スウェーデン報告(その2) (2003年5月4日〜12日

 2003年の年賀状で、知的障害者にかぎったスウェーデン視察に同行する人を呼びかけました。5人の方から応募があり、すでに決めていた私と岡田さんで7 人のグループができました。友子さんを含めた8人でメーリングリストを立ち上げ、その中で、何のために、何を見たいかなどのやり取りを重ねながら、友子さ んは、現地の視察先と交渉してくださり、5月の連休の終わりから8泊9日の行程を作ってくださいました。折角行くのだから、その前に、日本の中の先進地を 見てこようと思い、北海道伊達市の太陽の園、長崎の雲仙コロニー、埼玉県北部児玉町にある、アナンという「施設と言う名」(施設長吉沢好子さんの命名)の グループホームを見学しました。

〔9〕イエテボリへの旅
 新潟県川西町の保育士、沢口澄枝さん、と役場職員の青木孝子さん、がお互いに 知っていると言うだけで、あとは、私との関係があるだけでお互いは初対面と言う人ばかりの集団でした。長崎から石崎輝子さん、山形から、重度の障害児薫子 ちゃんの母、工藤浩子さん、東京から保健所の歯医者、岡田弥生さんと昔私が家庭教師をしていた時沢志津子さん、女性ばかりの「ラッキーセブン」だったので す
 どの人もみな、エネルギーの塊のような人ばかりです。その上、ストックホルムのアーランダ空港に迎えに出てくださったハンソン友子さんは、今回の視察先を すべて選んで、交渉してくださり、日程をコーディネートしてくださった「通訳」というにはあまりにももったいないような方でした。友子さんのお住まいがイエテボリだと言うこともあって、今回はイエテボリを中心に回りました。これは、結果的によかったということがあとでわかりました。

〔10〕シュタイナーの村
 4日朝、成田を発ち、ストックホルムにその日の夕方(時差が7時間)に着き、一晩泊まって、5日の朝、電車でヤルナまで約1時間。ここは、オーストリア人のルドルフシュタイナーの考え方に基づいて出来た大きな村と言う感じの広々とした世界でした。
 自然科学、をはじめ、教育学、建築学、癒しの医学、有機農業など、人間全体、いや、宇宙全体を視野に入れた「人智学」者であるシュタイナー主義を信奉する人は世界中にたくさんあり、1940年代に迫害を受けたオーストリア人、ドイツ人などが、難民としてやってきて、ここに「癒しの教育学」をはじめたのが始まり。今では、見るからに風変わりな、独特の色彩をもった建物がいくつも建っていて、知的障害児の学校、普通の子どもの学校、癒しのクリニックなどがあり、私たちも、その中の一つに泊めていただき、夜は、日本からオイリュトミー(シュタイナー独特の体の動かし方)の勉強に来ている女性や、ここの先生を退職したお爺さんたちと、懇談しました。昼には、点在している障害児の学校(寄宿生28人、通学生10人)の様子を見せていただきました。学校は、特殊学校 と訓練学校に分かれていて、重度の子どもは後者、少し軽度の子どもが前者であることは、この国全体の体制でした。

 寄宿舎は、一つ屋根の下に4人までしか住 んではいけないことになっているそうで、ここでもそれは守られていました。グループホームとして住んでいるおうちの中に、通学生が泊まれる空間を廊下の隅 にチョコット作ってあったりしました。ここが、外の世界と違うのは、テレビとコンピューターを子どもたちから、遮断していることでした。スウェーデンには 養護学校は存在しないと言う情報はうそでした。多くの養護学校は普通の学校の中にあって、「場の統合」はされていますが、授業は別々に行われています。運動場や行事などは一緒なので、日本でいう「特殊学級」のような存在になっているのではと思います。

〔11〕イエテボリ市の障害者政策全般
 さて、翌6日は、午前中いっぱいかけてヤルナからイエテボリに電車で移動し、イエテボリ市の障害者行政を進める係りの責任者リスベットさん(女性)から、市の障害者政策全般の話を聞きました。
(1)ヘルパー制度。聾者のところには、手話のできる人をヘルパーとして派遣する。
(2)パーソナルアシスタント制度。週に20時間以上の介護を必要とする人に対して、サポートする人を、行政が派遣する。その人に何時間必要かというコト は、査定員が査定する。本人が選んでも良い。家族があたることもある。本人には無料で、パーソナルアシスタントが行政からもらうのは、1時間 1300〜1500円ぐらい。仕事内容は、本人が頼みたいことはなんでも。
障害者団体がアシスタント教育をしたりしているし、パーソナルアシスタントを確保しておいて、個人で採用面接などが出来ない人にかわって派遣などをしていることもある。
(3)コンタクトパーソン制度。お金(と言ってもほとんど交通費などの実費程度)を払ってきてもらう友達。どこかに行くとき、一緒にいってもらう。
(4)精神障害者には、パーソナルオムビュード制度。アパートを追い出されたり、借りられなかったりしたときの支援。
(5)ジーレンクローケン制度。精神障害者が、勤めていて、入院したら、代わりに勤めてくれ、退院して、重いときには、一緒に住んで、一人立ちすることをフォローする。
(6)肩代わりサービス。介護者の代わりに、家庭に出向いていって介護をする。予約制なので、突然病気だからと言って頼むことはできない。
(7)成人用特殊学校。スウェーデンでは、普通高校が3年で、特殊高校は4年。それ以後、いつでも入れるのが、この学校。動物や植物の世話、お店番、高齢者ケアの助手などについて、教育を受ける。普通の人たちに対しても、給料をもらいながら学校にいける成人学校制度がある。
(8)障害者が職業についたとき、職業安定所が給料の一部を負担する(助成金)。80%が70%に変わることはあるが、一生続くことが多い。これは、本人に対して支給される。職場に支給されるのではないので、「助成金詐欺」が成り立たない。
(9)職安の中にリハビリ係がある。障害者が職業について生活できるように支援する。それが出来ない人には、デイ活動(日本でいう「作業所」のようなところ)を奨める。
(10)デイ活動としては、陶芸、劇、情報発信、など。劇は、このごろ、人気。情報発信は、本人活動としてグルンデンメディアが「Sensation」という 雑誌を出している。はじめは、知的障害者向けだったが今では、すべての障害者に向けたものになっている。近くの店や、高齢者介護の手伝いなども活動のひと つ。
(11)ワーカーズコレクティブ。市が場所代と指導員1人を出して、障害者のグループを作り、犬の保育園、コーヒーショップ、などを運営する。これによって職を得た分裂病の女性は、すっかりよくなったのだが、法律によって5週間の休暇を取らせたら、入院してしまったと言う。
(12)L,L財団。知的障害者向けに優しい言葉で書き直した本を出版する。これが人気で、元の本よりこちらの方が先になくなってしまうという。
(13)福祉移動サービス。タクシーを許可を得て、頼むことができる。
(14)介護手当て。障害児がいるために経費がかかる、フルタイムで働けないなどに対して、最高1万クローネ(1クローネが15円ぐらい)、月に支給される。重度の場合には、親が介護職員として,給与をもらう。
(15)障害者年金は、19歳までは親が、20歳から30歳までは、アクティビティー助成金、30歳以上は、年金としてもらう。住宅手当ももらえる。車を作り変える、免許を取るなどの助成金もある。かなりの収入になるため、子どもが自立すると言い出すと、親が大騒ぎになることあり。
(16)ゴードマン制度。お金の管理が出来ない人に代わって管理をする人。

 このレクチャーを受けたとき、ここのパートの職員で、ダウン症の8歳の子どもを持つレイナさんが同席していました。彼女から、息子さんのことをたくさん聞 くことが出来たのは、嬉しいことでした。 その話をここに書きます。
 「息子は、保育者全員、手話のできる保育園に行っていた。ここには、ほかにも2人の障害児がいた。障害児をもつ親もフルタイムで働けるシステムが出来ているが、私は、パートで働いている。子どもが反抗期なのか、疲れてしまうので。去年学校に入学するとき、普通学校を希望したのだけど、そのクラスが大きすぎる(と言っても27〜28人)ので、小さな集団でいられる特殊に行くことに した。

 ところが、今年の9月からは、普通学校が1クラス16人を3つのグループに分けることになったので、そちらに変えようと思っている。普通学校に入る より、特殊に入るほうがむずかしい。なぜなら、特殊に入ると、その後の色々な支援体制が受けられやすいから、1月に1回、土日をショートステイファミリーに預ける。これは、行政が探して、それなりの教育もしてくれ、両家族がやり取りをする「試験期間」を経て契 約する。息子の食費だけを払い、後は行政も少し出す。これは全障害児への支援体制。上記Eの肩代わりサービスを月に数回使って、夜の会合に出たりしてい る。」

〔12〕重度の障害者のよりどころ
 翌7日は、エルドラードと言うスペイン語で黄金卿を意味するところに行きました。スウェーデンに輸入されたときには、何かすばらしいこととか、すばらしいパプニングがある場所と言う意味になったそうです。ここの所長のエレーンさんは、去年杉並に講演にこられた、重度の障害者(35歳)のお母さん。ここは、 もっとも重度の人たちが対象。乳幼児程度、他の場所では、何も出来ない人たち。もともと1970年に125人の青少年の入所施設として設立されたが 1986年、法律によって、施設が解体され、1991年、親の会(FUB)の会長だったエレーンさんを職員たちが頼んで行政の職員になってもらって新しい試みが始まる。重度の人たちに対して、感覚を刺激することでまずは、自分の置かれている情況を理解させる。そのために色々な手立てが工夫されている。部屋 が5つあり、それぞれ、色で分けてある。白、赤、青、黄色、緑。これらには、火、土、水、空気、という4つの基本が含まれている。

 1966年アメリカのノースキャロライナ州立大学で始まったTEACCH(ティーチ、と読むが、(teachとはスペルが違う)と言う自閉症児への治療教育プログラムをたくさん取り入れている。黒地に白のピクトグラム(PICTOGRAM)、これは、重度の人に一番インパクトがあるのは黒地に白だという実験結果によるという。文字の読めない人への絵文字と言う感じで、散歩とか、食事などが、絵で示されている。どの部屋にもパソコンで描かれたピクトグラムが貼ってあり、その絵も理解できない人に対しては、写真が貼ってある。叉、一日のスケジュールもこのピクトグラムで示されてあり、自閉症の人には、このスケジュールがとても大切なものだと言う。 予定がわからないとき、自閉症者特有の不安が募り、時には、パニックにもなる。曜日もすべて色で決まっていて、スウェーデン全国共通のピクトグラムで表さ れている。エルドラードの5つの部屋は、どこも、感覚刺激を与えるところになっている。
 「白の部屋」。これは固有名詞にもなっているようで、どこでも、音楽の部屋としている。楽器があり、CDが流れ・・・。
 その部屋に、ベンチを少し大きな箱型にして、座る板に曲線で切り目を入れてある。そこに座って、太鼓の棒で切れ目のある板をたたくと、場所によって違う音 が出る。その響きが体に伝わってきて、自分がたたく行為とその結果身体に振動が伝わるという因果関係をおぼえるシステムがあった。「振動箱」と呼ばれ、かなり高価なものだという。
 タクティールマッサージという特別なマッサージをする部屋もある。絵画の部屋、コンピューターの部屋、などなど。PCは、たたくと何かが出てくると言う仕掛けを作っておき、自分の行為が何かの結果を生むという体験を通して、対象に働きかけると言う意欲を引き出す。はじめは、たった3人の職員でスタートし たが、はじめの1年で、1万人が訪れたと言う実績によって、今では9人のスタッフで重度の障害者への働きかけと同時に、そういうかたがたと接している人たちへの研修の場としても機能している。6ヶ月の赤ちゃんから、85歳までのイエテボリに住む人を対象としている。中度の人たちによる「サービス部」は、 コーヒーショップを経営しており、とってもおいしいアップルパイをご馳走になった。

〔13〕「政治が決めた」施設解体
 「政治が決めた」という言葉を何回も聞きました。それは、スウェーデン人の政治への信頼として聞こえてしまうのです。 「政治家」というとき、自分たちの代表、といっているように思えてしまうのです。その最たるものは、施設解体です。
 1985年の「新援護法」では、児童の施設を早急に解体することが決まり、1993年のLSS法では、5年以内にすべての施設を解体することが決まった。そして、1999年の年末には、一つを残してすべてが解体されたのでした。その一つは、ステッシュ島にあり、私たちは30分船に乗って、それを見に行きました。島に着くと、デイセンター長ビギッタさんが迎えに来てくださってい て、20分ぐらいを歩いていきました。たくさんの島が見えて、それはそれは景色のいいところです。イエテボリの別荘地としてたくさんのセカンドハウスが建っていました。

 出て行ける人はすべて出て行って、50人いた障害者が、今は28人になっています。施設改善命令などがあって、今では、全員個室に入って いるのですが、トイレ、シャワーが、二人で使うようになっているため、全員、トイレシャワーを個室につけるという法律のため、今、改造工事が行われている 最中でした。本人やその代理人が「外に出たくない」といい、職員も解体したくないといって、議会やマスコミに訴えた結果、「住むところを自分で決める権利」「自分の 意見をいう権利」などによって、行政が折れて、施設を改造するということでここの局面は解決を見ることになりました。「職員はどうして反対したのです か?」と聞いてみたら、「私たちの仕事がなくなると思ったからです」 という答えが返ってきました。
 日本でもさんざん聞いてきた言葉でした。ちっとも、入所者本意ではない、あからさまな自己本位の言葉が返ってきたので、感心するやら、どこも同じなのか、と「抵抗勢力」ぶりが想像できました。それでも、行政当局は、諦めずに、みんなが納得できる方法を時間をかけて探ってきたのでしょう。皆さんすっかり納得している様子でした。
 スウェーデンの凄さは、そこにあるのかもしれない。と思いました。理想を掲げ、それに向けてみんなが納得いくまで、時間をかける。力ずくで押し切るということをしないということなので しょう。

〔14〕デイ活動、自閉症、グループホーム
 2002年杉並で話を聞いたアンネリー(女性)さんは、イエテボリの中に21区ある中のひとつのベリシュー区の職員で、高齢者障害者福祉部長さんでし た。8日は午前も午後もアンネリーさんが案内してくださいました。まだ50歳になっていない感じのはつらつとした方です。
 はじめに60人の知的障害を持つ人たちのデイ活動の場に行きました。レストラン部、洗濯部、染物部、などなどで、24人の職員と一緒に昼間の活動をします。当事者たちは、サティライトアパートから電車や自転車で通ってくる人、グループホームからの人など、様々です。
 レイネさん(男性)はアパートから通ってきています。自分から積極的に自分のことを話してくれました。「1986年から15年間デイセンターに行ってい たけど、その頃は、ぶらぶらしているだけでいやだった。その後、4年間の学校(特殊成人学校)にいって、週に2回、今も数学などを習っている。ここでは、 レストランの仕事が忙しくて嬉しい。グルンデンという本人活動もしている。」ここのデイ活動では、アパートから通っている人が、みんなの憧れの的、グ ループホームでの試行期間を経て、アパート生活に入ります。

 アンネリーさんは、3つのグループホームの管理者もしています。そのうちの2つを午後案内して いただきました。どれも6人の入居者と職員とで住んでいます。どの人も大変重度だと思いました。驚いたことに、入居者に合わせて室内の調度品がそろえてあるのです。リフトで移動する人の部屋にはリフトが付き、リフターでの入浴の人には、そのようになっています。トイレも一人一人違っています。みてはいやと いう人の部屋は見ることができません。これらすべてのコトは当たり前のことなのでしょう。私の知っている日本のグループホーム(老人用)は、トイレは共用 ですから、その人にあわせたトイレなんていうコトは不可能です。日本では、グループホームというと、「家族」と考えるので、普通の家族はトイレは一つで共用なんですよね。あとは、ポータブルで対応しているのでは?だから、驚きました。

 それから、調理ができる人の部屋には、高さが調節できる調理台がついていました。叉、自閉症の人で、何でも壊してしまう人の部屋には、管とか、電線とか をすべて隠して設計してあります。自閉症の人が、ずうっと何か喋り続けていましたが、急に静かになりました。それは、彼のお気に入りの職員が来て、彼の要求がわかって、そのとおりしたからだということでした。それは、彼の好きな新聞紙がたくさん渡されていて、混乱していて、1枚だけにしたら、落ち着いたと いうのです。施設にいたときには、本当に大暴れだったそうで、このグループホームに来てずいぶん落ち着いたのだそうです。

 この国には、「自閉症」という言葉が、ちゃんと法律用語で、定義されています。日本では、それができていないこと、ご存知ですか?知的障害者、の中に入れられたり、小さいときに精神病院にかかったりしていると、精神障害者になったりしているのです。このことはどういう結果を生むかというと、知的障害だけの人より、ずうっと自閉症の人のほうが人手が必要なため、自閉症の人は知的障害者の施設で嫌がられ、親の会の人たちが、「自閉症」用の施設を作ることに なってしまうのです。
 でもそこも知的障害者の施設として認可されますから、人手が足りない分を親の会の人たちが補うことになり、親たちは、身体を壊してしまうのです。このことは、私が議員だったときに厚労委員会で、一度質問をしたことがあり、坂口大臣はその問題点を知っていました。また、精神障害にも、知 的障害にも該当しないということで、何のサポートも受けられずに在宅で過ごしている自閉症の人たちもあります。LSS法のように、「生活上困難があるため に、援助が必要な人」というようにくくってしまえば、もっといろいろな難病とかの方々が、こぼれないで済むのでは、とも思えます。

 この日は、帰りに、レベッカハウスという自閉症の子どもたちの学校によって、外から見てきました。なんと狭い運動場が更に3つに仕切られていました。広いところは、自閉症の子どもたちにとって不安だからですって。
 アンネリーさんのグループホームでも、TEACCHが使われていて、曜日の観念を知らせるために、月から金は、食事を自分の部屋でとってもいいことに なっているけど、土、日は、みんなで、共有スペースで食べることになっていました。ここの重度の人たちも家賃を年金で払っているそうです。もちろん、ゴー ドマンに代行してもらっている人がほとんどでしょう。グループホームの職員は、コンタクトパーソンといって、「その人専用」というやり方になっていまし た。ゴードマンからお金をもらって、その管理もコンタクトパーソンの仕事です。

〔15〕ハビリテーションセンター
 ハビリテーション、聞いたことありますか?リハビリの元になった言葉です。ラテン語で「生き生きする」とか、「尊厳をもつ」ということなのだそうです。リハビリというのは、もとあったものを、元に戻すということですが、初めからなかったものは戻せませんね。そう。生まれたときから障害を持っている子どもたちをケアするシステムです。
 イエテボリ市には、ハビリテーションセンターが4ヶ所あって、そこには多様な専門家が勤務しています。PT(理学療法士)、OT(作業療法士)、ST (言語療法士)、栄養士、言語矯正士、相談員、臨床心理士、青少年向け余暇活動指導員、特別教育専門員、相談員、医者、看護婦。まず、新生児が、障害を もっているということがわかると、生後10日で、そのことを両親に告げます。そのとき、いっぱい泣くことを奨めます。

 当然のことながら、そこに立ち会う職員が、その両親の混乱を受け止めます。小さければ小さいほど、医者が発見することが多いのですが、発見した医者や、その後発見した親や、その他の専門家たちは、すべて、このハビリテーションセンターに情報を集め、情報が届いてから、10日以内に関係者の集まりを持ちます。そして、その子専属のチームを編成 します。そのチームは家を訪ねます。子どもの状態を把握するのに、初めての訪問のときには、臨床心理士が入っていることが多いそうです。ある程度、状況の 把握が出来たら、親のグループ活動に誘ったり、補助器具のリースを奨めたり、家族の支援を続けます。

 私たちが訪ねたセンターの所長さんは、PTの女性でした。説明を聞きながら、日本に一番かけているのは、これかしらと思いました。一緒にいった工藤浩子 さんは、山形に住んでいるのに、なんと北九州の病院までいって、母子入院してきたそうです。全国どこにでも、この連携プレイがあるということがうらやましそうでした。日本では、各都道府県に療育センターというのがありますが、1つしかないので、遠い人にはとても大変です。私は、これから、厚労省にいって、 このシステムが、日本でどうなっているのか、追及してこようと思っています。
 5月17日のエキスポ(日本アビリティーズ協会主催で、年に一回障害者問題のフォーラムを催している)で、障害を持ったソーシャルワーカーの方が、今度、佐賀医大の教授になられ、「地域包括医療、社会生活行動支援部門」という名刺をくださいました。(斎場三十四さん)国立大学の医学部では、こういう部門が 出来たのは初めてのことだそうです。この方が、ハビリテーションの語源を教えてくださったのです。

そして、この方に日本では、障害を持っているということ がわかったときに親は誰の前で泣くのですか?と聞いたら、病院では、ソーシャルワーカー(SW)がその役です。とのこと。ところがSWのいる病院というのは圧倒的に少ないのです。この話をしているところに厚労省の中村秀一老健局長が同席していて、言うことには、「SWとか、社会福祉士とか、の資格をとった 人たちが、就職がなくて困っているという。そのことを早く聞いていれば、計画書に盛り込めたのに」だそうです。このことはもっと大きな声で言っていく必要 があると思いました。
 ここでも、TEACCHが使われていて、ピクトグラムがそこここにありました。自閉症の診断が下るのは、3歳ごろが多いけど、女の子は少し遅れるそうす。どうしてかな?それから、出生前診断は18週に行い、胎児が、障害があることがわかると、産むか辞めるか、決めるのは、母親。だそうです。
〔16〕グルンデン――本人活動
 エークラナというレストランに行きました。グルンデンという本人活動の場として、週に2回昼食を30食分だけ作っています。25歳の知的障害を持つ娘さ んのおかあさんイボンヌさんが説明してくださいました。本人たちは、年金が入るので、1日37クローネ(大体昼食一食分)を給料としてもらっていて、年間 で考えたときに赤字にも黒字にもならないように料金を設定しているということでした。
 その日、私たちは、このレストランで昼食を頂きました。とってもおい しいスウェーデン料理で、私たちへのサービスだったのか、主食は白米のご飯でした。チキンに独特のトマトソース(というより、赤めのホワイトソースか?) がかかっていて、野菜もついており、食後には、ケーキとコーヒー(または紅茶)がついて、450円だったのです。ここの近所は、お年寄りの様々なアパート がたくさんあるので、大勢の方が昼食を食べに来ていました。そんなわけで、なんと去年は20万もの黒字が出てしまい、そのお金でみんなで海外旅行に行くの だそうです。オランダに行くことになっているのだけど、サーズ騒ぎで延びているとのこと。
 イボンヌさんを含めて職員は3人、7人のデイ活動として行われている。イボンヌさんはグルンデン協会の職員を12年やっている。4年前に、本人たちが独立 したいと言い出し、3年前に本人だけのグルンデンを設立した。それまでは、親の会(FUB)の建物の中を借りていた。だから、このレストランもFUBの建 物の中にあったが、3年前にここに移ってきた。ここは住宅街なので、一歩前進したと思っている。今では、自立して、会計も、本人の一人がやっている。本人 たちのチーフと思われるアンナさん(50歳ぐらい?)が次に話してくれました
 親の会と一緒だったときには、パーティーを開いても3〜4歳ぐらいの子どもとしてしか扱ってもらえなかったので、いやだった。色々話してくれたことが、今ノートを見てもイボンヌさんとアンナさんのどっちの話だったのかわからないほど、アンナさんはしっかりしていて、ダウン症だというけど、どこが障害?と いう感じでした。ところがよく聞いてみると週4時間ホームヘルパーに来てもらって、年金の管理はゴードマンにおねがいして、コンタクトパーソンという人も雇っている。これは、交通費だけを出して、お友達になってもらうという感じの制度、どこかに行くのに一人ではつまらないから、一緒にいってもらうということのようです。アンナさんのコンタクトパーソンは犬を飼っている人なので、とても嬉しいとのことでした。

 12年前に結婚していて、夫は、60歳。グルンデンボイスというグループでサッカーに熱中している。「子どもは?」って聞いたら、「性教育を受けていな いの?」と反対に聞かれてしまいました。どういう性教育を受けているのだろう?と考えているうちに、先に進んでしまったので聞き漏らしてしまいました。ど うやら、子どもも障害を持って生まれてきたら大変だといわれているのか?とにかく、作らないことにしてきたということでした。
 週に2日しか、この店を開けないで、後の日は、計画、準備、掃除などをしているという。そんなお店が、どうして黒字になるのか。この秘訣は、LSS法に ある。LSS法とは「一定の機能的な障害のある人々に対する援助とサービスに関する法律」のことで、93年に出来たもの。このような方々の生活条件の平等化と社会への完全参加を促進することを目的とし、その人たちの自己決定権とプライバシーの尊重を基本とする。

 サービスの中には、デイ活動、住宅のほか、余 暇活動や、文化活動にまで及ぶ。これらは、基本的に市とか県、つまり行政が行うことになっている。デイ活動には、一人年間285万円が助成され、これは、 職場に直接行くのではなく、本人について職場に行くことになっている。ということは、本人がその場所が気に入らなくなって、ほかの場所に移ると、その人に ついてその助成金も動いていくので、職員を確保しておきたかったら、職員たちを大事にしなくては、ならないということになる。水戸事件(知的障害者を雇用 している企業における障害者虐待事件)のようなことが起こっているのかという、私からの質問にハンソン友子さんは、こう応えてくださいました。

 「スウェー デンでは、一般企業への障害者の就労はほとんどありませんので、水戸事件のような例はないと思います。 授産工場のサムハルなどは公共事業ですから、かな りコントロールが行き届いているということです。 またデイ活動なども、当事者達の方が選択する権利がありますので、日本とは状況が違うと思います。それは、何故か? 結局、当事者本人に支援金がついているので、本人が好まない作業所には行かなくなるし、お金も回ってゆかないということです。では、何故本 人が選べるか? それが、自己決定の権利とか、自分で意見を発表し反映するとか、こういう教育が進んでいるので、当事者の権利意識が高いからだと思いま す。」

 「サムハルという授産工場があります。このサムハルに勤務できる知的障害者や精神障害者は超エリート、通常は普通の職場ではついてゆけないような人達の職場です。言葉にハンデのある移民者や難民が結構勤務しております。サムハルの目標はいかにマイナスを減らすかで、プラスなんかにはならないと思います。 スウェーデン各地の公共保育園などの児童用家具とか、行政関係のカタログ、パンフレットの印刷などは大体すべてサムハルの仕事です。 公立病院のお掃除な どもサムハルがしていることが多いようです。」このように、行政が、職場まで作ってしまっているところが、違うのですね。これも当然のことながら、税金が高いからでしょう。アンナさんは楽しそうに、月1回のビンゴ大会のことを話してくれました。余暇活動まで保証された職場なんですね。

〔17〕障害者会館―――障害者用のホテルが売り
 最終日、ダールヘイマーシュのエミーさんのご好意で、土曜日だというのに見学が実現しました。ダールヘイマーシュというのは「障害者会館」の名前です。こ の会館が建てられた所以は、1922年にさかのぼります。
 フリッツ、ダールヘイマーという金持ちの遺書が発端です。「40年間寄付金を預けて、利殖して、 それを管理した上で、身体障害者のために使ってほしい」ということで、イエテボリ市とストックホルム市にそれぞれ寄付したのです。1962年には150万 クローネ(約2250万円)になっていました。ストックホルム市は、各障害者団体が集まって、みんなで分けることになって、形には残っていないそうです。

 イエテボリ市は、1962年から議論しあって、行政も援助した上で、1974年にこの会館を建てたのだそうです。ここは、2Fが玄関になっていて、受け付 け、5人の職員がいる事務所、障害者のみ利用できるプール。3Fは14人の職員によるレストラン、この日ここで私たちは、とってもおいしい本格的スウェー デン料理を友子さんにご馳走していただくことになりました。ポテトを主食とした肉料理を頂き、前に、友子さんから伺っていた話を思い出しました。ポテトを スウェーデンで食べるようになって体格が良くなったということで(身長が高い)、このポテトを輸入してきた人の銅像ができていたのでした。寒いとこでも栽培できる唯一の主食だったのでしょう。

 3Fにはそのほか、300人入れる大講堂、体育館もありました。4Fは貸し出し用会議室が大小そろえてありました。 5Fはアクティビティーの部屋がたくさんあって、PT,OTの職員が、立ち会って、陶芸や、織物、木工などをするようになっていました。6F、7Fは障害者用ホテルです。10名の職員が介助にもあたります。介助の必要度に応じて1泊8250円〜35000円となっています。介助者の都合によって一次預かり (レスパイト)の役目も果たしています。ホテルの部屋には、補助器具も付いていて、その人にあった部屋を用意するそうです。これは画期的なものだと思いま した。8Fは難病連の事務所です。1Fは半地下で、視覚障害者団体の事務所です。
 聾唖者団体は、独自の建物が出来て、出て行ったそうです。1922年ごろには、知的障害という概念がほとんどなかったらしく、ここは、身体障害に限られていました。ここの職員80人は市の公務員です。

〔18〕バリアフリーでないスウェーデン
 スウェーデンがちっともバリアフリーでないことをお知らせします。
 イエテボリのユースホステルに着くまで、私たちは、重たい旅行バックを押したり引っ張っ たりしながら歩きました。ところが、電車に乗る、バスに乗るという段になるとほとんどどこもバリアーがあって、持ち上げなくてはなりませんでした。私は、 まだ、重い荷物を持つと、後が大変(腕がだるくなる)なので、岡田さんがほとんど、二人分持ってくださいました。私は、その姿を見ているだけで、充分疲れ てしまいました。どうして、そんなにバリアーがあっても平気なのかと思ったら、障害のある人は、タクシーがただなので、ドアtoドアなのだそうです。どおりで、街中で車椅子を見かけませんでした。日本のほうが低床バスを見かけます。路面電車も3段ぐらい上がリ下りしなくてはならないのです。

 それから、もう一つ、エスカレーターが日本より動きが速いのです。これは去年いったときからどうしてだろうって思っていました。子どもや老人にとっては 大変だろうなって。今回も、エスカレーター墜落事故、というのがあって、危うく大事件になるところでした。大きな旅行バックと共に一人の人が転落し、将棋倒しになるのでは?と心配したところを助けてくれたのは、すでに上まで上がりきっていた白人の女性でした。その方が、のぼりのエスカレーターが動いている ところを逆に駆け下りてきて、倒れた人の手を引っ張って助け起こしてくれたのです。下で踏ん張ったのは私で、おちてきたものを手で押しとどめ、その反作用は、振り向いて手すりにしがみついてカバーすることができたのでした。大惨事にならなくてすんで、ホッとしたのですが、それでも、一同、しばらく、動悸が止まりませんでした。

〔19〕余暇活動、文化活動、イエテボリ
 LSS法で、住居、就労、のほか、余暇活動、文化活動においても、差別してはならない、とあって、そのために、どんなことがなされているのか、友子さんの文を紹介します。
 「余暇活動は原則的には、自分の住んでいるところから"外に出かけて何かする"ということだそうです。 住むところと、勉強か仕事をする ところと、余暇を過ごすところが別であるべきであるというノーマライゼーションの原理によるものだといわれています。 しかし、自分のグループホーム内のアパートに友達にきてもらうのも余暇活動だそうです。また、スポーツや趣味などの活動が余暇活動になっているようです。余暇活動にはエアロビクスなんかも入っています。文化活動は、文化面ですから、劇場に行ったり、美術館に出かけたりすることが主です。 ちなみにオペラ座などでは、障害者は最高の席の切符を半額で購入 できます。車椅子で座ることが出来る席は1階の最高席です。しかし、問題は私が一緒に出かけると、私の切符は普通料金をはらわなければならないので、ずっ と上の方の席にいて休憩時間におりてくるか、無理して最高の席を買わなければならないことです。高齢者と学生にも割引があります。

 LSS対象者はコンタクトパーソンという"お金をはらう友達のような人"も利用できますが、コンタクトパーソンと一緒にオペラに行く場合は、このコンタ クトパーソンに必要な切符や交通費などを行政が負担してくれて、しかも、コンタクトパーソンには"スズメの涙"程度のお小遣いが行政側からでるそうです。 また、"劇団活動"をしている障害者が大勢いますが、指導者と一緒に"俳優やミュージカルのスター"になって、たとえばエルドラードなどでの週に2回のオープンハウスの夜に公演したりしています。こういう活動を文化活動と呼んでいます。」

 皆さんご存知の自動車、ボルボ、は本社がイエテボリにあります。工場もあってその他、たくさんの企業があり、官庁街が中心を占めるストックホルムとは趣が違っていました。ストックホルムは金持ちが多く、政治的には保守の基盤です。今は、中央の政権も社民党ですが、イエテボリは労働者の街だから、ずうっと社民党の基盤です。きっとそんなこともあって、イエテボリが福祉は一番進んでいるようでした。だから、はじめに書いたように、イエテボリにきてよかったと思ったのでした。さらに、友子さんはたくさんの本を訳しておられるので、実に詳しく、そして丁寧に、こちらの聞きたいことを話してくださり、向こうの言うこともとってもわかり易く解説つきで訳して下さるのです。
 「こうやっ て来てくださる方は、きっと日本を変えていってくださると思えるから」とおっしゃっていました。終わってからも、いちいち私の文に手を入れてくださり、質問に答えてくださり、まだちっとも終わっていないのです。本当にありがたいこと!

〔20〕野宿者
 ホームレス、路上生活者、野宿者、など色々な言い方がありますが、ここでは、野宿者、ということにします。スウェーデンでも日本と同じ情況でした。ストックホルムでも、イエテボリでも、かなり、見かけました。
友子さんがおっしゃるには、精神病院が解体されて増えた、のだそうです。スウェーデンのことですから、当然のことながら、行政がやれることはやっている、はずです。(日本でさえ、2002年「ホームレス自立支援特別措置法」が出来て、少しずつ対策が始まっているのですから。)でも、そういう行政からの サポートが、必ずしも、当事者の望みと合致するとは限りません。

 石原都知事流に言えば、「彼らは独特な価値観をお持ちだから」(好きでやっているという意味だろう)ということになるのでしょうが、それこそが、「個 性」であって、精神障害者の皆さんの超鋭敏な神経に合致するサポートというのは、実にさまざまだというコトは想像できます。
 実は、日本の野宿者の中には、自閉症の人がたくさんだということを、今は亡き中川真理子さん(「開かれてゆく心」学苑社刊の著者)から聞きました。彼女の息子みっちゃんが、重度の自閉症で、42歳のとき、彼を置いて、ガンで亡くなったのですが、亡くなる前に、友人にそのことを話したそうです。「みっちゃ んも路上生活者になるのかしら?」と心配しながら語ったということでした。今は、みっちゃんは自閉症の人の施設で、暮らしています。

〔21〕最後に、私にとって大きかったこと
 先にご紹介したエルドラードでは、コンピューターの活用も、工夫がされていました。30センチ、25センチぐらいの長方形の板に30個ぐらいの升目があ り、その一つ一つに絵が書いてあります。その一つの升目を手で触ると、コンピューターの画面いっぱいにその絵が登場するのです。2歳3歳の子どもが喜びそうな作業です。自分の行為が、何かの結果をもたらすという経験をしてもらうのだということでした。(この国では、全体として、PCを大きく取り上げていま す。ある時期に、貧しい地帯には一人1台、豊かな地帯にはもっと少なく、国が全国の普通の学校に与えたのだそうです。豊かな地帯では、家にPCがあるから、このようにすることが平等なのだというのです。)

 このような働きかけが意味があるのでは、と思い始めてしまったことが、今回の旅の一番大きな収穫だったような気がします。私は、末っ子を「教えないで育 てる実験」をしながら育ててきました。結論として、「その子の体の中に、たまっている能力を、その子が使いたいと思えば、その能力は伸びていく。その子の 意欲を押さえつけさえしなければ、自分の意欲をもって能力を伸ばしていく」ということだったのですが、それは、もしかしたらすべての子どもに適用できるわけではないのかもしれない。と思い始めてしまったのです。ほっておけば、寝ているだけで、何も自分からは始められないという重度の子どもに対しては、働きかけることの意味は大きいのでは?と思ってしまったのです。でも、本当に「ほっておけば、寝ているだけで、何も自分からは始められないという重度の子ど も」というのは、存在するのでしょうか?どなたか、応えていただけませんか?私は、そのことが知りたいということもあって、そういう子どもを、生んで、育 ててみたかったのです。

 最後に、このようなたくさんの体験をさせていただいてきたということを、これから、どのように活かしていけるのか、今はなんともいえませんが、友子さん を始め、受け入れてくださったたくさんの皆さんの「労」に恥じなうような生き方をしていきたいと思っています。
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