オクスフォード滞在記

 2016年9月から2017年8月までの1年間,オクスフォード大学近代ヨーロッパ史研究所に在外研究をした。
 以下はその防備録。


 こちらは,ユニバーシティ・カレッジの中庭。これからベンさんとダイニングでランチである。


 カレッジの壁はなぜかくも城壁のようにそびえているのか。模範的な答えは「学問の自由を守るため」であろう。しかし,1年間,いろいろな一流の研究者と接して感じたのは,優秀な人ほど内に秘めたパーソナリティが純粋であるということだ。幼児のような心を持ち続けるから,何かに没頭できる。しかし,純粋であるということは,狡猾な人に利用され易いということであり,世間的に無防備ということであり,生物として弱点があるということだ。天才を殺すに刃物は要らない。逆に言えば,世間が守ってこその天分ということになる。しかし,今の日本に,異質を排除する盲目はあっても,卓越への「寛容」はあるだろうか?天才とはかよわきものならば,誰かが守らねばならない。つまり放っておくと減っていく社会的共通資本である。天才とパトロンはどちらもエラい。社会的共通資本を守るのが,国家とも限らない。今の日本の社会は,そういう一握りの才能を,周りが育む互酬性を保てているだろうか。薄っぺらな道徳による窒息死もあれば,寛容による実利もあろう。生物的にたくましい平凡のみが「自然選択」され,ぎこちない天分が「淘汰」されていないか。もちろん,彼ら天才側も,ただ弱いままではいない。ジェントルマンのマナーは彼らの護身術にも見える。ただ,それでも残る彼らの本質的な弱さをこの城壁が守っているような気がした。次世代の革新への遺伝子所有者が,いつだって絶滅危惧種であったのだと仮定すれば,この保護活動にも説明がつく。しかし,天才の持つ社会的利益の外部性を考慮すれば,このいかめしい城壁だって,十分にその貢献を報われていないことになる。ここは,利己主義的合理主義もしくは大学の経営学ではどうにも説明ができない。オクスフォードは,その社会貢献を貨幣換算した時,その貢献結果の全額をとうてい回収できず,社会に対して膨大な赤字を垂れ流し続けていることになるからだ。そういう,この城壁からにじむ,血だらけのやせ我慢が,えもいわれぬ魅力の一つのような気がする。