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History Members 三国志編 第7回
「何を云っているのか判らなくてもお父さんお母さんに聞いちゃダメです」

F「あ、ふんぐるい むぐるうなく くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん」
A2「いあ! いあ!」
Y「何やってンだ、お前ら!?」
F「アキラのところにも子宝が恵まれるよう、ク・リトル・リトルに祈りを」
Y「祈る相手を間違うな! お前が祈っていいのは姐さんと神だけだ!」
ヤスの妻「どっちが化けて出ても困るよ、ヤス……」
A「えーっと……?」
ヤスの妻「アキラは知らなくていい世界のオハナシだからね!」
J「というか、義兄貴殿は正気なのか?」
F「自分でもときどき思うけど、面と向かって云われたのは久しぶりだよ。……しばらくぶりに来たな、あー子の弟」
J「自慢の姉だが、環境適応能力が高すぎるのが難点でね。この家の空気に染まりきって、まぁ」
A2「……ぶい」
Y「素だと思うぞ、心底」
J「うん、弟としてもそう思う。ここんちのせいにして悪かったと認めるから、そちらに拳を引かせてもらえんか?」
F「だそうだ、熊殺しフックのかまえすんな」
三妹「アンタのことバカにする野郎を許す拳は残ってないわよ」
F「シャドーやめろ」
A「熊を?」
F「いや、僕を左フック一発で病院送りに」
A「熊殺しよりすげえ!?」
J「土下座すればいいか!?」
A2「(ぼーぜん)……ちーさん、あからさまにすごいひとだったの?」
F「お前ら、オレのこと何だと思ってるンだ」
ヤスの妻「とりあえず、騒ぐならあっちでね。雪ん子ちゃんおねむだから」
三妹「まぁ、謝ったから説教で許してあげるわ」
J「ありがとうございます」
A2「……不出来な弟です」
(ばたんっ)
F「はい、3人ほど退場したところで、今回は劉備一家の文官三羽烏、まずは簡雍(カンヨウ)について」
A「スルーしたよ……。『私釈』での登場回数が……えーっと、11回?」
F「他2名が、糜竺(ビジク)13回、孫乾(ソンケン)14回。参考値としては、荀ケ31回、賈詡24回、程c23回、荀攸郭嘉は15回。簡雍こそが少ない、というところだな」
Y「荀ケでも多くはないが、いま挙がった面子でタイトルになったのって郭嘉だけだしなぁ」
F「だな。正直、軍師・文官は扱いが悪かったのが実情になる。それはさておいて……えーっと、いつだったかな。以前、コーエーの『三國志孔明伝』の話をしたが、コレはシリーズ2作めでな。1作めは『三國志英傑伝』という」
Y「曹操の話か?」
A「劉備だよ!」
F「英傑伝シリーズは、出た順番で、劉備主役の『英傑伝』、孔明主役の『孔明伝』、当時大河ドラマでやってた『毛利元就 誓いの三矢』、初心に帰ったか『織田信長伝』、で『三國志曹操伝』と続く。『曹操伝』が出たのは確か98年だが、以後続編は出ておらず、ために『三國志孫○伝』(←父・兄・弟、好きなのをどうぞ)は出る気配もない」
満場一致『そりゃ仕方ない』
F「こういうときは仲いいのな、お前ら」
A「誰かさんの薫陶よろしいからな、孫権には手厳しいンだよ」
F「けっ、云ってろ。英傑伝シリーズはマップクリア型のSLGでな。ふぁいあーえむぶれむを想像してもらえばいいンだが、劉備が主役の初代『英傑伝』は、ひねたプレイヤーでなければ簡雍を最後まで使うようなゲームシステムになっている」
Y「何でだ」
F「兵科の問題。劉備は歩兵→戦車隊(タンクでなくチャリオット)、関羽張飛趙雲馬超は騎馬隊なんだけど、簡雍は弓兵隊でな。もちろん早い段階で配下に加わるンだが、以後李厳までマトモな武力の弓隊は配下に加わらない。しかも、味方になる弓兵でいちばん武力が高いのが李厳で75なんだ」
ヤスの妻「あのゲーム、魏や呉でも主力武将で弓隊っていなかったからねェ。敵味方通じて最強の弓隊が、張任さんで武力87だっけ」
Y「やってたのか、お前? だが、黄忠はどうしたよ」
F「何を血迷ったのか戦車隊で、しかもイベントで死ぬ。というわけで、プレイヤーは、かなり初期から使い続けた簡雍(武力42知力74)をそのまま使い続けるか、それとも李厳か蒋琬(武力60知力85)辺りに入れ替えるか、あるいは弓隊は使わないか……という選択を迫られるのが、このゲームだったりする」
Y「ひねたプレイヤーのお前はどうしたンだ?」
F「弓術指南書という、兵科を弓兵に変えるアイテムを魏延(武力92)・張苞(92)・関興(88)に使って済ませた。ともあれ、劉備主役のゲームだけに、ある程度以上簡雍を活躍させられたのがよかったな、というオハナシ」
A「番外編の1でも触れてたけど、簡雍をしっかり出してるものには評価高いよな、お前」
F「それくらい、劉備一家にとって簡雍は、欠かせない存在だったってことだよ。以前から云っている『伸びる勢力には地味な仕事に従事して支える文官がいる』という鉄則がある」
Y「異議あり。孔明を得るまでの劉備一家が伸びていたとは、歴史的にも感情的にも承服しかねる」
F「……意義を認めます」
A「ちくしょー!」
ヤスの妻「あー、よしよし。それでも、放浪の劉備を支えていた手腕は認められるべきだと思うけどな」
F「ですね。正史における簡雍に関する記述はかなり少ないですが……えーっと」

・劉備とは昔馴染で(旗揚げ以来)転戦するのに従った。
・荊州以後は糜竺・孫乾とともに劉備の話相手となり、使者として往来した。
・益州では劉璋との折衝を行い、信頼を得る。のちに降伏勧告の使者ともなる。
・劉備が誤った真似をしでかそうとした折には、間接的にバカにしていさめる。

F「……直接書いてあるのはこんなところかな」
Y「序列としては孔明の上、糜竺の下だったな」
F「そゆこと。『益州を得た劉備は簡雍・糜竺・孫乾を賓客として遇した』とあり、長年支えてくれた3人に相当の礼をもって接している。ただし、劉璋は降伏に際して、簡雍と同じ輿に乗って劉備に出頭していて、この功で簡雍は昭徳将軍に任じられたけど、コーエーの三國志W事典曰く『それだけで昭徳将軍という位になるのはどういうわけ?』でな」
A「そりゃまぁ、成都(せいと、益州の州都)城を降伏させたンだから……でも、そもそも劉璋は、馬超が来て気弱になってたンだっけ」
F「うん、ある程度の弁舌があれば降伏させることはできたと思う。劉備としては、もっとも信頼する手札を詰めの一手に張ったというところじゃないかと」
A「長年仕えていただけで、信頼されていなかったとは思わんけど、そこまで重視してたのかね?」
F「鉄則その2、『地味な仕事は歴史書に残らない』。歴史にはともかく、歴史書に残るのはある程度派手な功績だ。つまり簡雍は、初期の劉備一家において、実戦での指揮を除くほとんどすべてを担当していたと推定できてな」
Y「あえて聞こうか、そんなもんがどこに書いてある?」
F「逆だ。関羽伝に『劉備は関羽・張飛にそれぞれ部隊を指揮させた』とあるが、事務とか補給とか経理とかをさせたとは書いていない。その辺りの内勤を誰かがやらねば組織が崩壊するンだから、関・張がやらなかったからには、簡雍か劉備がやっていたと考えざるをえまい?」
Y「逆転の発想か。……他に誰もいないのは事実だからなぁ」
A「田豫さーん!」
F「その田豫という実例が示すように、旗揚げ当時の劉備一家に、歴史に名の残らなかった他の誰かがいたことは明らかなんだ。だが、県尉に任じられてはお役人をムチでしばき倒して出奔し、県令に任じられては賊に敗れて地位を失い……では、次第に去って行った者も少なくなかっただろうこともまた明らかだ」
Y「漢王朝の末裔という看板だけでは、衆を率いるには弱かったってことか。実績がないとな」
F「それだけに、簡雍に補給とか経理とか作戦立案とか募兵とか物資・資金調達とか対外交渉とかが押し寄せられていた頃の劉備一家は、浮き沈みしていたとも云える。たとえ小さい軍隊でも、小さいなりにやることはあるからだ。また、一千の兵を養うには、少なくとも一万の人口が必要だというのを思い出そう」
A「えーっと……経理と補給と物資・資金調達辺りは、徐州で糜竺が加わってどーにかなったのかな?」
F「だ。特に糜竺は、奴隷二千人と金銀貨幣を提供して、劉備一家の軍費をまかなったのが正史にも特筆されている。かの『引き抜きメモリアル』曹操が、弟の糜芳(ビホウ)もろとも官職につけて引き抜こうとしたけど、その地位を捨てて劉備のもとに戻った、ともあってな。いち時期曹操の下にいながら自分のところに戻ってきた義兄弟を、劉備は『彼に匹敵するほどの恩賞や寵愛を受けた者はいなかった』とされるほどの厚遇をしている」
Y「関羽への厚遇に通じるものがあるな」
A「人名替えればそのままのシチュエーションだからねェ」
F「もっとも『ひとを統率するのは苦手で、いちども軍を率いたことがなかった』とも書かれているけどな。糜竺に限らず、この三人がちゃんと兵を率いたという記述は正史にない」
A「……田豫と陳羣が劉備の下に留まっていてくれれば、孔明がどれだけ助かっただろうねェ」
F「性格的に、陳羣と気があったとは思えんけどな。まぁ、糜竺は財産(正史に曰く『資産は膨大』)と妹を劉備に捧げ、官職をなげうってまで仕えた。同じく徐州で加わった孫乾が、事務や対外交渉を引き受けるようになり、簡雍ひとりが背負っていた仕事はさらに分散化していったワケだ」
A「少しずつ楽になって行った、と。でも、外交交渉は担当していたンだよな? 劉璋相手に」
F「だな。劉備が『長年ワタシに仕えてくれた者です』と紹介すれば、劉璋としても簡雍を無碍には扱えないし、はじめの一歩さえ踏みこめば弁舌で絡めとるのは難しくなかった、と。明記はないンだが、劉表のときも孫乾でそういう真似をしでかしたようで、劉表が劉備と孫乾を併記している書状が正史にある」
Y「先に弁舌の徒を送り込んで信用させ、後から本人がだますワケか」
A「だますってゆーな」
F「孫乾も、演義だと曹操の命で動いたりしてるンだが、それでもきっちり劉備の下を離れなかった。落第県令・龐統の詰問に行く張飛に同行したり、内部での調整役も担っていたととれる記述がある」
A「孔明や龐統辺りの登場後には影が薄くなってるけどね」
F「それでも、外交官は場数を踏んでいる者のが相手の信頼を得やすい。糜竺が商売で洛陽と徐州を往来していた記述も注にあり、人脈という点でも無視できない影響力があったことは明白だ。その辺りの勲功が、劉備が蜀を得てからの厚遇につながっているワケだ」
A「長い苦労の時代をともに乗り越えただけに、劉備からの信頼が篤かったのかね」
Y「だから、蜀を得て自前の勢力を築いてから、劉備は恩返しで高位につけたか」
F「任侠たるあの男らしい対応と云える。だが、劉備が3人の恩人を賓客として扱い、軍も率いさせなかったのは無視できない。孔明・法正(龐統は故人)といった荊・益州閥の文官たちが、かの三羽烏を劉備の話相手に持ち上げ、実権を奪ったともとれるからだ」
A「またお前は、そういう見方を……」
ヤスの妻「徐州時代やその前から側近で、劉備一家に貢献してきたのは事実でも、荊・益両州にまたがる領土を得たからには、人臣を刷新しないと組織がよどんでくからね。まして、能力的に優れた方が実務を執るのは仕方ないよ」
F「加えて、世代交代の意味もあったかと。糜竺は220年中に、簡雍・孫乾はそれまでに死んでいますので、ある程度の年齢になっていたと考えられます。その意味でも、実権から離されたのは確かかと」
Y「黄巾の乱から40年近いからなぁ。あの頃二十歳としても還暦近い」
F「となると、簡雍が劉璋を降伏させるべく成都に送られたのは、長年苦楽を共にした簡雍を、実務の場から引退させるべく、最後の大仕事としてだったかもしれない。『性格は傲慢だが、のびのびした態度で見事な論をなす』と評された簡雍が、その一件をおいて他になした行いは、正史にはほとんど記されていない」
A「見えないところから劉備を支え続けた良臣、じゃね」
F「そゆこと。まぁ、となれば『恋姫』および『真・恋姫』に簡雍・孫乾が出演せず、糜竺が名のみしか出ない理由は明らかだろう。黄巾との戦闘の最中という極めて早いタイミングで、孔明が劉備一家に加わっているからだ」
Y「あぁ、自称『帳簿の整理をするくらいしか能のないダメ軍師』がなー」
A「せめて『はわわ軍師』云ってやれよ! ドラマCD聞いてないヒトが誤解するだろ!」
F「はいはい、仲良くしなさいよアンタたち。裏方業務を引き受けるスタッフ、それも軍政官としてはトップクラスの人材が、極めて早い段階で入ったからには、簡雍が出てくる必然性、はっきり云えば出てきてもやること、がない。実史での役柄から孔明の部下につけるワケにはいかんし」
Y「孔明の出番を遅らせればいいだけか?」
F「その場合は、文官の役どころを孔明とどう交代するか、がむしろ問題だろうな。僕なら趣味と実利を兼ねて、おばあちゃんの簡雍を出す。昔、鵬徳(龐徳)で使った手段だが、これなら『スタッフとしてやや頼りない』『新参の孔明が実務を執り仕切る』『立場は簡雍のが上』『対外交渉は得意』などなどの特性をそっくり満たせるから」
Y「だから、エロゲでババア出そうとするのやめろよ」
A「アキラ、おばあちゃんのエロ画は描きたくありません……」
F「この世はすべて絵空事〜。ところで、簡雍に関して云えば、問題は、信頼をかさにきて態度がでかくなったことでな。劉備を前にした席でもだらしない恰好で座っていたし、孔明を相手にしても長椅子に寝そべったまま話をしていた。下々出身者が出世して増長したのを『私釈』で何度も見てきたが、その典型と云っていい」
A「もち上げておいて落とすなよ」
F「生来の性格なんだろうけど、その態度、特に孔明にも不遜だった辺りが、あまりよく伝わらなかったようでな。蜀書のラストに収録されている、楊戯(ヨウギ、楊儀ではない)の『季漢輔臣賛(きかんほしんさん)』には、簡雍・孫乾がエントリーされていないンだ。創業の功臣という観点からみるなら、関・張をおいて他に比肩される者がないこのふたりが、だ」
A「そりゃまた意外な話だが……糜竺はいるのか?」
F「うん、いる。どう書かれているのか、ちょっと引用してみよう」

 安漢将軍(糜竺)は穏やかな人柄で、(劉備の)姻戚・賓客となって礼遇された。善良な臣下と云えよう。

Y「つまり、簡雍・孫乾は穏やかでない人柄で、善良な臣下でもなかったと考えられていたワケか」
A「ぶっちゃけるなよ!」
F「いや、そう考えられてもおかしくないンだ。『季漢輔臣賛』で趙雲と陳到が併記されているのは以前触れたし、裏切った糜芳・士仁郝普(カクフ)・潘濬(ハンシュン)もいっしょくたにされている。評価としてはどうかと思うが、それなのに糜竺と簡雍・孫乾が並立されていないということは、並立させるわけにはいかないという考えが後代の蜀にはあったみたいでな」
Y「まぁ、家族も財産も劉備にささげ、曹操から与えられた官位を蹴飛ばしてまで仕え続けた糜竺と、傲慢な簡雍を並べるのは、確かにどうかと思わんでもない」
F「その意味では、何で孫乾までというところなんだがな。劉備一家を支えた三羽烏は、放浪の傭兵団が地方軍閥へと発達していくにつれて、実権から遠ざけられつつあった感がある。やはり、水鏡先生の評価は正しかったのだろう」

「なるほど、関羽・張飛・趙雲は万人に勝る勇士であられる。しかしながら、彼らを使いこなす『人』が、将軍には欠けておられます。簡雍・糜竺・孫乾では、それはかないますまい」(演義三十五回より)

F「在野の国際政治論者たる水鏡先生の、お眼鏡にかなう人材ではなかった、というところでな」
Y「これじゃいつも劉備が負けていたワケだ」
A「ちくしょー!」
ヤスの妻「よしよーし」
F「続きは次回の講釈で」


簡雍(かんよう) 字を憲和(けんわ)
生没年不詳(220年までには死んでいた模様)
武勇2智略3運営3魅力2
劉備と同じ幽州涿郡出身で、劉備の旗揚げ当時から従軍していた腹心。
弁舌の才はあったが、不遜な態度のためか、蜀の名臣列伝『季漢輔臣賛』には加えられていない。

糜竺(びじく) 字を子仲(しちゅう)
?〜220年(弟が裏切ったことを苦にして死去)
武勇2智略2運営4魅力3
徐州東海郡出身の、創業期の劉備を経済的に支えた富豪。
「孫の代まで弓馬が得意」ながらも「ひとを率いるのは不得手」と正史に明記されている奇妙な文官。

孫乾(そんけん) 字を公祐(こうゆう)
生没年不詳(220年までには死んでいた模様)
武勇1智略3運営3魅力3
青州北海郡出身の、鄭玄に推挙され劉備に仕えた弁士。
外交面から劉備を支え、劉表との折衝を担当していた形跡がみられるが、他ふたりよりネタに欠ける。

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