トップページヘ戻る |
秩子の想うこと (その2) 2005年3月30日から |
東日本大震災、特に原発に関する考え方 3月11日に未曾有の大震災、津波、原発事故が起き、大変な事態に立ち至りました。亡くなった大勢の方、いまだに行方不明のままの方、そして、何もかも失って立ちすくんでいる方。その現実に対して何ができるのか、考えあぐんできました。MLへの投稿を元に私が考えてきた道筋を追ってみます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (3月15日)いよいよこちらでも明日から計画停電です。 そのぐらいのことは当たり前のこと。あの被災地の状況を見ていたら、何でも出来てしまう気がしますね。畳の上にしがみついて、あの寒い夜空を過ごして救助された方。よくぞ生き延びてこられたと感心するばかりです。 放射能! 今私は、毎日孫たちにこの放射能について語っているのですが、難しいですね。こんなにまでひどい状況にならなくては、原発をなくそうということにならなかったのですね。こういうことは起こりうることだとだれもがわかっていたはずなのにね。 目に見えない形で、体がむしばまれる放射能というものは、いくら閉じ込めてもどこかから出ていけるのですから、こんなものを作ってはいけなかったのだと思います。世界中が、日本の「安全神話」に基づく原発事故を注視し、さっそく建設を凍結する国が現れましたね。 日本も早くに辞めるという宣言をしなくてはならないと考えています。 黒岩秩子さん、みなさん 星野邦子です(3月22日) 今回の原発事故の話は起こるべくして起こったという話もあるほど日本の原発行政のずさんさを表した20年前の告発文があります。 これは この原発を作ったプラント技師の一人、平井憲夫さんが
放射線を浴び過ぎて癌になり、 亡くなる前に書いたものです。以下の「原発がどんなものか知ってほしい」を読むとよくわかると思います。 http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html 私はこれを10年くらい前に知って、300部ほど印刷して皆さんに配りましたが、その時はまだ経済優先の社会で皆さんからの運動には至りませんでした。今こそその運動の時と感じてこの文章を読んでいただきたいと思いましたので・・ ―――――――――――――――――――――――――――――――― 星野さん、すごいものでした。 命をかけて、原発の現状を知らせてくださったのね。私も、印刷しました。皆さんに読んでいただくつもりです。ありがとうございました。(3月22日) ―――――――――――――――――――――――――――――――― (23日)昨日、私が投稿したものについて、個メールを下さった方がありました。 電話で話してみてわかったことは、どんどん技術が変わってきているので、したがって「嘘」になっているということのようでした。 (3月26日)今までは、少数にとどまっていた原発廃炉への賛同が一挙に高まっています。 次のようなものがまわってきたので、みなさんにも回しますね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 郡山市長の「廃炉」を求める発言を受けて、署名活動をしたら、という
声が上が り、緊急に作成しました。 ●署名用紙はウェブからダウンロードできます。 http://fukushimahairo.web.fc2.com/ ●メール署名 送り先: fukushima.hairo@gmail.com 署名方法:上記アドレスに氏名(ハンドルネームは不可)、住所を書いて送信して下さい。識別のためメールのタイトルを「署名賛同」として下さい。 ●締め切り:第1次集約 3月末日、第2次集約 4月末日 福島原発の「廃炉」を求める有志の会 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 毎日新聞3月29日の10面にすごい記事が出ていました。 「記者の目」のすぐ下に、「発信箱」というコラムがあります。福岡賢正(西部報道部)記者が書いているのは「すべて想定されていた」というタイトルです。 今回は「想定外」という言い方でおさめようとする気持が、自分の中にも湧き出てきてしまうのですが、ずうっと昔22000人もの死者が出た津波があった、というようなことは知られているのですよね。 今回の発信箱には、神戸大学の石橋克彦氏(地震学)が岩波書店の雑誌「科学」1997年10月号に書いた「原発震災〜破滅を避けるために」からの引用があるのですが、なんと今起きていることを言い表しているのでは、と思われるほど正確に事態を予想しているのでした。そして、2005年の衆議院の公聴会でこのことを発言して警告していたのです。 (4月5日)宇洋たちが検討している「検察の在り方」と福島原発が深く関係しているということがよくわかる週刊朝日の記事です。「収賄額ゼロ」という結果が出た「逮捕劇」。それによって、佐藤栄佐久知事を失脚させて、福島原発を進めていったのですね。 ■佐藤栄佐久・前福島県知事が告発 「国民を欺いた国の責任をただせ」 <週刊朝日:配信> 下記の記事、<転送歓迎>(貼り付け開始) ************************************************************* http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110330-00000301-sasahi-pol 週刊朝日 3月30日(水)17時56分配信 ■佐藤栄佐久・前福島県知事が告発 「国民を欺いた国の責任をただせ」 福島第一原子力発電所の事故は周辺の土壌や海水からも大量の放射能が検出され、世界を震撼させる事態となっている。原発の安全性に疑問を持ち、一時は東京電力の原子炉17基をすべて運転停止に追い込んだこともある佐藤栄佐久・前福島県知事(71)はこう憤る。「諸悪の根源」は経済産業省であり国だ──。 (後略) (4月14日) いやいや、本当に本当に田中優さんのお話で勇気をいただくことができました。 1時間でよくぞここまで内容の濃い「提案」をしてくださったこと! これを広めていきましょう。 http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-2623.html (5月2日) 田中優さんの本が出ました。「原発に頼らない社会へ」−こうすれば電力問題も温暖化も解決できるー 2011,4,20 武田ランダムハウスジャパン刊 この本の紹介は、「感動した本」のコーナーに。 |
「平穏死のすすめ」(講談社)に想う 2010,4,5 「平穏死のすすめ」(講談社)の著者石飛幸三さんは、宇洋の秘書宇野さんの叔父さんに当たります。宇野さんからこの御本を頂いて読んで、感動したので、新潟日報に投稿しました。それが、4月5日の「窓」欄に掲載されました。 それを皆さんにもご紹介しますね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 石飛幸三さんが書かれた[「平穏死」のすすめ](講談社)をうなずきながら読みました。本当に人が老いるということは、自然現象で、死を迎えるのも自然現象です。少なくとも私は、一般的な延命「治療」はしてほしくないと常日頃家族で話し合ってきました。 私が理事長をしている社会福祉法人桐鈴会が運営している認知症対応のグループホーム[桐の花]では、できて5年半がたちますが、その間亡くなった方8人すべて、病院ではなく[桐の花]で亡くなっています。その中の一人は、職員たちの総意で、病院スタッフの反対を説得して退院させて、[桐の花]でみとったのでした。 私の母も、この[桐の花]で看取ってもらいました。訪問看護、訪問医療があってこそできたことではあります。なんといっても[桐の花]の職員たちの意識が「最後まで寄り添いたい」という点で一致していたのです。意識がなくなって水も一切取らなくなって、点滴も外し、11日後の孫の結婚式が終わった翌日の早朝、静かに息を引き取ったのでした。最後1週間は、家族も泊まり込みました。 [「平穏死」のすすめ]で石飛さんがご自分が医者として勤務する特養ホームで、「食べなくなったお年寄りに胃瘻とか、点滴などの延命装置をつけなくなった結果、死亡原因トップが、肺炎から老衰に代わってきた]と言われることが、とくと胸に落ちたのでした。 |
私たち夫婦の50年 私たち夫婦が初めてであって2010,1,15は50年目です。 こんなことをここで言うのは、実は、それが、日米安保条約の改定50周年ということだからなのです。当時の岸首相は、1月16日条約改定の調印に渡米することになっていました。その前日から、学生たちはそれを羽田で阻止しようと集まっていたのです。その日は東京では、かなり寒い日で、降っていた雨が、夜になってみぞれに変わってきました。学生を排除しようとする警察官と時々もみ合い、後は、隊列を組んでいるというのが、その日の行動でした。 もみ合いが終わって待機しているときに、隣の男子学生に声をかけました。「どこから来たの?」「東京です」あんまり大声で警官をどなっていたので、てっきり地方から上京してきた人だと思っていたのでした。それから合間合間におしゃべりをして翌朝わかれたのですが、また「全学連」がデイトの日をきめてくれたのでした。たぶん1月19日にデモがあったので、そこで再 会できたのだと思います。何しろ50年前ですから、うろ覚えです。 あの頃、私たちが、心配していたのは、アメリカとの軍事同盟(と考えていました)において日本が対等になるということは、それだけ戦争への道が通じてしまう、ということでした。実は、そのころ地位協定のことも問題になっていました。「対等ではない」と批判していたのですが、安保改定で、対等に近づくことにも反対していたのですから、少々矛盾もあったのです。 あの頃は、ソ連とか北朝鮮を理想の国だと思ってしまっていたところがあるので、何しろ、当時、黒岩卓夫は「ソビエト医学研究会」というサークルに入っていたくらいですから。そういう「誤解」から解放されるには、1989年のベルリンの壁崩壊まで待たなくてはならなかったのです。もちろん、その前からソ連についての情報をマイナス面でも少しづつ得ていて、崩れる予感はあったのですが、あのようなドラスティックな展開があるとは、想像していませんでした。 本当の意味で、日米が対等になるには、鳩山さんが以前いっておられたように「駐留なき安保」で通してほしいと考えているのですが、どうなることでしょうか? |
ムスタンに生きる近藤亨さん 9月にチャリティーコンサートに行って買ってきた2冊の本には感動しました。また、NHKで報道された番組のDVDも頂いてきてみることが出来ました。「ムスタンの夜明け」(KKかんぽう)「ムスタン物語」(新潟日報事業社)どちらも近藤亨さんの著書です。 桐鈴会のグループホームで毎日2時間働いてくれているネパール人のアンジュに「ムスタンに新潟県の人がすんで、農業の技術指導をしているのよ」と話したら、「ムスタン?」とかなり驚いていました。ネパールの中でも特に気候が厳しく、標高が、3000,4000ぐらいあるので、寒い。そのうえ強風がものすごく、ネパールの中でも特に貧しい地域なのだそうです。アンジュは、夫がこの町にある国際大学の学生で、3歳の娘を保育所に通わせるのに、就労証明が必要なので、桐鈴会で働いてもらっているのです。 近藤さんは、1921年新潟県生まれ。新潟大学農学部助教授を経て、新潟県園芸試験場の研究員となり、1976年国際協力事業団(JICA)から果樹栽培専門家として、ネパールに派遣され、以来、定年退職後まで、ネパールに住みついてしまった。70歳で、家族の反対を押し切って単身で、ムスタンへ向かい、そこに居を構えて、現地の方々と高地での稲作、果樹栽培、畜産(ホルスタインなど)などに挑みます。日本には、後方支援する仲間たちがたくさんいて、資金援助をしています。この活動が、テレビで放映されたときに、新潟市在住の伝啓子さんは連絡を取って以来お友達となったそうです。今、体調不良で帰国されている近藤さんを、9月14日には、日韓若手音楽家のコンサートにお連れしてくださり、9月27日には、私がチャリティーコンサートに出かけたのでした。 体調が回復して、11月12日には、またムスタンに帰られるのですが、伝さんは、88歳の近藤さんに同行して、ムスタンに行くのだそうです。 近藤さんは、ジャイカの職員として現地に行ったのがきっかけですが、ジャイカのような後ろ盾があるのとないのとでは、全然違い、とことんやれるというメリットと引き換えに失敗もすべて自分で引き受けなくてはなりません。3000メートル近い高地に稲を栽培するのに、4年かかっています。つまり3年間は失敗続き。4年目に成功するのでした。畜産、果樹など一つ一つに感動的なドラマがあります。それらのほとんどは、それまでに他の人たちが挑戦したけど、失敗に終わった後、挑んでいるのです。 失敗に終わったアメリカの有名な奉仕団体による造林事業の後、近藤さんが、現地の人々に請われて同じ場所だというのに見事に造林が成功します。その秘密は、現地の人々との関係にあるということがわかりました。アメリカの団体は、「やってあげる」という意識で、自分たちだけでいいと思うやり方でやる。現地の人は冷たい目で見ているだけ。ところが、近藤さんの場合には、現地の人と相談しながら、現地の人手を借りて取り掛かる。それが成功のもと。外国人が、入り込んで支援をするというとき、このことが一番大きなことだと思いました。 ジャイカの職員として現地に行っていた時には、3年とか限られていて、もう少しいたいといっても不可能だった。だから、自分の意思で70歳にしてやってきたのだそうです。その意気に感じて、大勢の方々が、資金援助をして、学校を建てる、病院を建てる、現地の人たちが本当に欲していることをひとつずつ作っていったのでした。その資金援助をしている団体は、NPO法人ネパール・ムスタン地域開発協力会。 新潟市秋葉区田島790-201 0250−23−3953 その新発田分室は、0254−26−3520 11月12日に、伝さんともう一人が一緒にムスタンに向かうのだそうです。どうかどうかお元気で、現地に着くことをお祈りします。 |
自殺予防週間にちなんで 2009,9,17 黒岩秩子 自殺予防週間にちなむマスコミの報道に触れて、私が初めて体験した知り合いの自殺を思い出した。1958年の秋のことだった。その年の春私は大学に入学し、一般教養の数学の講義を受けていた。その講義の主・谷山豊さんが、その年の11月に突然自殺して亡くなったのだ。その後2週間たって、婚約者も後追い自殺された。谷山さん31歳、婚約者26歳。 谷山豊さんの講義は、とても興味深いものだった。高校までの数学には感じ取れなかった数学の新たな地平に私たち学生をいざなってくれるものだった。時折学生が質問すると、「どうしてこんなことが分からないんですか?」と困った様子で質問を返されるのだった。 のちに分ったことだが、彼は、30歳にしてフェルマーの定理の証明に道筋をつけるという世界的な研究成果をあげておられ、その年の4月に東大教養学部の助教授となって私たち理科系の学生に講義をしていたのだった。 数学科の大学院に籍を置く女性に誘われて、10月に谷山さんのアパートを訪ねた。その時谷山さんはこんなことを話していた。「欧米では、論文を出さないでいると大きな仕事をしているのだろうと思われるのに、日本では仕事をしていないと思われる」そのころ何かがあったのか、知る由もないが、日本での研究者の置かれている状況を残念がっておられたのは確かのように思われる。 たまたま雑誌「ミクロスコピア」(2009,8,29、考古堂発売)に西條敏美さんが、谷山さんのことを書かれている。それによると、谷山さんと婚約者だった美佐子さんとは同じ墓で眠っているとのことだった。 「昨日まで自殺しようという明確な意思があったわけではない。ただ最近僕がかなり疲れて居、また神経もかなりまいっていることに気づいていた人は少なくないと思う。(中略)何かある特定の事件ないし事柄の結果ではない。ただ気分的に言えることは、将来に対する自信を失ったということ。」と遺書に書かれていた。とある。 自殺なさる直前に親しく話していた私だったが、まだ18歳の少女には、まったくその予兆など感じ取るアンテナは持ち合わせていなかった。その後、うつ病だった知り合いが、婚約した後自殺してしまったという事態に直面し、谷山さんももしかしたら、婚約という新しいステージへの自信が持てなかったのでは?と想像してみたりしている。うつ病の気配がある人にとっては、婚約や結婚という普通に人にとって「幸せ」の指標としか思われない事態が、不安の原因にもなりうるということを知っていていただけたら、防げる自殺もあるのでは?と考えて、提起してみることにした。 |
「男と女をめぐって」から、食べ物、体に至る ◆秩子<1.13投稿> 昨日NHKで男と女の違いについてかなりショッキングなことをやっていましたね。心筋梗塞、だったかな?女性と男性とでは、血管のどの部分がつまっているかというのが、違うそうです。そのために、女性のその病気での死亡率が高くなってしまうというのです。 エストロゲンという女性ホルモンは、血液循環をつかさどっていて、更年期障害の場合には、その女性ホルモンが少なくなることによって、血液が、まわりにくくなったり、急にかっと熱くなったりという症状が出るのですね。 昔、医学の実験が、男性についてだけやられてきていたために、女性特有の現象が今やっと研究対象にもなってきたということらしいのです。だから、女性外来というものが必要になってきたのですね。 ◆ねこみ<女性1.13投稿> ◆秩子<1.13投稿) ◆星野<女性1.13投稿> ◆秩子<1.13投稿> 星野さん、ありがとうございます。本当に皆さん、「違う窯の飯」になっているのね。ところで、ねこみさん、星野さんに伺いたいのは、コーヒーって、有機の豆をひいて飲むのもいけないの?教えてください。 ◆ねこみ<1.13投稿> みなさん、うれしい反応をありがとうございます。多様性に富んだ暮らしをしてる仲間がいることは、なによりの励みになります。 ・http://www.nstimes.info/09-2002/feature.htm ・『心の病は食事で治す 』という本から以下を抜粋 ---------------------------------------------------------------------- カフェインは、体に蓄えておいたグリコ−ゲンをブドウ糖に分解して血液中に放出するから一時的に気分がよくなる。 でも、カフェインが切れると、急激に血糖値が下がる。
カフェインは、細胞からブドウ糖を一気に放出させるので、血糖値の乱高下が激しく、気分の上下も激しくなる。また、カフェインは副腎を刺激してアドレナリンを放出し、気分を高揚させてくれるが、過剰なカフェインはミネラルを尿と一緒に排泄してしまう。 私の解釈では、カフェインが血糖値に影響を与えることで身体に負担をかけてしまうことが良くないんじゃないかなあと思ってて、低血糖症状がでてる我が家では当分避けたほうがいいな、という見解です。 あと、私が読んだ本に、低血糖の症状のひとつに、肩こり、って書いてあります。 話をごろっと変えます。 うちの新生児は今10ヶ月です。9ヶ月の頃、倒れて頭をよく打つ子でした。毎日頭を打ち、一日に3回くらい転ぶ日が増えてきました。それで、頭が重いのか、頭が悪いのか、親として悩みそうになりました。(今までなら「痛いの痛いの飛んでけ〜」をしてあげるくらいしかなかったですが。)ふと、手ともにあった「自然派ママの食事と出産・育児」という本をパラパラめくってたら、あるページにQ&Aがあり、こう書かれてありました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・ Q転んで頭をぶつけることが多いのですが脳に影響が無いか心配です。 ・ A(略)今お子さんは頭の重さの割に体、特に下半身が弱いと考えられます。(略)食物が身体の中に入ると、陰性なものは上半身に、陽性なものは下半身に行きます。(略)この子の場合、砂糖や果物のような陰性食品からできたものが多いのではないでしょうか。穀物を主体とし、野菜や海藻の煮物などで切り替えていってください。(以下略) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー わが子は、まさしくそうでした。離乳食を手抜きしたために、ご飯が少なめで、ふかした芋、みかん、りんご、が多くなっていた頃でした。これを読んで、すぐご飯中心で食べさせるようにしたら、数日して見事に、倒れて頭をうつことは無くなりました。減ったんじゃなくて、無くなったのです。 ◆秩子<1.13投稿> ねこみさん、ありがとう。コーヒーのことわかりました。私は、今のところ、一日に1回ぐらいなので、そのまま続けることにします。夫は、数回飲んでいるので、警告してあげよう。 ◆秩子<1.19投稿> 昨夜の「男と女」最終回も興味深く見ました。性染色体のYについてですが、Xの変形でできたものがYなので、Yのほうが突然変異を受けやすいということまではわかっていましたが、その突然変異を受けた染色体が、Xの場合には、女性の中で、XXとなることによって修復されるのに、Yは、修復されないので、だんだん大きさが小さくなっているとのことで、500万年先には、消滅するとのことでした。 ◆星野<1.19投稿> 秩子さん、私がコーヒーを飲まないのは、体のためではないのです。 (答え)日本企業により、アマゾンの密林を開拓してどんどん増産されています。現地の人には正規の賃金が払われず、極貧の生活が続く状況です。長い間、伐採が続けばアマゾンの森が減り、雨が降らなくなり、砂漠化が危惧されます。 中国の森が減って雨が降らなくなり砂漠化され、日本にも黄砂がたくさん来るようになりましたが、それも日本商社の森林伐採が原因の一端と言われています。国土の30%を割ると森林は再生されず砂漠になるといわれていますが、中国の森林面積はすでに20%を割り、15%に達する勢いです。 アマゾンの森林は地球の肺とも言われていて、地球規模で大変重要視されています。私一人がコーヒーを飲まなくなってもたいした助けにはなりませんが、知った一人としてもう何年も前からコーヒーを止めています。コーヒー党の人にはごめんなさいm( )m ◆小泉<沖縄に移住した女性・1.19投稿> ねこみさん。わたしは食事療法してます。体の中で糖に変わるといわれているものを全部止めてしまいました。膠原病は、原因も治療法もないと
いわれていることに、かえって闘志がわいて、治った時のことを想像して1年間1日1万歩と青菜中心の食事。 ◆秩子<1.19投稿> 小泉さん、よく書いてくださいました。 ◆ねこみ<1.19投稿> 小泉さんそうだったんですね、病気って症状に名前がついただけですもんね。表面化したものが、膠原病であったということですよね。表面化していないもののほうが怖いのかもしれないとよく思います。 |
母隆子死去に伴い、年賀は、欠礼します。 2008,12 今年のお正月ごろから、食欲がなくなり3月には、「いつ逝ってもおかしくない状態だから、家族の方々に連絡を」とグループホームの管理者に言われ、私の弟たち、子どもたち全員4,5月にお別れに来てくれました。5月24日の3男乙水の結婚式(南魚沼市出身初のつれあいで、東京の聾学校の教員)を待って、11日間のこん睡状態ののち翌日朝、88年の命を閉じました。結婚式に参列した親せきがそのまま母の葬式に合流、母がそこまで見通してくれたのかとみなで感謝しています。9年間この地に来てともにすごし、私の中での母との和解ができて見送れたので、思い残すことはありませんでした。私が理事長を務める社会福祉法人桐鈴会のグループホームに併設された夢草堂というお寺で最期を共に過ごした皆さんや、親戚、私の友人などに見送られて最愛の夫の元へと旅立ちました。生前お世話になった皆さんに深く感謝しています。 9月には、選挙近しと、長男が民主党公認で出ることになった新潟3区へ引っ越したものの、選挙がなくなったので帰ってきましたが、10月11月の予定はほぼすべて返上しました。 11月末に次女海映一家が浦佐に引っ越してきました。駅裏の一軒家を借りて住んでいますが、私が孫たち(0,4,6歳)の子守として使ってもらえそうです。昼食を海映と二人で取りながら、今までになく母娘の会話が弾んだりしています。海映は来年の春から法律事務所を開設することになるようですが、この9月に司法試験に合格した夫渡邉真一郎さんとそのうち合流することになるのかもしれません。 長女萌実が去年北海道浦河町にある「ベテルの家」という精神障害者に開放された街を見学に行って知り合った工藤茂広さん(岩手在住)と結婚し、来年4月には工藤さんが札幌に引っ越して同居が始まります。今の職業とおなじ青少年自然の家の職を探すことになるでしょう。 4男揺光も、3年前ビルマからタイへの難民問題で知り合ったスージンと来年2月にソウルで結婚式(スージンが、ソウルの人)と、我が家の子どもたちもすべてカップルになります。揺光のカレン族体験記、この春いよいよ出版されそうです。スージンは、国際大学(南魚沼市)をこの6月に卒業し、東京の難民支援NGOに職を得ました。揺光は、毎日新聞社尾道通信部です。 3女帆姿は、はじめてのお産を助産院で、二人目は自宅で行い、すっかり助産師にはまり込んでしまいました。この3月に仕事をやめて、社会人枠での看護学校に来年4月から入学し、助産師を目指します。 選挙がいつなのかわからないのが、個人的には困りますが、日本の情勢を考えると、ますます政権交代の可能性が強くなりそうですね。アメリカに習いたいものです。 949−7302新潟県南魚沼市浦佐5428 黒 岩 秩 子(ちづこ) |
[ヤスクニ]を見た 2008,6,29 十日町映画館 6月29日、友人の岡元真弓さんが、十日町に作った映画館で、[ヤスクニ]を見てきました。いやいやすさまじいものでした。はじめのうちこそ神社側の意見ばかりだなあと思ってみていると、いきなり「小泉首相の靖国参拝ハンターイ」と二人の若者が後先かまわず熱狂的な集会に向かって叫びだす。それを袋叩きにする熱狂的愛国者。「中国へ帰れ」とその若者に言い続ける日本人。どう見ても、中国人とは思えない若者だが、中国人と決めてしまいたいのだろう。そのうちその若者は、顔が血だらけになってしまう。「日本の軍国主義者が、アジアの人々にしたことに比べたら、こんなことは大したことではない。救急車なんか呼ばないでください」と言い続けるが、とうとうパトカー(かな?救急車かな?)に乗せられてしまった。 最後に日本刀を作り続けているおじいさんとの会話。「僕は、小泉さんと同じ考えだ。国の為に亡くなった御霊にお参りするのは当然。そうして戦争に反対する。」とおじいさんは言う。何? 監督は、おじいさんに聞かれても答えることはしない。 相当迫力のあるドキュメンタリーだった。 |
秋葉原事件に思う たかひろのml(メーリングリスト)にこんな投稿がありました。太田将勝さんからです。 ―――――――――――――――――――――――― ご尊母・北大路隆子様に初めてお眼にかかったのは、9年前の7月、隆子様が浦佐に移られた直後のことでした。秩子さんが、私のことを、「目黒の家のご近所の岡崎勝男さん(昭和30年頃の外務大臣)の縁の方」と紹介してくださったからか、二三のご質問を受けました。シャープで少しとぼけた風のある面白いお方という印象を受けました。 ご尊母は初対面の私に官立女子高等師範附属女学校受験の失敗の話をされました。最難関の府立高女に合格されているのだからそれでよかったのでは、と申し上げましたが聞き入れられず、「でも悔しい」とむきになって仰言るのでした。70年前の受験のことをよくご記憶で、「女高師附属の銀のバックルを締めたかった」と大真面目に言れわるのには、些か驚きましたが、学業に関して「質」と「形式」にこだわるお考えは徹底しており、学校や学問などどうでもよかろうと考えていたヤクザな私には驚きでした。 ―――――――――――――――――――――――― 太田さん、ありがとうございました。母と気が合っていたようですね。お茶の水大学付属の女学校にはよほどいってみたかったようで、私の同級生が、そこに入ることになった時、その人から、制服を借りてきて自分で着て、外を歩いていました。夜とはいえ、セーラー服の上にバックルがついたベルトを締めるというスタイルに憧れていたのでしょう。当時、35歳でした。 6月7日の秋葉原事件、実は、母のそういう学歴信仰と無関係ではないような気がしています。たまたま、うちの町でも同じようなことが起こっているということを最近聞きました。30歳代前半の若者ですが、人の目を盗んでは、鉄パイプで、近所の家の車を破壊するということを繰り返し、すでに5台の車が被害を受けているとのこと。この男性は、小、中学校では、授業についていくのが困難だった、軽度の知的障害を持っていました。卒業後、大工の見習いをしていたけど続かず、家にいたので、同級生たちが、帰省してくると電話をかけて、みんなで集まっては、楽しく過ごすということをしていました。その同級生たちが、結婚して家庭をもつようになってから、きっと彼の人生が、曲がっていったのでしょう。 同じ部落に、もう一人同じような軽度の知的障害者で、暴力が威力を持つことを小学校で体験して以来、そこここで、暴力事件を起こし、最近では、父親の六骨を折ってしまい、両親が家を出てアパート暮らしを始め、彼はひとりで生活しているとのこと、20歳代後半です。親だけでなく、親しくなるとすぐに暴力が出てしまうので、いろいろなところから出入り禁止されているとのこと。こういう人たちが、どうしたら、地域で暮らしていけるのかそのサポートをするのが、障害者自立支援ということなのだと考えて、活動報告でご紹介した南魚沼市の自立支援協議会を活用していこうと考えているところです。どんなことが可能なのでしょうか? |
グループホームの職員と家族の違い 2008,4 2年前にも、私の母北大路隆子は、心筋梗塞で三途の川を渡りかけたのですが、戻ってきた体験があります。その時から、心臓の具合は良くなかったようで、今年の初めごろから食欲が落ちてきていて、4月初めに風邪をひいたら、また三途の川に近づいて行きました。私は10日間、母の住んでいるグループホームに住みつき、3日は夜も泊まり込んで、看病しました。その中で、いろいろと感じるところがありました。 その中で顕著なものは、母は、私が「立って」と声をかけると「出来ない」といい、そこへ来た職員に同じことを言われるとすっくと立ち上がってしまうのです。車いすに乗ったり、ポータブルトイレに座ったりするときです。初めは私が、下手だからかと思っていろいろと工夫をしてみていたのですが、どうやら、私には甘えられると思うようなのです。これは、保育所と同じなんだと思いました。子どもの親たちがよく言いました。「そんな長いこと歩くなんて、保母さんとだからです。私とだったら絶対おんぶと言ってきます」そうなのです。家族には甘えて、職員にはいいところを見せる。子どもも、お年寄りも同じなんですね。それでどうやら、甘えられる家族も必要だし、ちょっといいとこを見せなくてはならない職員も必要なんですね。 そこで、私は、こんな結論を得ました。認知症のお年寄りにとっては、家族介護と、公的介護、両方が必要だということ。 グループホームは家庭だといわれています。でも、入居者にとって、職員と家族は違うらしいのです。泊まり込んだある夜中、目が覚めた母は、私を認識することができず、「どなた様?」となり、「秩子よ」といっても違うといいとおしたことがありました。その時には、「お願いします」とか、「ありがとうございます」とかいうのです。普段決して私には言わない言葉が出てくるのです。家族と職員とはきちんと分けているのだなと認識しました。 そんな母が、もしわたしとだけ生活をしていたら、きっとすべての能力が、急速におとろえたのではないでしょうか?他人さまの中にいて、少し無理をして能力を使う。そのことによって残存能力を、衰えさせないでおける。だから、甘えられる家族と、他人である職員の存在と、療法が必要なのだという結論を得たのでした。 なんとか、三途の川を引き返してきたようで、点滴もなくなることになりました。ご心配ありがとうございました。しかし、私は、5月中旬のローマ行きも、連休の尾道行き(揺光の新任地が尾道通信部)もキャンセルしました。こんな状態の母を置いていくに忍びなかったのです。私がいることで安心している様子なので、もう少し付き合ってみようということにしました。 |
不登校半減プロジェクトin新潟市について、市長への手紙です。 新潟市長 篠田昭さま 市のHPへ投稿したことがある不登校半減プロジェクトについて、少し御耳をお貸しください。 学校が変わることによって生徒たちが、学校に戻ってくる、という形で不登校が半減するならば、何も問題はないと考えています。だけど、つい先日(2月6日から9日)、毎日新聞新潟版で、「不登校と向き合う」が3回シリーズで連載されました。これを読む限り、そうではなく、子どもに働きかけて、半減しようという従来通りの方法しか考えられていないようです。 不登校は、自殺予防の一番の方法だということを文科省は知っているはずです。いじめなどで自殺する生徒たちは、自殺当日まで学校に行き続けたり、前日まで登校を続けたりしている場合が圧倒的です。それは、彼らに自殺か、登校か、という二つの選択肢しかないと思わせてしまっているからでしょう。そこに、不登校という選択肢加えることができれば、命だけは助かります。かつて、広島県の教育長に文部省から出向していた寺脇研さんが、広島の子どもたちに次のような手紙を持たせました。「一番大切なのは、あなたの命です。命が脅かされてまで学校に行き続ける必要はありません」不登校は命を守る一つの方法であるということをよく知っていたからこその言葉でした。「命捨てるな学校捨てろ」さだまさしさんの言葉です。 世の中では、そして、学校の中でも不登校は悪いことだと考えられています。そのことが、多くの子どもたちを追い詰めていると思えてなりません。不登校半減、という考え方自体、不登校は悪いこと、というイデオロギーを流布します。学校の中はすでに、「不登校=悪」という空気が充満しています。そこへ火を点火するかのように追い打ちをかけます。 私が主宰していた大地塾に来ていた子どもたちの成長ぶりは目覚ましいものがあります。中学、高校と行かなかった子どもたちが、大検を取って大学に進み、順調に進んだ子どもたちには到底かけないような卒論を書いたりしています。大学へ行く道を選ばず、仕事に就いている人たちもあります。自分自身の体が発する危険信号をきちんと受け止めて、命を大切に生きていく、そんな選択肢を残すためにも、「不登校半減」を取りやめてくださるよう新潟市長にお願いします 2008,2,18 大地塾主宰 社会福祉法人理事長 黒岩秩子 |
選挙と相性のいい「失業」 2,007,6石田正三さん(宇洋の中高の同期)が、6月初めから新潟事務所の二階に泊まり込んで、電話かけに、街宣に、大活躍しています。石田さんは、一時秘書をやってくれていて、家庭の事情でやめ、企業に勤めているのですが、ちょうど、今が、観光の暇な時期なので、休みを取ってやってきてくれました。ありがとう。正三さん。 事務所の二階は、今は4人のすみかです。政策秘書の松村さん、旧大和町の藤田君(34歳)、川口町長選に15票差で敗れたという体験を持つ佐藤伸広さん(40歳)。彼は、先日就職試験を受けました。受かったらいなくなってしまうので、ひそかに受かりませんようにと祈っていました。神に意が通じて、不合格。長岡市の臨時職員の入試だったそうで、長岡市在住というのが、第一条件だったそうです。ヤッター!おかげさまで、佐藤さんは、街宣計画担当で、大活躍です。 |
不登校は命を守る一つの方法 2,006,10 自殺に連鎖に思う いじめられているということを子どもから訴えられたり、それらしいと気がついたら、「学校を休みなさい」ということ。これが一番の自殺予防策だと思います。 自殺する子にとって、学校に行かないという選択は、考えられないようなのです。それは、日頃から、子どもたちの間で「不登校は悪いこと」という価値観に支配されているからでしょう。地方自治体によっては、「不登校半減プロジェクト」なんていうものを作っているところがあるので、子どもたちにそう思われても仕方が無いでしょう。未だに不登校は、いけないこと、減らすべきことと考えている役人がいるということに驚かされます。 かつて、文部省から広島の教育長に出向していた寺脇研さんが広島中の小中高生に手紙を出しました。「一番大切なのは、あなたの命です。命が脅かされてまで、学校に行く必要はありません」不登校は最大の自殺予防策であることを文部省はよく知っていたのです。 不登校の世界というのが、学校に行っている子どもにとっては「地獄に落ちる」というぐらい恐ろしいことらしいのですが、家族や周りがそれをサポートすることができるかどうかにかかっていると思います。とにかく学校を休むことによって、命だけは助かることが多い。ゆっくり休んで、本人の元気が出るのを待つ、というのが、一番だと考えています。 いじめる側は、対象がなくなると、別の対象を探します。だから、総量としてのいじめはなくなりません。いじめなくてはいられない心があるとしたら、それを暖め尽くしていく、これが一番難しいことなのではないでしょうか?「生きていてくれるだけでいい」という無償の「愛」をどうしたら子どもたちに届けられるのか、それが問題です。 大人たちの中にある常識的な価値観が、子どもたちを痛めつけています。学校は行くべきところ、勉強しなかったら大人になって困る、人をいじめてはいけない、実は、そういうことは、子どもたちは知っている。その上で悩んでいるのですから、後はひたすら「聴く」ことに徹して欲しいと訴えているのを受け止められるのか?それこそが鍵でしょう。 |
富士山の小屋に望む 小学生二人の孫と夫と娘の5人で8月12日に富士登山を試みました。富士宮口5合目から登りはじめ、6合目を過ぎたあたりから、少し空が曇り始め、後20分ぐらいで新7合目小屋、というとき、突然雷雨が襲来。そしてすぐにヒョウがたたきつけ始めました。ずぶぬれになりながら雨具をつけ、すぐそこの小屋までと小1の孫を励ましながら雷雨とヒョウの中を登ります。雨具などなんのその、びっしょびしょになって、寒さに震えながらやっと小屋に着くと外に雨具を着けたたくさんの人が立っています。混み合っていて入れないのかと、中を覗くと、閑散としています。あら?どうして外にみんな立っているのか?いぶかっていると、小屋の人らしき人が、「何か注文はありますか?」と、拒否態勢での応対です。見ると、座っている人は、注文したミルクを飲んでいます。「宿泊です」というや、態度ががらりと変わりました。外に立っていた人たちは、注文をしないで休もうとしていたということが判明。人命救助という役割もあるはずの山小屋が、こんな対応でいいのか?などと思いはじめたのは、すべてが完了してからのこと。 ずぶぬれの衣類を着替えている間も、屋根をヒョウがたたいていました。その後の新聞記事によると2時半から3時まで30分間降り続き7合目から上には、ヒョウが積もっていたとのこと。外国人もたくさん登っていました。日本を象徴する富士山の山小屋が、こんな状態であるのは、少々恥ずかしい思いも残りました。 (9月9日、朝日「声」掲載) |
男の育児休暇と育児保険 9月3日付の社説で、朝日が、男の育休、を取り上げ、「一週間でもいいから」と呼びかけています。 その中にこういう下りがあります。 「よく取り上げられるのが、男性の育児休業取得率だ。05年度で0・50%。統計をとり始めた93年度は0・02%だから、増えてきたとはいえるが、国が目標としている10%にははるかに及ばない。 数字が低いのは、妻が専業主婦だと育休はとれないという誤解が広まっているせいもある。産後8週間までは「母親は十分な育児をできない」として、父親は育休をとることが出来るのだ。1週間でもいい。 」 この産後8週間までは、職業を持っていない母の配偶者は、育休が取れるということを知らなかったので、厚労省に電話して聞いて見ました。(皆さんも、知らないことは、何でも、官庁に問い合わせると実に親切に教えてくれますよ。名乗る必要もないんですよ。法令に関することならばっちりです。原発事故のことはだめですが・・・・。)すると、育児休業・介護休業施行規則の中に書いてあるのでした。このことを知っていれば、夫に育休をとってといいやすくなりますね。 それから、野田聖子がHPで育児保険のことを書いています。かなり積極的にこの保険を取り入れようという提案です。これは、杉山千佳さん(次世代育成のMLの管理者。この方面のリーダーです)が提案していることと同じです。私も、それに賛成。 このHPとっても興味深いことがでていますよ。戦後、なんとかして少子化社会にしようと努力し、1966年丙午の年に1,57まで下がってみんなが感動し「日本人は優秀である」などといわれていた。にもかかわらず、丙午伝説を信じているところが日本人の文化とは?と不思議がられているようです。 実は、私のはじめての出産はこの丙午の年でした。そのおかげで、双子の二人は、入学、就職と楽ができてありがたかったようです。 http://www.noda-seiko.gr.jp |
女性団体連絡会への呼びかけとその後 2006,08,19 あるMLに私が投げかけた女性団体連絡会について、かなり皆さんが関心を持たれていて、たくさんの反響がありました。 ココで、私が呼びかけたものと、その後の反響への投稿を紹介します。 7月に女性問題の視察研修に13人でニュージーランドに行ってきました。そのことはHPの活動報告にアップしました。いちばん切実に思ったことは、日本にも、女性団体の連絡会を作る必要があるということでした。NZでは、女性参政権獲得運動でリーダーシップを発揮したケイトシェパードさんが作った女性協議会と言うところがその機能を果たしていて、小選挙区だけだった選挙制度を比例併用制に変えるときには、3年間それに没頭したのだそうです。それで結果が得られるところが凄いと思いました。日本でも、多くの方がその必要性を感じておられると思います。どうですか? この後たくさんの反響があって、それへの返事です。 お返事くださった皆さん、個メールを下さった皆さん、そして、このことに関心を持って見守ってくださっているたくさんの皆さん。皆さんがこのことをなんとかしようと思っておられることがわかって、私は、とっても励まされました。私自身どんな団体があるのかよく知らないし、どんな方々が活躍されておられるのかもよく知りません。だから、とにかくリサーチをしてみようと思っています。 これからいろいろな方とあって、話し合っていこうと取り組みを開始しているところです。 |
収入のある仕事、収入のない仕事 |
放火殺人、16歳の少年に思う。 2006,6,25 奈良の放火殺人事件を起こした16歳の少年の心を思うと胸が痛くなります。両親が離婚して以来、父親の再婚も経過する中で、どれだけの「演技」をしてきたことでしょう。成績もよく、スポーツマンで、明るく、周りを笑わせて・・・どれだけの神経を集中して演技してきたことか! 「もうこんな演技やってられない」というのが、今回の彼の行動だった のでしょう。後先も考えずに飛び出して、人のうちで眠り込んでしまう。いかにも16歳です。 それでも、一番お父さんに訴えたかった彼の思いは伝わるのでしょうか?「お父さん、この僕の努力をわかって!」そう叫びたかったのでは?お父さんにとって大切なものをなくする、という形を取って訴えてしまった彼。こんな形では、何もリセットできないこともわかってしまったでしょうね。 実は、知り合いの医者の子どもさんがすでに二人自殺しています。どちらもお父さんとも、お母さんとも親しい関係で、一人の場合には相談もされていて、これから様々な取り組みをしようとしていたときになくなってしまったのでした。こちらは、お母さんが医者です。親の一人が医者だというだけで、かなりの圧力がかかっていたはずです。今回の少年は両親が医者、その上に厳しい勉強が課せられていたのですから、どんなにか大変だったことでしょう。うちの次男のところでも、両親が医者、孫たちへの圧力を最小限にしたいと常に考えています。 毎日新聞奈良支局にいる揺光が、どんな取材活動をしているのか、少年の心の叫びをつかんで欲しいと思いつつ・・・ |
「遺言は愛のメッセージ」 2006,6,3 於、浦佐普光寺 6月3日は、医療の心を考える会、という卓夫が主催する会のイベントとぶつかっていました。両方にかかわってきた人たちが、二つに分かれて参加、私は、男女共同参画会議が終わってから浦佐の普光寺にいきました。6時からの懇親会で、公証役場に勤務されていた方が、遺言について語ってくださり、弁護士に頼むと多額のお金を取られるけど、公証役場は、公務員なので、無料です。といわれました。 そこで、私はいったのです。「私が死んだ後は、皆さんにお任せします」とおもっている人は、遺言を書かない。ほっておけば、自分の考えているようにはならないとおもっている人が遺言を書く。以前知り合いの人が、遺言を書いて亡くなったのだけど、その遺族はこう言いました。『生きている間は、言いたい放題自分のわがままを通してきたんだから、死んだときぐらい人の言うことを聞きなさい』ということで、その遺言は守られなかったのです。このときの遺言は、確か、骨を粉にして、海に播いて、というようなことだったと思います。この遺言は、ただ書いただけなので、このような結末になりました。弁護士が、多額のお金をとるのは、本来ならそうはならないことを、その人がなくなった後執行するので、それの費用なのだということです。それで、普通30万、だと聞きました。という話をしたのを受けて、この公証役場に勤めておられた和田さんはこう言ったのです。 「遺言というのは、母から子への愛のメッセージなんです。子どもの中にしょうがい児がいるような場合、均等に遺産を分けるのではなく、その子に全部あげると言うようなことがあります」それを聞いて、私も、遺言に愛のメッセージが託せるか、これから考えていこうと思いました。 ただ、最後に、和田さんはこういわれました。「公証人は、代行権はあるけど、執行権はありません」と。 |
中山素平さん、ご逝去に寄せて 2005,11,19 |
ベアテの贈りもの上映会 新潟ジェンダー研究会会報NO4への投稿 「1945年のクリスマス」(柏書房)というベアテ・シロタさんの自伝によって詳しく紹介された日本国憲法誕生の秘密。これは、日本人、特に女性たちに大変な衝撃を与えた。ピアニストの父レオ・シロタが、ユダヤ人としてナチからの迫害を逃れて東京に移住したために、ベアテさんは、5歳から15歳までの多感な青年期を東京で過ごし、日本女性の人権のなさをつぶさに見た。15歳でアメリカのカレッジに進学した後日米開戦で両親と音信不通に。戦後なんとかして日本に来ようと考えたベアテさんは、22歳でGHQの職員となった。1945年のクリスマスに来日してすぐ、日本国憲法の起草に当たったベアテさんは、女性の人権を草案の中にたくさん盛り込んだ。しかし細かいことは民法で、と押し切られ、男女平等にかかわる条文(14,24条)のみが残っている。(そのときベアテさんが憲法に書き込んでいて削られた多くの条文は、未だに民法に入れられていない。) そのベアテさんからの贈り物を日本の女性たちはどのようにして実質的に活用してきたのか、その女性たちの姿を映像化したのが、このドキュメンタリーだ。 ・製作にかかわった私 私は、2003年の都知事選挙以来1年半、念願の一人暮らしを東京で楽しんだ。そのとき、赤松さんから誘われて女性の力でこの映画を完成させたい、厚労省男女雇用均等・児童家庭局長から資生堂へ職場を変えた岩田喜美枝さんの退職金がかなりの額投入されていると聞き、青年劇場で「真珠の首飾り」(ジェームス三木監督のベアテさんの自伝劇)の観劇の際ベアテさんのお人柄にも触れることができ、それなら私もできるだけの協力をと資金提供をした。去年新潟の家に帰ってくるとき、この上映会を是非新潟で、という思いを胸に秘めた。でも、魚沼地域では無理だろうと考えて、今春新潟市の女性たちに声をかけると「ちょうど、私達も上映会を考えていたので一緒にしましょう」ということになり、新潟女性会議、新潟北京ジャックの代表の方と3人で、実行委員会を呼びかけた。会場であるユニゾンプラザの都合が、すでに9月24日(土)しかあいていないということで、日取りは決まってしまった。 その後、魚沼市の人から上映会を呼びかけられ、それは私にはとってもうれしいことだった。早速実行委員会を呼びかけて、9月17日(土)に魚沼市の小出郷文化会館で午後と夜の2回の上映が決まった。ユニゾンも、2回の上映で、どちらも大人800円、学生500円。 さて、このチケット売りが魚沼ではなかなか大変。新潟市では、以前ベアテさん来日時にベアテさんの講演会を聞いたことがあるという人もあり、話はすぐに通るのだが、魚沼ではまずはベアテさんの説明からはじめなくてはならない。朝日新聞が、それに関する丁寧な連載記事を書いてくれたとはいえ、魚沼地域で、朝日新聞をとっている人は実に少ない。地域によっては朝日新聞をとっているのは、赤だ、といわれるのでとっても取る勇気がないという。だから、戸別訪問をしながら、延々と日本国憲法の秘話をすることになる。それが叉、この魚沼地域で女性のおかれている状況を考えていただくことにもつながるだろうと期待を込めて。 ・成功裡に終わった魚沼上映会 そんな魚沼の地で、この映画の上映会ができるかと心配していたのだが、なんとか、成功裡に終えることができた。「成功裡」というのは何をさすのか、定義は難しいのだが、見てくださった方々のアンケートが、かなりたくさんあって、それら殆んどが、よかった、さらには、実行委員に上映を感謝するというのまであって、その日は、夜9時に二回目の上映が終わり、10時過ぎまで、実行委員は余韻を楽しんでいた。 この映画は、81歳のベアテさんが、日本で講演会をしている姿が全体を通じて流れていて、ベアテさんのお父さんレオシロタが音楽家として世界に認められ、結婚、ベアテの誕生、そして来日、それらが、世界史をバックに語られ、世界大戦(レオシロタの弟はアウシュビッツで消えた)、日本の敗戦、が映像をもって迫ってくる。その中で、憲法草案に男女平等、同一労働同一賃金にいたるまで書き込んだベアテさん。 かなり熾烈なやり取りのあと、14条と24条にしか彼女の努力は稔らなかった。でもその贈りものを日本の女性たちがいかに育て、使ってきたのか、を何人かの女性たちの語りでつないでいく。語りの部分が長いために、中学生の何人かは、退屈して場外に出てしまったということもあったようだ。 女性の権利というだけでなく、9条との絡みも含めて、女性のほうが、平和を希求するという点も強調されていた。はじめの挨拶をした上映実行委員長星優子さんも、このことに触れていた。ベアテさんからにじみ出てくる優しくて、楽しい人柄にもひきつけられたようで、ベアテさんも、9条をとても大切にして世界に誇れるもの、と映画の中でいっておられた。 ・無料の託児 チケットが500枚ぐらい売れていたのに、実際にみにきた人が300人(昼150、夜150)だったというのも驚きだった。(いつもは歩留まりが8掛けなのに、今回は6掛け)お寺が経営する小出保育園の園長が、28枚も買ってくれたというので、お礼の電話をかけたら、保育園の研修費で100枚買って、保護者にプレゼントする、と言うではないか。これは、実行委員をとても喜ばせた。 アンケートに、「憲法を勉強したいと思った」と書かれた方があって、一人でもそういう方が出てきたということを成功と言ってもいいかなと思った。「出てくる女性たちが、みんな自信をもって堂々と発言している姿に勇気付けられた」というのも何人かあった。また、帰りがけに、「感動したから、夫と娘を、新潟会場に見にいかせます。」といって帰られた方があり、早速、24日の新潟会場のチケットを、お持ちすると約束した。 ところで、この日は無料で保育を受け入れたので19年も保育士をしていた私は、保育の担当を引き受けた。去年試写会で見た上に、今回午前中に試写会で見て、午後、夜どちらも保育担当となり、久しぶりに幼児や、学童の子どもたちに遊んでもらうことができた。 小出郷文化会館というのは、保育室がキチンと用意されているばかりではなく、親子室という部屋まである。それは、最近できた建物では当たり前になっているそうだが、20年前にできていることを考えると先見の明ありといえる。この会館を作るときに徹底して住民の意見を取り入れて作った新潟県ではそれなりに有名な会館なのだ。館長さんが大工さんと言うのも凄い。つまり、民間人なのだ。どんな事業にも、彼は自分でチケットを買って観覧している。 保育室でも、テレビを通して、ステージを見られるのだが、それでは、なかなか集中して見ることができないので、保育担当の方にも、会場に行ってみていただき、私ともう一人の実行委員と二人で、預かった。昼夜あわせて、7人の子どもが預けられた。小さい子どもを抱えたお母さんには、特に見てほしいと言う思いがあって、無料の託児をしたのだった。 ・藤原監督の話 9月24日の新潟上映会は、魚沼と違うのは、監督の藤原さんが30分話をしてくださったということだった。彼女は、子育てを終わらせて、47歳のときに監督に復帰し、長編映画を作り出したのは、63歳からで、73歳の今日までに5本の長編を作ったという。63歳という年齢は、緒方貞子さんが国連難民高等弁務官に赴任した年と同じ。これから年をとっていく私たちへの励ましになり、そのことを始めの挨拶とさせていただき、藤原さんのお話になった。 彼女が初めて作った映画は、「杉の子達の50年」というもので、これは、学童疎開を取り上げ、10年前に新潟市でも上映会をしたのだそうだ。日本の近現代史の中で、何故日本があのような戦争に突き進んでいってしまったのか、を突き止めたくて、映画を作ってきた。ということだった。だから、今回も、ベアテさんがいう「日本国憲法そのものを、平和をもたらす国際貢献として、世界に売り出して」を強調しておられた。 私が、藤原さんの映画と対面したのは、「ルイズその旅立ち」で、大杉栄と伊藤野枝の娘、伊藤ルイさんを描いたもの。大杉栄が、中学時代をすごしたという新発田で上映会があったのを見に行った時だった。そのとき、藤原さんもきてお話され、終わってから、東京に帰る彼女と、浦佐まで一緒で、色々おしゃべりしてきたのが、5〜6年前。今回藤原さんの話を聞きながら、以前の藤原さんとは別人のように感じてしまった。そう伝えると、「あの頃はまだ始めたばかりだったのですもの」が答えだった。確かに、何が変わったのかというと、一言で言うと「自信」ということになるのかもしれない。 彼女の話で、印象にのこったのは、「映画ができて試写会を何回もしたのですが、それを見た男性が、一様に『全然知らなかった。女性たちがこんなことをしてきたって』といったことに驚きました」だった。朝日新聞で、「女の働き」というシリーズを企画して、この映画の宣伝をしてくださった早野透さんもその一人だったという。このシリーズは、今年の4月26日から始まり、16回まで連載されたのだが、1回と2回がこの映画ができるまでのいきさつ。だから魚沼でも、新潟でも、このコピーを参加者の皆さんに配ったのだった。 実は、この日も、私の敬愛する間藤侑(すすむ)新潟青陵大学教授(教育心理)が、とっても感動した、全然知らなかった、学生たちに見せたい、と言って帰っていかれた。彼の想いが実現する日を気長に待ちたいと思う。この方のことは、私のはじめての著書、「おお子育て」に書いた。当時、新潟大学付属幼稚園長をしておられ、「能動的な子ども」というテーマで、私たち現場の保母達をリードしていた方。確か、数学科出身というのも、共通点だったと思う。 この日、さすが、新潟市、と思ったのは、昼間の上映は、450席の会場が、満杯だったのに、夜は、150。小出では、昼と夜の人数が同じだったのに、夜が少ないのも、都会だからかと思った。ここらでは、土曜日でも、昼は仕事という人が、大半なのだから。 ・ 収益金の使い道 貸し出し料は、10万、二回上映だと12万とかなり安い。でも、学校などで上映しようとすると予算がないという問題にぶつかる。長岡大手高校で上映したいけど予算がないため、来年に持ち越しということを聞き、制作委員会と交渉した結果、高校生など若い方には半額と言うことが認められた。そのため、今年度中に長岡大手高校での上映が実現することになった。 収益が上がった場合には、上映実行委員会と、制作委員会と半々で分けるということが決まっていた。小出では、8万の収益が上がり、被災地支援ということではじめたので、半分の4万を、中越地震と、パキスタン地震に寄付することになった。 新潟市の収益金の半分は、若い人たちに見てもらえるように、製作委員会が助成金として使う、という条件で、23万の全額を製作委員会に送った。 ・上映会の成果 新潟市も、魚沼市も実行委員会のメンバーが親しく話せるようになったということは勿論だが、私には、思わぬ成果があがっていた。というのは、魚沼の友人で、「私は、女で損したと思ったことはない。夫は、給料を全部渡してくれて、自分は何にも使わない人だから、私の思うように使えるし、家族のことを考えて、なんでも自由にやってきた」という人がいた。この人が、夫と二人で上映会にきて、終わってからこういった。 「私たちってなんて狭い世界に生きてきたんだろうって二人で話し合って、興奮しちゃった」 実は、これって藤原監督の姿と重なる。彼女の育った家は、全く差別がないばかりか、戦争直後にお父さんがこういったのだそうだ。「これでやっと我が家も男女平等になる!」 そんな家庭で育ったことで、藤原さん自身全然被害者意識を持たなかったそうで、だから攻撃的になる必要がなく、そのことが、見た人たちに受け入れやすいのかもしれない、と言っておられた。そうなのかもしれない。赤松さんからジェンダーに関しては「オクテ」と言われてきた藤原さんだからこそできた「ベアテの贈りもの」だということが、改めて認識できた上映会だった。 被害者意識で凝り固まっていた自分の昔の姿と比べて、この二人のやわらかさの根源が突き止められた感じがした。 |
ピープルファースト全国大会in新潟に参加して |
吉澤好子さんの語りの世界 2005,9,20 |
「官と民の間」 2005,9,2 |
レッサーパンダのテレビ番組 2005,7,3 |
6年前に作った社会福祉法人桐鈴会の会報 「桐鈴凛々」2005,6,1号 |
オランダ人たちの働き方。(2005,5,24〜28) |
知的障害者の更生施設における、「遮断」とは? 2005・04・10 知的障害者の更生施設という看板であるにもかかわらず、9つのおうちに5人ぐらいずつ住んでいるアナン(埼玉県児玉郡児玉町)に対して、埼玉県の監察官は、「男女が夜、行き来できないように遮断せよ」との「指導」をした。「指定知的障害者更生施設等の設備及び運営に関する基準」(知的障害者福祉法に伴う政令)7条にある「居室は、男子用と女子用を別に設け、かつ、その間の通路は、夜間は通行ができないように遮断できるものであること」に基づくものだった 施設における男女の問題は、施設解体のメインテーマともなりうるものだ。知障害者の本人組織「ピープルファースト」の会員は、国交省に対する公営住宅に障害者が単身で入居できるようにと交渉をしているとき、こう言った。「施設だけでなく、グループホームでさえ、男女がデイトしたことをもって懲罰が与えられている」。 実際、重度の障害児を娘に持っている私の友人は「その基準のお陰で娘が守られている」という。レイプの被害者にしめる知的障害児者の割合は、かなり高いことはよく知られている。その被害にあわないように「遮断」されていると考えているらしい。 だが一方、秋田県北秋田市にある総合福祉施設大野台の里では、20年も前から入居者同士が結婚して、施設内に夫婦棟が作られていた。(優生保護法下で、出産はできない状態にしてのことだったそうだが。)ここの施設では、「遮断」が問題になったことはなかったという。それだけ、管理が行き届いていたのかもしれないが、夫婦棟が作られるにいたるには、その前段階での恋愛が認められていたということなのだろう 旧態依然の施設でさえ、夫婦棟ができる、ということがありうる。そこでは、「遮断」が意味を持たない世界が作り出せていたということなのか?女と男が、引かれあって恋愛をするというごく自然のことが、障害者であるがゆえに禁止されるということは、何を意味しているのだろうか? 健常者といわれる私たちの子どもでも、ある一定の割合で障害を持つ子どもが生まれてくる。障害者同士の夫婦では、障害を持つ子どもの出生率はそれより高くなることは十分考えられる。そのことを持って、障害者同士の夫婦は子どもを産むべきではない、といいうるのだろうか? 叉、生まれてきた子どもを育てるということについて、知的障害者の夫婦では子育てはできないと言ってしまえるのだろうか?私は、自分の子どもを知的障害者の子守りさんに預けていた。子どもはとってもその人になついて、その女性の両親も同居していたにもかかわらず、彼女以外の人に排泄の介助はさせなかったという。字が読めない人だったために、保育所の送り迎えが始まると持ち物を間違える、などのトラブルはあったものの、それは、親にとって不都合だっただけで、当の子どもには何の不都合もなかったはずだ。 子どもを産む、育てる、という問題以外に、「遮断」の目的はあるのだろうか?障害者同士の恋愛は、施設職員の仕事を増やす、というような職員サイドの問題があるのかもしれない。しかし、施設を解体して、グループホームなどでの在宅が知的障害者の居場所になっていくという未来を考えるとき、そこでは、少なくとも、職員サイドから物を考えるのではなく、そこに住む知的障害者の皆さんの暮らしという立場で考えていくことが最低限必要なのではないだろうか? どんな障害を持っている人も、持っていないと思っている人も、好きな人ができたら、それが異性であろうとなかろうと、一緒に住みたいと思うのは、自然の成り行き。その結果、子どもが生まれることがあって、子どもを作ることにかかわった二人の大人が自分たちだけでは育てられない、という事態に立ち至ったら、そこへ手を出せる人たちが、ヘルパーであれ、身内であれ、手をだして両親をサポートし、子どもは社会が育てるという実践が出来たらいいのではないだろうか? グループホームの職員たちは、女性の入居者が、暴力的にセックスを強要されることから女性を守ることは勿論のこと、恋愛や、結婚についての相談に乗りながら、当事者たちの思いを大切にして、その生活をサポートすることが求められるのだと思う。 そんな理想形態に向けて、今の所はとりあえず、この「遮断」という言葉をなくすことに向けて取り組みたいと考えている。 |
性差について 2005・04・07 「男と女は違う」と言ってはいけないか? 初めての出産を迎えたとき、どんな障害をもって生まれてきてもいい、でも、もし許されるなら、男女の双子が生みたい、と願をかけたら通じてしまったのか、女男の双子が誕生した。「この二人を、同じ洋服、同じ言葉、同じ環境で育てて、性差を観察しよう」。分娩台の上で、夢を描いた。同じに育てれば、同じになるはず。 ところが生れ落ちるや、二人は全然違っていた。泣き声、ミルクの飲み方、そして1歳になる頃、お人形を渡したら、女の子は抱きしめてほお擦りし、男の子は、床に寝転がして目を閉じたり開いたりしている。こんなはずではない。これは単にこの二人の個性に過ぎないかもしれない。もっとたくさんの赤ちゃんたちを見よう。自分の子どもも、後二組、そして、仕事も、高校から保育園に変えて、たくさんの赤ちゃんを見ることにしよう。自分の子どもはこれまた願いどおり男女の年子が二組誕生。3組の男女のコンビと、たくさんの保育園の子どもたちを観察させてもらっても、やはり、男女の差は歴然としていた。 一番の違いは、世に言われるとおりのもの。これはおそらく、外敵から種族を守る役目が必要だった頃に、男の攻撃性は、種族にとって必要不可欠なものだったのだろうし、女たちには、自力では生きていけない幼子たちのいのちを育む必要性から、包容力が必要だったのだろう。でも、攻撃性というものは、世の中が進むに従って、不要になり、言葉による解決の方向へ進むしかないと考えている。 (詳しくは、私の著書「わがまま?いじめ?勉強?=何も教えない子育て」世織書房刊、参照) それにしても、私の体験から来る性差についての結論が、「性差の科学」(ドメス出版)に紹介されている科学的な検証を経た結論と酷似していることに驚かされた。この「性差の科学」には、理系の女性科学者の皆さんと、赤松良子さんの座談会が載っている。その中で赤松さんは、政策決定の場に女性がもっと出て行けば、攻撃性の強い男性による戦争を防ぐことが可能かもしれない、と述べている。フェミニストといわれる人たちの間で、男女の違いを言うと、差別を助長するから、言わない方がよいという言説があふれている。それに対して、赤松さんは、「男と女が同じなのだったら、政策決定の場に無理して女性を出す必要がないでしょ。男に任せておいたっていいのじゃない?」という。 まだまだ発展途上の学問だから、これからもたくさんの真理が発見され、人類を驚かせることになるのだろうが、今時点ですでに分かっている結論もいくつかある。 性染色体が一つしかない人が存在するが、それは、Xで、女性。Yだけという人は存在しない。だから、生命の大本は、女性だということ。このXだけという人は、ターナー症候群と言って、極端に攻撃性を嫌い、「女らしい」といわれる行動様式をとる。 ミトコンドリアという物は、精子にも卵子にも含まれているが、精子のそれは、受精のときにはじかれて、そこに含まれている遺伝子は、子どもに引き継がれない。ミトコンドリアに乗っているDNAは、エネルギーや、知性にかかわる遺伝情報をもっているので、それらの性質は、女からしか、子孫に受け継がれない。 女の脳は、左右が働くのに対して、男の脳は、左半球だけが活動している。だから女の方が、語学に優れている人が多いという。 しかし男の攻撃性は、幼子たちとのふれあいの中で、減少していくとの結果も紹介されている。このように女、男、が地続きになってきて、セックスのあり方が、かなり多様になってきていることは、喜ばしいことだと思っている。手術によって性転換ができることになったことを知ったとき、私も、思春期の頃にそんなことが可能だったら、真剣に性転換に取り組んだかもしれないと考えたものである。 何はともあれ、なんらかの性差があることを直視して、その上で、違いを認め合いながら、力を出し合う方法を模索していきたいものである。 |
吉澤好子さん(67才) 2005・03・30 |
「以前書いたものをここに載せました」
卓夫の本あとがき 2004/8/17 私の友人の何人かは、黒岩卓夫のことを「猛獣使い」と呼ぶ。 卓夫がいうところの「都会人」北大路秩子は、友人たちがいうように「猛獣」だったにちがいない。「女に生まれて損した」と、5人の子どもを産んでもまだ思っていたほど、女としての極度の被害意識を身にまとい、男性顔負けの攻撃性をもっていた。その攻撃性の的に狙われたのは、不幸にして、夫と長男だった。 35歳で6人目を生んで、ようやく「女に生まれてよかった」と思えるようになったにもかかわらず、その攻撃性はなかなか衰えを見せなかった。 だから「都会人」は結婚30周年を迎えたとき、この「猛獣使い」に言ったものである。「30年間も、良くぞ私の攻撃に耐えてくれて、有難う」(当時、卓夫53歳、私50歳) 卓夫は、私に出会って間もない頃、こんなことを言った。「僕の母は、君と気が合うと思う」結婚2年目、卓夫の母たかは、夫からの暴力(今でいうDV)から逃れて、長野から私たちの住む船橋の団地へ来て3人の共同生活を始めた。「嫁」と「姑」の対立は、夫の家事参加、子どもたちのけんかなどをめぐって激論にまで発展した。時に私が卓夫に泣きつくと、「自分で解決できないのか!」という。これはとてもありがたいことだった。夫を緩衝地帯にせず、すべての議論に二人で向き合い、どなりあいは日常茶飯事。子どもができてからは、「けんかやめて」の大合唱に抗して続けた。 けんかの後が二人の反省の時間。お互いにまずかったと思うところは謝って、自己の改革を進めていった。たかさんは82歳で亡くなる直前、こう言った。「あんたたちが何でもいってくれたんで、ありがたいこんだよ」1枚1枚衣を脱ぎながら、自分を変えていく柔軟性をもつ明治生まれの女性だった。 この母にしてこの子あり。卓夫が「猛獣」を使えたのも、この母たかの柔軟性をもっていたからだと思う。恋愛時代「高校の頃、自炊生活だったから、結婚してまで料理をする気はない」と言い放っていたにもかかわらず、「泣かぬなら、泣かせてみようホトトギス」と決意を固めた「猛獣」の前に、母たか亡き後「朝飯作りをする」と宣言し、すでに大学生となって家をでた長男長女を除く5人の子どもたちの高校へ持っていく弁当作りを含めて10年間、朝飯つくりに専念した。 このことは、当然のことながら、健康をテーマとする医業という仕事の中に十分生かされていくことになった。と同時に、7人の子どもたちと父親との距離がぐっと縮まる作用も見逃すことはできない。 |
毎日新聞「発言席」 2004/6/ 6月21日毎日新聞朝刊に「国立コロニー改革」が載っていた。遅すぎるといいたいくらいだ。"象徴"の改革が、すべての施設改革へと波及することを望むものである。といってもそこに住んでいた知的障害を持つ人たちが、そこを出て前より生きがいのある生活ができるのだろうかという、不安がないわけではない。 確かに、雲仙コロニーや、コロニー太陽の園(北海道伊達市)などのように地域に開かれてきたところでは、地域で暮らすための手厚いサポートが用意されているので、アパート住まいの人も、グループホームで暮らす人も、実に生き生きとして暮らしている様子が、ほんのわずかの時間の見学者にも見て取れるほどになっている。 しかし、かつて虐待で名を馳せた白河育成園のような施設が、全国にはたくさんあると思われ、そのような施設では、とても外に出て行った人たちのサポートを本人たちの気持ちを大切にしながらやっていくとは思うことが出来ない。 知的障害を持つ人たちの憧れである「一般就労」でさえ、水戸事件、サングループ事件など、雇用者による助成金詐欺、レイプ、傷害などの虐待事件は後をたたない。これらの事件として顕在化できたというのは、実にまれなケースといえる。被害者たちが、行政や、交番、社会福祉事務所などに駆け込むことがあっても、ほとんどの場合取り上げられることなく、追及されると「聞いておくだけでいいと思った」などと口をそろえてしまうのが、多くの現状なのだから。被害者たちの言葉に、または言葉にならない声に、耳を傾けられる人が近くにいたときだけ、顕在化することができるのだ。 水戸事件の民事裁判を傍聴に行っている。加害者である被告、アカス社長の証言は「道を歩いている人を殴ったわけではないから」と耳が変形するまで殴りつけたりしたことを、全く反省しないばかりか、知的障害を持つ人は、殴られて当然、と開き直っている。 「馬鹿たちは、言葉で言ってもわからないのだから」というのが、暴力の論拠となっている。とんでもないことである。証言能力を疑われ続けてきたこの裁判の原告たち3人は、実にしっかりとした証言をして、関係者を驚かせた。それはただ、聞く側の姿勢によるのだ。聞いてくれるということが信じられさえすれば、日にちこそ特定できなかったとしても、事実はキチンと証言することができる。 知的障害を持つ人たちは、人と人とをつなげていくという才能をもった人が多い。なぜなら、「迷惑を掛け合う関係」こそが豊かな関係であるということを、その人たちが、教えてくれ、その人たちの周りに、豊かな関係が出来てしまうことが多いからだ。 この方たちが、このような才能を発揮するには、施設を出て地域に溶け込んで生きられるようなサポート体制を整えることが、施設改革と同時に進められる必要があるという事を訴えたい。 その点、つい先日友人たちと見学に行ってきたスウェーデンでは、施設解体後の生活は、実にきめ細かく用意されていた。住居については、グループホームであっても、個人の障害に合わせて、部屋の設備が違う。日中の活動は、行政が保障する上に、文化活動、余暇活動に至るまで、普通の人と同じように保障している。ヘルパーのほかに、パーソナルアシスタント制度があり、その人に何時間必要かというコトを、査定員が査定した上で、精神的なサポートする人を、行政が派遣する。本人が選んでも良いので、家族があたることもあるが、すべて行政が給料を出す。 日本にだってモデルは存在する。埼玉県本庄市近辺で、施設からでた方や、施設に入りたくない方々を、その方たちの生活に即した住居を用意して、一緒に生活している方がある。吉沢好子さん。1986年ごろから精神病院から退院するところがないという方も含めて36人を地域の中に点在する12軒の家で預かった。それを「エマウス」と名づけた。1994年にはアナンという家を7軒建てた。それは、更正施設という認可を取って、実際は、グループホームに別れて住む形をとった。「施設という名前の家族を7つ誕生させます」とそのとき吉沢さんは書いている。 吉沢さんは、民間の手で、実に暖かなものをどんどん作っていった。見習いたいものだ。 |
子どもはもっと「悪い子」になろう 2004/6/4 11歳の女児が仲良しの同級生を殺した事件には、皆さん驚愕を隠せない。いつもながら「命の大切さを教える」「心のケアを」の大合唱だ。 問題はそんなところにない。一言で言うなら、加害者と言われる少女が、「いい子」を演じ続けてきて、疲れてしまったということだと思う。たった11歳の少女が、これだけの決心をするには、よくよくのことだと思うのに、誰にも相談せず一人で考えたと言っている。 少女は、成績がいいために、手のかからない子で、家族は「いい子」だと思い込んでいる。でも、両親は相談所に「なかなか自己主張ができない、はっきりノーといえないところがある」と打ち明けたという。そのことに気がついている親でさえ、子どもの変化を見落としてしまった。子どもの心の中は、そんなに「いい」ことばかりが詰まっているはずがない。嫉妬、恨み、等誰だって存在するだろう。だがそれを表現することをためらってきた「いい子」たちが突然のように変身する。 なぜ、悪い心を表現できないのか、なぜ、ノーと言えないのか、親たちからの「期待」に沿って「いい子」を演じてしまうのはなぜなのか。 多くの子どもたちと付き合ってくる中で、私に見えてきたものは、「悪い子になると見放されるのでは?」という不安だ。歩くことさえまだできないほど幼い頃から、けなげにも子どもたちは親の許容量の範囲で生きる努力をする。許容量の外にあることをすると見放される、それは大変なことだと、本能的に知っている。 ほとんどの親たちは、いい子を育てようとしている。だから、今回の加害少女の親も圧倒的に多数派の親なのだ。だからどの子にも起こりうる事件であるがゆえに「普通の子が」と皆絶句する。 私には、一つの提案がある。もっと子どもたちに「悪い子」になってもらおう。ノーと言われたらまずノーと言ってくれたことに感謝しよう。そうして、どうしてなのかと考えてみよう。悪い言葉、悪い行い、子どもたちはいろいろなことをしてみて、親がどこまで愛してくれるのかを試している。あなたがあなたでいる限り、どんなことをしても、愛しているよ。と伝えよう。生きていてくれるだけでいい。と思えたときに子どもは悩みをそおっと親に伝えてくれるのではないだろうか? 殺されたさと美さんの無念さ、加害少女のやりきれなさ、に対して「教える」という位相ではなく、「聴く」という位相で対したい。「聴く」ということは実は並大抵のことではない。言葉にならない心を聴くのだから。 |
女性と選挙制度 ファム・ポリティクへ 2004/6/4 黒岩秩子 世界を見渡せば、女性の議員がどんどん増えていっていると言うのに、日本の現状は全く遅々として進まない。世界はなぜ動き、日本がなぜ動かないのか、考察してみたい。 2003年10月現在、議会における女性議員比率は、衆院は7,1%で世界168か国中134位。参院では14,6%。1院制の国が多いので、これは62か国中29位となっている。 だがこれを、比例区と、小選挙区、地方選挙区(参院)に分けて見ると面白い結果がでてくる。衆院、2003年11月の総選挙結果を見ると、衆院小選挙区では4,7%にしかならないのに対して、比例区では、11,1%になっている。全体を通して7,3%。 参議院地方選挙区では11,4%、全国比例区では19,3%、全体では14,5%。この結果からすぐに読み取れるのは、比例区の方が女性にとって有利だと言うことだ。 選挙制度はコロコロ変わるので、大変わかりにくいと思われる。ここで少し説明をしよう。 衆議院は小選挙区と比例区の二つのシステムに分かれている。小選挙区は、300に分かれていて、それぞれ一人を選出する。比例区は、全国を11のブロックにわけ、180議席を決める。比例単独の立候補者もあるが、重複立候補と言って小選挙区と比例区に重複して立候補する人もいる。中曽根康弘氏のような有名人以外は比例区単独候補者と言うのはほとんどいない。 比例区の候補者に、党が順位をつけるときは、おかしな話だが、立候補者を何人でも同じ順位にすることができる。だから、中曽根氏が1位で、後すべては2位ということにすれば、中曽根氏の当選は決まってしまう。「終生1位」」との約束を小泉首相が破ったと言って、氏がご立腹だったことは記憶に新しい。中曽根氏のような人がいないブロックでは、全員が1位となる場合もあるし、党としてこの人は絶対ほしいという人を1位、2位として、後3位をたくさんにするという場合もある。 さて小選挙区で落ちた人は、その惜敗率(本人の得票数の当選した人の票数に対する割合)によって比例区での本当の順位が決まる。届け出たとき同じ順位だったたくさんの人たちが、1位、2位、3位と決まってきて、そのブロックでその党が何人当選するか決まると、この順位によって当選者がきまるわけである。その結果起こるのが「復活当選」という現象だ。これに対して、小選挙区で落ちた人の救済に過ぎないし、落ちた人が当選するのはおかしいとの批判があるのは当然のことだろう。しかし党が比例区の候補者順位を決めるのは、それなりの問題を含むから、このやり方にはある種の合理性があるともいえる。。 去年の選挙では、こんなことがあった。東京18区は菅直人氏の選挙区。当然のことながら自民党は落選する。しかも多分復活当選も望めない。そこで、鳩山邦夫氏にそこで出てもらって、その代わり東京ブロックの比例区2位のポストを与えた。1位は車椅子初議員の八代英太氏である。比例の東京ブロックでは、上位の二人を当選させ、3位に並んだ人たちに小選挙区でどれだけ票をとるか、競わせることになったのだ。 参議院は、地方区と比例区があるが、地方区はすべての都道府県が選挙区で、人口によって、1人区から4人区まで存在する。実質的には、1人区は小選挙区、2人区~4人区は、中選挙区と言うことになる。それに対して比例区は、全国が対象で、地方区との重複立候補はできない。地方区が149、比例区が98となっている。6年前の選挙までは、全国区の順位を政党が決めていたが(これを拘束名簿方式と言う)、3年前から非拘束名簿に変わった。 この方式がとられるまでは大もめだった。自民党の順位の決め方が、候補者の党員獲得の成果を評価する、というやり方だったために、宗教団体をバックに、金のある村上正邦氏のような議員が、自分で会費を納めて、架空の名簿を提出するという事件が起こり、逮捕されるにいたったりしたからである。 有権者は、比例区の候補者の名前を書いてもいいし、政党の名前を書いてもいい。候補者名の総計と、政党名の合計が、その政党の得票となり、比例配分でその政党の当選者の数が決まる。そして候補者の順位は、その人の名前の得票数によって決まる。これを非拘束名簿方式と言う。非拘束名簿は女性たちに不利だといわれてきたが、実際は1998年の拘束名簿選挙でも、2001年はじめての非拘束名簿選挙でも、比例区で当選した女性は10人と同じ数であり、予想は覆された。 2004年4月の選挙で、一院制の韓国では女性議員の数がそれまで全体の5,9%だったのを一挙に13,3%にした。3月に選挙法改正が通って、比例区は候補者の半数を女性にすることが義務付けられたからだ。そのため56の比例区に29(半数を超える)の女性が誕生し、小選挙区も、243人中0だったのが一挙に10となった。男尊女卑の国として知られてきた韓国が日本の衆議院を抜いた。このことが日本のマスコミではイラク人質の陰に隠れてか、報道されなかった。 北欧は女性比率が高い国として知られている。 2002年10月現在、世界中で1位から4位を占めるのはすべて北欧。スウェーデン(45,0%)、デンマーク(38,0%)、フィンランド、ノルウェーの順だが、その後順位は少し入れ替わっている。これらの国は、すべて一院政で、比例区しかないのだ。比例区の場合、政党が自主的に男女交互にしたりするので女性比率は高まりやすい。 法律で、ある割合を女性にすると決めている国もある。インド、フランスのように憲法まで変えて法律を作ったところもある。 フランスでは、候補者数にクオータ制(一定の割合を割り当てること)を導入したら、違憲判決(平等・普遍の選挙に反する)が下りたことがあり、1999年憲法改正をして、パリテ(同数の意)法を成立させた。 しかし、この法の効果は顕著とはいえなかった。法施行前女性比率が10%だったのが、施行後に12%になっただけ。小選挙区制で実施される下院議員選挙では、候補者数の男女差が2%を超えた政党・政治団体への公的助成金を減額することなどを定めたが、多くの政党が、助成金の減額を選択したのだった。罰則がゆるすぎるとの声もあるが、男たちが候補者選定のポストを占拠していることによる結果と思われる。 非欧州でランクが高いところは、コスタリカ、アルゼンチンがある。 アルゼンチンでは、次のような展開があった。 拘束式比例代表制で、「当選しうる位置に女性を30%配置した名簿を作る」ことを政党に義務づけたが、最初の選挙(1991)で違反する政党が多かったので、女性達が裁判所に提訴して違法判決を勝ち取り、政党が従うようになったので、2001年まで非欧州で女性議員ランキングがトップとなった。 コスタリカでは、「当選しうる選挙区で」という言葉を入れたことによって一挙に増えた。単なる割り当てだと、当選できない可能性の高い選挙区に女性を並べると言うことがあったからだ。2002年には非欧州では、コスタリカがトップ(35,1%)。2003年はなんとルワンダが48,8%で世界1に踊り出た。 この理由は、想像を絶するものだ。フツ族とツチ族との熾烈な殺し合いの結果、男性の人口が極端に減って、人口の80%が女性だということである。そういう稀有の事情があれば、クオータなどいらない!世界にはまだまだこのような戦闘地域がたくさん存在し、ルワンダを抜く国がいつ出現するとも限らない。男たちはいつまで戦闘を続けることか? 法律で割合を決めている国は、 国会議員だけをみると、タンザニア(議席の20%)、アルゼンチン(両院議員候補者の30%)、 ベルギー(政党の候補者名簿30%)、 ブラジル(政党の候補者名簿20% )など。 ここで、議席の割合と候補者での割合、の違いに注目して欲しい。候補者の割合だと、実際の議席はずうっと少なくなる可能性がある。 このようなクオータ制は強制的クオータと呼ばれるのに対して、政党によるものは自発的クオータと呼ばれる。北欧をはじめ、ヨーロッパ諸国はこのケースが多い。 政党によって割合が違うのだが、スウェーデン(社民党など男女交互候補者名簿)。ノルウェー(労働党の候補者名簿40%)。ドイツ(社民党40%、キリスト教民主同盟33%、緑の党、交互名簿50%)。南アフリカ(与党候補者交互名簿、その他30%、これにより1994年141位→2002年11位29.8%)。 イギリスは労働党による女性候補者のみの最終候補者名簿政策(引退する労働党議員の後継者としての候補者だから当選する可能性が強い地区と言うことになる)を96年に導入し、それによって97年の選挙では一挙に女性議員は2倍、9,2%が18,2%となったのだ。 だが、これによって候補者になれなかった男性が、労働党を相手に訴訟を起こして勝訴。それに対して労働党は、国連の女性差別禁止条約などによって、議決機関における男女比の不平等を是正することを提案し、2002年2月性差別禁止法の修正として、候補者選定に際しての男女比を是正することを定めた。2015年までの時限立法である。 これだけのことをしても、イギリスでは20%に達しない。それは、小選挙区制のみだからだ。同じように小選挙区制のアメリカでも、2003年14,3%で、世界70位に留まっている。日本では、2002年の参議院内閣委員会で、女性議員の少なさについて質問を受けた当時の福田官房長官は、その原因の一つに小選挙区制を挙げている。 一方、これまで述べてきたようなポジティブアクションに対しては、様々な反論がある。 1、 選挙の普遍性原則に反する。「結果の平等」の強制は「機会の平等」に反する。 2、 実力のある女性は「自然に」選出される。 3、 実力のない女性が、クオータ制に「ただ乗り」する。 4、 女性のクオータ制は、他のマイノリティのクオータ制を誘発する。 5、 クオータは、女性を「助けが必要な二級市民」とみなすことになる。 6、 女性というだけで、単一の利益にたつものではない。 7、 子育てはじめとする家庭責任が女性にかかっていることが政治進出の障害なのに、その構造をそのままにして数合わせに走っている。 これらはどれも聴くに値する反論である。4、については、他のマイノリティーについてもクオータ制にしたらいいと思う。ただ、このクオータ制そのものが、女性の力がつかなくては、勝ち取れないものであることも現実だ。女性たちの要求を頑強に拒まれて「それなら女性党を作る」といって抵抗したという話が外国であるが、女性党を作っても泡沫のようであれば、力を持ちえない。北欧で早々と政党がクオータ制を導入したのは、当然のことながら政治の世界に女性たちの力を認めざるをえない情況を作り出せたということでもある。5、にいわれるように、クオータのお陰で当選できた女性議員たちは、その非難を跳ね返す苦闘が要求されるだろう。 最後に一つ、日本の参議院地方選挙区のような中選挙区のおいて、単記制(一人だけを書く)であるのは、世界では稀で、複数区なら、連記制が普通だと言うことを付け加えておく。終戦直後の衆議院選挙で女性議員が39人誕生し、未だにその記録が破れないのは、そのときの選挙制度では、連記制だったからだと言われている。 何はともあれ、選挙制度によって女性が議員になることの難易度が規定されるとはいえ、女たちが力をつけることなしに、女性議員が増えても意味をなさない。 女性たちには、男たちによって、ここまで貶められてしまってきた世界を、人間の暮らしの地点に立って、未来を見据えながら、変えていく原動力を身に付けていくことが要求されている。 この稿を執筆するに当たって、三重大学人文学部教授の岩本美砂子氏から多大なご協力をいただいた。ここに深くお礼を申し上げる。 参考文献:「世界のポジティブ・アクションと男女共同参画」辻村みよ子編、東北大学出版会 |
日露戦争研究会様 2004/3/3 鳩山由紀夫氏が、中曽根康弘氏とともに「日露戦争研究会」を立ち上げた。このことの危険性を訴えたいと思う。 靖国神社のとなりにある遊就館は、「戦争博物館」と私は呼んでいる。更にいうなら、戦意高揚博物館である。明治以来の戦争にかかわるものが展示されているのだが、一番の中心は日露戦争の部屋である。その部屋に近付くとかなり遠くから勇ましい軍艦マーチが聞こえてくる。部屋に入ると大きなスクリーンに「勝った、勝った、勝った」と大きな文字が躍っている。これが見せたくてこの博物館を作った、と私には思えた。 なぜなら、第二次大戦で、負けたことについては、控えめにしか展示されていない上、あの恐ろしい原爆投下に至っては、たった2〜3行触れているだけなのだ。ゼロ戦、人間魚雷、等が誇らしげに展示されている。出口に置かれている雑記帖には、次のような文がたくさん書かれている。「感動しました。亡くなっていった方たちの分までお国のために尽くしたい」 このようにして戦争を知らない若者たちの「愛国心」を発揚させる。ここに言う「愛国心」とは、戦争をしてほかの国に勝つということだ。それは、別の言葉に直せば、よその国の人をできる限り多く殺すと言うことだ。人を愛することの対極にあることだ。 今年は、日露戦争100周年ということで、「諸君」3月号の特集には、半藤一利氏が「それからの『坂の上の雲』の英雄たち」と題して、日露戦争での勝ち方の中に、その後の戦争への道が始まる、ということを論証しておられる。 鳩山さん、どうか、日露戦争を研究されるのなら、戦争後、どうなっていったのかということまで研究するよう、御願いしたい。中曽根さんと一緒に、日本を戦争へと導くことは、止めていただきたいと願っている。 |
児童虐待防止法改正 2004/2/12 |
→ ホームに戻る