演義では狡猾な軍師というイメージだが、正史では知勇兼備の良将という感がある。

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