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History Members 三国志編 第5回
「謀を天下に運らし勝ちを千里の外に決する、とまで云っては云いすぎだろう」

F「いやー、無事産まれてくれてよかった。姐さんと神と母体に感謝だな」
A「感謝すべき順番に並べ替えなさい」
F「母体と姐さんと神」
A「神よりお師匠さんが先かよ。……まぁ、ねーちゃんが一番なら文句はないけど」
ヤスの妻「いちおうわたしの母親だから、そんなに嫌わないでくれるかな」
A「……ときどき思うンだけど、じゃぁ翡翠ちゃんって誰の子? いや、おじいさんとは会ったけど」
ヤスの妻「えーじろの姉の夫の前妻の亡娘の父親の祖父のひ孫だっけ」
A2「……どこかで聞いたフレーズ」
F「僕の子です」
全員『…………………………』
F「だから、えーじろやめろ。僕のタネじゃないけど、親が誰かと聞かれたら僕だ、とは答えておく」
翡翠「あー……なんか、涙出たっす。あたし、愛されてるっすねー」
F「愛してはおらん。というか、親子の間に愛は成立せん。どちらが上であろうが下であろうが、上下をつけられる関係は愛とは呼べん。そして、いつぞや云ったが、家族とは血縁という脆弱な根拠しか持たない上下関係だ」
A「では、親が子に向ける感情を何と呼ぶ」
F「僕の親から僕への感情なら憎悪だな。そうでない親子なら慈悲でいいが」
ヤスの妻「いちおうツッコんでおこー。英語が日本に入ってきた当時、宣教師はLOVEという語の訳し方でひともめしてるよ。いちばん近い語が仏教用語の慈悲だったから、愛という語を充てたの」
F「あっはは、僕の考える……というか、僕の求める親子関係が日本一般とずれているのは、その辺の都合ですかね」
A「自覚はあったのかよ……」
F「ある。ともあれ、今年最後の講釈は荀攸について。ちなみに、リクエスト枠としては最初の講釈になる」
A「ここまでの4人は、事前に決めてあったンだよな?」
F「うん、荀ケまでは先に決めておいた。ここに荀攸が入ったのは偶然なんだけど、二荀が並んだのは順番としては都合がいいと云える。前回見たように、荀ケの行いは宰相と呼べるものだが、荀攸は曹操の出征に従軍した記述がちゃんとあり、こちらこそ軍師と呼べるからだ」
ヤスの妻「旧来のサブタイトルのつけ方なら『運策千里』とかそんな具合になったのかな」
A「例によって話の腰を折るけど、ときどき見かけるタイトルのコレ、何て読むンだ? うんりとかうんらしとか」
F「めぐり、めぐらし、だな。通常使われる"巡り"はヒトの意志と力が介在するものだが、その辺りを超越した何者か、ぶっちゃけ神によることの推移は"運り"と書かれる。三傑の筆頭たる張良には、怪力乱神に近い畏敬の念として、通常はひとの行いに用いられることのない"運らし"という動詞が使われているンだ」
三妹「神の振るサイの目をヒトが運と呼んでいるのは、そういう都合ってワケね」
Y「そして、命の運りを運命と呼ぶ、か」
F「だから、僕はそれの存在を認めんと云うに。なお、20世紀最高の科学者たるアインシュタインは『(非科学的と云われても)運というものは存在する。でなきゃ、嫌いな奴が成功したときにどうすればいいんだい?』と云っている」
A2「(くすっ)……『アイツは運がよかっただけさ』と云い訳するためには、運の存在を認めないといけない」
A「科学者の台詞じゃねーよ!」
F「アインシュタインが『最終的に、宇宙は神がつくったと認めなければならない』とも云っていたのは有名なオハナシです。では、話を戻そう。この時代の"軍師"の正式名称は"軍師祭酒"という。軍を率いる立場にある者は、ただ兵を率いていればいいワケではなくて、軍中における事務や経理の決裁もやらなければならない」
A「誰の部隊にどれくらいの兵士を配分し、物資はどれくらい携行させるか、などなどだな」
F「そゆこと。軍の規模が大きくなればなるほど処理も煩雑になるので、指示は原則として書簡で残す。口頭での伝達は聞き間違いや誤解のもとだし、そもそも地方によっては言葉が通じない場合もある。水滸伝で、北方出身者と南方人の間で会話が成立しないものがあるが、むしろ民俗的にはちゃんとした歴史考証がなされている、と云えるワケだ」
A「……その理屈で行くと、部下が苦労していそうな軍隊って、張飛呂布よりむしろ王平なんだけど。たしか、字を少ししか知らないンじゃなかったか?」
ヤスの妻「王・平・子・均はさすがに書けただろうから、残り6文字少しだね」
F「そこで必要になるのが、文書管理や法令・軍令に精通したスタッフです。正史王平伝には『文字を十少ししか知らなかったので、(指令)文書は口述筆記させた』とあり、そういった事務処理を行い、将には決済だけを求めるように手配する文官が、きちんと従軍していた……というワケです」
ヤスの妻「アキラがきょとん顔してるからフォローするけど、ラインは前線要員で、スタッフは後方要員ね」
A「えーっと……」
F「幕僚なり参謀なりと云えば通じるか? 中国では古来からラインとスタッフの分業が進んでいた。軍官僚と云い替えてもいいが、蒋琬なんかは、当初は劉備軍中における孔明の代理として従軍しはじめたクチだと見ている」
A「……もともと孔明は軍中での事務処理を担当していたけど、劉備が領土を得たためそちらの統治に回ることになった。ために、代理の文官として劉備の下に送られた?」
F「才を認められて外に出されまたひと悶着、と。スタッフだったのにラインに移った者は少なくない。三国それぞれに孔明・仲達魯粛という実例はあるが、将才と参謀としての才覚は別だ。たいがいの"軍師"は軍歴をスタッフのまま過ごしているし、ラインからスタッフに移った者というのはさらにレアでな」
A「魯粛じゃなくて周瑜挙げろよ……」
F「周瑜はもともとスタッフじゃない、はたらきとしてはそもそもラインだ。その辺りはさておいて、従軍文官のみならず、スタッフにはもちろん、一般的なニュアンスでの"軍師"、つまり智略の面から武将を支える謀士の側面も求められた。演義に出てくる軍師はたいていこちらのタイプになる」
A「魏では荀ケがその代表と思われていたけど実際には宰相だった、と」
F「だな。魏の軍師列伝とも云うべきが正史魏書の十巻『荀ケ荀攸賈詡伝』と十四巻『程郭董劉蒋劉伝』だが、この9人のうち最初に挙がる荀ケが『ちがう』からには、陳寿の順番では荀攸こそ曹操軍最高の軍師、という考え方ができる。僕としてはちと異論もあるが……泰永、計算できた?」
こっそり計算中で黙っていた「おぅ。コーエーの三國志シリーズ、11作での知力平均は、荀ケ96.4(最大98、最低95)に対して荀攸は93.0(最大95、最低89)。荀ケを超えたことは一度もなく、やや劣るというところだ」
A「充分すぎますよ……」
F「そんで、こちらでもこっそり作っておいたもの、おーぷん」

荀ケ関連家系図(初版)

A「ぅわっ……割と人数多いな」
F「字が難解なものがおおくて、作るのひと苦労だったよ……。荀ケと荀攸は叔侄と以前から触れているが、日本の民法ではおじと甥という関係にはならない。荀ケの祖父と荀攸の曽祖父が兄弟だから、荀ケから見てはとこの子にあたるのが荀ケ、ということになる。日本語だとなんて云うのか知らんけど」
A「そーなるな」
F「荀攸の祖父の兄に荀c(ジュンイク)というのがいるが、これが第二次党錮の禁(169年)で、李膺らとともに誅殺された『天下好交荀伯脩(天下は彼と好んで交わる)』でな。序列としては李膺の直下、八俊の次席で総合五位にランキング」
A「郭泰(カクタイ)が12位だから……はるかに上なんだ?」
F「云ってなかったが、李膺も豫州穎川(えいせん)の出自だ。そのため、荀家はある程度以上のレベルで李膺から信頼と期待を寄せられていた。それだけに、党錮の禁で荀cが処罰されたあとも、李膺や郭泰に通じていた何顒(カギョウ、ランク外)は、荀攸や荀ケら荀家一同と交流していた、と考えていい」
A「荀ケを認めたのが何顒だったね」
F「うむ。何進は権力を握ると荀攸ら名士20人を招聘し、それに応じた荀攸は朝廷に仕えることになった。……のだが、荀攸が名を挙げたのは董卓に代替わりしてからのこと。その董卓を暗殺しようとしたからでな」
ヤスの妻「テロ軍師は始皇帝を暗殺しようとして名を挙げたしね」
F「だから、テロ軍師云うなって……。何進の死後に政権を握った董卓が、長安への遷都を決行した190年、か191年(明記がない)に、荀攸は、何顒や鄭泰(テイタイ)らと謀って、董卓を殺害しようと計画している。が、決行の直前になってことが露見し、荀攸・何顒は捕縛され、鄭泰は長安を脱した」
A「誰のせいなのかって、明らかじゃね?」
Y「まったくだ」
F「鄭泰、では、ない、と、思う、よ? たぶん……えーっと。実はこの何顒、袁術陛下(この頃はまだ即位されていないが)が『野郎は悪人だ、殺さねば気が済まん!』とブチまけあそばされたほど嫌われていた。単純に云えば袁紹派に属していたため嫌われていたので、後に寿春(じゅしゅん、揚州)の城で豪遊しでかす陛下に『郭泰が金に困っているのに豪遊しやがって!』と因縁つけられている」
Y「お前が云うな、と毌丘倹(カンキュウケン)に代わって云ってやりたい」
F「毌丘倹かよ。ただ、陛下は何顒を毛嫌いしておられたが、何顒には、素行以上に人格面に問題があった。荀攸主導で進んでいた暗殺計画が露見し捕らえられると、ナニをされるかという恐怖心から、あっさり自害しているンだ」
A「……袁術は、こんな奴ほっといてよかったンじゃね?」
F「ただ嫌っておられただけ、と云えるかなと。ところが、同じく牢にブチ込まれている荀攸は、平然と食事を摂り、言葉づかいも立ち居振る舞いも揺らいでいなかったという。ちょうど董卓が殺されたので助かったが、王允に通じることはしないで、官職を捨て穎川に帰っている」
Y「ために、命を落とさずに済んだ、と」
F「そうなる。ちなみに、後に荀ケが、一連のどさくさの最中に病死した叔父の荀爽(ジュンソウ)を埋葬したときに、何顒の死体も近くに埋葬している。取り立ててもらったことをきちんと覚えていたらしい。それは余談として、董卓の死は192年。それから、郷里に戻った荀攸は、朝廷に復官したものの、今度は蜀郡の太守に望んで叙されている」
A「自分から、蜀に入りたいと?」
F「明記はないが、董扶(トウフ)の予言に近い考えから、蜀を抑えようとしたようでな。ところが、劉焉がすでに益州入りしていたモンだから、赴任できずに荊州で足止めされている。『劉焉は僭上です』と朝廷に奏上したのが劉表だったのは、荀攸の入れ知恵だったかもしれない」
A「……歴史って、どこでつながってるのか判らないモンなんだなぁ」
F「荀攸は割と長く荊州に留まっていた。荀ケの推薦を受けた曹操から『もう蜀は諦めて俺ンとこ来なよ』という書状が来たのは、献帝を許昌にお迎えした196年のことでな。どうも、4年近く荊州にいたようなんだ」
A「ぅわ……」
F「かくて曹操の下についた荀攸は『ワシと彼がことを謀れば、天下に憂いることはない』と豪語させるほど信頼された。序列としては尚書令代行の荀ケの下で尚書だったが、軍師祭酒に任命され戦場に連れ出されている」

198年3〜7月 対張繍
 曹操は荀攸の「攻めれば劉表が救援するから、攻めずに味方に引き入れろ」という進言に従わず侵攻。実際に劉表が援軍を出したため、曹操は撤退を余儀なくされる。
同年9〜11月 対呂布戦
 「劉表を放って呂布を攻めるのはどうかと」との声を「呂布の勢力が広がらないうちに打つべきです!」と論破。
 追い込んだ下邳城(かひ、徐州)を攻めあぐね、冬になり撤退を考えた曹操を郭嘉とともに励まし、水攻めにして捕らえ殺す。
200年4〜11月 対袁紹戦
 袁紹本隊ではなく、まず顔良を討てと進言。白馬で顔良を殺す。
 延津では輜重を見せつけて文醜隊の陣形を崩し、急襲して文醜を殺す。
 徐晃を派遣して、輸送中だった袁紹軍の食糧を焼き払う。
 許攸の降伏をいぶかる曹操に、賈詡とともに信じるよう進言。出陣した曹操軍本陣の留守を曹洪とともに預かり、張郃高覧の攻撃を防ぐ。
 本隊の潰走により降伏してきた張郃らを、曹洪は受け入れようとしなかったが、荀攸が説得して受け入れさせた。
203〜205年 対袁譚
 「衰えた袁家ではなく劉表を討つべし」との声を「劉表は荊州の外に野心を向けません」と論破。
 南皮の戦闘にも従軍し、袁譚を討つのに尽力した。

F「曹操は『荀攸はあらゆる戦場に従軍し、策を謀って私を勝利させました』と絶賛。207年には、後方で内政を執り仕切っていた荀ケに次ぐ序列で論功行賞を受け『劉邦は張良に自分で領土を選ばせたが、ワシもキミに与える領土を、キミに選んでもらいたい!』と曹操に云わせている」
A「絶賛も絶賛だな……」
F「その割には、官渡に先立つ徐州攻めを賛成していない。荀ケはおもに政略・戦略面の進言で曹操を支えたが、荀攸の行いはほぼ戦術面に限定される、と考えていいと思う。見て判るように、荀攸が曹操に進言した戦略的な発言には劉表が絡んでいるンだから」
Y「世話になっていたのは事実のようだな。荊州にいただけに、劉表の性格と戦力をわきまえていたのか」
F「外には動いてこない、と踏んでいたらしい。多方面の戦略に有効な進言をしていないことと、益州に入ろうとして出遅れたことから、戦略面での思考や実行力には、小さめの疑問符が付けられる。また、演義では、曹操が魏王になろうとするのをいさめ『荀ケのようになりたいか』と脅されて死んでいるが、コレは完全なフィクションだ」
A「反対だったら、董卓のとき同様に暗殺しようとする……だっけ。それで殺されたってことはないの?」
F「曹操が魏公になるのを辞退したとき、受けるよう勧めた家臣団の連名書のトップに荀攸の名があってな」
Y「いさめるどころか大賛成だな」
A「おじに謝れ!」
F「荀攸が曹操に仕え、その興業に尽力したのは、自分が果たせなかった夢の実現を曹操に託したから……のように思える。荀攸の人生における挫折は二度、そのいずれもが、後に曹操によって果たされているンだから」
A「挫折って……」
F「荀攸が何をしたかったのか、がはっきり判る本人の発言が、正史荀攸伝に記載されている」

「董卓の無道ぶりは殷の紂王・夏の桀王よりタチが悪く、天下の人心はみな彼を恨んでいる。だが、いかに強力な軍を率いているとはいえ、実際にはひとりの男にすぎない。ただちにアイツをブっ殺して天下に謝罪し、函谷関を頼って天子を支え、天下に号令しよう! 斉の桓公・晋の文公もそうしたじゃないか!」
※斉の桓公・晋の文公
 いわゆる「春秋五覇」のふたり。ただし、「五覇」で確定しているのはこのふたりのみ。残り「三覇」には諸説ある。


A「天下がほしかったの!?」
Y「益州に何しに行ったのかと思えば……これじゃ劉備を警戒しろとは勧めないな。根っこの心理が通じていそうだ」
F「いち時期の荀攸が天下を握ろうとして失敗した、これは歴史的な事実だ。だが、その野望を『諦めて俺ンとこ来なよ』と云ってくれた曹操と語りあい、その器の大きさに惚れこんだ。ために、自身では諦めた天下盗りの夢を託し、曹操の覇業に尽力したように思えるンだ。荀ケの甥とはいえ、荀ケより年長だった荀攸は、荀ケより人生経験が豊富だったようでな」
ヤスの妻「褒められて伸びるタイプじゃなくて、失敗を糧に成長できるタイプだね」
F「ですね。荀ケを曹操がどう惜しんだのかは、翌年まで喪に服して魏公にならなかったことくらいしか見えませんが、荀攸を惜しむ曹操の姿は、正史にも記されています。後継者たる曹丕に『荀攸を見習え、尊敬しろ』と教えたり、死後に荀攸の話をするたび涙したり……です」
Y「感情豊かだからなぁ、正史の曹操は」
F「羅貫中が『荀ケのようになりたいか』との暴言をもってきたのが、本気で悔やまれるところだ。ところで、いつぞやさらっと触れたが、荀攸は天下盗りのための謀略十二篇を遺していて、その編纂を盟友の鍾繇に託していた。だが、鍾繇本人が荀攸に16年遅れで死んでも編纂は終わっておらず、結局その謀略は失われている」
A「いや、残せないだろ、そんなモン! 悪用されたら大変なことになるぞ!」
F「ために、曹丕か曹叡が鍾繇に手をまわして編纂させなかった……ように思えるンだが、問題は、50年後に鍾繇の次男がしでかした暴挙でな」
A「……鍾会!?」
Y「確かに、あの頭のいいバカ、益州にこもりやがったな……。なるほど、大変なことになったな」
F「荀攸の謀略が喪われたならまぁいいンだ。いや、個人的にはよくないが。問題は、書聖・王羲之が出現するまで中国書道界の神の座にあった鍾繇が、盟友の遺作を闇に葬るか、ということでな。鍾家に秘蔵されていた可能性がある。つーか、割と高い。書道家ってひとの書を集めるのにも熱心だから」
A「それを鍾会が受け継いで……?」
F「悪用してしまったように思える、と。鍾繇本人もひとかどの人物だが、鍾会の才覚はその上を行っている。出藍の誉れと云ってもいいが、荀攸の入れ知恵があったのなら、天下を動かした智略の冴えも納得できるというワケだ」
ヤスの妻「曹操には尽力しても、魏のためにはならなかったワケだね」
A「どこでつながってるのか判らないのが歴史なんだねェ……」
F「続きは次回の講釈で」


荀攸(じゅんゆう) 字を公達(こうたつ)
157年〜214年(呉への出征中に死去)
武勇2智略6運営4魅力5
豫州穎川の出自たる曹操の腹心。荀ケの甥。
主に軍事・戦術面で曹操を支えたが、死後に残した謀略十二篇は現存しない。

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