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秩子が想うこと 
(その1)
2005年2月21日まで

内山孝子の作品



学力低下       2005,2,21

 学力低下を食い止めようと言うことで、様々な議論が飛び交っている。中でも、ゆとり教育や、総合学習が、犯人扱いされている傾向が強い。
 そもそも学力とは何か、という問題も大きいのだが、とりあえずは、現状の学力検査の点数の低下を論議の対象とする。

 登校拒否児や、障害児者を含めた塾を経営してきたものとして、発言したい。エネルギーがなくなって、学習どころではない子どもたちの増加が、学力低下の大きな原因であると私は考えている。登校拒否、ひきこもりといわれる子どもたちの多くは、勉強しろ、学校に行け、という社会的な圧力によって、必要以上にエネルギーを奪い取られており、学習どころではない状態を強いられている。

 エネルギーは、その子が受けたと思える愛情の量によって規定されると考えているが、多くの親が、勉強する、いい子でいる、などの条件付愛情をかけているので、「生きているだけでいい」という無条件の愛情を求めてひきこもっているのではないだろうか?そのような愛情を受けたと思えるようになったときに、エネルギーが湧き出して、勉強したくなるのだと考える。中山文部大臣の言う「勉強しろと言わなければ勉強しない」といういい方は、多くの子どもたちの置かれている現状を全く認識していないといわざるを得ない。

遁所さんの来訪

 無念金裁判の新潟原告、遁所直樹さんが2月13日(日)魚沼地方を訪れ、午後は私が案内役をさせていただきました。遁所さんから頼まれたのは、宇洋の同級生で、今回無年金の特別給付金を受け取ることになった小沢和彦さんと会うことと、私たちが地域の中で作ってきた様々な物を見せるということでした。

 小沢さんは、学生のときに階段から落ちて、意識不明になりかなり長期間意識が回復せず、それでも、何年かたって、杖を頼りに歩行が可能になった人です。小学校時代彼が生徒会長、宇洋と萌実が副会長をしていたという仲です。小沢さんの家(うちから歩いて5分のところ)に行ったら、階段があって、遁所さんは中には入れません。リフトカーの中に来ていただいて、お互いの活動などを紹介しあって別れました。

次に、同じ同級生の岡村通男さんのところへ行きました。ここはバリアフリーだから対面できると勇んでいったのですが、なんと雪に阻まれて、玄関に行き着くことができませんでした。お父さんが言うには、除雪車が壊れていて、除雪ができないというのです。確かにいつ行ってもきれいに雪が片付いています。それはお父さんの仕事だったのですね。たった10メートルぐらいの距離にありながら、通男さんが出てくることもできないし、遁所さんが入っていくこともできない。

 小沢さんも言っていました「毎日天気の日には散歩に出かけていたのだけど、雪が降り続いて家にこもりっきりなので、関東地方にいる姉が誘ってくれて1週間姉のうちに行って来た」というのです。私達も、この雪にはうんざりしていますが、障害者にとっては、もっともっと行動が制限されるのですね。

 私の夫の3番目の施設、もえぎ園二日町診療所の中に埋め込んである古民家のデイケアに案内したときも、したから見るだけでなく、2階から見下ろすとこの古民家の梁の凄さが迫ってくるのですが、なんとここもエスカレーターなしで、担ぎ上げようといったら、遁所さん「それなら、もっと軽い車椅子できますから、今回はケータイの写真で我慢します」ということになってしまい、私は、夫に会うなり、エレベーターをつけるようにと進言しました。

 30年前から活動してきた「大和町共に育つ会」が主体となって社会福祉法人を立ち上げ、5年前にできたケアハウス、そして去年、その隣に作った痴呆性グループホーム「桐の花」は流石にバリアフリーです。でも、桐の花に入るスロープには、消雪パイプが出て雪を溶かしています。この水をとめてもらって、中に入りました。桐の花に隣接する移築してきたお寺「夢草堂」では、これから陶芸などをやりながら誰でもが集まりやすい場所にしていこうと言う話し合いの最中です。遁所さんは早速自立生活センターの合宿をここでやりたいとつぶやいていました

 冬は暖房費込みで1000円、夏は500円で、泊まっていただこうと言っています。自炊も可能です。7人分の布団があります。

 ケアハウスでは、施設長の森山里子さんが応対してくれ、社会福祉法人立ち上げの書類つくりから桐の花ができるまでの歴史を語ってくれ、制度外のショートステイ室や、ヘルパーステーションの立ち上げなど、遁所さんの介助をしている福永律子さん(「ヘンテコおばさんと子どもたち」に登場する知的障害児の母)も興味深く聞いてくださいました。


生きる力      2005-01-25

 21日(金)大雪の中を東京までいってきました。
次世代育成にかかわる厚労省と文科省の予算説明という勉強会があることを、次世代育成のMLで知ったからです。

 説明のあと、質疑の時間があったので、以前から、文科省の言っている「生きる力」について疑問をもっていたので、ぶつけてみました。案の定、文科省の方のお答えは想像通り、自分の力で考え、自分の力で・・・・・でした。でも、厚労省雇用均等・児童家庭局総務課の長田浩志さんは違いました。ハンセン病の元患者さんたちとの付き合いの中から、関係性が「生きる力」だと思うという話をしてくださいました。終わってからの懇親会で伺ったら、長田さんは、多摩全生園(東京都にある元ハンセン病患者の村)のお祭りに毎年子ども連れで参加しているということでした。

 実は、私も、保育者として知的障害をもつ子どもたちとの付き合いが、私の人生観を180度転換させてくれました。文科省の言う「生きる力」は、健常者のみを前提としているのでは?

 私の定義は、人間関係を作る能力が「生きる力」だと思っています。

 自分に出来ないことを人に頼むことができる、または、周りの人が手を出さずにはいられなくなるような人柄である。など、があれば、自分で何かができないということをそれほど苦にしなくてもいいと思うのです。勿論、健常者が、人に何かをお願いするということはそうたやすいことではありません。「自分のことは自分でしなさい」という強い観念が小さいときから作られてしまっています。だから、私は、自分の名刺に「迷惑をかけあおう」というスローガンを書き込んでいます。せめて私には、迷惑をかけてね。というメッセージをこめているつもりです。

 「生きる力」という土台があって、その上に学力とか、体力とか、様々な能力があればそれを使いこなすこともできると思いますが、土台がなければ、能力は持ち腐れではないでしょうか?それでは、生きる力を保障するエネルギーは、何によって規定されるのか。その人が受けていると思うことができる愛情の分量に規定されるのではと考えています。

 面倒な言い方をしたのは、親は多くの場合、子どもを愛していると思っているけど、かなりの割合で子どもたちは愛されていると思っていない。その「差額」が、現代の一番の大きな問題だと考えています。親は、子どものことを考えて、「せめて高校ぐらいは出て」「学校に行かなくては、あなたの将来が困るでしょ」などといいます。多くの子どもたちは、そのような「常識」はすべて知っています。でもその上で、勉強したくない、学校に行きたくないという大きな問題を抱え込みます。

 もっと小さい子の場合は、しつけを巡って親の愛が子どもに伝わらない、ということが起こります。叉、子どもたちは、自分の心と親の世間体とどっちを大切にしているか、という形で愛情の分量を量っています。言語表現ができるようになった子どもたちに、どういうときに親から愛されていると感じる?と聴くと、概してこんな答えが返ってきます。「黙って、見ててくれるとき」。

 「言うことをやめて聞くことに徹して」と要求します。

 多くの自殺する子どもたちは、学校に行くか、自殺するか、の二者択一でものを考えます。学校に行かないという選択肢があるだけで、自殺が防げる、命だけは助かるということがあるのに、多くの親たちが、その選択肢を提示できない、そんな日本社会です。

 とことんエネルギーがなくなっている子どもたちに「生きる力」をつけるには、「生きててくれるだけでいい」という愛情を送ることができるのかどうか、が鍵だと思います。

出産のドラマ

 帆姿が12月3日に、海映が4日に それぞれ女児、男児を生みました。帆姿は初産だというのに、第一声が「楽しかったよ」でした。毎日3時間ずつ歩いた成果だそうです。陣痛が殆んど痛くな かったと。3日朝入院して午後1:50、3365グラムの赤ちゃん。場所は、助産院です。その知らせを受けて、その日の夕方海映も、始まったみたい。と いって、夜10時半ごろに入院。翌日午前1:23に3120gの男児。

 二人とも、出産直後から授乳を始めます。これ、私たちのときと違うんです よね。あの頃は、母体保護ということで、24時間は授乳せず、赤ちゃんはさゆだけを飲まされている。その間に、母乳が出にくくなるということはなかったの かしら?母体保護が優先されていたのを、赤ちゃん本位で、という転換があったおかげで、結局は母体にも、そのほうがよかったのではないかしら?母乳がで て、赤ちゃんが幸せそうに吸い付いてくれるのが、実は母親にとっても幸せなのでしょうから。

 私の初めての出産の年、1966年は、ミルク全盛の ピークでした。実際、私も、「勤めているのだから、母乳でない方が楽ですよ」といわれて早々に母乳を諦めてしまったできの悪い母でした。そのご、母乳が見 直されてきて、色々なことが自然に、という流れができてきました。

 帆姿は、助産院で生みたいということで、助産院を探し、高速を使って40分というところまで行ったのです。そこでのやり方が、毎日3時間歩 く、というものでした。出産の体位というのも、妊婦本位で、仰向けではなく、四つんばいとか、立って、とか、色々その人にあったやり方を受け入れてくれる ところだったようです。 小学校の教員をしている帆姿は、産休に入る前日、全校生徒の前で、男性教師をモデルにして、次のようなことをしたそうです。帆姿が家族のMLにかいたもの です。

> 子どもたちは身を乗り出して聞いてくれたよ。「病院では産まないんだ。」と切り出したら、どよめきが。で、男の先生に、仰向けの体位をしてもらって、「こ れだと赤ちゃんは上を向いて生まれてくるから大変。私が生もうとしている助産院では、好きな格好で産めます。」と、またまた男の先生に四つんばいや立てひ ざの格好をしてもらって。

「今の子どもたちは、何かと忙しいから、せめてこの世に生まれてくるときくらいは「早く、早く」とせかさずに生んであげ たいな。」というようなことを話しました。50代の女性の先生からは「初めて聞いたわ」と言われ、隣の席の30代の先生からは「感動した。最高の性教育 だった。自分にはとてもじゃないけどできない」と。子どもたちも、家に帰って話したりしたみたい。

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 そんなわけで、こともあろうに、私は、叉して生んでみたくなってしまいました。
 落ち着いてから、ホシの出産のビデオを見ました。いやいや感動!
撮っている慶君も泣いているし、ホシもないている。私まで興奮して涙が出てきた。脂(胎脂)だらけで出てきて、それを洗わない。つまり産湯をつかわせない、というか 産湯は3日後なんだって。体にくっついている脂は、体が吸収するんだって。脂ぐるみの状態で、お母さんのおなかに乗せられてお乳に吸い付くんだ。それをカンガルーケアというんだって。


翌日のこのうちの夕食は、メインディッシュが、「胎盤」でした。冷凍の胎盤を解凍して、料理する前 にお客さんに見せようとそっくりの形のままおいでになるのを待っていました。だから、お客(檀原さん家族)はくるなり胎盤を見せられるはめになったので す。胎児が入っていた袋は氷嚢のような透明なもの。その中から臍帯が出ています。その袋の外側についている胎盤はたくさんの血を含んだなにやら怪しげなな んとも表現しにくいものです。

 以前、自分で自分の6人目の子どもを取り上げ、(4人目5人目の子どもの面倒を自分で見ながら)その胎盤を味噌漬 けにして食べたという話を聴いたことがあり、以来私も食べてみたいと思っていました。猫や犬はすべてきれいに平らげるのです。栄養満点の食品だそうです。 ホシがインターネットで調べたら、刺身や塩焼きで食べたと書いてあったというので、まず刺身で食べてみました。何の臭みも癖もないおいしい味でした。それ から、しょうが醤油に漬け込んで、から揚げにしてから甘辛く煮付け(レバーのやり方です)、これも結構おいしいものです。臍帯はこりこりしてこれもおいし い!病院では臍帯をきちんと処理しなくてはいけないので、持ち帰ることはできない、とインターネットに書いてあったそうですが、みはえのところに行く時に 持っていくといったら、「私は自分のを食べるから」と断られてしまいました。東京の日赤で2回とも出産したみはえは見せてもらったそうで、もって帰ること も可能なのかもしれません。

 「分娩台よさようなら」(メディカ出版)の著者、大野明子さんは以前この日赤の産婦人科医をしていらしたので、日赤 も、かなり新しいことに挑戦しているようです。出産後、連れ合いの男性も、希望があるなら病院に泊まれるようになっているということです。ホシが産んだ助 産院は、慶君がずうっと泊り込んでいましたが、第2子になったら、上の子も一緒に泊まれるそうです。ホシは、第二子は自宅で産みたいといっています。

 病院で産んだみはえは、2歳になった第1子を毎日病院に連れて行くということがかなり大変で、私の同期生、久保田陽子さん(第一子の保育園のご近所、このmlのメンバーでもあります)に連れて行っていただいたこともあります。久保田さん、どうもありがとう!

「子ども省」を作る提案

  12月6日、大手町の日経ホールにて、「赤ちゃんとママ社」主催の次世代育成行動計画策定セミナーが開かれました。 厚労省少子化対策企画室長、度山徹さんを始め、大日向雅美さん、山 田昌弘さん、安藤哲男さん(資生堂)、井上美穂さん(有隣堂人事課長代理)というメンバーで、一人一人のお話を聞いたあと、好本恵さんのコーディネイトで、度山さんを除く全員と、 会場とのやり取りが行われ、これ がかなり面白いものでした。

 今回は、企業が作る次世代育成行動計画のサポートということがメインの企画です。会場は殆んどの人が、何をどうしたらいいかわからないという企 業人でした。資生堂や有隣堂が企業として行っていることは、たいしたものです。それに対して、「コストはどうなっているのか」と質問がでました。資生堂の 答えは「コストではなく、投資という考え」とのことで、託児所を作って、働くママの支援をすることで、企業イメージが上がり、今年は、大卒の行きたい企業 のナンバー1になったそうです。そうなることで力のある人材がはいってくるというのです。

 一番面白かったのは、会場からこんな意見が出たことです。「少子化対策ということで、エンゼルプランが出て、新エンゼルプランも出て、でも何 も変化がないばかりか、もっと少子化が進んだ。今回の次世代育成も同じなのでは?」そこで、私はいいました。「そうなんです。どれも部分的なことをやって いるだけなんですよね。もっと全体的に取り組む必要があるのでは?今回の次世代育成も、厚労省管轄ですよね。子どもは、有権者でないからと言って子どもの ことは取り上げないという政治家がいっぱいです。子どもや、女のことを大事にしない社会を変えていかない限り、この問題の解決はないと思います。

 私は、子ども省を作ることを提案したい。韓国では、 女性省ができて、 女性の問題はずうっと進みました。日本で は、とりあえず、内閣府の中に子ども局を作って、子どもを大切にすることを、国全体で、取り組むようにしたいと思います。子どもの権利条約だって、文科省 管轄では、宝の持ち腐れ、全国の子どもたちの手にこのすばらしい武器が渡されるのはいつのことになるのでしょうか?全体として決定機関に女性が少ないこと が大きな問題」 すると大日向さんがいいました。

「私 も、それをいいたかったのです。審議会では次世代育成を内閣府に置くことを提案したのですが、次世代育成対策大綱は、内閣府でつくったのに、この法案は、 厚労省になってしまったのです。」そして、会場から、保育というと保育所のことしか語られない、学童のことが全然進まないという意見がたくさん出されまし た。これも、この次世代育成が厚労省だからなのですよね。6歳を境に、子どもの問題が厚労省から文科省に行くっていうのが、おかしいですよね。環境ホルモ ンなど、化学物質の害も、子どもの方が害を受けやすいし、胎児はもっともっとです。

 国をあげて、胎児からの「子ども」を大切にする、という方向で考えなくては、小手先の改革では、成果はないと思えてなりません。


浅草事件(レッサーパンダの帽子―自閉症)

 11月26日、浅草事件の判決公判を東京地裁に傍聴に行きました。浅草で、レッサーパンダの帽子をかぶった人(当時29歳)が、19歳の女子大生を殺したという事件です。加害者が、北海道の養護学校の卒業生だということは、その後報道され、実は、それよりも、自閉症者であるということのほうが、もっと大きなことだということもわかってきました。

 19歳の女性の立場になったら、全く許せないひどい事件であることには間違いないのですが、今回傍聴して、さらに弁護団側からの報告集会に参加してみて、彼が、このような事件を起こしてしまったのは、かなりの部分、社会の責任であることを認識しました。弁護団がはじめて彼とあったとき、彼は、ハイ、いいえ、ぐらいしか喋らず、自分から話し掛けるということはなく、目を上げることもなく、視線を合わせることもない。
だから、彼が、小さいときにいじめられて顔を殴られ、前歯が上も下もなくなっているということをそれまで彼にかかわってきた誰もが気がつかなかったということでした。実際、この判決読み上げの間中、全く顔をあげることなく、固まっていました。

 父は、知的障害者。母は、彼が高校のときに死亡。その後母代わりになっていたのは彼の妹で、彼が事件を起こしたときには、妹は末期のガン。その後死亡です。

 警察は、彼と面談して、調書を取ります。「わいせつ目的で女性に近付き、抵抗したので刺し殺した」「自分のものにしたかった」などとつづられています。ところが弁護団は、そんな言葉を口にするわけがない、と思い、法定で、40時間に及ぶ被告人尋問をします。タクシー運転手の目撃証言も警察調書に反しています。ところが、判決は、警察の調書をそっくり認めた検事側の主張そのものだったのです。責任能力はある、だから無期懲役。

 弁護団は言う。「3年間もかけて、たくさんの証人を呼び、被告本人にも無理を言ってかなりきつい尋問をし、真相究明をしてきたつもりだったのに、裁判所は全く警察による『虚偽調書』のみしか使わなかった。不誠実極まりない判決。」

 専門家としてこの裁判にかかわった岐阜大学医学部精神病理学分野助教授高岡健さんは言う。「さらに、見識のない判決。なぜなら、『自閉傾向』などという、障害者は施設に閉じ込めておけばいいと言う時代に使われた言葉をそのまま使っている。障害者もなるべく地域の中で、という時代には、キチンと自閉症というものを定義して、サポート体制が組めるようにすべきであるというのがコンセンサス。自閉症の定義は、1、対人関係(視線が合わないなど) 2、コミュ二ケーション障害(言葉や身振りなど、通じ合わない) 3、こだわり。」

 生まれたときから、受け入れ態勢があったなら、こんな事件にはならなかったはず。彼は、言葉によって人に自分の思いを伝える習慣がなく、おもちゃのピストルとか、包丁等が、唯一の意志伝達手段になっていた。ということでした。弁護団の熱意が6ヶ月ぐらいから伝わるようになり、やっと会話が成立してきて、わかったことによれば、彼が望んだのは、女性と並んで歩く、女性と並んでベンチに座る、というようなことだったそうです。 衝撃的な事件であり、衝撃的な判決でした。

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12月11日(土)に、レッサーパンダ事件の報告集会がありますのでお知らせします。

場所 全理連ビル9F(JR代々木駅北口前)
時間 10::00〜17:00
  午前 高岡健氏(岐阜大児童青年精神科)の報告と弁護団との討論
  午後 弁護団と参加者との討論
   ビデオ「塀の中の障害者たち」(黒羽刑務所・寮内工場―塀の中の障害者たち)
参加費 4000円(知的障害者刑事弁護センターへの寄付を含む)

 ビデオは「山本譲司の獄窓記」(ポプラ社)によって初めて公開された塀の中を北海道文化放送が、この8月、2回に渡って放映したものなのです。本で読んでも実にすさまじいものですから、映像だったらどんなにか凄いと思われます。ここに収容されている人たちは、ちょっと傘でつついたという程度の「暴行」が懲役10ヶ月とかになっていて、もしも、その人が知的障害者でなかったら、到底ありえないような判決を受けているのです。



中越元気村に行ってきました

県知事選挙にボランティアとしてきていた松下政経塾の橘さんが、山古志村の避難所からメールをくれたので、必要なものがあったら、知らせてと頼んでおきました。29日に、そのメールが入ったので、早速取り揃えて、30日、小千谷高校のグランドへ出向きました。頼まれたものとは、ボランティアたちの食料品を数点、各サイズの長靴、スキーウエア―、卓上コンロ、赤ちゃんのオムツ、など。

全国の方々から届いている義捐金で、卓上コンロ以外(もえぎ園へたくさん送られている)のものを買っていきました。スキーウエアーは、高いことを覚悟していたのですが、友人からハードオフと言う古物ショップを教えてもらったら、5000円ぐらいで上下が買えました。7セット3万円也。

 軽自動車に詰め込めるだけ詰め込んで、高速道路を走ります。まだ、川口近辺は、片側通行で、高速にはなっていません。防音壁が落ちたところはそのままですし、道路の亀裂も生々しく残っていす。

 高速を下りてやっとたどり着いた小千谷高校のグランドは、大変なぬかるみ。そろりと入っていくと飲み込まれて這い上がれなくなりそうな箇所だらけ。聴くと、はまって抜けられなくなった車もあるということです。運良く元気村のテントにたどり着きました。ところが、そこには、移転の立て札。後で聞いたころでは、2〜3日前の強風で、飛ばされて引っ越したのだそうです。

 途方にくれていたら、すぐそばに民主党の看板のあるテント。そこには、橘さんの後輩、福田さんがいることになっていたので、ぬかるみを避けて止め、長靴、オムツ、コンロを下ろしました。するとそこには避難所の人たちが、必要なものを取りに来ているのです。長靴が人気で、サイズをあわせてうれしそうに持っていく人たちが、続きます。このぬかるみでは、長靴でしか、外にでられません。

たちまちなくなってしまいそうなので、もっと買いに行こうかというと、これから、水戸の人が30足持ってきてくれるのでなんとかなるでしょうという。そこへ福田さんが現れて、元気村の引越し先を案内してくれました。行った所は、東小千谷体育館の空き地に、100人ぐらいが寝泊りできそうに大きな真新しいピンクのテントが2張り立っているところでした。このテントは、北海道でつくられた寒さに強いものだそうで、土地を行政から借りる代わりに1張りは行政のボランティアセンターに貸すという条件だったそうです。

 元気村の谷口さんに注文の品を渡して、東京の荒川区で、中越地震へのチャリティーバザーをする人たちが、被災地の特産品を販売すると言うので、そのことのお願いをして戻ってきました。2〜3日後に仮設住宅への引越しが始まるので、引越し手伝いのボランティアが欲しいのだけど、12月からは、ボランティアがぐっと減るとのことでした。行政は、仮設に引越しすれば、避難所には人がいなくなるとおもっているらしいけど、そうは行くまいとのことでした。
 まだまだ被災は終わっていませんでした。

 そのご、荒川区のチャリティバザーにコシヒカリと、地酒を出すことになり、どちらも、橋渡しをすることができました。12月19日(日)に、斎藤ゆうこ区会議員のところでバザーが開かれます。

「誤解の天才」躍如! という報告をします

 9月6日私はここ浦佐に引っ越してきました。翌7日、関東地方からDVの被害者母子を受け入れました。中南米の人たちで、子どもは中3、加害者は日本人で、麻薬常習。住むところ、働く場、受け入れ中学、そしてそれをサポートするという警察や、婦人相談所など完璧に揃いました。

私は、ご存知のように県知事選挙で新潟に通うことになっていたので、現地でサポートしていただく方をお願いしました。Hさんというその方は、大地塾からの付き合いで、私も彼女も、大地塾生たちからとことん本人の意向に沿うということを叩き込まれています。

 今年の春DV法が改正され、7月1日付で、全国の市町村に通達が出ていました。DVとわかった転出の場合、夫に住民票の開示をしないようにということで、警察の認めが出たら、親族であっても開示しないという措置が取られるようになったのでした。中学に入れてもらうために外国人登録証をこちらに移したのですが、後で知ったところでは、そんなことをしなくてもDV被害者の子どもは、全国どこの学校でも受け入れるのだそうです。

それを知らずに、登録証をこちらに移したのだけど、家族にも開示しないという措置が取られ加害者に居所が知られることはありませんでした。被害者が、すでに、警察、裁判所、相談機関など、色々行っていたので、DV被害者であるということは、こちらで証明する必要はなかったのです。何しろ、9年も加害者と生活してきていて、すでに3回本国へ逃げ帰っています。そのたびに加害者がつきとめて、謝り、連れ戻していました。

 今回、こちらに来て2週間もしないうちに加害者は逮捕され、追ってこられる心配から解放されました。7日に引っ越してきて、子どもは8日から学校に行きます。この中学の校長たるや、なかなかの方で、すべて彼が取り計らって、偽名で受け入れをしてくれました。

 夫の初公判が11月2日ということになり、加害者の親から嘆願書に判を押してくれといわれ、被害者は、それと引き換えにお金をもらおうとしたことから、急転直下、10月31日にもとの家に戻っていったのでした。なぜ加害者の親と連絡していたのかというと、私にこのことを依頼してきた子どもの元の中学の先生が、自分の身が心配になって(校長が理解を示さなかったために、彼は独自で動いたことを校長から「懲戒免職」と責められ突然ジギル博士がハイド氏に変身した)加害者の親に被害者の居所を教えるといったことから、こちらから加害者の親に電話したのが始まりです。

 これで、いかに私が「誤解の天才」として、まわりの人たちを巻き込んで、大変なことをしでかしてしまうか、改めてご理解いただけたと思います。さらに、このことを通して、私の周りには、いかに気のいい人たちがたくさんいられるのか、もお分かりいただけたでしょう。すべてが終わって、かかわった方たちすべて「いい勉強になった」と口をそろえてくださり、私の浅はかさを責める方がないということが不思議なことです。

 今回も、行政が用意した相談所などが全く役に立たず、民間のシェルターがいかに凄い働きをしてきたのかということを知ることができました。行政は、本人がこなくては一切始められないという立場す。民間は、交通費さえ負担すれば、即飛んできてくれ、たくさんのケースを知っているので、ものすごく頼りになりました。突然帰っていかれてお詫びの電話をした私に「こんなケースばかりじゃないから、どうかこれからもかかわってくださいね」と慰めの言葉をいただく始末でした。

 10月末は、私は殆んどここにいなかったので、被害者とのかかわりは殆んどHさんに任せており、最後に帰るときにも、越後湯沢まで車で送って見届けたHさんでした。そのHさん以外にはどこにも挨拶することなく帰っていったのですが、勤め先では言葉の不自由さにもかかわらず一生懸命働いていたということで、それがせめてもの救いでした。

 加害者は、そのご出所して、息子の高校進学のためにこちらの中学に電話してきたということです。きっとハネムーン期ということなのでしょう。いつまでもそれが続くことを願いつつ。

 いつも私のすることには厳しい言葉が飛んでくる次女海映が、今回はいい相談役を務めてくれました。「DVの中でも特別困難なケースだよ。素人だけでよくやったね」 とねぎらってくれました。でも、今度こういう依頼があったら、関係者に、よくよくその覚悟があるかどうか確かめることにするつもりです。といっても私はお猿のジョージですから、叉始めてしまうのでしょう。

田麦山、吉谷       2004年11月23日

 11月22日夜、京都から根津氏(医者)が、被災地支援ということでこられ、卓夫のやっているデイサービス「地蔵の湯」に泊まって、23日は、もえぎの職員二人と私と4人で、例の「除外」車で被災地へ出かけました。根津氏は、在宅医療ネットワークのメンバーである永原診療所の所長さん。以前、関西の地震の後に7年間通い続けて、被災者支援のあり方を追及してきた方です。

今回も、あの時と同じように被災地で取り残されている方はないだろうかという思いで来てくださったので、行政のやっている避難所よりも民間の避難所の方がいいのではと思い、川口町のホテル跡地の避難所にまず行きました。するとそこはもぬけの殻、昨日、全部引き払って、皆うちへ帰ったというのです。それは喜ばしいこと、ではあるけど、残念でもあります。何しろ、何かを持っていって受け取っていただけるという幸せがなくなるという事ですから。そこで思い出すのは、「ボランティア公害」という言葉です。ボランティアをもてなすためにかなりのエネルギーをとられてしまう状態をいうのだそうです。

 いつも窓口を務めてくださっている服部さんの夫君の実家が田麦山だということがわかり、川口の中で一番ひどいところだというので、案内していただくことになりました。中心部からかなりはなれたところの高台にあります。そこの避難所は小学校です。行って見ると、校舎の2階までが避難所で、3階だけが、教室。400人が体育館だけではたりなくて、教室も使っていました。ボランティア受付で、京都から医者が来たことを伝えると、応待の人の顔がほころび「いなくて困っていた」といいます。これはいいぞ、と思ったのは一瞬でした。

 中から看護部という人がきました。「私も静岡からきたボランティアなので、わからないのですが、やけどの人のためのガーゼが足りなくて困っています」というので、早速もえぎ園診療所に連絡して、用意して届けてもらうことにしました。それから、「中に入って被災者の皆さんのお話を伺ってもいいでしょうか?」というと、「それは困ります。係りのところまではご案内しますが。」ということで中に入っていったら、そこには、看護部の責任者がいまし
た。ところがその人も、遠くからきたボランティアで、ガーゼを届けるというと、「私もボランティアで、いつ帰るかわからないので、そんなことをされても困ります」というのです!

「今日届けますから」というのが精一杯でした。先に入った根津さんは、「どんなことができるか、この紙に書いてください。それをだしていただいてから、協議をして、声をかけますから」といわれたのだそうです。これってどういうことだと思います?自分自身責任を持つという姿勢がないにもかかわらず、責任者として仕切るだけはするということなのでは?地元の人が窓口にならずに、よその人たちに任せてしまっているらしいのです。

 地元の人たちがこういうことでいいと思っている以上、私たちには、手が出ません。引き返して、次は、小千谷市の池が原に行こうということになりました。トマトのハウスを避難所にして、自主的にシャワーなども取り付けて、やっていることがテレビに出ていたというので訪ねました。

ところがそこは、2週間ぐらいで閉じて、家に帰ったのだそうです。家の中のことをしているらしいおじいさんに声をかけてきいてみると、シャワー取り付けがうまくいかなかったし、トマトをやっている人が、来年に向けての作業があるということで、たたんだのだそうです。全国からの物資は確かに部落に届いてはいるけど、届けるときに留守だと、置いてもらえないなど不平等があるとのことでした。

お話を聞かせていただいたお礼も込めてレトルトのおでんなど、少し置かせていただいて帰ってきました。家に帰れない人は、まだ小学校などにいるということで、最後に「吉谷が一番ひどい」というので、そこには、もえぎ園の職員品田さんが住んでいて、全く孤立して部落から出られない日がつづき、もえぎの職員がお見舞いに危険を冒して訪ねたことを知っていたので、いって見ようということになりました。

 やっと探し当てた吉谷は、確かにすさまじいところでした。品田さんの隣の家は、屋根の部分がそっくり横に倒れ落ちています。その屋根のかわらを1枚1枚ボランティアの人が運んで片付けたということを品田さんのお父さんに聞きました。老人の一人暮らしの家だということですが、落ちた屋根の跡にシートがかけられているだけの無残な姿がありました。品田さんの家は、形は残っているけどそこここに亀裂が入って、紙が貼られたら、赤か黄色でしょう。

池が原も、吉谷もまだ紙を張る人が回って来ていませんでした。部落中が瓦礫の山という感じで、道路工事の人たちがたくさん、そして、住めなくなった家を壊して、新しい家を建てる準備に取り掛かっているところもありました。おでんの袋や、毛布など品田さんのおうちに置かせてもらって、帰ってきました。

 根津さんは、関西では、1月の被災で、その年の9月に兵庫県被災者連絡会ができたということで、ここでも、きっといつかそういう動きになるだろうと言っていました。というのは、みんなが避難所から出て行って、少しだけ残っていると、早く出て行けということが露骨になって、被災者を追い詰めることになるから、そのころからがわれわれの出番、というのでした。
長期戦で考えようと思いました。


大地塾生の被災者たち    2004年11月14日(日) 

 ご無沙汰しました。東京からの引越し荷物の整理やら、ケアハウスに住んでいる母が、隣にできた痴呆性グループホームに引っ越して、その引越し荷物もたくさん到着して、私の大の苦手である「片付け」をせざるをえなくなっていました。

 そんなある日、大学時代のバレー部のコーチだった方から、被災見舞いの電話をいただきました。その中で、同じバレー部の後輩にあたる方が長岡に住んでおられるという情報を得ました。そこに電話をしたら、なんと、色々な糸でつながっていた方だったのです。長岡にある精神病院の看護婦をしていて、登校拒否の子どもたちの相談を受けており、私のだしていたミニコミ紙「大地」を読んでいたというのです。

小千谷の阿部さんが持っていっていたとのこと。さらに、川西町の小海さん(フリースペース主宰)ルートもあるとのこと。阿部さんも、小海さんも大地塾でやっていた親の会には来てくださっていたかたでした。とっても驚いて、ケアハウスに行くと、そこにいた広田さん、(大地塾生の親御さんで、ケアハウスの職員、正確には、そこの隣にできたお寺で夢草堂というフリースペースの責任者)が、私が何も言わないのに「小千谷の阿部さんのうちがねえ、たいへんだったのよ」というのです。

私の話をしたら、そういえば長岡に相談に行ってるって言ってたわといいます。栗田さんに私は阿部さんの息子さんとのことを話しました。大地塾をやめた後、彼と文通をしていて、なにやら告発されたのだけど、何を告発されたのか、わからなかったということを。すると栗田さんもいいます。「私も、彼とはだめだったんです。1回あっただけで後は、お母さんとだけ話してます。彼の考えているとことは、ものすごくユニークで、なかなか理解できないのですよ。」と。

 その翌日、十日町の元塾生たち(きょうだい3人)の家を訪問しました。当時3人の子どもたちみんな小学生で、3人とも登校拒否、塾にはいけないからということで、私が週1で訪問していたところです。下水道管が壊れて、工事中だということを電話で聞いていました。車は、家まで入れません。大地塾を閉じてから6年が経っています。最後の頃4年生だった末っ子さんは、もう16歳。すっかり女性という感じになっていてびっくり。長女さんも、本当の大人です。被災したときの大変な状況を、お母さん、おばあちゃん、二人の子供たちに聞きました。2番目の長男さんは、昼夜逆転でおきてこなくて残念でした。子どもたちがいいます。「びっくりして家の外に出たら、隣の家がひし形になっていた」ところがそのうちのガラスは割れなかったといいます。

だから、ガラスが割れたという家はよっぽどの振動が加わったということなのでしょう。お父さんが、はじめの振動のときに家に入って、あらゆる容器に水をためておいてくれてとっても助かったのだそうです。どうやら、1回目の揺れでみんな家を飛び出し、その後、2回目、3回目とゆれが来て、そのときの方が大きかったので、2回目、3回目のときに家がつぶれたようなのです。だから、家がつぶれるときには、みんな家にいなかったためにこれだけ家がつぶれていながら死者が少ないという現象を作りだしたのだということがわかりました。

 この家で、バレー部の後輩の話をして、その方の名前が栗田さんだというと「あら、私たちもそこに相談に行ってた」と言うではありませんか。小海さんからの紹介で、行っていたのだそうです。そして、「塩殿はここなんてものじゃなくすさまじい被害」だというので、塩殿の元大地塾生の家を訪ねてみようと心に決めました。栗田さんが勤めていた長岡の精神病院の院長さんの息子さんが、家の下宿生なのでした。

 さて、今日は、小千谷市塩殿の阿部さん宅を訪問してきました。広田さん、小林さん、昔の親の会の仲間たちと一緒に行きました。阿部さんの家族は、外にとびだして、車生活をなん日もし、2年半家のにでたことがなかった息子さん(26歳)が外にでて、車の生活をしたというのです。その後、2年半ぶりに家族と食事をともにしたと言うではありませんか。

地震のお陰は、ここにもありました。ここの家のおばあちゃんは、脳梗塞で身体障害者になって、ほぼ寝たきり状態。そのおばあちゃは、絶対に避難所に行くのはいやだというので、阿部さんとおばあちゃんは、頭に防空頭巾様なものをしっかりカブって家の中で過ごし続けたのだそうです。そんなことも可能だったのですね。自己責任ということでしょうか?栗田さんのところへ十日町の親子も行っているということ、阿部さんは驚いていました。地震がつないでくれた細い糸の話でした。

 皆さんからのカンパは、今も送り続けられています。物を運ぶことは、もういらなくなったようですが、現金は、これから必要になってくるはずです。職場がすっかりだめになって、給料が入らないという人たちが、これから続出するはずです。そういう方たちへのお見舞いとして使わせていただくつもりですので、これからでも遅くありません。どうぞお送りください。

被災地訪問記(その2) 2004,11,9

 6日、今回の地震の震源地をこの目で見た思いでした。
 今日は、全村離村の山古志村の、虫亀小学校に以前講演に呼んでいただいたことを思い出し、虫亀部落の避難所である長岡明徳高校に連絡をとりました。ケータイに出た若い女性の金子さんは、「コーヒーとクリープを欲しがっています」といいます。この町のスーパーで、インスタントコーヒーとクリープを買い込み、もえぎ園診療所の支援物資をあさって、私の車の初使いです。ケーキ屋さんで、「あるがじゅうの」クレープを買い占めて出発しました。

 はじめに、先日行った川口の避難所に立ち寄り、服部文枝さんを探しました。私を見つけると抱きつかんばかりにうれしさを表現して近寄ってきました。先日のプレゼントがうれしかったという姿を見たら、私のお古の長靴を履いています。「これがありがたいんです。家の中はガラスの破片があるので」叉、茸栽培の工場に勤めている夫君が工場の片付けにいって、ものすごいほこりなのでマスクがありがたいといっていたそうでした。

 ここのホテルの避難所は、佐藤正明市議が、最初に見つけて、オーナーに話したら役に立てるのがうれしいといったそうですが、行政からは勝手なことをやるということで、かなり手厳しく怒られたとも言っていました。ところが、行政主導でないので、一人一人の主体性が発揮できてうれしいと服部さん。今日から、プレハブのうちに移るので、そうしたら卓上コンロがほしいと言うので、持っていった物を、カセット6本付きで置いてきました。このプレハブは、一人月5000円で、二人だと1万円だということです。

 黄色紙が(赤、黄色、緑、に分けられて、その危険度が表示される)張られているという服部さんのお家を案内していただきました。17号線沿いではなく、旧国道沿いに歩いていくとほぼ2軒に1軒はつぶれています。川口で最大のスーパーあんたや、がつぶれているのには胸がつぶれる思いでした。そこは、宇洋の同級生のお家です。彼の父親は大和中学の金山先生。キンザンと呼ばれていました。旧国道のひどさも凄いもの。真ん中に通っている消雪パイプのライン沿いに陥没、隆起、が起こって段差ができ、20キロ運転です。たくさんのつぶれたお家を見て、こここそが震源地だと思いました。

 ところがです。明徳高校の避難所では、もっとすごいのです。
 虫亀は、山古志の中で2番目に大きい集落で、170軒。親戚などに避難している人を除いて300人が体育館に住んでいます。そこの本部長が、役場の産業課係長の女性長島さん(40歳ぐらい?)でした。彼女は私の著書を読んだということで、「お陰で楽しい子育てができました」から始まって、今は村に住めないことをみんなが納得しているけど、何年かたったら、色々なことが問題化するでしょう。この間、村に帰った時、元の村の風景がもう見られないと思うと、といって涙ぐんでいました。そんな彼女を抱きしめてしまいました。

 自衛隊の人たちが、川口から山古志に入って、「山古志は川口どころではない」といっていたそうです。山が半分ぐらい流れてしまったところもあるというのです。全村避難しか今はありえない、道がだめだから、店も開けないし、とっても食べていけないとのこと。今日は、クレープが少ししかなかったけど、明日は、内山さんが、ケーキ300個調達してくれることになり、もう一回二人で行くことにしました。全国から送っていただいたカンパで、これからも必要といわれるものを届けますね。
やっと、コーヒータイムの要求が出てきたというところに希望が見出せました。

 その日の夜、精神科医で、災害地でのフィールドワークをしてこられている野田正彰さんから電話があり、かなり長時間はなしこみました。私が、「今日、山古志と川口に行ってきました」というと「山古志はどこへ?」「2番目に大きい集落です」「虫亀ですか?」といわれてびっくり。彼は山古志の避難所すべて、川口もかなり行ってきたといいます。偶然同じ日に同じところへいってきたということで、色々話したのですが、彼の話でショックだったのは、奥尻島のあと、送られてきたものを焼却するのに相当なお金がかかったということでした。その後別なMLで「被災地へものを送るな」という投稿を見ました。叉、被災者たちが、自力で復興に取り組む力をそいでいるのではないかという自分の子どもを「教えないで育ててきた」私としての疑念もありました。

 とりあえず、7日は、内山さんにケーキ300個をもって長岡の明徳高校に来てと頼んでありました。昨日応対してくれた長島さんが、今日も、「うれしい」、といってケーキを受け取ってくださいました。その後で、聞きました。「昨日のクレープはどうしたかしら?」その答えは「夜になっても起きている方があるので、スタッフだけで食べることはできませんでした」驚きましたね。20個ぐらいのクレープをスタッフにもらったと思ったこと、そもそもスタッフという概念があることにも驚きました。みんな同じ避難民じゃないんですね。

 この長島さんという方、内山さんとも「役人という感じが全然ない方」と話していたんです。その人がこれ!私だったら、クレープを4つぐらいに切ってそこにおいてだけおきます。食べたい人が食べればいいと思うのです。

 帰りに叉川口によりました。長靴や、マスクがもっとほしいといわれたので、それを届けにいったのです。ここは、やっぱり官僚が入っていないだけあって、私が持っていった長靴を見て、5歳ぐらいの子どもを抱いた若いお母さんが、よってきて「子どものはありますか?この間きた方に頼んでおいたのだけど、まだこないんです。」というので、サイズを聞いて明日送ることにしました。実際、川口には、売っているお店がつぶれていてないのです。

 こんなこともありました。元大地塾生(22歳)が川口にいるので、探し当てました。そこのうちはイエローカードでしたが、お母さんがいて、話を聞きました。彼と彼のお兄さんが、まだ危険が伴う頃、危険な道を通って町の外にでてみました。それに釣られてお母さんも出てみたら、長岡市役所で、アパート借り上げをしていることを発見、町外のアパートを見つけてそちらに住むことにしたのだそうです。ところが、それは、絶対に町の人には言えない、村社会だから、というのです。

そんなところにも大変な精神構造があることを知らされました。
もう、これで、物を届ける作業は打ち切ることにしました。
ご協力、どうもありがとうございました。

これからは、大地塾に来ていた子どもたちの家を訪問しようと思っています。

中越地震被災地訪問記  2004,11,4

 全国の皆さんからご心配いただきましたが、我が家はほとんど被害なしでした。
当日私も夫も不在で、地震の体験をしていません。
私は、10月いっぱい出歩いていたので、11月に入ってから、被災地へ車で出かけるようになりました。その報告です。


 11月2日、鈴木美和子さんが主宰しているマイマイ族というミニコミのメンバーが川口にいるということを聞いたので、電話してみました。まさかと思ったのですが、電話が通じたのです!昨日から通ったということでした。電気が昨日とおったので、避難所から洗濯をしに戻ったところだというのです。きいてみると欲しいものは、長靴、靴下、下着、ゴム手袋、食料もそこをついたので、カレーや、雑穀雑炊(震災時私は岩手県宮古市の養護学校の先生から呼ばれて講演にいっていました。

そこの知的障害者の皆さんが作っているもの)はうれしい、とのこと。私はうれしくなって、今日から開通するという和南津トンネルを通っていくことにし、もえぎ園デイケアの、送迎車を借りて、色々詰め込んで、いただいたカンパで必要なものを買って、とそこまではよかったのです。小出町のスーパーで下着を買ったとき知り合いの店員さんに聞かれて、川口へ行くと話したら、トンネルが通っていないというのです。役場に問い合わせたら、夜中の余震で工事が遅れて、4時にならないと通らないというのです。

私の借りた車は、3時までに返さなくてはならないので、回っていくことは不可能。高速道路を通るには、適用除外という車でなくてはだめ、それで行こうと引き返しましたが、その車のあるところが、二日町診療所といって、川口からは一番遠いところなのです。この車も、送迎車なので、3時に帰ってこなくてはなりません。とうとう今日行くことは諦めて、早速車屋さんに駆け込んで、中古の軽自動車を買うことにしました。私としては、まわりの皆さんの平和のために私が運転する機会を少なくしようということで、持たないという選択をしてきたのです。こうなったら仕方ありません。地震のおかげで車を持つことになりました。

 地震のおかげといえば、まだありました。今日は、一人で留守番をしているのではと
心配していた坂西耕輔(知的障害者で27歳)と一緒に川口に行こうと思って誘いに行ったらいない。お母さんの職場である浦佐幼稚園に行ったら、耕輔は、仲良しの家に行っているというのです。これは、もえぎ園の託児所です。地震のあと、一人で置いて行けないので、父親(もえぎ園の事務長)が出勤するときに仲良しの家に置いて行っているというのです。小さい子大好きの耕輔には、きっと住み心地がいいのではと思います。子育て支援の拠点としても、叉学童保育としても、広範な活動をしている託児所です。私の「ヘンテコおばさん」の本に登場するこの地域では名を馳せた存在の耕輔君です。

 翌3日朝一番で、出発。ところが、野菜の注文を受けていたので、何処かで買ってと思って心当たりを回ったけど、朝早くてどこもだめ。諦めつつ走っていたら思い出しました。川口町の手前に知的障害者のミニコロニーがあって、そこでは、野菜を作って販売しているはず。7年ぶりにいったのですが、結構おぼえていてくれて、両親がいなくてみんなが帰省するとき、私のうちに帰省したことがある妙子ちゃん、「黒岩」と名乗ったら、思い出して満面の笑顔。職員の人と畑に行って、白菜、大根を取り出して、洗って車に積みました。

9時半堀の内を出て、普通なら5分のところ、片側通行の和南津トンネルに行き着くのに50分を要しました。24時間の突貫仕事で開通させてくださった工事の方を見るたびにありがたくてお辞儀しどうしでした。トンネルを過ぎるとがらりと光景が変わります。プレハブの事務所がつぶれてがけに崩れ落ちたり、車庫がつぶれていたり、1階がつぶれて2階が道路まで倒れています。ここが震源地、とくっきりわかります。そばを流れている魚野川の流れに「何も知らないんだね」と語りかけながら走ります。

 電話で聞いていた避難所につくと、そこは、誰もすんでいない元ホテルだった建物。知り合いの服部さん夫妻がうれしそうに迎えてくれ、注文を受けた物資を渡すことができました。卓夫が在宅医療ネットワークの皆さんに呼びかけて送っていただいた物資の中から、毛布、ホッカイロ、バスタオル、シップ薬を持っていき、ても喜ばれました。この避難所は、全壊した家の人が自主的に集まって、行政の支配が届かないところです。だから、昨日いけなくなったことの連絡を役場に頼んだけどされていなくて、一日中待っていたそうでした。この避難所に、萌実の中学の同級生の家族がいました。姑さんがいて家業は瀬戸物屋で「丁度よく全部壊れた」と笑っていました。同級生は勤めにいっていてあえず。

 それから昨夜頼まれた小千谷の知り合い(家のお手伝いさんの息子が婿に行ったうち)に、リースのガスボンベを届けながら、野菜や食べ物を持っていきました。途中まで迎えに出てくれて先導してもらいましたが、道がでこぼこで、マンホールが飛び出していて、ゆっくり運転です。行き着くと、おばあちゃんと彼の妻二人が、涙が出るといって喜んでくれました。

 これまでは、薪をもやして調理していたそうです。家の中を見せてもらって、外観では全くわからないひどさがよくわかりました。壁は殆んどはげていて、断熱材が木でとめてあるだけ。まるで建設途中です。柱と壁の間があいていて打った釘が見えます。余震のたびに隙間が広がる。

 2階はこの夏リホームしたので、損壊は少なく、家具が作り付けになっているために、被害がなし。作り付け家具は地震に強いことがよくわかりました。小千谷のジャスコが、幽霊屋敷に変身していたのが、強烈な印象でした。見る影もなく鉄骨が突き出している状態なのですから。昔大地塾生とゲームをさせてもらっていたなつかしのジャスコです。

 帰りは、「適用除外」の紙を見せて、高速道路に乗りました。ところが、低速道路状態です。浮き沈みがあり、とても速くは走れない。緊張しての運転。でも、これからも知り合いに電話して、注文を聞いてから持っていくことにしようと思いました

 昨日お話した耕輔君は、夜電話がありました。家の片付けの手伝いをするから行かないということで一人で行くことになったのでした。昨日より車が小さいので、耕輔が乗らない分、ものをたくさん積むことができたのでした。叉今度一緒に行こうね。こうチャン。

 午後は、今日から家に下宿することになった高校一年生(男)をご両親と一緒に迎えました。長岡から六日町高校に通っているのですが、冬だけの下宿を頼まれていました。ところが、この地震で、長岡から通うと始業時間に間に合わないため、昨日急遽、今日からと頼まれたのでした。明日の朝から、朝食つくりをまじめにすることになります。


ご無沙汰しました。    2004,11,3

 新潟に引っ越してきてから初めての更新だということに驚いています。10月17日までは、新潟県知事選挙、その後は出歩くことが多く、その間にこのものすごい地震!31日に戻ってきてから、毎日避難所に通っています。
今日こそ、一番被害の多かった川口、小千谷にいってくるつもりです。昨日、17号線のトンネルが開通したというので、御用聞きした品物を買い込んで途中までいったのですが、前夜の余震で工事が中断したために開通が遅れていけなかったのです。今日こそ行ってきますね。
 掲示板がとってもにぎやかになっていてうれしい悲鳴でした。

浦佐に引越しします。   2004,9,6

 1年半の東京での生活をこの9月6日に終わらせ、浦佐に引っ越すことにしました。私がこちらに来てすぐの頃、夫の頭に円形脱毛症を発見し、これはそう長くは続けられないな、と思っていました。でも、人から「秩子さんに早く帰ってきてもらいたいよね」といわれたときに、夫が首を縦に振らなかったので、一人暮らしも気楽でいいのだろうと思っていました。これがどうやら、「誤解の天才」を自認する秩子の誤解だったようなのです。8月の始め頃からそろそろ、と考えはじめました。東京ではもう充分勉強させてもらった。東京に足場を作ることは殆んどできなかった。いろいろな人やグループとつながりはできた。障害者雇用促進については、めどが立った。これからも必要なときには上京して来ればいい、孫の保育園のお迎えも時々させてもらおう。何しろ浦佐から東京まで、1時間半なのだから。

 お盆に卓夫に帰ってこようかと思って、と話すと、「それはありがたい」と言うではありませんか。よく聞いてみたら、1970年に浦佐へ引っ越したのは、自分だけの都合だった。というのです。いやいや、浦佐では、確かに保育所で受け入れられなくて、大変だった年もあるけど、概して楽しい保育所生活だったし、なんといっても浦佐だったから7人のこどもを育てることが可能だった、そして、都会よりも一人の人間の存在が重いと実感していたから、卓夫がそんなことを思っていたとは、驚きでした。更にいいます。「秩子がいなくなることで一番心配だったのは、子どもたちが帰ってこなくなるのでは?帰ってくるとしても、僕への同情だったり・・・」それはおそらく食事の責任を持っていなかったことへの不安があったのでしょう。実際は、子どもたちは正月と盆しか帰ってきませんから、その時は私が帰省しています。ただ、たかひろだけが時々帰ってきます。
 宇洋が帰ってくるときには卓夫なりに食べ物を用意して待っているのだけど、全然食べなかったり、「いつも同じものばかり・・・」といわれたり、最近は随分気を使って色々買って用意していたのでした。そういった日常的なところで大変だったのでしょう。そういえば、春は山菜を家族に送ることを仕事にしていました。

 新潟県知事選挙(10,17)に野党共闘の候補者として立候補を表明している多賀秀敏さんの選挙事務所ができ次第、そちらにいくつもりでいます。宇洋の選挙のときの事務局長江花さんにメールして、ボランティアとして参加したいというと、歓迎してくださるそうなので、喜んで参上するつもりです。新潟の皆さん、叉仲間に入れてくださいね。お願いします。

9・11事件に関する新映像の発表    2004,8,20
          ―於、参議院議員会館

20日は次のような催しがあって、衝撃を受けてきました。

<緊急記者会見と上映会のお知らせ>
日時:8月20日(金) 1時半から4時半まで
場所:参議院議員会館第3・4会議室
発表者:
  きくちゆみ(グローバルピースキャンペーン)
  マッド・アマノ
  森田玄(ハーモニクスプロダクション)

■内容(ドキュメンタリー2本立てです):
 1時30分〜:9・11事件に関する新映像の発表
 “In Plane Site”(日本未発表:70分・英語)の上映
 www.thepowerhour.com
 3時〜:ドキュメンタリー集『テロリストは誰?』日本語字幕版の上映
 www.wa3w.com
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 20日は参議院議員会館に行ってかなりのショックを受けてきました。
9,11については色々な噂があり、怪しいとは思っていましたが、そんな程度ではなく完全に私は説得されてきました。ブッシュ政権の自作自演であるということを!

 映像は、特別な人が撮ったものではありません。CNNとか、誰でもが見ているテレビ局が撮ったものが集められているのですが、あの日、4機の飛行機が関係していましたね。その中のペンタゴンに突っ込んだといわれている飛行機、どなたか、飛行機がペンタゴンに突入する映像、見た方はありますか?ありませんよね。誰も見なかったそうです。

 そして、突っ込んだために壊れたということで、できたくぼみ、の大きさと、突っ込んだといわれる飛行機の大きさとでは、飛行機の方が大きいのです。しかも、貿易センタービルは、二つとも崩れ落ち、燃えてしまったのに、ペンタゴンは、燃えていません。

 貿易センタービルの方もよくよく見ると、突っ込む直前に光が発せられ、また、爆音を聞いたという人が複数いるのです。よくよく見ると、飛行機の下に何かがある。おなかに張り付いているのです。どうやら、それが爆弾だった、そうでなかったら、なぜ、あの建物が全部崩れ落ちたのか、説明ができないというのです。2機目の突入は、たくさんの映像があります。それによると真ん中に突っ込んだのではなく、少し外れたところに突っ込んでいます。丁度真ん中にどでかい鉄骨の柱があって、そこに突入しない限り全部が崩れ落ちるということは考えられないのだそうです。

 ハイジャック犯といわれる19人の若者たちは、そのうち8人は生きているといわれています。この19人は,FBIに雇われていたとNYタイムズも報じていたそうです。

 センタービルに突っ込んだ2機目を目撃した人は、普通の旅客機ではなく、窓がない軍用機だったと言っています。人は乗っていなくて、リモコンで操作されたというのです。

 とにかくアメリカ政府は、殆んどのことを隠してしまい、情報を出しません。ブッシュが第1報を聞いて驚かなかったことは皆さんご存知ですよね。はじめに突っ込んだ1機目を見たといってしまい、その後思い違いだったと訂正したそうです。

 このビデオは、日本語の字幕をつけて、皆さんにお分けしたいとのことです。今のところ英語版しかないそうです。詳しくは、genm@trust.ocn.ne.jp

 更に、「テロリストは誰?」の第5章を見て衝撃!これは、アメリカの中にある school of the Americasという学校(叉の名を暗殺学校)で、中南米の軍隊を訓練して、暗殺を奨励しているという映像でした。とにかく、アメリカという国の権力のやっていることはとてつもないことだということ、でもそれを告発するアメリカ人がいるということ。大変なものを見てしまったという感じでいます。


無防備地域宣言運動ーー8月1日全国集会

 8月1日、日本教育会館に全国の無防備地域宣言にかかわっている人たちが集まって集会を持ちました。大阪市の直接署名が市当局に提出され、その条例化をめぐって7月20日から臨時市議会が開かれました。その報告を聞きました。 

 大阪市議会では、「無防備地域宣言を目指す大阪市民の会」の4人の人の陳述(自治法の改正で、今年からできた制度)を受け、財政総務委員会審議を経て、採決の結果、89人中共産党13人の賛成のみで、自民、公明、民主、無所属すべての反対で、否決という結果になりました。

 しかし、この運動の過程で、大阪市議会は、各委員会の傍聴は許されていないという前近代的な規則があることが炙り出されたり、4人の人たちの陳述を聞いてもらえた、等の成果もあったということでした。

 更に、この8月末から大阪府枚方市で、同じ署名運動がはじまります。ここの市議会は、署名が成功すれば、可決される可能性があるということでした。非核都市宣言とか、平和都市宣言とかをすでに採択している市があり、それらと、この無防備地域宣言との違いをはっきりさせなくては、という会場からの意見に対して、大阪市でも、その宣言をしているということが反対論の論拠になっていたとのことでした。それから、国は、この宣言ができるのは、自治体ではなく、国のみであるという見解で、外務省から仕入れたこの見解も、反対論の論拠にしていたとのこと。これについては、見解が分かれており、大阪市民の会の人たちは、自治体も宣言主体になりうるという見解にたっています。全国ではじめて地方議会が、ジュネーブ協定追加議定書をめぐる審議が行われたということで、これから全国に波及させていく運動のスタートはきられた、ということでした。

 この6月の国会で有事7法が通りましたが、そのときに2条約ということで、ジュネーブ条約追加議定書の批准が行われたのだそうです。その中の59条が、無防備地域、というものを規定しているのです。こちら側とは反対で、海外に派兵している自衛隊に何かがあったときにこの条約を批准しておく必要があったのだそうです。

 このときの7法制の中に国民保護法がありましたね。そこに書かれていることを、鳥取県が訓練という形でやって見たのだそうです。有事があったときに避難する事を、自治体が責任を持って行うというのが、この法律です。ところが、6万人を避難させるのに3日かかったそうで、それでは、とてもその人たちの命を保障できないまして、東京のような人口を抱えていたら、絶対に「保護」はできない。そこで、1945年、アメリカ軍が沖縄に上陸しようとしたときに、前島の小学校の校長が「この島には軍隊はない」といったことからアメリカ軍の上陸はなくなった。これがつまり「無防備」ということだということでした。

フェミニスト議員連盟合宿(8月4,5日)

 フェミニスト議員連盟というのは、地方議員さんたちが中心になっているグループなのですが、私は、今年の6月から、その世話人などという物をさせていただくことになり、合宿に参加するのは初めてです。今年の会場は山形市にある男女共同参画センターチェリアで、そこで1日目の全体会が開かれました。弘岡守穂さん(中大教授)の講演。「変わろう、変えよう、女と男」中学の同級生と学生結婚をして、子どもができ、妻が子育てをしている。新婚時代の妻と夫の意識がどのくらいずれているものなのか、具体的に話す。家族揃って何処かへでかけることが妻へのサービスと考えていた。ところがだいぶたってから言われたことは、「あなたが全部子どもを預かってくれて、私を一人にして欲しかった」「そう言ってくれればいいのに」「言ったわよ」これだけ違いがあるというのに、次世代育成のための地方自治体がやっているアンケートは所帯宛に出している。返事を書いているのが男なのか女なのかわからない、そんなアンケートでは、とても切実な必要性や要求は出てこないだろう。

 その話を聞いて思い出した。私がPTAの役員をしているころ、保護者宛に出したアンケートは、ちゃんと父、母と二通りつくりました。そうしなければ、殆んど男親は書かないまま済んでしまうのが新潟の農村の普通の姿だから。父親の返事に「初めて子どものことを真剣に考えるチャンスをつくっていただいた」という感謝の言葉が添えられていたものもありました。

 いまや、健康保険も所帯単位が見直されて、個人別になる世の中になっていますね。一人一人が、自分の名前で自分の意見を言う習慣を作りたいものですが、どうでしょうか?

 広岡さんのパートナーも来ておられ、今では、彼女が石川県議会議員として活躍されています。夜の懇親会では、二人が手をつないで万歳をし、彼女は恥ずかしがって、うつむき加減でした。

 参加者は、山形の方が多く、100人を越え、懇親会も60人以上で、盛り上がりました。地方議員の方が多く、どの方も実に積極的で、こんなにバイタリティあふれる女性がいるんだもの、日本が変わらないわけはないと思ってしまうのですが・・・・

 荒川区議の瀬野喜代さんは、この間の男女共同参画条令をめぐるどたばたを現地報告してくださいました。新聞でかなり報道されていたので、ご存知の方が多いと思いますが、いわゆる歴史教科書グループの林道義を審議会長に、去年内閣委員会でたかひろとやりあった八木秀次、ともう一人、の3人が、区長の意を汲んで、「3歳までは母親が見るべき、男は男らしく、女は女らしく」というような内容の答申を出してしまい、一人の委員はそれに抗議をして辞職、残りのうち6人が、要望書を区長に出す、「殆んど委員の意見を聞かずに、委員長が独断で出してしまった」ということで。結局、林道義がHPで、公明党批判を書いたりしたために、公明党が反対に回り、区長は、全国からの抗議もあって、条令案を撤回した。といういきさつです。

 蔵王温泉のホテルに泊まり、翌日は、3つの分科会に別れましたが、一番人気があったのは、バックラッシュのグループでした。どこでも、大なり小なり、バックラッシュとの戦いを強いられているようです。

 全国の女性地方議員の比率が表になっていますが、新潟は、35位、富山は28位です。富山は、山下清子さんの活躍の賜物です。長野は9位で、これは樽川さんの存在が大きいのでしょう。新潟は、去年衆議院議員に当選した西村さん、菊田さんにがんばっていただく必要ありですね。もちろん私達も。8位までは、関東、関西、愛知、だけですから、長野は、その他の中のトップということです。

広島集会へ(8月5,6日)

 衆議院議員の阿部とも子さんからお誘いを受けて、初めての体験となる広島の平和集会へ参加することにしました。
 4日から、山形で開かれているフェミニスト議員連盟の合宿が5日午前で終わるので、
午後、山形から伊丹空港に飛んで、そこから広島へ急ぎました。阿部とも子さんの友人であり、同志である中川智子さんの友人河野美代子さんのところに泊めていただくことになり、お名前だけはそこここで見ていた河野美代子さんとの初対面を楽しみにしていました。阿部とも子、中川智子の二人が宮島口駅で待っていてくれ、レストランに行きました。そこに待っていてくださった方は、もう一人ありました。秋葉市長の元秘書さんを含めて5人で、遅くまで話が盛り上がりました。河野美代子さんは産婦人科医として、性教育の分野で大活躍している方です。この方の話は、驚くことばかり。いちばん驚いたのは、11歳の少女の出産です。信じられませんでした。相手の男性は、兄で、来院したのは臨月に入ってから、したがって、中絶できず、出産して、育てたい方と養子縁組したのだそうです。このようにして縁組したカップルはすでに30を超えているということでした。
 色々話しているととっても驚いたのは、卓夫の在宅医療全国ネットワークの事務局をしている高槻市の中島診療所の中島啓子さんと、河野さんとは中学から大学まで同級だったというのです。そして、そのルートで、中川さんのお母さんは中島さんの経営する老人施設に入居しているということ。今回の卓夫の若月賞受賞(長野県佐久市の佐久病院で、地域医療の元祖といわれている若月名誉院長にちなんで)のお祝い会を中島さん夫妻が主催してくださることになっています。(11月27日)その呼びかけ人を、卓夫の後輩に当たる阿部知子さんが引き受けてくれたのでした。

 秋葉市長は、実は、数学科の2年後輩になります。そのことを私が知ったのは、初めて新党さきがけから立候補したとき(95年)比例区は選挙期間になると個人名が出ているリーフレットは配れなくなり、当時秘書だった宇洋がものすごく厳密に法律を守ったので、何万枚ものリーフが残ってしまったのです。それを選挙後の報告書と一緒にあらゆる名簿に送りました。数学科の名簿を書き写していたら職業欄に「衆議院議員」とあって凄くびっくりしたのが始まりでした。だから、手紙を添えて送ったのですが、お返事をいただけないまま、今回初対面できるかなと、それも楽しみにしていました。
 なんと、河野さんが、私たち3人を来賓席にということで、秋葉さんの許可を取ってあって、前日になって喪服をといわれて慌てたのでした。阿部さんは現職だし、中川さんは7年も衆議院議員をしていたし、秋葉さんとは、社民党で同志の関係だったし、何の問題もないのだけど、私は、たったの5ヶ月を元職というのが気が引けて少々困っていました。

 私がつく前に、秋葉市長の宣言の文言でもめていたのだそうです。ブッシュを「唯我独尊」と批判したことを、仏教団体が、その言葉は批判するときに使うものではないということで抗議して来たというのです。それで、秋葉さんが信頼を寄せている河野さんに相談の電話があって、河野さんも、中川、阿部さんもみんな、それは変えた方がいいと言ったそうです。
 夜もふけてきたとき、現職の阿部とも子さんは、社民党が用意したホテルに、私と中川さんは、宮島が目の前に見える河野さんの別邸で泊まることになりました。
 5日の夜は、そういうわけで阿部とも子さんは一人ホテルに、秋葉さんの元秘書さんは自宅に、中川さんと河野さんと3人で、床につきました。朝は、6時食事、6時半出発、720までに原爆資料館地下に集合ということになっていました。
 朝食は、マンション4Fのベランダで、宮島を眺めながら3人でいただき、出発しました。道路はすいていて気持ちがいい、といいながら、河野さんの運転ですいすい。ところが、市内に入ると、渋滞!歩いたほうが速いくらいのスピードに。河野さんは盛んにごめんなさいと繰り返しています。私は、実は、来賓席に座らないですんでホッとしている、というのだけど、3席あいてしまって秋葉さんに申し訳ない・・・・と。720はとうに過ぎ、8時の時報がなると始まりました。車の中で、ラジオをききます。「45000の席は殆んど埋め尽くされました」という放送が入ります。秋葉さんは、例の「唯我独尊」を「自己中心主義」と直して読んでいきます。読み終わると拍手!私たちは、車の中で、黙祷をささげ、宣言文に拍手を送り、子どもたちの言葉が終わると、平和公園に接している河野さんのおうちにつきました。そこに車をおいて、部屋に入って、喪服を脱いで、・・・そこに、河野さんのパートナーが現れました。「美代子と中川さんがすることはこういうことなんですよ。阿部さんはよく知っているから、ホテルに逃げたのです。」というではありませんか。そこに更に私が加わったのですから、当然の結果というべきでしょう。
 その後、平和公園に行って、式次第や、宣言文が書いてある小冊子をいただいて見て見ると「唯我独尊」のままになっていました。5万枚もの訂正はできなかったのでしょう。

 それから、河野さんは9時に診療を始めました。中川さんと私の2人は、お茶を飲んでから、すぐ近くの診察室を訪ねました。待合室は満杯。10時半だというのに、40人ぐらいが待っているのです。ずいぶん若い人たちも大勢でした。昨日の話を思い出しながらちょっと挨拶をしてお別れしてきました。
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年ごろ、登校拒否の全国集会が広島であって、私は大地塾から一人で参加したことがありました。そのとき、広島の「あそびのページ」という子どもたちのグループが劇をやってくれたのだけど、ものすごく上手で、玄人並の演技だった覚えがあります。そのとき、不登校児の母親役をしたのが、河野美代子さんだったというのです。色々な糸で結ばれていたようでした。

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時、私は一人で、平和公園に戻り、原爆資料館に入りました。入場料はなんと50円です。コインロッカーはただです。昔はいったときには、なかったと思うのだけど、被爆者の人たちが描いた当時の絵が、いちばん胸を打ちました。12歳で体験したことを69歳になって描いたというように、ずいぶん時間が経って、やっと描けるようになって描いたもの、それがものすごくリアルで、川に浮いている死体の目だけがギョロットしていたりするのでした。
 秋葉さんの宣言は、来年の60周年までに核廃絶に向けた世界的な行動を提起していました。
小泉さんは何を提起したのでしょう?


医療事故裁判に思う(6月26日報告集会)

 随分古くなってしまいましたが、6月26日(土)福岡で、去年の同じ日に全面勝訴した医療過誤裁判の報告集会があり、行ってきました。ご夫婦で医者、久能ご夫妻の4人姉妹の3番目の方が、17歳のときに死なずに済んだはずの医療過誤によって亡くなってしまったのは、11年前のことでした。「心なき医療」という本でご存知の方もあるでしょう。

 10年ぐらい前のこと、久能恒子さんがお友達と二人で浦佐の我が家を尋ねてこられ卓夫に協力を依頼していかれて以来のお付き合いでした。なくなったあき子さんと帆姿が同じ年、帆姿もそのころは医学部進学を希望していたことから、「心なき医療」を読んで、恒子さんに手紙を書いたりしていました。恒子さんは、カルテの改ざんや、うそ、ごまし、身の保身など医療界のどこにでもありそうな、冷たい壁に阻まれて、くじけそうになりながらも、まわりからの支援をえて、10年目に全面勝訴を勝ち取ったのでした。その途中自らがガンに犯され、文字どうり命をかけての戦いだったのです。
 
 この冬頃か、毎日新聞の全国版で、「久能さん最後の講演」という記事が載り、娘さんに介助されながら、車椅子で講演をする姿が映し出されていました。アメリカからも呼ばれて講演をしていた彼女が、そんなに悪くなってしまわれたのか、会場につくと、久能さんらしき女性が、赤ちゃんを抱いているではありませんか!見るからに健康そうで、しばらく様子をみていました。そるとその方は妹さんで、そっくりな方なのでした。そのうち、やせ細ったご本人が車椅子で登場。聞けば、前日腰痛のために緊急入院、当日は病院から直接来たと友人から聞きました。集会が始まると、すっくと立って、ステージに上がり、立ったままで原稿を読むという形で皆さんへのお礼を言われました。その後、弁護士3人、近藤誠(ガンと闘うなという医者)森功(医療過誤対策専門の医者)などの話を聞く中でわかったことは、西洋医学と言うのは、薬そのものも毒を併せ持ち、手術とは、身体を傷つける行為なのであるから、医療過誤とはいつも隣り合わせになっている。だからそれを患者と医療者が話し合って解決できるようなシステムが求められている。スウェーデンや、イギリスではその試みが始まっている。すべての医療過誤の被害者は救済され、すべてのカルテが公開され、ということだそうです。

 今回の裁判で、二つの相反する鑑定書が出され、10年間に裁判官は4人、変わり、それでも最後に、加害者側にたった鑑定書を退け、被害者側にたったものを採用して、実に良心的な判決を書いてくれたのでした。医療を批判する鑑定書を書くということが、医療界では、かなりの圧迫を受けるので、開業医のような自由な立場の人しか、良心的な鑑定書はかけないという感じがするのですが、どこどこ大学の教授などという肩書きが必要らしく、なかなか大変なようでした。にもかかわらず、今回の裁判で、久能一家を応援する医者がたくさんいて、当日も実にたくさんの医者たちが参加している姿を見て、少し光明がさしてきたと感じることができた集会でした。
 ここには、衆議院議員の阿部とも子(社民)さんも来ていて、お互いに喜び合いました。彼女とは、議員時代に、どこの議連に行っても一緒という同志感を持っていました。彼女は医療過誤議連として、久能さんを議連に呼んで話を聞いたのだそうです。この議連にはたかひろも入っているはずです。医療過誤を防ぎ、起こった場合の処理方法などを盛り込んだ立法が求められています。

 久能恒子さんは、あの日のためにがんばってきたという感じだったので、その後どうなさったのか心配でならず、娘さんにメールを入れたら、やはりすっかり体力を使い果たして、寝込んでいるということでした。命をかけての戦い、本当にお疲れ様、というしかできないのが、もどかしい思いです。

「原爆投下のなぞと、日本核武装の疑惑」ー槌田敦氏の話(7,31)

 劣化ウラン兵器禁止市民ネットワークの公開講座が神田神保町区民館で開かれました。槌田敦さん(名状大学教授)の「原爆投下のなぞと、日本核武装の疑惑」というお話には衝撃を受けました。卓夫がいつもいっています。「1945年、5月にドイツが降参したときに日本も降参していれば沖縄戦も広島長崎もなかった」「広島の原爆で降参していれば、長崎はなく、ソ連の参戦もなかった」なぜ、あそこまで戦争が長引かされたのか。この答えが、今日は実に明快に出されました。

 広島、長崎の原爆で、日本は終戦にすることができた。というのは全くうそ。アメリカは、原爆を日本に落とすために、戦争を長引かせる必要があった。だから、鉄道の攻撃もせず、汽車は走っていたし、軍需工場がある都市を避けて爆撃していた。降参することがわかってから、8月14日に重要な兵器工場を爆撃している。原爆ができるときまで日本に戦争を続けさせる、それがアメリカの戦略だった。いうことがたくさんの資料をもとに話された。
 
 6月14日、国際原子力機関(IAEA)は理事会で「日本の原子力利用には核兵器転用の疑いはない」として査察回数を5分の一程度に大幅削減する方針を示したと翌6月15日の新聞各紙が報道。日本のようにたくさんの原子炉を持つ国にこれが適用されるのは初めてとのこと。つまりこれは、核兵器を持つことを日本に認めたということだと槌田さんはいうのです。アメリカは、アジアにある核兵器(中国、インド、パキスタン)を日本の核武装で防ぐというように切り替えたというのです。そのために来年のIAEAの事務局長の選挙では、日本人を担ぐということになっているとのこと。これは、実は私の耳にすでに入っていたことです。オーストリア大使が、その選挙に出るということで選挙運動を始めているのだそうです。

 日本がなぜエネルギーを原発に頼り続けているのか、という疑問について、私はずうっと核武装につなげる気だからだと思ってきました。軽水炉の原発が原爆を作る材料になるのかどうかということは、意見が分かれているようですが、しかしどうやら私の予測は間違いないようです。
 最終的にトルーマンがチャーチルに相談したら、チャーチルが「あの黄色い猿には、いいんじゃない?」といったのできめたそうですね。これは、以前毎日新聞に井上ひさしが書いていました。
 日本への原爆投下計画はマンハッタン計画と呼ばれ、HPでこれを探すことができます。槌田さんの文章にはたびたびこの文書が引用されています。もともとこの原爆の計画は、ドイツからアメリカの逃れてきたユダヤ人科学者たちがドイツに開発されたら大変、という形で、提案したのが始まりでした。ところが、彼らの意図とは違って、軍当局ははじめから日本に投下するつもりでした。 なぜ、ドイツでなく、日本だったのか、人種差別だけではなく、日本なら、この技術を盗むことはないだろう。ということもあったそうです。日本の終戦をめぐるなぞが思わぬところから解け、その後、今にいたる核兵器問題の流れが、実に鋭い説得力で書かれているのでした。

 これは、ほかの歴史書とは違うんです。彼は、こつこつと一人で溜め込んできていて、その彼の発言を許さない、というのが非核運動の人たち対応だったようです。

 B29のことについても、叉高高度精密爆撃のことにも触れられています。1945年3月9日、(1941年じゃありませんね)の東京空襲、のあとは、軍需工場のない都市を選んで爆撃していったのでは?あと原爆を落とす都市を残して、(広島、京都、小倉、新潟)金沢と松江、二つぐらいしか大都市は残っていない状態だったといいます。3月9日以後、なぜ主要な軍需工場と主要幹線を爆撃しなかったのか、というなぞに応えるには、原爆の完成まで長引かせるということしか考えられない。さらには、最後になると、ソ連に参戦されたくないということと、でも、原爆を落としたいということがあって、結局ソ連参戦を許さざるをえなくなった。

 日本がどうしていたのか、実は、無条件降伏といっても、しっかりした「条件」が一つだけあったのですよね。「国体護持」です。これに向けて吉田茂らが動いていて、降伏が遅れるというアメリカが望んだ結果になった、つまり、結果として、「国体護持」のために原爆投下を許した、ということになります。

 1945年7月16日にアメリカは、核(プルトニウム)実験をやりました。それで、科学者には、かなり反対があったらしいのですが、日本はすでに(7月24日)降伏を決めていたし、ソ連参戦の前にということで6日、9日が選ばれたそうです。

 この話の内容は「原爆投下のなぞと、日本核武装の疑惑」というパンフに書かれています。これが出来上がったのはこの7月になってからのこと。すさまじい内容が詰まっています。400円です。宛先を書いた封筒(定形最大でもA4の大きさでも)に160円切手を貼って送ってくだされば、お送りします。
102-0082東京都千代田区一番町8-13-405 黒岩秩子

水害地へのボランティアーー新潟県、中之島町(2004,7,28,29)

 中之島のボランティアセンターにいってきました。
2日前、電話をかけて「64歳で、腰痛なのですが、それでもやれることはありますか?」「色々ありますからお出かけください。こられたら、吉野と呼び出してくださいね」といわれ、センターにつくと吉野さんを探しました。「黒岩秩子さんでしょう?電話いただいたときにそうじゃないかと思ったのです」「あら、どうして?私は、中之島町にはきたことがないんです」「出て行って何回かお話聞いています」とのこと、元保健婦で、今は社会福祉協議会の職員の方でした。その日は、タオルの束を全戸配布しながら、御用聞きをするというチームにいれていただきました。刈谷田川のすぐ下の集落だったので、堤防に上がってみました。すると、水面はずうっと下の方にあります。でも、川幅が狭いので、ながれる量としては少ないのでしょう。上のほうのダムを大量に放水したのが、直接決壊につながったようですね。決壊した場所のすぐそばでした。それを見てから家を回りました。留守の家が半分以上です。そこにはタオルをおいて次の家にいきます。20軒ぐらい回って、たった1軒だけ、床拭きを頼んでくれました。私たち中学生二人を含めた5人は、とってもうれしくなって、お礼を言ってから、床拭きを始めました。老夫婦が住む家で、畳は全部だめになっていて、その下の床をきれいにして、させていただいたことに深く感謝して別れてきました。中学生二人とその母は中之島の人だったので、色々聞くことができました。すぐ近くにある役場に警報機があるのだけど、そのサイレンは鳴らなかったのだそうです。最後の家では、もらったスイカを出してくれ、そのおいしかったこと!大和町の八色スイカが日本一だと思っていたけど、それに勝るとも劣らぬおいしさでした。
 帰り道、声をかけてきた人がありました。「黒岩先生ですよね。娘が不登校で大地塾に行きました。あの子が今は大学生になっています」覚えていませんでした。看護婦さんとしてボランティアにきていた人でした。

 翌日も、午前中浦佐で色々してから、午後行きました。この日は、吉野さんが、「丁度よかった。私の個人的なお願いです。今朝電話があって、一人暮らしのおじいちゃんなのですが、長靴しかなくてふつうのくつがほしいのだけど、お金も流されてしまって買えないからもらえないかといわれて、私のはいていた靴を届けたのだけど、小さすぎるから、今、この大きいのが見つかったからこれを届けて、困ったことがないか聞いてきてください。ここらの人は、遠慮して迷惑かけないようにするんで、どうかよく聞いてきてください」渡された地図を見ながら、15分ぐらいでたどり着きました。その家には腰の曲がったおばあさんが杖をついて、よろよろと歩いています。「一人暮らしのお爺さんと伺ったのですが」よく聞いてみるとその人は、一人暮らしの人の母親で、近くに住んでいたのだけど、水害以後ここに来て二人暮しをしているといいます。何かやらせてくださいと粘ったら、流されてしまったドアを付け替えたからその周りの掃除をということで、喜んで拭き掃除を始めたら、おばあちゃんもいっしょにやりだして、色々話しができるようになりました。それでわかったことは、50歳ぐらいの息子は、精神障害者で、2回入院している、そんな話のところへ、ご本人が帰ってきました。精神科の薬を飲んでいる人の体型でした。でもとても元気で、叉出て行ってしまいました。おばあちゃんが言うには、ボランティアの人に混じって外に出るようになった、というのでした。私も、不登校の子どもたちの塾をしていたので、精神病院にもよく行きました。と話すと、安心したように、顔の表情がすっかり変わって、色々話して別れを惜しんで戻ってきました。吉野さんが言うには、物を頼むところは役場なのだけど、役場に電話してもいい返事がもらえなかったといってこっちに電話があったというのです。吉野さんが自分の履いている靴を届けたというのが凄いと思いました。吉野さんは、私の報告を聞くとすぐに保健婦さんに連絡、これからのことを保健婦に依頼していました。

 吉野さんは、私にできることを見つけるのが大変だったのかもしれません。そのお陰で、何とか私も少しは、ボランティアできたようでした。その後、吉野さんが、避難所に行ってみてくださいといわれたので、その日引っ越したという新しい避難所まで、かんかんでりの中を歩いて20分、行ってみたら、昨日留守だったうちの人がいて、留守の家が多いのは、そういうことだったのかと分かりました。二階の畳までぬれたという家、殆んどの家は、1階の畳はだめで床もはいであるうちもあり、皆さん、ボランティアに感謝しているとはおっしゃっていたけど、これからのことを考えるとどうしていったらいいのか、何ができるのか、途方にくれているように思えました。

 刈谷田川の決壊場所には、お寺があったそうですが、ひとかたもなくなっていました。更に、お墓も流されていました。連日、若者たちはここで力仕事をしていて、帰りに更衣室で一緒になった若い女性は、とっても疲れた、といいながらも「ヤッター」という満足感があふれていました。

 その夜、浦佐に泊まったのですが、偶然たかひろの大和町の後援会の懇親会に参加することができました。たかひろが当選した二日後に同じ場所で同じメンバーで集まって以来2年ぶり、懐かしい方々でした。その中でこんなことを言っている人がいました。北朝鮮のラチで、死んだ人の骨が流されたというのを、うそだと思って聞いていたけど、「もしかしたら本当かもしれない、今回の水害では、平地でさえ流されているのだから。」これを聴いて本当にそうかもしれないと思いました。

 たかひろのHPで毎日そのボランティアの様子を見てきて、わたしも、やっと行って見る決心ができ、恐る恐る行って見たというのが本当のところです。私のことを知っていてくださった吉野さんとめぐり合わなかったら、どんな風になったのだろうかと想像しながら戻ってきました。さすがに炎天下長時間歩いた日は、帰りの電車で、正体もなく眠り続けて帰ってきました。ものすごくたくさん食べたはずなのに、目方が減っていたのは、それだけエネルギーの放出が大きかったのだと納得し、私の身体にとっても意味のある活動だったようです。
 私は、ボランティアという言葉に対して、何か抵抗があって、今まで自分をボランティアという言い方をしないできましたが、どうやらこれは、「やらせていただいてありがたい」「やっていただいてありがたい」が、等価に溶け合う世界なのだと思えるようになりました。

水戸事件控訴審判決、全面勝利(2004,7,21)
 
 3月31日の報告で、水戸事件の水戸地裁での勝訴判決はご紹介しました。その後、まさかと思っていたアカスによる控訴が行われ、6月28日には、その第1回期日が開かれました。実にいいかげんな控訴内容で、裁判官にもそれが通じたようで、やり取りはなく、次回判決、ということが宣言されたのでした。アカスの弁護士達も、全くやる気がなく、「これは『事情』でいいのですね」と裁判官から言われ、主張ではなく、その周辺を表わす事情でいいと認めてしまったのですから。
 7月21日は東京高裁で全面勝訴となりました。裁判長は、「控訴棄却」と判決を読み終えたあと、傍聴席に向かって、「地裁の判断はすべてもっともだと判断しました」と言う内容の異例な発言をしました。これでほぼ確定したと考えていいようです。
 知的障害者の言葉が司法に届いたということです。

 終わってから、裁判所の隣にある弁護士会館で報告集会がもたれました。以前お伝えした滋賀県での同じような事件サングループの中心的メンバー3人(小迫さん、今井さん、高橋さん)も来て下さっていて「去年サングループの勝訴判決をもらいましたが、水戸事件で勝訴しなかったら、終わりではないと思っていました。今日やっと知的障害者のことばをきくということがかないました」と挨拶されました。叉、1997年3月28日、執行猶予付きででてきてしまったアカス社長に対して、支援者や原告たちが抗議したことに対して、3人が逮捕され、うち2人は実刑判決を受けてきました。そのうちの一人平島さんは、この日も、実に胸を打つすばらしい話をしてくれ、だから、警察は、この運動を押さえ込むにはこの人を逮捕する必要があったのだと、痛く納得が行ったのでした。実は、平島さんは、その日、暴力的ななっていく人たちに対して声を張り上げて静めようとしていたというのに、ずいぶん後になってから公安警察(運動関係)に逮捕されたのでした。
 この日も茨城県から50の傍聴席を埋め尽くす支援者が駆けつけ、(新潟や東京からもあり)この方達の存在あっての今回の勝訴だとつくづく思いました。月に一回茨城の中で集まりをもつほか、毎年夏には、原告、支援者、弁護団でキャンプをして親交を暖めてきました。今年も18,19日キャンプがあって海映も志重と一緒に参加、「志重ちゃんずいぶんしっかりしましたね」
と声をかけてくれる支援者もありました。
 原告たちは、これでみんなと会えなくなるのかと心配そう。「これからも会おうね」と言い合いながら別れてきました。

参院選女性候補者応援--WINWIN運営委員として

 女性議員をふやすと言う目的のWINWIN、以前にもご紹介したと思います。事務所が近いと言うご縁で、去年から、私は、運営委員、推薦委員と言う二つの役目をいただきました。今、参議院選挙の候補者が、推薦依頼をしてきて、誰を推薦するのか、面接をして決めているのです。誤解の天才である私が、そんな役をしていいのでしょうか?でも意外に、皆さんとほとんど同じ意見になるんです。皆さんと言うのが、なかなかの方ばかりで、しかも全員年上。赤松さん、下村満子さん(朝日ジャーナル編集長を経て、今は医療法人の理事長など)JAL、ソニー、新聞社などの草分けの方や、国連職員などなど。

 6月7日は、浜松町の貿易センタービルで面接をしました。全国の方が、飛行機で来られるので、こちらがそこまで出向いたのです。昨日は、私は二人しかお目にかかれず、浦佐に行ってしまったのですが、この二人が二人とも面白い方でした。

 まず、沖縄の県議を3期やりおえて、沖縄選挙区からの糸数慶子さん、この方は、もともと、高校を卒業してバスガイドに、そのうち、風景だけのガイドに疑問を持ち始め、折角の沖縄、戦争の跡地を見てもらおう、平和ガイドをしよう。仲間に呼びかけ、思うとおりのガイドを始める。すると、バス会社からはやめろといわれ、警察も後をつけるように。バスの運転手は、どういうガイドをしたのか、会社に告げる。それでも、修学旅行生たちが、広島、長崎、沖縄、というコースになってきて、今では、基地産業を抜いて沖縄一の産業として観光が育ってきた。そんなときに社会大衆党から県議出馬要請。高校3年の長女が、「私が家事育児(下に二人いる)みんなやるからでなさい」と言うので決意。事前ポスターを貼らないでがんばる。
 上位当選で、沖縄初の女性県議。県議として一番大きな活動は、子ども病院の設立だった。特殊出生率が全国一だけど、乳児死亡率もほぼ最下位、を訴えて。「病院に行けば小児科がある」という圧倒的な声の中で、難病の子どもたちは本土に行くまでに死んでしまうと説得しながら、設立にこぎつけた。
 6月6日の県議選では、後継者をちゃんと当選させた。立候補する条件として共産党まで含めた野党共闘を挙げた。それが実現しての立候補、県議選も野党が優勢だったので、情勢は有利だと言う。全国で野党共闘は沖縄だけ。沖縄大学で観光学の講義もしている。今では、バス会社からも感謝されていると言う。たかひろと同じように無所属で立つのだけど、3年間は無所属(たかひろの場合にはそういう条件がつけられた)と言うような約束はなく、当選するまで棚上げと言うことを大学の先生たちが政党に話をつけたと言う。

 二人目は、大泉博子さん。 山口選挙区から。相手は、岸元首相の孫で、安倍晋三の弟。大泉さんは、厚生官僚だったとき、アメリカ人と結婚、妊娠中に、インドのユニセフへ、出向命令、夫は辞めろという。離婚して、妊婦としてインドに赴任。そこで出産、子育て。
 6年前から山口県の副知事、男女共同参画条例を東京、埼玉に続いて制定。ものすごいパッシングにあう。その結果か、悪名高き「宇部市の男女共同参画条例」(混合名簿は混浴と言ってパッシングする人たちがお手本にしているもの)となる。S48年、年金法の基礎を作るところに立ち会った。今の年金は、売り出そうとしている国会議員たちが、自分で買わない商品を売りつけようと言っているのだから、土台無理。この法案は、本当は参議院先議(先に参議院に出す)でよく練ってから衆議院にまわすべきもの。なぜあんなに早く強行採決にしたかというと、年金には、多額の不明金があって、それを突っ込まれると困るから。首相秘書の飯島氏の弟が、年金局にいるので、実は、首相は、早くから全国会議員の未納状態を把握していた。などなど、内部にいた人しかわからないことをたくさん知らせてくれました。自民党の強い山口なので、「なぜ民主なのか」と聞かれる。自民で出るくらいなら、官僚でいたほうがずうっと仕事ができる。不明金を情報公開するには、政権交代しかないと思っているから、民主ででる。
 「突拍子もない官僚であなたに似ている」と赤松さんにいわれていたので、あうのを楽しみにしていたのでした。
 
 WINWINというのは、勝つ可能性がある、専門分野がある、女性政策に理解がある、という3条件が必要です。勝てるか?ということにちょっとむずかしいケースがあって、たかひろに相談したら曰く、「推薦してあげればいいよ。お袋だって推薦してもらったのだから」だって。そうなのです。強力な推薦をいただきながら、4人しか当選できない東京都で、8位と言う結果でしたから。  (6月10日記)

 沖縄の選挙情勢が大変だということを聞いたので、糸数さんにほれ込んだ私は、7月2日から8日まで1週間沖縄へ応援にくことにしました。帰ってきたときの報告です。
 糸数さんという候補者の魅力で野党共闘が実現したのをはじめ、選挙自体が糸数人気で進められています。信じられないような事務所機能のなさ、数え上げたらキリがありません。

 まず,WINWINから私が応援に行く、ということ自体が、那覇の選挙本部では受け入れ態勢を作れず、沖縄市の東門美津子事務所で受け入れることになったのです。でも、丁度翌3日(土)は、沖縄市で朝立ちをして、8時の糸数候補の街頭演説を迎えようと言うことになっていたために、私の泊まっている沖縄市のデイゴホテルから朝7時に歩いて朝立ちのゴヤ交差点に行きました。まだほとんど人が集まっていなくて、不安ななか旗を立てて、手を振り、窓のあいている車には、大声で呼びかけをしていると、7:30ごろにはぞくぞくと集まってきて、最終的には53人(数えた人がいました)かなり見ごたえのある朝立ちとなりました。8時に登場した糸数候補は、マイクを持つと、ハートに訴えかける演説をはじめました。聴衆と言うのは、ほとんど朝立ちをした人のみと言うさびしさですが、この演説を聞いた人は、この人こそ当選してもらいたい人、って思うに違いないと思いました。

 糸数さんは、私を見つけるととても喜んで、その後の街宣に私も同行するようにと、後続車に一緒に乗って午前中走りました。その中で彼女から聞いた話は信じられないような内容でした。新潟選挙でも大活躍してくれたHさん、糸数さんはこの人のウグイスが最高だと言い、「私のいいたいことをすべて言ってくれる」と絶賛していたそのHさんを、候補が、離島に行っていた2日間で、街宣車から下ろしてしまっていたのでした。前日そのことを知った候補はとても落ち込んで、その選対本部への思いのたけを語ってくれました。

 4日(日)新聞が世論調査の結果を発表しました。糸数優勢。それはうれしいことなのですが、去年の統一地方選で、新潟のまさかと言う候補者が、気の緩みのために何人か落選してしまったことを思い出しました。そんなことにならなければいいが。事務所でみんなで、気を引き締めることを誓い合いました。この日、相手候補の陣営は、経済界が集まりを持って、かなりの締め付けを行いました。「糸数の票は死に票になる。なぜなら、無所属は、質問時間が毎回5分しかなく、何もできない。」これはうそです。無所属でも最低15分、、毎回20分、30分、と質問時間があります。この日、この会合に出た人が、録音してきて、テープおこしをしたものが、こちら陣営で流されました。財界の中にも、こちらの支持者がいるということです。ありがたいことです。

 とはいえ、確実にこの締め付けの効果はあがっていきました。翌5日から、7時の朝立ちを場所を変えて毎日行いました。そのときに、私は、信号で止められた車にチラシを入れる役目をしていましたが、はじめのうちは、ほとんどの車が受け取ってくれていたのが、徐々に「いらない」ということを態度で示す方が増えてきたことが実感されました。実際、沖縄の地方新聞では、毎日その自民党候補が追い上げている様子を伝えていました。
 
 私は、毎日社民党(東門美津子さんが社民党だから)の街宣車に乗って、ところどころで街頭演説をやりながらうぐいすをしていました。同じ車に乗って一緒にうぐいすをしている人たちに、かなり気に入られてしまい、8日に私が帰ることを知ると「もし経済的な問題で帰るのなら、ホテル代は出しますから最後までいていただけませんか?」といってくださる人まで現れました。それは、おそらく、ほかの人たちは、一般的な応援になるのに対して、私は、糸数さんと面接をしたことから、彼女の人となりや、実績を心から伝えることができたからなのだと思います。「糸数さんにほれ込んで、1週間東京から応援にきました」からはじまって、難病の子どもたちの命に思いをいたして、四面楚歌の中で、子ども病院設立にこぎつけるまでのいきさつなどを話して、議員として必要な資質をほぼすべてもっている宝物のような候補者です。と訴えたのでした。(7月9日記)
 選挙結果は316,148対220,803で圧勝となりました。上京して活躍される日を楽しみにしています。

 山口の大泉博子さんの結果は、落選となりとても残念だったのですが、自民党の安倍晋三幹事長は、何回も弟の応援に山口に行かなくてはならず、党内の顰蹙を買っていたということで、それだけ、大泉さんの力があったということなのでしょう。これからの活躍を期待します。

ヨーロッパのたびレポート(2004,6,13〜6,24)

オランダ、ポーランド、スイス、フランス、オーストリア、とみんな2泊ずつしてきました。
テーマごとに報告しますね。

 はじめに、無防備地域宣言に関する要望書を、ハーグの国際司法裁判所と、ジュネーブの国際赤十字に持っていったこと、のレポートです。
 日本を発つ2日前に要望書が届きました。その英語の要望書8ページを事前に読むことができず、成田で買った電子辞書を頼りに飛行機の中で読んでいきました。ジュネーブ条約(1949年)の追加議定書(77年)59条にこの無防備地域宣言が取り上げられているのです。1988年には、日本の400以上の地方議会が政府の批准を求めて、国会に一斉に要請文を送ったという事実があったのでした。知りませんでしたね。マスコミの報道はなかったようです。
 今回は、大阪市で直接請求の請願署名が法廷必要数(有権者の50分の1)を越え、7月20日に始まる臨時市議会で取り上げられるはずです。ところが、この議会、なんと傍聴が許されないという、信じられない議会です。全国14政令指定都市では、千葉、京都、と3市のみとのこと。そんな議会では、このような請願署名をすんなり通すはずがない。そこで[外圧]を頼もうというのが、飛行機の中で読んだ要望書の趣旨でした。 

 ハーグの国際司法裁判所には、揺光と二人で行きました。アポなしですから、大変威圧的な中世風の建物の入り口で、守衛さんにどなたかそれなりの方とお目にかかりたい、と揺光から話してもらいましたが、アポなしではだめ、と繰り返す。更になぜそんなことをここに?との質問に「国際平和を望むという一点が共通するからです」と粘り、infomation officeのキャップの電話を教えてもらい、直接交渉。何回かの電話で、とうとう諦め、文書だけをその人宛において戻ることになってしまいまし
た。
 そこで、次の国際赤十字では、アポを取っておいてもらおうと、栗崎さん(NTT勤務、ODA勤務を経て、スイスの情報関係の会社勤務)にお願いしました。すると彼女の元同僚が今国際赤十字の職員だということで、そのルートで、広報誌編集長という要職にある方と21日(月)3時のアポが取れたのでした。ところが、スイスに着くと、栗崎さんから言われました。「大阪の市議会の問題を国際圧力で解決しようなんて甘いそんな要望書は出さない方がいい」すべてもっともなことです。私自身、機内でやっと読んできたと言う始末ですから、大阪の人たちが何をしているのか、答えられない。市議会議員に働きかけているのは当然としても、本当のところ、何を期待しているのか、聴いてきていません。すっかり恥じ入って、でも、栗崎さんが「どうしたらいいのか御相談にきた」といえば、と助け舟を出してくれたので、揺光のスウェーデンでの大学のスイス人クラスメイトフィリップ君と、栗崎さんの知り合いで、日本で重国籍を取れるようにという取り組みをしているベルン在住の高川さんと3人で、レマン湖のほとりにある赤十字へ行きました。
 トニさんという編集長は、ドイツ人という感じの体格のいいハンサムな男性でした。高川さんの通訳で、私が来た趣旨を話すと、トニさんは、追加議定書の59条を印刷して待っていてくださったのです。栗崎さんがキチンと話していてくださったことがわかりました。その中には[紛争当事国において]という条件がついているのです。まず、トニさんは、そのことに触れ、今、日本はそういう情況ではない、といい、「でも、無防備地域宣言、は、実にありえないことといっていいくらいのものなので、
それに取り組んできたということには大変共感を持っている。何か文書があったら見せてください」といって請求されたので、栗崎さんに渡さないようにといわれていた文書を渡しました。読んでから、「個人的には共感します。皆さんに読んでもらって、組織として取り組めるようだったら、大阪にメールを出します」という最高の返事をいただいて、行くときの緊張がうそのように、軽い足取りで戻ってくることができました。土地感のあるフィリップが案内してくれ、高川さんが通訳をしてくださって栗崎さんのネットワークでこんな「お使い」をすることができたのでした。

 付録として、高川さんのことを少し。
 高川さんは、日本(福島県)で12年暮らしたけど、スイス人の妻が日本の教育がいやだということでとうとうスイスにわたることになったという。小学校で毎日家でどうしたかを調べるなど、辞めてほしいと言うと、学校もそうしたくはないのだけど、親たちからの希望で、仕方ないというのだそうだ。ウンチがでたか、朝飯は食べたかなど調べているところが多いらしい。そういうわけで妻の故郷ベルンに帰って、まだ2年たたないらしいが、なんと日本そばつくりを仕事にして、注文に応じて配達しているという。
 重国籍の問題は、つい先日、国会で、松野信夫衆議院議員(民主)が法務委員会でこの質問をして、重国籍を持っても何の不便も起こらないという答弁を引き出しています。栗崎さんは、去年リストラにあい、3ヶ月以内に次の職を見つけないと国外退去という目に会うことになっていて、大変でした。もし重国籍が認められていれば、そんなに慌てることはなかったのです。結局、同じ会社の違う部署に職をえて、今もジュネーブ郊外ローヌ川のほとりで生活を続けることができ、その家に泊めていただくことができたのでした。

 オランダのユトレヒト大学修士課程の揺光の家に、彼のクラスメイトと、1年上の女性たち4人と彼の野球仲間の男性一人が集まり、手巻き寿司で、色々語り合った。オランダは、売春が許されているし、安楽死も認められている。これについてのダッチ(オランダ人のこと)はこう言う。「禁止してもやるんだから、認めてちゃんと人権を保障した方がいい」「安楽死については、厳しい条件を課しているから大丈夫」など、女性たちは、はっきりと賛成意見。売春宿は、オランダ特有の水路の上の
船がその役目を果たしているところもあるという。
 翌日、アムステルダムの売春宿を見に行った。red right townかな?水路の両側に、赤いランプがついているところが売春宿。ほとんど全裸の女性が立っている。揺光が「写真とっていいって言ってるよ」というので、不思議に思いながらカメラを向けたら、柱の陰に隠れてしまった。これってどういうことなんだろう?公にはなっているものの、[恥ずかしい]とおもっているということなのか?それとも、ほかに何かあるのか。揺光のうちに集まった女性が言うには、きれいか、若いか、色が何色かなどで、値段が違うのだそうだ。
 女として、同性の売春風景を見るということには、なんだか抵抗がある。このことはもっと考えてみたい。

 パリで、数学科の1年先輩と35年ぶりに出会った。といっても実は、入学は同じで、私が教養学部に3年いたために数学科では1年遅れてしまった。ものすごく優秀ということで、パリ大学から招聘を受けて、64年に行ったきり、日本には三回しか戻らず、73年以来帰っていないという。この人に出会って、フジテレビのパリ支局長松浦さんと、3人で話したことは面白かった。松本さん(パリ大学の教授)は、日本が、メートル法を導入したのは、とても先見の明があったという。米英が、メートル法でないことが、今は、結構大変になっているという。
 米英の民主主義とフランスの民主主義は違う、米英は、国家と人民の間にたくさんの集団の存在を想定していて、その集団の利害や、考えの違いを調整するのが国家であると考えられているのに対して、フランスは、国家が直接国民を保護するというパターナリズムが民主主義と考えられている。だから、フランスでは、災害などが起こると大統領が、すぐに現地に飛んでいく。つい最近は、ユダヤ排斥を内容とする落書きが発見され、すぐに飛んでいったそうだ。そんな関係なので、宗教などは大切にされない。それが、ムスリムのベール禁止にもなっているという。

 そもそも、私のいった国すべて、(オランダ、スイス、ポーランド、オーストリア、フランス)交通が国有だということには驚いた。フランスも「社会主義」という言い方をしていた。今進められている民営化、という物がすべていいとはいえないということについて、改めて考えさせられた。日本の官僚制があまりにも硬直化して、無駄が多すぎるために民営化が、よりベターということになっているけど、確かに過疎の村の交通は、民営化によって壊滅にされた。だから、郵便に対しても、その警戒があるのは当然なのかも。

 揺光と二人でアウシュビッツに行きました。
 ワルシャワに揺光の1年上の人がいて、揺光は、よくその人と図書館で一緒になったので親しいのだといいます。5月28日は卒業式だったために彼女はもう式に参列したお母さんと一緒に家に帰っていました。ワルシャワ空港にお母さんの運転で、二人で迎えにきてくれました。13歳のときに離婚していて、獣医をしているお母さんとのふたり暮し。お母さんと私とは、英語の力が同じくらいなので、この二人が込み入った話になると二人の子供が二人とも間に入って、やっとコミュニケーションが成立するのでした。私は、ポーランドといえば昔懐かしく、「ワルシャワ労働歌」などを歌ってみるのですが、通じません。ワレサといったら通じました。ちょっとの期間大統領だった。というのみです。1990年から共産党ではなくなって、どうなったのか聞きました。「経済は少しはよくなったかもしれないけど、汚職が増えて、よくない」ソ連では、共産党時代にかなりの汚職があったはずなのに、ここはそうでもなかったらしいのです。今も失業率は20%。ワルシャワはそうでもないということですが、揺光の友人カシャは大学院を卒業してきて、就職がありません。コピーや,FAXができないというのは大変でした。この5月からEUに加盟したわけだけど、EUにとってはかなりの「お荷物」ということなのでしょう。カトリックの教会がたくさんあることには、驚きました。共産党時代に我慢してきた宗教心がガバット返ってきたという感じなのかもしれません。 カシャが洗礼を受けたというどでかい教会に入っていくと、中では、お祈りをしていました。すると、お母さんは、玄関に入ったところで、膝まづいていました。
 1953年にソ連が、友好国として、寄贈したというとても豪華な建物がありました。劇場のようでした。

 その日の夜遅く、ワルシャワに次ぐ第二の都市クラコウにいって、ホテルに泊まり、翌日バスで、アウシュビッツに行きました。クラコウまでが3時間、そこから更に2時間ですからかなり遠いいのです。アアウシュビッツは元刑務所だったところですが、まわりには何もない、脱走したらすぐにつかまってしまいそうな平原にあります。収容したユダヤ人たちを選別して、強制労働に耐えられる人は、ガス室の建設などに使われます。従って、役に立たない女子どもからどんどん殺されていったのでした。死んだ人たちの靴、カバン、歯ブラシなどが、生前を忍ばせてくれます。死体から切り取った女性の髪の毛でおった織物もありました。英語のガイドなので、揺光が少し解説してくれてわかる程度なので、私には丁度よかったかもしれません。全部わかったら、もっと胃が痛くなっていたでしょう。脱走した人を見せしめに銃殺した場所には、たくさんのお花がささげてありました。
 高校生たちがたくさん、小中学生たちも引率されてきていました。ここを見た若い人たちが、こういうことが起きないようにと世界を変えていってくれることを期待するのみでした。

 スイスのジュネーブを揺光の友達フィリップ君に案内してもらいました。レマン湖というのは、懐かしい響きがあります。マルクスや、レーニンがここで勉強したと読んだことがあるからです。このレマン湖には、ものすごく高い噴水があって、スイスの人は、これを見るとジュネーブに来たって言うことになるらしいです。ずいぶん昔にできたものだというのだけど、そのころはそんなに高くなかったそうで、どんどん高く作り変えていって、今では、100mぐらいの水柱になっています。このほとりにたくさんの国際機関があります。ILO、国連本部(ニューヨークにもありますね)、赤十字、後は知りません。
 スイスが、直接民主主義だということはご存知ですよね。それなら議会はいらないのではと思ったら、議会が法律を作って、投票で賛否を取ることによって成立するかどうか決まるのだそうです。つくっても通らないものがあるということなのですね。
 去年、エビアンサミットがあったとき、それに反対して、フィリップ達もジュネーブでデモをしたのだそうです。世界中から10万人も集まったということでした。二日目に過激派が、どこかの窓を壊したので、警官から命令が出て、30分で終わりになったといっていました。

 栗崎さんの住むローヌ川のほとりのフランスとの国境の町は、農業人口が多い、落ち着いたこじんまりしたところでした。3軒長屋がアパートになっていて、いつもは駐車場にしている広場で、バーベキュウをしました。といっても、雨が降ると家の中に入って、オーブンで焼きます。やむと外にでて網焼き。(新潟を思い出しました。晴れていると思うと突然雨になったりする山岳気象なのだそうです)
 その日は土曜日だったので、3時から、夜遅くまで、20人ぐらいの人が楽しみました。半分以上が日本人です。大家さんとか、アパートの住人とか、栗崎さんの友達とかが現地人で、日本からの駐在員や、留学生や、現地の企業を起こした人や、それらの人を頼ってきた観光客など。よく聞けば、ジュネーブは、40%が外国人だといいます。それも、現地人と結婚した日本人もそのときいたのですが、その人は、国籍がスイスになっているので、外国人にカウントされていないとのこと。だから、正確には、半分以上が、人種的には、外国人だろうといっていました。国際機関があったり、外国企業があったりするからでしょうが、国際都市でした。閉鎖的といわれる日本社会を脱出してのびのびと活躍している国際人たちとの一夜は、勇気が出てくるひとときでした。そこまでになるには、当然のことながら大変な苦労もあったに違いないのでしょうが、「大変なことこそ面白い」世界なのでしょう。

 この中にはじめて外国にきたという十日町出身の若者がいました。津南高校を卒業して東京で就職、お金をためて従兄の住むここに来て、カルチャーショックを受け、(一番は自販機がないことだって)でも、色々意見をもっていて、今回の国会での
年金問題には、はっきりとした批判を持っていました。早速たかひろの名刺を渡してきました。きっとご両親は知っていると思うよ。といって。

 最後にEUのことを書きますね。
 最後に尋ねたウィーンで、私を泊めて下さった広瀬晴子さん(UNIDOという国連の開発国への技術援助をしている専門機関の副代表)の家で、何冊かの本を見せていただきました。ウィーンは、ハプスブルグ家による統治がずうっと続いていたので、その関係の建物がたくさんあります。最後の皇帝の妻という方が、とっても活発で、当時では考えられないような生き方をしてきたのに、結婚して宮殿に入ってからは、ほとんど病気状態になり、外国に退避して回復しています。どこかの話に通じますね。

 EUの父と言われるクーデンホーフ=カーレギー(オーストリア人)が1923年に出版した「汎ヨーロッパ」という本の中で、今のEUの原型を示し、その実現に向けてご本人がとことん行動したということでした。そういう人があってこそ、今のEUが存在するのですね。戦争を長年繰り返してきた仏、独が手をつなぐと言う事態が来るなんて、ほとんどの人にとって空想の世界だったようです。それが、この5月には10カ国も増えて、25の国が加盟すると言う事態になったのです。新たに加わった10ヶ国の中で一番人口が多いのがポーランドです。ここでは、私が訪ねた頃にはじめてのEU議会の選挙がありました。投票率は20数%ととても低く、といっても日本では、地方の選挙でこのぐらいのところはいくらでもありますね。でも、この国では、それが話題になっていました。帰ってきて留守中の新聞を見ていたら、この選挙のことが記事になっていましたね。旅行者の立場で言えば、いちいち通貨の交換をしなくて済んでありがたい。内部の人たちは、パスポートなしで動けるということもありがたいことでしょう。

 何よりも、域内関税がほとんどなくなって、経済の活性化が達成されたということが、アメリカに対して発言力をもてるようになった根源なのでしょう。日本も、アジアで、このような連帯を作っていく原動力になりたいものと強く感じてきました。

子どもはもっと「悪い子」になろう

 6月1日、11歳の女児が仲良しの同級生を殺した事件には、皆さん驚愕を隠せない。いつもながら「命の大切さを教える」「心のケアを」の大合唱だ。

 問題はそんなところにない。たった11歳の少女が、これだけの決心をするには、よくよくのことだと思うのに、誰にも相談せず一人で考えたと言っている。その事実に注目したい。

 少女は、成績がいいために、手のかからない子で、家族は「いい子」だと思い込んでいる。でも、両親は相談所に「なかなか自己主張ができない、はっきりノーといえないところがある」と打ち明けたという。そのことに気がついている親でさえ、子どもの変化を見落としてしまった。子どもの心の中は、そんなに「いい」ことばかりが詰まっているはずがない。嫉妬、恨み、等誰だって存在するだろう。だがそれを表現することをためらってきた「いい子」たちが突然のように変身する。
 実は、突然ではないことがだんだん明らかになってきている。今年の2月にお母さんによって部活を辞めさせられてから行動に変化が生じてきたと同級生は見ている。お母さんに「辞めるのはいやだ」と言えないばかりに、その思いを内に秘めた。

 なぜ、悪い心を表現できないのか、なぜ、ノーと言えないのか、親たちからの「期待」に沿って「いい子」を演じてしまうのはなぜなのか。

 「昔から子どもは親に見放されないようにしていたのでは?」というご意見もある。でも昔の子どもたちは、親の愛情は信じられたのではないかと思うのだ。生活に忙しくて子どもはほおって置かれたので、心ゆくまで遊びふけることができた。帰ると、親は子どもを抱きしめてくれる。そんな時代だったのでは?

 今は違う。先日も、子どもが学校に行かないからといって親に殺された。勉強をする、学校へ行く、などの条件を満たした子だけが愛されているのでは?「条件付愛情」というものだ。実はほとんどの親がこれに当たるのでは?子どもが学校に行きたくないというとほとんどの親が慌てる。ただ黙って休ませてあげればいいだけなのに。学校に行く、というのが、「いい子」の条件。大地塾の子どもたちに言わせれば、「条件付愛情」は、愛してないということなのだそうだ。なぜなら、子どもが親の愛情が欲しくなるのは、落ち込んでいるときで、そういうときには、条件が満たせないからだという。

 ほとんどの親が条件付愛情なので、このような事件がまだまだ起こってしまうと言う予感がある。ほとんどの親たちは、いい子を育てようとしている。だから、今回の加害少女の親も圧倒的に多数派の親なのだ。だからどの子にも起こりうる事件であるがゆえに「普通の子が」と絶句することになる。

 私には、一つの提案がある。もっと子どもたちに「悪い子」になってもらおう。ノーと言われたらまずノーと言ってくれたことに感謝しよう。そうして、どうしてなのかと考えてみよう。悪い言葉、悪い行い、子どもたちはいろいろなことをしてみて、親がどこまで愛してくれるのかを試している。「あなたがあなたでいる限り、どんなことをしても、愛しているよ」。と伝えよう。生きていてくれるだけでいい。と思えたときに子どもは悩みをそおっと親に伝えてくれるかもしれない。

 殺されたさと美さんの無念さ、加害少女のやりきれなさ、に対して「教える」という位相ではなく、「聴く」という位相で対したい。「聴く」ということは実は並大抵のことではない。言葉にならない心を聴くのだから。


スーパートーク・天木直人&伊藤真 主催 平和政策塾
                         2004,5,16 於、九段会館

サブタイトル:「オンリー・ワンでいこう! 〜外交×憲法=平和〜」
お話:天木直人(前駐レバノン特命全権大使)、伊藤真(司法試験塾・伊藤塾塾長)
司会☆木村晋介(弁護士)、猿田佐世(弁護士)
特別ゲスト:郡山総一郎さん(ジャーナリスト、イラク人質事件)
特別企画:アメリカの戦争ウラ工作の歴史を暴く映画「テロリストは誰」ダイジェスト版上映
主催 平和政策塾 http://heiwajyuku.hp.infoseek.co.jp/
連絡先 090−9964−5024(タケムラ)

 猿田佐世弁護士の若やいだ司会で始まりました。まず伊藤真さんの話は
1、法律は国民の多数派が支持したから正しいとは限らない。ナチスがその例。多数決 で奪ってはいけない価値がある。それが憲法。だから憲法は権力に歯止めをかける  道具。だから、99条で、憲法を尊重し擁護する義務は天皇または摂政及び国務大臣 、国会議員、裁判官、その他の公務員のみが負い、国民は負っていない。
2、積極的非暴力平和主義。防衛力によって身を守るのではないというのが前文と9条。
3、人の生き方の問題。人を殺してまで、自分が生き延びなくてもいい。ということ。

 天木さんは、まず自分はアメリカを大好きだった。と語り始めた。[Jack and Betty]と言う英語の教科書(中T)を見て格好いいと思って以来アメリカに留学できるから外務省に入った。1960年代、ヴェトナム戦争に反対した外務省の書記官が、大使を通り越して大臣に手紙を書いたことがある。自分も電報を打つときそれなりの覚悟はしていた。しかし、イラク戦争について、外務省からは、何の意見も届かなかった。この国の政策は官僚が作って、政治家はわからないまま通している。権力をチェックする機能が必要。特に小泉内閣はひどい。アメリカと日本は対等に交渉をしてきたのか?アメリカに言われたことをどこまで適応させるかということだけ。国民も[イラクから自衛隊は撤退できない」とおもっている人が8割。
 伊藤さんは、アメリカへの対応について、日本人一人一人がどう変わるかと言う問題だという。天木さんは、自分も少しずつ変わり始めているといっていた。

 特別ゲストとして、郡山総一郎さんが、猿田さんのインタビューに答えて話した。解放されてから、大使館で警察の取調べを受けた。(このときのことは「週間金曜日」5月14日号に詳しい。実にひどい話)恐怖体験の後での取調べには、精神科の医者が同席するというのが当然のことだというのにそれさえもなく、自作自演の嫌疑をきせられた。私たちは5人、たった5人だった。イラク人はもっとたくさん亡くなっている。アメリカ人はカウントされているが、イラク人はカウントさえされない。イラク人にとっては人質を取ってやっと自分たちの思いを声明として伝えることができた。これからは、自分がイラク人の口になって伝えていきたい。母は、テレビには出ないでくれといっている。出た後たくさんのパッシングが来るから。でも[お前は間違ってない]というようになった。今ごろ?って思う。

 終わってから、主催者たちの懇親会に私も、チケット売りに協力したので、仲間入り。国弘正雄さんも、懇親会まで一緒だった。大宮の大本さんは、予備校生と、大学生の二人の息子と一緒だった。「あなたたちの時代のこと」。と言って息子を誘ったとのこと。予備校生は「母に感謝しています。こんなところに来られるなんて、ないですよ」という。若い人たちが会場に沢山で、6割ぐらいが女性。全部で500人ぐらいだった。

大地の芸術祭ーー北川フラム連続講演会にて  2004,5,12

 新潟にお住まいの方はきっとご存知でしょうが、他県の方はご存じないのでは?

 「大地の芸術祭」というのは、2000年に始まったもので、3年ごとに行われることになっています。このイベントの仕掛け人が北川フラムさんでした。十日町広域活性化事業「越後妻有アートネックレス整備構想」の総合コーディネーターを受託したのが1997年。こへびと名づけられた芸術家の卵たち(当時芸術系の大学生)がフラムさんの周りに集まって、松代、松の山という県下一の豪雪地帯に入っていきます。土地の人たちにしたら、怪しげな若者、中でも芸術なんていったらもっとも怪しい感じの若者たちを快く迎え入れるなんてことはありえません。始めていって戸別訪問をして帰ってきたときにはみんな泣いていたそうです。「こへび」とは良くぞ言ったものですね。どんな狭いところにでももぐって行く様が愉快ですね。フラムさんはいいます。「ぼくら、ボランティア、って言葉使ったことない。サポーターと言ってました。街づくりのね」。ボランティアって私も昔から好きじゃない言葉、どうやら、その言葉には、正義というのが裏に書かれている感じなんですよね。

 彼は、芸大出身です。私は、芸術というものに対して、わからないという感じで身を引くというところがあります。そういう感じをを彼が、キャッチしているのかもしれない。彼のやってきたとこを見て見ると、「芸術」なんていう範疇をはるかに越えてしまっています。

 例えば、「アパルトヘイト否!、国際美術展」。これは、ユネスコからの要請で日本の窓口となり、全国194ヶ所で38万人が参加したそうです。そのときに使ったトレーラーを20分の一にした模型を見せてくれました。アパルトヘイトの写真を積んで全国を駆け巡ったのですが、このトレーラーの上に大きな赤い風船がついているんです。昨日もそれを膨らませてくれました。これは相当危険なもので、風が強いと吹き飛ばされてしまいます。直径を1メートル増やすと、危険が倍になるということで、できる限り大きくした物。遊びも含まれていて、きっと楽しいイベントだったのでしょう。80年代の終わりの頃です。

 大地の芸術祭、はみんなから無理だと言われながら、すでに2回行われ、今3回目の企画に入っているようです。それはきっと、里山をはじめとする大地そのものとつながりあうことができたということなのではないでしょうか?

枝野さんによる年金の話  2004,5,8

 枝野さんの話した年金のことを書いてみます。かなりわかりやすく話してくれたので、自分の考えをまとめる上でも、有意義では、と考えて。

 公務員と私立学校が共済、民間が厚生年金、これはなぜ分かれたかというと、戦前、公務員には恩給というものがあったため。戦後にもそれが残っていたんですね。だから、これの一本化はとっても簡単。問題は国民年金、皆さん自営業者って言うとどんな人を想像しますか?「2〜3人でやっているお店とか、小さな企業」と答えます。ところが、そのぐらいだと、大抵、有限会社になっていて、厚生年金に入っています。だから、夫婦だけでやっている場合なんかでしょうね。後は、弁護士、医者。「シングルの女性のパートはみんなそうです」の声あり。そうです。実は、まず、パートさんはすべて厚生年金にというのが、民主党案です。パートが国民年金であることによって、不安定雇用が増え続けています。まして、与党案では、これから14年間掛け金が増え続けるのですから、多くの企業が正規社員を削っていくことになります。だから、もっともっと不安定雇用が増えることになります。与党案では厚生年金の適用拡大といっていますが、それではだめです。年間65万以上とか言うと、企業はその下のパートに切り下げるからです。だから、パート全員を厚生年金に、です。更に、自営業者は、収入が確定できないといいますが、それは税務署がキチンとやっています。確かに、給与所得者よりは、どこまでを必要経費にするのかというような次元で、不透明なところはありますが、それでも、税務署はキチンと確定して、税の徴収をしています。だから、その資料に基づいて、収入に応じた掛け金が算出できれば、一本化できるわけです。基礎年金は、税金で、給与比例は、掛け金で、というのが、民主党の一本化案です。

 被3号保険者については、2分2乗でいきます。夫婦の収入を合算して、半分にするということ。これは、おそらく移行期の暫定措置だと思います。(思っているのは秩子です)いずれは、個人単位になるのですから。

 たりないところを、消費税3%を、年金目的税として値上げする。3%の根拠は、政府の見通しで算出したそうです。見通しそのものが、不確定なので、本当はどうなるのか誰もわからない。特殊出生率(今、1人の女性が産む子どもの数は、1,32)は上がっていくというのが政府の見通しです。また、経済の見通しもあります。年金でまかなうのか、消費税でまかなうのか、の違いです。消費税だと、お年寄りからもいただける。だから、若い人の負担は減るはずです。低所得者には、割戻しの制度を作るつもり。食料品は免税、というが、それでは、お菓子を包んだ袋は食料品か、という問題になって、線引きが難しいから。

 年金には、積立方式(1)と賦課方式(2)がある。(1)は、自分が掛けたものを後で自分がもらうということだが、これは、民間会社がやっている。だから、公的年金は(2)であるべき。これは、働く世代が、高齢者を養う。今は、少子化で、どんどん老齢人口の割合が増えているが、しばらくすると安定して、1,5人の若者が1人の高齢者の養うということになる。これを各家族でするとした場合、親が早く亡くなった人は、負担が少なく、長生きすると負担が多くなる。この不均衡を分散させるのが、公的年金。

 枝野さんの話が終わったときにすかさず発言しました。「無年金のことなのですが、先日判決が出まして、無年金を放置しているのは立法不作為だということなのですが、今回与党案にも、民主党案にも無年金のことが出てきません。」するとすかさず立ち上がった若い女性。「それは学生無年金でしょう?」「はい」「学生たちは、任意加入で入らなかった、入ろうと思えば入れた。それに対して、外国人は入りたくても入れない時期がありました。にもかかわらず、この外国人無年金の裁判は負けています」と訴えました。そうなんです。本当に。被爆者だって、日本人の被爆者だけが救われて、でも、この間、韓国人の訴えが日本の裁判所で通って、勝訴したんですよ。2001年に地裁で勝訴、国が控訴して、先日高裁で勝訴、国が控訴しないで、勝訴が確定しました。2001年国に控訴しないようにといっていたときに、自民党の議員が「外国人はだめですよ」と含み笑いをして言うんですよ。今回の無年金についても外国人には冷たいんですよ。ひどい!

それで最後に枝野さん、「民主党の一本化案では、無年金は生じません。」
でも、今の無年金の人たちをどうやって救済するのでしょう?

ロビー活動の一日  2004,5,10(月)

 10時、衆議院第2議員会館と書いてある私のスケジュールノートを見て、何があるのかもわからずにいってみました。教育の欠格条項をなくす会のロビー活動でした。障害者基本法の改正案が、民主党を含めた議員立法で上程されることになったのだけど、その改正案に付帯決議として、2点を盛り込んでほしいと言う陳情でした。いってみると知っている顔はありません。でも、「黒岩です」といったら、桶川市の市議北村あやこさんが声をかけてくれ、何とか仲間に入れました。千葉の重度障害児の母親、古谷さんが私の本を読んだといって、話し掛けてくれたので、手分けして、内閣委員、厚労委員、文科委員全員を回ることになったので、私は、古谷さんとまわることにしました。衆院を30軒ぐらい回ったけど、議員さんは全部不在で、秘書さんに聞いてもらいました。
 1、「分け隔てなく」という言葉を入れて。
 2、分離教育が主流の文部行政に対して、保護者、当事者の選択を重視するように。

 午後は、大勢集まったので、知的障害者二人と、その人たちが通っているデイケアのスタッフ二人と5人で回りました。午後になったら、少し議員に会うことができました。森ゆう子さんを見て「テレビで見た」と何人か。大仁田との戦いですっかり名を挙げましたね。最後に宇洋の部屋に行きました。初めて部屋に通してもらえて、お茶やお菓子にありつけたのでした。宇洋は、皆さんの話に耳を傾け、楽しい会話のひと時でした。ただ、「障害者基本法は、障害者差別禁止法を作ることに向けて、改正することがプラスなのか、マイナスなのか難しい問題」と宇洋。

 その後、フェミニスト議員連盟の世話人さん3人と各党の党首に参院選の候補者は、40%は女性にして、ということをお願いしに行きました。社民党、共産党は、どちらもOKなのですが、民主党は、この騒ぎで、また、自民党、公明党は理由なくあえずでした。これら3党にこそいいたかったのに、秘書に文書を渡すのみで終わってしまいました。
 日野市の名取さん、文京区の木村さん、船橋市の佐藤さん、みんなそれぞれ東京選挙、堂本選挙などで、宇洋の知り合いなので、表敬訪問をしました。

「当事者主権」をめぐる鼎談ーーー結びや結成一周年記念
                        2004,5,22 新潟市青陵大学にて
・申し込み:ねのねっと結屋
     TEL025-233-7022 FAX 025-  233-7024
  ■コーディネーター
    簑輪紀子氏 新潟日報論説委員
  ■パネリスト
    黒岩卓夫氏    医療法人社団 萌気会理事長/ 医師
    東條恵氏     はまぐみ小児療育センター / 医師
    遁所直樹氏   NPO法人自立生活センター副理事長 / 社会福祉士
 会場は青陵大学の食堂のようなところで、広々としたスペースでした。はじまる頃にはたくさんの方が来て下さって、主催者の内山孝子さんは50人ぐらいといっていたのに、100人を越える情況でした。
 鼎談のはじめが遁所直樹さん。彼は、新潟での障害者の自立生活の歴史を語ってくれました。黛さんという不思議な医者との出会い。(この方は、新潟県の小児医療センターの整形外科の医者として、県内の重度障害児のほとんどとかかわれる位置にいました。私がはじめての著書「おお子育て」を出版した81年にすぐ連絡があり、以来、県内の障害児者の問題をいっしょにやってきた経緯があります。当時、黛さんの家に住んでいた二人の障害者、の一人が篠田隆さんでした。毎年、障害児者のスキー合宿を大和町でやっていたので、篠田さんとも昔からのお付き合いです。)篠田隆が、「俺たちは人のために生きるんだ」と言った。行政からの「飴」を断って、座り込みをして自薦ヘルパーと週2回の入浴を勝ち取った。(彼は同じ障害者のめぐみさんと結婚して、二人の子どもを育てています。アンリさんという確かベルギーの神父さんの存在も大きかったのでは?)今、その篠田隆が立ち上げた自立生活センターの副理事長をしている。障害を負ったばかりの頃、病院で、医者が患者に「まだ生きているのか」というのを聞いた。そんな情況から、「生きていることに価値がる」と思えるようになってきた。無年金を訴えたら「お上にたてつく気か」といわれながらいろいろな人の力を借りて、勝訴判決まで来ることができた。
 (自薦ヘルパーと言うのは、自分が選ぶということで、遁所さんは、福永律子さんをヘルパーに選んでいます。福永さんの息子隼人君は、知的障害で、今年で3回新潟市立の明鏡高校を落とされています。志を同じにしている人が、ヘルパーでいてくれるということは、どんなに心強いことでしょう)

 知的障害者とは違うと思っていた。今は知的障害者に横にいてもらって、主張してもらいたいとおもっている。今日は、聾者がいないから手話通訳がない。聾者にも横にいてもらいたい。

 当事者が、身体を張って理想を声にしていくことが必要。

 この後、黒岩卓夫が在宅医療の話をしたのですが、ごめんなさい、私は、何を話したのか覚えていません。

 黛さんがはまぐみを去って、開業した後も、はまぐみに小児科医として残っている東條さんがその後を続けました。県立のセンターですから、現実的にならざるを得ない。遁所さんの話の後は、やりにくい、とぼやいていました。(東條さんには、「現実的」という批判がありますが、私たち大和町の人間にとっては、重度障害児・井口健彦君の小学校入学にあたって、東條さんが学校あてに書いてくださった手紙は、理想そのものでした。深く感謝しています)

 司会者の蓑輪紀子さんが、当事者の話を、ということで、会場にいる当事者の話が始まりました。篠田隆のパートナー恵さんや、長岡からの貝瀬さんが車椅子障害者として、叉障害児を持つお母さんたちが、3人、「当事者ではない」といいながら、
子どものことを語ってくれました。

 読みにくいとは思ったのですが、私の解説は、( )の中に入れました。午後は、グループ討議で、7つのグループに分かれて話し込みました。

 夜の黒岩宇洋事務所での定例会、私は、T年半ぶりでしたが、8ヶ月間毎日通っていた鐙事務所、一時は、主がいなくなるという事態に陥ったにもかかわらず、袖山さんをはじめ、多くの皆さんのお陰で、事務所としての機能が、保たれてきたことを深く感謝しました。「黒岩ファミリーが参加するというので、家もファミリー参加です」と、遁所さん親子も、それから、私にとっては初対面の中島朋義さんも家族4人での参加でした。椅子が足りなくなってうれしい悲鳴でした。ありがとうございました。

枝野幸男と性同一障害

5月8日(土)、女性連帯基金主催「政治家と語ろう」の第一回目民主党政調会長の枝野幸男さんと語り合ってきました。
お爺さんが政治好きで、尾崎行雄を尊敬していたためにその名前をつけられた(字数の関係で字は違えたが)のが縁で、小学校の頃から政治家志望。日本新党の公募に受かって落下傘で93年に当選。新党さきがけと同じ会派を組んでいたので、日本新党がなくなったときにさきがけに。政治家と政策というのは、政治家が政策を選ぶのではなく政策がやってくるもの、だと思う。薬害エイズは、友人が弁護団にいたために持ってこられた。金融も持ってこられたものを断らなかったというだけ。
 
二大政党に分けるとき、夫婦別姓で分けるのがいいと思っている。人に自分の考えを押し付けないのがリベラルだと考えている。その点から夫婦別姓が一番わかりやすいと思う。

憲法は改正すべき。「結婚は両性の同意に基づき」とあるが、これでは同性同士の結婚を排除している。

このごろは、女性の議員で、議員(女性)という人が増えてきた。そんな中で、クオータ制にしてしまうのはもったいない。女だからという下駄を履かせたことになってしまうから。

会場の人が、「私は、性同一障害で、大学卒業したけど就職ができない。名前は女性なのに、どう見ても男だといわれる。今、法律ができて性を変えることが可能になった。でも、それには手術をした人、という条件がつく。皆さんその費用がどのくらいか知っています?600万です。」驚きました。「それで、司法試験に挑戦することにしました。明日が、一次試験です」とのこと。私も、後20年ぐらいたってから生まれていたら、その手術をしたかもしれない。女であることが本当にいやだった。30歳過ぎて、5人目が生まれてもまだ、女に生まれて損したと思っていた。35歳で、6人目を生んでやっと女に生まれてよかったと思えた。と彼のところにいって話しました。

障害者就労支援団体連絡会---2004,4,23

障害者法定雇用率未達成企業の公開に伴ってそれらの企業とどうかかわっていくのか、金政玉さんを中心に何回か集まりを持ってきました。今のところこの団体の名前は「障害者人権センター」ということになっています。

その活動の中で、障害者就労支援団体連絡会という存在を知り、4月23日、その集まりとの交流会がもたれました。金政玉、新藤範彦、黒さき隆さんと4人で行きました。私以外はみんな車椅子の方たちです。4人で一時間話をしました。金さんが、未達成企業の公開にいたる過程を話され、後は私たちの自己紹介です。黒さき(さきという字が出てこないのです) さんは学生時代に交通事故で車椅子になり、就職がないので10年かかって司法試験を通り、弁護士になったのだけど、それでもやっぱり就職できなかったのだそうです。法律事務所で、バリアフリーになっているところなどなかったのだそうです。今は自分で事務所を構えてやっているのでした。

私は、無年金裁判や、水戸事件の話をしました。そうしたら、水戸事件のことには、関心がある人が多くて、質問が出ました。「まだ、アカス紙器という会社があるそうだけど、どうしてなのか、どこに聞いていいのかわからなかったから」実は、名前を変えて、社長も変わって続いているのです。以前書いたと思いますが、被害者の救出ができなかったために、被害を受けながらそのまま働き続けるしかない人がいて、加害者の弟が社長としてやっているのです。WAVEという「水戸事件を支える会」の会報の最近号をほしい方に上げていたら、みんななくなってしまい、これから取り寄せて、また送ることになりました。今回の判決の要旨が出ていますが、ほしい方は、また、定形最大の封筒に90円切手を貼って送ってくだされば、送ります。
二次会で、こんな話も出ました。就労支援にかかわっている方で、企業に就職した女性3人がレイプされ、弁護士に頼んで交渉したけど、日時の特定ができなかったために、訴訟には持ち込めず、示談で終わったというのです。8年前のことでした。今回の判決は、そういうことには力になるはずです。

この会が終わる頃、内閣府の障害者施策担当参事官依田晶男さんが来て、二次会に一緒に行きました。厚労省の職員で今は内閣府に出向している方です。元高齢福祉課にいたときに、黒岩卓夫が、審議会の委員だったのでよく知っているといってました。この方とは、ものすごく話があって、驚きました。実は、障害児を普通学級へ・全国連絡会で30年も前から知っている女性が、養護学校を定年退職して、やまと財団(クロネコやまとの社長が作った)のやっているパンつくりの授産施設で、就労支援をしている小島靖子さんで、何十年ぶりかでの再会でした。この方のところで作っているパンを依田さんが厚労省に広めて、相当な数の職員が週1回届けるパンを楽しみにしているそうです。障害児を普通学級へ、についても、彼は、大事なことだといっていて、これにも驚きました。内閣府障害者施策担当というのは、厚労省、文科省、国交省、法務省からの出向で構成されているのだそうです。障害者プラン、障害者差別禁止法などが、ここで決まっていくのでしょう。

参加者は、50人ぐらいでしょうか、都内の公立や私立の就労支援センターの皆さんが、仕事を終わったあと、自主的に集まって、9時過ぎまで熱心に話し合っておられるのでした。こういうことに熱を入れている人がこんなにいらっしゃるということに勇気付けられました。事務局は、東京都の障害福祉課職員の奈良さんです。月1で会議をしているそうです。これからは、参加させていただこうと思いました。


「自己責任論」批判の共同声明
ーーー2004,4,26

「自己責任論」批判の共同声明を内閣府と外務省に持っていきました。私のところへは、このことで、何とかしたい、または、何とかしてほしいと言うメールがたくさんきています。そういう方たちには、この共同声明に参加しませんかと誘ったりしながら、やってきましたので、持っていくときには、一緒に行きたいと思っていたのです。
内閣府には、女性3人男性3人で行きました。小さな部屋で、文書を渡しながら、いいたいことがある人は言って、2300人の署名をつけて、15団体と30名の呼びかけによってたった1週間で集まったものを手渡してきました。
次に外務省に行きました。玄関で待たされて、20分後に現れた若い男性は邦人特別対策室の坂本篤さんでした。なんと「ここで受け取ります。」というのです。「とんでもない。ちゃんとした部屋でお渡しします」といって、部屋を用意してもらうのにまた20分待たされ、これを報道しようとやってきていたTBSのカメラマンたちもあきれ返っていました。しかも、玄関ではとってはいけない、部屋の中ではいけない。ローカだけと言うので、ローカから入っていくところだけを撮っていきました。

この共同声明の発信者は、世界社会フォーラムの連絡会事務局、小倉利丸さん。彼を中心にして作った文章は、NGOや、市民団体の活動を抑えようとするものだと言う論点が中心でしたが、私は、邦人保護というのが、政府の主な役割のはずで、それをやらないで「自己責任」だというのは、政府の自己否定そのものだということを訴えました。外務省に対しては、パスポートにちゃんと外務省のハンコウ入りで、邦人の保護を関係機関に訴えているのですから、自分の仕事を自ら否定して、存在意義をなくしていることになる、と訴えました。

この声明のほかにも、色々出回っているので、これからもっともっときますよ。と言ってきました。
4月26日の毎日新聞朝刊4面に、昔の学生運動仲間、加藤尚武が「政府の存在理由とは」を書いています。そして、被害者への救出費用請求権はない。とのこと。

内閣府も、外務省も、何かを聞いても、自分たちは、受け取るだけの仕事だからと言って一切答えることはありませんでした。世界中のメディアなどが、日本の「自己責任論」と人質に対してのひどい仕打ちにあきれ返り、外国在住の友人たちは、「日本人であることが恥ずかしい」といってきています。

その後、私は予定があって記者会見にはいけませんでした。外務省で待たされたために、その後の記者会見の準備に女性二人が行ってしまい、外務省には、4人しか残れなかったことが、残念でした。その後聞いたところによれば、大きなメディアは、TBSだけしか来なかったそうです。その日の夕方と夜、翌日の朝、ニュース報道で取り上げられたそうです。私は見逃しました。

イラク人質3人に思う

 4月8日、日本人3人がイラクで誘拐されました。それについての日記を日付順に並べます。


(4月9日朝)
 3人のうち二人が札幌在住。二人とも長女萌実とつながりがあります。特に、今井君は、17日に帰ってきたら、萌実の務めている北星女子高校の生徒に話にきてもらうことになっていたんです。劣化ウラン問題をやっているNGO代表ということでメールのやり取りをしていて、生徒に話してといったら「同じ世代の人たちに聞いてもらえるのはとってもうれしい」というので、驚いて年齢を聞いたら、その頃はまだ高校生だったということでした。この3月1日に卒業したばかり。とんでもない高校生だったのでしょうね。高遠さんの活動も報告されていますね。

 福田官房長官のいつもながらの血も涙もない発言には、怒りを通り越してしまいますね。

 今日は、官邸前に行ってきます。

(4月9日)
 12時に、衆院議員面会所に行きました。物々しい警戒の中、いろいろな市民グループが旗を立ててやってきていました。見覚えのある同年代らしい男性がマイクを持って集会が始まりました。生田卍さんという音楽家の方が、ギターでイマジンを引き、みんなで歌って始まり。社民、民主、共産の議員たちがそれぞれマイクを持ちましたが、民主のとき「撤退を言わない」という声がもれていました。首相が、家族に会わないことを非難して、菅代表が、家族と首相をつなぐということを言っただけでした。

 その後、ジャーナリストのシバレイさんが、「すでに4回イラクに行き、高遠さんと知り合い、彼女の活動は凄い。銃を持った暴漢からストリートチルドレンを守るのに土下座してお願いしていた」などと語り、そんな3人の命を守ることが第一であることを訴えました。そこへ、「さらば外務省」の天木さんが来て、「小泉首相の自衛隊派遣が間違いなのだから、それを反省して、撤退するべきだ」というので、たくさんの拍手を浴びていました。

 それから、首相官邸の前までほんの少しですが、歩いていき、ここでは、また膨大な数の警察官が、嫌がらせとしか思えないような「交通整理」をしてくれるので、そことの摩擦でかなりの時間をとりました。「3人を殺すな」で始まるシュプレヒコールをしばらくやったあと、「一時になったので、解散します」といわれたのですが、誰も帰ろうとしない。座り込むか、とか言っている人たちもいました。300人しか集まらなかったので、よほど濃密な意志を持った人の集まりだったようです。明日も、あさっても、12時から13時まで、同じ場所で集会をすることが確認されたのですが、首相のあの強気発言では、3日たたないうちに焼かれてしまうのではと、心配なばかりです。どんな手があるのでしょう?

(4月10日)
 国会前に行ってきました。昨日よりは大勢の人が集まっていました。今日の集会は衆議院議員面会所の中で行われ、あふれた人が外にたまっていたんです。1000人ぐらいということです。今井さんと劣化ウラン弾のことをやっていた広島の男性が、涙ながらに訴えたり、薬害エイズの川田龍平さんが人の命よりほかのものを大切にしてしまう小泉内閣の打倒を訴えたりしていました。

 私は、マイクを持って訴えたかったことがあります。それは、北海道は、どうやら、全国の情況とは違うらしいということです。札幌の私立女子中高(北星)の教員をやっている萌実からのメールを貼り付けます。

>北星でも、昨日は教職員の朝の礼拝から邦人拘束の話題がだされて、生徒たちのなかにも、今井くん、高遠さんを個人的に知っている人がけっこういます。特に、今井君は中学時代も生徒会長としてばりばりやっていたので、よく知られているみたい。

 昨日は、新入生歓迎会のステージ発表が午後あって、高校生全員が集まってお祭り騒ぎをやったんだ。私も演劇部の顧問ということで、ステージの進行にかかわってたんだけど、まったく突然、すべての発表が終わったところで、高2の生徒(海里・かいり)がステージに立って、泣きじゃくりながら訴えたんだ。
「高遠さんはお母さんの親友で、私がいちばん尊敬するひとです。どうしても高遠さんを救いたい。」彼女は千歳に住んでいて、高遠さんとは昔からのつきあいだということ。「賛同してくれるひとは、小泉首相あての署名用紙に署名してください。」

 さっきまでの、お祭り騒ぎが一転して沈痛な雰囲気になって、海里が話し終わったら拍手がおきた。海里は自衛隊の撤退については言及しなかったから、放課後「海里は自衛隊を撤退して欲しいの?」ってきいてみたら、もちろんそうだけど、千歳にも北星の友達にも自衛隊関係者がいるから、あえて触れなかった、って言ってた。結局、帰りの学活だけで約1000筆の署名が集まったとのこと。高校生ほぼ全員が署名したことになる。

 昨日の札幌の繁華街での市民グループの街頭署名、3時間で4200筆。これもすごい数だけど、北星はやっぱり、普段から平和の話をよくする校風に加えて、女子高のせいか、とってもemotionalな集団なので、すごい署名数になったなあって思った。私も今井君の話をクラスの生徒に話した。

(4月11日早朝)
 犯人グループが24時間以内に3人の解放を決定とアルジャジーラが放送。イスラム指導者に説得されてと。「日本国民に対して頼みがある。自衛隊が撤退するように政府に圧力をかけてくれ」とのこと。

 早速NHKのインターネットニュースで確かめてみたのですが、本当のようです。みんなの思いが届いたのでしょうね。

(4月11日)
 午前中の討論番組をぎりぎりまで聞いてから出かけていきました。国会議事堂前の地下鉄駅からあがっていくと日本山妙法寺の太鼓が高らかに鳴り響いていました。解放された?と一瞬思いましたが、聞くとまだとのこと。議面からあふれた人が昨日の倍ぐらいです。昨日はマイクがうまくなくて集会の終わりごろにやっと中も外も聞こえるようになったというのが現実でしたが、今日は、初めからキチンと外の人にも聞こえるようになっていました。今井君の団体の顧問弁護士という人が、札幌から大量な署名を持ってきたといって話しました。「日米の政府が何かをした結果、今回の釈放に結びついたのではない。家族や、われわれや、それに呼応したイラクの人たちの声が、ここまで導いたのだ」3人の家族が始めてやってきました。みんな大勢いるのにびっくりしていた様子。今井君の兄は「泣かないようにがんばってきたけど、こんなに大勢の方が・・・」と言って声が詰まってしまった。母親たちも声を詰まらせた。どなかた、家族の一人が「3人が解放されても、世界中の人たちが、3人と同じようにつかまって、ナイフをつきつけられたりしています。これからも、引き続き宜しくお願いします」といった。

 イラク戦争は違憲だという裁判の原告団の弁護士、中島通子さんが言った。「今井君を見ていると50年前の自分を見ているようだ。私は、高校1年のときにデモにいって停学を受けた。今井君には、高校で全校署名が行われた。それだけ変わってきている。今は、若い人たちの行動が外に向いてきている。うれしいこと」

 ものすごい警戒態勢の中、みんなで少しでも官邸に近付こうと外にでて歩いたが、交差点を越えられずに集会、シュプレヒコールとなった。でも「シュプレヒコールなんて古くていやだという人は、ご自分のやり方で表現してください」と司会者がいったので、変わってきたなと思った。初めての日、そう、9日のシュプレヒコール、少々抵抗があると思っていたら、はじめに「3人を見殺しにするな」と言ったので、そこにいる人すべての心をつかんでしまったのだ。この一点でみんな集まってきていたのだから。抵抗があった人も、きっと大声をあげてしまったのではないだろうか。私はそうだった。

 インターネットの署名が134000.署名簿が7000筆。家族の皆さんへのカンパは、昨日だけで60万、とのこと。

 午前中の討論番組では、なんだかほとんどの人が、首相の「撤退しない」という発言を高く評価していて、天木さんと司会の田原総一郎さんが、「撤退すべきだ」といってがんばっていました。ただ、みんなが一致していたのは、イラクが泥沼化しているという現状認識でした。

今日の昼までに釈放といっていたのは、一体どうなったのだろう?

(4月15日)―12日から15日まで、佐渡市の選挙応援にいっていたため、空いています。
 イラク派兵は違憲だという裁判を起こした元防衛庁職員蓑輪登氏が、人質3人の身代わりになるという声明を発表したというニュースの直後、3人の解放が報道されました。
身代わり声明は感動的なものです。HPで見てください。
http://www.janjan.jp/government/0404/0404143181/1.php

女の助け合い「女性ユニオン東京」−ファム・ポリティク43号

 60年の安保闘争のころ、「全国一般」という個人加盟の労働組合があって、いつも高らにここの旗がなびいていた。
「全国一般」の女性たちが、1980年代に女性だけの個人加盟の組合を模索し始め、95年には「女性ユニオン東京」が結成された。その他の地域でも、労働組合が男性中心で、女性の力にはならないことを身をもって知った女性たちが、87年に関西が結成したのを始め、札幌、新潟、仙台、神奈川とつづき、今のところ6つできている。
 1月中旬、女性ユニオン東京の事務所を訪ねた。代々木駅から歩いて5分ぐらいのところなのだが、裏通りの目立たないビルの2階にあった。中に入ると、事務机に女性が二人座っていた。この二人が、正副執行委員長だということは、名刺を頂くまでわかりらなかった。こんな言い方してはいけないのかもしれないが、どこにでもいるおばさん、という感じの方々なのだ。お二人は、当時執行委員長の伊藤みどり(今は、副)さんと副執行委員長の谷恵子さんだった。

 でも、話し始めるととたんに正副執行委員長(この会では、役職名で呼び合うことを辞め、すべて固有名詞で呼び合っている)。「セドウ」「ディーセントワーク」ぽんぽんと専門用語が飛び出し、いちいち質問する私。たちまち、お二人の世界に引き込まれてしまった。
「女性が、相談する相手が、男性の組合オルグでは、本音で言えないこともあるし、分かり合えないこともあるということで、87年に関西の女性が、女性だけのユニオンを結成したのです。」
「男女雇用機会均等法ができたのが85年だから、その影響もあるのでしょうか?」
「いえ、私たちは、均等法のお陰で、コース別が導入され、却って悪くなったと考えています」
「コース別って?」
「総合職、一般職というわけ方です。こうして結局女性は一般職だから、ということで差別が合法化されてしまったのです。均等法以後のほうが裁判に負けるようになりました」
 そういえば、赤松良子著「均等法を作る」(勁草書房)には、そこら辺のことが、著者の苦労として書かれていたな、と胸の中で折り合いをつけた。 

 この組合は、女性だけで集まって、女性だけで、団体交渉をしている。東京では、月に40ぐらいの交渉をしているそうで、7〜8割は、何らかの解決を見ているとのこと。労基署より、裁判所より「役に立つ」のがユニオンなのだ。そのときに買ってきた本の題名が、「働く女性のパワーアップメニュー」(教育史料出版会)、副題が「ローキショより役に立つ、負けないぞBOOK!」。創立当時の初々しい筆が踊っている本だ。企業の中で、ひどいことをされても、訴えるところもなく、孤立して追い詰められた女性たちがやっとの思いでユニオンを探し当てて、ドアをたたく。相談を受ける人も、つい最近までの自分の姿がそこにあるのだ。
「会社は、解雇理由を何だといっているの?」相談者は、用意してきた経過報告を見ながら、説明する。「どんなことがあっても、絶対に自分から辞めるっていっちゃだめ。」先輩としてのアドバイス。「それで、あなたは、どうしたいの?」とご本人の考えを尋ねる。あくまでも、本人の意思に従って、行動が決まるのだ。時間とエネルギーを使ってどこまでやれるのか、本人の決断にかかっているのだから。

 闘うことが決まると、会社にそれを通告する。言うこと聞くに決まっているとたかをくくっていた会社は、びっくり仰天、早速弁護士に相談したりなどして、体制を整えるのだろう。それでも、もともと、労働基本法・労働組合法によって、働くものの権利が、守られているから、不当な解雇は許されない。個人加盟の組合だって、れっきとした組合。だから、本人と、ユニオンの誰かと2人か3人で、押しかけて、団体交渉となる。こちらは、すべて女性、あちらは、ほとんど男性だろう。こちらは、後ろにちゃんと女性弁護士たちが控えている。
解決が見られない場合は、その後、斡旋、告訴、に移行する。実際、女であることによって、不当な解雇や、労働条件を押し付けられ、それを跳ね返そうとして集まった人たちだから、意気込みが違う。経営者が、団体交渉を拒否した場合、都道府県の労働委員会に訴える。労働組合法によって、労働委員会は、斡旋をする。斡旋を受け入れたら、そこで終わりとなるが、それでも頑固に拒否する経営者に対しては、いよいよ告訴して、裁判に持ち込むというわけだ。 

 例えば、こうだ。38歳のTさん。子ども2人と夫が家族。下の子どもが小学校に入学したのを機に、自転車で通えるファーストフードチェーンの厨房で働き始めた。1年たったころから厨房主任の男性が手を握ったりするので「やめてください」と言ったところ、いじめが始まった。熱くなった鉄板付きのお皿を投げつけられたこともある。Tさんはあまりのことに胃炎を起こし、休業にいたる。治療を受けた病院の看護婦さんからの紹介で、女性ユニオンを知り、相談に行って、組合加入、交渉をする決意を固めた。
 ユニオンでは悪質なセクハラだとして会社と団交開始。はじめは言い逃れをしていた会社もTさんの「社会の判断を仰ぎましょう」という追及によって、非を認めるにいたった。Tさんの休業を労災と同様の賃金で保障し、厨房主任にも厳重注意の上、他店に異動させ、労働協約を締結して解決を見た。

 このようなユニオンの活動は、組合員の会費で成り立っている。相談には、費用を取らず、仲間として対面し、ほとんどの場合、そこで「同志」となる。

 パート、臨時、派遣、といった、女性差別があるが故に成り立っている労働形態の人たちも、ユニオンの門をたたく。ある自治体では、数回の交渉を経て、女性センターの嘱託職員の処遇を、ほぼ要求どおりに勝ち取ることができた。それには、地域の仲間達が、夜の交渉に立会い、交渉経過を見守ってくれたということも大きかったようだ。叉市議会議員に議会で質問してもらったり、講座の講師たちにもサポートしてもらったりとあらゆる手を尽くして交渉に臨んだのだった。  
 このユニオンが、ある企業の中の一人の権利をしっかり守ってしまったことから、その企業の中の組合が、目覚めてきて、女性たちの権利を守るようになったという効果もあるという。概して、女性の言葉に耳を傾けることが苦手だった「連合」」(組合の上部組織)も、外部からの評価委員会というのを作って、自分たちを変えようとの努力を始めているとのことだ。

 政府は労働者代表というと「連合」の意見しか聞かないから、「連合」にわかってほしいのだと伊藤さんと谷さんは強調する。
 222日、ユニオンの定期大会に行ってみた。50人ぐらいが、円卓状態の会場に座っている。みんなが対等であるということを、座席が表現していた。役員が次々に発言する。どの方が、委員長になってもいいようなしっかりした方ばかりだ。この方達が、職場の中で、つらい思いを抱えて、ユニオンのドアをたたいた人なのだと思ってみると、なるほど、これだけしっかりしたものを持っているから、ここまで来られたのか、とも思えるし、いや、ユニオンとの出会いが、ここまで成長させたのだ、とも思えるし、その両方なのかもしれない。
 そこに集うすべての女性の表情には、緊張感が漂っていて、きりりとしまっている、と見えてしまったのは、私の主観に過ぎなかったのだろうか?

 実は、私がこの大会に行って一番驚いたのは、誤解を恐れずに言うと、私の知っている人が先のお二人を除いて一人もいなかったと言うことだ。女性の集まりに行くとどこでも同じような人がいるばかりで、まるで金太郎飴、と自嘲的に言われてもいる。ところがここにいるのは、これまでこういう場に来たことのない人ばかりなのだ。つまり、ユニオンの存在によって炙り出されてきたエネルギーを秘めていた女たちだと言うことだ。伊藤さんも「それだけは自慢です」といっている。そして、ほとんどが働き盛りの若い女性!
 このときに、出来たてほやほやの「働く女性のユニオン手帳」が配られた。
 「不当労働行為・団体交渉って何?」などを始めとして、会社から「来なくていい」といわれたら、セクハラの被害にあったら、妊娠・出産・育児を理由に不利益な扱いを受けたら、派遣で働くときのチェックポイントなど実にきめ細かな、体験者ならではのアドバイスがのっていて、当事者たちの悩みに答える内容が詰まっている。

 ここに、女性ユニオン東京のアドレスを紹介する。
  渋谷区代々木1ー19ー7横山ビル2F
  03-5352-6630,F3320
8093,mailwtutokyo@f8.dion.ne.jp HPもある。
ボランティアで運営されている。ボランティアのできる方、訪ねてみてほしい。


水戸事件民事全面勝訴 2004,3,31 於、水戸地裁

 水戸に着くと、地裁の前の桜並木が丁度満開。幸先がよさそうです。ずらーっとつながって傍聴券を待ちます。なんと25人のところ55人、車椅子も4人のところ8人。ほぼ2倍です。籤運の悪い私はほとんど諦めていました。予想どうり、はずれ。

 しばらくすると、支援者の小島さんが、興奮して走ってきて「勝利判決」という垂れ幕を広げました。3人の原告と弁護士たちは、抱き合って泣いていたそうで、よっぽどしてから下りてきました。ほとんどの弁護士は記者会見に、3人の弁護士とみんなは近くの公民館に行きました。まだ20代と思える中西紀子弁護士が報告。レイプも、暴力も、ほぼ総べてこちらの言い分通りだったというのです。ただ、損害賠償額が、少し少なかったようですが、それでも500万づつの賠償です。これは、ほかの弁護士の言によれば、民事の賠償額の最高だということです。

 その後、副団長の茅原(この字は違うのですが、出てこないのでごめんなさい)洋子弁護士が付け加えます。「被告側は、時効だといったのですが、それについて裁判長は、われわれの言い分を認めて、次の様に答えていました」「知的障害者は、支援者からの説明や援助なくして訴訟を起こすことはできないのだから、起算点を説明を受けた日にする。だから、時効は成り立たない」と。これは凄いことです。でも、実は本当にそうなのです。そうされることが当たり前とおもっている限り、訴訟になどなりえないわけで、「訴えてもいいんだ」と思えてから勘定しなくてはなりませんね。

 茅原さんは、「真実が通る。諦めなくていいんだ。という判決をいただいた」といい、51期の若い弁護士達が9人も弁護士になった4月になだれ込んできて、その人たちがほとんどやってくれたんです。と若者たちに花を持たせていました。

 その後、原告の親の一人が「刑事事件が終わったときに、みんな意気消沈して、これでやめようといっていた、そのときMちゃんが『いやだ』といったんです。その一言で民事裁判が始まりました。」と発言。その一言がいえたということが凄いですね。周りへの信頼がすでにできていたということなのでしょう。そのころは、まだ海映たち51期生は司法修習生だったのです。
何しろ7年がかりの裁判でした。

 アカス社長の責任(知的障害者を雇うにあたっての)にまで踏み込んだそれこそこれから、私たちが大いに使っていける判決をいただいたということでした。
 また、知的障害者の証言についての原告側の言い分をすべて認めたという意味でも実に画期的な判決だったといえましょう。

学生無年金全面勝訴 2004,3,24 於、東京地裁 

 驚いてください。無年金裁判の初めての判決が、今日東京地裁で下されました。全面勝訴でした。傍聴席に入れない人が、廊下にあふれていました。国賠訴訟(国家賠償)で勝つ可能性は、10〜15%といわれています。その上、今回は、長年放置した「不作為」を「故意」だといっているのです。弁護団長の高野範城さんは、国賠訴訟で勝ったことはあるけど、「故意」までもらったのは初めて、とのことでした。別の弁護士の言うことには、裁判長は、辞表を胸に入れていたはずとのこと。国を相手に、これだけしっかりした判決を書くということは、よほどの覚悟。という。
 ずうっと泣いている女性がいたので、原告の家族だと思っていたら、その方は、菅沼友子さんという弁護士だった。また、弁護団の一人、阿部真理子さんは、知的障害のある子どもさんを一人置いて、1月にガンで亡くなってしまったと言うことを原告の家族が話してくれた。

 終わってから、厚労省に、控訴しないように、といいにいった。今までは、この団体で行くと係長ぐらいしか出してこなかったのだけど、今回は、課長が数人並んでいた。しかし、どの人も「実態調査をしてから、検討」などというので、20年も同じことを言ってきた。そのことを今日の判決で「故意の不作為」と言ったのだ。とみんなで詰め寄った。何しろ大きな会議室をとって、椅子をたくさん追加したのだけど、全国から原告や、弁護団、支援者が来ていて、入りきらず、立見席も。その熱気は十分厚労省に伝わったはずです。

 全国各地で10の訴訟が29人の原告によって戦われてきました。これから続く判決に、励みになることでしょう。札幌、森岡、東京が二つ(精神と身体)、大阪、京都、岡山、広島、福岡。そして新潟。新潟からは、遁所さんと阿部さん、(原告二人)と二人の介助者、遁所さんのお父さん、和田弁護士。みんな来た甲斐があったと喜んで、最後まで残っていました。(3,24記)

 その後、この問題は立法府に移されました。どんな法律を作って救済するのかということです。この判決が出たあとで加入された方も含めて、148人の議連が、慌しく動いています。宇洋が事務局長として、厚労省、与党、原告団、弁護団などの間を取り持ちながら駆けずり回っています。4月7日に控訴の期限までに控訴をしないように、そして、支給額は障害年金と同じ額を、ということで、厚労大臣へ面会を求めたりしているところです。全国の原告や、弁護士たちが、東京へ何回も来てめまぐるしく動いています。私もできることをやっていきます。(4,1記)

「行政の不作為は違法」―3月21日人権研究交流集会、於、早稲田大学

 20日、21日、早稲田大学で、青年法律家協会による人権研究交流集会が催されました。「知的障害者」という分科会(21日)に参加しましたので、少し報告します。知的障害者虐待事件が頻発していますが、この日は、水戸事件と滋賀のサングループ事件の弁護団からの報告がありました。

 まず、水戸事件の弁護団の黒岩海映から、次のような話がありました。

 障害者の虐待事件はそこここであるけど、まず一番大変なのは、その会社をやめるということ、次が、やめた後、どこに居場所を求めるかということ。このことが、水戸事件では、完全に行えず、被害者が通っていたダンス教室の先生が、ティピという宿泊施設を提供したことで、女性被害者の救出はできたけど、男性まで手が伸ばせず、彼らは、そこに働き続けるしかなかった。だから、アカス紙器は、社長を変えただけで、まだ存続している。
 裁判の中で意を用いたのは、次の点だ。
 知的障害のある原告本人の尋問を成功させるために、専門家たちの意見を聞いたり、先進的な外国の文献をあさったりして、知的障害者の特性を明らかにした。それは、例えば、「黙従反応」といわれる相手に合わせて、本心でない反応をしてしまう。また、記憶には、短期記憶と長期記憶があって、知的障害者は、長期記憶はほとんど他の人と変わらない。また、抽象的な思考に弱いため、日時などはわからないことが多い。
 それから、そんなにひどい虐待がありながら、なぜすぐに会社をやめなかったかまたは、やめさせなかったか、ということを明らかにする。
 そのようなことをすべて終えて、2月25日に結審した。3月31日の判決を待っている。

 それに対して、サングループは、さすが、滋賀県。戦後すぐに糸賀一雄さんが、取り組みをはじめた障害者問題の先進県だけのことはある。糸賀さんと働いたこともあるという小迫さん、そして、今井さんが、従業員のすべて20人を寮に救出して、全員が会社をやめ、会社は倒産。裁判は、会社のみならず、訴えられてもほって置いた行政を被告として告発した。国の出先機関である職安、労基署、虐待を知りながら園生を送り込んでいた県立の施設など。その結果、昨年全面勝訴の判決が下った。行政の不作為を違法と断じた画期的な判決だった。
 私たちも含めて、国や県に控訴しないようにと働きかけて、控訴断念、したためにこの判決は2003年4月に確定したのだった。

 「行政の不作為は違法」という判決は、広めていきたいですね。

伊藤真の憲法講演会(2004,3,9. 於衆院第2会館)

 先日戦時性暴力の会にいったときに頂いたチラシを見て伊藤真さんの憲法の講演を聞きに行ってきました。司法試験予備校の超カリスマとは聞いていましたけど、聞きしに勝るすばらしい講義でした。迫力を持って説得してしまいます。この講義は、実は3回目でした。前の2回は、知らなかったのでいけませんでした。この日はまず、白板の上に「国家」と書き、その下に「国民」と書きました。その上で、法律と憲法は全く違うと言うのです。憲法は国民が国家を縛るためのもので、法律は、国家が国民を縛るもの、ということでした。

 今では、国家と対等なぐらい力をもつようになった大企業もあるので、この国家と国民と言うのを強者と弱者と言い換えてもいい。

 多数決に歯止めをかけていくのが憲法。多数派が奪ってはいけないものが「人権」。法治主義は国民が法律に従わなくてはならないと言うことであるのに対して、「法の支配」(=立憲主義)はその反対で、国家が法に縛られると言うこと。

 第10章 最高法規、というところだけはぜひ読んでくださいとのこと。97〜99条です。

 1993年、カンボジアにできた憲法は、死刑廃止を盛り込んだ。ということです。ポルポトにあれだけ大量に殺された人たちが、その加害者を死刑にしないことを選択したということ。

 伊藤さんは、今の改憲の動きに対して、大変な危機を感じていて、憲法の話を聞いてもらえるところにはどこにでも行きたいということでした。伊藤さんの私見を少し、書いて見ます。
「前文、9条、を変えるということは、人を殺すことを合法化すること。軍事力による防衛が正当化されると、国民の人権制限も正当化され、情報公開どころか、ますます閉鎖的、不透明になり、国民は必要な情報が得られずに、誤った判断を下す危険にさらされる。」

 「平和」や「国際貢献」という言葉で軍事化が正当化される中、私たち一人一人が何ができるのか無力感にさいなまれることばかりですが、誰でも参加できる署名活動の呼びかけです。

「憲法改悪に反対し、9条をまもり、平和のために生かす署名運動」です。

詳細は:http://www4.vc-net.ne.jp/%7Ekenpou/seigan.html
署名用紙は上記からダウンロードできます。

戦時性的強制被害者問題解決促進法の行方

 2001年、参議院にいたころ、中国や、韓国の戦時性暴力被害者の方が来日され、国会においでになると、私はいつも、お話を聞きにいっていました。その年の9月、まだお元気だった松井やよりさん(元朝日新聞の記者で、アジア女性資料センターを立ち上げ、2000年の暮れには国際戦犯法廷を世界中に呼びかけて主催した方。2002年暮に亡くなった)を団長とする韓国へのスタディーツアーに参加して、被害者の皆さんが共同生活をしておられる「ナヌムの家」をたずねたり、日本大使館への抗議の水曜デモに参加したりして帰ってきました。色々な地域でこの問題の裁判があり、弁護士をしている海映(次女)からその行方を聞いたり、海映が弁護団に入っている東京地裁の裁判を傍聴に行ったりしてきました。戦争中の日本国家の犯罪を何とかして認めて、決して償うことなどできない問題ですが、それでも、少しの補償でも勝ち取れたらと言う思いでかかわり続けてきました。
 この3月3日、参議院会館での戦時性的強制被害者問題解決促進法制定のための緊急集会というのがあっていってきました。

 この法案は、心ある女性議員たちとわずかな男性議員たちによってずいぶん前に作られていたのに、自民党を始めとするオジサマたちに反対されてなかなか上程するところまで行きませんでした。だから、去年、この法案が参議院内閣委員会に上程されたのは、実は画期的なことだったそうです。ところが、これも衆院の解散という事態になって廃案に追い込まれてしまったのです。それを再び上程して、今度こそ通そうと言う意気込みで開かれたのが、今回の緊急集会でした。

 来年は、戦後60年の節目。被害者たちの高齢化、そして、死亡と情勢はどんどん悪くなります。この日は、このことにかかわるNG0の方々がたくさん署名簿を持って集まっていました。私も、この署名はどれだけ集めたかわかりません。ご近所に嫌がられていました。
 議員さんたちもたくさんでした。一番の中心は、岡崎トミ子さん(民主)。この方は、去年だったか、ソウルで、被害者の皆さんと水曜デモに参加したということで、問題にされていました。でも、土肥隆一衆議院議員(民主)の発言を聞いて、それは責められる問題か?と改めて思いました。「私が、このことに関心を持ったのは、岡崎トミ子さんのセイです。会うたびに体中でそのことを発信している」とのこと。この方は、かなりお年を召した方です。そんな方を説得してしまうのだから凄い。岡崎さんは、内閣委員会で宇洋(長男)と一緒。前日も、調査で一緒だったと言って、「凄くいいわよ。やってくれるわよ」とローカで私を呼び止めていっていました。

 これまで、ほとんど参院だけでやっていたそうですが、先日、衆院で3年ぶりにこの問題の質問がされたそうです。それをしたのは、福岡3区の藤田一枝さんです。3月1日、予算委員会の第3分科会と言うところで、とのこと。この名前、見覚えあるでしょう?太田誠一さんを落として上がってきた人で、私は、WINWIN代表で応援に行ったのでした。彼女は初質問を、このテーマでしたのだそうです。実は、福岡では、強制連行での裁判がずうっと続いてきて、三井鉱山の件では、1審でこちらが勝訴し、今控訴中とのこと。だからか、福岡出身の議員が3人も来ていました。その中の一人、楢崎欣也さんは、衆院内閣委員会に、差し替えで、質問に入ると言っていました。とにかく昨日だけでも11人の議員と何人かの代理出席がありましたから、かなりの力を発揮してくれるのだろうと、期待しています。

 共産党の吉岡吉典参議員の発言に驚きのため息が出ていました。「今回の自衛隊の派遣について、若い自衛隊員の生理的欲求をどう解決するのか?という質問が、どこかの委員会でなされた」とのこと。

白金ジェンダートーク−−2月28日港区男女共同参画センターにて

港区の男女共同参画のグループに呼んで頂いて、田町の駅前の男女共同参画センターでお話させていただきました。
田中真紀子辞職の伴う新潟5区補選に立候補した石積勝さんの連れ合い深雪さんが仕掛け人だったので、勝さんもきて、しばらくぶりの対面となりました。彼を含めて男性は3人。女性たちは、子育て中の若いママから、私以上の年齢の方まで(卓夫と宇洋が家庭教師をしていたという丸山さんのきよさん、百合子さんのいわゆる嫁姑が一緒に来てくださった)幅広い参加でした。専業主婦として子育てをしていたら、ノイローゼになって、仕事探しをして、ノイローゼから脱出したという若い方の話には、みんながとっても共感しました。終わってから近くのレストランで2次会をしてわかったことは、その方の子どもが行っている原町保育園は、この4月から私の孫志重がいくことになっている保育園だということがわかり、「今度は保育園で」
といって別れたのでした。私は、志重の保育園のお迎えを週に一回担当しているのです。

深雪さんがIBMに勤めたいたときの同僚で、私ぐらいの年齢の方は、企業に勤めていたら、子ども一人産むのがやっとで、それでさえ、中絶をにおわされたり、企業の中では、とても子育てへの理解は求められなかったとのことでした。

若い女子大生が、最後に質問「少子化ってどうしていけないんですか?年寄りの年金を支えるために子どもを産まなくちゃいけないんですか?」私は応えました。今の少子化っていう現象は、女性たちのストライキですよね。世界を見渡せば、女性の言うことを聞く体勢のある国では、子どもの数は増えている。一番少子化が進んでいる国は、イタリア、ドイツ、日本です。この3つの国、枢軸国です。共通点があるんですよね。北欧や、フランスでは、女性の意見を聞いて改革が進んでいったら、出生率が上がってきています。だから、この少子化って言う現象を、女性の意見を聞くように国を変えていく方向で利用したらいいのでは、って思っています。」

私の友人の曽田しょうこさんの話で、3人の子どもを産むとき、一人産むとそこに共同保育所を作り、結局3つの保育所を作ったそうです。そのようにして、子どもを仲立ちとして、地域とつながりあえた。彼女は、物理の出身なのですが、物理の研究者である人と結婚し、自分も研究者の道を歩むつもりだったのだけど、もっと人間のことに興味が出てきて、単なる物理の研究、というのではない道を歩み始めました。そのとき、夫君のいったことが、「物理なら男でもできるから、あなたはそっちにいったほうがいい」だそうです。しょうこさんが初めて出された本は、「子育ても、料理も、科学も遊んじゃおう」(太郎次郎社)です、その題名を見て、彼女がどうなったかご想像ください。
曽田しょうこさんはまた、40歳で事故で亡くなった夫君が、亡くなる前日「夫婦喧嘩ができてよかったよ。職場で議論ができない人は、家で夫婦喧嘩をしていない人なんだよ」と言ったという話をしてくれました。翌日亡くなるなんて、本人も知らなかったのにです。
これは、きっと卓夫も、賛同するのではと思います。卓夫は、いつも言っているのは、「嫁姑」の関係でも、喧嘩できる関係がある家は、うまく行っている、我慢している家では、お互いに理解しあえないし、疑心暗鬼になってうまく行かない場合が多いということですから。

終わってから近くのレストランで10人ぐらいの2次会。余韻を楽しみ、石積さん夫婦についての夫婦喧嘩の公開もなされて、楽しいひと時でした。働くママたちのMM,MLを主宰している方西田良枝さんは、日立グループの職員でもある方で、若いお母さんたちが働くことを支援している迫力ある女性で、皆さんを圧倒していました。「はたママ」のHPです。
 http://www.hm-ken.net/

2次会のあと、曽田さんと二人で、3次会を延々としていました。おたがいの母親が似ていたこともさることながら、物理よりも豊かな世界に子どもの出現によって導かれたことのありがたさについて、語り合い、話はつきませんでした。

保育所は「雇用」「女性」だけの問題か?−2月25日銀座、ソニービルにて
      ------ 「構想日本」主催ーーーーーーー

こんなタイトルのフォーラムに行ってきました。
この日は、本当は、水戸事件の結審の日なので、そっちにもかなり行きたかったのだけど、こっちを選びました。19年間保育所に勤めていた私としては、言うべきことは言っておかなくては、という思いだったのです。やっぱり行ってよかった。ものすごく内容の濃いフォーラムでした。

16:00〜18:00が一部で、保育、育児現場の人たち。18:30〜20:30は、二部で、厚労省の「次世代育成支援対策」など。一部には、知っている保育者が二人登場。多摩ニュータウンの近くでバオバブ保育園をやっている遠山洋一さん(私保連事務局長)信愛保育園の新澤誠治さんの息子の拓治さん。遠山さんは工学部出身の園長さん、いかにも理系という感じの冷静さで、今進められているコスト削減による保育の質の低下に警鐘を鳴らしました。

資生堂が、去年6月汐留に社内保育所を作り、電通、IBM、ニチレイにも開放して運営している。その施設長さんの話も面白かった。庭もないので、公園に遊びに行く途中、魚屋さんと仲良くなって、生きているたこや貝等、見せてもらっているという。
これも、じつは、二部にも登場した「次世代育成支援対策」の一環なのだ。300人以上の社員を擁する企業に、この支援策の計画を義務付けた。経団連の中に、14社の代表で構成する、支援策のプロジェクトチームも作られたという。
叉、子育て、ファミリーフレンドリー企業の表賞もある。それを受賞した秋田のカミケという企業は、社長が、社員に辞めてもらっては困るので、何がしてほしいか社員に聞いた。その結果、社内保育所を作り、お乳がはってきたらすぐに飲ませにいくというようなことを保障。その結果、どんどん業績が伸びて、会社も大きくなっていった。

厚労省の雇用均等・児童家庭局少子化対策企画室長の吉岡さんは、長時間労働の地域は、子どもの数が少ない。男性の家事時間が短い国ほど出生率は低い。などのデータ−を示しながら、少子化対策は、企業を含めた社会全体に働き掛けなくてはならない、と話し、社会保障費に占める高齢者関係給付は68,7%なのに対して、児童・家族関係給付は3,7%しかない。それをせめて5%にまであげなくては、と訴えていた。

私は、保育園務めの体験から、親のニーズと子どものニーズが食い違うということを訴えた。親は、子どもが洋服を汚さないようにというが、子どもは泥んこ遊びが大好きだったりする。もともと親の必要性からできたのが保育所なのだが、そこをいかに子ども中心の保育園にしていくのかということが、保育者の仕事であるということを訴えた。

とにかく、今という時代は、明治時代を類推できるぐらいのターニングポイント。長いスパンで、どういう人を育てたいのかを、国民全体で考える必要がある時代だということが結論だった。

 「国連特別委員会作業部会」の報告−−中野サンプラザにて(2,26)

10:00〜17;00という長時間行われました。
DPI事務局次長の金政玉さんが、急遽、1月にニューヨークに飛ばれたことは知っていました。彼が主宰する 法定雇用率未達成企業のプロジェクトの会合を、突然欠席されたからです。彼は、日本政府の「顧問」として、国連特別委員会に出席することが、急遽、決まったのだそうです。このことがどんなに大きいことかということが、今回の報告会に参加してわかりました。

欧米では、すでに「常識」になっているGOとNGOの提携が、日本では、ほとんどなされず、今回初めて実現したのだそうです。外務省の国際社会協力部参事官角茂樹(すみしげき)氏も、「金さんに色々教えていただけてよかった」と発言していました。そんなこと当たり前なのに何を今ごろ言っているの?って思ってしまうけど、それでも、こんなことが実現したことはうれしいことですね。このことのためでしょうか。終わってから、金さんは、テレビカメラにさらされていました。

障害者の権利条約のゆくえについては、山崎公士新潟大学法学部教授の発言が的確に表わしていました。「ウイスキーの水割りにたとえれば、水が多い条約ならば、1年ぐらいでできるでしょう。政府が、頭を抱えてしまうほど厳しい内容のストレート状態の条約だったら、5年ぐらいはかかるでしょう」差別という言葉の定義をどうするのか、それだけでも、全然違うものになってしまう可能性があるわけですから。
実際、外務省の角さんは、このように言っています。「障害者の権利の保障・促進を、差別禁止の観点(1)から捉えるのか、権利保護の奨励措置の観点(2)から捉えるのか、との二つの立場から議論がおこなわれた」と。この(1)(2)では、全然違うんですよね。(1)のほうがはるかにお金がかかります。水割りの水がかなり少なくなっているということでしょう。

全日本ろうあ連盟常任理事の高田英一さんさんは、耳が聞こえないけど、言葉は喋れる方で、「慌てるこじきはもらいが少ない」といわれているから、ゆっくり待てば、それだけいいものができる、という意見でした。聾の方は、聾学校の存在は必要という考えがあって、インクルージョンという考え方に抵抗があり、これまで様々なインクルージョンの取り組みがなされたけど、成功例は一つもないとのことでした。

終わってから、私を含めた女性3人で、盛り上がったのは、「壇上に一人も女性がいない」ということでした。会場からは、かなり女性が発言していたんです。このHPでも紹介した「当事者主権」の著者中西正司さんの連れ合い、中西由起子さんなども実にしっかりと意見を言ってらしたので、なぜ、壇上にあがらないのかと思っていました。ESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会)障害専門官の長田こずえさんも会場から、壇上の皆さんを圧倒するような発言をしていたし、世界精神医療ユーザーサバイバーネットワーク理事の長野英子さんは、いつものように迫力ある発言でした。長野さん、永田さん、と3人で、壇上に女性が半分並ばなくてはいけない、といっていたのでした。

黒岩秩子講演会の報告  (2月21日)

内山孝子さんのやっているネノネット結び屋主催の講演会。
私が喋らせていただきました。冒頭こんな話をしました。
「私の母が、私たちが造ったケアハウスに住んでいるのだけど、その中の入居者の声を集めて理事長あてに持ってきた人がいて、母への苦情、第一が、『人の部屋の中をのぞく』なのです。これって、好奇心なんですよね。私も、充分このDNAを受け継いでいますから、ボケ始めたら、きっとそうなるとおもっています」
あとは、聞きにきてくださっている方が、遁所さん(学生無年金障害者で、私の著書「七人の母、国会を行く」に登場します)だったり、はまぐみ小児療育センターの小児科医東條さんだったり、遠く関川村から来られた小池寿哉さん(85歳)だったり、24時間酸素を担いでこられた清水さん、この掲示板に時々登場している木原さん、ねこみさん、等たくさんの論客がおられたので、皆さんに話していただきました。新潟事務所の例会でいつもお目にかかっていた懐かしい方々にもお目にかかれて、2次会、3次会と話はつきませんでした。皆さん、有難うございました。

この時の遁所直樹さんの発言を紹介しますね。
私は、昔知的障害児と初めてであって、かなりのカルチャーショックを受けましたが、その中で一番大きかったのは、自分の中にある「人を測るものさし」の発見でした。そのメモリは、ごく常識的な、もの覚えがいい、悪い、何かができる、できないというものでしたが、この物差しで計ると知的障害の人には、価値がないといわざるを得ない、生まれたときすべての人は同じ重さの命を頂いたはずなのにそんなことになってしまうのは、物差しの方に問題があると気がついて、メモリを付け替えたらいいのかと、色々考えたけど、結局、「人を計る物差しなどない」という結論になった。という話をするときに、物差しを横において話したのです。

これを受けて、遁所さんはこういいました。「その物差しを縦にすると面白いんです。僕は、昔176センチというところにいました。今は、120センチです。(車椅子ですから)そうすると見えるものが違う。人と話すとき、見上げて話します。その時は、緊張します。ところが、見下ろしている人は、リラックスします。大抵、お役人たちは、見下ろしているので、リラックスしています。僕たちや、もっと下の子どもたちは緊張しているので、へまはしません。リラックスしている人たちは、へまをします」ちなみに、遁所さんは、大学のときに海に飛び込んで頚椎損傷で、首から下が、動かなくなりました。その直後、お母さんがなくなってしまい、お父さんが、介護をしておられるのですが、このお父さんは、発明家、といっていいくらい、遁所さんの必要に応じた介護用品を手つくりで作っておられます。遁所さんは、腕を曲げることだけができるので、その力を利用して、受話器を持たなくても電話できる装置、(「僕だって秘密の電話がしたい」と言ったのに応えて)などを作り出したのでした。これらの工夫についてかかれた写真入の本があります。

それから、もう一つ、ひきこもりの人からの紹介で、カフカの「変身」の話をしました。カフカは、何を言っても人に通じないので、この小説を書いた。ザムザは、ある日突然大きな虫になってしまう。この虫は、人の言葉はすべて理解するけど、人は、虫の言葉は分からない、という内容。カフカが亡くなって100年もたって、この小説の価値がわかる人たちがたくさん出てきた。
この話を聞いて、内山孝子さんがこういいました。「私は、高校時代にこの小説を読んで感動した。私も、自分の言葉が人に通じないとずうっと思ってきた。そのことが、色々な活動へ、自分を駆り立てるんだと思っている」私は、この小説、大学時代に読んで、わけがわからなくてすぐに閉じてしまったのです。内山さんは、早熟だったのでしょう。ひきこもりの少女に「私のこと」って、薦められて読んだらやっとわかったのでした。

カレン民族を訪ねて (2004年1月14日〜22日)

 オランダのユトレヒト大大学院の移民学修士課程に在学している揺光が、去年1月から8月までビルマからタイへの難民のことにかかわっていました。今年も、冬休みを利用して、一月余りそちらにいくというので、私を含めて家族3人が、それぞれの都合で、タイを訪ねることになりました。私は、1月14日から、22日までです。15日に現地に着いたときには、長女萌実がまだいたので、揺光と3人で、行動しました。二日後には、萌実が帰っていきました。

 ビルマとの国境にあって、ビルマからの難民で成り立っているような街、それがメーソートです。バンコクからバスで、8時間かかって到着しました。その都会から、バイクで10分いったところにあるメパ村は、不法移民の人たちを暖かく迎え入れている村で、ここには、たくさんのカレン人たちが住んでいます。ビルマの少数民族の中では、一番人口が多いのがカレン族です。カレン民族同盟(KNU)は、できて50年以上が経っています。このKNUのオフィスもメパ村にあります。KNUは、カレン民族が独立することを夢見ていて、そうなったときにリーダーを務められる人間を養成するという教育機関を色々作っていて、今回は、その一つでやはりメパ村にある「レンジャー」という名前の学校に行きました。揺光が「先生」をしているところです。ここは16歳から24歳の若者38人が、様々な先生について勉強をしています。アメリカ人二人が英語を、揺光は、国際関係、グローバリゼーションなどを英語で講義します。その他、コンピューターや、カレンの歴史を教える先生もあります。私がいった日には、私の自己紹介方々、色々話させてもらいました。英語力によってA、B、Cの3クラスに分かれています。9時から1時間は、全員に講義をして、その後、40分ずつ講義の内容についての討論をそれぞれのクラスでやります。私もたどたどしい英語で意見を言ったり、質問したり、まるで仲間になった感じで受け入れてもらいました。

 学校といっても食堂の部分は、はっぱで作った屋根です。食堂はガスがあって、調理をするところで、テーブルは、8人ぐらいが腰掛けられる最大限です。だから、みんな、庭先や、いろいろなところで食べています。調理の人が一人で3食作っています。生徒たちのほとんどは、ここに泊まっています。どこの家でも、壁というものが余りありません。余り風が吹かないのでしょう。雨季に、雨が吹き込むことを心配しましたが、そんなことを誰も言っていませんでした。皿洗いは、ためた水でやります。私が、自分のを洗いに行くと必ず誰かが取りにきます。目上の人にそれをさせてはいけないということがあるらしいのです。授業のときにも、椅子の数が足りないので、ござに座る人もいます。私が、ござに座っていると必ず誰かが椅子を持ってきてくれます。

 あるとき、揺光が、こんな授業をしました。「僕の母は、日本政府の職員だった」と白板に書いて、これは、正か誤かと聞きました。半分以上が「正」と答えました。議会と、行政の違いがわかっていないのです、それは当たり前。軍事政権と同じように、KNUも、軍事組織なので、タムラボウという議長が全権を掌握しているのです。3権分立という概念を揺光が説明しました。
 ある時は、social capitalという言葉が出てきて、私は質問しました。What is social capital?すると揺光が「社会資本だよ」と日本語でいいます。すると私と同時に数人の生徒が、Speak English.と叫びます。生徒たちも質問したかったようでした。川とか、空気ではなく、人間のネットワークのことだということがわかりました。生徒たちは、未来のリーダーという自覚がある人たちだということがあって、一人残らず、積極的です。私の英語力は、本当にひどいものですが、どうやら、ほぼ全員、私より英語力は上のようでした。カレン族は、キリスト教徒が多く、でも、3割ぐらいは、仏教徒で、それぞれ言葉が違います。だから、英語が共通語なんですね。そのお陰で、外の人が入りやすい。帰りの飛行機で隣り合った女子大生は、山岳民族の一つ「アカ族」の村にいってきたといっていましたが、ここでは、全く英語が通じなかったそうです。

 カレン人で、かつて、日本からNECの人がコンピューターなどを教えに来ていて、その人から習ったことを自宅で生徒たちに教えているというセバスチャンの家(ここもメパ村)に揺光は居候をさせていただいていました。そのセバスチャンが、チューリップの球根がほしいというので、織部さんが見つけてくださった10数個のすでに芽が出ている球根をお土産に持っていったのでした。とっても喜んで、初めて見るチューリップの花を楽しみに、すぐその日に植えたのですが、私がいる間には、まだ咲いていませんでした。やはり、今は冬で、朝夕は結構寒いのです。

 行った翌日、カレン青年同盟のキャップ、ユワヘイから、KNUの幹部と会ってほしいといわれ、NO、3のマンシャのうちに萌実、揺光と3人で、行きました。話しているうちにNO、1のタムラボウもやってきました。タムラボウは、すでにKNUの議長を55年やっているそうです。80歳ぐらいに見えました。丁度、軍事政権とKNUとの休戦の話し合いがはじまっていて、NO、2のボーミャは、20人のメンバーと首都ラングーンにいっているのでした。1996年以来7年ぶりだという交渉なので、皆さんかなり興奮している様子でした。私が、議員をしていたこと、そして、宇洋が今、議員をしていること、があるので、日本政府に、ビルマ軍事政権に対して少数民族への理解を深めるよう働きかけてほしいということが、私たちとの会談の内容でした。その翌日、メラキャンプという3万人が住んでいる難民キャンプにいったら、そこでは、この休戦協定が成功するようにということで、断食をして祈っているという人たちがいました。軍事政権への国際的な非難が高まってきたことへの懐柔策として、軍事政権としても少しは譲歩するつもりがあるらしのです。日本も去年の5月30日にアウンサンスーチーさんの拘束に抗議して、ODAを打ち切っているということでした。ほかの国からも援助を打ち切られて経済的にも大変になってきているということも、今回の休戦協定への道が開かれる要因になっているようです。ここ2〜3日うちに今の交渉が終わって、代表団が帰ってくるようですが、交渉は長くなるだろうということでした。

 タイのビルマ国境には、難民キャンプがたくさんあります。カレン族のキャンプは、7つあって、その中で一番大きいのが、メラキャンプです。人口3万というどでかいもので、一つの市ができているようなものです。できてから、19年というのですから、住民という感じでしょう。一つの家族には、一つの家というようになっていました。すでにお話したはっぱの屋根で、壁はほとんどない、高床式の家です。家と家は、1メートルぐらいしか離れていないところもあります。全体としては、ジャングルを切り倒して、家を建てたという感じです。はじめは、少なかったのが、どんどん増えていって、3万人までに膨れ上がったようです。

 ここはメーソートから、バスで1時間というところです。バスといっても、日本では見かけることのない小型トラックに、屋根だけついているというスタイルで、荷台には、横向きのベンチが左右についていて、ぎっしりつめると12人ぐらいが座れます。このバスは、どこでもたくさん走っていて、とっても安い「足」です。1時間乗って120円です。朝早くにメーソートを出発したら、とっても寒くて、揺光のものみんな借りて、私の暖房具もすべて動員しても寒くて震えていました。思いっきり風が吹き付けるのですから。そして、このバスは、人が集まると出発するというスタイルです。

 メラキャンプに着いたときには、妊婦とその付き添いの二人と私たち二人だけになっていました。バス停というものはないようです。知らせによって止まってくれるし、立っている人がいると乗せてくれます。キャンプの入り口では、迷彩服の兵士らしき人が二人立っていて、検査をしていましたが、私たちは何も聞かれませんでした。妊婦とその付き添いの二人は何やら聞かれていました。そもそも、このメラキャンプというところは、そこに住んでいる人たちは、外に出ては行けないところなのです。だから、この二人は、きっと、なぜ外にいったのか、聞かれていたのでしょう。

 15日から17日までの3日間、カレンの若者のリーダーの中から20人ぐらいを選んで、集中講義が行われていました。揺光は、15日にいってグローバリゼーションの話をすることになっていたのですが、その日私が着くために揺光は、17日に変えてもらうように連絡を取ったそうですが、電話がほとんど通じない世界のため、15日には、迎えに出てくれた人が、バス停で待ちくたびれたということでした。そして、17日にいったときには、迎えが出ていなくて、私たちは、3時間歩き続けて、やっとその場所に着くことができたのでした。何人かの人が、私たちと一緒に探してくれました。村中に伝達するアナウンスで、揺光が探していることを知らせてくれました。メーソートの揺光の学校(レンジャー)のAクラスの生徒3人が、このプログラムの手伝いにはいっていて、その3人の生徒の名前をアナウンスで呼び出してもらったのです。この「事件」のお陰で、私は、このキャンプ内を端から端まで見て回ることができてしまいました。

 子どもがたくさんいます。みんな懐かしい遊びをしています。ボウルでの遊びが多かった。ほとんどはだしで、泥んこになっていきいきと遊んでいます。3時間みて回っている間に泣いている子には、1人しか出会えませんでした。この日は土曜日だったので、学校が休みです。いつもなら、学校にいっているのでしょう。中学が5つ、小学校は、19あるということでした。高校もあります。だから、教員は、この中の人がやっている。この中にいる人には、それ以外の「仕事」がほとんどない、ということが一番の問題です。

 店が、たくさんありました。これは、すべて、ムスリム(イスラム教徒)の人たちがやっているということで、この人たちは、カレン語を話さないそうで、どうやってコミュニケートしているのかわかりません。でも、私も、揺光が、翌日の準備をしている間、一人で買い物に行って、全然言葉が通じないのに、何とか、買い物をしていましたから、言葉は、不要なのかもしれません。

上記レポートを読んでくださった、フォトジャーナリストの宇田有三さんが、次のように、訂正箇所を教えてくださいました。
宇田有三さんのビルマレポートは、「週間金曜日」の2004年2月6日号と2月13日号に載っています。 http://www.kinyobi.co.jp/Recent

■KNUのオフィスはメパではなく、メソット郊外にあります。
■KNUは政治組織で、その下部団体であるKNLA(カレン民族解放戦線)が軍事組織です。
■KNUの NO.1 はタムラボーではなく、パドゥーバセインです(現在入院中) ちなみに、タムラボーはKNLAのトップです。 ただ、KNLAの活動がKNUの政策を左右することはよくあります。
■カレン人:スゴーカレンとポーカレンの2つに大別されます。このスゴーとポーのカレンは言葉が違うので、基本的にビルマ語で意思疎通をします。
カレン人コミュニティで暮らすとよく分かるのですが、カレン人同士でもビルマ語で話をしています。ムスリム系のビルマ人とカレン人は、だいたいビルマ語で話をします。
■また、カレン人の人口のうち、その半数以上はカレン州以外に住んでおり、カレン州以外に住むカレン人コミュニティーの事をきちんと押さえておかないと、KNUの声明が即、カレン人の声明と取られることがあります。

ILOと東京大学共催の社会政策シンポ
               ー12月1日〜3日ー

 つい先日、女性連帯基金の勉強会で中西珠子さん(元ILOの職員で、参議院議員3期)から、ILOのことを伺ってきました。ILOというのは、1919年に第1次大戦後のベルサイユ平和条約の一部として、できていて、国際連盟と一緒にできた国際平和を目指す団体。労働者代表、政府代表、使用者代表、の3者構成となっており、国連ができたときに、協定を結んで、国連の専門機関第1号となる。創立50周年の1969年にノーベル平和賞をとる。ILOとしての賞なので、それを基金として利子の運用で、隔年ごとに世界の主要大学と提携して、社会政策のシンポジウムをひらくことにした。たまたま今年は、東京大学との提携で、12月1日から3日まで、東大で開かれている。「グローバル化と仕事の未来」というタイトル。各国の専門家の話が 面白くなければ帰ってこようという魂胆で1日、出かけていきました。

 ところが、結構面白かったのです。パートや派遣という労働形態は、世界中で広がっているのですね。また、労働組合の力を無くすということも世界中の使用者団体が、力をこめていることもわかりました。

 韓国のジョーヒー・リーさんという女性の話に引き込まれました。「ジェンダー視点からの雇用形態」という内容で、日本でも韓国でも、パートというのは、ほとんどが、女性ですから、これは女性問題なのです。ここで驚いたのは、オランダのワークシェアリングというのは、それをする前に、「労働時間によって、待遇を差別してはならない」という法律を作っていたということです。今の日本では、考えられないことですね。年金がたりなくなるから、といってパートの人から取ろうなんていうときにだけパートのことを考える、あとは、パートさんの安賃金のお陰で何とかしのいでいる。ILOからは、均等待遇にするようにと、毎年勧告を受けながら、ほってあるのです。労働組合の幹部に占める女性比率は2%ということ。これではとてもこのパートの問題、組合では取り上げられないのでしょうね。政治の力が必要とされると思いました。

 3日は、最終日で、全体のまとめの日でした。「労働市場の柔軟性」というのがメインテーマなのですが、これって実は、正規雇用ではないパート、派遣、非常勤、臨時などが増えているという意味です。というか、ふやしていくという使用者側のやり方なのかもしれません。そのようにしてコストダウンして競争に勝ち抜く、という人件費抑制の方法ですね。

 このような市場主義をどう捉えるのか、どうしていったらいいのか、というテーマで、その日は、日本の政、労、使の3者代表が話したのです。

 政、は厚労省の大臣官房総括審議官、長谷川真一氏。「30代を中心にした長時間労働の恒常化、フリーターの増加が問題」というのみで、解決策は悲観論。(と聞こえた)

 労、は加藤裕治連合副会長、「日本型仕事給システムを提案。市場主義の正の側面を生かして、日本的馴れ合いとか特権などを市民の立場で裁いていく、ことで、乗り切っていけるという楽観論」

 使、は加藤丈夫経団連労使関係委員の話が一番面白かった。「15歳〜34歳のフリーターが2001年に206万人、そのうち47%が自発的無業、『何のために働くの?』と高校生が先生に聞く。会社の社長達は、テレビで下手な謝り方をしている人ばかりで、魅力なし。最近大きな事故が頻発しているが、早期退職で、『現場力』が減少していることによる。今のフリーターが、中堅世代になったとき技術の伝承が不安。今、経営者たちは、『企業の社会的貢献』について真剣に考え始めている。」

 最後に会場からの発言の機会があって、私も一言。「日本の政、労、使、3者とも男性であることが現状をよく反映している。リーさんが言われたように、労働問題の中心は、『均等待遇』の問題のはず。ILOの日本代表が堀内光子さん(今日のコーディネーター)で、女性なのが救いだが、女性問題にどう取り組むのか」

 これに対して、連合の副会長の答えは、「年功賃金体系を変えることなくして、均等待遇はありえない」というけんもほろろな回答でした。厚労省の回答は、「結構厚労省には女性がいて、私の前任者も女性でした」これって回答になっているのかしら?

高齢者福祉施設「風の村」訪問記
             −−千葉県八街市ーー

 12月9日、総勢9人で千葉県八街市の高齢者福祉施設「風の村」を訪ねました。ここは、厚労省老健局の特別養護老人ホーム個室ユニットケアのモデルとして、その筋では、有名なところ。去年11月に52歳で亡くなってしまった建築家外山義さんが命をかけて個室ユニットケアを厚労省に迫って実現させたとも言われています。今年11月に外山さんの一周忌のパーティーがあり、そこで出会った生活クラブ生協理事長の池田徹さんと、そのときに見学させていただくことが決まったのでした。
 
 総武線八街駅からタクシーで走っていくうちにだんだん人家がなくなり、林の中という感じになったところに、それはありました。入ってみると、病院、というよりは、家に近い感じがしました。壁板や天井が木でできているからでしょうか。中庭が二つあったり、屋根が普通の民家のような三角屋根だったり、工夫がされています。地域のボランティアの方々がウェイトレスをしている喫茶店で、池田徹さんからお話を伺いました。(コーヒー250円、ジュース200円)この日は、見学日で、たくさんの方々が、会議室で、施設長からの話を聞くことになっており、そこへ行く前の施設長飯田さんから少しだけ話を聞く時間を取ることができました。

 飯田さんは、羽田澄子さんの映画「住民が選択した福祉の町」で有名な秋田県鷹巣町のケアタウン鷹巣の施設長をしていたのですが、今年の4月の町長選で岩川町長が敗れたために町長と一緒に退職ということになったのだそうです。今年の9月から大熊由紀子さんの紹介で着任したとのこと。大熊さんの後任の朝日新聞論説委員高橋真理子さんが、見学仲間にいたので、そんな話をしてくださいました。まだ来たばかりなので、色々大変そうでした。

 池田徹さんは、はじめからの取り組みを話してくださいました。実は、生活クラブ生協が、94年に全国ではじめてホームヘルプ事業を始めた。95年には、特養を作ることを満場一致で決め、建設準備会を立ち上げる。このとき、生協に牛乳を納めていた酪農家が、牛舎をたたんで、1万坪があいた。そのうちの1000坪を寄付してくれ、1000坪を買って、2000坪に立てることにした。「自分が住みたい施設を」という標語だったが、ずいぶん思い上がっていたと思った。住みたい施設などあるわけない。「住んでもいい施設」に変えた。特養50、ショートステイ7、デイサービス20、在宅介護支援センターなど総計11億円の建設費のうち、1億円を生協から寄付するという段になって大騒ぎ、組合員36、000人という生協で、1億円というのは、大変な額。でも、議論の末、寄付をつのる自信がなかったので、可決。(98年)2000年出来上がり、起床時間自由、プログラムなし、ということでやっているが、課題は山積。

 ユニットのリビングでご飯を炊き、ご飯の匂いが、個室にも行き渡る。副食は、厨房から運ばれ、みんなで盛り付ける。6〜8人が、家族のようになっている。厨房では、クックチルドというやり方。調理したものを冷やしておいて、いつでも暖めて食べられる。これは、人件費の節約。設備は、1年で原価償却が終わったという。真空パックにして夜中中、お湯につけて煮付けるなんていうのがある。これがいいのかどうかはわからなかった。

 共有空間を行き来しているお年寄りの表情が、落ち着いていて、優しく感じられたのが、何よりの救いだった。夏には、中庭と地続きになれるように、境にある床から天井までのガラスの窓が、50センチぐらいで折りたためるようになっていた。外山さんがこだわったところだという。

「なぜ、差別禁止法なのか」
                      日弁連主催集会(12月6日)
 
 始めに、黒埼弁護士(車椅子)から、映像を見ながら話があったのですが、出てきた映像が、「きものブレイン」でまずびっくり。新潟県十日町市で、きものの補修などをしている企業で、たくさんの障害者を雇用している会社です。副社長岡元真弓さんが、古くからの友人でそのご縁で、水戸事件の弁護団をしている次女海映が、見学したいというので、一緒にいったときから、ここにつながったのだと思います。その後、そこでのビデオを借りて、今回上映したようでした。映像の威力で、どういう状態で、障害者の皆さんが働いているのか、一目瞭然でした。そこにあるのは、「配慮」です。これが、今度の差別禁止法の「配慮義務」につながるのでした。

 次のパネルディスカッションは、4政党の代表と日弁連障害のある人に対する差別を禁止する法律に関する調査研究委員会委員長竹下義樹弁護士で、これも実に興味深い展開でした。まず、自民党の八代英太さん、「障害者基本法の改正で、市町村に障害者基本計画策定を義務付けるなど、障害者施策を前進させようとし、共産、社民も賛成したのに、民主が反対して、廃案になった」民主の石毛えい子さん「障害者基本法の改正で、終わりになってしまうのを心配して、差別禁止法を作る道筋をつけようというのが、民主党の改正案の骨子」共産の小池晃さんは「改正案に賛成したわけではない、『社会参加の機会が与えられる』というような表現で、恩恵的なのが気になる。改正案が通ると差別禁止法が遠のくということが心配」社民の大脇雅子さん「日弁連の禁止法の試案、前文に共感、各論のトップが『労働』になっていることがうれしい。今の雇用促進法が、法定雇用率未達成企業に対して罰金を出すという形で温存していることが気になる」竹下さん(視覚障害者)「日弁連も障害者を雇っていない。自分も、聾、の方のことがわからなくて、恥ずかしい思いをした。配慮するということは大変なこと」

 会場からのDPIの金政玉さん、日本アビリティーズ協会の伊東弘泰さんほか鋭い質問で、石毛さんの提案を受けて、八代さんも、「禁止法を作るには、超党派の議連を作らなくては」と言い出し「さっきまでそこに黒岩君(注)がいた。無年金の議連のようにやらなきゃだめだ」とまで言い出しました。

注、無年金議連の事務局長を私の息子がやっています。

 障害者雇用を実現する人権センター
 
 10月27日、障害者法定雇用率(1,8%)未達成企業9000社が公表されたことを受けてこれをどう活用していくのかの集まりがありました。これは、DPIの金政玉(じょんおく)さんや、朝日新聞などが、公表を求めていたのに対して、厚労省東京労働局は9月8日、東京都内に本社のある56人以上従業員のいる企業名を公表したのです。30年間もかたくなに公表を拒んでいた厚労省が、未達成企業名とその雇用率を9000社も公表したのには、それ以前からの取り組みがあったのでした。
 大阪、名古屋、東京の弁護士さんたちが、障害者雇用を進めるには、連携してやっていこうということになって、大阪では、JALの株主訴訟を2001年5月に起こし、これがほぼ全面勝訴で、次のような和解が成立。
1、2010年までに法定雇用率を達成
2、2003年までに全国平均雇用率に
3、補助機器を導入するなど、支援体制を推進
4、法定雇用率達成までの間、その年度ごとの雇用率をHPで公表

 こんな画期的な結果が得られたことが、その後の進展につながりました。
 折角得られたこの9000社の中から、たとえば、1000人以上の会社で、雇用率が1%未満の企業に対して、公開質問状を出そうということで、車椅子の弁護士さんの事務所で、会合を重ねて、日本航空の株主になって、株主総会で、この問題を取り上げてきた人や、サリドマイド禍で、四肢障害者の方や多様な方々20人ぐらいが集まって、これからの取り組みを話し合いました。

 その後何回かワーキングチームが集まって、この中の社会的な影響力が大きい会社1000ぐらいを選んで、公開質問状を出すことにしました。これに回答する事そのものが、雇用促進につながるような質問を作り、その回答が出揃ってからは、いくつか会社を選んで色々なやり取りをする。その中から、私たちの障害者雇用促進に向けたサポートを頼む企業が出てきたら、しめたものと夢見ています。
 こんな人権センターに加入してくださる方、ご連絡ください。
 個人年会費2000円、団体会費5000円です。

千葉県八街市「風の村」
           (特別養護老人ホーム)見学に行きます

外山義(ただし)さん、ご存知かしら?
先日、その方の一周忌の集まりがありました。

スウェーデンに行くときに友人の紹介で知った外山義さんはその方面の方々には、充分に名を馳せた方だったというのに、私は、知りませんでした。建築を勉強するために家族で7年間スウェーデンで生活しておられたのでした。今年の1月5日、NHKが、「こころの時代、〜宗教・人生〜もう一つの家」として放映した義さんの番組を友人からビデオを借りて見て以来すっかり義さんのファンになってしまいました。そのときすでに彼はこの世の人ではなくなっていたのでした。2002年11月9日突然の過労死と思われます。(享年52歳)彼は、命をかけて、老人施設の個室化を厚労省に認めさせた方です。

スウェーデンでの彼の研究は、サービスハウスという日本で言うケアハウスとデイサービスが併設されている施設に入ることを決めた老人一人一人を6ヶ月ごとにインタビューして、今までの暮らしから新しい暮らしへ、どのようにして移行していくのか、ということがテーマでした。夫をなくして、一人で住む自信がなくなった90歳を超えた女性が、サービスハウスに移り住んでから、「夫はここについてきてくれなかった」と訴え、夫との暮らしは、かつて一緒にいっていた温泉に行くことで取り戻し、・・・・。というような道のりを「切花」にたとえて、水の中でもかろうじて小さな根が生えてくれば、命をつないでいくことが可能だけど、根が生えなければ、そのまま枯れていくしかない運命、そんな老人たちに、根が生えられる可能性を追及して彼は設計に取り組んだ。

「魂の器を求めて」というのがNHKの番組の始めのタイトルだったそうです。この同じタイトルの遺稿集ができました。感動がいっぱい詰まっています。その方の設計された千葉県八街市「風の村」に見学に行きます。ユニットケアの特養です。

12月9日(火
生活クラブ生協の理事長で、千葉県の福祉に深くかかわっておられる池田徹さんが、わざわざ案内に行ってくださいます。そうでないと、3月まで予約がいっぱいだということです。参加される方、下の電車の最後部に乗ります。
いかれる方は、知らせてください。人数によって、八街駅からの車の手配が違ってきます。

東京駅11時45分発 総武線特急しおさい5号 銚子行き
八街着 12時45分

浅野宮城県知事の講演要旨
           2003,11,16 於、飯田橋シニアワーク東京

 2002年11月23日朝日新聞朝刊、一面トップが「宮城県、施設解体」という記事だった。(実は、私もその記事に驚いて切り抜き、いつも持ち歩いていました。)宮城県にある485人の入居者のいる船形コロニーを県福祉事業団理事長をしている田島よしあき氏が、「ごめんなさい」という言葉で始まる施設解体宣言をした。なぜごめんなさいというかといえば、入りたくて入居してきた人は0であるから。この記事を書いた朝日新聞記者生井久美子さん曰く、「施設は刑務所と同じ」しかもすべて「終身刑」。
 船形コロニーに籍を置いたまま、グループホームに住んでいる人もある。そういう形での移行を、すでに始めている。
(1)誇りを持って、(2)未来を見つめて、施設職員を続けられるか?という問題を立ててみると、職員の側からも「NO」となり、理事会と職員が同時に、自分たちの「リストラ」を決めた。「脱施設」ではない。「施設解体」なのだ。「脱施設」は、施設の存在あってのこと。
 入居者は、すべて、もと住んでいた地域のグループホームへ入ってもらう。という宣言だった。この後、この理事長田島氏を副知事にしたいといったが、県議会の2回にわたる反対で諦めた。

 統合教育については、「養護学校は確かにいいところですよ。ですから、卒業してからも、養護学校と同じ待遇を保障してください」と親に言われて、すとんと理解できた。ところが、そのことを進めるはずの学校教育課長は、これに反対。

 その結果なのかどうかは不明ですが、そのとき頂いた文書によると、「2003年度知的障害児が普通学級で教育を受けるための調査研究事業を実施する。1〜2人を受け入れ、補助教員が必要な場合には、県が人件費の半分を市町村教委に補助する。事業費は1000万円を見込み、調査研究は03年度から3年間継続する。また、県教委は、03年度から県内のもう、聾、養護学校で、小中学校教員を対象にした特殊教育研修を始める。実際に障害を持つ子どもと接して、障害児に対する指導法を身につけ、障害児への理解を深めてもらうのが狙い」

知事のリーダーシップなんてそんな程度のもの。

 (実は、今年の春、船形コロニーの見学をお願いしたら、丁度田島さんの副知事が否決されたばかりのころで、その上、4月からの支援費制度への移行という問題も重なって、受け入れていただけなかったのでした。それで、田島さんが創設したという雲仙コロニーに行ってきたのでした。)
 早速私は、週1回配信される浅野知事のMMをとることにしました。詳しくは、浅野史郎のHP参照。

選挙結果に思う (2003,11,13)

 開票結果のテレビは、札幌で、孫を放り投げて見入っていました。予想どうりという所もあるけど、いちいち一喜一憂しました。福岡3区の師岡さん(自治労組合員として東京の自治労中央に出向していたことがあり,WINWINの運営委員の方々は、ほとんど知っているという関係。私は、樋口選挙で知り合いました。福岡から、数人で応援にきてくださったのです。)からの電話が一番うれしかったですね。声を聞くだけで、当選がわかりました。8期も続けた太田誠一を新人の女性が落としたのですから。レイプ容認発言を許さないという女性の声が国政に届いたのです。28日の告示日に私も、応援にいったのですが、師岡さんの提案で、街頭に女性が立って、リレートークをしたのです。「女性を国会に」という内容でした。車の中から反応してくれる人もあり、手ごたえを感じました。翌日から、最終日まで、毎日場所を変えて、このリレートークを続けたのだそうです。その成果もあったに違いありません。

 新潟6区の筒井さんの当確が出て、選対本部長をしていた長男宇洋に「おめでとう」の電話をすると、新潟1区の西村ちなみさんも当選と言うではありませんか。これは、ものすごくうれしかったですね。危ないと思っていたからです。結局、早々当確が出た4区の菊田真紀子さんを含めて6区のうち3区を民主党がとってしまったのです。田中真紀子さんを入れると、野党が4、与党が2という結果です。前々回は6区とも自民だったのですから、この変化は信じられないものです。去年の宇洋が当選させていただいた参院補選で、ダブルスコア―で負けた自民党が、そのままになっているのでしょうか?菊田真紀子さんが落とした栗原博久は、自民党県連の会長だった人だし、自民党の道路族の審議会長もしていたという人です。

 新潟は、男女比が、5:5になって、参院はもともと5:5ですから、フランスのようにパリテ(同数)法なくして、パリテを勝ち取ってしまったことになります。

 今回は、名簿をだす程度の応援しかしませんでしたが、どうしても受かってほしいという思いをもっていたのは、石毛えい子(東京23区、民主)阿部とも子(神奈川12区、社民)山井和則(京都6区、民主)東門美津子(沖縄3区、社民)宇佐美登(東京4区、民主)でした。この方たちは、比例を含め、全員当選されました。

 中川とも子さんが落選したことは、とっても残念です。無年金議連で、一番頼りになっていた方ですから。土井さんが小選挙区で落ちるくらいだから、近畿地方の比例は、土井一人しかあがれませんでしたね。

 WINWINとして応援に行った樋口美智子さん(静岡7区、民主)も残念でした。でも、全くの落下傘としては、良くぞここまでという結果でした。保守党党首熊谷を落とすことにも、一役買ったという事でもあるでしょう。これからが期待できる方です

 全体を通して、民主が躍進し、政権交代への土台ができたというところでしょうか?菅直人著、「大臣」(岩波新書)「総理大臣の器」(幻冬舎)を読み、民主党のマニフェストを読み、政権交代すれば、官僚支配による無駄遣い構造は、変えられるという確信はもてたような気がします。ただ、女性に人気がないというわけもこれらを読んでわかりますし、福祉という面でも、一昔前の「かわいそうな人に恵んであげる」という域をでていません。障害者の人権という視点がはいっていませんから、民主党の関係議員の力が発揮されることになるでしょう。

 もうすでに忘れられているのかもしれませんが、かなりひどい女性差別発言をした西村真悟(大阪17区)が、民主党議員として当選してきていることを、なんともいえない思いで、見ています。

 障害者差別禁止法(2003年11月8日)
 11月3日「障害者差別禁止法」制定の実現に向かって、という催しが、下記のようにジャスティン・ダート(アメリカの差別禁止法の産みの親といわれている)さんの遺族一同の主催で行われました。私の次女海映がシンポジストだということなので、夫卓夫が新潟から出てきて、二人で「保護者会」さながらいってきました。
第一部: 鼎談
「ADA法(アメリカ障害者差別禁止法)とジャスティン・ダート」
   司会/三澤了さん(DPI日本会議 事務局長)
        淑子ダートさん(ジャスティン・ダート夫人)
        トーマス・ギルホールさん
          (ADA法制定に貢献したアメリカの弁護士)
第二部: シンポジウム
「障害者差別禁止法をめぐって」
   コーディネーター/金政玉さん
          (DPI障害者権利擁護センター)
   シンポジスト/奥山幸博さん(障害者総合情報ネットワーク)
           黒岩海映さん(弁護士)
           加藤真規子さん(こらーる・たいとう 代表)
   コメンテーター/淑子ダートさん
          トーマス・ギルホールさん

 これが、実にすばらしい会で、100人も参加者がないというのが、とっても残念に思えました。故ジャスティン・ダート・ジュニアの連れ合いが、日本人で、ダートさんも日本に何年も住んでいたことがあるのだそうです。淑子さんが語ってくださった、夫ジャスティンさんのアメリカ中を駆け巡ってのADA制定のための旅の話に聞きほれました。ジャスティンさんの車椅子を押す淑子さんの姿を含めた短いビデオも上映されました。1977年、全米のデモを背景に、ワシントンの健康局(日本の厚生省?)を障害者が占拠したり、障害者の皆さんの身体を張った戦いあってのADAだということが身体に伝わってくるお話でした。ジャスティんのお父さんが、金持ちで、大統領などに近かったということも幸いしているのでしょう。1948年、彼が、ポリオにかかった直後から、彼の権利擁護活動がはじめられていたということです。

 第二部では、日本の現状が語られ、日本では、必ずしもアメリカのADAを良しとしない考えがあります。今回も、会場の障害者の方から、「アメリカのように全部の障害者が働いて税金を納めなくてはならないのではかなわない」という意見も出ていました。しかしとにかく、法律をもって、「それは、法律違反だから、」と強制的に障害者施策を実地させることができるような、差別禁止法を作ろうということで、熱心な討論がありました。何をもって差別と定義するのか、そこら辺から、議論を積み上げていくことが必要です。また、あまりきつい要求を企業にしてしまうと、小企業はつぶれてしまうということもあって、手加減も大変そうです。
シンガポールという国 (2003年11月3日)
 29日、「構想日本」主催の「挑戦する若者たち」というシンポジウムを聞きにいきました。20代30代の若者たちが、様々な挑戦をすることを、本人たちの言葉で語ってくれるのです。中学時代に、スポーツ科学ということに目覚め、そのWEBを作ったら、年間100もの相談メールが届き、年齢を聞くとみんなが唖然とした。今大学3年、学者たちからの相談にも応じている。(女性)人や、ペンキ屋、ホ−ムレスなどをへたのち島根ビジネスプラン大賞やその他の賞を取って、すっかり生活が変わってしまった男性など、興味深い若者8人が楽しいおしゃべりをしてくれたのですが、この中に2人シンガポールで小学時代を過ごした人がいました。何なんだろう?って首を傾げていたら、次のような情報に出会いました。といっても別にこれとそれとは、何の関係もないのかもしれませんが。

 11月2日、シンガポール在住の日本人女性(宮島さん)と会いました。この方とは、イラク戦争に反対する意見広告のときに、シンガポールから、多額のカンパを送ってくださって以来、メールでやり取りをしていました。この方の話でとっても驚いたことは、シンガポールの人たちへのアンケートで、「自分の国で自慢できるものは?」というのに対する回答が一番多いのは、なんと「政府」なのだそうです。65%とのこと。建国以来のリーダー、リー・クアンユ―前首相のときから、絶大な政府に対する信頼があるのだそうです。


第76回J.I.フォーラム  挑戦する若者達!-自分の志を生かす働き方を紹介
http://www.kosonippon.org/forum/log.html?no=1092
シンポジュムに参加して (2003年11月2日)
 「緊急シンポジウム」 日本外交と「反テロ」世界戦争

 外務官僚だった天木直人氏や、新潟県加茂市市長の小池清彦氏などを迎えての、なんと14:00〜19:30という長時間の催しでした。東大駒場の900番教室というのは、500人の席かしら?とにかく満員でした。私は、天木さんの著書「さらば外務省」(講談社)を読み始めたらやめられなくて深夜2時ごろまで読みふけり、寝不足状態でいったのですが、それでも眠くなるどころか目は冴える一方でした。何人か知り合いの人も一緒になって、一番前を陣取りました。天木さんという方は、ごく普通の方でした。「皆さんのような方から見たら、僕は、にわか平和主義者です」と謙遜しながら話し始めました。私にとっては、当たり前の人っていう感じなのだけど、外務省の中では、特殊なんですね。当たり前のことを言うと首になるのが、外務省なのです!

 2部の、小池さんの話は面白かったですよ。元防衛庁職員だった小池さんは、市長として自衛隊というところはすばらしい職場だといって加茂市民に自衛隊を勧めていたのです。今回のイラク派兵が実現したら、自分のいってきたことに責任が取れないということで、「イラク措置法案を廃案とすることを求める要望書」を7月8日付けで全国会議員と全大臣宛に送ったのです。このことは、新聞テレビでかなり報道されました。
 そして更に、10月22日付けで「自衛隊のイラク派遣を行わないことを求める要望書」を今度は、首相、官房長官、防衛庁長官、外務大臣に送ったのです。「憲法9条によって日本人は世界中の人々から平和愛好国民として敬愛され、今日の地位を築くことができた。先の大戦において、祖国のため、戦火に散華された英霊が望まれたことは祖国日本が再び国際武力紛争に巻き込まれるとがないようにとのことであり・・・」司会者が言いました。「このような市民集会では、耳新しい言葉」この小池さんは、もし自衛隊員がイラクにいって死ぬようなことがれば、自衛隊志願者が減り、徴兵制ということになりかねない。といっておられました。

 最後に、「もしも100人の村だったら」の訳者池田香代子さんの話は、胸に響きました。小池さんには、その勇気ある行動に対してファンレターを渡して帰って来ました。
 今回「緊急」な呼びかけでこれだけの人が集まったということは、それだけ関心が高いということであり、それは、天木さんからの政権交代の呼びかけが、選挙に直結するという気がしました。あと一週間、政権交代の実現に向けて、力を尽くしましょうね。

衆議院議員総選挙の応援 (2003年10月30日)
  告示日(10月28日)に、福岡まで応援に行ってきました。というのは、WINWINで推薦した女性候補者藤田一枝さん(民主)からの依頼を受けて、WINWIN運営委員としていってきたのです。WINWINは、女性を議員にするために資金的に応援する組織で、元文部大臣赤松良子さんが代表です。
 連絡があったのは、27日。赤松さんに来ていただくのをお願いしていたのだけど、だめらしいので、というわけで、すぐに翌朝行くことを決めました。レイプ容認発言の太田誠一を落とす選挙です。福岡空港から地下鉄で藤崎、そこから事務所にタクシーで移動するとき、大田誠一のドデカイ事務所を横目に見ながら藤田事務所に到着。そこに集まっている人は、太田事務所の10分の1もないくらいです。告示日の第一声、の演壇に上がると、私と藤田さん以外は全て男。聞いている人も、ほとんどが男。女性たちは、まるで隠れるように後ろのほうにいるのです。でも、藤田さんの演説がすばらしかった。これならいけるって思えました。

 夕方、急遽WINWINの集い、というのを企画(前日に)してくださり、5時から6時まで藤岡の駅前で始めは3人で、そのうち集まった人たちでどんどん人数が増え、リレートーク「選挙に行って女性議員をふやそう」をやり、6時からは、屋内で、藤田さんの決意表明のあと、私が、WINWINの成り立ち、仕組みなどを話させていただき、20人ぐらいで活発な話し合い。若い女性二人が、「大学を卒業しても、一度仕事をやめたら、派遣とか、パートしかなく、パートは、早く仕事を片付けると早く帰れといわれ、それだけ給料が減る」そんな実態を聞き、同一価値労働同一賃金、の実現をぜひと心に刻んで最終の飛行機で戻ってきました。
 福岡は、2区が山崎拓、3区が太田誠一とあって、菅直人の第一声は、福岡だったのでした。 皆さんもどうか応援してくださいね。
女性候補者を資金面で援助する超党派のネットワーク WIN WIN
http://www.winwinjp.org/
女性差別議員を減らそうキャンペーン
http://www.geocities.jp/herasou/index.html



二つの会合に参加 (2003年10月28日)
 10月27日夕方、二つの会合に参加しましたが、どちらもとっても意味深いものでした。
 17:00〜19:00は、厚労省で、「精神病床等に関する検討会」があり、傍聴に行きました。精神病院に入院している33万人のうち、受け入れ環境があれば退院できる人が72000人ということで、その受け入れをどうやって作っていくのか、というのが、メインテーマだったと思います。私が、一番驚いたのは、国立保健医療学院、政策科学部部長、長谷川俊彦さんのレポートでした。全入院者数の増減は、全病床数の増減とほとんど一致しているという事実でした。つまり、病院のベットが出来たら、必要性と関係なく、入院させているということが推察できるということでした。そのようにして「精神障害者は作られる」ということなのですね。この道の私の先生は、自分のことを「今の自分があるのは、初めてかかった精神科の医者が、入院しないでやっていこうといってくれたお陰」といっていたことを思い出します。入院によって、精神障害者を作ってきたというわけです。日本は、精神病院をなくそうということでずいぶん昔から、取り組みを開始したのですが、64年にライシャワー事件があって、揺れ戻ってしまったのだそうです。20年、30年ずうっと入院を続けてきた人たちにとって、退院するということは想像を絶するものでしょうね。

 その日19:00からは、障害者法定雇用率(1,8%)未達成企業9000社が公表されたことを受けての集まりでした。これは、DPI(障害者インターナショナル)の金政玉さんや、朝日新聞などが、公表を求めていたのに対して、厚労省東京労働局は9月8日、東京都内に本社のある56人以上従業員のいる企業を公表したのです。これらの中から、たとえば、1000人以上の会社で、雇用率が1%未満の企業に対して、公開質問状を出そうということで、ワーキンググループの第1回会合が開かれました。車椅子の弁護士さんの勤めている法律事務所で、日本航空の株主になって、株主総会で、この問題を取り上げてきた人や、サリドマイドで、両手が、肩から直接付いている人など、多様な方々20人ぐらいが集まって、これからの取り組みを話し合いました。

 ここに来ていた方から、帰りがけに「黒岩さんは、今、何をしているの?」と聞かれ、答えに詰まる私がありました。翌日の新聞に、中曽根康弘の引退の弁が載っていて、「これだ!」と叫んでしましました。「バッジをはずしても、政治活動は続ける」。そうだ、私もそういえばいいんだって。「政治活動を続けています」と。2001年の参議院選挙で、私の名前を書いてくださった方が、17万人もあったのですから、その方たちから、こういう質問がでるのは、当然のこと、いえ、さらには、うれしいことなのですもの。そのためにもHPを作ったつもりですから。


障害者と共生する地域へ(2003年7月20日) (毎日新聞「発言席)

 6月21日毎日新聞朝刊に「国立コロニー改革」が載っていた。
 遅すぎるといいたいくらいだ。"象徴"の改革が、すべての施設改革へと波及することを望むものである。といってもそこに住んでいた知的障害を持つ人たちが、そこを出て前より生きがいのある生活ができるのだろうかという、不安がないわけではない。 確かに、雲仙コロニーや、コロニー太陽の園(北海道伊達市)などのように地域に開かれてきたところでは、地域で暮らすための手厚いサポートが用意されているので、アパート住まいの人も、グループホームで暮らす人も、実に生き生きとして暮らしている様子が、ほんのわずかの時間の見学者にも見て取れるほどになっている。しかし、かつて虐待で名を馳せた白河育成園のような施設が、全国にはたくさんあると思われ、そのような施設では、とても外に出て行った人たちのサポートを本人たちの気持ちを大切にしながらやっていくとは思うことが出来ない。

 知的障害を持つ人たちの憧れである「一般就労」でさえ、水戸事件、サングループ事件など、雇用者による助成金詐欺、レイプ、傷害などの虐待事件は後をたたない。これらの事件として顕在化できたというのは、実にまれなケースといえる。被害者たちが、行政や、交番、社会福祉事務所などに駆け込むことがあっても、ほとんどの場合取り上げられることなく、追及されると「聞いておくだけでいいと思った」などと口をそろえてしまうのが、多くの現状なのだから。被害者たちの言葉に、または言葉にならない声に、耳を傾けられる人が近くにいたときだけ、顕在化することができるのだ。

 水戸事件の民事裁判を傍聴に行っている。加害者である被告、アカス社長の証言は「道を歩いている人を殴ったわけではないから」と耳が変形するまで殴りつけたりしたことを、全く反省しないばかりか、知的障害を持つ人は、殴られて当然、と開き直っている。 「馬鹿たちは、言葉で言ってもわからないのだから」というのが、暴力の論拠となっている。とんでもないことである。証言能力を疑われ続けてきたこの裁判の原告たち3人は、実にしっかりとした証言をして、関係者を驚かせた。それはただ、聞く側の姿勢によるのだ。聞いてくれるということが信じられさえすれば、日にちこそ特定できなかったとしても、事実はキチンと証言することができる。知的障害を持つ人たちは、人と人とをつなげていくという才能をもった人が多い。なぜなら、「迷惑を掛け合う関係」こそが豊かな関係であるということを、その人たちが、教えてくれ、その人たちの周りに、豊かな関係が出来てしまうことが多いからだ。この方たちが、このような才能を発揮するには、施設を出て地域に溶け込んで生きられるようなサポート体制を整えることが、施設改革と同時に進められる必要があるという事を訴えたい。

 その点、つい先日友人たちと見学に行ってきたスウェーデンでは、施設解体後の生活は、実にきめ細かく用意されていた。住居については、グループホームであっても、個人の障害に合わせて、部屋の設備が違う。日中の活動は、行政が保障する上に、文化活動、余暇活動に至るまで、普通の人と同じように保障しているヘルパーのほかに、パーソナルアシスタント制度があり、その人に何時間必要かというコトを、査定員が査定した上で、精神的なサポートする人を、行政が派遣する。本人が選んでも良いので、家族があたることもあるが、すべて行政が給料を出す。日本にだってモデルは存在する。

埼玉県本庄市近辺で、施設からでた方や、施設に入りたくない方々を、その方たちの生活に即した住居を用意して、一緒に生活している方がある。吉沢好子さん。1986年ごろから精神病院から退院するところがないという方も含めて36人を地域の中に点在する12軒の家で預かった。それを「エマウス」と名づけた。1994年にはアナンという家を7軒建てた。それは、更正施設という認可を取って、実際は、グループホームに別れて住む形をとった。「施設という名前の家族を7つ誕生させます」とそのとき吉沢さんは書いている。吉沢さんは、民間の手で、実に暖かなものをどんどん作っていった。世界を見渡せば、様々なモデルがある。取り入れられるものを取り入れながら、ともに育ち合える環境を用意したい。

 この文章を削って毎日新聞朝刊7月20日号「発言席」に「障害者と共生する地域へ」として、掲載された。


バックラッシュに思う (2003年7月20日)
 新潟県、白根市茨曽根小学校の長谷川校長が、男女混合名簿は、マルクス主義フェミニズムによるもので、日本の伝統を崩すから、ということで、今年の4月から男女別の名簿に戻した。このことは、いくつかの新聞で6月末に報道されている。
 私は、名簿が、混合かどうかということにあまり価値をおかない。「男が上」が問題なのだ。運動会で走る順序も同じこと。しかしこの混合名簿問題は、実に根が深いのだということを認識した。
 「男女共同参画社会基本法の撤廃を求める会」などというものがある。この理論的支柱の一人といわれる八木秀次高崎経済大学助教授が、少子化社会対策法案の参考人質疑で、自民党推薦による参考人として、7月10日(木)参議院内閣委員会に登場した。傍聴に行っていたら、次々に驚くべき発言が飛び出した。

 曰く「違いを認めないジェンダーフリーの男女共同参画社会基本法に対しては、否定的に考えている」「混合名簿だけならまだしも、ロッカーを一緒にする、身体検査も一緒、修学旅行の部屋も一緒ということになることが問題。」「非嫡出子の問題は婚姻制度を保護するというのが立法趣旨だから、婚姻制度に毀損がない程度の婚外子差別は是正する」。「家族の基本形態は両親とその元に生まれてきた子どもからなる核家族」。
 そもそも、「ジェンダー」という言葉自体、生物学的な性差を認めたうえで、社会的に作られてしまっている違いのことを言っているのだ。そのような、社会的な圧力が「女らしく」という形で降りかかってきている、それをなくそうというのがジェンダーフリーである。
 「まだしも」といっておきながら、「混合名簿」=「共産党宣言」などというトンチンカンな批判をしながら混合名簿を「男が上名簿」に変えているのが実態だ。「婚外子差別」については、夫婦別姓の事実婚をしている夫婦の間に生まれた子どもの戸籍には、父親の欄に名前を書いてはいけないことになっており、摘出子の場合に書かれる「長女」「次男」の欄には、「女」「男」とだけ書かれ、戸籍を見れば一目瞭然で、就職などで、レッキとした差別をされることになっている。

 八木氏は、そのような差別はなくしてもいいけど、婚姻制度の根幹を揺さぶる相続の平等は許せない、ということらしい。ところが、差別を受けているのは子どもであって、婚姻制度の揺さぶっているのは親である。子どもを差別するということで、親に婚姻制度を強制するということは出来ないはずである。全く、何の責任もないはずの子どもにとっては、そんな差別は理不尽以外の何物でもない。
 実は、今、別姓結婚(事実婚)が増えているために、婚外子も増えている。ライフスタイルの多様化が叫ばれ、様々な形態の家族、親子、が個性的な生活を営めるようになってきている。にもかかわらず家族の基本形態を「両親とその元に生まれてきた子どもからなる核家族」と固定し、ほかの形態を認めないかのような発言に、その場にいたものは、唖然とするしかなかった。
 質問した議員は「これまでの議論では、どの政党の方もそんなことをいう人はなかった」といっていた。八木氏を推薦した自民党議員さえ、唖然としていた。八木氏と同じ流れを汲む埼玉大学教授、長谷川三千子氏は、男女雇用均等法が出来る時に、「文化の生態系を壊す」ということで反対論を雑誌論文で展開した。彼女の講演を聞きにいったら、男女の役割分業を認めるべきといい、女は出産、家事育児というとても大切な仕事をし、男は外で稼いでくるというのが、生態系に沿う、といっていた。
 ご自分は外で働いているという矛盾について聞く時間がなかったが、出産、育児がどんなに大切であっても、今の世の中では、貨幣に換算されず、したがって、出産が平均賃金の差を広げる結果を生む。女性にしか出来ないことに限って見ると、出産と授乳(母乳)のみだが、この人類にとって欠かせない営みを貨幣に換算されてはたまらないという考えも成り立つ。

 だが一方、今の世の中では、価値基準が、貨幣によって目盛られている。これも、これから変わっていくに違いないと思っているが、とりあえずのところでは、経済力がないことによって発言力も劣るという現状では、出産にたいして、何らかの保障をすべきではなかろうか?時代の自然な流れを逆戻りさせようとあがいている一握りの人たちの存在を知っていただき、男女が真の平等となるには、どうしたらいいのか、一緒に考えていただきたいと思う。


差別禁止法集会 (2003年7月19日)
 7月16日、参議院議員会館で障害者基本法改正政党集会(日本障害者団体協議会、日本DPI共同主催)が開かれた。野党4党の代表が前に座り、障害者団体の代表たちが入りきれないほど集まっていた。与党3党の改正案が今週中に出るのに対して、民主党の対案が、今製作中という段階だった。八代英太氏を中心とする与党の改正案は、障害者の定義が旧態依然の「精神、身体、知的」の3種類しかなく、それでは救いきれないたくさんの人たち(自閉症など)まで定義を広げると言うことが喫緊の 課題であることが認識されていない。また、差別、の上に「不当な」という形容詞がついている。それでは、差別の中にも許される差別があるということになる。など、たくさんの大切な問題点があり、民主党の対案は、そこら辺を救い上げているものだった。

 ところが、ここに一つの石を投げた人がある。日本アビリティーズ社社長伊東弘泰氏。曰く「差別禁止法を作らなくてはいけないのに、基本法を改正してしまえば、それで終わりということになってしまうから、改正すべきでない」。
 日弁連の児玉勇二弁護士も言う。「障害者が裁判に訴えてもことごとく負けてしまっているのは、基本法が『理念法』にすぎず、裁判規範性がないからで、だから早く差別禁止法を作らなくてはならない」6月29日午後、文京シビックセンターで開かれた「差別法(欠格条項)から、差別禁止法へ」(主催、障害者欠格条項をなくす会)という集会でも、同様のことが言われていた。池原毅和弁護士は「『〜出来ない』ということを障害者の定義として、すべての点で排除、分離しておいて、『かわいそうな人への恩恵』というのが、今の障害者基本法。
 それに対して、差別禁止法は、社会の壁を崩していくことが、権利であるというものである」このときの集会では、当事者団体が、たくさん参加していて、それぞれが、自分たちの抱える問題をさらけ出した。車の免許をとるには、精神障害は、欠格条項になっている。でも、アンケート調査してみたら、56%の精神障害者が運転免許を持っていた。自分が精神障害だという自覚があることにより、より慎重な運転になるので、事故率は、普通の人より低いということだった。

 知的障害者の本人活動を中心的にやっているピープルファーストの人は、国土交通省と都庁に公営住宅に入れてもらいたいという交渉をしにいったのだが、だめだという理由は「危ないから」だということだそうで、「馬鹿か!」とごつんとやってやりたくなった、という。経済的に大変だというのに、安い都営住宅に入れず、民間のアパートに住んでいるのだ。外国人無年金障害者の金政玉さんは、6月末ニューヨークにいき、国連の差別禁止条約特別委員会で、差別禁止条約を作ることでやっと一致し、そのための作業部会ができるということになったと報告してくれた。すでに40数カ国が制定している差別禁止法を日本で作るには、国際条約という「外圧」というものがなくては難しいという認識を多くの関係者が持っている。今回の基本法の改正を一里塚として、差別禁止法制定につなげていくにはどうすればいいのか、もっともっと議論を煮詰める必要があるとの認識を共有した集会だった。


特定非営利活動法人 DPI(障害者インターナショナル)日本会議
 http://www.dpi-japan.org/


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