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History Members 三国志編 第8回
「輜重輸送が軍隊ならば蠅蚊蜻蛉も鳥のうち」

A「……何だこりゃ」
曽祖母の代までロシア人「旧日本軍のスローガンのひとつ。後方部隊が軍隊として扱われるならハエもカもトンボも鳥だろうなはっはっは、と後方支援を軽視していたのを証明する標語だ。あえて云うが、だから戦争に負けたンだよ」
はとこ「ちょっと暴言ではあるかな。意見そのものは否定しないけど」
F「前線に出て華やかに戦闘する者は、やることが派手なだけに衆目を集められ、評価も高くなる。だが、それを支える後方支援要員がいなければ戦争そのものができないと忘れてしまったのが、日本軍の敗因だ。国民皆兵なんかしたら誰が物資を生産するンだよ。後ろで戦争を支える者がいなければ負ける」
Y「それが荀ケであり孔明であった、と。呉の場合は顧雍辺りだったな」
F「文官という存在は後世から見た軍事史的には軽視されがちだが、その辺りを重視しているかどうかで国が浮沈するのは明らかでな。河北に勢を誇った袁紹が官渡で敗れたのは、それまで宰相格として張っていたと考えられる田豊を退けたことが第一因だ」
A「人事面での失敗が袁家滅亡最大の原因だったな」
F「そゆこと」
ヤスの妻「アキラは賢いね〜、よしよーし」
A「わ、わ……ねーさぁん」
A2「(ぎゅっ)……よしよし」
Y「ムダに悔しい」
F「どっちがだ? えーっと、ブログ見てないあんど見られないヒトのために連絡。『HM』を始めて以来、事前に僕の出すヒントから次の回の講釈が誰なのかを当てる、というのをやっているンだけど、今回、そこの神算鬼謀の軍師サマでもだまされてくれたのに、アキラがあっさり見抜きやがりましたチクショウ」
A「いや、あの文章そのまま出されたら気づくだろ……」
ヤスの妻「迂闊だったよ……。多少翻訳のニュアンスは違っても、原文そのまま出してきてたとは思わなかった」
F「今回、結果として嘘ついちゃいましたけど、僕は原則嘘を云いませんから。まぁ、褒めてはやるが、お前が当たってもお前の希望を容れてやるのはちとまずい、というのは判ってくれ。だから、今回は助けないでおく」
A「何でかー!?」
F「嬉しがっとけ。さて、孔明が『お前らがもっとしっかりしておらねばならんのだ!』と蒋琬費禕を怒鳴りつけて、劉禅にも反省を促したのを以前見た。三十六計で云う『指桑罵槐(くわをさしてえんじゅをののしる)』という奴で、直接本人を注意するのではなく間接的に反省させる、という使い方になっている」
Y「あったな。演義の話だが」
F「孔明は、相手に応じて交渉の態度を変えるからね。劉禅には直接叱っても通じない、と諦めかけていたのかもしれん。その辺を姜維は判っていなくて、のちに黄皓の一件につながった、と。ともあれ、『録を食んだ主を殺し、その土地をひとに献じるような奴は殺してしまえ』と、魏延を見ながら伊籍を責めている、のも先に見ている」
A「伊籍は劉表殺してねーですよ……」
F「それはそうなんだが、劉璋を殺そうとした、正確には殺してしまえとけしかけたのが、今回のお題の法正だ。この男は、はっきり『録を食んだ主を殺そうとし、その土地をひとに献じた』と断定できる」
Y「同情の余地はないな」
A「仕えていた主がボンクラだった、というのは……ちょっとは同情の余地にならない?」
Y「むしろ同情したいのか? あの男の才も認めていたが、人格面に関しては孔明でもサジ投げてたじゃないか」
A「……だのに演義でも、孔明さんは文句云いませんでしたねェ」
F「演義での法正は優秀な副軍師という扱いだからね。龐統亡きあとの貴重な軍略家として重宝されていたのがうかがえるが、いつの間にか死んでいるという不遇な扱いでもある。実史においては、劉備に蜀を盗らせ、漢中を盗らせた立役者なんだが」
A「曹操と戦って打ち破ったンだからねー」
F「前に、98回で法正を取り上げたときは、割と持ち上げる内容だった。そこで、今回はちょっとけなす内容で法正という人物を再確認してみる」
Y「……はいいが、蕭何寇恂の話はどうした」
F「締めで触れる。僕が『私釈』の終盤からハマってるのが『三国志検定』『逸話で綴る三國志』などの著者・坂口和澄氏だが、著作『三國志群雄録』に興味深い記述があった。費詩孟達をあてにならないと云った件についてなんだが」

「孟達は小人で、かつて劉璋に仕えておるときは忠節を尽くさず、のちにはまた先主(劉備)に叛逆しました。反復常なきこの男に、どうして手紙を出す(あてにする)価値がありましょうか」(正史費詩伝より)

Y「孔明は黙ったまま返事をしなかった、だったな」
F「なぜ返事をしなかったか、について坂口氏はみっつの理由を挙げている。まず、関羽の代理となる一軍を用意しなければならないことを費詩が理解できていないという不満。次に費詩(を含む蜀の豪族)が、当時の劉禅政権(つまり劉備・孔明)に必ずしも好意的ではなかった、という点」
A「はい?」
Y「そういえば、劉備の皇帝即位に堂々と反発したひとりだったか」
F「うん。費詩の云う『劉璋に不忠』とは『劉備に忠』ということだが、現政権に好意的であれば、劉備の益州入りの功労者のひとりを『不忠』と云わないだろう、としている。国是たる天下三分のため必要な措置だったとはいえ、劉備が武力で蜀を奪ったのは事実だ」
Y「益州の豪族には、劉備への見えない不満があってもおかしくはないな」
F「ただ、第3点として『お前が云うな』というのも挙げているが。費詩だって綿竹(めんちく、益州)の令だったのに、劉備が侵攻してくると李厳ともどもあっさり降伏したクチだ。孟達を悪く云える立場か、と不満には思っても、益州の豪族を懐柔する意味で孔明は黙っていた、と坂口氏は述べている」
A「費詩って、費禕の血縁だっけ?」
F「費禕の親族なら劉璋の姻戚になるが、その辺の明記はない。だが、晋代に子孫が益州の費家で主流となったとあってな。費禕の血統を凌いでいるからには、相応の豪族みたいだ。それだけに、孔明としても反論せず、だが意見も容れず孟達に内通するよう手紙を出している。結果は周知の通りだが」
A「頼るべきでないものを頼ったとは云えない、だったな」
F「孟達の将才は確かなものだったからね。だが、と繰り返そう。費詩による孟達への不満は、半ば法正にもあてはめられる。孟達が劉璋に不忠だったなら、法正・張松もまた不忠だ。この3人と他の益州人の間には心理的な壁があるというのは、昔触れた通り」
A「劉備を裏切ることはしなかったけど、劉璋ではダメだと見捨てたのが始まりだったからなぁ」
F「少し話を逸らすが、『私釈』のはじめの方の回では分量制限のため説明を簡略化していた。ために、近いうちにフォローするが、于禁李典が曹操に仕えた経緯がちょっと違うと指摘が来ている。劉璋に関しても、61回で触れた『家臣に劉焉の後継者に祭り上げられた』が少し違う、との意見も来てて」
A「劉焉の子で劉璋の兄たちが、すでに死んでたンだっけ」
F「いや、三男の劉瑁(リュウボウ)は健在だ(208年没)。劉焉に男児は4人確認できるが、劉璋を含む3人は朝廷に、劉瑁だけが劉焉に従って益州にいた」
Y「つまり、劉焉としては劉瑁を後継者と見込んでいた、と?」
F「ところが、劉表が『劉焉は僭上です』と上奏したモンだから、朝廷が劉璋を送ってたしなめようとしたところ、劉焉は劉璋を手元に留めおいてしまう。この頃すでに、劉焉は老いという病に倒れていたため、心細くなったのかもしれない」
A「えーっと……194年か、劉焉が死んだのは」
F「そうだな。で、劉璋を『人柄が温厚だから都合がいい』と擁立したのが益州の大臣だった趙韙(チョウイ)でな。劉璋を益州刺史にするよう上奏して容れられると、趙韙は併せて征東大将軍に任じられている」
A「例によってそのパターンか」
F「正史の注にはもう少し詳細な記述がある。当時朝廷を牛耳っていた、長安の李・郭は劉璋が刺史になるのに不満があったようで、扈瑁(コボウ)という(ここでしか出ない)人物を刺史に任命して漢中に入らせ、益州の部将がそれに応じ、戦闘になっているンだ。それを趙韙が迎撃して、扈瑁や叛乱した部将たちを荊州に追い払っている」
A「劉璋の刺史デビューは波乱の幕開けだねェ」
F「これにより実効支配を強めたのが、劉璋が刺史に任じられた原因とも読めてな。何で益州なのに征東大将軍かと云えば、趙韙が荊州まで攻め入ったからだろう。で、法正・孟達が益州に入ったのはこの194年だと記述がある」
A「あれ? 益州出身じゃなかったンだ?」
F「出自はふたりとも涼州扶風(ふふう)郡で、飢饉に見舞われてのこととはあるが、百年後に似たようなことが起こって益州を揺るがす事態になった、のは199回参照。村単位でそっくり益州に避難した中に法正たちがいた、というところでな」
A「で、劉璋に仕えるようになった?」
F「ンだが、同じく役人にとりたてられた同じ村の出身者から『アイツは品行が悪いです!』と誣告され、重用はされない、志は遂げられない……で不貞腐れてしまったのね。同じく劉璋に不満を持っていた張松(出自不明)と一緒に『いい君主はいないものか』と嘆息していた」
Y「ということは、陳寿でも『人格は褒められない』とした性格は、若い頃からのものか」
F「そうなる。だが、陳寿が認めた才覚はこの頃から健在だった。漢中の張魯との関係が悪化したことで、益州州内の治安が乱れていたのをいいことに、その対応を任されていた趙韙が、劉表に賄賂を送って介入されないよう手を打つと、劉璋討つべしと呼びかけたンだ。孔明時代で云う南中・江州方面軍に相当する地方がこれに呼応している」
Y「成都の南と東か」
F「そして、この叛乱は失敗した。成都に立てこもった東州兵を攻め抜けなかったのが主たる原因なんだが、結局、趙韙の軍は敗走し、趙韙本人も死んでいる」
A「あらら……」
F「これがいつのことなのか明記はないンだが、劉璋と趙韙の戦闘ということは194年以降なことは間違いない。ために、法正は扈瑁・趙韙の失敗という実例を踏まえて、益州州外の勢力による攻撃で劉璋を討とうと考えた、と云える。失敗したふたりには、益州州内の勢力で劉璋を討とうとしてうまくいかなかった、という共通点があるからな」
Y「最初の候補に挙がったのは曹操だった、と考えていいな」
F「そうだな。だが、張松が『兄貴には官職を与えたのに、このオレを適当にあしらうとは!』と、曹操と張粛(チョウシュク、兄)を逆恨みして落選。替わりに劉備を益州に迎えようと企むと、法正はそれに乗った。だまされた劉璋から使者に任命された法正は、劉備に会って『録を食んだ主の土地を差し上げます!』とけしかけているンだ」
A「聞いてみるとろくでもないことしでかしてるンだなぁ」
F「正史劉璋伝の注に、こんな記述がある」

「劉璋は暗愚ですが善人です、無道とは云えません。張松・法正は正しく評価されなかったとはいえ、臣下ではありませんか。使者として出されたからには曹操のありのままを劉璋に説明すべきですし、それが嫌なら陳平韓信よろしく出奔すればいい。二心を抱き忠義によらない計略を図るのは、罪人の類ですよ」
※陳平・韓信
 劉邦の天下盗りに貢献した人物。いずれも項羽を見限って劉邦に寝返った。


F「劉璋に同情的な見方をするなら、法正や張松はこんな具合になるらしい」
A「劉璋に同情的、というのがレアなんじゃね?」
F「でも、劉璋から見れば法正・張松と孟達は、完全に裏切り者だ。それだけに、と云っていいように思える。張松は劉備に蜀を盗らせるため、成都にこもって内通を続けていた。劉備の作戦ミスと連絡ミスで死んでいるが、今さら手を引けないという追いつめられた感情があったのは疑う余地がない」
A「法正も……?」
F「益州に入った劉備のところに劉璋が挨拶にきたとき、龐統が『この場で殺しなさい』と云ったのに、法正は呼応して『殺ってしまいましょう』とけしかけている。目が利く法正だけに、効率的な処置を取ろうとしていたワケだ」
Y「中に残った者と外に出ていた者の、心境の違いか」
F「現に、張松が殺された後に、劉備の手元にいた法正は、劉璋に『降伏しないと孫権が、甘寧たちを送り込んでくるぜ〜?』という脅迫状を送りつけている。詳細は略すが、あの文章には法正の底意地の悪さがありありと見えるので、あとで確認するといい」
A「何だかなぁ……」
F「が、いざ劉備が益州を盗ってしまうと、法正でも飄々とはしていられなくなった。何しろ、劉璋に仕えていた者から見れば法正は裏切り者だけど、その『劉璋に仕えていた者』が少なからず劉備に仕えているンだ。幸い高位に叙されたから、かつての小さな恨みでも復讐して『オレを悪く云うのは許さんぞ!』と意思表示していたのが判る」
Y「これまた、中に残った法正と外に出ていた孟達では、その辺の心境が違うと」
F「となれば、法正が劉備に『漢中を攻略しませい!』とけしかけた理由も判るだろう。いばり散らしていても、賞罰(恩にも報いた)だけでは人心は得られない。法正が逼迫感情から解放されるには、誰にも後ろ指をさされない大きな功績が必要だったから、だ」
A「だからなんだ? 劉備が文字通り矢面に立っているからって、自分も逃げなかったのは」
F「98回で見たエピソードだな。どうにも、人望のなさには自覚があったらしい。劉備に何かあっても自分が替わることはできないのと、劉備を死なせたら自分の地位はすっ飛ぶのを、法正は判っていたワケだ」
Y「智略は確かなモンだな」
F「法正の策に従い、劉備が漢中を攻略すべく兵を挙げ、夏侯淵を斬ったと聞いた曹操は『玄徳にこんな策を思いつくはずがない、誰かの入れ知恵だとワシは思っていた』と云っているが、裴松之ははっきり『負け惜しみだ』と断じている。曹操にそう云わせた辺り、法正の智略は確かなものだったと云っていい」
A「……でも、そのはやる感情から、劉備が漢中王になったのを見届けるかのようにあっさり死んだ、と」
F「死因の明記はないが過労死だな、たぶん。それが劉備や孔明にも伝わっていたようで、劉備の時代に諡号が送られたのは法正だけだ」
A「蜀における最初の元勲、という扱いでいいワケか」
F「だが、陳寿はこう書いている」

「法正は成否をしっかり見極められる、並外れた智略の持ち主だった。だが、本人の徳については、誰も褒めません」

F「ところで、正史での孔明は『法正が生きていれば、劉備様に出兵させなかっただろうし、出兵させても危険は回避できたはず』と、演義にはない『戦っても勝てたはず』という台詞を云っている」
Y「陸遜に勝てたかね?」
F「それは判らんが『アイツならやりかねない』と考えたのが羅貫中であり周大荒でな。演義でも法正はある程度のはたらきを見せるが、あくまで孔明・龐統の代理という扱い。せいぜいが副軍師というところだ。そして、周大荒の『反三国志』に至っては、さらに扱いが非道い」

「法正よ、益州の政務は君に任せる。蕭何は金銭糧食を整え高祖に天下を盗らせ、寇恂は領内を警備し光武帝の背後を守らしめた。君は歴史に蕭何・寇恂・法正と並び称されるようになってくれ

F「君主から直接『蕭何となれ』と云われた、数少ないケースのひとつになる」
Y「このネタだったか……」
ヤスの妻「えーじろ相手にするには、正史と演義だけじゃない知識も必要だって事だね」
F「だから、えーじろやめろ。法正の才に全幅の信頼を寄せている発言ではあるが、要するに『前線に出るな、手柄を立てるな』と云っているに等しい。この男を自在に活躍させたら孔明・龐統・徐庶でも危うい……という、周大荒の危機感が伝わってくる発言なんだ」
Y「考えすぎとは云えないのは、正史の記述から明らかだからなぁ」
A「惜しいひとを亡くしました」
F「続きは次回の講釈で」


法正(ほうせい) 字を孝直(こうちょく)
176年〜220年(自己の権勢を確立させようとしての過労死)
武勇2智略6運営5魅力1
涼州扶風郡出身の謀略家。
劉備に蜀を盗らせた立役者だが、正史では人格面で凄まじく低い評価がされている。

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