戻る

History Members 三国志編 第10回
「引き立て役ではない男たち・1」

F「今さらではあるが、『私釈』は三国志の初心者向けではなかった」
満場一致『当たり前です!』
F「凄むなよ! 正史六分に演義が二分、残り二分の出典は不明、というのが軍師サマに云わせたところの『私釈』だが、基本コンセプトが『演義派の読者に正史の内容を講釈する』ものだったからな。ために、正史を読めば魯粛が優れた人物だというのがすぐに判るのに、その辺のネタを引っ張り続けたりしていた」
A「あんまり納得できないンだが」
F「南蛮が蜂起した原因が呉だ、というのも演義からは判りにくいネタだろ? そういうのを積極的に拾っていたンだが、一方で、演義で劉備一家および蜀の引き立て役として使われている魏将については、ほとんど放置していた」
A「えーっと、魏将で登場回数が30超えてるのは……張遼36回、張郃32回、夏侯惇31回、くらいか」
F「徐晃19回、許褚18回、楽進16回、于禁15回、李典14回というところだが、諸葛誕が30回超えてたと思うぞ。それでいて、コラム扱いではあるが蜀の五虎将については一回を割いたのに、魏将の回がなかったから、その辺のフォローを求めるメールも来ててな」
Y「扱い悪いのは事実だな」
F「というわけで、今回から5回シリーズで、魏の五将軍について、簡雍たちとは違ってひとり一回ずつ講釈する。ただし、ちょっとした都合で張遼は後回しなので、五将軍マイナス張遼プラス李典、ということになるが」
A「それが狙いで、楽進・于禁・李典の登場回数がこんななのかい?」
F「いや、それはホントに偶然。ちなみに、ひとりあたまの分量がちと抑えめになる予定なのも覚えておいて。まず確認だが、魏の五将軍というのは、正史魏書十七巻に伝が立てられている張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃のこと」
Y「だな」
F「以前触れた通り、羅貫中は蜀書の第六巻に伝が併記されている関羽張飛馬超黄忠趙雲(正史ではこの順番)を、演義で五虎将とした。これについては『魏にはあんな立派な武将たちもいる。そうだ、蜀将も5人並べてみよう。そうすれば、見劣りしない武将がいたって思わせられるぞ』と陳寿が画策した、なんて意見もある」
Y「問題は質じゃなくて量なんだがな」
A「それを云わないでください……」
F「まぁ、陳寿の思惑はともかく、羅貫中が七武将にしなかったのは正史に準じたから、ということで。ひとりめは本来張遼なんだが、繰り上げで楽進から。演義では『その他大勢の中でもまだマシなひとり』という程度の武将だが、正史では将としてのはたらきがきちんと記載されている」
Y「楽進の評価に関しては『蒼天航路』の影響が否めんがな。連載が始まったのが94年で、翌年に出た三國志Xで初の武力80越えだ。平均が90超えてる他3人と、死に様で思う存分名を下げた于禁と違って、今ひとつ地味な武将だったのに、『蒼天航路』以来ずいぶん聞かれるようになったからな」
A「著しいまでの蒼天修正ですこと……」
F「正史の本文に『小柄だった』と明記がある(実寸は不明)希有なひとりだ。その辺りが曹操の琴線に触れたのか、もともと書記官として仕えていたのに、曹操の命で故郷の郡に戻り兵を募ることになっている」
A「おチビ同士通じるものでもあったのかね? しかし、徴兵させるのって」
Y「文官の仕事と云えば云えるか」
F「やり方によると思う。この頃の徴兵は、呉がやっていたような人狩りもあったけど、弁の立つ者を送り込んで街頭で公募したり、腕自慢の武将に脅迫に近い演説をさせたり、だから。楽進はどうやったのか明記がないが、千人余りを集めている。この功で部将としての扱いを受けるようになった」
A「小柄なもと文官が、部将扱いねェ。上手く行くのかってところだけど」
F「んー、ちょっと乱暴に例えてみる。暴走族のヘッドに心酔していた坊やが、ある夜ヘッドから『アンタ今日からケツ持ちね』とか云われて、いきなり小集団を率いることになった。そんなことしでかす自信も経験もなかった坊やは、いざ対立チームの襲撃を受けると、トチ狂ってバイクを振り回す大立ち回りを演じる」
A「下ろして乗れよ! 弁慶か、お前は」
F「いや、僕の経験談とは誰も云ってないだろうが。違うとも云わんが……とまぁ、そんな具合でな。戦場という特異な空間に何の心構えも経験もなく放り出された者のとれる行動はふたつにひとつだ。動けないか、ひとを殺してでも生き残ろうと暴走するか。どうにも楽進は2番めだったようで、あっさり上手くやっている」
A「うまく、か」
F「これがいつのことなのかは明記がないンだが、対呂布戦・対張超(チョウチョウ)戦・対橋蕤(キョウズイ)戦などで、全て一番乗りの戦功を立てて功に封じられたとある。小柄な楽進が、顔色失いながらも血相変えて獲物を手に先頭切って敵陣に突っ込んでいく姿が、なんか目に浮かぶ気がする」
Y「お前の見立てでは、生まれながらの武将ではないと?」
F「最初はそんなモンだよ、ただ生き残ろうと闇雲に銃を乱射する。殺して、生き残って、帰ってくる。そんなことを何度か繰り返しているうちに、戦場の雰囲気に慣れて、冷静な判断と行動ができるようになる。……まぁ、兵を率いた経験はないから、あまり偉そうなことは云えないけど」
ヤスの妻「いろんな意味で経験はあるからねー、えーじろは」
F「だから、えーじろやめろ。ちなみに、呂布はともかく張超は『私釈』では出演しなかったが、コーエーの『三國志武将データ大全』曰く、コーエーの三國志シリーズ『最後の大物未登場武将』のひとりになる。ともあれ、楽進は生き残り、その後も部将として各地を転戦する。張繍との戦闘や呂布包囲戦では敵将を討つ功を上げた、とあるな」
Y「その張繍戦が、『蒼天航路』でも特筆されていたな」
F「うむ。それから、曹操が官渡に先立って徐州の劉備を攻めたときも、楽進は従軍して戦功を立てたようで校尉に任じられている。その後は……えーっと、列挙するか」

・官渡の決戦に従軍。淳于瓊を討つのに貢献。
・袁兄弟との戦闘では別働隊を率い、黄巾の残党を討って郡を平定。
・鄴包囲戦に参加。
・南皮の戦闘では東門への一番乗りを果たす。
・その後の残党討伐でも郡を平定。

F「206年に曹操は、一連の戦功から楽進と、張遼・于禁を雑号将軍に叙任している。要害にこもった并州の高幹戦でこそ曹操の出馬を仰いだが、他の戦闘ではだいたいが『勝った』『平定した』『打ち破った』となっている」
A「地味に強いなぁ」
F「演義でないがしろになっているのが不思議なくらいにな。楽進に関しては、『蒼天航路』でクローズアップされたのが遅かった、と云わねばならんのだよ。冀州・青州・幽州の海岸部平定には李典とともに従軍し、荊州に攻め入っては襄陽に駐屯して、劉備・孫権と赤壁で対峙した曹操軍の後詰を張っていたと記述がある」
A「赤壁の戦闘には加わらなかったのか」
F「なんだが、その後の荊州争奪戦では、さりげなく『関羽・蘇非を敗走させた』とある。蘇非というのがここでしか出ない名前なんだが、これが前回少しだけ出た蘇飛なら所属は甘寧隊で、つまり蜀・呉のエース級部隊を打ち破っているンだ。この一件だけを見ても、楽進の指揮能力は明らかでな」
A「ぅわっ!?」
F「荊州に張っている間、楽進は、劉備の軍を打ち破ったり蛮族を降伏させたりと、すぐれた働きを見せた。ところが、東方・対呉前線に回されると、張遼の副将格に収まったからか、それまでのような軍功の記述がなくなっている。いちおう『たびたび戦功を立てた』『右将軍に昇進した』とはあるが、どうにも張遼との相性は良くなかったようでな」
Y「正史に『仲が悪い』と明記のある、少なくない事例だからなぁ」
F「ところで、と云おうか。どうも、それだけでもなさそうでな。ひと口に武将とは云っても、前回で見たように、甘寧は一軍を率いることがほとんどなかった。誰かの指揮下でしか武勇を発揮できなかった、はっきり云ってしまえば部将としての扱いしか受けなかった、と云える」
A「あの性格では無理もないところじゃないか?」
F「ひるがえって楽進はどうかと見れば、さっき云った『官渡に先立って徐州の劉備を攻めたとき』以来、一軍を率いて外に出されることが多いンだ。その頃に、部将から武将に昇格したと云える。若い頃の張飛は、誰かの指揮下、というか制御下でこそ十二分にその破壊力を発揮できるタイプだったが、楽進はそういうタマじゃなかったようでな」
A「自分で考えて行動できるタイプだった、と?」
F「206年に、曹操から行賞された上奏文が、楽進伝に記載されている」

「武に長け、計略は行きとどき、忠節をわきまえております。戦闘に入れば自ら指揮を執って、堅陣を打ち破り堅固な砦でも攻略しました。また、別働隊として派遣しても、軍を統率して命令を実現し、決断には失敗がありません」

F「曹操の下で部将として使っても、あるいは別働隊に回して一軍を率いさせても使える武将、というのが楽進だとしている。余人ならぬ曹操そのひとの言葉であるからには、多少のリップサービスはあっても嘘はないだろう」
Y「極めて使いでのあるタイプだった、と。そういった武将の数が足りなかったのが孔明の苦労につながったワケか」
A「やかましいです!」
F「そうやって考えれば、張遼の下についたあとの楽進がいまひとつ精彩に欠けるのも無理からぬオハナシだと判ってもらえると思う。本来自分で考え行動できる男に、同格の武将の下につけと命じたら、上手くいかないモンだろう」
Y「その辺りの不満を表に出すタイプは魏には向かない、じゃなかったか?」
F「不満というより相性の問題だ。曹操級の武将の下でなら、楽進は問題なく働ける。全力が発揮できなくなるのは、上司・上官との能力差が小さい場合になる。張遼の下で楽進の動きが悪かったからには、両者の能力にそれほどの差はなかったという逆算が成立するンだよ」
A「……おいおい」
F「まぁ、計算だけで能力が測れるなら苦労はないンだがな。別して弱くはない、むしろ強い武将ではあるが、演義ではザコ扱い、正史にちゃんとした記述はあってもやや地味な印象があった楽進は、名作『蒼天航路』で再評価を得た。この男に限ったことではないが、魏の武将は調べるほど奥が深くてな」
A「人材層の厚さと幅がケタ違いだからなぁ……」
F「続きは次回の講釈で」
Y「……あっさり終わったな?」


楽進(がくしん) 字を文謙(ぶんけん)
?〜218年(死因は不明)
武勇5智略2運営2魅力4
兗州陽平郡出身の、小柄な猛将。
演義までは扱いが悪かったが、名作『蒼天航路』以来その評価は見直されつつある。

戻る