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History Members 三国志編 第11回
「引き立て役ではない男たち・2」

F「では、即座に于禁について」
A「あれ」
Y「今日中に、楽進・于禁に李典くらいまで終わっておくのか?」
F「いや、5人全部だ」
他全員『おいっ!?』
F「先に云っただろうが、スコアを更新すると。今のところの最大値は一日3話公開だが、それを覆すべく5話公開を目指す。五虎将については一日で講釈したのに、魏の五将軍でそれができなくてどうするンだ。それも、全開で書けば本一冊になる張遼は抜いてあるぞ」
A「そういう問題じゃねーでしょーが!」
F「何の理由もなく明日の更新を休むと思ったのか? まぁ、疲れたら抜けていいよ。さすがに、ひと晩で5人とまでは思ってないから」
A「いいけどね……4回ばかりスペシャル版があったけど、それに比べれば短いだろうから」
Y「魏将でなかったら、さっさと抜けてしまいたいところだが、いいだろう」
F「いいお返事だな。では、引き続いて于禁のオハナシ。『私釈』では曹操に仕えた経緯を、単純に『鮑信(ホウシン)から受け継いだ』としたが、正確にはちょっと違う」
Y「途中を省いたワケか」
F「うん。時期に関する記述が混乱しているンだけど、何進は鮑信を洛陽から出して兵を集めさせている。これが于禁伝では黄巾の乱が起こった当時とあって184年のこと。ところが鮑信が洛陽に戻ると、すでに何進が死んでいたとあるから189年以降になる。そんなに時間がかかったのか、というところでな」
A「途中で道草というよりは、宦官との対決に備えて手勢を集めさせたってところじゃないかな」
F「黄巾との記述は残党のことで、口実だったと考えていいだろうね。で、郷里の泰山郡で募兵していたンだけど、それに応じた中に同郷の于禁がいてね。鮑信は袁紹に『董卓を討つべきです』を進言したけど、袁紹が容れなかったため、乱から身を引いて故郷に帰っている。于禁もそれに同行したと考えていい」
A「まぁ、主君がいなかったら朝廷に留まっている理由はないか」
F「その後鮑信は、歩兵2万に騎兵700、輜重車五千台を集めたうえで、冀州を得た袁紹を『董卓がもうひとりいるようなものです』と非難して、曹操についた。実際のところ、この数字は初期の曹操軍の軍事力・経済力を上回っており、鮑信がその気になればひとりの群雄として立てたのに、彼は曹操を選んで下についている」
Y「同盟関係じゃないのか?」
F「名目上は対等の同盟でも、国力が上の側が立場も上になるだろ? この時点で曹操と鮑信が同盟を結んでも、傍からなら鮑信のが上に見えるんだ。歴史的に云うなら、鮑信の政戦両略に関する見識は極めて高いものだった。この時点で曹操の将来性を見越して、曹操に協力しているンだから」
A「曹操を上に立てるには、鮑信が下につかないといけない、と」
F「で、黄巾(の残党)との戦闘中に、曹操はどこに伏兵を置くべきか、戦場の視察に出たところ、奇襲を受けた。後続の歩兵がまだ来ていなかったので、手元にいた部隊だけでの迎撃を余儀なくされたンだけど、衆寡敵せず包囲されている。鮑信が必死に包囲網を破って逃がしたから曹操は生き残れたものの、鮑信はそのまま戦死」
A「あらら……」
F「先に、鮑信の弟も曹操の敗戦に巻き込まれて戦死したとあり、兄弟そろって曹操のために命を投げ出したような状態でな。曹操は鮑信を惜しみ、懸賞金を賭けて死体を探させたンだけど、結局見つけられなかった……とある。192年のことだが、享年41歳だった」
A「軍と物資を奪うため曹操に謀殺された、というワケじゃなさそうだね」
F「違うと思うぞ。その後に于禁が、曹操が兗州を得ると、同僚ともども曹操の配下になっているから。疑わしいようならそんなことにはならんはずだ」
Y「だろうな」
F「より正確には、いったん王朗の配下に回され、王朗が『一軍を任せられる器です』と曹操に推挙し、直接引見した曹操に認められた、という次第だが。ただ、この『王朗』が王粛の父の王朗かはちと不明だ。孫策に敗れた本人が曹操に仕えたのは198年のことになるから」
A「年代が微妙にずれているイベントが相継ぐンだねェ」
F「かくて曹操に仕えた于禁は、その配下として転戦することになる。前回(さっき)見た楽進の対呂布戦・対張超(チョウチョウ)戦・対橋蕤(キョウズイ)戦にも従軍し、敵陣を攻略したり城を陥落させたりしたのが、正史に記載されている。また、のちに劉備とともに曹操の後方を扼す劉辟(リュウヘキ)と、195年ごろに戦闘して打ち破っている」
Y「功績としてはどうなんだ、というレベルだな」
F「于禁の功として正史に特筆されているのが、197年の対張繍戦だ。『私釈』の29回で触れたが、敗走する曹操軍の兵が味方の青州兵に略奪を受けたので、自分の部隊で攻撃をしかけている。当然青州兵は『于禁が裏切りましたー!』と曹操に訴え出るが、于禁は追撃に備えて陣地を整えてから曹操のもとに出頭し、事態を釈明」
Y「曹操は喜んで『この敗戦はワシにとって危急の事態であったのに、将軍はよく混乱せず、暴虐を討ち陣地を固めてくれた。節義を備えたその様は、古の名将であってもこれ以上ではあるまい』と絶賛している」
A「その辺の節操はわきまえているのに、あの最期なんだ」
F「えーっと、そこまで飛ぶのはちと早いな。200年に入ると曹操と袁紹の対立は本格化し、いよいよ官渡の決戦に突入することになった。だが、曹操はメインディッシュを前にオードブルを片づけようと、徐州の劉備を先に討つと計画だてている。その際に問題になるのが、誰に北への抑えを任せるのか、だ」
Y「その機に乗じて袁紹が攻撃をしかけてきたらかなわんからな」
F「だが、鎧袖一触に劉備を斬り伏せて袁紹に向かう、という戦略方針の都合で、あまり多勢は残せない。強大な袁紹軍の正面に立って受け止める役目を、誰が背負うのか……を、志願したのが于禁だった。曹操は『その意気やよし!』と認め、兵2000を預けて黄河のほとりに派遣している」
Y「そして、今度も上手くやった」
F「実際に兵を出してきた(兵数不明)袁紹と交戦し、これを防ぎきっている。劉備を破った曹操本隊といったん合流するが、楽進とともに兵5000で黄河を渡り、西南方面に進出していた袁紹軍の陣地を焼き払って回った。二県三十数ヶ所の陣地を攻略し、部将20名あまりを斬り、討った首級・得た捕虜が併せて数千にのぼっている」
A「どちらかと云えば、野戦より陣地戦や城郭戦に強いのかな?」
F「そうなるな……官渡で対陣中、袁紹が土塁を連ねて高いところから矢を射かけてきたけど、混乱する曹操軍中で、守備の指揮を執って奮戦したのが于禁だったとある。また、張遼が長城の外に侵攻したときには食糧輸送を担当し、途絶えさせなかったとあるので、地味な業務にも耐えられる人材だというのが判る」
Y「得難い人材ではあるよな。あの最期はどーかと思うが」
F「だからー……まぁ、お望みならもうやるか。ところで、于禁に関しては、正史でもその才を絶賛する記述がある」

「于禁は張遼・楽進・張郃徐晃らに並び称された名将であり、曹操が出征するたびにかわるがわる起用され、進軍のときは先鋒となり、帰還のときは殿軍を張った。しかも、于禁の軍を保持する態度は厳格で、賊の財貨を手に入れても懐に入れることはなかった。そのため、恩賞はとくに手厚かった」

A「節度はある、と認められているのか」
F「ただし、才はあっても徳はない。法を厳格にして下を統御したため、兵や民衆の心はつかめなかったともあってな。昌豨(ショウキ)という、于禁と旧知の武将が曹操に叛逆し、于禁に討伐されると降伏してきた。配下は曹操のところに送るべきだと主張したが、于禁はそれをつっぱねている」

「曹公は『包囲されてから降伏した者は許さない』と命じられている。法を重んじて命を実行するのは上に仕える者の守るべき節義である。昌豨は旧友だが、私は、節義を失うわけにはいかない」

F「泣いて昌豨を斬ったとあるが、裴松之は『于禁よォ、旧友のために曹操の気まぐれを期待してやってもよかったンじゃねェか?』と、曹操のもとに送るべきだったと于禁を非難している。曹操こそ『それなら運命だったンだなぁ』と于禁を重んじるようになったが、この態度はよろしくない、としている」
A「気持ちと理屈は判る。叛逆しても、降伏して許された面子って少なくないだろ?」
F「だが、于禁は『法は厳格に』『命は絶対』と信奉していたようでな。そんなことをしていただけに、演義では曹操軍団の暗黒面を引き受け、降伏した劉j(リュウソウ、劉表の子)を殺すような悪事をしでかしている。これが羅貫中の、悪意からの人事だというのは云うまでもない」
A「羅貫中は、何でそんな人選をしでかしたンだ?」
F「さっき触れた『かくて曹操に仕えた』直後、于禁が最初に命じられたのが、徐州への攻撃なんだ」
A「……徐州殺戮の、実行犯?」
F「明記はない。だが、于禁ならやりかねないのはいいと思う。命令なら、非戦闘員への攻撃でも躊躇わないタイプだというのは。その意味では曹操にも重宝されたようだが、その辺の性格が悪い方向に進んだのが関羽への降伏だった」
Y「法を厳格に遂行するのに、敵に降ったンだからなぁ」
F「もともと『(関羽に攻撃されていた)曹仁を助けろ』と命じられていたモンだから、いっときは関羽に膝を屈してでも、何とか魏に戻って忠義を尽くしたいと考えたンだろう。また、于禁の軍が降伏したことで、喰わせるのに困った関羽が呉の食糧庫を襲い、それが理由に呉が戦況に介入してきたのと考えると、結果としては命を全うしていることになる」
A「間接的に関羽を殺した、と?」
F「そう云ってもいい、程度のモンだが、残念ながら曹操にも曹丕にも、于禁のこの行いを褒める意思はなかった。曹操ははっきり『30年ワシに仕えたのに、龐徳に及ばんとは……』と非難しているし、曹丕は曹操の墓に、関羽が勝ち、龐徳が毅然と降伏勧告をつっぱね、于禁が降伏している姿を描かせている」
A「……龐徳はともかく、関羽と于禁への態度はどうなのよ、それ」
F「これには、『ドS』曹丕ならではの事情も存在している」
Y「曹丕にまで変な二つ名をつけるな!」
F「ええぃ、やかましい。曹植との熾烈な後継者争いで勝利し、やっとこ魏の皇帝となった曹丕の政権には、曹植および他の弟たちが存命の間、常に簒奪されるという危機感があった。ために『30年曹操に仕えた』于禁であっても、魏に忠を尽くさない奴は生かしておかない……みたいな意思表示ともとれるンだ」
Y「云わば見せしめか?」
F「そゆこと。そして、日頃から『兵や民衆の心はつかめなかった』『人々はみなおそれて服従した』と、人格面で難のあった于禁は、そのターゲットにもってこいだったワケだ。はっきり『これじゃ死後に悪い諡号を送られても当然だ』と云った裴松之のみならず、于禁を惜しむ声はなかったンだから」
A「……鮑信が生きていればなぁ」
F「その場合だと『鮑信の配下の于禁は、性格は厳格だったが忠実に命をこなし、よく鮑信を支えた』程度の扱いで、優秀とは云われても高くは評価されなかったと思うぞ。晩節を汚したのは事実だが、于禁は于禁で戦い抜き、きちんと名を残しているンだから」
Y「曹操に仕えたことで歴史書への残り方を変え、だが、悲運の最期を遂げたと」
F「自分が関羽に降伏している姿を見た于禁は『面目なさと腹立ちのため病気になって死んだ』とある。30年仕えて自分がこの扱いでは……と腹立たしく考えたのは無理もないとしても、面目ないと考えた辺りに于禁の真髄はあるンだろう。もっとも、誰に申し訳なく思ったのかは、確かめるすべもないが」
A「……惜しんでいいひとを亡くした、というところかね」
F「続きは次回の講釈で」


于禁(うきん) 字を文則(ぶんそく)
?〜221年(曹丕のいびりに耐えかねて憤死)
武勇4智略3運営4魅力1
兗州泰山郡出身の武将。
曹操には重用されたが、晩節を汚したことで曹丕にいびり殺された。

鮑信(ほうしん) 字は不詳
152年〜192年(曹操を助けようとしての戦死)
武勇3智略5運営4魅力5
兗州泰山郡出身の、後漢末の群雄のひとり。
曹操の将器に惚れ込んで一族と財産をなげうって仕え、ついに命まで投げ出した。

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