戻る

History Members 三国志編 第12回
「引き立て役ではない男たち・3」

A2「ひあっ!?」
A「あーさん? どしたの?」
A2「(ふるふる)……いま、おこたの中でなにか冷たいものが」
F「……あ、済まん。僕の足だ。冬場、僕の体温35度ないから」
Y「ガン細胞がいちばん活発な温度帯らしいな」
F「翡翠が結婚するまでは死なんよ。おい、翡翠印の葛根湯くれ」
三妹「はいはい」
ヤスの妻「えーじろの身体って、どこか本格的におかしいよね」
三妹「冬場はつらいのよねー。あそこにアイスキャンディー突っ込むプレイがあるでしょ? あんな感触で」
F「そこまで冷たくないと思うンだけどなー!?」
A「えーっと、ねーちゃんと子供たちは寝てるから、あんまり騒ぐのは……」
F「あぁ、そうだな。明日……もとい、すでに今日だな。今日は更新できない旨告知してあったから、3人めで今日の分は終わっておこう。というわけで、3人めは順番通り張郃について」
Y「順番としては李典のが話しやすいとは思うがな」
F「正史がこの順番になってるンだよ。えーっと、張郃、字は儁乂……どっちも常用じゃないな。云うまでもないと思うが、もと袁紹軍所属だ。より正確には、黄巾の乱に際して韓馥の募兵に応じ、その配下に収まっている。ところが、袁紹が韓馥から冀州を奪うと、兵を率いて仕えるに至った」
A「あっさり二君に仕えたのか」
F「韓馥自身がそれほどの人物ではなかった、というのは考慮すべきだが、それは事実だな。袁紹配下になるとコーソンさんへの抑えに回され『コーソンさんが敗れたのには張郃の功績が大きかった』とある。顔良文醜麹義には及ばなくても、それなりに重きを置かれていたようでな」
A「及ばんのかい。顔・文は仕方ないにしても、えーっと……」
F「コーソンさんの白馬軍団を壊滅させた武将だってば。顔・文に次ぐ、袁紹軍の武臣ナンバー3だったと見ていいが、張郃はそれに次ぐくらい、かな? というところかなーと」
Y「正史コーソン伝には、麹義の名はあっても張郃の名はないからなぁ」
F「えーっと、その場合は略すな。公孫瓚(コーソンさん)伝なのか公孫度(コウソンド)伝なのか判らんから。ともあれ、その麹義が官渡の決戦を前に粛清され、顔良・文醜があっさり戦死すると、残った張郃は袁紹に軍事面での献策をするようになった、ともとれる。実戦部隊からの発言というかたちで上奏するワケだが」
A「中間管理職は辛いな」
F「しかも、郭図(カクト)が自分の権益のため、袁紹によからぬことを吹き込んでいた。その最たるものが、官渡の決戦を決着させた烏巣襲撃作戦への対応でな。『私釈』37回で触れたが、ちょっと確認してみよう。袁紹を裏切った許攸(キョユウ)が、袁紹軍の食糧は烏巣に集積されていることを曹操に暴露。曹操は自ら烏巣攻撃に乗り出したことへの対策が紛糾している」

張郃「曹操の兵は精鋭ですから、淳于瓊(ジュンウケイ)を打ち破るに違いありません。淳于瓊が敗れれば将軍(袁紹)の事業はそれで終わりですぞ。ただちに烏巣を救援すべきです」
郭図「いやいや、それは違う。ここは、曹操の本陣を攻撃すべきだ。そうすれば曹操は必ず引き返すだろうから、烏巣を救援しなくても事態は解決する」
張郃「曹操の堅陣を攻撃して、攻略できますか。その間に淳于瓊が敗れれば、我らはみな捕虜になりますぞ」

ヤスの妻「一見して、どっちが正しいとは云えないンだよねェ」
F「ですね。後世の僕らから見れば、郭図の発言は曹操を甘く見ているのがはっきり判りますが、長年曹操とつきあっていた袁紹でも『本陣さえ落とせば、奴らは帰る場所を亡くすぞ!』と読み違えている辺り、曹操軍の実力ではなく、この烏巣襲撃に賭ける曹操の意気込みが並みならぬものだったと云えましょう」
Y「まぁ、袁紹でも読み違えたことが、郭図で読めるはずがないわな」
F「だが、張郃はそれを読んでいた。烏巣を守るのが第一だと主張したンだが、ここまでの優勢に驕っていた袁紹はそれを容れない。烏巣には騎兵を送って救援させたものの本腰が入っておらず、郭図の策に乗って曹操の本陣攻略に主戦力を投入している。つまり、張郃本人だが」
A「これ、完全に判断ミスだよね?」
F「結果を見ればそうなんだが、判断としてはミスとも云い難い。顔・文に麹義まで亡くしている状態では、袁紹軍における張郃の存在は切り札的な決戦戦力と期待できた。それを主戦場に投入して戦況を覆すのは、戦法としてはまったく正しい。問題は、どこが主戦場かという認識が曹操とずれていたことだから」
Y「それでいて、本陣を攻撃したことそのものは間違いとも云えんよな。曹操が出陣中で精鋭部隊が抜けているンだから、敵の総大将と主力が抜けた本陣で残っている連中なら、攻略できると踏むのも無理はない」
F「だが、天は袁紹に味方しなかった。曹操は、派遣された騎兵隊もろとも淳于瓊を叩き潰し、烏巣を焼き払っている。これにより士気を逸した袁紹軍は潰走し、曹操軍の本陣前にぽつんと残されたかたちの張郃は、そのまま降伏したいと申し出た。本陣の留守を預かっていた曹洪は信じられないと疑念を抱くが、荀攸の説得で受け入れられている」

「張郃は、自分の進言が容れられなかったのに腹を立てて降ってきたのです。何を疑う必要がありますか」

F「ただし、裴松之が指摘している通り、張郃の降伏したタイミングは武帝紀(曹操伝)・袁紹伝と張郃伝で異なっていて、前者では『淳于瓊が敗れたのを聞いた張郃が降伏し、ために袁紹軍は壊滅』している」
Y「張郃伝では、軍が崩壊したモンだから、郭図が『野郎は我が軍が崩壊(すると予見)したのを調子に乗って、不遜なことをほざいています!』と袁紹に讒言し、身の危険を感じた張郃は降伏した……となっているな」
F「どちらかといえば前者が正しいように思える。張郃の戦略眼は正確だから、淳于瓊の死によって袁紹軍が壊滅するのを察し、曹操に投降したようにな。敗れてなお袁紹の本陣に留まっているのは張郃らしくないし、顔・文・麹義亡きあと最強の切り札が抜けては軍が崩壊するのも無理からぬオハナシだろう」
A「それくらい、影響力はあったンだ……」
F「かくて、張郃は曹操に仕えるに至っている。ただし、仕えて当初は、張遼同様単独では用いられなかった」
A「はえ?」
F「先に張遼での実例を見ると、ちゃんと一軍を預かり戦場に出たのは顔良との白馬での戦いが初めてで、それまでは曹操の指揮下で戦っている。官渡での決戦後は別働隊の指揮を任されたりもしたけど、そこにも夏侯淵楽進をつけられていたンだ」
Y「無理からぬ話ではあるよな。かつて激闘を交えた敵将なんだから、手放しで信用するのは難しいだろ」
F「うん、張郃に関してもそれはほぼ同じ。まずは曹操の指揮下で鄴を攻略し、袁譚と戦っている。その後は『張遼とともに先鋒となり……』『張遼とともに賊将を討伐し……』と、この頃には認められていた張遼の下につけられていた形跡がある」
A「曹操軍に降った武将は、とりあえず曹操の指揮下で才能と人格を見極められて、次に他の武将の下で戦い、さらに大丈夫だと判断されたら一軍を預かれるようになる?」
F「そういうパターンがあったようなんだ。それを考えれば、白馬の戦いで関羽が張遼とともにいたのも、そのあとで曹操のもとを辞したのも無理からぬオハナシということになる」
ヤスの妻「要するに『コイツはダメだ』と思われた、と」
A「非道いこと云ってるよ!?」
F「云いにくいことではあるが、そういうことなんだろうなと僕も思う。ただし、張郃が張遼の下につけられたのは、地元に詳しい武将による道案内という側面もあるのは確かだが」
Y「さらに『張郃ほどの武将が曹操に降った』と喧伝する目的か」
F「一石三鳥というワケだ。その目的があってだろう、赤壁には従軍しなかったようだが、これは北方の鎮撫を担当していたと考えていい。それから涼州で馬超と戦ったり、漢中方面軍の夏侯淵の下で奮戦したりと、曹操軍団の外様衆ではひとかどの地位と名声を得るに至っている」
A「全体としては負け戦が多いって印象なんだけどなぁ」
F「まぁ……事実だな。官渡では敗走する袁紹軍から降伏してきたし、漢中争奪戦では夏侯淵を死なせている。が、その漢中争奪戦での働きぶりは、はっきり正史に記されてある」

「張郃は(漢中を守れと命じられていたが)益州に進軍して巴郡を攻略し、住民を漢中に移住させた。張飛に抵抗されたため引き返したが、この功で雑号将軍に昇進した」
「陽平関に来た劉備は一万の精鋭で夜襲をしかけてきたが、張郃は親衛隊を指揮して白兵戦を展開し、十度に渡る波状攻撃を防ぎきったため、劉備は侵攻できなかった」

F「夏侯淵が斬られても『張将軍がいれば大丈夫!』と郭淮に太鼓判押されたのも、まぁ納得できる状態でな」
A「はぁー……」
F「張郃の生涯に負け戦が多い、それは事実だ。だが、その点に関して、興味深いメールをよくくれる中井様から、面白いご意見が来ている。許可は得てあるので、改行位置だけ変えて引用してみる」

劉備が張こうを高く評価していた話で思い出したことがあります。
ある時、父と会話していて、世界で一番すごい国はどこかという話になったことがあります。
このとき、父は、「お前の死んだ爺さんが儂にかつて、大英帝国と決して事を構えてはならないと教えられたことがある」と、答えました。
なぜかと聞いたら、「あの国は決して日が没することのない大帝国。負けることなく、常に勝ち続けるためにその研究を怠らず、決してその歩みを止めることはない。あの国と争った場合、それ以上の準備をしなければ負けることは必定」と、言っていたと答えてくれました。
そこで、僕は英国の真似をすればいいのかと聞いたら、「あの国は危機管理のレベルが高すぎて到底今の日本では真似できない。まずはフランスの真似をすることだな」と答えてきました。
当然、フランスは弱いじゃないかと笑ったら、「だが、あの国は、敗戦陣営にいたためしがない」と、真面目な顔で返事をされ、吃驚しました。
続けて、「確かに、国としては負けているが、最終的には勝利者陣営にしかいない。ナポレオンの時でさえ、戦後処理の時は敗戦国として外交の舞台にいたわけではない。あのしたたかさをまずは真似るべきだ」と。
それを聞いて僕は感心しました。
確かに、フランスは二次大戦中ドイツにいいようにされていましたが、結果的には負けていません。その後の世界でも、かなり優位な地位を占めているわけです。
自力では勝ったとは言いがたいのですが、最終的には誰もが勝ったと認めているわけで。

で、なぜこの話を思い出したかと言えば、曹操がイギリスで張こうがフランス、劉備をドイツと考えると、自分の中ですとんと何かが落ちてきたのです。

曹操は絶対強者です。張こうは出る負けですが、結果的には勝ち組にいます。劉備は実力はあるが、最後の最後に勝っているという位置にいることは少ないです。
即ち、劉備は勝利陣営にいることの難しさを知っており、同じ出る負け系で被っているキャラの張こうが最後は常に評価されて勝利者陣営にいるというのは不気味で、納得がいかないからこそ、畏れていたのではないか、と。
その上、袁紹の元で知り合っており、人となりを知っていたとすれば、よりいっそう自分と同じキャラなのに、常に勝ち続けているというのは何らかの警戒感を有してしまう相手なのではないかな、と思ってしまったわけでして。

そう考えると、常に曹操の元にいて、勝利の立役者になっている分かり易い夏候淵より、自分と同じように複数の陣営を渡り歩いているのになぜか最後は勝利陣営にいる張こうの方が予想できないために恐ろしさを覚えるのではないかな、と。
それがあの高評価に繋がってしまったのではと考えが至ってしまいました。

F「まず、メールありがとうございました」
一同『ありがとうでーす』
F「123回で張郃を割とボロクソにこきおろしてから頂いたメールなんだが、五将軍についての講釈ということで史料を調べ直して、評価を考え直すべきだと考えた。張郃は『負け人生』と云われても仕方ない人生を送っていたが、確かに、結果論では勝者の側にいる」
Y「半ばコイツのせいで負けた袁紹、みたいなケースもあるがな」
F「問題は、それが張郃の意志なのかそうでないのか、だ」
ヤスの妻「つまり、張郃には、最終的な勝利者を判断できる能力があったかどうか?」
F「です。難しい問題ですが、それを判断する材料はあります。魏書武帝紀の注には『于禁・楽進を兵卒の中から抜擢し、張遼・徐晃を捕虜の中から取り立てた』と、『引き抜きメモリアル』曹操の人物鑑定眼を高く評価した記述がありますが、張郃の名はありません」
Y「張郃がこの4人に劣っているから挙げられなかったのか、この4人より上だったから並べられなかったか……という話で、お前の見立てでは上だったと?」
F「実史における張郃は、ただの武将ではない。他の4人の伝には少なくとも記述がない『儒教に通じ、同郷の文人を品行が備わっていると朝廷に推挙した』と、文治にも通じていたのが記されている。当時すでに皇帝は曹叡(二代)だったが、光武帝に仕えた『冷静なる猛将祭遵(サイジュン)を引きあいに出して、それを容れているンだ」
A「それ、猛将じゃねーよ!」
F「その通り。最終的な勝利者が誰かを的確に判断し、それを支えることで歴史に名を残す。軍を率いては勇猛、文に親しんでは明晰。敵には恐れられ味方には恃まれる、そんな存在を、歴史は英雄と呼ぶ」
A「……ぅわ」
F「『私釈』であまり褒めなかったのにンなこと云っても、あまり納得できないかもしれんがな。北方での騎兵戦、劉備相手の歩兵戦、荊州では呉を相手に水軍・船戦も演じている。また、孫子の兵法を応用した戦術で馬謖を打ち破り、孔明の第一次北伐を叩き潰したのも張郃だった」
Y「歩・騎・水軍戦に通じ、智勇にも通じているオールラウンダー。まぁ、名将と呼ばれる条件は満たしているか」
F「それだけに、たしか陳舜臣氏が、西方軍における自己の権力獲得のため、仲達が張郃を謀殺した……と書いていてな。結果論で仲達に殺された、というのは僕も123回で認めている通りだ」
A「……使いこなせなかった袁紹が悪いのか、それとも郭図が悪いのか」
F「使いこなせなかったのは仲達も同じだからねェ。ところで、正史のところどころに記された、異様にまで高い張郃への評価を確認しておこう」

「かつて伍子胥は主を間違えたと自覚しなかったため自害に追い込まれ、その屍は長江に捨てられた。将軍がこちらに来たのは、韓信が漢に帰服したようなものだろう」(張郃伝、曹操の台詞)

「ほしいのは夏侯淵の首級じゃない! いちばん肝心なのを討たんでどうする!?」(張郃伝の注、劉備の台詞)

 ――(張郃が到着すると)諸葛亮をはじめ蜀軍は、みな彼を恐れはばかった。(張郃伝本文)

A「半ば寝ボケての云いすぎってワケじゃないンですね……」
F「続きは次回の講釈で」
ヤスの妻「じゃぁアキラ、義姉さんといっしょに寝ようね!」
Y「寝ボケてるのはお前だ! 俺とだろうが、寝るなら!」
ヤスの妻「あの……ヤス? そりゃわたしたち夫婦だけど、そんなはっきり云われると年甲斐もなく照れると云うか」
Y「そういう意味じゃねー!」
A「どーいう?」
A2「どきどき……」
Y「注目するな! おい幸市、何とか……」
F「ぐー……」
Y「……解散!」
三妹「はいはい。まったく、うちの男どもは世話が焼けるンだから」


張郃(ちょうこう) 字を儁乂(しゅんがい)
?〜231年(木門道で戦死)
武勇4智略5運営4魅力4
冀州河間郡出身の、魏が誇る名将。
敵対していた曹操に仕え、のちに劉備・孔明を脅かす将帥に成長する。

戻る