*基地監視活動

  基地の監視活動は、一九七二年から始めました。ですから、ちょうどベトナム戦争で、岩国から兵隊が出て行った頃からです。
  初めは私だけの記憶にと思って記録を付けてきましたが、やはりそうではなくて誰が見ても分かるようにしておかないといけないと思って、基地からの軍用機の離発着記録を書き始めました。ですが、ずいぶん大変なんです。ノートに印を付けておくのですが、それを文章化していきますと三倍も四倍も長いものになるんです。文章化は今、どうにか半分ぐらいまでこぎ着けまして、現在、八四年の九月から八五年の六月までで、ちょうど二十一冊なんです。印を付けたノートの方は、今使っているで三十九冊目ですが、今持っているこのノートは去年の八月からの記録ですが、その日のうちに必ず清書して文章化しますので、今残ってる分だけやれば完成ということになります。この作業は、私が死ぬまでずっと続けていこうと思っています。こういうことが、一つの運動だろうと思っています。
  私が、平和委員会の仲間に言っていることですが、基地を毎日見に行けるわけではない。寒い日も暑い日もあるし、仕事もやらなければいけない。だから、生活をしながら基地を見ようじゃないかと。見方にもいろいろありますよ。たとえば商売をしている会員だったら、前を兵隊が通るのを見て、今日は兵隊の通りが多いとか少ないだけでもいいのじゃないかと。平和委員会はそういう仕事なんだよ、と言ってるんです。そして、皆が集まって、その資料を合わせていったら基地の動きが分かるんだから、と。
  なぜこんなことを始めたかと言いますと、基地が近くにあるからということになるんですが、初めはマスコミが一番よく基地のことを知っていました。でもマスコミに負けていたのでは駄目だというので、軍用機の離発着を監視し手帳に付けるようになってからは、マスコミ関係者が逆に私に聞きに来るようになりました。マスコミ関係者は基地報道部との接触がありますから、基地の情報をこちらに連絡してくれたりして、お互い連携し合うというような関係でもありました。その日その日のことを書いておくということの積み重ねが、非常に貴重になるんです。最近では、広大生が卒論に使うからということで、スクラップを全部持って帰ったりしました。一週間ごとの分を半年ぐらいかけて、自分の好きなところを選んで。
  そんなことで、けっこう仕事があります。私は毎朝、三つの新聞を三時間ぐらいかけて目を通して、基地関係の記事を切り抜いて、スクラップブックに貼っています。そして、いつも寝る時以外は手元から離さないこの手帳に、飛行機が飛べば記帳しておくのです。亡くなられましたが、広大(広島大学)の佐久間先生に、「皆が分かるように書きなさいよ」と言われまして、文章化したような次第です。これもあと三年ぐらいかかります。
  今でも五月五日の基地解放日(日米親善デー)には堂々と入っています。もちろん、縄が張ってあればそこから一歩も入りませんが、行ける所はどこまででも行きます。一日中見ますし、写真もどんどん撮ります。
  昔は、講和条約を結んだのと同時に安保も結んだなど、普通は考えないし、知らなかったです。ましてや条文がどうなったかとか。基地と接触したとしたら、占領時代ですから外から写真撮っただけで占領政策違反でやられます。でも安保の場合は、基地の中に入ってやらない限りはできるでしょう。看板も「日本の法律によって罰せられます」に変わりました。昔は米軍によって罰せられました。だから我々が一歩も中に入らない限り、外から見るのは自由だし、写真を撮ってもいいはずです。それで実際、憲兵と喧嘩もずいぶんやりました。そういう時は、すぐ正面ゲートへ行きまして粘ります。日本の通訳が来まして事情を説明すると、向こうで相談して「確かに間違いでした。今後一切やらせません」と、向こうが謝ります。二回も三回も、そういうことにぶつかりましたけど。
  平和委員会の活動ということでは、そのほかに米軍基地に伴う犯罪なども取り上げました。警察に文句を言ったり、市の方へ岩国基地に対して抗議をしなさいとか要請することなどでしたが、平和委員会では基地問題に関する資料作りに重点を置いていました。

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