Hekate −ヘカテ− 3
「君は……初めて人を殺(あや)めた時の感触を、覚えているかね」
快楽の前に膝を屈しようとしている……まさにその瞬間。
彼女を正気に引きずり戻すような言葉を、何故、彼は口にしたのだろう。
既に、欲望に渇いた身体は、激しい勢いで飢えを飲み込み始め、
それをとどめることなど、苦痛でしか無いというのに。
そのブレが又、リザの身体を蝕(むしば)む。
「瞬間は……覚えています」
それでも彼女は――たゆとう彼の波の中に、陶然と、自らを浮かべながら。
自分の銃が人命を断ったのかどうかは、すぐに分かった。
そこは、彼とは違う。
だから彼女には、“その瞬間”についての戸惑いは、無かった。
それが果たして、良いことであったのか、どうなのか。
「でも、感触なんて……何も、なかった」
嘘ではない。彼の目を、真っ直ぐに見つめて言えた。
少なくともその時の彼女は、自分が何も感じていない、と思っていた。
命が消える瞬間に、「手応え」などないと――思い込んでいた。
ロイは、そんな彼女の言葉に、静かに耳を傾け、間歇的に身体を打ち付けつつ、
彼女に一定の猶予を与えていた。
そしてリザは、痺れる余韻の合間に、回想を綴る。
「けれどその日……時期でもなかったのに、出血があって……。
だから覚えているんです、その……血の色と、共に……」
突き上げられ、ぐっと彼の背に爪を立てる。
「赤黒い、出来損ないの、肉体の破片のような……あの色っ」
ロイは、切なげに息をつくリザの体を縛(いまし)めていた腕を、少しだけ緩めると、
彼女を後ろから抱きかかえ、その重みを受けとめるように、胸の膨らみを、柔らかく包み込んだ。
「ああ……君らしい、リザ……」
彼は、彼女の背中に頬をこすり付けた。
まるで、眠たいとぐずる子供が、母親の背に甘えるように。
「――君の中の“女性”が……血の涙を流したのだね」
信じられない程、脆(もろ)い音色を奏(かな)でた彼の声に、リザは一瞬、ハッとさせられたが、
彼の指が、彼女の“女性”の部分を求め、その思いは乱された。
だがリザは、そのまま彼の手に、自分の手を重ねた。
それは拒むでもなく、導くでもなく。
ロイは彼女の背中に、項(うなじ)に、唇を、頬を押しつけた。
リザもその触れ合いに、緩やかに身をよじり、肌を密着させる。
あくまでも労るような、優しくも懐かしい感触に。
ある瞬間、背中に触れたものに、リザは眉をひそめた。
そして、それを確かめるように、背後の彼に、そっと手を伸ばす。
「君の苦しみは 君の血で贖(あがな)われる――大丈夫、君は綺麗だよ……リザ。君は……」
彼の顔を探り当てた指先を湿らせたのは、汗……それとも。
リザは濡れた指をぬぐうように、彼の耳元から髪に差し入れた。
自分のことなんて、どうでも良い。
自分なんて、汚れていようが、傷つこうが、構わない。
綺麗でなんて、なくたって……
――どうして彼は、自身が汚れてでもいるかのような言い方をするのだろう。
こんなに傷ついて、優しく弱いひとが、汚れているはずなどないのに。
たとえ、もし耐えられないと、自分が汚れていると苦しむのなら……望んで彼と同じ色になるのに。
互いに激しく求め合いながら、何処かがすれ違っているのは何故。
熱の狭間で、ズキズキと心が軋(きし)むように痛むのは、重なりきれない苦しみ。
たとえ身体は繋がっていても、まるで彼は、彼女を、自らの罪悪から遠ざけようとするよう。
リザの中で、熱が高まり、先程までの困惑や不安は、渇望に塗り替えられていた。
ただ触れられ、愛(いと)おしく抱かれるだけでは埋められない空洞が、胎内に広がる。
このままでは、もう。
彼の耳元に差し入れた手はそのままに、反対側の耳元に、のけぞるようにして、顔を寄せた。
――お願いです、私を、あなたの内(なか)に……
「入れて……」
唇から零(こぼ)れた囁きが、熱く、くすぐる。
うわごとのような言葉に、ロイが微かに眉をひそめた。
だが、彼の肩に頭を預け、求めるように艶めくその唇に、焦がれるまま惹き寄せられ、
口づけで応えた。
非現実的な程に、彼女は官能的な香りをまとい、彼に腕を、吐息を、舌を絡ませ、
やがて物足りずに身を翻(ひるがえ)すと、彼の後頭部を抱き寄せ、
今度は彼女が彼の息を奪うように、その唇を貪(むさぼ)る。
逃さない。離さない。
彼が、自分を内に入れてくれるまで。
その疼(うず)きが身体全体を支配し、彼を求める表情は、何処か苦悩にも似て。
――それはロイも同じ事だった。
より深く、激しく、リザは乱れる。それを望まないはずはないのに。
その喉をこじ開けてでも、声を出させたかったはずだった。
羞恥よりも強い昂揚で彼女を狂わせ、淑(しと)やかな慎みという呪縛から、解き放とうと。
慈悲深く 優しい君
俺を狂わせようと 淫らな声を上げる
頑(かたく)なまでに高潔な君が
俺の為に 自分を壊してゆく――
分かっていて、止められず。
これ程までに相手のことばかり思いながら、その結果が、これか。
リザの喘(あえ)ぎも、罪悪感を募らせる切なさで、彼の劣情を煽る。
ああ……そうか。
彼女を解き放ちたかったのではない。自分が解放されたかったのだ。
――今更に気付く。
死の匂いと、黒い影の記憶に飲み込まれそうな陰鬱さに、息が出来ず。
それを、そんな自分を、彼女は、分かっていて。
「リザ……リザ」
自分の腕の中で激しく身をよじり、狂おしい程に甘い声を上げる彼女を、
ロイは抱き留め、赦しを請うように、その額に、目元に、口づけた。
「……死の女神は、余程深く、私を愛してくれているらしい」
言い訳のつもりではなく。忌々(いまいま)しい、実感だった。
己(おのれ)の弱さに絡みつき、死の闇路に迷わせる魔性。
不甲斐ない自分に、嫌悪よりも嘲笑を禁じ得ない。
リザは、熱に浮かされたような潤んだ瞳で、彼をボンヤリと見つめていたが、
その言葉を聞いた途端、ハッキリと眉をひそめ、そして彼の肩を取ると、意外な程の力で、
彼を引き倒すように、自分の下に組み敷いた。
「――そんなアバズレに、あなたは渡しません……!」
本気の、眼。
かつて一度でも、彼女が、こんな焔(ひ)を灯した眼をしたことが、あっただろうか。
その激しさ、熱さに、ロイは一瞬、思考が止まった。
だが、次の瞬間には、口元から笑みが零れていた。
「何か、可笑しいですか」
リザは、彼の頭部を抱え込むように、顔を寄せて。
「いや。……君のお陰で、浮気心が醒(さ)めた」
くだらないことを――と言うように、彼女は無言で、彼の唇を塞いだ。
そう。連れて行かれては困る。
これから何度、彼が冥府の女王の誘惑に晒(さら)されようとも。
どんなにそれが、魅惑に満ちた、巧みな罠であったとしても……
絶対にそこから、引きずり戻してみせる。
果たさねばならぬことが有るうちは、彼を渡すわけにはいかないのだから。
けれど――
今は、彼の内で狂いたい。過去も、未来も、考えずに。
現実から目を背けるのは、罪なのだろうか。
だが一時(ひととき)のことであれば、それは夜の眠りの間、
世界から視界を閉ざすことと、変わらぬはず。
溺れることは、できないとしても――今、この瞬間だけならば。
それは、虚しいことだろうか。
……そんなことはないはず、と。
溢れる感覚の中で、零れそうな充足に身を委ねながら、彼女は呟く。
あなたで 私は 満ちてゆく