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History Members 三国志編 第1回
「義理とか忠節とか最初に云いだしたのが誰なのかなんて知らないよ」←サブタイトル

F「それでは、『History Members 三国志編』の講釈に入ります」
A「おー(ぱちぱちぱち)」
Y「基本的にやることは一緒、と考えていいのか?」
F「そうなる。僕が毎回お題となる武将を提示して、その武将について講釈する。お前たちはそれにボケてツッコむ。スタイルとしては同じだ」
A「ヤスがボケてアキラがツッコむ?」
Y「逆にならねェかなぁ……」
F「努力はしてくれ。『私釈』には時系列という流れがあったが、今度は流れをそっちのけで個人を直接掘り下げる。僕のスタイルとしてはこっちのがやりやすい半面、前後の回で関連がない場合があるので、ある程度読みにくくなるのを事前に覚悟しておいてもらわなければならない」
Y「三国志序盤で死んだ奴の、次の回で三国志終盤の武将になったら、まぁ100年はすっ飛ぶからなぁ」
F「100で済めばいいがな。というわけで、正史・演義・関連書籍から武将たちを掘り下げ、あるいは『私釈』でやり残した・やれなかったことを講釈する『HM』三国志編の、スタートです」
A「おー。さぁ、先鋒の名誉にあずかったのは?」
F「じゃららららんっ……周倉!」
2人『…………………………』
F「そのきょとん顔が見たかった。何も嘘は云ってないぞ。演義ではある程度活躍するけど正史と『私釈』ではないがしろな、『恋姫』に出てこない蜀将、だろうが」
A「あー……確かに、気づくならアキラじゃね」
Y「何もかもあてはまってるのは認めるが、まさか正史に出てこないコイツが来るとは思わなかった」
F「うっかり返上の日は遠いようだな。本編200回どころか番外編10回や年表にも出てこない孫邵(ソンショウ)だってようやっと取り上げる予定なんだから、先入観と油断だけで人選を考えるのはどーかと思うぞ」
Y「……そうか、出なかったか? 聞いた覚えはなかったが」
A「だれ?」
F「呉の初代丞相(顧雍は二代め)なんだが、その割には呉書に個別の伝がないンだ。話を戻すが、いちおう関帝サマ好き好きな身としては、関羽の腰巾着な立場にある周倉のことも大好きなんだよ。基本正史な『私釈』では触れられなかったけど、出したい気持ちはあったからな」
A「ハナから演義ベースにすればよかったものを……」
F「この世はすべて絵空事〜。ちなみに、曹彰高順なんかは1に出なかったのに、コーエーの三國志シリーズには現在まで皆勤中。武力平均83という高スペックの武将として扱われている。まぁ、扱いそのものにはコーエー内部でも異存があるようで、三國志W事典で『シリーズ通して厚遇されている武将の一人』とぶっちゃけられているが」
A「変な歌うたいながら爆弾発言するなよ……」
F「替え歌が染みついてるのはお前の姉の影響だ!」
A「逆ギレすんなっ!」
Y「逆か?」
F「順番通りだろうが! ……つーか、だから蜀将について触れようとするたびに、先を争って話の腰を折るのやめないか? 原因の一部は僕だが」
A「大部分だろ」
F「残りの9割はお前な。えーっと、演義での初登場は二八回になる。連れて行ってくださいという廖化を袖にし、五関を抜き六将を斬った関羽だったが、雨に降られてしまった。そこで山裾の地主・郭常(カクジョウ)に宿を求めると、郭常老は快く受け入れてくれたンだが、その息子がとんでもないドラ息子だった。代々の家業をないがしろにして、狩猟にかまけて遊びまわるというどっかで聞いたような真似を」
Y「劉備のことだな」
A「思っても口に出すな!」
F「挙げ句に夜中、赤兎馬を盗もうとしでかした。これには関帝サマもご立腹しかけるが、さっき云った通り郭常は老人なのに息子はまだ若くてな。老いてからの一粒種ということで、郭常老が泣いて詫びるので、やむなく関羽は見逃すことにした」
A「関羽の義心を表すエピソードだね」
F「五関六将の先鋒・孔秀にも家族はあったと思うンだが。翌日、朝イチで改めて謝罪に来た郭常夫婦に、関羽が『連れてきな、ご子息に説教してやんよ』と凄むと『いえ、もう出かけました!』とお返事」
Y「逃がしたのか?」
F「いや、逃がしたンじゃなくて、ホントに出かけたンだ。関羽一行が山道にさしかかると、ご子息が、黄巾をかぶった男のうしろにひっついて、山賊を率いて襲ってきた」
Y「勇者なのか、バカなのか」
A「バカ息子だねェ……」
F「黄巾の男が『こちとら、天公将軍様の部隊長だ! この山を越えたかったら、馬をおいていけ!』と啖呵を切れば、関羽はケタケタ笑って『張角の配下というなら、劉・関・張の名を知らぬということはあるまい?』と長ヒゲを見せつける。すると黄巾、馬から飛び降りるとドラ息子の襟首つかんで関羽に突き出し『このバカにけしかけられて、身の程知らずなことしちゃいました!』とお詫びした」
A「関羽だとは云わずに『いい馬に乗った旅人が俺ンちに泊まってるンだ!』と、赤兎馬の強奪を勧めたンだったな」
F「ドラ息子は郭常老に免じて逃がされ、どうなったのかは不明。この黄巾・裴元紹は、もともと張宝(張角の次弟)の部下だったンだけど、同僚の山賊から『関羽将軍は凄いンだぞ〜』と聞かされていて、いちど会ってみたいと憧れていた。そんなおヒトに『もう山賊はやめな?』と諭され感激していたところ、問題の同僚が山賊を引き連れて近づいてきた。ちなみに、一千斤の膂力と鉄板のようなあばら骨、渦巻きみたいな縮れヒゲという風貌で、なぜか横山三国志ではアラビア人みたいな帽子をかぶっている」
A「アレ、何なんだろうな?」
F「さぁ……ともあれ、そんなもと張宝配下の山賊、名を周倉は、関羽の姿を見ると『げぇっ、関羽!』とは云わずに『おお、関将軍!』と狂喜して道端に這いつくばる。かつて、戦場で関羽の姿を見て惚れこんだものの、伝手がないのでお近づきにもなれず、山賊に身をやつしていた。きょう出会えたのは望外の喜びと、一兵卒でいいのでおそばにおいていただきたいと訴える」
Y「先に、廖化を袖にしてるンだろ?」
F「うん。許昌を出るとき、曹操が見送りに出ただろ? あのとき、追っ手だったときに備えて劉備夫人たちの馬車は先に行かせ、自分は橋の上にいたンだ。本当に見送りで、お着物をもらって別れると、行けども行けども馬車に追いつけない。まさか……と思ったところに現れたのが廖化だった。仲間の杜遠と山賊していたところ、杜遠が馬車を捕まえてな。劉備の夫人だと判ると廖化は恐縮して、杜遠を斬り捨てて関羽に詫びた次第だ」
A「演義では二七回だな」
F「お見送りしたい、路銀をお送りしたい、という申し出を断り、関羽一行は先を進んだ……とある。にも関わらず、今回は夫人に『周倉、連れてっちゃダメですかね?』とお伺いを立てているンだ。『何でワタシたちを助けた廖化はダメで、今度は連れていきたいとか云いだすの!』と夫人に怒られたモンだから『とりあえず、兄者と合流したら迎えに来るから』とたしなめるものの、周倉はもうついていく気マンマンで『もう山賊はしません! 生まれ変わった覚悟でついていきます!』と繰り返す。夫人も呆れたように『……じゃぁ、いいわよ』と許可を出したので、裴元紹に兵を任せ、周倉だけおともに加わった、と」
A「それが運命の分かれ道になるとは誰も予想だにしなかったのでありました、マル」
Y「?」
F「演義での登場シーンはこんな具合になる。まぁ、周知の通り架空の人物だ。花関索とは違って存在した痕跡さえないが、本場での知名度と人気は花関索を凌ぐ。何しろ、成都の武侯祠には劉備・孔明を筆頭に蜀の武将・名臣42人の塑像があるが、花関索や劉禅はいないのに、周倉はちゃっかり関平趙累とともに関羽チームと称すべき東偏殿に並んでいるンだから」
A「何で劉禅はいないンだよ……」
F「作るたびに『こんな奴を祀る必要はありません!』と叩き潰されるらしい。本題じゃないンで劉禅はさておこう。演義オリジナルの武将としては貂蝉を凌いで一番人気のキャラクターだと云っていい」
Y「貂蝉は、正史にいちおうの元ネタがあったな」
F「以前『私釈』で触れた通り、周倉のモデルは劉辟だと思う。黄巾の賊将だったけど劉備に協力し命を捨てた男、だな。劉備のために死んだ奴ならいくらでもいる……現に、傅彤(フトウ)・傅僉(フセン)親子も、武侯祠に塑像があるからな。だから、キャラがかぶらないよう、劉備のではなく関羽の、というか三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君の陪神に回されたワケだ」
Y「神として崇めるからには、腹心くらいいないとサマにならないってことか」
A「でも、何で賊将から選ばれたワケ?」
F「やはり、関羽の影響が強い。そもそも関羽が前略関聖帝君と崇められるようになったのは『アイツみたいに忠実に君主に仕えなさい!』という君主側の意向が強かった。実史の関羽がどんな奴だったのかはともかく、関聖帝君は武将の鑑だ。それだけに、周倉についても清の毛宗崗が似たようなことを書いている」

「周倉が関羽に会わなければ、彼は賊徒のいち豪傑にすぎなかっただろう。ヒトにとっていちばん大事なのは正道に立ちかえることで、士にとっていちばん大事なのはよい主を選ぶことだ。官に背いて賊に身をやつしても、改められぬことはない。たとえ雑兵のひとりとなろうとも官軍であるならば、賊徒の王となるより立派なことなのだ」

A「よい主に仕えることは、立身出世より大事なことだ、か」
Y「鶏口となるも牛後となるなかれ、と云ったのは誰だったかな」
F「蘇秦だな。さらに、関聖帝君は漢土でのそろばんを発明したと云われる商売の神でもある。山西の商人たちは郷里の英雄たる関羽を守護神として崇め、また、周倉は関西人の代表として関羽を支え助けるようになったワケだ」
A「地縁か」
F「羅貫中も山西人とされるからな。というわけで、関羽が劉備を選んだように、周倉は関羽を選んだ。もともとが賊将なだけにやや頭は足りないものの、関羽につき従って各地を転戦している」
A「あのあと、裴元紹を殺して山塞を奪った趙雲につっかかってコテンパンにされてたしねェ」
Y「そんな真似してるのか? 勝てるワケなかろうに」
F「殺された裴元紹に少しは同情しようよ……その割には、関平をねじ伏せ関羽とも互角に渡りあった龐徳と、格闘して捕らえるという、張郃夏侯淵徐晃許褚といった曹操軍のエース級総出でもできなかった離れ業を披露しているンだが」
Y「どう考えても、その連中より周倉が強いとは思えんぞ?」
F「だよなぁ……? えーっと、魯粛から『ダンビラひとつだけ持って話しあおう』と挑戦状が送られてきたときに、随員としてその場に赴き『徳のない孫権が荊州を治められるか!』と怒鳴りつけたのが周倉だった。そもそも周倉がいない正史ではどうだったのか、は66回で見たな」
A「……さりげなく非道いこと云ってたのね」
F「うむ。それだけに『余計なこと云うンじゃありません!』と関羽に怒られているが。まぁ、コーエーが『シリーズ通して厚遇』していると自分で云うだけに、演義での目立った活躍はこの2件だけだが」
A「意外と、目立つ功績って少ないンだよねェ」
F「だが、そのわずかな出番と壮絶にして潔い最期が、蜀贔屓な皆さんの琴線に触れているワケだ。民間伝承や柴堆ものでも関羽への忠義が表に出ていたり、あるいは関羽相手にボケかましたりと、なかなか不遜な真似をしでかしている」
A「よき相方、ってところかね。息子だから、関平ではそうはいかない」
F「だな。さて、花関索伝にが周倉が登場するのは以前触れた通りだが、その姿は演義でのものとはちょっと違う。劉備一家の敵として登場するも降伏し、関羽のために死ぬというものだった。大筋では演義そのままで、やはり関羽の忠実な部下として最期を迎えている」
Y「喰われて死んではなぁ」
A「そういうのやめようぜ……」
F「周倉とは何者だったのか、と考えるのは割と難しい。演義における彼は関羽の忠臣だったが、周倉は正史には出てこない。モデルっぽい奴はいるが死んだ場所が違う」
Y「では、なぜ羅貫中は、そういうキャラクターを創造した?」
F「羅貫中以前にも原型はあったがな。繰り返しになるが、やはり関羽のせいだろう。正史における関羽の最期は、あまりにもあっけなく情けない。だが、関羽に仕え関羽のために死んだ忠実な陪神の存在で、あっけない最期に悲劇性を加えて、物語としての演義にひとつの山場を迎えさせているンだ」
Y「どうしても関羽からは離せない、か」
F「何しろ、部下と山塞を放って『大好きだから連れてってください!』とお願いするくらいだ。死んだって切り離せない絆があるのは、化けて出た関羽にくっついていたのでも明らかでな」
A「……張飛にはそういう部下がいなかったのが、演義でのトリックスターぶりにつながるのかね。下から諌止する部下がいないから、上から止められるまで自制できないタイプだった」
F「一軍を率いるようになってからは、少しは落ちついて頭も使うようになった、というわけだ。だが、『周倉はよくて廖化はダメ』という関羽の人選を深読みすると、割と笑えないものも見えてくる。なぜなら廖化は、ずっと先になるが姜維に向かって、こんなことを云っているンだから」

「『戦争とは火のようなもので、やめなければ必ず自分を焼く』と云うが、まさしく姜維そのままではないか。智謀でも武勇でも敵に劣るのに、戦争しかけてどうして勝てようか。ワシは思う、今の事態がどうして、ワシの生まれる前か死んだあとに起こらなかったのであろうか、と」

F「周倉が関羽に意見したことってないンだよ。少なくとも、アキラの云う『下から諌止する』ようなことはしていない。それどころか横山三国志では、赤壁で曹操を逃がし留守番に回されていた関羽に『劉備様なら頼めば前線に出してくれますよ』とけしかけるような真似をしている」
Y「なるほど、よき相方だな。息子だから関平ではそうはいかない」
A「やかましい!」
F「下々には優しい関羽が廖化を遠ざけたのは、本人の、下から上司を諌止しかねず、いざ危急存亡の場面に陥っても死にに行かない性格が原因だったように思える。実史を知っている羅貫中らしい配役でな。そして、関羽をいさめるような真似をせず、関羽が死んだら自分も死ぬようなタイプが必要だったワケだ」
A「それが周倉だった、か……」
F「かくて、劉備に関羽・張飛あれば、関羽には関平・周倉あり。よき主を選んで仕えた周倉は、その主のために、毛宗崗曰く『賊徒のいち豪傑』ではなしえない最期を迎えた。士は己を知る者のために死ぬ、というのを体現したように思えるのはほめすぎだろうか」
A「かっこいいから、許す」
F「だな。ところで……」
A「そこまでやらなくていいだろ!?」
F「お前のいない時だったが『私釈』168回で、僕はこんな文章を引用している」

 おそらく武蔵坊弁慶を除いては、日本の暴れ坊主たちはだれも花和尚魯智深の豪放豪侠ぶりには及ばなかったようである。
 實吉達郎『豪傑水滸伝』(コーエー) 69ページより

F「日本の講談における暴れん坊が、約一名を除いて魯智深の影響を必ず受けている、というのが当時指摘したものだが、その一名たる弁慶は弁慶で実像と講談の乖離が大きい。なぜか、というのはさておくが、では講談における弁慶のモデルとは誰かと云えば、周倉に思えるワケだ」
Y「平家相手に大暴れしていたが、ある日義経に出会って改心し、最期は壮絶な立ち往生を遂げた忠臣……か」
F「演義や平家物語の成立時期は考える必要はない。いずれも、それ以前からあった民間伝承での豪傑ぶりに強く影響されているからだ。悲運の最期を遂げた名将(とされる、政治的視野の足りない戦争屋)に仕えた忠臣。講談における弁慶にモデルがいるなら、そのひとりは周倉だったと考えていいだろう」
A「……つまり、アレか。お前、この『HM』で『私釈』210回にちりばめた伏線すべて回収していくつもりか」
F「最初に云った通りだよ、『私釈』で"やり残した"ことを講釈する、と」
Y「気が遠くなるなぁ」
A「頭痛ェ……」
F「リンゴ喰え。まぁ、本日の講釈はこれくらいで終わっておこう。あまりのっけから飛ばしすぎるのもまずい。また次回……ということで『History Members 三国志編』第一回を終了させていただきます」
A「充分暴走してると思うが」
F「僕の耳は、きょうは安息日だ。それでは、一ヶ月ぶりとなる締め台詞を」
Y「いざ」
A「いざ!」
F「続きは次回の講釈で」


周倉(しゅうそう) 字は不明
?〜219年(死因は自害)
武勇4智略1運営1魅力3
関西の出自とされる、演義の創作武将(演義以前にも元ネタはあったが)。
関羽に憧れ、関羽につき従い、関羽に殉死した忠臣として、演義オリジナル武将では随一の人気を誇る。

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