戻る

History Members 三国志編 第6回
「オレ、呂岱とか朱拠とか留賛とか褒めてたかなぁ」

「第三次世界大戦がどんな武器で戦われるか、私には判らない。だが、第四次世界大戦は、石と棍棒で戦われることになるだろうね」
 ――アルバート・アインシュタイン

F「以前、蜀の軍備について、大きく機動戦力と防衛戦力に分けられるという話をしたが、呉ではもう少し単純になる。各地の守備隊と首都の駐留部隊だ」
A「首都に三割、各地に七割だっけ」
F「蜀の場合、軍事偏重でその辺の比率が歪んでいて、配分比率が確定できないのが実情だが、195回のあとで正史を確認したところ、呉の場合は建業にもう少しあったようなんだ。基本的に、各地には数千単位の守備隊が配置され、有事には万近くの軍が首都から動員される、というシステムでな」
Y「必然的に半数近くは建業(けんぎょう)や武昌(ぶしょう。いずれも呉の帝都)にいないといかんな」
F「推定だが4割近くが首都に駐留していて、魏・晋からの侵攻へのフォローや各地の叛乱鎮圧のために動員されていた、という状態のようなんだ。なお、呉の人口は230万で、総兵数は23万。いずれも、降伏時の孫皓(ソンコウ、4代呉帝)の自己申告」
A「じゃぁ、数字は信用できるな。えーっと、4割だと約10万?」
F「いつぞやこのヒトが云ってたが、産業革命以前では、生産に寄与しない兵士が人口に占められる割合は多くて一割が限度だ。裏を返すと、100万の人口がなければ10万の軍を喰わせることはできないことになる。人口に対する比率では計算通りと云っていいな」
ヤスの妻「それ考えると、冀州や青州で三十万っていうのは無理だと思うけどね」
F「ですな、当時の相場では一州で十万というところなので。ともあれ、呉書に曰く」

 (前略)孫策の配下は数万になっていた。そこで孫策は、周瑜に向かって「これだけの軍があれば、俺ひとりで呉・会稽を手中に収め、山越を平定するのに充分だ。お前は戻って丹楊をかためてくれ」と云った。(周瑜伝より)

F「この辺りの記述は興味深い。孫策が劉繇を討った(196年)頃の話だが、のちに孔明がやった、軍事力の機動戦力と防衛戦力への二分化を、孫策がすでに行っていたという見方ができる。担当者は君主と宰相が逆になっているが、これは当人同士の性格の問題だと云うべきだろう」
A「さすがは小覇王、というところか」
F「で、やはり性格だろう、孫権はこの軍制を踏襲しなかった。各地に守備隊を配置して、必要に応じて首都から増援を出したり、首都の軍で魏に攻め入って負けたりしていた。孫策や孔明が、全軍に対して比率の小さからぬ機動戦力を動員できていたのには、後方を治める者との信頼関係があればこそ。孫権にはそれがなかったとも考えられる」
A「周瑜が孫策を裏切ることはないだろうけど、孫権にはそこまで信のおける部下がいなかった、と」
F「いち時期の陸遜を除いて、呉の武将たちが出征に際して率いた軍が、孫権直属の部隊より多勢だったことはない、という無視できないデータがあってな。あの『出ると負け』は、どーしても部下に大軍を任せたくなかったらしい」
A「歩闡(ホセン)の実例があっても、その辺の猜疑心はいただけないねェ」
F「まぁ、『私釈』名物・孫権けなしはこれくらいにしておいて。繰り返すが、この記述は、孫策が劉繇を討った頃の話だ。この時代からすでに、揚州を得ようとする者にとって、山越対策は念頭に入れておかなければならない事業だったのがうかがえる」
A「小覇王でも……か」
F「実際のところ、揚州における漢民族支配地は広くなかった。各郡の主要都市は確かに漢族居住区だったが、残る山岳部は山越の居住区にして支配域だった、と考えていい。だからこそ袁術陛下でも手を出しかねておられたワケだが、いかにして山越を討ち支配域を広げるか……で、孫家の軍の先頭に立っていたのが賀斉だった」
A「だから、何で袁術に敬語なんだって。山越対策のエキスパートだったな」
F「うむ。生年は不明だが、もともと会稽の出自。若くして郡の役人になり、県長代理になっていた。ところが、その県の役人に斯従(シジュウ)という豪族がいて、任侠を気取って悪事を働く。これは見逃せない……と賀斉は取り締まろうと考えた」
A「役人ならそう考えないとな」
F「だが、そうは考えないのがお役人という人種だ。山越にも懐かれている斯従を処罰したらどうなるか……と二の足を踏んでいて、賀斉にも目をつぶるよう部下が進言したところ、キレた賀斉は斯従を即座に斬り捨てている。というわけで、斯従の一族郎党一千からが県の役所に武装して押し寄せた」
Y「判りやすい連中だな」
F「対する賀斉も相当で、堂々と役人や住民を指揮して、門を開け放って迎撃し、きっちり叛徒を叩き潰している。これにより、賀斉の名は山越に鳴り響いた……とある。このあとで、他の県で叛乱が起こると、明記はないが自ら望んでだろう、賀斉はその県に赴任して、従順な者は保護したが、反抗する者は殺して、一年で全てを鎮圧している」
A「手際はいいのな」
F「賀斉が山越の叛乱を鎮圧、山越から見れば弾圧を加えていたのは、この辺りの一件からだと考えられる。地元豪族が山越と組んで悪事を働くのを止められず、処罰したら数を恃んで攻め込んでくる。それなら叩き潰して云うことを聞かせるのがいい、とでも考えたようでな」
A「……気持ちと理屈は判らんでもないが、宥和策は通じないのか?」
F「斯従を甘やかして野放しにしていた、のが賀斉の出発点だったからな。若い頃の記憶が苦々しく沁みついていたみたいだ。まぁ、そんな性格だけに、196年に孫策が会稽を攻略すると、賀斉はそのまま配下に収まっている」
Y「気があったンだろうな」
F「もと会稽太守は王朗(オウロウ)だが、配下だった商升(ショウショウ)が孫策討伐の軍を起こし、派遣された孫策の部下を打ち破る、という事態が発生した。そこで動員されたのが賀斉だったが、商升は賀斉の名を恐れて、使者を送り自分に内通するよう求めている。だが、賀斉は使者を通じて商升を説得し、ついに商升に県令の印綬を差し出させて降伏させてしまった」
Y「搦め手も使うのか? 強行策だけの男ではなかったか……」
F「いや、ここからが賀斉らしいところでな。商升の下にいた山越の頭目ふたりが、降伏を不満に思って商升を殺したンだ。自ら将軍だの太守だのを名乗って徹底抗戦のかまえをみせた山越に、守りをかためつつ内紛を起こさせ、同士討ちにまで持っていった。その上で急襲して、一気に叩き潰している。頭目はふたりとも降伏してしまった」
A「漢人にはある程度便宜を図るけど、山越だととにかく叩き潰そうとする、と」
F「孫策が死に孫権が後を継いでも、そのまま、会稽郡で頻発した叛乱鎮圧の指揮を執り、五千の軍で山越六万二千戸(非戦闘員含む)を相手取っている。別の県を治めていた同輩が『何でお前の下で働かねばならんのだ!』と、賀斉の下につくのを拒絶すると、そいつを斬り捨てたので、軍中に賀斉に背く者はいなくなった……とある」
Y「ある程度のパターンが見えるな。漢人を何らかのかたちで犠牲にして味方を引き締め、山越には断固たる態度で臨む。で、その戦闘は」
F「六千からの首級を挙げて、名のある頭目はことごとく捕虜にしている。さらに、山越から兵士一万を選抜して軍に編入したことで、孫権から校尉に任じられているな」
ヤスの妻「呉が負けても負けても軍を動員できた元凶のひとつだね。山越という異民族だから、搾取して軍事力に充てても、孫権の懐は痛まない」
F「ですな。当時の軍事力には『一州で十万』という相場がありましたが、孫権が上手く負けていた(138回参照)にしても、呉の回復力は尋常ではない。孔明でも4度の北伐による軍事力低下を3年がかりで回復させたのに、です」
Y「姜維は8度の北伐で蜀を滅ぼしたな」
A「やかましいです! ……確かに、負けた回数で云えば、呉はとっくに滅んでいてもおかしくないのか」
Y「さらに負けの込んでいた劉備一党は……」
A「云うなぁ!」
F「はいはい、仲良くしなさいよアンタたち。こんな働きがあっただけに、孫権でも賀斉を手厚く遇しています。208年に四万戸からの山越が山塞に立てこもると、夜陰に乗じて山道を切り開き、山塞の四方から太鼓と角笛を鳴らさせて、山中を警備していた部隊を『包囲された!?』と山塞に逃げ込ませています」
ヤスの妻「400年前に似たようなことがあったね。孫家すでに呉を得たるか、これなんぞ山越の多きや?」
F「あっはは。山道さえ登れるようになってしまえば、あとはこっちのものとばかりに、賀斉の軍は山塞を攻撃。七千からの首級を挙げ、残る叛徒は降伏しています。で、これが208年初頭のこと。この功で賀斉は偏将軍に任じられましたが、赤壁で曹操軍と戦った周瑜が偏将軍となったのは翌年です」
A「おい!?」
F「呉書を確認したが、孫静系の一門衆と唯一朱治が雑号将軍を得ていただけで、この頃、他に将軍位を得ていた者はいない。孫権がしみったれていて周瑜に位をやりたくなかった、という側面はあるだろうが、だのに賀斉は昇進しているンだ。213年には奮武将軍に昇進しているが、魯粛が横江将軍になったのもその翌年だった(周瑜はすでに故人)」
Y「雑号将軍位とはいえ、魯粛より先に昇進か……」
F「自分で魯粛を下馬して迎えた孫権が、賀斉をどのように遇したか、が正史に克明に記載されている」

「賀斉が孫権のもとに挨拶してから任地に赴こうとすると、孫権は都の外まで出向いて送別の宴を行った。その席では音楽が鳴らされ、武器を持った舞が披露された。賀斉にはほろ付きの馬車と駿馬が送られ、それに乗って行くよう命が下る。主君の前で車に乗るのはおそれおおい……と賀斉は辞退するが、孫権は側仕えの者に命じて賀斉を無理やり車に乗せ、群臣は列を作り、孫権も馬車に乗って出立を見送った。孫権は笑いながら『ひとは努力をせねばならん。立派な行いを積み忠勤を重ねなければ、こうした栄誉は得られないのだ』と、百歩あまり進むのを見送ってから帰った」

F「このヨッパライが、どれだけ賀斉を厚遇していたのかが判るな」
A「やりすぎだろ、コレは……」
F「213年に、叛乱を鎮圧して奮武将軍に昇進。215年には合肥攻めにも従軍。この戦闘で、徐盛が負傷して旗を奪われているンだが、それを奪い返した。また、歴史に名高き『遼来々』から命からがら逃げ延びた孫権に『軽率なことされちゃ困ります!』と泣きながら諫言している」
Y「聞かなかったみたいだがな」
F「だね……。翌年には、曹操に通じた山越を陸遜とともに鎮圧。数千の首級を挙げ、降伏した中から八千人を軍に編入した。これにより安東将軍の地位を得て、揚州北方の軍権を得ている。この頃から、山越討伐は後続の武将たちに任されるようになった、と云える」
ヤスの妻「まぁ、呉の国家事業だしね」
F「です。常々云っているように、江南では漢人の人口が少なく、呉では人狩りを行っていました。その手頃な対象になったのが、呉に反発し続けていた山越だったワケです。武力でもって彼らを服従させ、屈強な者は兵として、そうでないものは労働力として徴発していた。呉の軍事力がこうして支えられていた一方、そのため叛乱が相次いでいた、と」
A「武力で抑えつけていた弊害か」
F「また、この行いには軍事演習の側面もある。長江を挟んで魏と対峙していた呉では、渡った先ではどうしても陸戦を行わなければならないが、実際の戦闘はまず船戦になる。そこで、山越相手に陸上での戦闘経験を積んでいた、というワケだ。賀斉のほかに、えーっと……韓当黄蓋顧雍周魴朱然朱治・徐盛・全j董襲潘璋・陸遜・淩操淩統呂岱呂範呂蒙などなど、呉の武将たちはたいがい従軍していることでも、それは明らかでな」
A「戦闘訓練を兼ねた人狩りか……考えてみればろくでもないが、呉を保つためにはやむを得ないのかね」
F「まぁ、やられる側ではたまったモンではない、というところか。ために、やがて山越の民は南へ南へと追いやられ、あるいはヴェトナムの源流となり、あるいは東方の小島に逃れて越の国を建てた、と。実際のところ、三国時代を終えると山越の姿は史書からほぼ消える。完全に呉に呑まれたような状態でな」
Y「ひとつの民族を歴史から消した賀斉の罪は、どんなものだろうなぁ」
F「だな。ところで、山越の民がどんな戦闘をしていたのか、が判る記述が呉書賀斉伝の注に引かれている。さっき見た208年の一戦だが、山塞にこもった山越を討伐しようにも、賀斉の軍は刀も盾も使えない状態になっていた」
A「なんで?」
F「たぶん、細い山道に木が生い茂っていて、刀が振れない状態だったンじゃないかと思う。そのため攻めあぐねていたンだが、注によると、山越の軍中に魔術師がいて、金属でできた刃は近づけないような魔法を使っていた、とある」
A「いや、話の信憑性はともかく、それじゃ勝てないよ!」
Y「どっかから、ロシアでエクソシストの修行を積んだ雪男でも連れてくればよかろう」
ここ「どこにいるンだよ、そんなモン。コレに対抗して賀斉は『刃がなければいいんだろ?』と堅い木材で棍棒を作って、それで襲いかかった。魔術師に頼ってろくな備えをしていなかった山越の守備陣はあっさり抜かれ、魔術師も魔法が通用せず、結局何万人も殴り殺されたそうな」
A「なんだか、思いっきり原始的な戦争に……いや、演義で劉備も黄巾の魔術を破ってるけど」
F「さすがに陳寿はこんなオハナシを本文には載せなかったが、賀斉を語る際にこの辺の性質は無視できなかったようで、しぶしぶながら書いているンだ。223年の、曹休による洞口攻めで、賀斉は遅れて戦場に到達したンだが、崩れかかる呉軍を救った姿が描かれている」

「賀斉は豪奢できらびやかなことを好む性格で、特にそれを軍事面で発揮した。武器・甲冑・軍需物資はとびきり精巧で上質のもので、乗っている船には彫刻や彩色を施し、透かし彫りで飾って、青いパラソルを立て赤いカーテンを垂らし、大小の盾には花模様を色鮮やかに描き、弓矢にはすべて最高の材質を用い、蒙衝や戦艦の類は遠目ではあたかも山のようだった。曹休は『ありゃ何だ?』と恐れをなし、そのまま軍をまとめて退き返した」

F「どうして山越に連勝をつづけたのか、は割と明らかっぽい」
Y「きらびやかな装備をしていた軍を見て『ありゃ何だ?』と恐れをなし、戦う前から士気が萎えていたのか」
A「文明が未発達な連中相手なら、それだけで充分威圧になるンだねェ……」
F「続きは次回の講釈で」


賀斉(がせい) 字を公苗(こうびょう)
?〜227年(死因は不明)
武勇5智略4運営4魅力2
揚州会稽郡出身の、山越討伐と人狩りのエキスパート。
軍事面での功績は極めて高く評価され、さりげなく呉でトップクラスの昇進スピードを誇る。

戻る