ぺら、紙と紙が擦れる小さな音。
新しいとも古いとも言えない色をしたその端を軽く摘んで、右から左へと移す。
昼と言うには遅く、夕方と言うには早い時間帯。
背後にある大きな出窓からは、赤味を帯び始めた光が差し込んでいた。
柔らかな風が、静かにカーテンをはためかせている。
オルエは、ソファからはみ出た左足をぶらぶらと揺らせながら、大きな欠伸を漏らした。
右手にはやや小振りな本が一冊。
薄茶色のカバーをかけられたその表紙に、タイトルは見られない。
オルエはさして面白くもなさそうに、ただ淡々と印刷された文字の上に視線を滑らせていた。
本の中身は、恋愛小説とサスペンスを一緒にしたような、ごくありきたりな内容。
その本は、偶然朝にカフェテリアで居合わせた友人に勧められて借りたものだった。
元々くだらない恋愛小説や、面白くもない本をダラダラと読むのが好きなクチなので
断る理由も見つからず、いつものように持ち歩いていた女性向けファッション雑誌と交換する形で借りたのだ。
どちらかというと本よりも、いかにも服装に興味の無さそうな彼女がファッション誌を読んでいる姿を見たい、と言う欲求の方が強くはあったのだが。
とにかくオルエは一冊の本を、その女ハンターから借りたのだった。
読み始めてから約1時間。
話もクライマックス近づいてきた頃、食料の買出しに出掛けていたビジャックが家に帰ってきた。
玄関の方から、荷物を降ろす物音と、ただいまと言う声が聞こえる。
文字を追う目はそのままに、空いた左手をひらひらと振りながら大きな声で叫び返した。
「あなたァ、ご飯とお風呂どっちにするぅ。それともアタシィー」
数秒の沈黙の後、柔らかな空気と、すぐに夕食にするから、と言う声が聞こえる。
それに笑い声で返事をしながら、オルエはぺらぺらと本のページを捲り続けていた。

――男は首を傾げながら女に言う。
   「ボタンをかけろ」
   女は恐怖に目を見開いたまま、男を凝視している。
   男は哀れみとも悲しみともつかない目を女に向けていた。
   数秒、無言のまま見つめあう男と女。
   あわてて胸元のボタンをとめ始める女。
   次の瞬間、男は女に鎌を振り下ろした。

妻と、自分の上司の浮気現場を発見した夫が、二人を殺すシーン。
そこまで読み進め、オルエはぱたりと本を閉じた。
物語の終焉まで、残り10ページといったところか。
閉じた本を、天井に向けて伸ばした足の裏に載せて、数回回転させる。
「浮気、殺人、ね…」
ふん、と鼻で笑う。
そのまま本をソファーに投げ落とし、オルエは軽く屈伸をしながら立ち上がった。
「浮気、殺人、浮気、殺人」
鼻歌交じりに呟きながら、夕食の準備をしているビジャックに近づく。
軽い足取りでキッチンに入ってきたオルエに気付き、後ろを振り返るビジャック。
「もうすぐ…」
「ボタンをかけろ」
出しかけた声を遮るように言い放つ。
「……え?」
目の前には意味がわからない、といった顔のビジャック。
その目は恐怖に見開かれてはいない。
オルエは笑みを浮かべたまま、ビジャックを見つめる。
そして、手を真っ直ぐに伸ばし、ビジャックの胸へと当てた。
「ぐさ。」
口で効果音を言いつつ、手をさらに強く押し付ける。
「…オル?」
胸を手で刺されたまま、ビジャックは怪訝そうな表情をしていた。
それもそうだろう。
オルエ自身も意味があってしたわけではない。
なんとなく、そうしてみただけだ。
相変わらずその行動の意図が掴めずに、不思議そうな顔をしているビジャックを見て、
オルエは笑みを深めた。
そのまま腕を頭に回し、思い切り正面から口付ける。
フライ返しを持った右手が小さく揺れたのに満足しつつ、オルエは静かに目を閉じた。



男は普通の人間だった。
仕事をし、休日には休み、妻と時間を共にする。
男は女が、それで幸せであると信じていた。
満足し、それ以上は望んでいないだろうと信じていた。
しかし女は満足していなかった。
女が求めていたのは平安と安息に加え、
危険とスリルと快楽だったからだ。




オルエは口内を貪るビジャックの舌を、己の舌で絡めとりつつ、小さく 笑った。