そして、鬼は・・・


 さて、ここで物語を理論的に読み取ってみたい。『田村の草子』の鈴鹿御前に与えられた説話的役割は主人公と恋に落ち、主人公を助けるヒロインの役割である。では大嶽丸はどうであろう。当然、主人公に退治される鬼、悪者である。では、ここで『田村三代記』の立烏帽子はどうであろう。立烏帽子は最初、悪事を働き人間たちを困らせる存在であるが、物語途中で主人公と恋に落ち、悪者退治を助けるヒロインへと華麗なる転身を遂げている。つまり、立烏帽子には『田村の草子』の鈴鹿御前と大嶽丸の両方の役割が与えられていると言う事になる。

  立烏帽子は鬼、鈴鹿御前は天女。両者とも最終的には主人公を助ける者。

  立烏帽子は主人公を助ける者。大嶽丸は主人公に仇なす者。両者とも鬼。

  さて、このように観てみると鬼であっても人を助ける事も仇なす事もあると言う事がわかると思う。では、人を助ける鬼の場合天女とどのような差があるのであろう。

  私が思うに、立烏帽子は主人公を助けるヒロインの役割を背負った瞬間から鬼ではなくなってしまったのではないかと思う。つまり、鬼と天女(広く言えば神仏)の境界線は移行性持つ極限値で語られるのではないかと考えられる。鬼と神は紙一重。人間社会に接する超自然的存在は人間への対応の仕方によって幾重にもその性質が変化するものと言えるのだ。よって、鬼であっても人に組するようになれば神に、神であっても人に仇なすようになれば鬼になるのではないだろうか。

結果的に鬼と神の定義は人間社会に属していない者と属している者の差であると言える。鬼は自然の象徴であり、神は社会秩序の守護者である。だが、そのように考えると祭りを忘れた人間たちにいつか社会の守護者であった神が自然の力を取り戻し、牙を剥いてくる時が来るのかもしれない。