食卓の錬金術師
それは、あの美しいひとからのプレゼント。ちょっとした魔法を、彼女が使えるようにと。
――あなたにだけは、教えてあげるわ。
そう彼女が言って、渡してくれた秘密のレシピ。
どうってことはないかもしれないけれど、きっと何かが違うはず……そう微笑んで。
こんな日は、そうあるものではない。
休日というわけではなかった。リザは早番で、ロイは研究のために自宅作業中。
まだ明るい内に勤務の明けたリザは、一度家に戻り、買い物をしてから、どうせ昨日から
ロクな食事もしていないであろう、ロイの家に向かった。
まだ日が落ちるまでに時間があり、明るい外を歩けるだけで、リザは心が軽やかになるように
感じられた。まだまだ一日はこれから。そんな気持ちになれるから。特別な日というわけでは
ないけれど、特別になったら素敵だろう。それはきっと、心がけ次第。
どうせ没頭している時のロイは周りの音なんか聞こえやしないのだから、初めから鍵を使って
ドアを開けた。自分が来ることは分かっているのだし、放っておいてもその内に気付くだろう。
寧ろ、取り込んでいるとしたら、邪魔をしたくはない。だから、こっそりとまではいかなくても、
リザはそっと屋内に入った。広い家だから、ロイが奥の方に籠もっているとしたら、全く音は
届かないだろう。そのまま何も声は発せず、廊下を抜け、キッチンへ。
家自体が大きいので、もともとキッチンは広かった。ただ、その大きさの割に住んでいる人間が
少ないから、中央にポツンと、小さめのテーブルセットが置かれているだけで、妙に広々とした
スペースになっていた。ダイニングはまた別にあるが、2人ならここで十分事足りる。
まだ時間は早いとはいえ、あまり下ごしらえやら何やらで料理に時間を割くのも、ナンセンス。
だけど、折角だから何か特別なものがほしい。でも、凄く特別じゃなくて良い。
張り切っていると思われては、恥ずかしいから――
そんな微妙な彼女の心に浮かんだのが、とっておきの魔法。
「――何だ、来てたのか」
リザが流しに立ってしばらくしてからのこと。彼女がエプロンで手を拭いて振り返ると、
ロイが戸口の所に手をついて立っていた。夜も昼もあまり関係ないような時間の過ごし方を
していたのだろう。いかにもスッキリしない顔だが、思ったほど疲れているようにも見えない。
「順調のようですね」
ふーっと息をついて、彼はキッチンに入ると、椅子を引いて座った。
「――飽きた」
その言葉に、リザも軽い溜息。この人の飽きっぽいのはどうしようもない。ただ、放っておいても
取り返しのつかないような事態に陥ることはないので、安心して見ていられるのだが。
「それは困りましたね」
一応上辺だけ、そんな言葉を口にして、自分は自分の作業に戻る。
スープに使うさやえんどうの筋を一つ一つ、丁寧に取り除いていると、不意に後ろから
抱きすくめられ、手から取り落としてしまう。
「危ないですから、やめてください」
もう……と、彼の腕を外して、シンクに落ちてしまったさやえんどうを拾い上げる。
「刃物を持っているわけではないから良いだろう」
それでもまだ、ロイの腕はリザの腰に回され、首筋の後れ毛に顔を埋めるようにしていた。
「危なくないとしても、邪魔です」
「ハッキリ言うなぁ」
やっと全部の筋を取り終わり、次は――と手を伸ばそうとすると、抱きかかえられているせいで
手が届かない。
「大佐……作業ができません」
「知っているかな、リザ。料理をしている女性の後ろ姿というのは、どうにも魅惑的で、
触れずにはいられない。純粋で、温かくて。そして何より無防備で」
「それは、何処からか狼藉者が襲ってくるかも、なんて警戒しながら料理する女性は
いないでしょうから。――こんな風に」
「襲ってるわけじゃないだろう?」
「ええ、邪魔なだけです」
んもうっ、と手を伸ばし、ようやく掴んだパプリカ。
じゃれついても、ちっともリザが構ってくれないので、ロイは渋々彼女を解放した。
「で、今日は何かな?」
もとの椅子に戻って、テーブルに肘をついて。何処となく物欲しそうな視線でリザの
後ろ姿を見つめながらロイが尋ねる。
「申し訳ございませんけれど、何も特別なことはありません。ポークソテーのマスタードソースに、
さやえんどうとベーコンのスープ、サラダ……そんな感じです」
パプリカを刻んだ後は、マッシュルームの石づきを取る。
「いや。君が作ってくれるだけで特別だよ、いつも」
「お上手ですね。何も出ませんよ」
何も特別なことはない。――それは、嘘。
でも、それはあからさまに気付かれるようなものではなくて。
ほんのちょっと、いつもと違うと、ささやかに感じてもらえたらなら、それで良い。
リザは、シンクの下の戸を開けて、グレープシードオイルの瓶を出した。
そして、オイルよりも小さな瓶を、腰をかがめて取り出し……
「あっ!」
思わずリザが声を上げたものだから、ロイもビクッとした。
「どうした?」
「いけない……ワインビネガー、切らしていたのね」
彼女が腰を伸ばして、青みがかったガラスの小瓶を掲げると、中身は、底の方にわずかに
残っているだけだった。
「何だ。調達してこようか?」
「お願いできますか? じゃあ、これと同じ……」
リザがロイを振り返ると――何故かもう、そこに彼の姿はなかった。
「……大佐?」
一体何処へ行ってしまったのか。早速出かけたわけではないと思うが……と、リザは
小瓶を手にしたまま、キッチンの戸口まで歩み寄った。
――……まさか!
思い当たり、廊下のもっと奥、ロイの研究用の部屋に早足で向かう。
「大佐……何なさるおつもりですか?」
予想通り。扉が開いたままの部屋の中で、ロイはごそごそと試薬の瓶を集めていた。
「何って……」
「錬成なんてしないで、買ってきてください! 値の張るものでもないんですから!」
「だって、酢だろ? 化学式CH3COOHで、あとは……」
ロイは、リザの手の瓶のラベルを見ると、
「7パーセントに薄めて、そこに糖分を加えれば食用酢に」
「嫌です!」
「成分は一緒だよ?」
「絶対、嫌っ!! これと同じ、ベルシュロンのワインビネガー買ってきてください!」
普段クールな彼女にしては珍しいくらいに、エラい剣幕だったので、ロイは思わず後ずさる。
たかが酢だろう? とでも言いたげだったが、さすがに口にはしなかった。
「……じゃ、行ってくるけど。他に、何かあるかい?」
「ありません。それだけ、間違いなく買ってきていただければ十分です。お願いですから、
ちゃんと同じものを買ってきてください」
キッチンに戻ると、くどいぐらいにリザが言うものだから、ロイは不審そうに眉をひそめた。
リザも、自分がちょっと極端に反応しすぎていることは分かっていたので、彼と目線を
合わせないよう、背を向けてしまった。
ロイがテクテク歩いてお遣いに出てしまうと、リザは溜息をついて、調理台の上に
調味料類を並べた。
他のものは、ちゃんと揃えたのに。ホールの胡桃(くるみ)だって、忘れずに買ってきたのに。
盲点だった。たかがワインビネガー。ロイに言わせれば、たかが、酢。だけど、だからこそ
悔しくてたまらなかった。だって、今日彼女が一番、神経を使って仕上げるハズのものに、
不可欠な要素だったのだから――
* * * *
それは、ヒューズ家に、ロイとリザが揃って招待された時のこと。
リザは、何か手伝えることがないかと、グレイシアのいるキッチンへと足を踏み入れた。
「あら、お客様なのにいいのよ」
グレイシアはそう言ったが、実のところ、リザは彼女の側で見ているだけでも、何か得られるものが
あるのではないかと期待していた。
「料理に自信がない?」
「どうせ、そんなに作る機会もないし……あの、何かもの凄く特別なことがしたいという
わけではないんです。ただ、何かいつもとはちょっとだけ違うものがほしい時、
どうしたら良いのか分からなくて」
自分とは違う、家庭的な主婦、そして優しく美しい妻・グレイシア。
リザは、自分が彼女と同じ事ができるなどとは、到底思ってはいなかった。
今だって、椅子に座りながら、当たり障りのない、野菜の皮むきをやらせてもらっていたが、
それすら鮮やかな手際という程のものではない。それに比べて、グレイシアの手つきは、
何をするにも、見ているだけでうっとりするような柔らかさだった。
「手間暇や時間をかけるだけが特別な料理じゃないのよ? リザさん。陳腐な言い方だけれど、
一番の調味料はね、キモチなの。だけど、現実的に考えて、あなた本当に忙しいものね」
「こんなこと言うと、子供っぽいかもしれませんけど……あんまり無理しているというのが
分かってしまうのも恥ずかしいですし。だから、大したことじゃないけれど、何か一工夫できたら
一番良いんですけど。――そんな都合の良い話、バカみたいですよね」
リザは、女同士、気安くなったことでつい口が軽やかになったことが急に恥ずかしくなり、
うつむいてしまった。
オーブンを覗いていたグレイシアは、腰を伸ばすと、一段落ついたのか、軽く息をついた。
そして、リザの隣の椅子を引いて座ると、にっこりと、お日様のような笑顔で。
「ね、じゃあ私が、魔法を教えてあげる」
グレイシアの言葉に、リザはそっと顔を上げた。
「大したことじゃないけれど、『おっ?』って思わせるような、ヒミツ。どうということではないけれど、
きっと何か違うって感じるわ」
「何ですか? それ」
リザが不思議そうに尋ねると、グレイシアはまたニッコリと微笑んで、立ち上がると、
壁際にあるキャビネットを開いて、花柄の小箱を取り出した。そしてそれをテーブルに置くと、
もう一度椅子に座り、箱のフタを開いた。
「私の、とっておきシークレット・レシピ」
「えっ……」
箱の中のカードを、インデックスを見ながらより分けるグレイシアに、リザは息を詰めた。
シークレット・レシピ。その家の主婦が、来客に問われたとしても決して教えない、門外不出の
秘密のレシピ。家事のプロフェッショナルだからこそ、誇りを持って守る、とっておきの味。
「そんな、グレイシアさん、いいんです!」
「あら、大したことないって言ったでしょ? それに、あなただから教えてあげるのよ、リザさん」
――あなたにだけは、教えてあげる。
グレイシアはそう優しく微笑んで、彼女秘蔵のレシピを、カードに書き写してくれた。
「……これ。私のスペシャル・ドレッシングなの。ね、大したことないでしょ? でも、自信作なの。
たかがドレッシングなのに、みんな、『おっ?』って顔をするのよ」
リザは、野菜をむいていた手を布巾で手を拭くと、グレイシアのレシピを受け取った。
「いつか、試してごらんなさいな。ほんのちょっとだけ、特別にしたい時」
ささやかな魔法よ――と、美しい彼女は、片目をつむって見せた。
* * * *
「――ただいま。ちゃんと買ってきたよ、リザ」
ロイが、ワインビネガーの小瓶を片手に、キッチンに戻ってきた。
これで文句ないだろう、とでも言いたげな、ちょっと憮然とした表情で。
そりゃあ、国軍大佐に調味料を買いに使いっ走りさせたのは、勢いとはいえ、
リザも相当なものだったと言える。
彼女は、ロイが掲げた小瓶を受け取ると、大切に胸に抱いた。そして、彼の顔を見上げると、
嬉しそうに、ニッコリと微笑んだ。あまりに意外な表情にロイは一瞬戸惑ったが、更なる驚き。
リザが、スッと背を伸ばし、彼に軽く口づけた。
「……有り難うございます」
「あ? ああ……」
「どうか、なさいました?」
面食らったような顔をしているロイに、リザが尋ねる。
「いや……お遣いして、得した気分」
その言葉に、リザは小さく吹き出した。そしてまた背を向けると、調理台の上に小瓶を置いた。
「そんなに時間はかかりませんけれど……またお声をかけますから」
「分かった」
籠もるのに飽き飽きとしていたところに、良い気分転換にもなったのか、そう言ってロイは、
また奥へと戻っていった。
リザは、調理台の上に揃った調味料を眺めて、そっと微笑む。
――あなたは、何か感じるかしら。
何気ない食卓の上の、小さな秘密。
世界一の主婦が教えてくれた、何てことはないけれど、ちょっとだけスペシャルなエッセンス。
今日という日を、特別にするための、ほんの少しの魔法――
3.12.2004.
本館 Deracine で6000番を踏んでくださった澪咲透乃さんのリク、「お料理するリザたん」。
という割には、料理してるって感じが……あります?(汗) 最近そんなことばっか言ってる気が。
最初、荒井由実の「チャイニーズ・スープ」がイメージに浮かんだのですが、中華はねぇだろう。
ということで煮詰まり、アメリカに住んでた時、Secret Recipe (秘密のレシピ)といって、その家の
奥さんが絶対に人に教えない、特別なレシピを持っているというのを思い出し、それをネタに。