河野勲の岩国ノート

 〔43〕岩国空襲 1984/8/19

街も駅もなく、爆弾の穴

 いつか「岩国ノート」でふれたが八月十四日は、岩国が激しい空襲を受けた日である。
 空襲を体験したある婦人はつぎのように語る。
 「私は当時女学生でした。朝食をすませて私は、いまの麻里布中学校の裏山へ松根油(航空機燃料の不足を補うため松の幹に傷をつけ、そこから出る松の樹脂を採った。しかし実用化はしなかった)を採りにいきました。さあ・・・十一時ごろだったと思います。突然空襲警報が鳴った。どうしよう、どこへ逃げようか、と思っていると南西の空からB29の爆音がきこえてきた。見れば白く光るB29が何機も何機も編隊を組んで私の方へ向かってくるのです。足がすくみ、松の幹にすがりつくようにしてうずくまりまし。ザーァ、ザーァ、ヒュー、ヒュー、ドウ、ドウ、ドウ。松が揺れ、山が揺れるのです。どのくらい時間がたったでしょうか。私はずいぶん長く感じられました。
 音がやんだので、そうっと目を開けると、街が無い。駅が無い。青あおと茂っていた水田が真っ黒になっているのです」
 私はその年の九月十五日復員したが、彼女が語ったように岩国駅も、駅前の街も無く、直径十メートルから十五メートルくらいの爆弾の穴が重なり合っていた。
 八月十四日、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏した前日である。八月十五日には米軍機は朝から一機も飛来しなかった。
 十四日、米軍は日本の降伏を知らないはずはない。おそらくB29に積み込まれていた爆弾(爆弾の積み下ろし作業は危険が伴う)を、あすからは落せない、きょうのうちに、いわば捨てにきたのではないか。当時岩国駅周辺には軍事目標は何ひとつない。
 八月十四日には毎年慰霊祭が駅前でおこなわれる。ことしは都合で十二日におこなわれた。私も朝九時から自治会の役員として慰霊祭と、その後おこなわれる盆踊りの準備に出た。
 慰霊祭のあいさつで岩国市長は「五百数十柱の尊い犠牲の上に今日の発展があります。今年は空襲当時と同じ午前十一時十五分から三十秒間サイレンを鳴らし、全市民が一分間もくとうをささげ、永遠の平和を願うことにします」とのべた。
 今年は、はじめて、八月六日、九日、十五日にも岩国市はサイレンを鳴らした。

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