古ぼけた小さなボストンバック一つと
一本の傘を手に町から町へと流れ歩く男!
この男の名を知る者は誰一人として居なかった。
或る町にやってきた男は、知り合った男の子と
公園で楽しい一日を過ごす。
しかし、男の子は・・・・・・。
天使のような心を持った男の物語!
「こうもり傘の天使」
(ある町のエレジー)
夏の草いきれにつつまれた道の脇に、一本のエルムの若木が立っていました。
よく茂った若木には夏の日差しが照りつけて、エルムの葉が、微かな風に
揺れると夏の日差しは木漏れ日となって、まるで海の波の煌めきのような光りを地上になげかけていました。
その木漏れ日の中に、小さな青い花を咲かせた草があり、その草の先に1羽の蝶が羽を休めていました。
ところが、その草の下には触角を伸ばし目をぎろぎろと光らせた大きなカマキリが、
でっぷりと太った腹を見せながら蝶の様子をうかがっていたのです。
カマキリはゆっくりとした動きで、長い足を静かに伸ばすと、その前足を蝶の止まっている草にふれました。
すると、その瞬間。蝶は、木漏れ日の中を、その花色と同じような青空にむかって飛び立ったのです。

蝶の飛び立った先には、夏草につつまれた一本の道が何処までも続いていました。
その先の、かなたの道をゆっくりとした足取りで歩いている一人の若い男がいました。
男は片手に傘を持ち、もう片方の手で古ぼけた小さなバックを一つ握っていました。
男の肩越しには、さっきまでこの男が居た町が陽炎にゆらいで、まるで蜃気楼のように見えています。
だが、この男の名を知る者は、さっきまでこの男が居た町には誰一人としていませんでした。
そして、これからこの男が行く町でも、きっと・・・。
しかし、この男が通り過ぎて来た幾つかの町では、
この男のことを、こう呼ぶ者がありました。
「こうもり傘の天使」と・・・。

良く晴れた青空には、ところどころに綿菓子を千切ったような雲が浮んでいました。
その空から視線を下に移していくと、公園の入口が見えました。
公園の入口を入って行くと、両脇には美しい花の植えられた花壇が続き、その先には大きな木々が植えられていました。
植えられた木々の葉はその下に置かれたベンチに涼しい日陰を作っていました。
そして、公園の中央は小さな広場があり、そこには大きな銅像が建っていました。
小さなバックとこうもり傘を手にした男は、その前に立ち止まると、眩しそうに銅像を眺めました。
銅像は太陽の光を浴びて、怪しく黒く光りながら、まるで男を見下すように建っていました。
この銅像は遠い外国で手柄を立てた軍人のものでした。その手柄というのは敵の国の軍人を何百人、
いや、何千人も、殺したというものでした。殺された敵方の軍人の中には、パン屋もいましたし、肉屋もいましたし、花屋もいました。
みんな国や家族を守るためにという理由で、戦場に駆り出された人たちでした。
その殺された何千人もの中には、女の人や幼い子供たちも含まれていたのです。軍人はその手柄で勲章をもらい、
この公園に銅像が建ったのでした。銅像の下には、その軍人の名前が誇らしげに大きく刻み込まれていました・・・。

男は、公園の片隅のベンチに座ると、雨も降っていないのに傘を取り出して開きました。
そして、日が暮れるとそのままベンチに体を横たえ眠りについたのでした・・・。
次の日の朝。男は、小鳥の声で目を覚ましました。男は硬いベンチで凝った体をほぐすと、
小さなバックを手にこの町で一番にぎやかな場所へと出かけて行きました。
街の広場では、多勢の人々が着飾って楽しそうにおしゃべりをしながら歩いていました。
男は道の端に腰を下ろすと、バックの中からハーモニカを取り出しました。
男は最初、小さな音でハーモニカを吹き始めました。男の吹く曲は、今までに誰も聞いた事の無い曲でした。
男の吹くハーモニカの音がしだいに大きくなると、男の周りに人々が集まって来ました。
男の吹く曲は、何故か聞く人々の心に深く沁みこみました。人々は男を不思議そうにながめました。
そして、その曲を聴いた人々の中で、少しばかりの優しさとわずかながらお金に余裕の或る人々は
男の前に置かれた帽子の中へお金を投げ入れて行ったのでした。
街に夕闇のとばりが下りるころ、男はパン屋の店先に立っていました。店のショーウィンドウには、
パンのほかにもチョコレートやクリームで飾りつけられた美しいケーキが並んでいました。
男は店内を見まわすと、棚の上に並べられた安いパンを一つ手に取りました。男はパンを持って店の者の前に立つと、
告げられたパン代を小声でつぶやきながら、まるで初めてお金を見た者のように、一枚、一枚、
確かめるようにして小銭をゆっくりと店員の前に並べだ出しました。
男には、そういうやり方しか出来なかったのです。すると、男の後ろに並んでいた、
太った乱暴そうな男が苛立って怒鳴りました。「おいっ、このうすのろやろー。何をもたもたしてやがるんだ!」
店の者が困ったような顔でいいました。「す、すみません。少々おまちを・・・。」
太った男は待ちきれずに、「この、のろまの浮浪者やろー。」と怒鳴りながら男を突き飛ばしました。
突き飛ばされた男は、しりもちを突いて、そのひょうしに握っていた小銭が店の床に音を立てながら散らばりました・・・。
しばらくして、男がよろよろと立ち上がって小銭を拾い始めると、小さな男の子が走り寄って来て言いました。
「おじさん、ぼくも、拾ってあげるね。」男の子は小銭を拾い終わると、男の手にやさしくのせました。
そして、店の奥に駆け込むとパンを持って出て来ました。「お父さんがね、ひどい目にあったねって。
だから、お代はいらないよって。」そういうと、男の子は、男のほうを見てにっこりと微笑みました。
男は公園のベンチに戻ると、男の子にもらったパンを食べようとしました。
しかし、突き飛ばされた時に床で打った腕が痛んで、すぐには口へはこぶ事が出来ませんでした。
男は、そのことを悔しくも思わなければ、哀しいとも思いませんでした。なぜならば、男にとって、
そんなことはごく日常の事だったからです。男は空を見上げました。すると空には満天の星たちが輝いていました。
星は、男にも、公園に立つ立派な銅像にも平等に優しい光を瞬きかけていました。
男は痛む腕で少しだけパンを食べました。そして、いつものように傘を開くとベンチに横になり、
そのまま眠りについたのでした・・・。次の日の朝、男を揺り起こす者がいました。
「おじさん。おじさん。」男が目をさますと、男の子は男の顔を見ていいました。
「公園中探しちゃったよ。」そおいうと男の子は、男にパンをさしだしました。
男は昨日男の子に、公園のベンチにいるとだけ、いっていたのでした。
その日、男と男の子は公園で遊びました。
男は、バックからハーモニカを取り出すと男の子に吹いてあげました。
男の子は、ハーモニカを吹く男を不思議そうな顔でながめていました。事実、
その曲は男の子が今までに聞いた事もないような不思議な曲だったのです。しかし、
その曲は男の子にとって何処か懐かしいような心地よい曲だったのです。
男が何曲かの曲を吹き終えると、男の子は袋の中から小さなスケッチブックを取り出しました。
小さな手に筆とスケッチブックを持った男の子は目の前に咲いている花の絵を描き始めました。
絵を描き終えた男の子は、男に筆を渡すと「おじさんも何か描いてみて。」といいました。
筆を手にした男は少し何か考えてから描き始めました。描き上がった絵を見た男の子は
「うわー。おじさんて、絵が上手いんだねー!」といいました。男が描いたのは天使の絵でした。
それから、二人は公園の花壇の花を見て回ったり、大きな木の下で虫を見つけたりして遊びました。
そして、二人が銅像の所に来た時です。男の子は銅像の前で立ち止まるとこんな話をはじめました。
「僕のお父さんはね、この銅像の絵を描くと怒るんだよ。もっと違うものを描きなさいっていうんだ。
なぜだろうね。僕はこの銅像かっこいいと思うんだけどな・・・」男と男の子は、
夏のなごりの強い日差しに照らされてそそり立つ銅像をしばらくじっと見つめていました・・・。
何処からか虫の声が聞えてくると、辺りは夕方のさわやかな空気に包まれました。
すると、男の子は、「僕、そろそろ帰らないと。あっそうだ。おじさん絵具あずかっておいてね、
それから、またハーモニカ聞かせててね。」と、いうと男の子は帰って行きました。
その途中、男の子は一度だけ男のほうを振り返ると、男に、小さな可愛い手を振ったのでした。
その夜、男は夢を見ました・・・。男がベンチで寝ていると、そっと、男の体の中から、
もう一人の男が抜け出して起き上がりました。すると、男の体はふわりと宙に浮き、
空へ空へと昇っていったのです。気がつくと、男の背中には天使の羽が生え何度か羽をはばたかせると、
男はもう今までに見たこともない美しい街の中に立っていました。その街の通りには、
美しい石造りの建物が並び、道にはやはり美しい石がひきつめられていました。男が、
ものめずらしそうに街の中を歩いていると。五、六人の子供たちが駆け寄ってきて男の手をとりました。
男は子供たちに導かれるようにして、大きな建物の中へと入っていきました。すると、
そこには華やかなスポットライトが当った舞台があり、子供たちは、男を一人舞台の中央に残すと去っていきました。
スポットライトの眩しさに目を細めて男が観客席を見渡すと、そこには溢れんばかりの人々たちが男に
向かって拍手をおくっていました。男は舞台の中央でどうしてよいのか分からずに、
ただはにかんだ笑顔を浮かべていました。そして、男は突然、気がついたように胸のポケットをさぐるとハーモニカを取り出し、
誰も知らない曲をいつものように吹きはじめたのです。男がいつも、道の端で吹いているあの曲です。
客席では多勢の観客たちが、男の演奏に聞き入りました。男の演奏が終わると、観客たちは立ち上がり、
男に、さらにもまして盛大な拍手を送りました。いつまでも鳴り止むことのない拍手の中で、男は客席の中に、
男の描いた天使の絵に似た女性を見つけたような気がしました。男は慌てて舞台を下り、
女性のほうへと近づいていきました。客席に下りた男の周りには、観客たちが群がり握手をしたり肩を叩いたりしました。
男が思うように歩けずにいると、いつの間にか女性の姿を見失っていました。男がさらに観客席を進もうとすると、
一人の男が、男の前に立ちはだかりました。その男は、パン屋にいたあの乱暴な男でした。乱暴な男は、
男の体を壁に押し付けると、男を罵しり始めました。「このやろー、このうすのろやろがー。ここは、
手前のようなやつが来る所じゃねえんだよー!手前には、ゴミ溜めがよくお似合いだぜ。」
乱暴な男は、そう言うと男の体を激しく壁にうち付けました。
男が観客席に見た女性は誰だったのでしょうか。それは、男が育った施設の部屋に掛けられていた天使の絵に
よく似た女性だったのです。男は、まだ見ぬ自分の母親にその絵の女性を重ね合わせていたのです。ですから、
男が施設を抜け出し、町から町へと旅をしているのも、もしかしたら、自分の母親とめぐり合うことが出来る
のではないかという、はかない気持ちからなのでした・・・。
男は、人の話し声で目をさましました。すると、ベンチの周りには酒に寄った若者たちが三、四人立っていました。
その中の一人が大声でいいました。「おい、浮浪者さまが目をさましたらしいぞ!」すると、
若者の一人が男の腹を蹴り上げました。「うっ、ううううー。」男が腹を押さえて苦しそうに呻くと、
若者たちは笑いながらいいました。「ははは、みんな、見てみろよゴミ溜めの浮浪者さまが唸っていやがるぜ。」
その時です。「おい、そこで何をしている!」そういいながら、二人の男たちがベンチの方へ走ってきました。
「やばい!察だ!」若者たちは、たちまちのうちにクモの子を散らすようにして逃げ去っていったのでした。
背が高くメガネをかけた警官が、男を助け起こすとベンチに座らせました。そして、男に質問を浴びせました。
「おい、何をしていたんだ。家は何処だ!」若者たちを追いかけていって戻ってきたがっしりとした体格でヒゲを
はやした別の警官がいいました。「ははん、おまえ浮浪者だな!」「おい、そのバックの中には何が入っているんだ。
中を見せてみろ。」そお言うとヒゲの警官はバックの中身を調べはじめました。「んっ、なんだこりゃ。ハーモニカに、
天使の絵、それに絵具か?」メガネの警官がいいました。「そういえば、このあいだ、あそこにある銅像に赤い
絵具を塗りつけたやつがいたが。まさか、お前じゃなかろうな!」すると、ヒゲの警官が「こいつじゃなかろう。」
といって男の方を見ました。「まあ、とにかく厄介を起こすな。それから、さっさとこの町から出て行くんだな。」
と言い終えると、メガネの警官が付け加えていいました。「お前たちのような浮浪者が一人や二人、死のうが生きようが
俺たちにゃあ何の関係もない、ただ余計な仕事が一つ増えるだけだ。いいか、今度、顔を見かけたら豚箱行きだぞ!わかったな・・・。」
それから幾日かたった、ある日の午後のことです。数日間、降り続いた雨がやっと小降りになった頃でした。
男が、雨宿りをしていた場所から離れ傘を差しながら、ぼんやりとベンチに座っていると、男の側を駆け抜けて行く
者たちがありました。「たいへんだ!たいへんだ!」「そこの川で、子供が流されたらしいぞ!」「流されたのはパン屋の子供らしい!」
男は、いそいで川に行ってみました。すると、川岸には群衆が集まり、その先頭には、この間の二人の警官たちが立っていました。
川の水は強い流れになっていて、その川の中に立てられた杭に、小さな子供が流されまいとして必死につかまっている姿が
見えました。群衆の中の一人がいいました。「おい、誰か泳げる者はいないのか?」すると警官の一人がいいました。
「だめだ!この流れではすぐに流されてしまう。」また、群衆の中から声が上がりました。「見殺しにする気か?」すると、
慌てて別の警官がいいました。「いま助けを待っているところだ!」その様子を見ていた男は川岸に近づいて行くと
そのまま川の中に飛び込みました。「おーい、誰かが川に飛び込んだぞー!」群衆の中にどよめきが起きました。
川の中に飛び込んだ男は、杭までたどり着くと男の子を抱きかかえ、そのまま無我夢中で泳ぎ岸へとたどり着きました。
群衆の中から大きな歓声が上がりました。岸辺の者に男の子をあずけた男は、そのまま力尽きたのかぐったりとして川を流されて
いったのです。そして、ついには、男の姿は遠く見えなくなってしまいました・・・。男は、そのまま流されて死んでしまった
のでしょうか。それとも・・・。

男の子は、泣きながら町の人たちにいいました。「僕を助けてくれたのは、あの、おじさんだよ!公園のベンチにいた、
あの、やさしいおじさんだよ・・・。」
それから数十年後、男の子はパン屋の主人になっていました。パン屋の主人は、時々、自分の子供たちを連れて公園に
散歩にやって来ます。公園の中央には、昔と変らず同じように立派な銅像が建っていました。そして、あの男が、
コウモリ傘を開いて寝ていたあの場所にも、昔と同じようにベンチが置いてありました。そのベンチは、この公園の中で
誰でもが自由に休む事が出来るようにとパン屋の主人が寄付した物でした。ある日、パン屋の主人は子供たちとベンチに座ると
静かに話し始めました。この公園で出会った不思議な男の話を・・・。
それから、あの男の持っていた、こうもり傘とハーモニカと天使の絵は、パン屋の主人が今でも大切に持っています。
そして、パン屋の主人は時々思うのです。もしかしたら、あの男は、神さまが地上につかわされた天使だったのかもしれないと。
そう、人間たちの優しさを御試しになるために・・・。
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