「では、お願いいたしますね。できるだけ遅くならないようには帰ってくるつもりですが」
そう言って彼女は、ドアの外で振り返った。
「どうかされましたか?」
彼女、リザ・ホークアイの姿を、何とも嬉しそうな顔をして眺める男に、眉をひそめる。
「いや……」
男、ロイ・マスタングは戸口に手をついて、ニッコリと笑う。
「いいなぁと思って」
友人の結婚式に招かれて出かけるための装いは、あまり見慣れぬ、バーガンディ・レッドの
ワンピース。その上には黒いショールをまとい、如何にも艶やかだった。
「私と出かける時よりも素敵にしているのではないかな」
「そんなことありません」
からかうような言葉はサックリ斬り捨てる、つれない彼女。
「それより、ブラックハヤテのこと、よろしくお願いいたします。何も問題はないと思いますが、
なにぶん、大佐との留守番は初めてですから」
「心配ない。独りで留守番させている時も、別に悪戯などしないのだろう?」
「そうなんですけれど。犬は人を見ると言いますから」
「――どういう意味だね?」
ロイは、サラッと放たれた彼女の言葉に、微かに引きつる。
今日は、午後から夜までリザが出かける間、ロイが留守を預かることとなった。
普段、彼女の愛犬ブラックハヤテ号は、職場に連れて行かれることもあれば、自宅で留守番を
させられたりと、様々だった。彼女が身支度を始めると、「一緒にお出かけ」だと思って、
嬉しそうに後をついてまわるのだが、ある時点で、今日は「お留守番」というのが分かるのか、
そうなると急に元気がなくなり、少し離れた場所から、恨めしそうな目で飼い主を眺める。
今も、出かけようとする主人を見送るということはせず、部屋の隅にある自分のクッションの
上に丸まり、まるで無関心を装うように、ちろっと目だけでこちらを伺っている。
「勝手に行ってくれば」――とでも言いたげな様子で。それでも、彼女が帰ってくれば、
尻尾も千切れんばかりに振って、全身でその喜びを表すのだけれど。
ロイが留守番を引き受けたのには、特別な意味はなかった。リザが頼んだわけでもない。
「こんなお天気の日に、終日室内に閉じこめるのも可哀相だから、散歩にでも連れて行くさ」
――そんな具合で、何となく。犬と二人きりの留守番など、経験したことはなかったが、
リザの話を聞いたり、ブラックハヤテの様子を見る限り、別にどうということもないように思われたし。
彼女を送り出すと、ロイは、ふて寝するようにクッションで丸まっているブラックハヤテの頭を
撫でてやった。
「まあ、彼女がいなくてつまらない気持ちはよく分かるがね。こういう日もある。面白くなく一日を
過ごすのもバカバカしいじゃないか?」
まるで、男同士うまくやろう、とでも言いたげに。ブラックハヤテはというと、狸寝入りを決め込んで
顔も上げない。まあ良い――夕方になる前には散歩に連れて行ってやろうと、ロイは特に
積極的に構ってやるつもりはなかった。彼は彼で、普段あまり取ることの出来ない自分自身の
時間に、やることは幾らでもあった。特に、研究関連の資料に目を通すのは、基礎的な要素
でありながら、なかなか時間を割けない作業だった。
リザの部屋にはソファーはなく、床にクッションが置いてある。ロイは壁際にもたれながら、
のんびりとした姿勢で読書を始めた。
静かな、静かな昼下がり。何とはなしに彼が目をやると、ブラックハヤテ号は、とてとてと移動して
別な場所で伏せたり、所在なげにオモチャのボールを噛んだり。飼い主のしつけが良いのか、
ムダ吠えなどしないので、静かな室内には、書をめくる紙音と、カツカツという、床に爪の当たる
小さな足音が、時折聞こえるだけだった。
そうして、時が過ぎる。
カリポリという可愛らしい音にロイが目を上げると、姿は見えなかったが、台所に置いてある
ドッグフードを、ブラックハヤテ号が食べているらしかった。普段から不規則な勤務時間の
この家では、決まった時間の給餌が困難なため、いつでも自由に食べられるようにと、
餌皿は出しっぱなしだった。一日の分を入れておけば、その量を丁度一日で食べきる。
手がかからなくて助かるとリザが言っていたのを、ロイは思い出した。何ともいい音で、
思わず笑みが浮かぶ。カリ・ポリ・カリ・ポリ――そしてしばらくすると、水を飲む音。
やがて腹が落ち着いたのか、ブラックハヤテ号はまた、てこてこと歩いて戻ってくると、
今度はロイのすぐ横に体を寄せ、ぺたりと伏せた。その背を、そっと撫でてやる。
やはり、何事も起こらない。何とも穏やかな休日ではないか――
ロイは心中、若干の不安があるような顔をして出かけていったリザを思い、呟いた。
言葉を通わすことはないものの、命あるものが身近にその体温を寄せている、紛れもない感触。
何を思っているのかは知り得ないが、間違いなく意志を持った生命体。触れれば暖かく、
血脈の流れも微かに感じられる。そしてそれは、当たり前のように歩き、眠り、食べ――
それ自体は別にどうということでもないのだが、ふとした瞬間、とても不思議に感じる時がある。
それからまたしばらく後のこと。
「……ん?」
ロイが読書に没頭していると、何かが脚を押す感触に引き戻される。見ると、ブラックハヤテが
彼を見上げ、前足で何かをねだるように、彼の脚を突いていた。「ねぇ」、とでも言いたげに。
「退屈してきたのか? もうちょっとしたら一段落付くから、そうしたら外に散歩に行こう。
だから、もうちょっと待っててくれ。な?」
訴えかける黒い大きな眼をなだめるように、ロイはその頭を撫でてやる。キリの良いところまで
読んでしまわないと具合が悪いから、もうちょっと待ってもらおうと。それでもブラックハヤテは
ロイに向かって腕をうーん、と伸ばすように、前足をかけてくる。
「分かった分かった……必ず連れて行ってやるから。な、あとちょっとだけ待ってくれ。
良い子だから」
くう〜ん……と、如何にもつまらなそうな声。だが、ロイが取り合わないので、やがて前足で
突くのも止まった。
――やっと諦めてくれたか……と、その姿を見たわけではなく、気配が遠のいたことで
そう思ったロイが、また書物に没頭した頃。
たったからったからったからっ……
その、遠くから駆けてくる馬の蹄(ひづめ)のトロットのような音に「ん?」と、顔を上げた時は
――時、既に遅し。
「うわっ!!」
どーんっ。
助走を付けて部屋の奥から駆けてきたブラックハヤテ号のジャンピング・ボディ・アタックを、
何の心構えもなくモロに食らい、ロイは横に倒れた。
「何するんだオマエっ! 痛いじゃないか!!」
かつての戦乱では武勲を馳せ、“焔の錬金術師”として畏怖されるロイ・マスタング大佐
ともあろう者が、まだ1歳にもならぬ犬に不意を突かれてドツキ倒されるとは……。
部下には見せられない姿――と思うより何より、ロイは体を起こすと、ブラックハヤテ号に
怒鳴りつけた。が、ブラックハヤテは、「はっはっ」と、まるで無邪気な笑顔を浮かべる子供
のような表情をして、期待にあふれる眼差しでロイを見上げている。
「…………」
とてもじゃないが、叱る気は起こらなかった。
所詮、「待ってくれ」など、犬相手に言い聞かせたところで、通じはしないということか。
ロイは、読みかけの本を閉じると、諦めるのはコチラの方――と悟ったように、溜息をついた。
「……分かったよ。外に連れていってやる」
またあんな体当たりを食らわされてはたまらない。主人である人間の方が、僕(しもべ)たる犬に
妥協するというのは、何とも納得がゆかないものがあったが。
公園についたら自由にさせるが、それまでは首輪にリードを着けて歩かなければならない。
その、リードを着けるまでがまた一苦労だった。“お散歩のサイン”であるリードを見た瞬間から、
ブラックハヤテ号は喜び勇んではね回り、リードを着けるどころではなくなってしまった。
「こら! これを着けないと外には出かけられないのは分かってるだろう!」
最後には、くるくる回るブラックハヤテを脇に抱え込み、かなり無理矢理にリードを着けた。
――何かおかしい……。
たかが犬の首輪にリードを着けるだけで疲れを感じている自分に気付き、ロイは思った。
何か、は、ハッキリとは分からないのだが。
外に出てしまえば、あとはどうということはないと思っていた……が。
「おまえなぁ……真っ直ぐ歩けないのか?!」
あっちこっちとジグザグ走行。植え込みの匂いを嗅ぎ、反対側の電信柱の匂いを嗅ぎ。
公園がさほど遠くないからまだ良かったが、リードを引く身としては、右に左にグイグイ
引っ張られてたまらない。
――おかしい……。
リザと一緒に散歩させている時は、こんなではなかったはずだったが。
公園まで来てリードを放した時には、長い奴隷生活から解き放たれたような開放感を味わった。
あとは、好きに走り回らせて、疲れさせれば良い。どうせまだ子犬だから、その体力は、たかが
知れている。存分に遊んでもらって、残りの時間は眠ってもらおう。
そのロイの思惑は、あながち間違いではなかった。少なくとも、公園からの帰り道は、行きの時
ほどには、振り回されずに済んだ。
家に戻った頃には、もう陽は傾きかけ、既に室内は薄暗くなっていたので、灯りをつける。
1時間ほど外ではしゃぎ回ってスッキリしたのか、家に戻ったブラックハヤテは、しばらく
落ち着かないように室内を歩き回っていたが、やがて心地よい場所を探し当てたのか、
台所のダイニングテーブル下に、コテンと横になった。多分、そこがひんやりと気持ちが
良かったのだろう。それを見てロイもようやく安心し、また自分の時間へと身を戻した。
ブラックハヤテは、基本的にはずっと寝ていたが、時折起き上がっては、また別な場所で
丸くなったり横になったりを繰り返していた。そしてその内に、ロイの横にピッタリと体を寄せ、
静かな寝息を立てるようになった。
眠っている時は天使――よく、赤ん坊や幼児に使われるたとえを、ロイは思い出して苦笑した。
こうしていれば、本当にいたいけな、頼りなく小さな生き物でしかない。
何故こんな存在に自分が振り回されたのか、信じられないほどに。
――また、静かな時間が始まった。
もう、リザが帰ってくるまで、何事も起こらないだろう。
心の片隅で、何処かそう思いながらロイは読書を続けた。
しかし。
「……ん?」
何か、くっちゅくっちゅと音がすることに気付いたのは、それからどれくらい後のことだっただろう。
「あ、オマエまた何やってる!?」
ふと気付くと、ブラックハヤテが、彼のシャツの裾をくわえて、口をモグモグさせていた。
「こら、食うな!」
おとなしくしていると思ったら、今度は――
ブラックハヤテの口からシャツの裾を引きずり出すと、そこはシットリと湿っていた。
「こんなもの食っても、うまくないだろう? 何なんだオマエは……」
そう問われた当犬は、オモチャを取り上げられたように、キョトンとして、またそのまま
寝てしまった。ロイにとって意味不明の行為は悪戯ともつかず、怒るに怒れない。
「…………」
まったくもって犬というものの生態は分からない。そんな思いで、ロイはまた読書を続けた。
だが、またしばらくして、同じくっちゅくっちゅ音に気付き、今度こそ怒るからな!――と、
ブラックハヤテ号を見たロイは……その表情を目にし、ハッとした。
くっちゅくっちゅ。
また彼のシャツの裾を口に頬張っているブラックハヤテ号。
うっすらと目が閉じられ、陶然としたその表情は、まるで、赤子のようだった。
そう……母親の胸に抱かれているような。
もしかして、母親の乳房を思い出しているのだろうか。
そんな風に思わせる程に、安らかで、愛おしい様子だった。
――雨の日に震えていたところを拾われた、捨て犬だったブラックハヤテ号。
母犬の面影など、その記憶にはないだろう。けれど、その温もりと匂いは、記憶以前の
思いに刻まれているのかもしれない。そんな気がしてしまい、ロイはしばらく、そのまま
ブラックハヤテの表情を見守っていた。
その内、満足したのか、ブラックハヤテは自分からシャツを離した。
やれやれ――とロイが思ったのもつかの間。
「……あっ」
くちゅくちゅ噛まれた所は、ぐっしょりと濡れたばかりではなく、幾つもの小さな穴が開いていた。
「……オマエなぁーっ」
その後は――今度こそ、リザが帰ってくるまで、これといった事件は起こらなかった。
彼女は言葉通り、さほど遅くならずに帰宅したが……ロイは、今日、自分が遭遇した
数々の出来事を、彼女に打ち明けるべきかどうか、決心がつかなかった。
ブラックハヤテのあの態度が、自分に対してだけのものかもしれないという懸念もあり。
――犬は人を見ると言いますから。
さしずめ彼女からは、そんな答えが返ってきそうで。
2.19.2004.
本館 Deracine で初のキリ番申告(4000HIT)をしてくださった澪咲透乃さんのリク、
「リザたんがお出かけする間、ブラックハヤテ号と二人でお留守番するロイロイ」。表用。(笑)
淡々とした犬との日常。相当リアルな話なんだが、果たしてそれで面白いのかが不安。
ちなみに、書いている時は平岩英子さんの『我が輩は犬である』をBGMにしてました。
誰も知らないだろうけど……(涙)