「いくら命に別状はないとはいえ……本来2日まだ入院が必要なはずなのですが、
何故か自宅療養で構わないということになって……」
赤い巻き毛がコケティッシュな看護婦は、困惑した表情で首をかしげてみせたが、
玄関口でそれを聞いたリザは、大して疑問には思わなかった。
――どうせ院長の弱みを握って脅迫したか、婦長を籠絡したか。
そういった才能は、仕事に有益なように発揮してくれれば良いのに、と心中呟く。
「分かりました。取りあえず後は私が付き添いますから、あなたはもう帰って結構です」
「え、でも私、仕事ですし……それに大佐が――え、いいえ、あの」
何か曰くありげに口元に手を当てた看護婦は、リザの視線にその不謹慎な笑みを取り消した。
「あなたが咎(とが)を受けるようなことにはなりませんから」
「はぁ……はい」
「何か他に注意することはありますか?」
「いえ。別に。今はとにかく安静にしていただければ。――あ、」
看護婦が思い出したように顔を上げた。
「お薬なんですけれど、大佐ったら『薬はキライなんだ』なんておっしゃって、
なかなか飲んでくださらないんですよ。お飲みにならないと、痛みと熱で、よくお休みに
なれなくなるからと申し上げるんですが。――さっき、やっと『分かったよ』とおっしゃって
くださいましたけれど。明日からも気を付けてくださいね?」
「分かりました」
相変わらずそんな、子供みたいなことを言っているのかと、溜息をついた。
リザ・ホークアイ中尉が出張している間、運悪く反政府組織の小規模テロが町中で起こり、
ロイ・マスタング大佐もそれに巻き込まれた。
負傷自体は、命に別状のあるものではない。死者も出なかった。
そんな小競り合い程度で怪我をするなんて、あの人らしくない。
電話で連絡を受け取った瞬間そう思った彼女の思考を読み取ったかのように、電話の相手は言った。
「大佐、小さな女の子をかばったんっすよ。まだ2歳くらいで、母親とはぐれて、座り込んじゃってて。
テロリストはダイナマイトみたいなのを体に巻き付けていて、いつものボンッ! じゃ、周りの人間を
巻き込みかねない状況でしたから、とっさのことじゃ、それしかできなかったんでしょ。
――カッコ悪いから中尉には知らせるな、なんて。ホントは中尉に怒られるのが怖いんすよね」
それで、流れ弾に当たったと。
結局、ダイナマイトはフェイクで、テロ首謀者は自爆することもなく無事に逮捕され、今ではすっかり
街は平穏を取り戻している。
大佐に口止めされても連絡してきてくれた、というより、彼は彼で、自分たちがついていながら
大佐に怪我をさせたことで、中尉に怒られるのが怖かったのだろう。
「大佐……? ホークアイ中尉です」
ドアを開けて、そっと声をかけてみるが、返事はない。怪我人は、眠っているようだった。
ベッドサイドまで歩み寄り、看護婦が使っていたらしい椅子に、上着を脱いで掛けると、
そのまま腰掛けた。
おそらく看護婦の前では軽口を叩いていたのだろうけれど、今はその影もない。
出血のせいか、青白い顔色。寝息も、決して穏やかなものではなかった。
――そして、眠っているとことさらに、面差しが少年のよう。
リザは、そっとロイの額に手を当てた。熱が上がってきているようだ。
サイドテーブルの上には、水差しと処方薬が置いてあったが、どうもそれに手を付けた様子はない。
そこから察するに、看護婦は、巧く丸め込まれただけだったらしい。
「……困った人ね」
マスタング大佐の病院嫌いは皆知っている。(看護婦は嫌いではないようだが。)
『薬はキライ』という言葉も、以前にも聞いたことがある。
「苦いのはダメなんだ」と。
何子供みたいなことを言っているのですか、と彼女が叱っても、本当に子供のような笑みをして
ごまかすだけ。もう30になろうという男の言葉とは、とても思えず。
いくら薬が嫌いだからって、こんな状況で鎮痛剤も解熱剤も飲まないなんて。
体力を消耗して回復が遅れるばかりか、いくら軽傷とはいえ、傷も悪化しかねない。
合理主義者のはずの錬金術師なのに、時々、こういった非合理な行動を見せる上司には手を焼く。
リザは処方薬の袋によく目を通し、1回分の薬を、左の手のひらに載せた。
青の錠剤が2つと、白いのが1つ。
――たかがこれだけのものが、“イヤ”だなんて。
開いている右手で水差しの水をコップに注ぐと、錠剤と共に、口に含んだ。
あとは、ロイの鼻をぎゅうっとつまんで……
「――っん!?」
息ができなくなって当然ロイの体がビクッと痙攣したが、ごくっ、と飲み下すのを確認するまで、
容赦なく鼻はつままれたままだった。
「っはぁ……ミ、ミケイラ、こういうのは……嫌いじゃないが、もうちょっと普通の時に……」
「それは先ほどの看護婦さんのお名前ですか? 大佐」
「……中尉?」
うっすらと目を開けたロイは、まだよく見えないものの、目の前にいるのは明らかに
赤い巻き毛の女性ではないことは判別できたらしい。苦笑いが、ハタと引きつった。
「……その……だな」
「別に、他の女性の名前を呼んだくらいでは怒りませんから」
「その……」
「出張先の用事が早く済みましたので」
「――お節介が知らせたな」
ふう、と息をついて、ロイはまた目を閉じた。
「また『薬は嫌いだ』とか、わがままをおっしゃっていたんですね。それでこの有様ですか。
少しは懲りてください」
「厳しいな……」
「当たり前です。そんなことでは治るものも治りません。しわ寄せが来る者の身にもなってください」
「傷にしみるなぁ」
「自業自得ですっ」
あくまで厳しい表情のリザに、ロイは、ははっと力無く笑った。
少しの間を置いて、ベッドの横から、手が伸びる。
熱を帯びた、弱々しい手。
「大佐、冷えますから……」
その手を、そっと取ってベッドに戻そうとすると、指が絡められた。
「……すまない。心配をかけて」
熱に潤んだ瞳が、何だかいつもとは違う彼の側面を見せるようで。
そんな目をしていながら平静を装うのは反則。
たまらなく愛おしくなる。
――リザも、そっとその手を握り返した。
「いいえ……私こそ。大事な時に、あなたの側を離れていたことが悔やまれてなりません」
「大した怪我ではないんだ」
「だからこそ、ちゃんと薬を飲んで治してください」
「ああ……」
喋りすぎたのか、ロイは少し疲れたような笑みを浮かべ、また目を閉じた。
「大佐、薬は即効性はありませんから、熱が下がるまでしばらくかかるでしょう。大佐……?」
リザは彼の手をベッドの中に戻すと、そっと頬に触れた。
「寒いんですか……?」
首筋に触れると、熱が上がっているのは間違いないが、それと同時に震えもきているようだった。
廃墟の中、焔に包まれていた。
なのに何故、何もかもが冷たいのだろう。
紅い舌は、まるで死人のものように冷たく、ザラリと肌をなで上げる。
苦悶の中にのたうち回る者にとって、その焔は慈悲。
これ以上の苦しみより解き放つはずのものなのに……自分に取ってはそうではない。
焼かれれば焼かれる程、より感覚は冷たく冴え、苦痛は深くなる。
――いつまでも滅することなく、この世の地獄を歩き続ける自分は、さながら亡者以下の存在だ。
ただ報いの日のためだけに、生き永らえているにすぎない。
己の業を見つめ、自らが生み出した酸鼻を極める光景を味わうために。
“逃れたい“
そんな風に思ったことはない。
願えるはずもない。
それだけが、自分が生きている証(あかし)、生かされている代償なのだから。
救いなど、この身にそぐわわぬこと。
ずっとそう思ってきた。
自分にはそれが相応しい。
凍るような焔に頬を打たれ、体を貫かれても、“何故”などと問うことはあり得ない。
死ぬ、という感情すら抱(いだ)く間もなく奪われた幾つもの命を思えば、それは愚問だった。
それでも生き続けなければならないのであれば、自分は如何なる責め苦からも逃れることは
赦(ゆる)されない。痛みも、苦しみも、それはみな全て甘受して然るべきもの。
癒されようなど、そんな、人間らしい望みは抱くべきではない。
そして、いつか死する時が来たとして、孤独の中、誰にも顧みられることなく静かに、
惨めに消えてゆけばいい。
生の充足も死の安寧も、それは罪なく生きた者のみに与えられるべきものなのだから。
何だか魂が離れたように、自分の体に実体感がないのは、熱が下がったからだろうか。
ふと、辛うじて動く首を横に向けると……そこには見慣れた顔があった。
彼の負傷した胸を守るように、そっと体を抱く素肌の腕。
朝の光にけぶる金髪が眩しくて、ロイは目を細めた。
高熱に浮かされていたせいで、あまり記憶はハッキリしていないが、リザが来たことは
朧気に覚えていた。
いかんな……と思いつつ、それはよく思い出せない。
気を取り直し、彼女の寝顔を見つめると、いつもの厳しい表情は何処へやら。
長いまつげに触れたくなるが、片腕は動かせないし、もう片腕を動かしたらリザが起きてしまう。
「大佐……?」
折角起こさないように、痛みを我慢してまで反対側の手で触れようとしていたのに、
その前にリザが目を開けてしまった。
「……何をされているんですか?」
中空で止まったままの手を見て、リザが静かに問いかけた。
「いや……」
何だか悔しいが、ロイはそのまま手を戻した。少しずつ、体全体の感覚が戻ってきている。
リザは胸元にシーツを上げて体を起こすと、ロイの額に手を当てた。
「熱、下がったんですね。痛みはどうですか?」
「大丈夫だ」
「お水、飲んでください。かなり汗をかかれたはずですから」
コップに水を注いで、彼女が取ってくれる。
「……君が飲ませてくれれば、いづっ!」
「起きましょうね、はい」
何でこう優しくしてくれないんだろうと、つねられた頬をさすりながら、ロイは体を起こした。
確かにボーっとするのは、軽い脱水症状気味かもしれない。
渇いた喉に水を流すと、それだけで体が軽くなったように感じた。
「中尉……いや……リザ」
「はい?」
こういうのはやぶ蛇かもしれないけれど、知らないままでいるのも怖いので、
おそるおそる聞いてみる。
「その……熱のせいか、ハッキリとは覚えていないのだがね。
――何か、君に対して失礼なことを言わなかっただろうか」
「私のことを、看護婦さんの名前で呼んだことでしょうか」
「…………」
「怒ってませんよ」
「…………」
仕方のない状況だったとはいえ、ロイは深い自己嫌悪に陥った。
うつむいて、額に手を当てていると、そっとリザが彼の背を抱いた。
「そんなことより……もう、『薬は嫌い』だなんて、駄々をこねないでください」
柔らかい、暖かな胸が、背中に触れる。
「――風邪薬一つ飲んでいただくにも手を焼くなんて、5つの子供じゃあるまいし」
叱るような言葉だけれど、吐息は優しく、彼女の匂いと共にうなじをくすぐった。
「嫌いでも、我慢してください」
とても銃を扱えるとは思えぬ華奢な指が、そっと鎖骨をなぞる。
こんな風に触れられて、にべもなくかわすことなど、できるはずもない。
「どうしても飲まなきゃだめ?」
「絶対だめ」
「……困ったな」
「それはこちらのセリフです」
違いない――ははっと、笑う。
そして、しばしそのまま静寂(しじま)が流れる。
「……だろうか」
小さな、つぶやき。
それは、聞き取れない程に。
「――何か、おっしゃいましたか?」
彼女が、背中に頬を寄せたまま問いかける。
「いや……何も」
ロイは、胸元に温もりを落とす彼女の手に、自分の手を重ねた。
それは、自身に向かって呟いただけの言葉。