History Members 三国志編 第3回
「100回分ほど遅くなりました」
F「3回めになると、そろそろ調子が戻ってきた実感がある」
A「初回は割と短かったからねェ」
F「長けりゃいいってモンでもないがな。前回で云えば脇のゴタゴタはスルーしたが、カットすると泰永がどうして出ないのか伝わらないだろ? ために、あーいう仕儀と相成った」
A「俺らの内輪ネタは、好評と不評とにご意見二分だしなぁ」
ヤスの妻「ちなみに、夫は友達の結婚式で本日欠席中です。何とか二次会で抜けてくるって連絡はあったけど」
F「酒が入っては講釈の相方は難しいやね」
三妹「素面でこんなことしてるのをむしろ驚くわよ、アタシ」
半年くらい前のこと
Y「おや、アイツも結婚か」
F「だれ?」
Y「あー、何と云うか……お前が、見るたびにおそれおののき逃げ惑っていた」
F「(がくがくぶるぶるがくがくぶるぶる……)ややややややヤスの彼女サマであられますかっ!?」
ヤスの妻「(がしっ)何番めの?」
Y「(ぎりぎりぎり……)あ、あっはっは、やだなぁ、お前がいちばんに決まってるじゃないか」
ヤスの妻「うん、お返事はえくせれんと。ちょっと詳しく聞こうか」
Y「(みしみしみしみし)人体、人体! 立てちゃいけない音が俺の頭から!」
F「いない見えないいない見えないいない見えない……」
Y「ここにはいないから助けろアホ!」
F「聞こえない! いない見えないいない見えない……!」
A2「お義兄さんが手放しで震えあがる相手……?」
A「天国にはいないお母様お父様、新潟は化け物に満ち溢れています……」
F「まぁ、夜までは帰ってこれんだろうな。では、かつての約定を果たすべく田豫(デンヨ)について一席。演義ではないがしろにされまくっているひとりだが、正史では割と大活躍しているひとりでもある」
A「あれ、演義に出たっけ?」
F「軍師殿」
ヤスの妻「百三回で『陸遜に攻められた襄陽の救援に赴いた』ってのみ登場だね。ちなみに234年の、孔明さんに呼応して呉が兵を挙げたエピソードで、実史での田豫は当時、汝南(じょなん、揚州)の太守を張ってたよ」
A「はー……すっかり見落としてた」
F「このひといるとテキストいらないから便利でいいな。以前から『私釈』で、田豫が鮮卑の軻比能(カヒノウ)相手に、水滸伝なら友情が芽生えるくらいの激闘を繰り広げ、北狄対策のスペシャリストとして名を馳せていていたのを見ている」
ヤスの妻「殴りあわないと仲良くなれないのが水滸伝だからねェ」
A「魏の北方圏を抑えていた、智勇兼備の良将じゃね」
F「だ。だが、軻比能との戦闘の様子は、この際当人の回にスルーしておきたい。今回は、軍事面ではない視点から、田豫について掘り下げてみる」
A「また変わったこと云いだしたな、この雪男は」
ヤスの妻「初雪は週明けになりそうなンだけどね」
F「まず、田豫が北狄対策を担当するようになったのがなぜか、という点からだ。実は、これはちょっとした事情があっての人事でな。深読みすると、割と笑えない魏の事情が見えてくるンだ」
A「事情って……」
F「曹叡が、魏の防衛ラインについて『東は合肥(がっぴ、揚州)、南は襄陽(じょうよう、荊州)、西は祁山(きざん、雍州)』と発言しているのを触れてあるが、これについて、曹丕の代からそういう防御計画があったと本人が証言している。つまり、もともとの発案者は曹操だったと考えていい……というか、考えるべきだ」
A「曹丕の軍才だと、その辺り思いつけたか判らんからなぁ」
F「政治的能力はかなり高得点だが、軍事的才覚は及第点には程遠い君主だったからな。それに、曹操の代からだったと考えた方が判りやすいものもある。各方面軍将の人事だ」
A「合肥は張遼で?」
F「東は張遼、南は曹仁、西は夏侯淵に委ね、自身と夏侯惇が遊軍として各地のカバーに回れるようにしていた、というのが曹操の当時だ。ところが、曹丕から曹叡の代にかけてその辺りの人事が一新され、西には曹真、東には曹休、南には仲達を据えている」
ヤスの妻「偶然に一票。後任人事に曹丕・曹叡の意志がはたらいていたのは誰の目にも明らかだけど、夏侯淵は戦死だし、他ふたりは割といいトシだったよ」
F「事実ですね。まぁ、今のはそういう見方もできる、というくらいの意見です。今のは」
A「……というと?」
F「実際に軍将のクビがすげ替えられたのが、北方軍なんだよ。曹操の代では曹彰が北狄の抑えを張っていたのに、その曹彰は曹丕に粛清されている」
ヤスの妻「こうつなぐかぁ……」
F「曹丕が曹彰を除いたのは、それ相応の理由があってのことだったが、結果として北方が手薄になった。そこで、後任として北狄の抑えに回ることになったのが、南陽(なんよう、荊州)に回されていた田豫だった、と」
A「かつて曹彰が烏桓と戦ったときに、副将だった実績を買われて?」
F「と同時に、南陽に送られていたのも曹彰から引き離すためだった、と考えていいな。曹植に与していた楊修なんかは、曹植に先立って粛清されている(ただし、曹植は殺されなかった)が、田豫は公正な人柄で、曹操にも評価されていた。曹彰派であっても粛清の対象にはならなかったワケだ」
ヤスの妻「まぁ、完全な曹彰派とも云えないしね。楊修みたいな太鼓持ちじゃなくて、曹彰をいさめていたし」
F「です。烏桓との戦闘で曹彰を御しきれなかったのが、田豫が南陽に回された理由のひとつのようですから」
A「任務失敗による左遷、か」
F「なんだが、これが219年ごろのことでな。その前に、侯音(コウオン)という武将が、南陽郡の治所たる宛(えん)で挙兵しているンだ。田豫は、その後始末を任せられたという見方ができてな」
A「そんなイベントあったンだ?」
F「覚えてないのか? 当時『私釈』でも触れたンだが。侯音の攻撃を受けた南陽の太守は必死に逃げるンだけど、すぐに追っ手がかかった。ところが、従者が我が身で矢を受け『ワシの命に替えてでも、太守は殺させんぞ!』と血の涙を流して凄むと、追っ手の兵たちは追撃を諦め、太守を見逃している。そのまま従者は死んだが」
A「そーいう美談は当時にやろうぜ……」
F「そんなことがあったモンだから、曹仁によって鎮圧され、郡に戻ってきた太守は『侯音に与した連中は全員死罪にすべきです!』と、獄舎に収監されていた500人を処刑したいと上奏した」
A「まぁ、気持ちと理屈は判らんでもない」
F「そんな南陽へやってきた田豫は、まず獄舎に自ら乗り込んで、ひとりひとりと話しあって改心させ、しかも釈放してやった。釈放された皆さんは、近くの山中にまだこもっていた仲間のもとに駆け込んで、朝までには『真人間になります!』と解散してしまう。ムダに人命を損ねることなく、くすぶっていた叛乱の火種を消したから、曹操から評価を受けたワケだ」
A「……例の太守は?」
F「口出ししたという記述はないな。いいことをして非難されてちゃたまらんだろうし」
ヤスの妻「よくあることだけどねェ」
F「まったくです。こんなことをしていたため、曹操の代から曹丕にかけて行われていた、曹彰を含む曹植派の粛清に巻き込まれずに済んだ、と云えるかと。楊修も才はありましたが、アレは人格的に惜しまれるタイプじゃなかったので」
A「人格面でも評価できそうだモンなぁ。でなきゃ叛徒が心変わりするとは思えん」
ヤスの妻「だからね、アキラ? えーじろの云うことはせめて裏返して聞こうよ。侯音って、当時荊州を張っていた関羽に寝返って、曹仁に鎮圧されたひとだよ」
A「帰順て云えー!」
F「綺麗に忘れてやがる……。田豫の性格について、陳寿は魏書田豫伝にこう記している」
「田豫は清潔で慎み深く、生活は質素を心がけ、財はすべて部下に分け与えた。北狄からの個人向け寄贈品も、すべて帳簿につけて官庫に納め、私することがなかった。ために、家族は常に窮乏していたが、北狄は人種をこえて田豫の節義を高く評価し、慕っていた」
F「裴松之が注に引いているエピソードがある。田豫に通じていた鮮卑の族長に素利(ソリ)がいたンだが、このひとから牛馬を送られても、田豫はそのまま『すべて帳簿につけて官庫に納め』てしまっていた」
A「北狄から賄賂を受け取っている、なんて思われたら大変だしなぁ」
F「だ。そこで素利は、ある日田豫を訪ねると、人払いしてふたりきりになり『私は公のお家が貧しいのを知っております。牛馬で足がつくようなら、こちらをお納めください』と、懐中から黄金を取りだした。こうも気を使われては無碍にできず、田豫は袖の中に黄金を受け取っている」
A「文字通りの袖の下かよ……」
F「ところが、ここからが田豫という男の真骨頂だった。素利が帰ってから、その黄金を朝廷に差し出したンだ」
A「はいぃ!?」
F「明記はないが『詳しく事情を報告したところ、詔勅が降ってほめられた』とあってな、そっくり曹叡に差し出したらしい。報告された曹叡は絶賛し、絹五百匹を下賜したが、田豫はその半分を官庫に納め、残り半分は答礼として素利に与えている。確かに、こんなコトしてたら家に財産は残らんわ」
A「なんか、心にやましいことでもあるのかと、むしろ疑いたくなるくらい私心のない奴ですね……?」
F「田豫の生涯で、讒言を受けたと記述されているのは二度。一度めははっきり『王雄(オウユウ)の一党は、王雄に烏桓対策を牛耳らせようとした』とあり、北狄対策に従事して功績を挙げようとした野心から、王雄が田豫を左遷させたと書いてあてな。対する田豫のリアクションは何も書かれておらず、そのまま受け入れ汝南太守に転任している」
ヤスの妻「二度めは公孫淵相手に一戦交えたときだね。232年に楊曁(ヨウキ)の推薦で公孫淵討伐の軍を率いることになったけど、燕が呉と組んだとの報が入ったから、曹叡は撤退命令を出した。ところが田豫は、海が荒れ風が強くなる季節だから……と、難破して漂着する場所を計算し、待ち伏せて捕虜にした」
F「諸将は『来るワケねーのになー』とバカにしていたのに、ホントに漂着してきたモンだから『私が奴らを捕らえます!』『いやいや、ワシが!』と田豫に志願した。また、大風で座礁した船を鹵獲したいとも申し出たンだけど、窮鼠が噛みついてくるのを恐れた田豫は、それをすべて退けている」
A「えーっと……131回か。だから、青州刺史は曹叡に田豫を讒言した、と?」
F「何しろ、汝南太守の地位のままで青州の諸軍を統括しろと命が下っていたンだからな。乱暴に例えれば、ケ艾の下につけと鍾会に命が下ったようなモンで、刺史の程喜(テイキ)が面白くなかったのは明らかだろう。この程喜、実は田豫を貶めたことがあとあとまで語り継がれるというある意味悲惨な扱いを受けているが、このときは曹叡も讒言を容れている」
ヤスの妻「撤退命令無視して戦闘継続していたら、曹叡も面白くなかったンだろうね」
F「そのようです。先の一件から察するに、曹叡が『野郎は敵から奪った軍需物資・金品を官に納めませんでした!』との上奏を信じたとは思えないが、このときの田豫の功績が取り上げられなかったのは、陳寿も認めている事実だ」
ヤスの妻「まぁ、田豫の性格からして、抗弁したとは思えないけど」
F「しなかったでしょうねェ。田豫の人生でワガママを云ったのが確認できるのは注に引かれた墓の場所くらいなので、抗弁しなかったのは明らかです」
A「おはか?」
ヤスの妻「んー……アレか、西門豹(セイモンヒョウ)の祠のそばに葬ってくれって云った奴」
A「せいもん……金瓶梅の?」
ヤスの妻「それ、西門慶(セイモンケイ)。戦国時代に魏の文侯に仕えて、事実上鄴(ぎょう、冀州)を興したひとなんだけど、すでに伝説上のひとで一種の神として扱われていたの。そんなヒトのそばにだなんて……と二の足を踏む妻子に『私は西門豹と同じことをしたのだ、きっと仲良くなれる』ってゴリ押ししてね」
A「……なんか、田豫らしからぬ遺言じゃね」
F「確か鄴と明記はなかったンだけど、西門豹は、ある都市の太守になったところ、清廉潔白な政治を行い、一切の財を私物化しなかった。当然、文侯の側近に賄賂を贈ったりしなかったモンだから、側近たちは文侯にないことないこと吹き込んだ。ために、一年して会計報告すると『お前、何やっとンね!?』と太守の印綬を取り上げられた」
A「文句は云わんが、アキラの台詞使うなよ……」
F「ところが、西門豹は文侯に『私は街の治め方を知りませんでしたが、いまようやっと判りました。もう一年やらせてください』と懇願。お気に召さなかったら解任どころか死罪でもいい、とまで云われて、文侯は印綬を返した。そこからがもう大変で、任地に戻った西門豹は、民衆に重税を課して金品を巻き上げては、文侯の側近にバラまきだす」
ヤスの妻「……そっちのオハナシ、わたし知らないなぁ」
F「ですか? とーぜん側近連中の態度は一変し、一年後、会計報告に西門豹が現れると、文侯はわざわざ城の外まで出迎えている。それを見た西門豹は、太守の印綬を自ら外した」
「私は一年、殿のために街を治めましたが、殿は私から印綬を取り上げられました。そこで、殿の側近どものために街を治めたら、殿は自ら私を出迎えられました。私はこれ以上、殿にお仕えしていく自信がございません」
F「立ち去ろうとした西門豹に、文侯は『私は今までそなたのことを知らなかったが、いまようやっと理解できた』とすがりつき、出奔を思いとどまらせている。鄴が袁家を経て魏の都に発展したのは、この後の西門豹の働きがあったからこそ……とされているな」
ヤスの妻「それと同じことをした……か」
F「鄴の発展の方ではないと思います。仕えるに足らぬ君主は見捨てる行いについて『同じこと』をした、と自称しているのかと。田豫がいつ亡くなったのか正確な年次は不明ですが、魏が曹芳くんに代替わりしてから隠居を考えだし、仲達にさとされても『七十すぎてなお官位にへばりついていては、それこそ罪人です』とまで訴えている」
A「魏の皇室が仕えるに足らぬものだと考えていた、と?」
F「曹叡も程喜の讒言を容れたからな、身を引くべきだと判断したらしい。どうしても重病なんですと、無理に官職を退いて鄴に移り住んでいる。かつて治めていた汝南から、征北将軍のところに使者が送られたンだが、使者はかつての恩義を思って田豫を訪ねた。挨拶に寄っただけなんだが、田豫は食事を出してもてなし、城外まで見送りに出た」
「君がせっかく来てくれたのに、老いた私は役に立てないのが心苦しい。どうしたらいいのだろう」
F「戻った使者から話を聞いた汝南では、数千匹の絹類を集めて田豫に送ったンだが、田豫はそれを受け取らなかったとある。さっきも云ったがいつ死んだかは不明で、享年は八二。汝南ではその死を悲しみ、わざわざ鄴まで出向いて墓碑を建てている」
A「惜しいヒトを亡くしました……けど、鄴では惜しまれなかったのか?」
F「いや、件の征北将軍が、実は程喜でな」
A「80すぎた年寄りをいびり殺してねーでしょーね!?」
ヤスの妻「あー……受け取っておいて官庫に回すって、いつもの田豫じゃなかったのは、官庫とはいえ程喜の懐に入れるのがシャクだったって考えかな?」
F「棺桶に片足ツッコんでたせいで、いい加減ハラに据えかねるものがあったのかな、と思えますね。ただし、トシはとっても威名は北方に響いていて、240年代に并州刺史になると、外においては北狄が連れだって来貢したため州境は安定し、内においては民衆は彼を敬愛したとあります」
A「北狄対策のスペシャリストぶりは健在か」
F「何かと比較されただろう程喜が、相変わらず面白くなかっただろうことは疑う余地がないな。田豫が辞任を訴えるのは、そのあとのオハナシになる。何があったのか……は、ぶっちゃけ、書いてないから判らん」
A「今回の結論、お年寄りは大事にしよう」
ヤスの妻「あなかしこ、あなかしこ」
F「おいおい触れていこうと思うが、『曹操軍』から『魏』への転換期、軍閥から政権へと脱却する過程で、楊修をはじめとして人死にが出ている。曹彰に近かった田豫が、その辺りの政争に巻き込まれることなく250年近くまで生き残ったのは、清廉潔白だった人格のおかげだと考えていい。ところで、最初に田豫の才を認めたのは劉備でな」
A「さらっとロシア製核弾頭ブチまけるな! ……マジで?」
F「マジ。云わなかったが、田豫は幽州の出自でな。劉備の涿(たく)郡涿県からはちょっと離れた漁陽(ぎょよう)郡の生まれで、その辺りが曹彰の副将、というか北狄対策に駆り出された理由なんだろうけど、何の因果か若い頃から劉備の軍に加わっていたンだ」
A「割と意外なンだけど……」
F「まぁ、演義にはほとんど記述がないから、お前がマークしてなかったのは無理からぬオハナシじゃな。常々云っているように、誰もが戦う時代だった。若い身空で立身出世を夢見て、どっかの軍に加わるのは珍しくなかった……とも云える。正史には『田豫は年少だったが、自分の身を劉備に託し』たとあってな」
ヤスの妻「つまり、自分の意志で劉備を選んだってことだよね」
F「そう読めます。加わったタイミングは、上記記述の前に『劉備がコーソンさんの下に逃げ込んだとき』とありまして、直接の明記はないですが189年のことになります。そして、劉備は『田豫を極めて高く評価した』とのこと」
A「その辺、はっきり正史に?」
F「魏書田豫伝にあるンだな、コレが。コーソンさんの滅亡後に、郡の太守に曹操につくよう進言したことで曹操に召しだされているが、各地の太守になっては功をあげた……とある。曹操が田豫を認めたのは30年後ではなく、割と早い時期だったとも考えられるな」
A「劉備と曹操に認められたってことか」
ヤスの妻「そこだけで考えると関羽並だねェ」
F「割とトンでもない表現ですね。ただ、田豫が常に清廉潔白であったことと、かつて劉備に仕えていたことは、無関係と考えていいのか判断しかねます。劉備が絶賛したと正史に残っているようでは、魏においてどういう目で見られていたのか、を考慮する必要はあるかと」
A「……疑わねばならんだろうなぁ」
F「判断力もある、実行力もある。さらに名声もあり、おまけに敵国の主にかつて仕えていた過去もある。それでも、二度の讒言を受けても粛清されることなく天寿を全うしたのは、ひとから非難されるいわれがなかった、その人格に求めていいと思う」
A「いいことをして非難される……か」
F「善良というだけでは生きていくのが難しい時代だった。戦乱の時代だけに、ひとの心は荒んでいたようでな。最後になるが、劉備が田豫との別れに際し、涙流してのたまった台詞を見ておこう。劉備一家は陶謙の救援に赴こうとしたが、田豫は母が高齢だったので、コーソンさんの下に留まっている。別れ際に、劉備は泣いていた」
「君とともに大事を成就できないのが、残念でならない」
ヤスの妻「演義であんな扱いなワケだね。仕えるに足らぬ君主を見捨てた男と『同じことをした』と云っている奴が劉備の下を離れたら、劉備まで仕えるに足らぬ君主だと思われちゃう」
F「ですが、田豫が曹操を選び、曹家こそが天下を平定すると考えていたのは事実です。そして、天下が曹家から離れようとしていたから、田豫は官職を辞して隠居したいと訴えた」
A「やってることの因果関係が、割と判りやすいンだねェ」
F「続きは次回の講釈で」
田豫(でんよ) 字は国譲(こくじょう)(……すげー字)
生没年不明(82歳での大往生)
武勇4智略3運営4魅力5
幽州漁陽郡出身の、北狄対策のスペシャリスト。
燕・呉の軍に東夷・山越が加わっていたと考えると、四夷のうち三つと戦い、討ち破った戦歴を誇る。