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秩子の想うこと
(その2)
2005年3月30日から




東日本大震災、特に原発に関する考え方

3月11日に未曾有の大震災、津波、原発事故が起き、大変な事態に立ち至りました。亡くなった大勢の方、いまだに行方不明のままの方、そして、何もかも失って立ちすくんでいる方。その現実に対して何ができるのか、考えあぐんできました。MLへの投稿を元に私が考えてきた道筋を追ってみます。

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(3月15日)いよいよこちらでも明日から計画停電です。

そのぐらいのことは当たり前のこと。あの被災地の状況を見ていたら、何でも出来てしまう気がしますね。畳の上にしがみついて、あの寒い夜空を過ごして救助された方。よくぞ生き延びてこられたと感心するばかりです。

放射能! 今私は、毎日孫たちにこの放射能について語っているのですが、難しいですね。こんなにまでひどい状況にならなくては、原発をなくそうということにならなかったのですね。こういうことは起こりうることだとだれもがわかっていたはずなのにね。

目に見えない形で、体がむしばまれる放射能というものは、いくら閉じ込めてもどこかから出ていけるのですから、こんなものを作ってはいけなかったのだと思います。世界中が、日本の「安全神話」に基づく原発事故を注視し、さっそく建設を凍結する国が現れましたね。

日本も早くに辞めるという宣言をしなくてはならないと考えています。

黒岩秩子さん、みなさん             星野邦子です(3月22日)

今回の原発事故の話は起こるべくして起こったという話もあるほど日本の原発行政のずさんさを表した20年前の告発文があります。

これは この原発を作ったプラント技師の一人、平井憲夫さんが 放射線を浴び過ぎて癌になり、

 亡くなる前に書いたものです。以下の「原発がどんなものか知ってほしい」を読むとよくわかると思います。

 http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html

私はこれを10年くらい前に知って、300部ほど印刷して皆さんに配りましたが、その時はまだ経済優先の社会で皆さんからの運動には至りませんでした。今こそその運動の時と感じてこの文章を読んでいただきたいと思いましたので・・

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星野さん、すごいものでした。

命をかけて、原発の現状を知らせてくださったのね。私も、印刷しました。皆さんに読んでいただくつもりです。ありがとうございました。(3月22日)

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(23日)昨日、私が投稿したものについて、個メールを下さった方がありました。

電話で話してみてわかったことは、どんどん技術が変わってきているので、したがって「嘘」になっているということのようでした。

(3月26日)今までは、少数にとどまっていた原発廃炉への賛同が一挙に高まっています。

次のようなものがまわってきたので、みなさんにも回しますね。

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郡山市長の「廃炉」を求める発言を受けて、署名活動をしたら、という 声が上が

り、緊急に作成しました。

 ●署名用紙はウェブからダウンロードできます。

     http://fukushimahairo.web.fc2.com/

 ●メール署名

     送り先: fukushima.hairo@gmail.com

     署名方法:上記アドレスに氏名(ハンドルネームは不可)、住所を書いて送信して下さい。識別のためメールのタイトルを「署名賛同」として下さい。

●締め切り:第1次集約 3月末日、第2次集約 4月末日

    福島原発の「廃炉」を求める有志の会

    連絡先:fukushima.hairo@gmail.com

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毎日新聞3月29日の10面にすごい記事が出ていました。

「記者の目」のすぐ下に、「発信箱」というコラムがあります。福岡賢正(西部報道部)記者が書いているのは「すべて想定されていた」というタイトルです。

今回は「想定外」という言い方でおさめようとする気持が、自分の中にも湧き出てきてしまうのですが、ずうっと昔22000人もの死者が出た津波があった、というようなことは知られているのですよね。

今回の発信箱には、神戸大学の石橋克彦氏(地震学)が岩波書店の雑誌「科学」1997年10月号に書いた「原発震災〜破滅を避けるために」からの引用があるのですが、なんと今起きていることを言い表しているのでは、と思われるほど正確に事態を予想しているのでした。そして、2005年の衆議院の公聴会でこのことを発言して警告していたのです。

(4月5日)宇洋たちが検討している「検察の在り方」と福島原発が深く関係しているということがよくわかる週刊朝日の記事です。「収賄額ゼロ」という結果が出た「逮捕劇」。それによって、佐藤栄佐久知事を失脚させて、福島原発を進めていったのですね。

■佐藤栄佐久・前福島県知事が告発 「国民を欺いた国の責任をただせ」

<週刊朝日:配信>

下記の記事、<転送歓迎>(貼り付け開始)

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http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110330-00000301-sasahi-pol

週刊朝日 330()1756分配信

■佐藤栄佐久・前福島県知事が告発 「国民を欺いた国の責任をただせ」

福島第一原子力発電所の事故は周辺の土壌や海水からも大量の放射能が検出され、世界を震撼させる事態となっている。原発の安全性に疑問を持ち、一時は東京電力の原子炉17基をすべて運転停止に追い込んだこともある佐藤栄佐久・前福島県知事(71)はこう憤る。「諸悪の根源」は経済産業省であり国だ──。

(後略)

(4月14日)

いやいや、本当に本当に田中優さんのお話で勇気をいただくことができました。

1時間でよくぞここまで内容の濃い「提案」をしてくださったこと!

これを広めていきましょう。

http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-2623.html

(5月2日)

田中優さんの本が出ました。「原発に頼らない社会へ」−こうすれば電力問題も温暖化も解決できるー

2011,4,20  武田ランダムハウスジャパン刊

この本の紹介は、「感動した本」のコーナーに。







「平穏死のすすめ」(講談社)に想う

            2010,4,5

 「平穏死のすすめ」(講談社)の著者石飛幸三さんは、宇洋の秘書宇野さんの叔父さんに当たります。宇野さんからこの御本を頂いて読んで、感動したので、新潟日報に投稿しました。それが、4月5日の「窓」欄に掲載されました。

 それを皆さんにもご紹介しますね。

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 石飛幸三さんが書かれた[「平穏死」のすすめ](講談社)をうなずきながら読みました。本当に人が老いるということは、自然現象で、死を迎えるのも自然現象です。少なくとも私は、一般的な延命「治療」はしてほしくないと常日頃家族で話し合ってきました。

 私が理事長をしている社会福祉法人桐鈴会が運営している認知症対応のグループホーム[桐の花]では、できて5年半がたちますが、その間亡くなった方8人すべて、病院ではなく[桐の花]で亡くなっています。その中の一人は、職員たちの総意で、病院スタッフの反対を説得して退院させて、[桐の花]でみとったのでした。

 私の母も、この[桐の花]で看取ってもらいました。訪問看護、訪問医療があってこそできたことではあります。なんといっても[桐の花]の職員たちの意識が「最後まで寄り添いたい」という点で一致していたのです。意識がなくなって水も一切取らなくなって、点滴も外し、11日後の孫の結婚式が終わった翌日の早朝、静かに息を引き取ったのでした。最後1週間は、家族も泊まり込みました。

 [「平穏死」のすすめ]で石飛さんがご自分が医者として勤務する特養ホームで、「食べなくなったお年寄りに胃瘻とか、点滴などの延命装置をつけなくなった結果、死亡原因トップが、肺炎から老衰に代わってきた]と言われることが、とくと胸に落ちたのでした。




私たち夫婦の50年

 私たち夫婦が初めてであって2010,1,15は50年目です。

 こんなことをここで言うのは、実は、それが、日米安保条約の改定50周年ということだからなのです。当時の岸首相は、1月16日条約改定の調印に渡米することになっていました。その前日から、学生たちはそれを羽田で阻止しようと集まっていたのです。その日は東京では、かなり寒い日で、降っていた雨が、夜になってみぞれに変わってきました。学生を排除しようとする警察官と時々もみ合い、後は、隊列を組んでいるというのが、その日の行動でした。

 もみ合いが終わって待機しているときに、隣の男子学生に声をかけました。「どこから来たの?」「東京です」あんまり大声で警官をどなっていたので、てっきり地方から上京してきた人だと思っていたのでした。それから合間合間におしゃべりをして翌朝わかれたのですが、また「全学連」がデイトの日をきめてくれたのでした。たぶん1月19日にデモがあったので、そこで再  会できたのだと思います。何しろ50年前ですから、うろ覚えです。

 あの頃、私たちが、心配していたのは、アメリカとの軍事同盟(と考えていました)において日本が対等になるということは、それだけ戦争への道が通じてしまう、ということでした。実は、そのころ地位協定のことも問題になっていました。「対等ではない」と批判していたのですが、安保改定で、対等に近づくことにも反対していたのですから、少々矛盾もあったのです。

 あの頃は、ソ連とか北朝鮮を理想の国だと思ってしまっていたところがあるので、何しろ、当時、黒岩卓夫は「ソビエト医学研究会」というサークルに入っていたくらいですから。そういう「誤解」から解放されるには、1989年のベルリンの壁崩壊まで待たなくてはならなかったのです。もちろん、その前からソ連についての情報をマイナス面でも少しづつ得ていて、崩れる予感はあったのですが、あのようなドラスティックな展開があるとは、想像していませんでした。

 本当の意味で、日米が対等になるには、鳩山さんが以前いっておられたように「駐留なき安保」で通してほしいと考えているのですが、どうなることでしょうか?





ムスタンに生きる近藤亨さん

9月にチャリティーコンサートに行って買ってきた2冊の本には感動しました。また、NHKで報道された番組のDVDも頂いてきてみることが出来ました。「ムスタンの夜明け」(KKかんぽう)「ムスタン物語」(新潟日報事業社)どちらも近藤亨さんの著書です。

桐鈴会のグループホームで毎日2時間働いてくれているネパール人のアンジュに「ムスタンに新潟県の人がすんで、農業の技術指導をしているのよ」と話したら、「ムスタン?」とかなり驚いていました。ネパールの中でも特に気候が厳しく、標高が、3000,4000ぐらいあるので、寒い。そのうえ強風がものすごく、ネパールの中でも特に貧しい地域なのだそうです。アンジュは、夫がこの町にある国際大学の学生で、3歳の娘を保育所に通わせるのに、就労証明が必要なので、桐鈴会で働いてもらっているのです。

近藤さんは、1921年新潟県生まれ。新潟大学農学部助教授を経て、新潟県園芸試験場の研究員となり、1976年国際協力事業団(JICA)から果樹栽培専門家として、ネパールに派遣され、以来、定年退職後まで、ネパールに住みついてしまった。70歳で、家族の反対を押し切って単身で、ムスタンへ向かい、そこに居を構えて、現地の方々と高地での稲作、果樹栽培、畜産(ホルスタインなど)などに挑みます。日本には、後方支援する仲間たちがたくさんいて、資金援助をしています。この活動が、テレビで放映されたときに、新潟市在住の伝啓子さんは連絡を取って以来お友達となったそうです。今、体調不良で帰国されている近藤さんを、9月14日には、日韓若手音楽家のコンサートにお連れしてくださり、9月27日には、私がチャリティーコンサートに出かけたのでした。

体調が回復して、11月12日には、またムスタンに帰られるのですが、伝さんは、88歳の近藤さんに同行して、ムスタンに行くのだそうです。

近藤さんは、ジャイカの職員として現地に行ったのがきっかけですが、ジャイカのような後ろ盾があるのとないのとでは、全然違い、とことんやれるというメリットと引き換えに失敗もすべて自分で引き受けなくてはなりません。3000メートル近い高地に稲を栽培するのに、4年かかっています。つまり3年間は失敗続き。4年目に成功するのでした。畜産、果樹など一つ一つに感動的なドラマがあります。それらのほとんどは、それまでに他の人たちが挑戦したけど、失敗に終わった後、挑んでいるのです。

失敗に終わったアメリカの有名な奉仕団体による造林事業の後、近藤さんが、現地の人々に請われて同じ場所だというのに見事に造林が成功します。その秘密は、現地の人々との関係にあるということがわかりました。アメリカの団体は、「やってあげる」という意識で、自分たちだけでいいと思うやり方でやる。現地の人は冷たい目で見ているだけ。ところが、近藤さんの場合には、現地の人と相談しながら、現地の人手を借りて取り掛かる。それが成功のもと。外国人が、入り込んで支援をするというとき、このことが一番大きなことだと思いました。

ジャイカの職員として現地に行っていた時には、3年とか限られていて、もう少しいたいといっても不可能だった。だから、自分の意思で70歳にしてやってきたのだそうです。その意気に感じて、大勢の方々が、資金援助をして、学校を建てる、病院を建てる、現地の人たちが本当に欲していることをひとつずつ作っていったのでした。その資金援助をしている団体は、NPO法人ネパール・ムスタン地域開発協力会。

新潟市秋葉区田島790-201  0250−23−3953

    その新発田分室は、0254−26−3520

11月12日に、伝さんともう一人が一緒にムスタンに向かうのだそうです。どうかどうかお元気で、現地に着くことをお祈りします。



自殺予防週間にちなんで

           2009,9,17    黒岩秩子

 自殺予防週間にちなむマスコミの報道に触れて、私が初めて体験した知り合いの自殺を思い出した。1958年の秋のことだった。その年の春私は大学に入学し、一般教養の数学の講義を受けていた。その講義の主・谷山豊さんが、その年の11月に突然自殺して亡くなったのだ。その後2週間たって、婚約者も後追い自殺された。谷山さん31歳、婚約者26歳。

 谷山豊さんの講義は、とても興味深いものだった。高校までの数学には感じ取れなかった数学の新たな地平に私たち学生をいざなってくれるものだった。時折学生が質問すると、「どうしてこんなことが分からないんですか?」と困った様子で質問を返されるのだった。

のちに分ったことだが、彼は、30歳にしてフェルマーの定理の証明に道筋をつけるという世界的な研究成果をあげておられ、その年の4月に東大教養学部の助教授となって私たち理科系の学生に講義をしていたのだった。

数学科の大学院に籍を置く女性に誘われて、10月に谷山さんのアパートを訪ねた。その時谷山さんはこんなことを話していた。「欧米では、論文を出さないでいると大きな仕事をしているのだろうと思われるのに、日本では仕事をしていないと思われる」そのころ何かがあったのか、知る由もないが、日本での研究者の置かれている状況を残念がっておられたのは確かのように思われる。

 たまたま雑誌「ミクロスコピア」(2009,8,29、考古堂発売)に西條敏美さんが、谷山さんのことを書かれている。それによると、谷山さんと婚約者だった美佐子さんとは同じ墓で眠っているとのことだった。

 「昨日まで自殺しようという明確な意思があったわけではない。ただ最近僕がかなり疲れて居、また神経もかなりまいっていることに気づいていた人は少なくないと思う。(中略)何かある特定の事件ないし事柄の結果ではない。ただ気分的に言えることは、将来に対する自信を失ったということ。」と遺書に書かれていた。とある。

 自殺なさる直前に親しく話していた私だったが、まだ18歳の少女には、まったくその予兆など感じ取るアンテナは持ち合わせていなかった。その後、うつ病だった知り合いが、婚約した後自殺してしまったという事態に直面し、谷山さんももしかしたら、婚約という新しいステージへの自信が持てなかったのでは?と想像してみたりしている。うつ病の気配がある人にとっては、婚約や結婚という普通に人にとって「幸せ」の指標としか思われない事態が、不安の原因にもなりうるということを知っていていただけたら、防げる自殺もあるのでは?と考えて、提起してみることにした。




「男と女をめぐって」から、食べ物、体に至                     2009,1  「メーリングリスト」上でのやりとり

◆秩子<1.13投稿>

 昨日NHKで男と女の違いについてかなりショッキングなことをやっていましたね。心筋梗塞、だったかな?女性と男性とでは、血管のどの部分がつまっているかというのが、違うそうです。そのために、女性のその病気での死亡率が高くなってしまうというのです。 エストロゲンという女性ホルモンは、血液循環をつかさどっていて、更年期障害の場合には、その女性ホルモンが少なくなることによって、血液が、まわりにくくなったり、急にかっと熱くなったりという症状が出るのですね。 昔、医学の実験が、男性についてだけやられてきていたために、女性特有の現象が今やっと研究対象にもなってきたということらしいのです。だから、女性外来というものが必要になってきたのですね。

◆ねこみ<女性1.13投稿> 

 秩子さんの男と女の違いの投稿を読んで、思ったことを書きます。 去年から3分つきのお米を食べることにしたら、夫が排毒といわれそうなアトピー症状が出ました。面白がってみてたら、3ヶ月くらいで終焉。 同時期に低血糖症のことが書いてある本を読んだら、家族中があてはまりました。また痩せているのに糖尿病になるのもわかるような気がして怖くなりました。離乳食も作る必要があったので、いろいろ考えるのが面倒くさくなり、勢いで、肉、卵、砂糖、乳製品、コーヒー、をほとんど食べない食事にすることに。 そんな  食事も二ヶ月近く経ちます。 娘は、玄米も、肉なしメニューも梅しょう番茶もおいしいと大喜びで食べるのに、残りの男全員が、「おいしくない」と悲しそう。男女で味覚が違うのか??? その後、男には、肉やこってりものもある程度必要なのだと学ぶ。女性は、ほとんど摂らなくてもいいらしい。摂らないほうがいいらしい。

 食事の時、男だからってことで一品多く・・・という光景は男尊女卑の光景にも見えるが、実は、理にかなった合理的な生活の智慧だったのかもしれない、と思ったりする今日この頃。一ヶ月目で娘は今まであった体の不調が消え、夫は、顔色も変な色で、唇の色も紫だったのが、ピンク色に近くなりまして、面白がっている私なのでした。そんな生活の中、今日は電子レンジを捨てました。食事を和食に変えたら、レンジを使うことが自然となくなったのです。和食は作りたてでも冷めてもおいしいので(洋食はそうはいかない。和食恐るべし)。わが家の台所は戦前へ向かっています。また先月、エアコンが2台壊れたのですが、値段が高いのに寿命が10年と説明を受け、何だか割が合わない気がしたので、もう買わないことに(正確には買えない)。もう家電に振り回されるのは嫌だ!

◆秩子<1.13投稿)

 ねこみさん、とっても面白かった。 実はね、我が家でも同じことが起きているのよ。今、私たち夫婦は、二人暮らしだというのに、私は玄米、夫は白米を食べています。そして、夫は肉を食べたがるので、私がいないときには、カレー、とんかつなどにしてもらっています。「同じ釜の飯」を食べていない夫婦なのです。目玉焼きが大好きな夫は、自分でもよく作って食べていますが、時に、二人で食べる時には、彼は、二つ、私は一つです。私のほうが大食いなのにね。
 ずいぶん昔、玄米がいいということで、我が家でも始めたのですが、すぐに子どもたちのハンストが始まりました。副食は食べるのだけど、御飯だけのハンストです。宇洋や、乙水など男性たちだったように思います。そこで、私は挫折して、胚芽米に戻した記憶があります。
 そして今現在、3人の女性たち(萌実、海映、帆姿)、みんな玄米食にしています。宇洋のところもそうね。美春さん。
 肉、卵、砂糖、乳製品、コーヒー、を抜いた食事というのは、たぶん小泉さんがしているのと共通なのでは?小泉さんは、その食事でかなり改善されているのでは?

◆星野<女性1.13投稿>

 ねこみさん、とても興味深く読みました。秩子さん、我が家でも同じことが起きています〜♪私たちも3人暮らしになり、ずいぶん消費を落として暮らしています。でもやはり「同じ窯の飯」ではないのです。私は玄米食、夫と娘は白米に少々の麦と黒米(古代米)を混ぜて炊いています。

 ねこみさんの書いてくれた男性と女性の違いで私も妙に納得しました。最近は夫も娘も、あまり肉や魚にこだわらないようになりましたが、2年ほど前は肉大好き人間だったのです。 肉を昔から食べない私はもう何年か前にコーヒーもやめ、少しの玄米と野菜と少々の魚で毎日1200キロカロリーで暮らしています。
 そのせいで、体が汚れないのを実感しています。昔は頭髪も3日以上洗わないとべたべたして気持ち悪くとても我慢できませんでしたが、今は1週間も10日も洗わなくてもなんともありません。(笑)お試しあれ〜(笑)♪ (油脂の摂取を減らすと体は汚れません)

◆秩子<1.13投稿>

 星野さん、ありがとうございます。本当に皆さん、「違う窯の飯」になっているのね。ところで、ねこみさん、星野さんに伺いたいのは、コーヒーって、有機の豆をひいて飲むのもいけないの?教えてください。

◆ねこみ<1.13投稿>

 みなさん、うれしい反応をありがとうございます。多様性に富んだ暮らしをしてる仲間がいることは、なによりの励みになります。
 秩子さん、コーヒーの害のことは、詳しくないのですが(私は元々コーヒーが身体に合わないので、飲まなくて平気なので情報が無い)かる〜く検索して出てきたのは、以下です。
(安易なチョイスで、申し訳ないですが)

http://www.nstimes.info/09-2002/feature.htm
http://www.d2.dion.ne.jp/~tocos/caffe.htm

・『心の病は食事で治す 』という本から以下を抜粋

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 カフェインは、体に蓄えておいたグリコ−ゲンをブドウ糖に分解して血液中に放出するから一時的に気分がよくなる。 でも、カフェインが切れると、急激に血糖値が下がる。 カフェインは、細胞からブドウ糖を一気に放出させるので、血糖値の乱高下が激しく、気分の上下も激しくなる。また、カフェインは副腎を刺激してアドレナリンを放出し、気分を高揚させてくれるが、過剰なカフェインはミネラルを尿と一緒に排泄してしまう。 
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 私の解釈では、カフェインが血糖値に影響を与えることで身体に負担をかけてしまうことが良くないんじゃないかなあと思ってて、低血糖症状がでてる我が家では当分避けたほうがいいな、という見解です。 あと、私が読んだ本に、低血糖の症状のひとつに、肩こり、って書いてあります。
 食べ物の何を食べたらダメとかではなくて、「食べ方」を間違えていることがダメということだそうです。まあ、その「食べ方」というのが諸説あって、どこまでが本当なんだか。

 後は、モノに宿るものってのがあるという事をおっしゃる方がいますね。愛情を込めたものは美味しい、とか、心を込めて研いだ米は美味しいとか。特に子どもが研いだご飯がおいしいそうです。そういう見方でいくと、コーヒーというのはどうなんだろうか?と思うんです。ブラジルやアフリカの方々(子どもたち?)に低賃金で労働をさせてまで飲む必要のあるものなんだろうか?という人もいます。コーヒーがまずくなりそうな話ですね。すんません。

 話をごろっと変えます。

 うちの新生児は今10ヶ月です。9ヶ月の頃、倒れて頭をよく打つ子でした。毎日頭を打ち、一日に3回くらい転ぶ日が増えてきました。それで、頭が重いのか、頭が悪いのか、親として悩みそうになりました。(今までなら「痛いの痛いの飛んでけ〜」をしてあげるくらいしかなかったですが。)ふと、手ともにあった「自然派ママの食事と出産・育児」という本をパラパラめくってたら、あるページにQ&Aがあり、こう書かれてありました。

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・ Q転んで頭をぶつけることが多いのですが脳に影響が無いか心配です。

     A(略)今お子さんは頭の重さの割に体、特に下半身が弱いと考えられます。(略)食物が身体の中に入ると、陰性なものは上半身に、陽性なものは下半身に行きます。(略)この子の場合、砂糖や果物のような陰性食品からできたものが多いのではないでしょうか。穀物を主体とし、野菜や海藻の煮物などで切り替えていってください。(以下略)

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 わが子は、まさしくそうでした。離乳食を手抜きしたために、ご飯が少なめで、ふかした芋、みかん、りんご、が多くなっていた頃でした。これを読んで、すぐご飯中心で食べさせるようにしたら、数日して見事に、倒れて頭をうつことは無くなりました。減ったんじゃなくて、無くなったのです。
 頭をぶつける=赤ちゃんだから仕方ないね〜・・・だけではないのでした。 それから、鼻づまりってどんな理由でなるかご存知ですか?答えは「食べすぎ」です。風邪だけじゃないんですよー。食べ物や意識ってすごいですね。オタクな話は、このへんで。

◆秩子<1.13投稿>

 ねこみさん、ありがとう。コーヒーのことわかりました。私は、今のところ、一日に1回ぐらいなので、そのまま続けることにします。夫は、数回飲んでいるので、警告してあげよう。
 赤ちゃんの転ぶことについての話はとっても興味深かった。そんなこともあるのね。食べるということでの変化がそんなにすぐに表れるとはね。 
 玄米について、卓夫はこう言っています。「刺身なんかは白米だな」それは言えているかも。玄米は、きんぴらごぼうとか、やはり菜食に適しているかもね。焼き肉にも白米かもね。おにぎりは、玄米もおいしいです。

◆秩子<1.19投稿>

 昨夜の「男と女」最終回も興味深く見ました。性染色体のYについてですが、Xの変形でできたものがYなので、Yのほうが突然変異を受けやすいということまではわかっていましたが、その突然変異を受けた染色体が、Xの場合には、女性の中で、XXとなることによって修復されるのに、Yは、修復されないので、だんだん大きさが小さくなっているとのことで、500万年先には、消滅するとのことでした。

 精子の活動が、鈍っていて、そのための不妊がとても多いとのことですが、それを顕微授精というやり方で、精子を直接卵子に注入するという方法で、動きが鈍っている精子でも受精するという話は、自然に反しているように思いました 昨日は、東京で、ガイアの勉強会で、1年ぶりに行ってきました。ここでもこの話になったのですが、男と女の違いというと、フェミニストたちは、「それがどうした」という形で無視するようなところがあるけど、違いを認めたうえで、話さなくてはおかしいよね。というところで一致してきたのでした。                     

◆星野<1.19投稿>

 秩子さん、私がコーヒーを飲まないのは、体のためではないのです。
(質問)コーヒーはどこで主に栽培されているでしょうか?

(答え)日本企業により、アマゾンの密林を開拓してどんどん増産されています。現地の人には正規の賃金が払われず、極貧の生活が続く状況です。長い間、伐採が続けばアマゾンの森が減り、雨が降らなくなり、砂漠化が危惧されます。

    中国の森が減って雨が降らなくなり砂漠化され、日本にも黄砂がたくさん来るようになりましたが、それも日本商社の森林伐採が原因の一端と言われています。国土の30%を割ると森林は再生されず砂漠になるといわれていますが、中国の森林面積はすでに20%を割り、15%に達する勢いです。

    アマゾンの森林は地球の肺とも言われていて、地球規模で大変重要視されています。私一人がコーヒーを飲まなくなってもたいした助けにはなりませんが、知った一人としてもう何年も前からコーヒーを止めています。コーヒー党の人にはごめんなさいm(  )m

◆小泉<沖縄に移住した女性・1.19投稿>

  ねこみさん。わたしは食事療法してます。体の中で糖に変わるといわれているものを全部止めてしまいました。膠原病は、原因も治療法もないと いわれていることに、かえって闘志がわいて、治った時のことを想像して1年間1日1万歩と青菜中心の食事。
 さすが難病、そうそうはでていきません。減体重は、成功しました。今は、径書房からでている「乳がんと牛乳」という本を参考にして、食生活を改善しています。
 こちらの方がゆるいので続けていくのにはこっちかなと病気の原因となる食事は、どんな病気であれ同じかなと思ったからです。  牛に成長促進物質が使われているそうですね。

◆秩子<1.19投稿>

 小泉さん、よく書いてくださいました。
 実は、つい最近、知り合いの子どもさんが、小学生で早く成長してしまうという病気で、そのことについて、「小さい時に牛乳を飲みすぎると女の子は、その病気になり、男の子は、アトピーになる」という話を聞いたのです。女の子が、早く成長してしまうということが、牛の成長促進物質と関係があるのでは?と思いました。牛乳をあまり飲まないほうがいいと私の娘たちが言ってきたのは、このことなのかと思いました

◆ねこみ<1.19投稿>

 小泉さんそうだったんですね、病気って症状に名前がついただけですもんね。表面化したものが、膠原病であったということですよね。表面化していないもののほうが怖いのかもしれないとよく思います。
 秩子さん、市販の牛乳の多飲は危険らしいです。本物の乳製品をたまに食べる分には、いいんじゃないか?と思っていますが本物の乳製品というものが手に入るのは、一部の金持ちか、愛ある酪農家くらいじゃないでしょうか?

 毎年必ず学校から何回か配られる牛乳を飲もう、というチラシや下敷きやファイルなどをみると、無性に腹が立ちます。助成金だか、補助金だか使って、こんなもの配るな!と思っています。
 配ったらお金が出ると聞きましたが、それって、おかしいですよね。 あと、学校の家庭科、栄養の話などを指導するときは、「この説は一部です。」というように謙虚な表現にしといてほしいです。主張するなら「このほかに、このように、さまざまな説があります。」と他の考え方も紹介するべきじゃないの?と思います。子どもに「肉も魚も入ってない料理なんて栄養が足りなくなるじゃないか!」と文句を言われますが、困ってます。




母隆子死去に伴い、年賀は、欠礼します

                      2008,12

 今年のお正月ごろから、食欲がなくなり3月には、「いつ逝ってもおかしくない状態だから、家族の方々に連絡を」とグループホームの管理者に言われ、私の弟たち、子どもたち全員45月にお別れに来てくれました。524日の3男乙水の結婚式(南魚沼市出身初のつれあいで、東京の聾学校の教員)を待って、11日間のこん睡状態ののち翌日朝、88年の命を閉じました。結婚式に参列した親せきがそのまま母の葬式に合流、母がそこまで見通してくれたのかとみなで感謝しています。9年間この地に来てともにすごし、私の中での母との和解ができて見送れたので、思い残すことはありませんでした。私が理事長を務める社会福祉法人桐鈴会のグループホームに併設された夢草堂というお寺で最期を共に過ごした皆さんや、親戚、私の友人などに見送られて最愛の夫の元へと旅立ちました。生前お世話になった皆さんに深く感謝しています。

 9月には、選挙近しと、長男が民主党公認で出ることになった新潟3区へ引っ越したものの、選挙がなくなったので帰ってきましたが、1011月の予定はほぼすべて返上しました。

 11月末に次女海映一家が浦佐に引っ越してきました。駅裏の一軒家を借りて住んでいますが、私が孫たち(0,4,6歳)の子守として使ってもらえそうです。昼食を海映と二人で取りながら、今までになく母娘の会話が弾んだりしています。海映は来年の春から法律事務所を開設することになるようですが、この9月に司法試験に合格した夫渡邉真一郎さんとそのうち合流することになるのかもしれません。

 長女萌実が去年北海道浦河町にある「ベテルの家」という精神障害者に開放された街を見学に行って知り合った工藤茂広さん(岩手在住)と結婚し、来年4月には工藤さんが札幌に引っ越して同居が始まります。今の職業とおなじ青少年自然の家の職を探すことになるでしょう。

 4男揺光も、3年前ビルマからタイへの難民問題で知り合ったスージンと来年2月にソウルで結婚式(スージンが、ソウルの人)と、我が家の子どもたちもすべてカップルになります。揺光のカレン族体験記、この春いよいよ出版されそうです。スージンは、国際大学(南魚沼市)をこの6月に卒業し、東京の難民支援NGOに職を得ました。揺光は、毎日新聞社尾道通信部です。

 3女帆姿は、はじめてのお産を助産院で、二人目は自宅で行い、すっかり助産師にはまり込んでしまいました。この3月に仕事をやめて、社会人枠での看護学校に来年4月から入学し、助産師を目指します。

 選挙がいつなのかわからないのが、個人的には困りますが、日本の情勢を考えると、ますます政権交代の可能性が強くなりそうですね。アメリカに習いたいものです。

   949−7302新潟県南魚沼市浦佐5428 黒 岩 秩 子(ちづこ)

   c-kuroiwa@mqc.biglobe.ne.jp http://www5f.biglobe.ne.jp/~chizuko/ 




[ヤスクニ]を見た
           2008,6,29    十日町映画館

 6月29日、友人の岡元真弓さんが、十日町に作った映画館で、[ヤスクニ]を見てきました。いやいやすさまじいものでした。はじめのうちこそ神社側の意見ばかりだなあと思ってみていると、いきなり「小泉首相の靖国参拝ハンターイ」と二人の若者が後先かまわず熱狂的な集会に向かって叫びだす。それを袋叩きにする熱狂的愛国者。「中国へ帰れ」とその若者に言い続ける日本人。どう見ても、中国人とは思えない若者だが、中国人と決めてしまいたいのだろう。そのうちその若者は、顔が血だらけになってしまう。「日本の軍国主義者が、アジアの人々にしたことに比べたら、こんなことは大したことではない。救急車なんか呼ばないでください」と言い続けるが、とうとうパトカー(かな?救急車かな?)に乗せられてしまった。

 最後に日本刀を作り続けているおじいさんとの会話。「僕は、小泉さんと同じ考えだ。国の為に亡くなった御霊にお参りするのは当然。そうして戦争に反対する。」とおじいさんは言う。何?  監督は、おじいさんに聞かれても答えることはしない。

 相当迫力のあるドキュメンタリーだった。


秋葉原事件に思う

 たかひろのml(メーリングリスト)にこんな投稿がありました。太田将勝さんからです。
――――――――――――――――――――――――
 ご尊母・北大路隆子様に初めてお眼にかかったのは、9年前の7月、隆子様が浦佐に移られた直後のことでした。秩子さんが、私のことを、「目黒の家のご近所の岡崎勝男さん(昭和30年頃の外務大臣)の縁の方」と紹介してくださったからか、二三のご質問を受けました。シャープで少しとぼけた風のある面白いお方という印象を受けました。
 ご尊母は初対面の私に官立女子高等師範附属女学校受験の失敗の話をされました。最難関の府立高女に合格されているのだからそれでよかったのでは、と申し上げましたが聞き入れられず、「でも悔しい」とむきになって仰言るのでした。70年前の受験のことをよくご記憶で、「女高師附属の銀のバックルを締めたかった」と大真面目に言れわるのには、些か驚きましたが、学業に関して「質」と「形式」にこだわるお考えは徹底しており、学校や学問などどうでもよかろうと考えていたヤクザな私には驚きでした。
――――――――――――――――――――――――
 太田さん、ありがとうございました。母と気が合っていたようですね。お茶の水大学付属の女学校にはよほどいってみたかったようで、私の同級生が、そこに入ることになった時、その人から、制服を借りてきて自分で着て、外を歩いていました。夜とはいえ、セーラー服の上にバックルがついたベルトを締めるというスタイルに憧れていたのでしょう。当時、35歳でした。

 6月7日の秋葉原事件、実は、母のそういう学歴信仰と無関係ではないような気がしています。たまたま、うちの町でも同じようなことが起こっているということを最近聞きました。30歳代前半の若者ですが、人の目を盗んでは、鉄パイプで、近所の家の車を破壊するということを繰り返し、すでに5台の車が被害を受けているとのこと。この男性は、小、中学校では、授業についていくのが困難だった、軽度の知的障害を持っていました。卒業後、大工の見習いをしていたけど続かず、家にいたので、同級生たちが、帰省してくると電話をかけて、みんなで集まっては、楽しく過ごすということをしていました。その同級生たちが、結婚して家庭をもつようになってから、きっと彼の人生が、曲がっていったのでしょう。

 同じ部落に、もう一人同じような軽度の知的障害者で、暴力が威力を持つことを小学校で体験して以来、そこここで、暴力事件を起こし、最近では、父親の六骨を折ってしまい、両親が家を出てアパート暮らしを始め、彼はひとりで生活しているとのこと、20歳代後半です。親だけでなく、親しくなるとすぐに暴力が出てしまうので、いろいろなところから出入り禁止されているとのこと。こういう人たちが、どうしたら、地域で暮らしていけるのかそのサポートをするのが、障害者自立支援ということなのだと考えて、活動報告でご紹介した南魚沼市の自立支援協議会を活用していこうと考えているところです。どんなことが可能なのでしょうか?


グループホームの職員と家族の違い
               2008,4
 2年前にも、私の母北大路隆子は、心筋梗塞で三途の川を渡りかけたのですが、戻ってきた体験があります。その時から、心臓の具合は良くなかったようで、今年の初めごろから食欲が落ちてきていて、4月初めに風邪をひいたら、また三途の川に近づいて行きました。私は10日間、母の住んでいるグループホームに住みつき、3日は夜も泊まり込んで、看病しました。その中で、いろいろと感じるところがありました。

 その中で顕著なものは、母は、私が「立って」と声をかけると「出来ない」といい、そこへ来た職員に同じことを言われるとすっくと立ち上がってしまうのです。車いすに乗ったり、ポータブルトイレに座ったりするときです。初めは私が、下手だからかと思っていろいろと工夫をしてみていたのですが、どうやら、私には甘えられると思うようなのです。これは、保育所と同じなんだと思いました。子どもの親たちがよく言いました。「そんな長いこと歩くなんて、保母さんとだからです。私とだったら絶対おんぶと言ってきます」そうなのです。家族には甘えて、職員にはいいところを見せる。子どもも、お年寄りも同じなんですね。それでどうやら、甘えられる家族も必要だし、ちょっといいとこを見せなくてはならない職員も必要なんですね。

 そこで、私は、こんな結論を得ました。認知症のお年寄りにとっては、家族介護と、公的介護、両方が必要だということ。
 グループホームは家庭だといわれています。でも、入居者にとって、職員と家族は違うらしいのです。泊まり込んだある夜中、目が覚めた母は、私を認識することができず、「どなた様?」となり、「秩子よ」といっても違うといいとおしたことがありました。その時には、「お願いします」とか、「ありがとうございます」とかいうのです。普段決して私には言わない言葉が出てくるのです。家族と職員とはきちんと分けているのだなと認識しました。
 そんな母が、もしわたしとだけ生活をしていたら、きっとすべての能力が、急速におとろえたのではないでしょうか?他人さまの中にいて、少し無理をして能力を使う。そのことによって残存能力を、衰えさせないでおける。だから、甘えられる家族と、他人である職員の存在と、療法が必要なのだという結論を得たのでした。

 なんとか、三途の川を引き返してきたようで、点滴もなくなることになりました。ご心配ありがとうございました。しかし、私は、5月中旬のローマ行きも、連休の尾道行き(揺光の新任地が尾道通信部)もキャンセルしました。こんな状態の母を置いていくに忍びなかったのです。私がいることで安心している様子なので、もう少し付き合ってみようということにしました。


不登校半減プロジェクトin新潟市について、市長への手紙です。

新潟市長 篠田昭さま
 市のHPへ投稿したことがある不登校半減プロジェクトについて、少し御耳をお貸しください。
学校が変わることによって生徒たちが、学校に戻ってくる、という形で不登校が半減するならば、何も問題はないと考えています。だけど、つい先日(2月6日から9日)、毎日新聞新潟版で、「不登校と向き合う」が3回シリーズで連載されました。これを読む限り、そうではなく、子どもに働きかけて、半減しようという従来通りの方法しか考えられていないようです。
 不登校は、自殺予防の一番の方法だということを文科省は知っているはずです。いじめなどで自殺する生徒たちは、自殺当日まで学校に行き続けたり、前日まで登校を続けたりしている場合が圧倒的です。それは、彼らに自殺か、登校か、という二つの選択肢しかないと思わせてしまっているからでしょう。そこに、不登校という選択肢加えることができれば、命だけは助かります。かつて、広島県の教育長に文部省から出向していた寺脇研さんが、広島の子どもたちに次のような手紙を持たせました。「一番大切なのは、あなたの命です。命が脅かされてまで学校に行き続ける必要はありません」不登校は命を守る一つの方法であるということをよく知っていたからこその言葉でした。「命捨てるな学校捨てろ」さだまさしさんの言葉です。
 世の中では、そして、学校の中でも不登校は悪いことだと考えられています。そのことが、多くの子どもたちを追い詰めていると思えてなりません。不登校半減、という考え方自体、不登校は悪いこと、というイデオロギーを流布します。学校の中はすでに、「不登校=悪」という空気が充満しています。そこへ火を点火するかのように追い打ちをかけます。
 私が主宰していた大地塾に来ていた子どもたちの成長ぶりは目覚ましいものがあります。中学、高校と行かなかった子どもたちが、大検を取って大学に進み、順調に進んだ子どもたちには到底かけないような卒論を書いたりしています。大学へ行く道を選ばず、仕事に就いている人たちもあります。自分自身の体が発する危険信号をきちんと受け止めて、命を大切に生きていく、そんな選択肢を残すためにも、「不登校半減」を取りやめてくださるよう新潟市長にお願いします
             2008,2,18
                 大地塾主宰 社会福祉法人理事長
                         黒岩秩子


選挙と相性のいい「失業」

                             2,007,6   

 石田正三さん(宇洋の中高の同期)が、6月初めから新潟事務所の二階に泊まり込んで、電話かけに、街宣に、大活躍しています。石田さんは、一時秘書をやってくれていて、家庭の事情でやめ、企業に勤めているのですが、ちょうど、今が、観光の暇な時期なので、休みを取ってやってきてくれました。ありがとう。正三さん。

事務所の二階は、今は4人のすみかです。政策秘書の松村さん、旧大和町の藤田君(34歳)、川口町長選に15票差で敗れたという体験を持つ佐藤伸広さん(40歳)。彼は、先日就職試験を受けました。受かったらいなくなってしまうので、ひそかに受かりませんようにと祈っていました。神に意が通じて、不合格。長岡市の臨時職員の入試だったそうで、長岡市在住というのが、第一条件だったそうです。ヤッター!おかげさまで、佐藤さんは、街宣計画担当で、大活躍です。

 選挙と失業は縁が深いのですよね。5年前の選挙の時に、三女帆姿の夫慶君が、失業したというので、みんな大喜び。早速宇洋の運転手になってもらいました。そうして、毎日宇洋と一緒に時を過ごし、京都精華大のマンガ科を卒業した彼は、宇洋の似顔絵を素晴らしく上手に書き、その上、仮設トイレの壁に真紀子さんのスカートを踏む小泉首相のイラストを描いて、マスコミに取り上げられ、一時は、観光地化していたくらいでした。選挙後にそれらの絵を持って、就職試験を受けに行き、合格!選挙運動が、就職に結びついたのでした。今もその会社で、慶君はとっても重宝がられて、昇進しているそうです。 
 佐藤さんも、選挙後に素晴らしい就職が待っているかもね。


不登校は命を守る一つの方法
                   2,006,10  自殺に連鎖に思う

 いじめられているということを子どもから訴えられたり、それらしいと気がついたら、「学校を休みなさい」ということ。これが一番の自殺予防策だと思います。
 自殺する子にとって、学校に行かないという選択は、考えられないようなのです。それは、日頃から、子どもたちの間で「不登校は悪いこと」という価値観に支配されているからでしょう。地方自治体によっては、「不登校半減プロジェクト」なんていうものを作っているところがあるので、子どもたちにそう思われても仕方が無いでしょう。未だに不登校は、いけないこと、減らすべきことと考えている役人がいるということに驚かされます。
 かつて、文部省から広島の教育長に出向していた寺脇研さんが広島中の小中高生に手紙を出しました。「一番大切なのは、あなたの命です。命が脅かされてまで、学校に行く必要はありません」不登校は最大の自殺予防策であることを文部省はよく知っていたのです。
 不登校の世界というのが、学校に行っている子どもにとっては「地獄に落ちる」というぐらい恐ろしいことらしいのですが、家族や周りがそれをサポートすることができるかどうかにかかっていると思います。とにかく学校を休むことによって、命だけは助かることが多い。ゆっくり休んで、本人の元気が出るのを待つ、というのが、一番だと考えています。
 いじめる側は、対象がなくなると、別の対象を探します。だから、総量としてのいじめはなくなりません。いじめなくてはいられない心があるとしたら、それを暖め尽くしていく、これが一番難しいことなのではないでしょうか?「生きていてくれるだけでいい」という無償の「愛」をどうしたら子どもたちに届けられるのか、それが問題です。
 大人たちの中にある常識的な価値観が、子どもたちを痛めつけています。学校は行くべきところ、勉強しなかったら大人になって困る、人をいじめてはいけない、実は、そういうことは、子どもたちは知っている。その上で悩んでいるのですから、後はひたすら「聴く」ことに徹して欲しいと訴えているのを受け止められるのか?それこそが鍵でしょう。


富士山の小屋に望む

小学生二人の孫と夫と娘の5人で8月12日に富士登山を試みました。富士宮口5合目から登りはじめ、6合目を過ぎたあたりから、少し空が曇り始め、後20分ぐらいで新7合目小屋、というとき、突然雷雨が襲来。そしてすぐにヒョウがたたきつけ始めました。ずぶぬれになりながら雨具をつけ、すぐそこの小屋までと小1の孫を励ましながら雷雨とヒョウの中を登ります。雨具などなんのその、びっしょびしょになって、寒さに震えながらやっと小屋に着くと外に雨具を着けたたくさんの人が立っています。混み合っていて入れないのかと、中を覗くと、閑散としています。あら?どうして外にみんな立っているのか?いぶかっていると、小屋の人らしき人が、「何か注文はありますか?」と、拒否態勢での応対です。見ると、座っている人は、注文したミルクを飲んでいます。「宿泊です」というや、態度ががらりと変わりました。外に立っていた人たちは、注文をしないで休もうとしていたということが判明。人命救助という役割もあるはずの山小屋が、こんな対応でいいのか?などと思いはじめたのは、すべてが完了してからのこと。
 ずぶぬれの衣類を着替えている間も、屋根をヒョウがたたいていました。その後の新聞記事によると2時半から3時まで30分間降り続き7合目から上には、ヒョウが積もっていたとのこと。外国人もたくさん登っていました。日本を象徴する富士山の山小屋が、こんな状態であるのは、少々恥ずかしい思いも残りました。
                          (9月9日、朝日「声」掲載)


男の育児休暇と育児保険

 9月3日付の社説で、朝日が、男の育休、を取り上げ、「一週間でもいいから」と呼びかけています。
その中にこういう下りがあります。
「よく取り上げられるのが、男性の育児休業取得率だ。05年度で0・50%。統計をとり始めた93年度は0・02%だから、増えてきたとはいえるが、国が目標としている10%にははるかに及ばない。
 数字が低いのは、妻が専業主婦だと育休はとれないという誤解が広まっているせいもある。産後8週間までは「母親は十分な育児をできない」として、父親は育休をとることが出来るのだ。1週間でもいい。 」

 この産後8週間までは、職業を持っていない母の配偶者は、育休が取れるということを知らなかったので、厚労省に電話して聞いて見ました。(皆さんも、知らないことは、何でも、官庁に問い合わせると実に親切に教えてくれますよ。名乗る必要もないんですよ。法令に関することならばっちりです。原発事故のことはだめですが・・・・。)すると、育児休業・介護休業施行規則の中に書いてあるのでした。このことを知っていれば、夫に育休をとってといいやすくなりますね。

 それから、野田聖子がHPで育児保険のことを書いています。かなり積極的にこの保険を取り入れようという提案です。これは、杉山千佳さん(次世代育成のMLの管理者。この方面のリーダーです)が提案していることと同じです。私も、それに賛成。
 このHPとっても興味深いことがでていますよ。戦後、なんとかして少子化社会にしようと努力し、1966年丙午の年に1,57まで下がってみんなが感動し「日本人は優秀である」などといわれていた。にもかかわらず、丙午伝説を信じているところが日本人の文化とは?と不思議がられているようです。

 実は、私のはじめての出産はこの丙午の年でした。そのおかげで、双子の二人は、入学、就職と楽ができてありがたかったようです。
 http://www.noda-seiko.gr.jp


女性団体連絡会への呼びかけとその後
                         2006,08,19

 あるMLに私が投げかけた女性団体連絡会について、かなり皆さんが関心を持たれていて、たくさんの反響がありました。

 ココで、私が呼びかけたものと、その後の反響への投稿を紹介します。

 7月に女性問題の視察研修に13人でニュージーランドに行ってきました。そのことはHPの活動報告にアップしました。いちばん切実に思ったことは、日本にも、女性団体の連絡会を作る必要があるということでした。NZでは、女性参政権獲得運動でリーダーシップを発揮したケイトシェパードさんが作った女性協議会と言うところがその機能を果たしていて、小選挙区だけだった選挙制度を比例併用制に変えるときには、3年間それに没頭したのだそうです。それで結果が得られるところが凄いと思いました。日本でも、多くの方がその必要性を感じておられると思います。どうですか?

この後たくさんの反響があって、それへの返事です。
  
 お返事くださった皆さん、個メールを下さった皆さん、そして、このことに関心を持って見守ってくださっているたくさんの皆さん。皆さんがこのことをなんとかしようと思っておられることがわかって、私は、とっても励まされました。私自身どんな団体があるのかよく知らないし、どんな方々が活躍されておられるのかもよく知りません。だから、とにかくリサーチをしてみようと思っています。

 これからいろいろな方とあって、話し合っていこうと取り組みを開始しているところです。


収入のある仕事、収入のない仕事
                       2006,6,30   旭川にて

 29日に札幌に行き、翌30日林真未さんに会いに旭川までいきました。主に、彼女と女性の問題を話したいと思っていました。彼女は、大学時代の同級生と結婚して、専業主婦として分業で生活することを選んだのでした。その中で3人の子どもを育てながら、カナダの大学のファミリーライフエデュケーションを通信教育で専攻し、日本で初めての資格をとってきて、さまざまな地域活動にその資格を生かしているという方です。そもそも私が彼女と知り合ったのは、1995年にはじめて国政に比例区で立候補し、新党さきがけが選挙費用をすべてだしてくれたので、皆さんからいただいたカンパは、選挙後のレポートつくりとその発送に使えたのです。そこで、カンパのある限り手元にある名簿に報告を送り続け(確か4回)たのですが、それに対してお返事を下さった稀有な方だった。以来、私のミニコミ「大地」の読者として色々な反響をいただいてきたという仲です。

 今日本の女性の多くは、学生でいる限り女性として差別されたと言う意識はない。社会にでてみて会社の中で、差別の実態に触れて驚いた、という人が多いようですが、真未さんはフリーライターとして働いていたので、その実態にも触れたことがなく、「女に生まれて損したと思ったことがない」という点で、広田セツ子さんと同じです。

 専業主婦という方たちとの付き合いは、こちらにいるとなかなかありません。私の意識では、「都会に存在する人種」なんです。昔東京に行くとウィークデーの昼間若い女性が子どもと歩いている光景を不思議な感じで見ていたことをおもいだします。

 しかし、女性というとき、収入を得ている人いない人すべてを包含して考えていくべきことですよね。そうすると私にとっては、経験できなかった真未さん、セツ子さんの体験は貴重ということになります。しばらく話し込んでから真未さんがいいました。「収入を得ている人が関心の対象なのね」確かに21世紀職業財団は、収入を得ている人だけを対象にしています。「家にいて、経済的に苦しくて、手作りでカバーしている人もたくさんよ」とも。子どもが小さい時は、人生の中でとても貴重だから、子どもと生活することを選ぶという人たち、実は、地域というのは、かなりそういう人たちによって支えられているんですよね。私も、子どもが小さかった頃そういう友人たちに支えてもらってきました。

 おりしも、真未さんの夫君は東京への転勤が決まり、真未さんは、旭川にしばらく残るということで、社宅から出て住むアパートを探していました。そこへ夫君からの連絡。中学生をもっている場合には単身赴任ということで、社宅はそのまま使っていい、更に単身赴任手当てが出る。との朗報が。大企業では、ここまでファミリーフレンドリーになってきているのですね。

 収入のある女性とない女性とでは利害が対立することがあります。例えば、年金の問題。これはすでに議論交わされています。保育料の問題もあります。保育所には、かなりの税金が投入されているのに、それに見合うけの税金が、専業主婦の子育てには投入されていない。スウェーデンでは、家で親が見ていても、保育料みたなものがもらえるのだそうです。そんな流れから、今の子育て支援、のプログラムになってきたのでしょう。叉、保一元の子ども園なども、そちらに向けての取り組みでしょう。働いている親の子どもしか保育園にいかれないとうことをなんとかしなくてはいけないでしょうね。女性全体の問題として、保育の問題は大きなテーマです。勿論性にとってもですが。

 ところで、男と女の決定的な違いは、出産が可能かどうかです。この出産というものが、個別企業にとって、得にならないと考えられていて、そのために同じ職員を採るなら産休がいらない男を採ったほうが得、というのが、一般的なのでしょう。ところが、出産のあと、子どもと付き合うということは、コミュニケーション能力が大きい必要があり、その開発ということを考えたら、子どもと付き合うことに勝る方法は考えられないといっていいくらいだと思います。これについて、5人の子持ちで「趣味はお産、特技は安産」だという大葉ナナコさんによれば、「産休育休は、内地留学」と考えようというのです。これは実にすばらしいアイデアだと思うのです。これを宣伝しながら、産休育休は、勤続年数に加算するということを認めてもらうよう働きかけていかなくては、と考え始めました。産休も、育休も勤続年数に入らないところが多く、その結果、子どもを産めば産むほど退職金は少なくなるということを発見したのです!


放火殺人、16歳の少年に思う。  2006,6,25

 奈良の放火殺人事件を起こした16歳の少年の心を思うと胸が痛くなります。両親が離婚して以来、父親の再婚も経過する中で、どれだけの「演技」をしてきたことでしょう。成績もよく、スポーツマンで、明るく、周りを笑わせて・・・どれだけの神経を集中して演技してきたことか!
「もうこんな演技やってられない」というのが、今回の彼の行動だった
のでしょう。後先も考えずに飛び出して、人のうちで眠り込んでしまう。いかにも16歳です。

 それでも、一番お父さんに訴えたかった彼の思いは伝わるのでしょうか?「お父さん、この僕の努力をわかって!」そう叫びたかったのでは?お父さんにとって大切なものをなくする、という形を取って訴えてしまった彼。こんな形では、何もリセットできないこともわかってしまったでしょうね。

 実は、知り合いの医者の子どもさんがすでに二人自殺しています。どちらもお父さんとも、お母さんとも親しい関係で、一人の場合には相談もされていて、これから様々な取り組みをしようとしていたときになくなってしまったのでした。こちらは、お母さんが医者です。親の一人が医者だというだけで、かなりの圧力がかかっていたはずです。今回の少年は両親が医者、その上に厳しい勉強が課せられていたのですから、どんなにか大変だったことでしょう。うちの次男のところでも、両親が医者、孫たちへの圧力を最小限にしたいと常に考えています。

 毎日新聞奈良支局にいる揺光が、どんな取材活動をしているのか、少年の心の叫びをつかんで欲しいと思いつつ・・・


「遺言は愛のメッセージ」
                 2006,6,3  於、浦佐普光寺

 6月3日は、医療の心を考える会、という卓夫が主催する会のイベントとぶつかっていました。両方にかかわってきた人たちが、二つに分かれて参加、私は、男女共同参画会議が終わってから浦佐の普光寺にいきました。6時からの懇親会で、公証役場に勤務されていた方が、遺言について語ってくださり、弁護士に頼むと多額のお金を取られるけど、公証役場は、公務員なので、無料です。といわれました。

 そこで、私はいったのです。「私が死んだ後は、皆さんにお任せします」とおもっている人は、遺言を書かない。ほっておけば、自分の考えているようにはならないとおもっている人が遺言を書く。以前知り合いの人が、遺言を書いて亡くなったのだけど、その遺族はこう言いました。『生きている間は、言いたい放題自分のわがままを通してきたんだから、死んだときぐらい人の言うことを聞きなさい』ということで、その遺言は守られなかったのです。このときの遺言は、確か、骨を粉にして、海に播いて、というようなことだったと思います。この遺言は、ただ書いただけなので、このような結末になりました。弁護士が、多額のお金をとるのは、本来ならそうはならないことを、その人がなくなった後執行するので、それの費用なのだということです。それで、普通30万、だと聞きました。という話をしたのを受けて、この公証役場に勤めておられた和田さんはこう言ったのです。

 「遺言というのは、母から子への愛のメッセージなんです。子どもの中にしょうがい児がいるような場合、均等に遺産を分けるのではなく、その子に全部あげると言うようなことがあります」それを聞いて、私も、遺言に愛のメッセージが託せるか、これから考えていこうと思いました。

 ただ、最後に、和田さんはこういわれました。「公証人は、代行権はあるけど、執行権はありません」と。


中山素平さん、ご逝去に寄せて       2005,11,19

 中山素平さんが19日に99歳で亡くなりました。

 彼は、この町にある国際大学の創設者と言っていい方だと思います。国際大学ができた頃(1982年)彼は、臨時教育審議会の委員もしていました。地域の人たちの教育要求が聞きたいから、一緒に夕食をとりながら話し合いたい、と卓夫に人集めを頼みました。我が家に集まっている仲間たちを誘って、そこに参加したときから彼の頭の柔軟性を知りました。

 夫が町長選挙に出たとき、2回とも、陰に回って支援してくれ、私が東京で選挙に出たとき、六本木の国際大学のオフィスを訪ねると、「あなたのご主人が、大和病院を建ててくれたので、医療で安心できるからあの町に大学を建てたのです。職員や、学生が大変お世話になりました。だからあなたたちを支援するのです」といって、全く個人的にリーフレットに自分の名前を出していい、といってくださったのでした。

 当時95歳だった高齢者でしたが、耳が少し遠いだけで、実にしっかりとした話しかたで、いろいろなことを言ってくださいました。私は彼の支援がとってもうれしくて、リーフに名前を載せたいといったのですが、選挙の責任者は、興銀なんていうだけで汚れたイメージになるということで、名前を出せずに終わりました。ところが、選挙中盤で、国際大学の副学長が、選挙事務所に「中山の名前が入っているリーフをいただきにきました」!!!
 早速六本木に行って、謝りに謝ったことでした。

 今でも、このことを思い出すと体が火照ってきます。彼の名前が載った私のリーフは、私の想像の世界で、ますます輝いてきています。

 国際大学主催のお別れ会が、近々あるそうなので、参加できたらとおもっているところです。


ベアテの贈りもの上映会  
             新潟ジェンダー研究会会報NO4への投稿

「1945年のクリスマス」(柏書房)というベアテ・シロタさんの自伝によって詳しく紹介された日本国憲法誕生の秘密。これは、日本人、特に女性たちに大変な衝撃を与えた。ピアニストの父レオ・シロタが、ユダヤ人としてナチからの迫害を逃れて東京に移住したために、ベアテさんは、5歳から15歳までの多感な青年期を東京で過ごし、日本女性の人権のなさをつぶさに見た。15歳でアメリカのカレッジに進学した後日米開戦で両親と音信不通に。戦後なんとかして日本に来ようと考えたベアテさんは、22歳でGHQの職員となった。1945年のクリスマスに来日してすぐ、日本国憲法の起草に当たったベアテさんは、女性の人権を草案の中にたくさん盛り込んだ。しかし細かいことは民法で、と押し切られ、男女平等にかかわる条文(14,24条)のみが残っている。(そのときベアテさんが憲法に書き込んでいて削られた多くの条文は、未だに民法に入れられていない。)

 そのベアテさんからの贈り物を日本の女性たちはどのようにして実質的に活用してきたのか、その女性たちの姿を映像化したのが、このドキュメンタリーだ。

・製作にかかわった私 
私は、2003年の都知事選挙以来1年半、念願の一人暮らしを東京で楽しんだ。そのとき、赤松さんから誘われて女性の力でこの映画を完成させたい、厚労省男女雇用均等・児童家庭局長から資生堂へ職場を変えた岩田喜美枝さんの退職金がかなりの額投入されていると聞き、青年劇場で「真珠の首飾り」(ジェームス三木監督のベアテさんの自伝劇)の観劇の際ベアテさんのお人柄にも触れることができ、それなら私もできるだけの協力をと資金提供をした。去年新潟の家に帰ってくるとき、この上映会を是非新潟で、という思いを胸に秘めた。でも、魚沼地域では無理だろうと考えて、今春新潟市の女性たちに声をかけると「ちょうど、私達も上映会を考えていたので一緒にしましょう」ということになり、新潟女性会議、新潟北京ジャックの代表の方と3人で、実行委員会を呼びかけた。会場であるユニゾンプラザの都合が、すでに9月24日(土)しかあいていないということで、日取りは決まってしまった。

 その後、魚沼市の人から上映会を呼びかけられ、それは私にはとってもうれしいことだった。早速実行委員会を呼びかけて、9月17日(土)に魚沼市の小出郷文化会館で午後と夜の2回の上映が決まった。ユニゾンも、2回の上映で、どちらも大人800円、学生500円。
さて、このチケット売りが魚沼ではなかなか大変。新潟市では、以前ベアテさん来日時にベアテさんの講演会を聞いたことがあるという人もあり、話はすぐに通るのだが、魚沼ではまずはベアテさんの説明からはじめなくてはならない。朝日新聞が、それに関する丁寧な連載記事を書いてくれたとはいえ、魚沼地域で、朝日新聞をとっている人は実に少ない。地域によっては朝日新聞をとっているのは、赤だ、といわれるのでとっても取る勇気がないという。だから、戸別訪問をしながら、延々と日本国憲法の秘話をすることになる。それが叉、この魚沼地域で女性のおかれている状況を考えていただくことにもつながるだろうと期待を込めて。

・成功裡に終わった魚沼上映会 
そんな魚沼の地で、この映画の上映会ができるかと心配していたのだが、なんとか、成功裡に終えることができた。「成功裡」というのは何をさすのか、定義は難しいのだが、見てくださった方々のアンケートが、かなりたくさんあって、それら殆んどが、よかった、さらには、実行委員に上映を感謝するというのまであって、その日は、夜9時に二回目の上映が終わり、10時過ぎまで、実行委員は余韻を楽しんでいた。

 この映画は、81歳のベアテさんが、日本で講演会をしている姿が全体を通じて流れていて、ベアテさんのお父さんレオシロタが音楽家として世界に認められ、結婚、ベアテの誕生、そして来日、それらが、世界史をバックに語られ、世界大戦(レオシロタの弟はアウシュビッツで消えた)、日本の敗戦、が映像をもって迫ってくる。その中で、憲法草案に男女平等、同一労働同一賃金にいたるまで書き込んだベアテさん。
 かなり熾烈なやり取りのあと、14条と24条にしか彼女の努力は稔らなかった。でもその贈りものを日本の女性たちがいかに育て、使ってきたのか、を何人かの女性たちの語りでつないでいく。語りの部分が長いために、中学生の何人かは、退屈して場外に出てしまったということもあったようだ。

 女性の権利というだけでなく、9条との絡みも含めて、女性のほうが、平和を希求するという点も強調されていた。はじめの挨拶をした上映実行委員長星優子さんも、このことに触れていた。ベアテさんからにじみ出てくる優しくて、楽しい人柄にもひきつけられたようで、ベアテさんも、9条をとても大切にして世界に誇れるもの、と映画の中でいっておられた。

・無料の託児 
チケットが500枚ぐらい売れていたのに、実際にみにきた人が300人(昼150、夜150)だったというのも驚きだった。(いつもは歩留まりが8掛けなのに、今回は6掛け)お寺が経営する小出保育園の園長が、28枚も買ってくれたというので、お礼の電話をかけたら、保育園の研修費で100枚買って、保護者にプレゼントする、と言うではないか。これは、実行委員をとても喜ばせた。
 アンケートに、「憲法を勉強したいと思った」と書かれた方があって、一人でもそういう方が出てきたということを成功と言ってもいいかなと思った。「出てくる女性たちが、みんな自信をもって堂々と発言している姿に勇気付けられた」というのも何人かあった。また、帰りがけに、「感動したから、夫と娘を、新潟会場に見にいかせます。」といって帰られた方があり、早速、24日の新潟会場のチケットを、お持ちすると約束した。

 ところで、この日は無料で保育を受け入れたので19年も保育士をしていた私は、保育の担当を引き受けた。去年試写会で見た上に、今回午前中に試写会で見て、午後、夜どちらも保育担当となり、久しぶりに幼児や、学童の子どもたちに遊んでもらうことができた。
 小出郷文化会館というのは、保育室がキチンと用意されているばかりではなく、親子室という部屋まである。それは、最近できた建物では当たり前になっているそうだが、20年前にできていることを考えると先見の明ありといえる。この会館を作るときに徹底して住民の意見を取り入れて作った新潟県ではそれなりに有名な会館なのだ。館長さんが大工さんと言うのも凄い。つまり、民間人なのだ。どんな事業にも、彼は自分でチケットを買って観覧している。
保育室でも、テレビを通して、ステージを見られるのだが、それでは、なかなか集中して見ることができないので、保育担当の方にも、会場に行ってみていただき、私ともう一人の実行委員と二人で、預かった。昼夜あわせて、7人の子どもが預けられた。小さい子どもを抱えたお母さんには、特に見てほしいと言う思いがあって、無料の託児をしたのだった。

・藤原監督の話
 9月24日の新潟上映会は、魚沼と違うのは、監督の藤原さんが30分話をしてくださったということだった。彼女は、子育てを終わらせて、47歳のときに監督に復帰し、長編映画を作り出したのは、63歳からで、73歳の今日までに5本の長編を作ったという。63歳という年齢は、緒方貞子さんが国連難民高等弁務官に赴任した年と同じ。これから年をとっていく私たちへの励ましになり、そのことを始めの挨拶とさせていただき、藤原さんのお話になった。
 彼女が初めて作った映画は、「杉の子達の50年」というもので、これは、学童疎開を取り上げ、10年前に新潟市でも上映会をしたのだそうだ。日本の近現代史の中で、何故日本があのような戦争に突き進んでいってしまったのか、を突き止めたくて、映画を作ってきた。ということだった。だから、今回も、ベアテさんがいう「日本国憲法そのものを、平和をもたらす国際貢献として、世界に売り出して」を強調しておられた。

 私が、藤原さんの映画と対面したのは、「ルイズその旅立ち」で、大杉栄と伊藤野枝の娘、伊藤ルイさんを描いたもの。大杉栄が、中学時代をすごしたという新発田で上映会があったのを見に行った時だった。そのとき、藤原さんもきてお話され、終わってから、東京に帰る彼女と、浦佐まで一緒で、色々おしゃべりしてきたのが、5〜6年前。今回藤原さんの話を聞きながら、以前の藤原さんとは別人のように感じてしまった。そう伝えると、「あの頃はまだ始めたばかりだったのですもの」が答えだった。確かに、何が変わったのかというと、一言で言うと「自信」ということになるのかもしれない。

 彼女の話で、印象にのこったのは、「映画ができて試写会を何回もしたのですが、それを見た男性が、一様に『全然知らなかった。女性たちがこんなことをしてきたって』といったことに驚きました」だった。朝日新聞で、「女の働き」というシリーズを企画して、この映画の宣伝をしてくださった早野透さんもその一人だったという。このシリーズは、今年の4月26日から始まり、16回まで連載されたのだが、1回と2回がこの映画ができるまでのいきさつ。だから魚沼でも、新潟でも、このコピーを参加者の皆さんに配ったのだった。

 実は、この日も、私の敬愛する間藤侑(すすむ)新潟青陵大学教授(教育心理)が、とっても感動した、全然知らなかった、学生たちに見せたい、と言って帰っていかれた。彼の想いが実現する日を気長に待ちたいと思う。この方のことは、私のはじめての著書、「おお子育て」に書いた。当時、新潟大学付属幼稚園長をしておられ、「能動的な子ども」というテーマで、私たち現場の保母達をリードしていた方。確か、数学科出身というのも、共通点だったと思う。
 この日、さすが、新潟市、と思ったのは、昼間の上映は、450席の会場が、満杯だったのに、夜は、150。小出では、昼と夜の人数が同じだったのに、夜が少ないのも、都会だからかと思った。ここらでは、土曜日でも、昼は仕事という人が、大半なのだから。

・ 収益金の使い道
貸し出し料は、10万、二回上映だと12万とかなり安い。でも、学校などで上映しようとすると予算がないという問題にぶつかる。長岡大手高校で上映したいけど予算がないため、来年に持ち越しということを聞き、制作委員会と交渉した結果、高校生など若い方には半額と言うことが認められた。そのため、今年度中に長岡大手高校での上映が実現することになった。
 収益が上がった場合には、上映実行委員会と、制作委員会と半々で分けるということが決まっていた。小出では、8万の収益が上がり、被災地支援ということではじめたので、半分の4万を、中越地震と、パキスタン地震に寄付することになった。
 新潟市の収益金の半分は、若い人たちに見てもらえるように、製作委員会が助成金として使う、という条件で、23万の全額を製作委員会に送った。

・上映会の成果
新潟市も、魚沼市も実行委員会のメンバーが親しく話せるようになったということは勿論だが、私には、思わぬ成果があがっていた。というのは、魚沼の友人で、「私は、女で損したと思ったことはない。夫は、給料を全部渡してくれて、自分は何にも使わない人だから、私の思うように使えるし、家族のことを考えて、なんでも自由にやってきた」という人がいた。この人が、夫と二人で上映会にきて、終わってからこういった。

「私たちってなんて狭い世界に生きてきたんだろうって二人で話し合って、興奮しちゃった」
実は、これって藤原監督の姿と重なる。彼女の育った家は、全く差別がないばかりか、戦争直後にお父さんがこういったのだそうだ。「これでやっと我が家も男女平等になる!」
そんな家庭で育ったことで、藤原さん自身全然被害者意識を持たなかったそうで、だから攻撃的になる必要がなく、そのことが、見た人たちに受け入れやすいのかもしれない、と言っておられた。そうなのかもしれない。赤松さんからジェンダーに関しては「オクテ」と言われてきた藤原さんだからこそできた「ベアテの贈りもの」だということが、改めて認識できた上映会だった。
被害者意識で凝り固まっていた自分の昔の姿と比べて、この二人のやわらかさの根源が突き止められた感じがした。


ピープルファースト全国大会in新潟に参加して
                           月刊雑誌WE、12月号

 私たちをしょうがい者としてではなく、人間としてみて欲しい。私たちはしょうがい者である前に同じ一人の人間です」こう訴える知的しょうがいのある人と支援者でつくる団体「ピープルファースト」の全国大会が、11月始め新潟市で開かれ、参加してきた。しょうがい者、なかんずく知的ハンディのある人は、成人しても子ども扱いされがち。進路や就職、福祉サービスの利用についても、自分の知らないところで家族や行政、学校や施設の職員に決められてきたことに対して、自分にかかわることは自分で決めたい、というプロテストとしての存在でもある。

 今回で10回目となるこの全国大会は、支援者に支えられながらも、司会進行等表に立つ所は、知的しょうがいを持つ本人たちで運営された。ゲストとしてしょうがい者自立支援法の説明にきた厚労省の専門官と対でやり取りし、役人を追い詰める場面もあった。オランダ、スウェーデンからきた仲間たちは、男性も女性も「結婚している」「子どもがいる」「恋人と一緒に暮らしている」と障害があっても地域で普通に生活していることが報告され、日本の仲間たちをうらやましがらせた。

 日本はといえば、札幌の知的しょうがい者施設の元入所者から「障害基礎年金を全額、施設に強制的に寄付させられたのは横領に当たる」と訴えていた訴訟の控訴審判決の報告があった。施設側の非は認定されたが、北海道の監督責任などは認められなかったという。だが、このように裁判に訴えてでも人間としての最低の生活保障を勝ち取ろうとする行動が始まっていることは確かだ。

 この大会が終わってから、ピープルファーストの大会実行委員会に参加した人たち4人が、東京までの中継点として、ここで1泊していった。二人がしょうがい者で、残りの二人が支援者。本人の一人は、言語障害はあるが、殆んど不自由なく生活している佐々木信行さん(32才)。もう一人の本人は、名古屋のグループホームに居て、5日後から自立すると言うかなり重度の脳性まひの安井慎一さん(30才)。コミュニケーションは、文字盤でしていて言葉では殆んど通じないのだが、いろいろな方法で意思を表現する。タバコが吸いたい、背中がいたい、トイレにいきたい、など介助者の方には通じていた。安井さんは、自分のいいたいことが通じないときに、暴れてしまうことがあって、そういうときにお仕置きとして、コロニー(施設)のショトステイに入れられてしまうのだという。それがいやで自立生活に踏み切ることにし、その日に上京して自立体験をしてから、5日後に名古屋のアパートに24時間介助付きで引っ越すという。安井さんが車に長時間乗れないために、ここで中休みを取ったのだった。

 安井さんは、文字盤を指差しながら、懸命に訴えてくれた。私がそこから汲み取ったのは、自立生活というものが、単なる憧れだとか、好奇心だとか言うものではなく、自分のままでいられるにはそれしかないものとして、24時間の介助付きでも、そうするしかないぎりぎりの選択だということだった。親といても、グループホームに居ても言葉が通じないという状況をなんとかしたいという思いで暴れてしまうことを受け入れてもらえず、お仕置きをして、直そうとされてしまう。そこから抜け出そうと思ったら、自分がお金を出して「雇う」という形で介助をお願いするしか、抜け道がないのだ。

 身体しょうがい者の場合には、それでもいろいろな表現方法をもっている場合が多い。でも知的しょうがいの場合、この表現手段が少ないということが、しょうがいそのものなので、更に、自立生活の必要性が高くなるということなのだろう。

 ピープルファーストという団体をつくって、日本社会に訴えていくことによってしか、人間として生きていくことができない、というのが、知的しょうがいを持つ人たちの現状だと納得せられた。


(「活動報告」にも関連文章を書いてます)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~chizuko/news-chizuko.htm


 吉澤好子さんの語りの世界    2005,9,20

 「想う事」知的障害者の更生施設における、「遮断」とは? 2005・04・10 「活動報告」アナン見学 2005,4,30 でご紹介した埼玉県の知的障害者更生施設「アナン」の理事長吉澤好子さんを訪ねました。というのは、今回は施設の見学ではなく、吉澤さんの「日本が好き」ということについてとことん伺って見たいと思ったからなのです。

 私自身は、小さいときからどこにいても生活しにくいという思いがあって、でも、こんな私でもアメリカや、ヨーロッパに行けば通用するぞ、という変な自信に支えられて過ごしてきました。思ったことがなんでも口に出る、それによって周りを傷つける、しっぺ返しを受ける。
今になってみれば、「そんなことをされれば、しっぺ返しが当然」ぐらいには、客観化できるのだけど・・・・。

 そんな私にとって、吉澤さんの「私は日本が好き」というのは、引っかかってしまう言葉でした。藤田省三の「維新の精神」を読み直してみると、吉澤さんに出会ってから、変わって来ている自分があって、以前のようにすっぽりと納得できない部分が感じられるのです。「西洋かぶれ」とさえ思ってしまうところがあって、これは、明治以来の日本の宿命でもあるのですが、理想型は「西洋」で、日本の問題をそこからの距離で測る癖がついてしまっているのではないかと感じられるようになって来たのです。

 吉澤さんに手紙を書いて、「そのことをとことん伺いたいから、ご都合がつくときにお邪魔させてください」と出したのは、まだ7月の頃だったと思います。やっと、この20日、都合をつけてくださって、丁度、お昼の時間にうかがうことになりました。

 吉澤さんを信頼して、他の施設から移ってきて住み込んでいるスタッフの方が用意してくださった手作りのものだけが並んでいる昼食をご馳走になって、話が進みました。そもそも吉澤さんは、知的障害者の方たちと生活をするために必要なお金を、料亭を自分でやって貯めたということはすでに聞いていましたが、なんとそのために7年間も栄養大学に通ったのだそうです。無口になって集中してどこも手を抜くことなく料理を作り、一人1万円というコースでお客を迎えていたということです。1000万円貯めて、自分の思うことを始めてからも資金が不足すると「1万円の夕食をどうでしょうか」といえば、昔の客たちがいくらでも来てくれたそうです。何回も来てくれる人に、決して同じものを出さないように、記帳をちゃんとしていたというのです。

 日本には、「秘すれば華」という文化がある、そういうのが好き、と言われて、正に私の対極にあるものと思いました。吉澤さんは、「維新の精神」を私の手紙を読んでから買ってきて読んだそうで、「頭から出てきたものではなく、体から出てきた言葉を藤田さんが評価しているということに私は、賛成なのです」といいます。「日本は江戸時代までは、ふかあく考えを進めていく人がたくさんいました。明治になってからは少なくなりましたね。」吉澤さんが好きな日本というものは、私たちが、生活している中で手で触れるような、「日本」ではなく、もっと心の中に深く潜んでいる精神生活の次元のことだということが、おぼろげにわかったというところです。

 私と対極にあるものでありながら(であるからこそ)、強く惹かれてしまう吉澤さんの語りでした。


「官と民の間」        2005,9,2

 官から民へ、という標語の元、構造改革が一定の進捗を見せています。そのことの結果が、日本もアメリカに近づいてきたといえるのではないでしょうか?ここで言うアメリカとは、格差社会のことです。今回のハリケーンの現場を見ていて、アメリカ社会の裏をしっかり見せてくれたのではないかしら?車がないために避難命令を実現できない人たち、その人たちが、略奪に走るということは想像できます。

 日本も確実に貧富の差が開きました。統計はそこらじゅうにたくさんありますね。

 私も、始めの頃は、「官から民へ」ということがいいことのように思っていたところがありましたが、最近はすっかり「転向」しています。私自身、公立の保育園に勤めていて、官の怠惰を見続けてきていたので、民になれば、そういうひどい所は淘汰されると考えていました。だから、以前保育園の民間委託が問題になったときに、民間でよくなることもあるのではと発言したことがありました。今では、これは、撤回します。恥ずかしい思いです。

 去年、ヨーロッパ5ヶ国を回ってきました。フランス、オランダ、スイス、ポーランド、オーストリア、すべての国が、鉄道は国営でした。バスまでが、公営の国もありました。日本の国鉄が民間委託されたとき、親切になって喜んだ一人です。フランスに住む友人から言われました。「親切と引き換えに安全を明渡した」そのときにはまだ納得していませんでした。今回のJR西の事件でそれが証明されてしまいました。

 ドイツで民営化したときのように、ただ民営化したら、郵便局がなくなってしまう地域が出てくるでしょう。先日、社民党政調会長の阿部知子さんが、「官と民の間」の必要性をテレビで話していました。そのとき、とっても納得がいったのです。民に任せっぱなしではなく、官が支えながら、民が運営するというやり方でなくては、過疎地での生活が成り立たないでしょう。税金が投入されるのは、障害を持っていて、働くことが困難な人たちや、過疎地で、交通が不便なところに住んでいる人たちなど、いつ自分がその運命になるかわからない、そういった生活上のハンデを補うのに使われるべきなのでしょう。

 これは、あくまで、郵便事業だけについて触れたつもりです。郵貯、簡保の問題は、ほぼ別な問題と考えていいのでは?これはこれでキチンと論じなくてはならないでしょう。

 これについて、たくさんの連立方程式を解く問題だとして、実に明快な論を展開しているmmが届きましたので、ご紹介しますね。山崎養世さんのものです。

     http://www.yamazaki-online.jp/

     E-mail: info@yamazaki-online.jp


レッサーパンダのテレビ番組   2005,7,3

 以前ねこみさんが紹介してくださったテレビ番組のビデオを織部さんから送っていただいて、今見ました。賞をとっただけの番組です。それならば、ちゃんと起きている時間に放映してくれてもいいと思うのだけど、夜中の3時から55分という時間帯でした。
 
 レッサーパンダ事件の裁判を傍聴した北海道文化放送の記者が、「この事件は防げたはず」と思ったところから始まります。始めに黒羽刑務所(栃木県、山本譲司著「獄窓記」参照、これについては、HP「感動した本」、2003,12,6))からでて来たsさんという27歳の男性の出所後の足取りから始まります。IQ(という言いかとそのものの問題は棚上げして)69以下という軽度知的障害者が、持ち金5000円で、鉄道を使って水戸(刑務所の人に行けといわれた)までいって戻ってきて、ホームレスとして生活していた栃木県内の公園のベンチに「居」を構えます。(と言っていいのかなあ?)

市役所の福祉課を尋ねると、住所がなくては生活保護はだめといわれて戻ってきてビールと酒を飲む。もう一度文化放送の人に励まされて市役所にいったら、アル中だということで、隣町の民間団体で、アル中の方たちの更生施設を紹介され、市役所の人とそこへ行きます。酒をやめたいという彼の意思から、やっと生活の場を得られたのでした。たまたまこの方の場合は、この文化放送の方がフォローしたので、何とか住む場所が見つかったわけだけど、刑務所の人は、ただここへ行って相談しなさいと教えるだけで、そこに行き着けるかどうかをフォローする人はいないのです。

 レッサーパンダ事件の山口君も、以前(想う事その1、2004,12、)お伝えしましたように、一家の大黒柱であるお母さんが亡くなってからは、刑務所暮らしが長く、でてくるとホームレスとして生きてきたわけです。彼がお母さんの次に親しみを感じてきた養護学校時代の担任の山元先生は、彼が卒業してから事件報道で始めて彼の消息を知ります。それから、彼の足取りを尋ねて、丁度去年11月26日、私が傍聴に行っていた東京地裁にたどり着きます。刑務所での報告書などがいかにずさんに書かれているのかも明らかにされました。

 黒羽刑務所の中の状況も見せてくれましたが、多くの受刑者は、そこにいるのが一番暮らし心地がよく、出所するときには、うれしさどころか不安だけといっていました。なんと受刑者の22%が障害者(知的、身体、精神、その他をあわせて)だというのです。その人たちが出て行っても、そのフォローは全くなく、正に放り出されるのですから、大変なものです。

 山本譲司さんが刑務所に入ったお陰で、このような実態もかなり明るみに出され、少しずつ改善されて行くのでしょうが、見たところ人とあまり変わらないような障害者の皆さんが、地域で普通に生きていける日は、いつくるのでしょうか?


6年前に作った社会福祉法人桐鈴会の会報 「桐鈴凛々」2005,6,1
  「多くの方の善意に支えられてきた桐鈴会」


 「桐鈴凛々」の装いが新たになりました。そのいきさつをお届けしますね。
H8年春、鈴木要吉さんから「土地と資金を提供するから社会福祉施設を作って欲しい」という要望が黒岩卓夫に出されたことからコトは始まりました。それまで20年ぐらい障害児者が地域で普通に暮らせるようにという地域活動を続けてきた「大和町共に育つ会」が集まってこの有難い申し出でについて検討を始めました。

 何の制度にもよらず、縛られることもない、どんな人でも何かができてもいいしできなくていい「夢のハウス」を作りたいと夢を膨らませました。しかしやっぱり社会福祉法人を作ってから色々広げていくということにしようということになり、それには、何かの施設を作らなくてはということになりました。県に問い合わせたら、この地域には、不足しているものはケアハウスしかないといわれ、私たちは、ケアハウスとは何物? というところから調べにかかりました。みんなでいくつかのケアハウスを見学に行き、それは、自立可能な老人(60歳以上)の食事つきアパートであることがわかりました。そんなものが、ここら辺で必要とされているのだろうか?アンケートを携えて近所を回りました。するとわかったことは、一人暮らし、二人暮しのお年寄りだけでなく、家族と一緒に暮らしている方の中にも、要望がたくさんあることがわかりました。

 「共に育つ会」のメンバーを中心に26人がお金を持ち寄って、社会福祉法人設立に向けて動き始めたのでした。そこで、ケアハウスの建設が決まり、建設費の半分が国、残りの半分が県、最後の残りが入居者負担です。その分を私たちが集めることになりました。個人から借りようということになり、地元の方や全国の知り合いの方々にお願いしたら、なんと70人もの方が寄付または貸し付け、という形で資金提供をしてくださいました。貸付の方の殆んどは無利子です。たったの2週間で必要経費が集まり、また丁度厚労省が景気浮揚策で公共事業前倒ししており、事務に携わった森山さんの夜を徹しての作業によって、予定より1年早く、翌年の開設が決まったのでした。

 鈴木さんからご寄付いただいた450坪の土地には、大きな桐の樹が5本立っていました。それを切り倒すので、一つには名前に「桐」を残そう、それから、建物の中にこの切り倒した桐を使おうということで、各部屋の引き戸と、表札に使うことになり、出来上がると皆さんから「温かみがあっていい」と喜んでいただくことになりました。叉、鈴木さんの鈴を、桐鈴会にも、鈴懸にもいただくことにしたのでした。1999年11月、30人の方が、30通りのドラマを伴って、入居されました。家族の中からこられた方が8人、夫婦が2組、男性は6人のみでした。何人かの方が、退去され、そのあといつも待機者の方が入居してこられて、一度も部屋を空けるということがなく来ています。それは、「終の棲家を目指す」と宣言したことにも寄りますが、職員の皆さんたちの献身的な努力の賜物でしょう。

 ゲストルームが、いつのまにかショートステイに利用されるようになり、介護保険適用外のショートステイの必要性が高いことがわかって、増築し、2床のショウトステイルームができあがりました。そのお陰で、若い夫婦とその子どもたちが必要に迫られて住んでいたこともあります。

 介護度がある方たちは、ヘルパーさんの助けを借りることになるので、始めのうちは外からヘルパーを頼んでいましたが、桐鈴会として鈴懸の中にヘルパーステーションを置いて臨応変に動こうということになり、鈴懸おはようヘルプがスタートしました。朝とか、夜とか本当に必要な時間に介助していただけるようになり、今では外にも出て行って活躍しています。この介助は、介護保険ですから、本人は一割負担です。

「終の棲家」を謳った鈴懸ですから、「あの時は、辞める寸前だった」と後に告白した職員もありました。昼も夜もなく数分おきに鳴るナースコール、自分の部屋がわからなくなってしまった方が、誰の部屋にも入ってしまうので、皆さん自分の部屋にかけてしまった鍵。とうとう違う施設を探してそちらに移っていただいたこともありました。そんな中から認知症対応のグループホームを作ろうという声があがって、2004年秋、「桐の花」が完成しました。鈴懸では、皆さんが個室で生活し、食事や、何かの行事があるときだけみんなで集まります。桐の花では、毎日昼間は居間で過ごす方が殆んどです。桐の花は介護保険の適用があり、個人負担は皆10万程度ですが、鈴懸は、建設費を月に2万ずつ返しているほか、食費、事務費などで、収入に応じて8万から15万を月に払います。

 桐の花建設に伴って、以前から黒岩卓夫が購入、解体していたお寺を移築しようということになったのですが、桐の花の一部として地域との交流の場にしよう、ということで、建物の一部として併設することになったのでした。これについての費用は、何人かの寄付によってわれました。

 このようにして、桐鈴会は、多くの皆さんの善意に支えられて活動を広げてきたのですが、皆さんからいろいろな疑問が届き、この「桐鈴凛々」も、三つのセクションに分けようというとになりました。ケアハウス「鈴懸」(おはようヘルプ、ショートステイを含む)、グループホーム「桐の花」、地域交流伝承館「夢草堂」とそれぞれページを分けてお届けすることにしました。



オランダ人たちの働き方。(2005,5,24〜28)

 活動報告に、オランダへ行ったことを報告したが、こちらでは、考えたことを報告する。
 揺光のユトレヒト大学移民学修士の卒業式に参列してくれたジェーン(60才)は、揺光がオランダのシーボルト会で知り合った、日本人の父とインドネシア人の母の混血で、30年ぐらい前にオランダに移民としてやってきた。彼女の孫ルーカス君(2才)はダウン症だというので、郊外にあるルーカス君のいっている保育園に連れて行ってもらった。ベビーシッターさんが電車の駅まで迎えに来て私たちも乗せてもらって、1時ごろ保育園につくと、多くの子どもたちはお昼ねだったが、何人かの子どもたちは外で遊んでいた。ルーカス君は、シッターさん(毎日送り迎えをしている)を見つけると駆け寄ってしっかりと抱きしめられて、胸に顔をうずめる。そのかわいいこと!ダウン症特有の面影があり、なんとも表情が豊かでかわいい。

 1歳半で歩き出したというので、ハンデは、軽い方だと思う。おばあちゃん(月に2回ぐらいお迎えをしている)にもしっかり甘えていた。彼には、言語治療のリハビリが、保育園に出張で施され、障害児ということでつけられているシッターさんへの費用もリハビリも、障害児であるための費用は、すべて税金で持つ。ただ、彼のいっている保育園は、普通の保育園なので、保育料は、普通の子どもと同じように収入に応じて払う。もっと重度の障害幼児は、その子達だけの保育園もあるそうで、そこに行けば保育料は税金だという。
 
 この国は、医療、年金、出産に伴う妊産婦への費用などすべて同じ保険でカバーされており、出産費用は、収入が高い人には補助なし、ルーカスの家は、両親で働いて高給のため、出産費用は出なかった。その後、彼らの家に行ったら、確かに経済的に恵まれていることがよくわかった。庭には、大きなトランポリン(250ユーロ)があって、4歳(姉)、7歳(兄)の二人が、ルーカスと一緒にトランポリンを楽しんでいた。3階建ての家は、かなり広く、ジェーンの娘スーザンには出会えなかったけど、その夫マタウスが勤めから帰ってきて、私たちを駅に運んでくれた。その途中聞いた話が興味深った。スーザンが働いていた会社は、福祉関係のところだったにもかかわらず、ルーカスが生まれたときに社長が「そういう子を持ったら働き続けるのは無理」といった。それにショックを受け、そこをやめたのだが、差別発言ということで、告訴し、勝訴判決を得たという。
 
 叉、マタウスは、ルーカスが生まれたのを契機に、家庭本位の生活ができる職場に変えたという。週4日働き、妻のスーザンは、週3日働く。これこそまさに、オランダのワークシェアリング。ここでは、時間当たりの賃金が、労働時間の違いによって変わらない、という法律ができていて、パートさんも、正職も差別されないからこそ実現しているものだ。お父さんのマタウスは、これから、自分で時間を自由にできる自営業にするつもりだと話していた。ルーカスが生まれる前の職場を外から見たが、大変な大企業という感じのどでかいビルだった。そこをやめて、小さいところに移ったのだろう。「感動ブック」で紹介した本「オランダモデル」に書いてあったことを地でいっている家族だった。

 移民としてやってきたジェーンは、とても住みやすいところで、満足しているという。娘婿マタウスの家庭重視の選択は、オランダでは、平均的なものらしく、専業主婦暮らしを続けてきた多くの女性たちも、週3日というようなパートとして働くスタイルに満足している人が多いという。オランダモデルといわれるこんな生活が、経済的にも活性化をもたらし、EUの中での経済の牽引力にもなっているという。

 均等待遇が叫ばれても、殆んど前進しない日本は、どこを押せば変化できるのだろうか?



知的障害者の更生施設における、「遮断」とは? 2005・04・10

 知的障害者の更生施設という看板であるにもかかわらず、9つのおうちに5人ぐらいずつ住んでいるアナン(埼玉県児玉郡児玉町)に対して、埼玉県の監察官は、「男女が夜、行き来できないように遮断せよ」との「指導」をした。「指定知的障害者更生施設等の設備及び運営に関する基準」(知的障害者福祉法に伴う政令)7条にある「居室は、男子用と女子用を別に設け、かつ、その間の通路は、夜間は通行ができないように遮断できるものであること」に基づくものだった

 施設における男女の問題は、施設解体のメインテーマともなりうるものだ。知障害者の本人組織「ピープルファースト」の会員は、国交省に対する公営住宅に障害者が単身で入居できるようにと交渉をしているとき、こう言った。「施設だけでなく、グループホームでさえ、男女がデイトしたことをもって懲罰が与えられている」。

 実際、重度の障害児を娘に持っている私の友人は「その基準のお陰で娘が守られている」という。レイプの被害者にしめる知的障害児者の割合は、かなり高いことはよく知られている。その被害にあわないように「遮断」されていると考えているらしい。

 だが一方、秋田県北秋田市にある総合福祉施設大野台の里では、20年も前から入居者同士が結婚して、施設内に夫婦棟が作られていた。(優生保護法下で、出産はできない状態にしてのことだったそうだが。)ここの施設では、「遮断」が問題になったことはなかったという。それだけ、管理が行き届いていたのかもしれないが、夫婦棟が作られるにいたるには、その前段階での恋愛が認められていたということなのだろう

 旧態依然の施設でさえ、夫婦棟ができる、ということがありうる。そこでは、「遮断」が意味を持たない世界が作り出せていたということなのか?女と男が、引かれあって恋愛をするというごく自然のことが、障害者であるがゆえに禁止されるということは、何を意味しているのだろうか?

 健常者といわれる私たちの子どもでも、ある一定の割合で障害を持つ子どもが生まれてくる。障害者同士の夫婦では、障害を持つ子どもの出生率はそれより高くなることは十分考えられる。そのことを持って、障害者同士の夫婦は子どもを産むべきではない、といいうるのだろうか?

 叉、生まれてきた子どもを育てるということについて、知的障害者の夫婦では子育てはできないと言ってしまえるのだろうか?私は、自分の子どもを知的障害者の子守りさんに預けていた。子どもはとってもその人になついて、その女性の両親も同居していたにもかかわらず、彼女以外の人に排泄の介助はさせなかったという。字が読めない人だったために、保育所の送り迎えが始まると持ち物を間違える、などのトラブルはあったものの、それは、親にとって不都合だっただけで、当の子どもには何の不都合もなかったはずだ。

 子どもを産む、育てる、という問題以外に、「遮断」の目的はあるのだろうか?障害者同士の恋愛は、施設職員の仕事を増やす、というような職員サイドの問題があるのかもしれない。しかし、施設を解体して、グループホームなどでの在宅が知的障害者の居場所になっていくという未来を考えるとき、そこでは、少なくとも、職員サイドから物を考えるのではなく、そこに住む知的障害者の皆さんの暮らしという立場で考えていくことが最低限必要なのではないだろうか?

 どんな障害を持っている人も、持っていないと思っている人も、好きな人ができたら、それが異性であろうとなかろうと、一緒に住みたいと思うのは、自然の成り行き。その結果、子どもが生まれることがあって、子どもを作ることにかかわった二人の大人が自分たちだけでは育てられない、という事態に立ち至ったら、そこへ手を出せる人たちが、ヘルパーであれ、身内であれ、手をだして両親をサポートし、子どもは社会が育てるという実践が出来たらいいのではないだろうか?

 グループホームの職員たちは、女性の入居者が、暴力的にセックスを強要されることから女性を守ることは勿論のこと、恋愛や、結婚についての相談に乗りながら、当事者たちの思いを大切にして、その生活をサポートすることが求められるのだと思う。

 そんな理想形態に向けて、今の所はとりあえず、この「遮断」という言葉をなくすことに向けて取り組みたいと考えている。 


性差について              2005・04・07

「男と女は違う」と言ってはいけないか?
 初めての出産を迎えたとき、どんな障害をもって生まれてきてもいい、でも、もし許されるなら、男女の双子が生みたい、と願をかけたら通じてしまったのか、女男の双子が誕生した。「この二人を、同じ洋服、同じ言葉、同じ環境で育てて、性差を観察しよう」。分娩台の上で、夢を描いた。同じに育てれば、同じになるはず。

 ところが生れ落ちるや、二人は全然違っていた。泣き声、ミルクの飲み方、そして1歳になる頃、お人形を渡したら、女の子は抱きしめてほお擦りし、男の子は、床に寝転がして目を閉じたり開いたりしている。こんなはずではない。これは単にこの二人の個性に過ぎないかもしれない。もっとたくさんの赤ちゃんたちを見よう。自分の子どもも、後二組、そして、仕事も、高校から保育園に変えて、たくさんの赤ちゃんを見ることにしよう。自分の子どもはこれまた願いどおり男女の年子が二組誕生。3組の男女のコンビと、たくさんの保育園の子どもたちを観察させてもらっても、やはり、男女の差は歴然としていた。

 一番の違いは、世に言われるとおりのもの。これはおそらく、外敵から種族を守る役目が必要だった頃に、男の攻撃性は、種族にとって必要不可欠なものだったのだろうし、女たちには、自力では生きていけない幼子たちのいのちを育む必要性から、包容力が必要だったのだろう。でも、攻撃性というものは、世の中が進むに従って、不要になり、言葉による解決の方向へ進むしかないと考えている。 (詳しくは、私の著書「わがまま?いじめ?勉強?=何も教えない子育て」世織書房刊、参照)

 それにしても、私の体験から来る性差についての結論が、「性差の科学」(ドメス出版)に紹介されている科学的な検証を経た結論と酷似していることに驚かされた。この「性差の科学」には、理系の女性科学者の皆さんと、赤松良子さんの座談会が載っている。その中で赤松さんは、政策決定の場に女性がもっと出て行けば、攻撃性の強い男性による戦争を防ぐことが可能かもしれない、と述べている。フェミニストといわれる人たちの間で、男女の違いを言うと、差別を助長するから、言わない方がよいという言説があふれている。それに対して、赤松さんは、「男と女が同じなのだったら、政策決定の場に無理して女性を出す必要がないでしょ。男に任せておいたっていいのじゃない?」という。

 まだまだ発展途上の学問だから、これからもたくさんの真理が発見され、人類を驚かせることになるのだろうが、今時点ですでに分かっている結論もいくつかある。
 性染色体が一つしかない人が存在するが、それは、Xで、女性。Yだけという人は存在しない。だから、生命の大本は、女性だということ。このXだけという人は、ターナー症候群と言って、極端に攻撃性を嫌い、「女らしい」といわれる行動様式をとる。

 ミトコンドリアという物は、精子にも卵子にも含まれているが、精子のそれは、受精のときにはじかれて、そこに含まれている遺伝子は、子どもに引き継がれない。ミトコンドリアに乗っているDNAは、エネルギーや、知性にかかわる遺伝情報をもっているので、それらの性質は、女からしか、子孫に受け継がれない。
 女の脳は、左右が働くのに対して、男の脳は、左半球だけが活動している。だから女の方が、語学に優れている人が多いという。
 しかし男の攻撃性は、幼子たちとのふれあいの中で、減少していくとの結果も紹介されている。このように女、男、が地続きになってきて、セックスのあり方が、かなり多様になってきていることは、喜ばしいことだと思っている。手術によって性転換ができることになったことを知ったとき、私も、思春期の頃にそんなことが可能だったら、真剣に性転換に取り組んだかもしれないと考えたものである。
 何はともあれ、なんらかの性差があることを直視して、その上で、違いを認め合いながら、力を出し合う方法を模索していきたいものである。



吉澤好子さん(67才)        2005・03・30

 知的障害者の更生施設という看板であるにもかかわらず、9つのおうちに5人ぐらいずつ住んでいるアナン(埼玉県児玉郡児玉町)を造った方が、吉澤好子さんです。この方の物語、少し長いけど、お付き合いください。
 そのアナンに県の監査が来て、「男女が夜行き来できないように遮断せよ」との「指導」を受け、「指定知的障害者更生施設等の設備及び運営に関する基準」7条にある「居室は、男子用と女子用を別に設け、かつ、その間の通路は、夜間は通行ができないように遮断できるものであること」を改正することに余生を尽くしたいというご相談を吉澤さんから受けたのです。こんな規則があるとは、全然知りませんでした。

 私は、2年前に、このアナンを見学し、これこそが、これからの一つの住まいのあり方
だと痛く感動して帰ってきたのでした。
 施設における男女の問題は、施設解体のメインテーマともなりうるものと考えています。
吉澤さんは、遮断と言う言葉は"刃(やいば)"で切りつけ、切り裂いている言葉とおっしゃっています。
 アナンをこれまではあまりお見せしたくないと思っていたけど(障害者を見世物にしたくない)これからは、皆さんに見ていただいて、このような生活をしている人たちに、この規則でいいのかと問い掛けたいとおっしゃっています。アナンでは、普通のおうちですから「遮断」できないのです、とも。

 2月27日午後、取材をお願いしたNHKのチーフディレクター迫田朋子さんに同行して、アナンを訪ねました。その日は日曜日だったので、住んでいる方が皆くつろいでいて、いろいろとインタビューさせていただきました。Hさんは、有限会社マリエが運営している工場で、深谷ねぎを束ねる仕事をしていること(ここはスタッフの一人が社長をしています)、お料理をみんなですること、などをなんでもはきはきと応えてくれました。最後に、「お母さんは来られるの?」と聞くと、応えません。何かあると想像していると、吉澤さんが助け舟。「それはちょっとだめね」。後で聞いたところでは、小さいときから母親の虐待にあっていて、アナンに来て、10年ぐらいしてようやくそのことが言えるようになったと言うのです。父親はなくなり、母と二人暮しで、虐待されていたとは、どんなにか大変な幼児期を過ごしたことでしょう。ところが、母親の住んでいるところの福祉事務所は親子の関係を深めようとたびたび母親をアナンに連れてくる。そのたびに混乱して、不眠などの症状が出る。それを10年ぐらい繰り返していた。吉澤さんは、早くに気付けなくて申し訳なかったと。

 そもそも一番始めに吉澤さんは、ボランティアとして通っていた当時の「精神薄弱者更生施設」で、施設長に「ここの入居者を貸して欲しい」と言ったのだそうです。貸すことはできないけど、と言って、30歳代の女性でおねしょの方を吉澤さんに預けた。吉澤さんは毎日その人とドライブ。3ヶ月たったら、おねしょが治ってしまった。それを聞きつけた親御さんが我も我もと吉澤さんに子どもを託すようになり、一番多いときで38人、12件の家に住んでいた。始め、自分の家で一緒に生活していたら、夫からやめてくれと言われ、裏の家で暮しはじめたと言う。夫は「そんなに一生懸命見てもバカは治らないよ」といっていました。

 毎年ヨーロッパを見て歩いていた吉澤さんは平成元年一人で1月間ヨーロッパに行って帰りの飛行機で昂揚して眠れず、帰りつくと夫に「離婚させてください。私は、自分に受ける感知に従ってこの集いをやってみたい」といった。10分ぐらい黙っていた夫は「今はまだ男社会だ、ぼくがいたほうがやりやすいだろう」 そしてこのことを始めて何年かしたときに、スタッフに「ごめんなさい、給料も出さないで」というと「おじちゃんからいただいていました」と言ったという。夫君は、このように陰できっちり支えていた。

 好子さんは、ヨーロッパを見てきて、そういうものではなく、日本古来の日本人が育ててきた文化、その中からにじみ出るような生活を作りたいと考えたそうです。実際、9軒の家は、どれも吉澤さんが設計したそうですが、日本的な質素なたたずまいでした。どれも、全然似ていない形が違うものなのですが、どれも、文化の香りがするものがそっと置かれているのです。
 NHKの迫田さんは流石にこの道のプロ!インタビューが、弾みます。先の「指定知的障害者更生施設等の設備及び運営に関する基準」というのは法律ではなく、厚生労働省令であることも見つけました。確かに、部屋の大きさなどが決められている基準なのだから、迫田さんが言うには、厚労省に話に行けば、こんなことはすぐに県の方へ気にしないようにというだろう。でも、吉澤さんは、この条文をなくすまでやると言います。それには深いわけがありました。

 両親に連れられてきた男性は、マンション一人暮らしの女性の部屋に押しかけて、パトカー7台が出動。この人が幾度目かに来てすぐ、具合が悪いと言って病院に一緒にいった。急性糖尿病ということで翌日亡くなってしまった。この方は、人生を投げ出して自分にこの条文をなくしてくれと言っているように思う。この条文をなくせたら、やっと彼のお墓参りができる。と吉沢さんは考えているのでした。なぜなら彼は「親も学校の先生も僕にやさしくしてくれた。でも吉澤さんは厳しいことをいうけど僕をバカにしていない」と言った。

 好子さんの語りは、なんとも個性的で、引き込まれ、何回も涙を流しながら聞きました。迫田さんの手で、好子さんの語りが皆さんにも届く日を待つことにします。
3月1日は、吉沢さんが参議院議員会館へ私の長男黒岩宇洋と会いに行ってくださる日でした。前日、大熊由紀子さん(朝日新聞論説委員、大阪大学教授などを経て、福祉の活動は皆さんご存知と思います)に、この件をお願いしたら、すぐに、厚労省の方を紹介してくださり、1日、折角吉沢さんが東京へ出て行くならば、この方にも会ってこられるように宇洋の秘書さんに連絡を頼みました。すると、宇洋のところへ3時半にいくというのに、氏は2時に出勤予定といいます。私は、とにかく、このところ書いてきたものを氏にメールで出しておきました。すると、出勤してメールを読むとすぐに会館に電話してきて、自分の方から出て行くと言われ、宇洋と氏と3人の会合が設定されてしまったのです。

 そこで、氏はこう言われたそうです。「県の方にそんなことを言わせてしまったこと申し訳ありませんでした」「アナンを見せていただきに行きます」「遮断と言う条項は削除します」吉澤さんは涙乍らだったと秘書さんは言います。宇洋は、吉澤さんがあんまり静かな方だったと驚いたそうです。私の説明では、よっぽど怖そうな方を想像したみたい。でも、きっと吉澤さんは私よりずうっと怖い人で、表面の静かさや、優しさが、その怖さに裏打ちされているのだと思っています。
  3月7日、埼玉県の監査に対して回答する日だったので、吉澤さんがかかれた文を披露します。
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 ハンセン病の関係者は、声を大にして日本国民に訴えました。
 お知恵の小さな人々は、声を大にして異議を申し立てることが得意ではありません。知的障害者福祉法に基づいて定められた最低基準の第7条第1項のハに、私はアナンを創設するときに出会いました。そのときからこれを削除することに力を注げたらと望んでいました。そのためにアナンを清潔に凛として存在させてきました。
 平成17年早春、監査指導という姿で機会は与えられました。長年の私の思いを実現するために、すべての力を尽くし、すべての知恵を尽くし、あらん限りの思いを尽くして、削除されるまで励みます。

 私は、施設に勤めたことはありません。すべてにおいて未熟者です。彼らにお詫びしたいような気持ちで毎日を生きています。この削除が実現されれば、少しばかりのお詫びとなりましょう。
 これは戦いではありません。
 静かに粛々と前に進みます。
                                   以上

          時代はくだかれる方向に流れています。
          福祉はやわらかなひらきに向かっています。
          法は"みなおす"方向に流れましょう。



   「以前書いたものをここに載せました

卓夫の本あとがき  2004/8/17

 私の友人の何人かは、黒岩卓夫のことを「猛獣使い」と呼ぶ。
 卓夫がいうところの「都会人」北大路秩子は、友人たちがいうように「猛獣」だったにちがいない。「女に生まれて損した」と、5人の子どもを産んでもまだ思っていたほど、女としての極度の被害意識を身にまとい、男性顔負けの攻撃性をもっていた。その攻撃性の的に狙われたのは、不幸にして、夫と長男だった。
 35歳で6人目を生んで、ようやく「女に生まれてよかった」と思えるようになったにもかかわらず、その攻撃性はなかなか衰えを見せなかった。
だから「都会人」は結婚30周年を迎えたとき、この「猛獣使い」に言ったものである。「30年間も、良くぞ私の攻撃に耐えてくれて、有難う」(当時、卓夫53歳、私50歳)

 卓夫は、私に出会って間もない頃、こんなことを言った。「僕の母は、君と気が合うと思う」結婚2年目、卓夫の母たかは、夫からの暴力(今でいうDV)から逃れて、長野から私たちの住む船橋の団地へ来て3人の共同生活を始めた。「嫁」と「姑」の対立は、夫の家事参加、子どもたちのけんかなどをめぐって激論にまで発展した。時に私が卓夫に泣きつくと、「自分で解決できないのか!」という。これはとてもありがたいことだった。夫を緩衝地帯にせず、すべての議論に二人で向き合い、どなりあいは日常茶飯事。子どもができてからは、「けんかやめて」の大合唱に抗して続けた。

 けんかの後が二人の反省の時間。お互いにまずかったと思うところは謝って、自己の改革を進めていった。たかさんは82歳で亡くなる直前、こう言った。「あんたたちが何でもいってくれたんで、ありがたいこんだよ」1枚1枚衣を脱ぎながら、自分を変えていく柔軟性をもつ明治生まれの女性だった。

 この母にしてこの子あり。卓夫が「猛獣」を使えたのも、この母たかの柔軟性をもっていたからだと思う。恋愛時代「高校の頃、自炊生活だったから、結婚してまで料理をする気はない」と言い放っていたにもかかわらず、「泣かぬなら、泣かせてみようホトトギス」と決意を固めた「猛獣」の前に、母たか亡き後「朝飯作りをする」と宣言し、すでに大学生となって家をでた長男長女を除く5人の子どもたちの高校へ持っていく弁当作りを含めて10年間、朝飯つくりに専念した。
このことは、当然のことながら、健康をテーマとする医業という仕事の中に十分生かされていくことになった。と同時に、7人の子どもたちと父親との距離がぐっと縮まる作用も見逃すことはできない。

毎日新聞「発言席」   2004/6/

 6月21日毎日新聞朝刊に「国立コロニー改革」が載っていた。遅すぎるといいたいくらいだ。"象徴"の改革が、すべての施設改革へと波及することを望むものである。といってもそこに住んでいた知的障害を持つ人たちが、そこを出て前より生きがいのある生活ができるのだろうかという、不安がないわけではない。

 確かに、雲仙コロニーや、コロニー太陽の園(北海道伊達市)などのように地域に開かれてきたところでは、地域で暮らすための手厚いサポートが用意されているので、アパート住まいの人も、グループホームで暮らす人も、実に生き生きとして暮らしている様子が、ほんのわずかの時間の見学者にも見て取れるほどになっている。
 しかし、かつて虐待で名を馳せた白河育成園のような施設が、全国にはたくさんあると思われ、そのような施設では、とても外に出て行った人たちのサポートを本人たちの気持ちを大切にしながらやっていくとは思うことが出来ない。

 知的障害を持つ人たちの憧れである「一般就労」でさえ、水戸事件、サングループ事件など、雇用者による助成金詐欺、レイプ、傷害などの虐待事件は後をたたない。これらの事件として顕在化できたというのは、実にまれなケースといえる。被害者たちが、行政や、交番、社会福祉事務所などに駆け込むことがあっても、ほとんどの場合取り上げられることなく、追及されると「聞いておくだけでいいと思った」などと口をそろえてしまうのが、多くの現状なのだから。被害者たちの言葉に、または言葉にならない声に、耳を傾けられる人が近くにいたときだけ、顕在化することができるのだ。

 水戸事件の民事裁判を傍聴に行っている。加害者である被告、アカス社長の証言は「道を歩いている人を殴ったわけではないから」と耳が変形するまで殴りつけたりしたことを、全く反省しないばかりか、知的障害を持つ人は、殴られて当然、と開き直っている。
 「馬鹿たちは、言葉で言ってもわからないのだから」というのが、暴力の論拠となっている。とんでもないことである。証言能力を疑われ続けてきたこの裁判の原告たち3人は、実にしっかりとした証言をして、関係者を驚かせた。それはただ、聞く側の姿勢によるのだ。聞いてくれるということが信じられさえすれば、日にちこそ特定できなかったとしても、事実はキチンと証言することができる。

 知的障害を持つ人たちは、人と人とをつなげていくという才能をもった人が多い。なぜなら、「迷惑を掛け合う関係」こそが豊かな関係であるということを、その人たちが、教えてくれ、その人たちの周りに、豊かな関係が出来てしまうことが多いからだ。
この方たちが、このような才能を発揮するには、施設を出て地域に溶け込んで生きられるようなサポート体制を整えることが、施設改革と同時に進められる必要があるという事を訴えたい。
その点、つい先日友人たちと見学に行ってきたスウェーデンでは、施設解体後の生活は、実にきめ細かく用意されていた。住居については、グループホームであっても、個人の障害に合わせて、部屋の設備が違う。日中の活動は、行政が保障する上に、文化活動、余暇活動に至るまで、普通の人と同じように保障している。ヘルパーのほかに、パーソナルアシスタント制度があり、その人に何時間必要かというコトを、査定員が査定した上で、精神的なサポートする人を、行政が派遣する。本人が選んでも良いので、家族があたることもあるが、すべて行政が給料を出す。

 日本にだってモデルは存在する。埼玉県本庄市近辺で、施設からでた方や、施設に入りたくない方々を、その方たちの生活に即した住居を用意して、一緒に生活している方がある。吉沢好子さん。1986年ごろから精神病院から退院するところがないという方も含めて36人を地域の中に点在する12軒の家で預かった。それを「エマウス」と名づけた。1994年にはアナンという家を7軒建てた。それは、更正施設という認可を取って、実際は、グループホームに別れて住む形をとった。「施設という名前の家族を7つ誕生させます」とそのとき吉沢さんは書いている。
吉沢さんは、民間の手で、実に暖かなものをどんどん作っていった。見習いたいものだ。


子どもはもっと「悪い子」になろう  2004/6/4

 11歳の女児が仲良しの同級生を殺した事件には、皆さん驚愕を隠せない。いつもながら「命の大切さを教える」「心のケアを」の大合唱だ。
 問題はそんなところにない。一言で言うなら、加害者と言われる少女が、「いい子」を演じ続けてきて、疲れてしまったということだと思う。たった11歳の少女が、これだけの決心をするには、よくよくのことだと思うのに、誰にも相談せず一人で考えたと言っている。

 少女は、成績がいいために、手のかからない子で、家族は「いい子」だと思い込んでいる。でも、両親は相談所に「なかなか自己主張ができない、はっきりノーといえないところがある」と打ち明けたという。そのことに気がついている親でさえ、子どもの変化を見落としてしまった。子どもの心の中は、そんなに「いい」ことばかりが詰まっているはずがない。嫉妬、恨み、等誰だって存在するだろう。だがそれを表現することをためらってきた「いい子」たちが突然のように変身する。
 なぜ、悪い心を表現できないのか、なぜ、ノーと言えないのか、親たちからの「期待」に沿って「いい子」を演じてしまうのはなぜなのか。

 多くの子どもたちと付き合ってくる中で、私に見えてきたものは、「悪い子になると見放されるのでは?」という不安だ。歩くことさえまだできないほど幼い頃から、けなげにも子どもたちは親の許容量の範囲で生きる努力をする。許容量の外にあることをすると見放される、それは大変なことだと、本能的に知っている。
 ほとんどの親たちは、いい子を育てようとしている。だから、今回の加害少女の親も圧倒的に多数派の親なのだ。だからどの子にも起こりうる事件であるがゆえに「普通の子が」と皆絶句する。

 私には、一つの提案がある。もっと子どもたちに「悪い子」になってもらおう。ノーと言われたらまずノーと言ってくれたことに感謝しよう。そうして、どうしてなのかと考えてみよう。悪い言葉、悪い行い、子どもたちはいろいろなことをしてみて、親がどこまで愛してくれるのかを試している。あなたがあなたでいる限り、どんなことをしても、愛しているよ。と伝えよう。生きていてくれるだけでいい。と思えたときに子どもは悩みをそおっと親に伝えてくれるのではないだろうか?

 殺されたさと美さんの無念さ、加害少女のやりきれなさ、に対して「教える」という位相ではなく、「聴く」という位相で対したい。「聴く」ということは実は並大抵のことではない。言葉にならない心を聴くのだから。


女性と選挙制度
 ファム・ポリティクへ
        2004/6/4    黒岩秩子 

 世界を見渡せば、女性の議員がどんどん増えていっていると言うのに、日本の現状は全く遅々として進まない。世界はなぜ動き、日本がなぜ動かないのか、考察してみたい。

 2003年10月現在、議会における女性議員比率は、衆院は7,1%で世界168か国中134位。参院では14,6%。1院制の国が多いので、これは62か国中29位となっている。
だがこれを、比例区と、小選挙区、地方選挙区(参院)に分けて見ると面白い結果がでてくる。衆院、2003年11月の総選挙結果を見ると、衆院小選挙区では4,7%にしかならないのに対して、比例区では、11,1%になっている。全体を通して7,3%。 参議院地方選挙区では11,4%、全国比例区では19,3%、全体では14,5%。この結果からすぐに読み取れるのは、比例区の方が女性にとって有利だと言うことだ。

 選挙制度はコロコロ変わるので、大変わかりにくいと思われる。ここで少し説明をしよう。
衆議院は小選挙区と比例区の二つのシステムに分かれている。小選挙区は、300に分かれていて、それぞれ一人を選出する。比例区は、全国を11のブロックにわけ、180議席を決める。比例単独の立候補者もあるが、重複立候補と言って小選挙区と比例区に重複して立候補する人もいる。中曽根康弘氏のような有名人以外は比例区単独候補者と言うのはほとんどいない。

 比例区の候補者に、党が順位をつけるときは、おかしな話だが、立候補者を何人でも同じ順位にすることができる。だから、中曽根氏が1位で、後すべては2位ということにすれば、中曽根氏の当選は決まってしまう。「終生1位」」との約束を小泉首相が破ったと言って、氏がご立腹だったことは記憶に新しい。中曽根氏のような人がいないブロックでは、全員が1位となる場合もあるし、党としてこの人は絶対ほしいという人を1位、2位として、後3位をたくさんにするという場合もある。

 さて小選挙区で落ちた人は、その惜敗率(本人の得票数の当選した人の票数に対する割合)によって比例区での本当の順位が決まる。届け出たとき同じ順位だったたくさんの人たちが、1位、2位、3位と決まってきて、そのブロックでその党が何人当選するか決まると、この順位によって当選者がきまるわけである。その結果起こるのが「復活当選」という現象だ。これに対して、小選挙区で落ちた人の救済に過ぎないし、落ちた人が当選するのはおかしいとの批判があるのは当然のことだろう。しかし党が比例区の候補者順位を決めるのは、それなりの問題を含むから、このやり方にはある種の合理性があるともいえる。。

 去年の選挙では、こんなことがあった。東京18区は菅直人氏の選挙区。当然のことながら自民党は落選する。しかも多分復活当選も望めない。そこで、鳩山邦夫氏にそこで出てもらって、その代わり東京ブロックの比例区2位のポストを与えた。1位は車椅子初議員の八代英太氏である。比例の東京ブロックでは、上位の二人を当選させ、3位に並んだ人たちに小選挙区でどれだけ票をとるか、競わせることになったのだ。

 参議院は、地方区と比例区があるが、地方区はすべての都道府県が選挙区で、人口によって、1人区から4人区まで存在する。実質的には、1人区は小選挙区、2人区~4人区は、中選挙区と言うことになる。それに対して比例区は、全国が対象で、地方区との重複立候補はできない。地方区が149、比例区が98となっている。6年前の選挙までは、全国区の順位を政党が決めていたが(これを拘束名簿方式と言う)、3年前から非拘束名簿に変わった。

 この方式がとられるまでは大もめだった。自民党の順位の決め方が、候補者の党員獲得の成果を評価する、というやり方だったために、宗教団体をバックに、金のある村上正邦氏のような議員が、自分で会費を納めて、架空の名簿を提出するという事件が起こり、逮捕されるにいたったりしたからである。

 有権者は、比例区の候補者の名前を書いてもいいし、政党の名前を書いてもいい。候補者名の総計と、政党名の合計が、その政党の得票となり、比例配分でその政党の当選者の数が決まる。そして候補者の順位は、その人の名前の得票数によって決まる。これを非拘束名簿方式と言う。非拘束名簿は女性たちに不利だといわれてきたが、実際は1998年の拘束名簿選挙でも、2001年はじめての非拘束名簿選挙でも、比例区で当選した女性は10人と同じ数であり、予想は覆された。

 2004年4月の選挙で、一院制の韓国では女性議員の数がそれまで全体の5,9%だったのを一挙に13,3%にした。3月に選挙法改正が通って、比例区は候補者の半数を女性にすることが義務付けられたからだ。そのため56の比例区に29(半数を超える)の女性が誕生し、小選挙区も、243人中0だったのが一挙に10となった。男尊女卑の国として知られてきた韓国が日本の衆議院を抜いた。このことが日本のマスコミではイラク人質の陰に隠れてか、報道されなかった。

 北欧は女性比率が高い国として知られている。
2002年10月現在、世界中で1位から4位を占めるのはすべて北欧。スウェーデン(45,0%)、デンマーク(38,0%)、フィンランド、ノルウェーの順だが、その後順位は少し入れ替わっている。これらの国は、すべて一院政で、比例区しかないのだ。比例区の場合、政党が自主的に男女交互にしたりするので女性比率は高まりやすい。

 法律で、ある割合を女性にすると決めている国もある。インド、フランスのように憲法まで変えて法律を作ったところもある。
フランスでは、候補者数にクオータ制(一定の割合を割り当てること)を導入したら、違憲判決(平等・普遍の選挙に反する)が下りたことがあり、1999年憲法改正をして、パリテ(同数の意)法を成立させた。
しかし、この法の効果は顕著とはいえなかった。法施行前女性比率が10%だったのが、施行後に12%になっただけ。小選挙区制で実施される下院議員選挙では、候補者数の男女差が2%を超えた政党・政治団体への公的助成金を減額することなどを定めたが、多くの政党が、助成金の減額を選択したのだった。罰則がゆるすぎるとの声もあるが、男たちが候補者選定のポストを占拠していることによる結果と思われる。  

 非欧州でランクが高いところは、コスタリカ、アルゼンチンがある。
アルゼンチンでは、次のような展開があった。 
拘束式比例代表制で、「当選しうる位置に女性を30%配置した名簿を作る」ことを政党に義務づけたが、最初の選挙(1991)で違反する政党が多かったので、女性達が裁判所に提訴して違法判決を勝ち取り、政党が従うようになったので、2001年まで非欧州で女性議員ランキングがトップとなった。
コスタリカでは、「当選しうる選挙区で」という言葉を入れたことによって一挙に増えた。単なる割り当てだと、当選できない可能性の高い選挙区に女性を並べると言うことがあったからだ。2002年には非欧州では、コスタリカがトップ(35,1%)。2003年はなんとルワンダが48,8%で世界1に踊り出た。

 この理由は、想像を絶するものだ。フツ族とツチ族との熾烈な殺し合いの結果、男性の人口が極端に減って、人口の80%が女性だということである。そういう稀有の事情があれば、クオータなどいらない!世界にはまだまだこのような戦闘地域がたくさん存在し、ルワンダを抜く国がいつ出現するとも限らない。男たちはいつまで戦闘を続けることか?
法律で割合を決めている国は、 国会議員だけをみると、タンザニア(議席の20%)、アルゼンチン(両院議員候補者の30%)、 ベルギー(政党の候補者名簿30%)、 ブラジル(政党の候補者名簿20% )など。
ここで、議席の割合と候補者での割合、の違いに注目して欲しい。候補者の割合だと、実際の議席はずうっと少なくなる可能性がある。
このようなクオータ制は強制的クオータと呼ばれるのに対して、政党によるものは自発的クオータと呼ばれる。北欧をはじめ、ヨーロッパ諸国はこのケースが多い。
政党によって割合が違うのだが、スウェーデン(社民党など男女交互候補者名簿)。ノルウェー(労働党の候補者名簿40%)。ドイツ(社民党40%、キリスト教民主同盟33%、緑の党、交互名簿50%)。南アフリカ(与党候補者交互名簿、その他30%、これにより1994年141位→2002年11位29.8%)。

 イギリスは労働党による女性候補者のみの最終候補者名簿政策(引退する労働党議員の後継者としての候補者だから当選する可能性が強い地区と言うことになる)を96年に導入し、それによって97年の選挙では一挙に女性議員は2倍、9,2%が18,2%となったのだ。  
だが、これによって候補者になれなかった男性が、労働党を相手に訴訟を起こして勝訴。それに対して労働党は、国連の女性差別禁止条約などによって、議決機関における男女比の不平等を是正することを提案し、2002年2月性差別禁止法の修正として、候補者選定に際しての男女比を是正することを定めた。2015年までの時限立法である。
これだけのことをしても、イギリスでは20%に達しない。それは、小選挙区制のみだからだ。同じように小選挙区制のアメリカでも、2003年14,3%で、世界70位に留まっている。日本では、2002年の参議院内閣委員会で、女性議員の少なさについて質問を受けた当時の福田官房長官は、その原因の一つに小選挙区制を挙げている。

 一方、これまで述べてきたようなポジティブアクションに対しては、様々な反論がある。
1、 選挙の普遍性原則に反する。「結果の平等」の強制は「機会の平等」に反する。
2、 実力のある女性は「自然に」選出される。
3、 実力のない女性が、クオータ制に「ただ乗り」する。
4、 女性のクオータ制は、他のマイノリティのクオータ制を誘発する。
5、 クオータは、女性を「助けが必要な二級市民」とみなすことになる。
6、 女性というだけで、単一の利益にたつものではない。
7、 子育てはじめとする家庭責任が女性にかかっていることが政治進出の障害なのに、その構造をそのままにして数合わせに走っている。

 これらはどれも聴くに値する反論である。4、については、他のマイノリティーについてもクオータ制にしたらいいと思う。ただ、このクオータ制そのものが、女性の力がつかなくては、勝ち取れないものであることも現実だ。女性たちの要求を頑強に拒まれて「それなら女性党を作る」といって抵抗したという話が外国であるが、女性党を作っても泡沫のようであれば、力を持ちえない。北欧で早々と政党がクオータ制を導入したのは、当然のことながら政治の世界に女性たちの力を認めざるをえない情況を作り出せたということでもある。5、にいわれるように、クオータのお陰で当選できた女性議員たちは、その非難を跳ね返す苦闘が要求されるだろう。

 最後に一つ、日本の参議院地方選挙区のような中選挙区のおいて、単記制(一人だけを書く)であるのは、世界では稀で、複数区なら、連記制が普通だと言うことを付け加えておく。終戦直後の衆議院選挙で女性議員が39人誕生し、未だにその記録が破れないのは、そのときの選挙制度では、連記制だったからだと言われている。
 何はともあれ、選挙制度によって女性が議員になることの難易度が規定されるとはいえ、女たちが力をつけることなしに、女性議員が増えても意味をなさない。
女性たちには、男たちによって、ここまで貶められてしまってきた世界を、人間の暮らしの地点に立って、未来を見据えながら、変えていく原動力を身に付けていくことが要求されている。
この稿を執筆するに当たって、三重大学人文学部教授の岩本美砂子氏から多大なご協力をいただいた。ここに深くお礼を申し上げる。

 参考文献:「世界のポジティブ・アクションと男女共同参画」辻村みよ子編、東北大学出版会


日露戦争研究会様  2004/3/3

 鳩山由紀夫氏が、中曽根康弘氏とともに「日露戦争研究会」を立ち上げた。このことの危険性を訴えたいと思う。
靖国神社のとなりにある遊就館は、「戦争博物館」と私は呼んでいる。更にいうなら、戦意高揚博物館である。明治以来の戦争にかかわるものが展示されているのだが、一番の中心は日露戦争の部屋である。その部屋に近付くとかなり遠くから勇ましい軍艦マーチが聞こえてくる。部屋に入ると大きなスクリーンに「勝った、勝った、勝った」と大きな文字が躍っている。これが見せたくてこの博物館を作った、と私には思えた。
なぜなら、第二次大戦で、負けたことについては、控えめにしか展示されていない上、あの恐ろしい原爆投下に至っては、たった2〜3行触れているだけなのだ。ゼロ戦、人間魚雷、等が誇らしげに展示されている。出口に置かれている雑記帖には、次のような文がたくさん書かれている。「感動しました。亡くなっていった方たちの分までお国のために尽くしたい」

 このようにして戦争を知らない若者たちの「愛国心」を発揚させる。ここに言う「愛国心」とは、戦争をしてほかの国に勝つということだ。それは、別の言葉に直せば、よその国の人をできる限り多く殺すと言うことだ。人を愛することの対極にあることだ。
今年は、日露戦争100周年ということで、「諸君」3月号の特集には、半藤一利氏が「それからの『坂の上の雲』の英雄たち」と題して、日露戦争での勝ち方の中に、その後の戦争への道が始まる、ということを論証しておられる。
鳩山さん、どうか、日露戦争を研究されるのなら、戦争後、どうなっていったのかということまで研究するよう、御願いしたい。中曽根さんと一緒に、日本を戦争へと導くことは、止めていただきたいと願っている。


児童虐待防止法改正  2004/2/12

 岸和田の凄惨な事件をきっかけとして、児童虐待防止法の改正論議が加速されている。その中で、不登校がクローズアップされ、文科省は全国の不登校児の調査を通達した。そのことの危険性について、述べてみたい。
 私は、8年間、新潟県で、不登校児や、引きこもりといわれる方々からの相談や、居場所作りにかかわり、その中で、様々な場面に立ち会ってきた。私が主宰する大地塾に通うようになって子どもたちが元気になると、近所の人たちの反応が変わってくる。それまでは、「学校に行けないかわいそうな子の親」という見方だったのが、「あんなに元気になっている子どもを学校にやらないひどい親」というように。 

 なぜ、若者たちがひきこもるのか?多くの方は「ひ弱になったから」という理解をされているように思う。とんでもないことだ。不登校の子どもたちが、ウイークデイの昼間外を歩いていれば、「あの子、不登校?」という鋭い視線が刺してくる。都会はともかく、田舎では、近所中が、不登校児の存在を知っている。だから、昼間のみならず、夜になっても近所を歩くことができず、車で遠出してもらっているのが多くの現状なのだ。
 人の目を避けて、昼間寝ていて、夜起きているとか、自分の部屋から出ないという暮らし方をしているのは、周りの方々の「善意の」忠告や、「甘えるんじゃない」「そんな弱い心でどうする」などの、わかっている「常識」によって責められることから、身を守るためである。
 その人たちにとって、見たこともない人が、家に入ってくることがあろうものなら、それは、どんなに恐ろしいことだろうか?

 今回の児童虐待防止法の改訂については、このことが予想されるのだ。引きこもりといわれる人たちで、たくさんの溜め込んだストレスを、家財道具にあたって「家庭内暴力」といわれるような現象をもたらしたり、または、大声を出すことによってストレスを発散したりしていることがある。そのような場合、近所の人には、「虐待」に思えるかもしれない。
  児童虐待防止法が改定されて、立ち入りが強化された場合、虐待の怖れの確率をいかにして測るのだろうか?近所の聞き取りは欠かせないだろう。そのとき、中に入ることの無い「ご近所」がどのくらい正確に中の様子を伝えられるのだろう?元気な子どもを学校に行かせないというだけで、「虐待」と考えてしまうような「ご近所」が存在することも心配の種である。

 もしかしたら、本当は子どもの親たちは、虐待どころか、子どもに寄り添って、何とかして子どもを理解しようとしてもがいている最中なのかもしれない。そんな親子たちにとっては、今の虐待防止法改定の議論が、とても恐ろしいものに思えることを伝えたい。
 死にいたる児童虐待を、立ち入りによって防ぐことがありうるということは、認識した上で、あえて、その危険を訴え、その危険を防ぐ手立てを考えてほしいと訴えたい。

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