「何を、見ておられるのですか」
――せめて人目を気にせず一時の休息を。
見知った顔に出会うこともないよう、夜の闇を縫うようにしてたどり着いた場所。
高台のホテルからは、街の灯が瞬く星のように、にじみながら煌(きら)めいて見えた。
目立つことの無いよう、選んだのは、ごく普通の小さな部屋。かりそめの宿とはいえ、
やや息が詰まりそうな空間で、ガラス戸を開け放って外を見つめているロイに、
“何を見ているか”と聞くなど、愚問に思われたが。
彼は時々、遠くを見つめるような眼差しで、物思いに耽(ふけ)ることがある。
何を考えているのか。――何を考えているわけではないのかもしれない。
けれど、無意識にせよ、自分の内に閉じこもり、誰にもその心を触れさせない
ロイのそんな様子は、リザにとって、いわれようのない寂しさを覚えさせるものだった。
「……いや。別に」
部屋に着いた時から、何処か心ここにあらずという様子のロイは、時折グラスを、
カランと鳴らしながら、窓辺の椅子に身を預け、静謐な横顔を外に向けたまま。
この空間に二人きりの彼女の存在を忘れているのではないかと思われるほど、
彼の意識は、夜の静寂(しじま)に埋没していた。
折角……煩わしい喧噪の街を逃れて、タイトなスケジュールの中、一日にも満たない
二人の時間を紡(つむ)いで、ここまで来たのに。
――おかしな人。
リザは溜息をついた。普段は自分を振り回してばかりのくせに。いつも自分勝手で、
気まぐれで、我が侭で。良いように翻弄されて、悔しい思いをさせられているのに。
なのにどうして、今、こんな時に、そんな空虚な目をするのか。
色々と悩ましい事柄が頭を離れないのは、しょうがないと思う。
実際近頃は、殺伐とした事件が多く、やりきれぬ思いになることが多かった。
それでも――
「……夜風は冷えます」
回り込んで、そっとガラス戸を閉じるが、彼の視線は動かない。
確かに、外を見ていたわけではないのだろう。何だかその無反応さが腹立たしくて、
リザはカーテンまで閉めてしまう。が、それにも特に反応はない。
――勝手なひと。
苛立ちというほどのものでもないが、こんな時の彼は、狡いと感じざるを得なかった。
何か浮かないことがあるのなら、忘れようとすれば良いのに。
そのために二人、ここに来たのではなかったのか。
理由もなく我が侭をいうかと思えば、こうして独りで静かに沈んで。
……必要ならば、求めれば良いのに。理由なんて、要らないのだから。
「シャワーを先にいただいても良いでしょうか」
「ああ」
カーテンを引かれてしまった後は、彼の視線はグラスの中の氷を見つめているように見えた。
……無自覚という、一番手に終えない恋敵。
そんなものにすら、軽い嫉妬を覚えつつ、リザは髪を結い上げ、支度をした。
彼女が浴室から出てきても、まだ彼は変わらぬ様子で、グラスを見つめていた。
別に、何か具体的に、気の沈む事柄があるというわけではないのだろう。
ただ、うわの空でいるという事実は、否めない。そしてそれは、こうして時を共に過ごす
女性に対して、咎(とが)められるに十分な理由になる。
後ろから、彼の目を覆った手は、いつもならばひんやりとするはずが、湯上がりの温もりで
柔らかな暖かさだった。急に視界を閉ざされ、ロイはその手に、自分の手を重ねた。
「――いっそ目を背けられたら宜しいのに」
「何のことかね」
そっと彼女の手を掴んでずらし、首を後ろに向ける。リザは、サテンのナイトガウンに身を包み、
アイヴォリーの生地は、室内の灯りを受けた場所が、黄金色に光を放っていた。
結い上げた髪の襟足から、はらりと零れた後れ毛がその色に溶け合うのを、ロイはボンヤリと見つめ、
そしてまた、向き直った。――それは、美しいものを前にして、いささか礼に欠ける振る舞いだった。
惚(ほう)けているのだろう。そう思うしかないほどの、そっけなさ。
リザの左手が、ロイの頬を撫ぜた。
「そうしていても私が見えないのなら、いっそ見ないでいてください。――私ではダメなのであれば、
私は、自分以外の存在になりますから」
「何を……」
ロイが苦笑まじりの溜息を漏らすと、その背後で、シュルッと衣ずれの音がした。
不意に、彼の視界が覆い隠される。
「……リザ?」
「――名前を呼んではだめ」
耳元に口づけるような囁き。
時に、お互いを知りすぎている事が、その妨げになるのなら、知らない振りをして、
忘れるためだけに甘えたって良い。感情などにこだわらず、純粋に感覚だけを信じて。
首筋から沿わせた細い指が、襟をひらく。
項(うなじ)に落とされる唇が、吸い付くような口づけの連鎖で、この一時の始まりを告げた。
シャツのボタンを外しながら滑り込む指は、鎖骨から肩へと撫でるように。
「……くすぐったいよ」
いつもは彼が自分にするように、まるで子犬がじゃれつくような、湿った愛撫。
むず痒いというように、ロイは微かに首をひねった。
……いい気味。そんな気持ちが心をよぎる。
彼女が身をよじらせると、何もかも見通したような眼をして、羞恥を煽るような言葉を囁いた、
忌々しい恋人。――今夜は私が、あなたを見つめる番、と。
リザは腕を彼の首に絡めたまま、彼の正面に回ると、ストン、と子供のように、膝の上に乗った。
それは意外な程に、躊躇のない行為で。
彼女の奇異な振る舞いに、しかしロイはこれといった戸惑いも見せず、自らの扱われ方を、
静観しているように見えた。その落ち着きが気に入らず、リザは、かぷり、と彼の首筋を甘噛む。
彼だって、何も感じないはずはない場所に、そっと歯を立てて。
まだかかったボタンを総て外して、柔らかな胸を押しつければ、吸い付くような素肌に、
思わずロイが嘆息を洩らす。まだ熱を内に秘め、しっとりと、皮膚自体が濡れた吐息を零すような
感触は、二人だけで分かち合うもの。この閉ざされた狭い空間で、何処にも行き場のない、
外に洩らすことはできない快楽。
裾の下から手を忍び込ませ、背筋に沿う、その体のつなぎ目を、一箇所一箇所確かめるよう
指で押しながら、シャツを少し引っ張り、首筋から鎖骨、そして露出した彼の肩まで、
唇を這わせた。――背中に回した手が肩に届けば、それだけ体は密着する。
ロイも彼女に腕を伸ばそうとして……だが、リザに引っ張られたシャツに軽い拘束を受けて、
その腕が動かないことに気付く。
「……リザ」
してやられた、と、溜息のように呟く彼に、彼女は、クスッと笑うと、きゅっとシャツを引いていた
手を離し、おいたをした子供を諭すような、けれど、ちょっと艶の有りすぎる声で。
「だめって言ったでしょう?」
また禁じられた名を呼んだ唇に、今度は忘れないよう、唇で教え込む。
名前を呼ばれないことで自由を得る彼女は、憚(はばか)ることなく彼を独占する
欲深い女になれる。だけど、それも一時のこと。
そうであったとしても、今の彼女は、彼の知らない女。
だから……
――存分に甘えてください。ただ感じてください。戸惑わず。恥ずかしがらず。
どうせ、何処にも行けない想いだから。自分が自分である必要性など、リザは感じていなかった。
名前をなくした存在となって、ただ純粋な感覚として彼と融け合えれば、今はそれで良い。
彼が何も考えなくても良いように、自分も思考をなくす。ただ彼が感じてくれれば、彼の中に
いるのが自分でなくても構わない。
そんな思いで、彼との深い口づけは繰り返された。
ふとした瞬間、少し自由になったロイの手が、彼女の脚に触れる。ただ、触れただけ。
けれど、リザはつい、その感触に、いつものように眼を閉じてしまう。
……真っ暗になる視界。
闇の中で感じる総ては、いつもと何ら変わらぬ事象でありながら、それらがみな、
鋭い刃物のように変貌を遂げていた。皮膚の温度。指先の感触。髪のくすぐり。微かな吐息。
舌のザラつきと口内のぬめり。彼の匂い――総て。気が遠くなるほど鮮烈で、脳裏に熱い
血のひらめきが映るよう。味わったことのないヴォルテージが、幾度と無く意識を痺らせる。
忘れ去られたグラスの氷が、カラッ、と音を立てて崩れた。
陶酔に身を委ねそうになっていたリザは我に返り、ハッと眼を開いた。
――違う、これではいけない。
見ているのはこちら。触れているのもこちら。
彼には何の愛撫を受けているわけではないのに……何故、感じているのだろう。
リザは困惑した。――悟られてはならない。
いつもとは別の意味で、声を出すのを堪えることは、奇妙なストレスとなった。
けれど、その背徳的な思いが背筋を走ると、より一層激しく、体を支配する感覚が暴れた。
自分が乱れてしまう前に、どうにかしなければ。これでは負けてしまう。
焦燥が熱を高め、奪い、彼女の心臓は落ち着きをなくす。
思いとは裏腹に、ロイがどんな様子であるかを伺うという余裕すら、ほとんど喪失していた。
寧ろ、自分の戸惑いを悟られないようにということに精一杯で。だから、彼をチェアーから
立つように促すと、ややせっかちな仕草で、視覚を奪われて危うい足元の彼を、ベッドへと
押しやり、倒れ込んだ。
「――ちょっと乱暴だね」
余裕の無さを見透かされるのを恐れて、いつにない激しさで、リザは押しつけるような
口づけを貪り、余計な言葉を封じる。だが、ますます感じていく自分の身体の奇妙な反応に、
困惑は増すばかり。泣きそうな火照りを内に抱え、こんなにも融けそうな体になってしまっている
ことを気付かれぬよう、はしたない程に慌ただしい愛撫を、ロイの下にも加える。
憎らしいほど落ち着いているように思えても、そこはしっかりと主張をしていて。
普段なら、絶対にしない。自分でもそう思う。だけど……
――ここで、名前を呼んだりしないで。
リザは、それだけは願った。彼には見えていない。だから声さえ出さなければ、悟られることは
ないと思っていた。けれど、もし名前を呼ばれたら……
ほとんど彼には触れられないままに、ひどく昂(たか)ぶってしまった自分の身体の秘密を
知られる前に。そんな思いで、自分から彼の上に腰を落とした。
――それだけで意識が飛びそうになるが、声を漏らすことはできない。
唇を噛みしめ、震えもこらえ、脳に酸素が回りきらぬような眩暈(めまい)を感じながら、
リザは、自分の奥深くに、ロイを埋(うず)めた。
彼の手が、彼女の腰に触れる。身体に触れられると、ギリギリの意識がバランスを失いそうで、
リザはその手を外す。が、彼は彼女の手を離さない。ギュッと握られ、それと同時に
軽く突き上げられ、喉から心臓が飛び出してしまうかと思うほどの衝撃に、彼女は息を詰めた。
「リザ……」
「だからダメだと……!」
三度目にまた名を呼ぶ、覚えの悪い彼に、ムキになって苛立ちをぶつけようとすると、
握っていた手を、ぐいと引くようにして、ロイが身体を起こした。
「――見えなくても、分かっているよ」
ぐっと体を抱きしめられて、耳元に囁かれた言葉に、リザは頬を氷で打たれたような衝撃を受けた。
「……え?」
何かの、聞き違いかと思った。だが、そうではなかった。
「たとえ目を閉じていたとしても。君の総てが分かる。感触も。吐息も……。紛れもなく、
今抱いているのは君だと分かる」
「うそ……」
そんなはずはない。カアッと、顔に熱が昇ってくる。
――嘘じゃない。
そう、言葉で言われただけならば、まだ抑えられたはず。だがロイは、そのまま体を彼女に預け、
先ほどとは逆に、リザがベッドに横たえられた。
何も考えなければ、それは在り来たりの愛撫。けれど、そうではない。
首筋に、胸に、腰に……脚に。
労るように、それでいて熱く、痛みを伴うような激しさもにじませる接吻。
――そんな、まさか……
確かめるように、吹き飛んでしまいそうな理性を僅かに留めた眼差しを注げば、間違いなく
彼の視界を縛(いまし)める布は、そのまま。なのに、何故……?
薄紅色の花弁のように、肌に散らされる口づけのあとは、寸分の狂いもなく――彼女の傷痕の上に重なる。
戦乱で負った、幾つもの印(しるし)。それを隅々まで見せたのは、彼だけ。だとしても、そんな……
「あっ……!」
激しい混乱の中、彼が彼女の体をうつぶせにさせ、辛うじて肌に引っかかっていた薄いガウンを
はぎ取ると、今度は背後の傷痕を数えるように、背中に唇を這わせた。
「……だめ、大佐、だめ……!」
これは罰? 彼の言葉を信じなかったことへの。見えているはずのない傷痕への正確な口づけは、
敏感な箇所への愛撫よりも強く、激しい快楽を彼女に与えた。
「いや……!」
これ以上、あられもない姿を見られたくはない……。何も見えていないのは自分。
彼には見えている。間違いなく。それを思い知らされ、意識が熱で焼き切れそうになる。
そんな時、優しく抱きかかえるような体勢で、ロイが彼女に侵入し、リザは思わず、
悲鳴にも似た嬌声を上げてしまう。それが、怯えたように聞こえたのか、ロイが耳元で囁いた。
「大丈夫だよ……リザ。私に委(ゆだ)ねてごらん」
彼の言葉に、より一層の羞恥を煽られ、リザは頭(かぶり)を振る。結い上げていた彼女の髪が、
弾けるように解けた。その髪を柔らかく、宥(なだ)めるように彼の手が撫ぜる。
まるで彼の全身に眼があって、その総てで見つめられているような、たまらない思い。
忘れさせたかったのに。何も考えさせずに、ただ感じてほしかったのに。
自分と、彼と。その存在を、こんな形で強烈に焼き付けられるなんて。
シーツを握りしめる手が、体中が、震えでバラバラになりそう。それを彼が包んで、
再構築するように抱き留める。その感触が優しければそれだけ尚更に心が揺れて、
リザは自分では支配できない感情に乱れた。――苦しいほど。
苦しい……けれど、離れたくない。
――大丈夫だよ リザ
何度も、彼の声が聞こえた気がした。
* * * *
真っ白に意識が焼き付いた後にも、彼の腕は甘美に、彼女を抱いていた。
「もう……外しても良いかな」
彼女の呼吸が、少し落ち着いた頃、耳元でロイが呟いた。ハッと彼女が首だけ後ろに向けると、
リザが結わえたガウンの帯をロイが外した。ずっと見つめられていた気がするのに、
改めて、涼しい彼の目に捕らえられると、リザはいたたまれなくなり、また顔を背けてしまう。
「どうした?」
そんな様子の彼女に、ロイは首筋に鼻先を埋めるようにして、問いかける。
「あまり『嫌、嫌』と言われるから、本当に嫌がられているのかと、一瞬不安になったよ」
「それは……」
また、カアッと頬が熱くなる。……嫌だったのは、彼ではなくて、自分。
「あなたに……現実を忘れさせたかった」
かすれるような声で、リザは呟いた。
――でも、できなかった。
思い出したくない程に乱れて、正体を無くし、気付いた時、ここが何処であったかも
しばし思い出せなかった。そんな有様。
「……愚かだね、リザ」
「分かってます」
ロイに言われて、泣きたいような気持ちになった。所詮、自分には無理なことなのだと……
言われなくても、分かっている。
「そうじゃない」
彼女の心中を覗いたかのように、ロイの腕が、少しだけ縛めるように、きつくなる。
「どうして忘れる必要がある? 現実には、こうして君がいるのに」
その言葉に、リザはビクン、と身を震わせた。
でも……だとしたら何故、こうして現実に棲む場所を離れて、こんな所にやってくるのか。
――その大切な現実を、思い出すためにだよ。
熱く潤む視界に気を取られた彼女に、幻のように、声が染み入る。
「時々、忘れていることがあるかもしれない。それで君にも、知らぬ内に、不快な思いを
させているかもしれないな。だから……」
ロイは、腕の中の彼女の身を、そっと翻し、彼の方に向けた。
「息が詰まるほど狭い場所で、確かめたくなる」
そう言って彼は、広いベッドなのに、縮こまるように背を丸めて、彼女の体を抱き込んだ。
「君には、迷惑な話かな?」
「……いえ」
この人も同じなのだと、リザは安堵した。苦しさにも焦がれる。それが、証(あかし)だから。
もっと別な確かめ方も、あるのかもしれない。愚かなだけの二人かもしれない。そうだとしても。
「一緒に……居させてください」
目を閉じて、リザは彼の胸に頬を寄せた。
たとえ、どんなに窮屈な場所であろうと。
それが、狭い籠の中で藻掻く鳥が、互いの羽根を傷つけ合う行為に似ていたとしても。
――独りよりは、ずっと良い。
5.4.2004.
本館 Deracine 6666HIT澪咲透乃さんのリク、お題・「籠の鳥」。ロイ←アイで、甘めで、
乙女チック全開!!のウラ。――ですってYO。果たして条件を一個でも消化してるのか?!
いやー、私ゃ下半身で感じるよりも、脳髄で感じるエロが書いてて好きなんで、って超言い訳。
ウチのリザさんにしては、随分積極的になってもらったんですが、所詮、当社比だからな(笑)
何か前半のロイロイ、マグロっぽい(^_^;) 澪咲さんに気に入っていただけたら良いのですが……。