History Members 三国志編 第13回
「引き立て役ではない男たち・4」
F「では2日め。本来のリクエスト枠だった徐晃のオハナシに入る。ちなみに、リクエストくれたヤン・ヒューリック様が、件の『五将軍へのフォローを求めるメール』をくれた張本人」
Y「そいつが原因か」
F「あまり失礼な発言はしないようにな。僕とお前らと読んでくれる方がいないと講釈は成立しないンだから。それがなくてもいつかやらねば、とは思ってたからね」
A「その割には、『私釈』の本編ではフォローできなかったンだよな」
F「だから、今になってひいこらしてるンじゃないか……。えーっと、前回、曹操軍に降った武将はある程度の手続きを経てから一軍の将として用いられる、というのを触れたが、徐晃はそのケースに外れている」
A「あらま、あっさりと」
F「あっさりで悪かったがな。えーっと、例によって曹操に仕えるに至った経緯から。他の面子同様『私釈』では簡潔に済ませたが、割とどたばたの末に曹操の下についている。ことは、献帝がまだ長安にあった頃までさかのぼる」
A「ひと晩経って、テンションが戻ってきたか。えーっと、190年代?」
F「194年ごろかな。当時は李傕(リカク)・郭(カクシ)が宮廷を牛耳り暴威をふるっていたンだが、李傕の配下で白波賊の首魁を張っていた楊奉(ヨウホウ)が、李傕を暗殺しようとしたところ、その計画がどっかから漏れるという前に聞いたそのままの事態が発生している」
A「少しは懲りないモンかね」
F「ところが、居直った楊奉が兵を挙げると、むしろ李傕が劣勢に陥っていってな。その辺の混乱から献帝を逃がし、洛陽にお戻ししよう……と進言したのが徐晃だった。もともと郡で役人をしていたンだが、楊奉の部下になって功を挙げたとある。つまり、落草したワケだが」
A「らくそう?」
F「逼られて梁山にのぼる、と云えば判るか? 賊に身をやつすことをそう云う。緑林・白波と云えば盗賊の代名詞で、さっき云った通り、楊奉は白波賊の首魁でな。徐晃伝では車騎将軍とあるが、余人ならぬ献帝陛下が『かつて楊奉らは勝手に威令を揮った』と名指しで非難していることから、この名乗りは自称だったと考えていい」
Y「根っこが山賊に近い李・郭は、そんな楊奉も配下に収めていたと?」
F「董卓はあまり悪く云いたくないが、あのふたりに関してはそういうことだ。ところが、楊奉はどーしたワケか勤皇意識が強かった。徐晃の進言に従って、献帝を長安から脱出させ、攻撃してきた郭の軍を打ち破っている。が、李・郭が結託し攻撃してくると、かつての部下たちをかき集めて抵抗したものの敗れてしまった」
A「董卓軍の残りカス相手とはいえ、一介の賊どもで相手にできるレベルじゃないわな」
F「その場は何とか講和して、人数を減らしながらも献帝サマご一行は洛陽に到着した。……はいいが、今度は、董承が権力を握ろうと、生き残った数少ない家臣と抗争を始めてしまう。こりゃダメだ、と諦めた徐晃は楊奉に、今度は曹操に帰順するよう進言した」
A「今度は楊奉、それを容れない?」
F「一時は進言に従うつもりだったが心変わりした、とあるな。曹操の何が不満かというところではあるが、楊奉は討伐され、徐晃は曹操に帰順している。ことの推移から察するに董承が暗躍したンじゃないかと思うが、その辺は定かではない。ともあれ、徐晃は曹操に仕えるに至った」
Y「……お前、『私釈』の18回で『徐晃は楊奉を裏切った』とか云ってないか?」
F「前回触れたが、魏書武帝紀の注に『張遼・徐晃を捕虜の中から取り立てた』とある。だが、この記述をそのまま信じていいのかというところでな。張遼・張郃の曹軍人生は下積みから始まったのに、徐晃は即座に兵を預かって外に出され、賊を討伐して裨将軍に任じられている」
A「扱いが、あからさまに違うンだねェ」
F「つまり、曹操に仕えた経緯も違うと考えるべきだろう。張遼・張郃は曹操と敵対し戦火を交え、負けてから帰順しているが、徐晃の場合は戦わずに帰順したンではなかろうか、とな。それなら、扱いが違うのも無理からぬ話だ。のちに曹操は唯才求賢令を出しているが、才だけでなくある程度の人格も求めたのはつねづね触れている」
A「下積みをさせるのは、才ではなく曹操のために戦えるかというのを見るためだった、と?」
F「龐徳辺りの扱いと態度を見ていると、そう思える。ために、あーいう記述になった次第だ。ただし、魏書の十七巻が『張楽于張徐伝』になっているのは注目すべきだ」
Y「……どういう意味だ?」
F「徐晃は他4人に比べて一歩劣る、ということだよ。裨将軍に任じられて以降、対呂布戦・対劉備戦・対顔良戦では『(曹操に)つき従い』とあり、そうでない場合も『曹洪とともに』『史渙(シカン)とともに』出陣している。次に徐晃がひとりで一軍を預かるのは、鄴攻略戦が終わってからになる」
A「ひとりで使うにはやや不安があった、と?」
F「曹洪はともかく、史渙という人選が問題なんだ。この男、曹操の旗揚げ当時から従軍していたンだが、役どころは『諸将の監督』、つまり高級将官の監査官だ。出陣するたびにそんなモン帯同させられていたということは、素行に問題があったと考えていい。でなきゃ、監査官や曹操自らの下で使い続けるような真似はせんだろう」
A「……期待の新星だから、という考え方はできない?」
F「徐晃が史渙のように監査役になっていたなら判らんでもないが、徐晃はあくまで武将だった。才に期待はしていてもお目付け役は必要、という認識だったようでな」
Y「お前としては、徐晃への評価がやや低いのか」
F「この頃は、と区切るならな。だが、その辺りの僕と曹操の評価が変わる一件が起こった。冀州は易陽郡の韓範(カンハン)が降伏しなかったので、曹操は徐晃を派遣しているが、このとき徐晃は攻撃するのではなく矢文で説得して降伏させ、曹操には『先は長いンですから、許しましょうよ』と進言した」
A「降伏すれば攻撃しない、と周知させるため?」
F「うむ。実は韓範、降伏すると云っておいて抵抗する時間を稼ぐという、数十年後に諸葛格がだまされた真似をしでかしている。そんなことをした輩でも許される……と喧伝すれば、政治的な効果は大きい」
A「その辺りの配慮ができる武将だった、と」
F「智勇で云えば智にも秀でていた、と云える。この後も、主に曹操の本軍に従軍しているが、別働隊としての動きが活発になってもいる。普段は手元に置いておき、非常時には別行動させる……という使い方になっているンだ。相変わらず『満寵とともに……』『曹仁とともに……』とはあるが」
A「ひとりで動かすにはまだ不安があった、と」
F「だが、曹操としても評価はしていた。馬超の乱では本体から先行させて、郷里の河東郡を抑えさせているが、その際に、徐晃の先祖の墓に牛と酒を賜っているンだ。また、どうやって黄河を渡るのかで徐晃の意見を求めている」
Y「地元民だったか、そういえば」
F「うん。そこで徐晃は、精鋭を借りて黄河を渡ると陣地を作り始めた。当然馬超は放っておかず、梁興(リョウコウ)を出して妨害しようとするけど、数に勝る梁興の部隊を撃退し、しっかり陣地を作り上げている。これにより、曹操軍は黄河を渡ることができ、馬超の軍を打ち破った」
A「この頃には、ちゃんとひとりでも動かせる武将と思われていたワケかな」
F「どうやらな。だが、あくまで武将レベルで、地方軍を任されるほどではなかった。異民族の居住区まで逃げた梁興を追撃したけど、このときの主将は夏侯淵だ。張魯戦を経てそのまま対蜀戦線に残されているけど、夏侯淵が死に漢中を放棄することになったので、今度は荊州方面軍の曹仁の下につけられている」
A「割と転戦してるねェ」
F「例の、于禁降伏後に曹仁の救援に駆けつけたけど、このとき徐晃が率いていた兵は新参が多くて、関羽とマトモに戦える戦力ではないと自覚があった。将としても及ばないと判っていたので、計略で対処している。まずは前進して拠点を確保し、後続の軍勢を待った」
Y「西涼兵でも抜けなかったンだから、荊州の弱兵で徐晃の陣を抜くのは無理だろうな」
A「率いてるのは関羽じゃぞオラ!」
F「まぁ、この時点では戦闘にならなかったンだ。関羽も警戒したみたいでな、軍を偃城に留めている。それと知った徐晃は、塹壕を掘ると偃城の背後に回って補給を断とうとする動きをわざと見せた。それをやられてはかなわんと関羽が兵を退くと、徐晃はあっさり偃城に入っている。というわけで、偃城は関羽の軍に包囲されかかった」
A「……えーっと、わざと城を捨てて取らせ、それを包囲する作戦か」
F「失敗したンだけどね。曹操が亡くなるのは翌年なんだが、この頃にはやや衰えていたのか、戦場(この場合は徐晃の陣地)に近い位置にいた部隊から、随時徐晃に合流させるという、戦術理論上はやっちゃいけないことの筆頭格な真似をしでかしていた」
ヤスの妻「少ない兵数を順次敵に叩きつけたところで、各個撃破の格好の的になるから、時間がかかっても先にいちど合流してから進軍するのが正しいンだよ。戦術理論上は」
A「理論上、に限定するのは?」
F「困ったことに、結果としてコレがいい方向に働いた。もともと弱兵+後続の部隊だけだった徐晃の軍を、偃城に押し込んで包囲しようという策だったのに、次から次からやってくること12部隊。実数は不明だが当初の倍にはなったみたいでな。囲むに囲めない状態になっちまったンだな、コレが」
Y「狙ってやったンじゃないか? 曹操なんだし」
F「うん、そうも思える。徐晃が偃城を出て自ら関羽の軍に向かって行ったのは、偃城に軍が入りきらなくなったから……という側面は否定できない。このとき関羽は、自軍をふたつに分けていた。正面から偃城を包囲する部隊と、後続の部隊を遮断しようとする部隊だ。もちろん、関羽は正面にいる」
A「遮断部隊には関平かな」
F「人事に明記はないンだが、徐晃は『よし、関羽を攻めるぞ!』と喧伝しておいて、そっちの遮断部隊に襲いかかっている。あっさり叩き潰されそうになったモンだから、あわてて関羽は5000の兵を引き連れて出陣してきた」
Y「で、問題のあの一件になるのか」
F「うむ。三丈とあるから10メートルたらずか。戦場でまみえた両将だが、もともと互いに敬愛しあっていた(と、関羽伝の注にはある)ので、まずは世間話を始めた。ところが、しばらく話しこんでいたものの、徐晃は馬を降りると『あのヒゲを討ち取ったら一千斤の賞金だぞ!』と兵たちに命じている」
A「おいおい、それはないだろう……と困る関羽に『これは国家のことなのだ!』と突っぱねる、だったね」
Y「徐晃の人格を顕著に表わす一件だな」
F「ところで。突然ですが、ここで問題です。通常、武将が馬を降りるのは、どんな相手の場合でしょう」
A「え? っと……どんなって」
Y「……目上の相手、だろうな」
F「この辺りが、曹操が史渙をつけていた理由だろうと思うンだ。確かに、この戦闘で徐晃は関羽に勝った。だが、関羽との雑談に応じ、蜀書(の注)では『互いに敬愛しあっていた』とまで書かれている。素行が悪いと云うか、誤解を招きかねない粗忽さが、徐晃にはあったように思える」
A「疑われても、仕方のないことをしてるのか……」
F「関羽を油断させるためだった、とは思えん。徐晃の性格からしてない。何より、それなら馬を降りた理由に説明がつかん。どうにも徐晃は、関羽を殺したくなかったように思えるンだ。だが、本人が云う通り、これは国家のことだから、私情ではなく公儀を優先させた」
A「それでも馬を降りた辺りに、徐晃の本心はあった、か」
F「関羽を打ち破り凱旋した徐晃を、曹操は七里も出迎えている。そこで大宴会を催したが、集結した諸将の陣営を曹操が巡察すると、兵士たちはこぞって陣を離れ見物に来たのに、徐晃の部隊だけは整然としていた。本人の性格に問題はあっても、軍務に支障はなかったワケだ」
Y「法は大事だが、それ以上に情を重んじていた辺りが、史渙が于禁にはつけられなかった理由ということか」
F「関羽が死に曹操が死んでも、徐晃は第一線で戦い続けていた。西は上庸の劉封(徐晃伝では劉備になっているが、時期からして間違い)を討伐し、南は襄陽で瑾兄ちゃんを防いでいる。時代が後漢から魏に移っても戦い続けたが、その奮戦ぶりについて徐晃本人のコメントがある」
「古人は名君と出会えないことを苦しんだが、私は幸いにも名君に出会えた。だから、力を尽くして功績をあげねばならん。どうして、私個人の名声を気にしようか」
Y「士は己を知る者のために死ぬ、だったな」
F「関羽に遅れること8年、曹操に遅れること7年の227年に死去。孟達に射殺されるのは演義でのフィクションになる。生年不詳のため享年は不明だが、黄巾の乱から40年以上だ。まぁ、若くはなかったと考えていいな」
A「大往生だね」
F「続きは次回の講釈で」
徐晃(じょこう) 字を公明(こうめい)
?〜227年(生年不詳だが大往生)
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司隷河東郡出身の猛将。
やや素行不良ではあったが、曹操に重用され、関羽から認められた。