王都から少しはなれた場所に何年も前に朽ち果てた大樹がある。
その大樹の根元にある小さな家にロキは白毛の馬に乗り、1人で来ていた。
黒地に金で装飾がされた軽装の鎧を身につけ、小さな真紅の石の付いた首飾りをしている。
ロキは辺りを見渡し、誰もいない事を確認してから家の扉を静かに叩いた。
「こんにちは、ロキ。ひさしぶりね。」
ドアが開くと同時に家の中から高い声がした。声の主は赤毛を長く伸ばした可愛らしい少女だった。
「こんにちは、イドゥン。今日はちょっと見てほしいものがあるんだ。」
ロキはそういって首飾りを外し、それをイドゥンに向けて投げた。
「これ・・・。」
「それが僕の作れる最高のものさ。僕は自分が情けないよ、それは本物が持っている力の10%も出せていないんだ。」
「でも、よくできてるわよ。もうちょっと頑張れば本物も作れるんじゃなくて?」
「作り方はわかったさ。だけど無限の知識を持つ物質を作るためには無限の知識を持っていなくちゃいけない、けど無限の知識なんて君は持っていない。君は知識をどこから持ってきたんだ?それだけ聞かせてよ、イドゥン。」
「だめよ、ロキ。それを教えたらあなたに会えなくなっちゃうじゃない。」
イドゥンは微笑みながら言った。
「・・・賢者の石は僕が石を手に入れたらどうなるかも知ってるんだね。今、石に言われたんだろ?教えるなって。」
「・・・ごめん。でも誤解しないで、ロキ。あなたの事は愛してるけど、石の言葉が本当だとすればあなたにおしえることはできないわ。」
「石の言う事は真実だけさ、いつでも石が言ったとおりにすれば間違いは――」
「いつでも石を頼るんじゃ、私は石の操り人形と一緒よ。私は自分で決めなくちゃいけない事は自分で決めるつもり。」
ロキは黙って頷き、白馬に乗った。
「もう行っちゃうの?今ならおいしい紅茶があるのに。」
「ごめんね、イドゥン。午後から遠征に行かなきゃいけないんだ。今日は石の作り方はあってるっていう事がわかってよかった、ありがとう。」
「え?なんで?私、石の作り方なんて言ったかしら?」
「ふふん、知識の出所を石が教えるなって言ってるんなら、それは知識があれば僕の賢者の石は完成するってことだろ?」
「あいかわらず頭が良いのね。」
イドゥンはあきれたような口調で言った。
「それじゃあ、また来るよ。」
「じゃあね!」
ロキは微笑みながら頷いて白馬に鞭を入れた。

「それでは、不浄なる地へと赴く勇敢なる諸神に乾杯。」
短い夏の強い日差しの中、オーディンはワインの入ったグラスを高く掲げながら低く威厳のある声で言った。
「乾杯。」
3艘の船の甲板から次々と声が上がった。
皆、オーディンの持っているのと同じグラスを持っている。
「皆、必ず生きて帰ってくるのだぞ。」
オーディンの言葉が終わると同時に3艘それぞれの碇があがり、果てしなく青い海へ動き出した。
「あの野郎、よく言うぜ。心の中じゃあ沈没しちまえって思ってるくせによ。」
椅子が倒れ、割れた酒瓶が床に転がっている狭い小さな部屋の中、壁に立てかけられた1本の剣のみが美しい輝きを放っていた。そんな部屋の中で陸が夕焼けに染まった水平線のかなたに消えて見えなくなるころ、黒髪を肩まで伸ばした細身の男が窓を覗き込みながら言った。
「それは子が親に言う言葉ではないと思うよ、トール君。」
ロキは部屋の中心に置かれた小さな机に無造作に腰掛けて杯に入った酒を飲んでいた。
「ロキ、俺はあの野郎の正式な子じゃねえって言ってなかったか?」
「何度も聞いたさ、おまえの母親はオーディンの召使いだったんだろ?」
ロキは手に持った杯に入った酒を一口飲んだ
「ああ、でもバルドルが生まれるまでは俺がこの国を継ぐ予定だった。それなのによ・・・。」
窓から外を見ていたトールはロキに向き直り言った。
「トール、もうすぐ国王にしてやっからバルドルに敵意は見せるな。あいつを殺した時、おまえが疑われれば計画は終わりになる。」
部屋中に目線を泳がせながら、ロキはそう言って空になった杯を部屋の隅に投げ捨てた。小さな部屋に杯の割れる音が響いた。
「そんなことはわかってる。・・・そういえば今回は兵が少なくないか?」
「兵の数など関係ないさ。それよりフォズはちゃんと来てるのか?さっき探したけど、どこにも居なかったぜ。」
目線の定まらぬままロキは言った。
「さあね。とりあえず俺はもう寝る事にするから出てってくれ。」
「トール、ここは俺の部屋だ。出てくのはあんたさ。」
「そうか・・・。そういえばそうだな。すまん、疲れたみたいだ。」
トールは扉に向けてゆっくり歩き出した。
「おやすみね、トールちゃん。」
ロキは微笑みながら、からかうように甲高い声で言った。
「・・・なんのつもりだ?」
トールは歩みを止め、威圧するような口調で言った。
「あんたの妻の感じで言ってみたんだが、似てなかったかい?」
「いいのか?酔っているとはいえ、俺は容赦はせんぞ。」
トールは目を血走らせながら低い声で言った。
「何を言っているんだい?トールちゃん。」
ロキの声はさっきよりいくらか低くなっていた。
「僕をお探しと聞いたのですが今は取り込み中でしょうか?ロキ様。」
ふいに扉の向こうからやや高い声が聞こえた。
「大丈夫さ。入ってくれ、フォズ。」
ロキはトールから扉に視線を移した。
「失礼いたします。」
声と共に扉が開きフォズは部屋の中に入ってきた。
フォズは黒髪を束ねて腰まで伸ばした独特の髪型をしていて顔には目が彫られていない白の簡素な仮面をつけている。さらにまだミッドガルドの領海にすら入っていないというのに短めの簡素な剣を2本それぞれ左右の腰に差していた。
「ずいぶん物騒な物もってるじゃねえか、戦はまだだぜ。」
トールは剣を見ながらあきれたように言った。
「目を失った時みたいに、いつ襲われるかわからないからね。兄さんも気をつけたほうが良いよ。」
「オーディンだってこの船に瞬間移動する事なんてできねえよ。」
「ですが彼の部下が紛れ込んでいる可能性だってあるでしょう?」
「フォズの言うとおりだ。それにオーディンなら瞬間移動だってやろうと思えばできなくはないさ。」
「それは本当ですか?ロキ様。」
フォズは静かな声で驚いているのを隠すように言った。
「本当さ。ところでトール、フォズに少し話があるから悪いが少しはずしてくれ。」
「ああ。ちょうどいいから俺はもう寝ることにするよ。」
トールはそう言って扉を蹴り開けて小さな部屋から出て行った。
「さて、とりあえず賢者の石に関する話だ。いいか?」
トールが部屋を出てしばらくした後、ロキは言った。
「ええ、かまいません。」
そういってフォズは床に倒れていた椅子を起こし、腰掛けた。
「まず、結論から言えば俺の使った方法は正解だ。」
ロキの言葉にフォズは即座に首を横に振った。
「あなた様が使った方法で作られる石は力を持っていません。あれは不老不死どころかこの両目を治すことすらできはしませんでしたよ。」
「フォズ、人の話しは最後まで聞くもんだ。あれは賢者の石の器みたいな物なんだ。あれに知識を加えることで賢者の石はできあがる。それが新しく分かったことさ。」
「・・・つまり、あとは知識さえあれば石はできあがるのですか?」
フォズは緊張を押し殺すような口調で言った。
「そういうことさ、そして知識のある場所も既に分かっている。この遠征から帰ってきたらすぐにでも石を作って君の両目を治す。その代わりに君に頼みがある。」
ロキはそう言って机から降り、壁に立てかけられていた剣を手に取った。
「魔剣ミストルティン、おまえにこれを渡しておく。遠征が終わったら、これでバルドルを殺せ。そして、バルドルの死によってヴァルハラが混乱している内に俺がオーディンを倒す。そして賢者の石を作って、おまえの両目を治して国は俺達のものになる。」
ロキは剣を差し出しながら言った。
「しかし今、あなた様がこれを手放してしまうのはオーディンの部下がこの船に紛れ込んでいるとすれば危険すぎるのではないでしょうか?」
フォズは差し出された剣を見つめながら言った。
「大丈夫さ、この船の兵は明日いなくなる。」
ロキは薄笑いを浮かべていた。
「・・・何か策があるのなら、受け取らせていただきますが・・・。」
そう言ってフォズは剣を手に取った。
「それと、君がこれを持っている事は誰にも言うな、トールにもだめだ。わかったな?」
「はい。お気をつけ下さい、ロキ様。あなた様は新たなる国の王となるべき人間なのです。もし、あなた様が死んでしまわれたら僕は・・・。」
「俺はまだ死なないさ。」
ロキは再び机に腰掛けた。
「今日はもう遅い、寝ておけ。」
「はい。」
フォズは剣を両手で抱え、ゆっくりと狭い部屋から出て行った。
しばらくして部屋中が闇に包まれるころ、ロキは扉に鍵をかけた。ベッドに行こうとしてフォズが起こした椅子につまづき、それを悪意をこめて乱暴に蹴り倒してベッドにもぐりこんだ。
――まだ来ないのか。
一瞬、考えた後に眠りについた。