「あれ、中尉、まだ帰られないんですか? 今朝、随分早くからいらしてましたよね」
出先から戻り、そのまま帰り支度を始めたフュリーが、いまだ帰る気配もないリザに言った。
「ええ……色々と立て込んでしまって。年度末だから、しょうがないの」
「あんまり無理なさらないでくださいね? 何だかこのところ、ずっと遅くまでいらっしゃるみたいだし。
僕らでお手伝いできることは、中尉独りで抱え込まないで、遠慮無く僕らにもふってくださいね?」
「……有り難う。でも、大丈夫よ」
普段あまり表情を変えることのない女性の何気ない笑みに、フュリーは思わず赤くなり、
ぴょこんと頭を下げると、慌てるように帰っていった。そんな彼の反応の意味など考えることもなく、
リザは自分のデスクの上に積み上げられたファイルや書類の束に目をやり、溜息をついた。
自分らしくない仕草だと思った。ただ、彼女は上司の仕事も、自分の仕事も、それなりに長期的予測を
立てて処理しているのだが、ハッキリ言って、このところ増えている雑務は、その範疇にはないものだった。
決済、決算。まるで宿題をためまくった子供のように、皆が期日を前にバタバタしている。
総てのものが、小さな出口めがけて、一気に押し寄せるかのように。
そして年度末は、何だか全く違う部署の人間がひっきりなしに、リザを見つけては相談しにくる。
最終的には、何事もロイ・マスタング大佐の決済を仰がなければならないのだが、事前に副官である
ホークアイ中尉のお墨付きを貰っておけばスムーズに済む、ということだ。
そうやって彼女を頼って寄せられた相談は、駐車場の管理について、独身寮の設備投資方針、
子供のいる女性職員の託児施設問題など、枚挙にいとまがない。みな、それなりに分厚い資料を渡され、
是非意見を聞かせてほしいという。本来、そんなことは彼女の仕事ではなく、彼女なら力になってくれる
だろうという人徳の成せる業とはいえ――正直、相当な負担には違いなかった。
それらは、通常の業務に加算されて発生しているのだから。
ページをめくっていた手が急に強ばり、リザは眉をひそめた。そのまま書類をデスクに置くと、
右の手のひらを左の指でほぐす。このところ、睡眠不足気味だから、血行が悪くなっているのだろう。
鍛えられた軍人とはいえ、やはり体は女性であるから、元々の体質はなかなか変わらない。
昼間はともかく、夜も更けてくると、急に体温が下がる時がある。
そんな時、ドアノヴが回る音がして、リザはビクッとした。
「――何だ、まだ帰っていなかったのかホークアイ中尉」
手を押さえたまま目を上げると……
「大佐こそ。もう、とっくにお帰りになったと思っていました」
「あの後、二件ばかりつかまってね」
ロイ・マスタングはそのまま歩み寄り、彼女の隣の席に座ると、リザの手を取った。
「冷たいな。最近、あまり寝てないんだろう」
先ほど彼女が自分でそうしていたように、ロイは両手でその手のひらをほぐす。
「大丈夫ですから、放してください……」
「手が冷えて上手く動かないんだろう?」
彼女の体のことはよく分かっている、というようにロイが言うと、リザは困ったようにその手を
引っ込めようとする。だが彼は逃さない。
「人が来たら……」
「うん。手に手を取って見つめ合う2人か」
「ふざけないでください」
ぐいっと引っ張って、手を抜き取る。ロイは面白く無さそうに足を組んで、デスクに肘をつく。
彼の手は温かくて、冷えた指には恋しい感触ではあったが、それを悟られるのも困る。
リザは平気を装って、また書類に目を戻した。ロイには目を向けぬまま、
「お帰りにならないのですか」
「中尉こそ、何故帰らないのかね。どうも最近、残業しすぎのようだが」
「年度末なので、何かと立て込んでいて」
「そう思って、私はこのところ真面目にやっているつもりだったのだが。
努力が足りていなかったかな」
「いいえ、助かっています。――大佐のせいで残業しているのではありませんから、
どうぞご安心ください」
ふーん? と、ロイは、彼女の横の書類の山から、幾つかを手に取り、パラパラと目を通す。
「何故君がこんなものを? 管轄外じゃないか。しかも、妙に所帯臭い内容ばかりだな」
「施設運用や福利厚生は、東方司令部全体の士気に関わる重要事項ですよ。
おろそかにはできません。各担当部署から、相談に乗ってほしいと言われただけです」
「各担当部署は、同じように君を頼るヤツが山のようにいるということを知らないようだ。
人徳のある部下を持って私は光栄だが、それで大事な副官が消耗するのは困る」
「一時のことです。それに、みな最終的には大佐のところに回ってくるものですから」
「君は上司の使い方は上手いが、部下の使い方が下手だね、中尉」
「は?」
何を言いたいのかとリザが目を上げると、ロイはまだ資料に目を向けていた。
「自分が頼まれたことだからと、総て自力で対処しようとするその姿勢は、誠実で素晴らしい。
ただ、何もかも抱え込むのは効率も良くない。適当に部下に任せて、最終的なチェックだけ
自分で責任を持つというようなやり方を学んだ方が良い。その方が、部下も成長する」
もっともらしく、上司らしいようなことを言う彼に、別に突っ込む気は起こらなかったが、
何か表情に表れていたらしく、ロイがちろっとこちらを見た。
「中尉、それはサヴォタージュとは違うものだよ」
「おっしゃる意味は理解しております。ただ……」
「苦手なんだよね、君。――他人に任せることが」
ふう、と息をつくと、ズボンのポケットに両手を差し入れ、ロイは立ち上がった。
「お茶でも煎れてこよう」
「そんな……結構です、大佐」
「たまには私が煎れても良いだろう? 中尉も体が冷えているようだし。私も一息つきたい」
「でしたら私が」
席を立とうとするリザの肩を後ろから、そっと押さえる手。振り返ると、にっこり笑顔。
ぽんぽん、と軽くその手で肩を叩かれ、何も言えなくなる。
そして彼は、部屋のドアを、押しただけで開くように、軽く閉じて出て行った。
この世の中の何処に、上司にお茶を煎れさせる部下がいるだろう。
そんなことを苦々しく思いながらも、リザの口元には、微かに笑みが浮かんでいた。
ロイがマグカップを両手に戻って来ると、室内に華やいだ香りが広がった。備品の紅茶とは思えぬ
その香り高さに、リザが不思議そうな顔をすると、ロイが彼女の前にカップを置いた。
「貰い物だよ。私の煎れ方はぞんざいだろうが、その分モノが良いから、それなりに上等な
味わいになっていると思うが」
「どちらのお嬢さんからの頂き物ですか?」
たゆとう花の優しい香り、果物の甘酸っぱい香り、そして洋酒のような芳醇な香り。
そこに漂うデリカシーは、女性によるセレクトを匂わせた。ロイは、「やれやれ」という顔で
椅子に腰を下ろすと、
「不粋なことを聞くものじゃないよ、中尉」
「それは失礼いたしました」
わざとらしくすまなそうな声でリザが言うと、ロイは、ふっと笑い、「どうぞ」と勧めた。
「いただきます」
カップを両手で持つと、冷えた指がジンッと痛むが、それはすぐに心地よい温もりに変わった。
まずは香りを堪能するように、深く息を吸い……それから、そっと唇を寄せ、濃い茶色の液体を
僅かずつ喉に通した。まるで香りそのものが皮膚より浸透するような感触に、溜息をつく。
「おいしい……。本当に、有り難うございます大佐。手ずから煎れていただいて恐縮です」
脚の方にも若干冷えが来ていたので、暖かさが身体全体に染み入る。
「なに。大したことではないさ」
彼女が紅茶を飲んだことを見届けると、ロイも自分のカップに口を付けた。
そしてそれに呼応するように、リザもまた。
それからしばし、穏やかな静寂が二人の間を漂った。
そして、ふと気付いたようにリザが口を開いた。
「――大佐?」
「ん?」
「お茶が終わられたら、先にお帰りくださいね」
「ん」
生返事なロイを不審に思ってリザが隣を見やると、彼は、彼女の横の書類に目を通しては、
何やら分類している様子。
「……何をなさっているのですか?」
「『食堂メニューの改善について』か。これはフュリー辺りが適任だろう。なかなか料理が
上手いし、前に母親が締まり屋で、やりくり上手だと言っていた。
――『独身寮の設備投資』……ファルマンかな。寮住まいだし、細かいことによく気付く。
っと……こっちはハボック辺りにやらせとけ」
「何をおっしゃってるんですか」
「言ったろう。全部君が目を通すには無理がある」
「良いんです。通常業務には支障を来さないようにしますから」
「だめ」
手を伸ばしたリザの腕を押さえる。キッとした目にも、ロイは動じない。
「……私が預かったものです」
「だから、他の連中に総括させて、それを全部最後に君がちゃんと把握すれば問題ないだろう?
何も全部他に押しつけろというんじゃない。幾つかを除いて、後は人に任せた方が効率が良い。
あんまり返答に時間がかかっても、先方が困るだけだ」
理屈の上では彼が正しいことは分かっていた。けれど、疲れていることもあり、思考が柔軟に
受けとめることができない。
「自分が引き受けたことで、他の人に迷惑はかけられません……!」
腕を掴まれたまま立ち上がったリザは……体に違和感を感じ、あれっと思う。
「体、暖まったかい?」
ロイが、にっこり笑って立ち上がる。
「大佐……」
何を――と言いかけて、少しふらついた。
「君は疲れがたまっていると、ほんの少しアルコールが入っただけで眠くなってしまうんだよね」
腰をキュッと抱き寄せられて、リザは彼の肩口にトンッと、頬をついてしまう。
丁度、耳元に彼の吐息がかかる場所。くすぐるような、低い囁き。
「それで何度も残念な思いをさせられているのだが」
「たいさ……」
まさか、さっきの紅茶――しかし、思い当たるものはそれしかない。華やかな香りに惑わされて、
気付かなかった。
「こういう時の君は、なーんともイイ感じだね。蕩(とろ)けるように熱っぽい目をしているくせに、
何処か意地を張った口元で……」
くいっと顎を取られる。リザは、その瞳に精一杯の拒絶を込めて。
「叱られたくて、思わずキスしてしまう」
あっという間。けれど、悪戯めいた口づけは、すぐに離れる。
「い、けません……!」
勤務中ですとか、こんなところで、とか、山ほどぶつけてやりたい抗議の文句は頭に浮かぶが、
流暢な言葉になっては口から出てこない。
「そういう風に言われると、最初は出来心でも、今度は本気になってしまうんだな」
だめ、だめ、だめ――そんな感じで訴える彼女の必死な眼差しなど意に介さぬように、
ゆーっくりと吐息の触れる距離に近付き、初めての少女のように震える唇に、
それはそれは丁寧に、優しく。けれど、決して子供向けではなく。
「だめ……ん、」
突き放すことができないのなら、せめて息継ぎの間に言葉で抗しようとするが、それも一層
深く言葉を飲み込まれるばかりで、意識がクラクラとしてくる。腰は支えられていても、
膝に震えが来てしまい、ずり落ちない為に彼の背にしがみつくという有様で。察した相手が、
彼女を引き上げるように抱いて、これではまるで自分が彼にすがりついているみたいと、
リザはそのことにも、頭がズキズキしてきた。
「でも、折角こうして心を込めてキスをしても……君、もう、ふにゃふにゃになっちゃうんだよね。
残念ながら。――ま、それも可愛らしいのだが」
よいしょ、ともう一度、ずり落ちそうな彼女を抱える。
「中尉、君は疲れると隙だらけになるから、無理をしすぎてはいけないな。今回は私の
言う通りにしたまえ。ちゃんと、君の分の仕事も残すから。でないと――この次には、
こんなことでは済ませないと思う。いいかな?」
もう眠くて、どうにもならない。
「いいかな? 中尉」
耳元に、確認するような彼の言葉。
「大佐、何故……」
何とか力の入る指先だけ、彼の肩に食い込ませて。
「もう、やめてください……こんなこと」
「そんなことのために休日返上などしてほしくはない」
「…………」
リザは、重たいまぶたを彼の肩に押しつけて、深い溜息をついた。
今度の所定休日を出勤に書き換えたのを、気付かれていた。そういうことか……と、
ようやく飲み込めた気がした。
そしてまた、確認を求める声。それは優しいトーンで。
「いいかな? 中尉」
「……はい」
悔しいけれど、無茶なやり方だと思うけれど。こうされなければ寄りかかることもできない、
素直でない自分。その心地よさを知っているからこそ、意地を張ってしまう。
それを見透かされて、ああ何て格好悪い……。半分意識は夢の入口に立っていても、
ロイの腕に支えられながら、リザはそう思わずにいられなかった。こんなのはイヤ。
そう思いつつ、ここまで来てしまったら、あとは彼の腕に身を預けて、楽になってしまいたい。
「大佐……」
「ん?」
「……眠い」
「――ま、大体こういう時は、30分もすれば眠気が覚めるだろう。その間に私が仕分けを
しておくから。……寝ていなさい」
最後の方は、もう意識が朦朧として。ロイに椅子に座らせられたら、リザはそのまま背もたれに
体を預けて、すうっと眠ってしまった。
翌日、ハボック、ブレダ、ファルマン、フュリーの各位には、「これらの案件について、各自
所見をまとめ、期限内にホークアイ中尉に報告のこと」というメモを添えられた宿題が、
マスタング大佐より下された。リザが不承不承ながらもそれを受け入れたのは、ロイが
妥協できる程度に彼女の分担を残してくれたことと、それに従わなければ、今度はどんな
悪巧みで妨害をされるか分からない、という思いが働いたからだった。
――本当に、何を仕掛けてくるか分かったものではないのだから。
幾ら警戒したところで、彼がその気になったなら、絶対なんてことはあり得ない。
リザは溜息を覚えながら、昨夜の紅茶の香りを思い出していた。
……たまには、あんな風に酔うことも、悪くはない。
実のところ、ほんの少し、そんなことを思わないでもなかった。
ちょっとだけ。
あの甘美な香りに惑わされてすがった腕に、すっぽりと包まれる感触を思い出すと、
体の内が熱くなる。
そんなことは、思うだけでも危険。
分かってはいるから、それはただ、密かに胸の片隅にのみ留めて。
3.9.2004.
記念すべきこの別館初のキリ番、100HITを踏んでくださった、あおみん様からのリク――
「ちょっとお疲れ気味の中尉を上手く甘えさせてくれる大佐」なシチュ、エロでも甘くてもほのぼのでも!
……ということで、どうせならレディコミ調エロ甘を目指そうかと。まあ志は高く(?)持とうかと。
ムダだとは思いましたよ? ――ムダでしたね。ぐすん。相変わらず、ちゅーの一線を越えられないし。
というか、あれっ、これって、「甘えさせてくれる」ってコトになってる!? えっ!? タラ〜ん……(汗)