トールのロキよりはいくらか広い部屋の中でフォズとトールは立ったまま話をしていた。
「とりあえず、上陸できなければ話にならんな。」
トールは苛立っていた。
先刻からすさまじい暴風と荒波が船に向けて襲い掛かってきている。そのせいで3艘いた遠征部隊の内、1艘は既に波に飲まれ、沈んでしまっていた。
「兵の数からして、上陸できたとしても、どれだけ戦えるかわかりませんね。」
フォズは冷めた口調で言った。
「それじゃあ、なにもしねえでアスガルドに帰るってのか?!」
「風向きからして、この嵐はアスガルドに向かっています。避けようとすれば航路を大きく外れる事になる。それでは食料も危ういでしょう。」
「それじゃあどうすんだよ。みんなで遺書でも書けってか?」
フォズは小さく首を振った。
「今はロキ様にお任せするとしましょう。」
「ふん、なんでもかんでも、あいつ任せか。」
そう言って、トールは小さな椅子に腰掛けた。
「・・・不満ですか?」
「ああ、不満だね。フォズ、おまえはあいつを高く買いすぎじゃねえか?」
「そうではありません。今をロキ様にお任せしておけば、たとえ、この遠征で我々以外の兵が全滅し、我々のみがヴァルハラへ帰り着いたとしても、オーディンの咎めを受けるのはロキ様だけですみます。」
「むぅ。」
トールは低くうなった。
「今の状況からして我々が指揮を取ろうと、ロキ様が指揮を取ろうと、全滅は避けられません。結果が変わらないのなら、我々が無理をする必要はありません。」
「そのとおりさ。フォズの言うとおり、今は僕に任せたまえよ、トール。」
いつのまにか扉が開き、薄笑いを浮かべたロキが戸口に立っていた。
「あ〜あ、聞かれて困るような事は言うもんじゃねえな、フォズ。」
トールは意地の悪い笑みを浮かべ、言った。
「トール、そういう君も、僕を高く買うなとか言ってなかったかい?」
「いや・・・あれは違うんだ、その・・そういや、おまえいつから居たんだよ、ロキ。」
「僕がいつからいようと関係ないさ。それと、全滅なんて縁起の悪いことは考えんな。明日は大事な仕事があるから、ちゃんと休んどけよ。」
そういってロキは部屋から出て行った。
「・・・寝るか。」
トールは大きくため息をして、言った。
「ええ、明日を楽しみに待つとしましょう。」
言って、フォズは静かに扉を開け、出て行った。
「さて、どうなるかね。」
静かに呟き、トールはベッドにもぐりこんだ。

「えげつねえなあ、ぐちゃぐちゃじゃねえか」
背に身の丈ほどの長さの剣を持ったトールが顔をしかめながら言った。目の前に何体もの死体があった。ほとんどのものは手足のどこかがちぎれている。
「これほどの惨劇になるとは・・・。」
「目が見えねえのにわかるのかよ、フォズ。」
「いくらなんでも、これだけ血の匂いがすればわかりますよ。」
そこはミッドガルドの中でも割りと大きな規模の港町の広場だった。広場の中心には噴水があり、周囲にはいくつかの露店が出ている。だが、噴水の側には引き裂かれた2人の幼い男児の体が横たわり、露店の店主らしき女の体からは首と左足が無くなっていた。
「あぁ、重てえ。こんなもの持ってくる必要なんかねえんじゃねえのか?」
トールは背負っていた大剣を地面に下ろしながら言った。
「もし、君が死んでも良いと言うなら必要ないが、そうでなければ持っているほうが賢明だ。」
今まで黙っていたロキが深刻な面持ちで口を開いた。
「どういうことだよ。この死体どもが動き出すとでも言うのか?」
言いながら、トールは幼い男児の骸を邪魔だというように蹴り飛ばした。
「つまりはああいうことさ。」
そういってロキは広場の、入ってきたのとは反対の方の出口をあごでしゃくった。そこには漆黒の鎧を着た兵士が立っていた。手に血で真紅に染まった剣を持っている。
「なんだよ。味方じゃ――。」
トールの言葉は途中で途切れた。
広場の出口に立っていた味方のはずの兵士がものすごい勢いで斬りかかってきたのだ。
「おっと、危ねえ!」
トールは間一髪で地面に置いておいた大剣を拾い上げ、斬撃を受け止めていた。
そして、力任せに兵士の剣を弾き飛ばし、ひるんだ兵士の頭に回し蹴りを叩き込んだ。兵士は反動で兜がはずれ、首が通常ではありえない方向に曲がっていた。
「なんなんだよ、どうなってんだ?」
トールは肩で息をしながら、ロキを見て言った。
「ベルセルク。」
ロキは呟くように言った。
「それはどういうものなのですか?」
フォズは兵士の死体に視線を向けながら言った。
「筋肉と神経、脳に作用する薬さ。服用すると筋力と神経が活性化されて運動能力や感覚神経の働きが通常時とは比較にならないほど向上する。ただ、服用後の数時間は脳の麻痺が起こり軽い催眠状態になるんだ。また、効果に比例して依存症状も強く、感覚神経の活性化により外界からの刺激に過敏に反応するようになり、しばらくすると、目に映るものや耳に入った音がなんだか分からなくなる。つまり理性を失って獣と同じになる。これを昨日の兵士の食事に混ぜて、催眠状態のうちに、この町にいる人間を殺すように言ったんだ。そして、俺達の仕事は生き残りを殺す事だ。ほっとくと、船を襲われるかも知れねえからな。」
そういって、ロキは辺りを見回した。
「それで、敵は何匹いるのですか?」
「おいおい、フォズ、何匹って、数える単位すら人じゃねえのかよ。」
トールがあきれたように言った。
「ええ、私は人である事の定義を、理性を持ち、思考する事ができる事だと思っているので。」
「また、難しいこと言いやが――」
「来るぞ!」
トールの言葉をさえぎりロキが叫んだ。その直後、石造りの家の二階から二本の剣を持った兵士が飛び降りてきた。
「僕がいきましょう。」
言いながらフォズは飛び降りてきた兵士と同じく、腰に差していた二本の剣を抜いた。
少しずつ、フォズと兵士は間合いを詰めた。
そして兵士の剣の間合いの中にフォズが入った瞬間、風を切る音と共に兵士の右手の剣がフォズの頭に向かって振り下ろされた。
フォズはそれを左手の剣で受け止め、もう一方の剣を兵士の着ている鎧の隙間に潜り込ませた。
辺りに絶叫が響いた。一瞬の後、フォズは兵士の体から剣を抜き取り後ろへ飛んだ。間一髪で兵士の右手の剣による反撃は空を切った。
兵士の体は小刻みに震え、血を吐きながら肩で呼吸をしていた。鎧の隙間からどす黒い血が流れ出している。
「驚きましたね。まだ意識があるとは。」
あきれたように呟いて、フォズは左手を前方に突き出し、右手を肩の位置で引きながら一気に間合いを詰めた。
アスガルド軍の一般兵の兜は、他軍の兵士が鎧を奪い、軍に紛れ込んでも顔を隠せぬようになっている。
つまり、兜をしていても顔を守る事はできない。
フォズはその、鎧で守られていない顔に左手の剣の先端が当たる瞬間、左手を引きながら右手の剣を突き出した。
今度は絶叫ではなく、兵士の頭を貫いた剣が兜に当たる鈍い金属音が辺りに響いた。
一撃必殺。一点の曇りもないフォズの一撃には、その言葉がぴったりだった。
もっとも、理性を失い内臓に深手を負った者に、この攻撃を止めろというのは無理な話というものだが。
「思考なき者に生きる資格などない。せめて、他の者を恨むことのないように。あなたが恨むべきは愚かなるあなた自身なのだから。」
静かに独り言のように言って、フォズは兵士の両目の間にまっすぐ刺さった剣を引き抜いた。剣を抜くと同時に、おびただしい量の返り血がフォズの仮面を濡らした。
「次に行きましょうか。この分だと、終わりそうにありませんから。」
「ああ、急ごう。」
ロキの声からは緊張が感じられた。

「もう、いないようですね。」
16人目の兵士の首に深く刺さった剣を抜き取りながらフォズが言った。
「あ〜あ、疲れたぜ。」
ため息をつきながらトールが言った。
「よし、急いで船を出そう。」
そう言ってロキは剣に付いた血をふき取った。
「もう帰るのかよ。それじゃあ、この町を落とした意味がねえじゃねえか。」
「意味ならあるさ。俺達には新しい船が必要だ。まあ君が嵐で壊れかけてるあのぼろ船に乗って帰りたいなら話は別だがね。」
「俺だって、あんな船に乗りたかねえぜ。だけど船ならそこらへんの小船を盗めばいいだろ。」
「船に残してきてる仲間も乗れるほどの船が盗めるかい?」
「仲間を気遣うなら、こんな変な薬飲ませなけりゃいいじゃねえか!」
トールは激怒した。
「兄さん、落ち着いてください。」
フォズが口を挟んだ。
「とにかく今は帰ることにしましょう。今の僕達の戦力でこれ以上の戦いをするのは無謀すぎる。」
「・・・わかったよ。」
「それなら早く行くとしよう。逃げ延びた者が軍を呼ぶ前に。」