心のバリアフリー(小6)


 「身体障害者」「精神障害者」など、「障害者」という言葉をニュースや新聞などで、最近よく見たり聞いたりします。
私は、その「障害者」という言葉が好きではありません。私は、障害者という言葉から、とても冷たい感じを受け、なんだか
障害者と呼ばれている人に対して失礼な感じがします。
 「障害」という言葉は、何かをするのにじゃまになるものとか、体の故障などという意味です。言葉が理解できず、
やりたいことがうまくできず、どうしても周りの人に助けてもらい、手伝ってもらわなければいけない人は、じゃまなので
しょうか。手が動かせない、目が見えないというのは、故障なのでしょうか。みんな、できるだけ自分でやりたくて、
努力していると思います。ふだん、何げなく障害者と言っている人は、そこまでは考えていないと思います。でも、私は、
障害者という言葉自体が差別になっていると思います。
 私の弟も、六才ですが、少しの言葉しか話せず、六才という年れいで考えると、知的なところでおくれています。「知的
障害」があるといわれています。何度も家から脱走したり、静かにしてだまっていることが、とても苦手だったり、洗ざい、
食べ物、ゴミなどをひっくりかえしたりして、大変なこともたくさんありました。今でもたまにあります。でも、とてもかわいい
弟です。成長がゆっくりな分、何か一つ覚えると、とてもうれしいのです。だから、少しの言葉しか話せない、ではありま
せん。少しの言葉が話せるようになった、と考えます。それが我が家流です。今、弟は、何かを指さし、その物や人の
頭文字を言ったり、体で表したりします。なので、いつも、
「ア、ア。」
と言って冷とうこを指さし、アイスクリームをほしがります。舌を出さないアッカンベーをして、メロンシロップを指さしました。
これは、目のことで、メロンシロップのメです。テレビで豚が出ると、鼻を指でおし上げます。でも、いちごやすいかなど、
きらいな物を見ると、はきそうになり、走っていってしまったり、
「バ、バ。」
と言って、手をふったりします。自分の目で見た物と本についていた絵やカードが同じだと、持ってきて見せてくれることも
あります。言葉は話せないけど、理解していることもたくさんあるし、できることもたくさんあります。自分の都合の悪い時
は、その場でねたふりをしたり、いやな物や大切な物はかくすようになりました。そんな弟を、わが家は、世界一溺愛して
います。でも、そんな弟も障害者と呼ばれる時があります。そんな時、私は、胸にするどい矢が突き刺さったように、心に
障害者という言葉がグサリときます。でも私は弟はこのままでいいと思うし、このままの方がいい気がします。ちょっとの
ことが大きく感じ、うれしさや喜びが、増すからです。
 でも、外へ出ると、
「あいつ、障害者だ。」
と、はやしたり笑ったりする声が聞こえたり、特別な目で見たりする人が目に入ります。「その人がどんな悪いことをしたの
だろうか、どうしてそんなことができるんだろう。」と思います。私の体全体からいかりのような熱い感情がこみ上げてきま
す。その人たちは、知的なおくれのある人や体を思い通りに動かせない人たちのことをわかろうとしていないと思います。
でも私も、弟が産まれていなかったら、考えがちがったかもしれません。
 私は、弟のようち園」を通してたくさんのことを学びました。弟のようち園に行って、弟のような子とたくさんふれあいまし
た。みんなとてもかわいくて、何をするにもいっしょうけんめいです。他にもいくつかの福祉施設に行きました。バザーに行
ったり作品の展示会に行ったり、ボランティアをしたりして、たくさんのふれあいをしました。
 海外には、バリアフリーの設備が充実している国がたくさんあります。日本はまだ、偏見や特別あつかいがあったりしま
すが、バリアフリーの商品や点字や点字ブロック、車イス用の施設や車などが増えてきています。これからも、みんなの
理解が深まり、「障害者」という言葉が減ったり無くなったりすれば、すばらしいことだと思うし、とてもうれしいです。そのた
めに、私達一人一人の努力が必要だと思います。そして、本当に必要なのは、心のバリアフリーだと、私は思います。