スウェーデン報告(その1)(2002年8月3日〜10日)

 
 30年近く前からあこがれていたスウェーデンです。
一番始めに私の気持ちが動いたのは、70年代に女たちが「男女平等の」というフレーズで北欧に行って来た報告を吉武輝子さんから聞いたときです。「家の中で男と女がどのような家事分担をしているかということと、公害の量が相関関係にある」というのです。
 「家事育児にかかわらない男たちが作る製品は孫子の代に害を及ぼすようなものになる。」とも。
 2番目は、当時厚生省の出向でスウェーデンにいって帰ってきたばかりの人(今は厚労省の老健局長、中村秀一さん)が、「2010年までに原発をなくすと決めた。保育所と幼稚園を統一した」というのです。そんなことができる国にいってみたい、と思い続けていたのです。さらに、障害者問題の全国集会などで、「施設や、養護学校は無くした」でも、聾学校だけは残した。ときいていました。
2001年の春から家に来る留学生が、スウェーデン人だとわかったときから、密かに「チャンス」と思っていました。その後、マイアミ大学に行っていた私の末っ子揺光が、スウェーデンに1年間行くというので、その間に、と時間設定まで外部がしてくれたのでした。
 2002年8月3日から10日、私の家族、卓夫(夫)、萌実(長女)、宇洋(長男)、帆姿(3女)、その彼氏福留慶、魁(次男の長男で、私の孫、小学2年)、スウェーデンにいる揺光(4男)とその友達のスイス人フィリップ、この9人でスウェーデンの旅が始まりました。
〔1〕離婚家庭、医者らしくない医者、王様
 まず始めに訪れたのは、ユアン(1年間我が家に滞在していた留学生で、18歳)の町フディクスベル。南北に長い国の中間ぐらいにある西海岸の町です。ユアンはスペインの彼女のうちにいっていて、その後ストックホルムで出会うことになっていましたが、このときユアンは不在でした。スウェーデンではあたりまえになっている離婚家庭で、別れた両親はそれぞれ新しい家族を持っているのですが、子どもたちが1週間ごとに行き来できるように近く(歩いて5分ぐらい)に引っ越してきています。
 私たちを迎えてくれたのは、実父とそのパートナー、イングリットでした。この二人は去年の世界旅行のときに我が家に立ち寄っていたので、すでに顔見知りでした。かの国では、年間の休みは5週間と決められていて、そのときには多くの人が旅行にいくそうです。
 イングリットは看護婦さんで、自宅から歩いていける大きな病院の看護部長さんでした。病院はほぼすべて県立です。「医療は、県、福祉は、市町村」と決まっています。人口3万人くらいの県で、これ一つだけです。この日は日曜日なので、外来部門は休みでしたが、当直の医者が、CTスキャンの映像をコンピューターの画面で見せてくれました。この人が医者だということは最後までわかりませんでした。私が「医者らしくない」というと、イングリットが「スウェーデンの医者らしい人」といっていました。気楽に映像を見せてくれるということに驚いたのがわれわれでした。
 この病院を訪ねたのは日曜日だったのですが、外来の患者さんの姿がありました。診療所はみな休みなので、病院は休日診療をいってに引き受けているのでしょう。かつて病院に勤めていた夫は、「ずいぶんのんびりしているな」というのが感想でした。この国はどこにいってもみんな、気楽で、格式ばらないようです。王様が、自分で運転をして助手席にお妃を乗せて王宮に通勤しているそうですから。
 これってきっとその国の人が望む王様の姿なのだと思うのです。ユアンからも聞いていました。オリンピックなどの応援でも王様は、ごく普通の人と同じように立ち上がったり両手を挙げたりして実に楽しそうにやるのだそうで、ユアンは「ファン」と王様のことを形容していました。
 ユアンの家では、ユアンの実父とその妻、その人の連れ子で、ユアンの兄の3人が心をこめて作ってくれた手料理で迎えてくれました。こんなにたくさんの家族の食事を手作りでフルコース、作ってくれたのでした。私たちがリクウェストしておいた「ヤンソンさんの恋人」というジャガイモ主体のキッシュはお父さんの作。これは、ユアンが作ってくれた料理で、一番人気が高いものでした。それからシナモンロールも彼の料理の人気メニュー。これもたくさん作ってありました。

〔2〕木製の家、食べ物
 スウェーデンの家というのは、木製だと聞いていたのですが、外はほかのヨーロッパと同じようなレンガ造りなので、木製というのが信じられませんでした。行って見てわかったのですが、本当に中は木の床でした。だから玄関で靴を脱ぐのは日本と同じ。ユアンの家は、2階建てで、地下室もあります。そこにユアンの部屋があり、お土産にリクウェストしたどでかい日の丸が、カーテンのようにかけてありました。地上の部屋は天井がとっても高くて、広々としています。でもとても9人が泊まれる広さはないので、私たちは近くのホテル(B&Bといわれる簡易ホテルです)に泊まりました。
 朝食は、そこでとったのですが、なかなかたくさんのメニューが揃っていて、昔泊まったドイツのホテルがどこでもチーズとハムしかなかったのとは大違いでした。トマト、きうり、パブリカ、がなまで、きうりは漬物(ピクルス)も、魚のビン詰や様々なペースト。パンの種類も実に豊富でした。ジュース、お茶の類も種類が豊富です。その上、子供には特別メニューのケーキがついてくるのでした。この国の人たちが、食事というものを大切にしているということが、垣間見られる思いでした。
 国会の本会議場は明るい白木の椅子です。戦後2院制だったのを1院制に変えたとき(1971年)新しく建てたのだそうで、その前の2院制の時の本会議場と比べると全然、重々しさがなくなっていました。大臣達が並んでいる写真がみんな楽しそうに談笑しているもので、日本のあのコチコチの格式ばったものと実に対照的でした。木製というのは、なんか温かみがあります。保育園の椅子も高さを調節できるようになっている木製のものでした。「スカンジナビア」と呼ばれているものだそうです。日本にも輸入されているのですが、実に高い。1個27,000円と聞きました。それでも、町田の友人が園長をしている桔梗保育園では、それを使っていました。

〔3〕グループホーム、塀のない建物
 ストックホルムでは、あるときから、1戸建ての家は作ってはいけないことになったのだそうです。たぶん、土地が狭いからなのでしょう。すべてが集合住宅、つまりアパートか、マンションということになっています。だから、グループホームといっても、アパートのある部分がそれになっているので、ケアハウスとか、スウェーデンのサービスハウスとかとほとんど変わりがないのです。私たちが行った痴呆性老人のグループホームは、7〜8階建てのものすごく大きなビルに250人ぐらいが住んでいるところでした。
 その中に3個のグループホームがあって、それぞれ11人ずつが住んでいます。のこりの人は、サービスハウス、老人ホーム、ナーシングホーム、(この順序で介護度が高くなる)などに住んでいて、時には交流することもあるようです。一人の家にキッチンまで付いていて、部屋もたくさんあるので、今度狭く改装をするといっていました。
 保育園と幼稚園がいつからか一つになっているし、1院制がいいとなるとすぐに実現するのは、政治主導だからのようです。中選挙区比例制で各政党が比例の順位を男女交互にするので、たちまち議員の数が男女同数になってしまったのでした。でも最近、個人名を書いてもいいようになったそうで、無所属という人も議員になっていました。いいとなるとすぐ決まるし、だめだとなるとすぐに決めたことを変えます。原発も、2010年でなくすと決めたけど、代替エネルギーがまだ見つからないので、もう少し伸ばすそうです。
 国会でも、王宮でも、大学でも、どこにも門とか塀とかがありませんでした。揺光の大学がウプサラの町の中に散らばっているというので、もしかしたら揺光にとって見せられないものがあるからなのではとかんぐっていたのですが、王宮まで囲いがないのをみて、納得しました。王宮にいったとき、丁度門番の兵士の交代時間で、20人ぐらいの兵士が並んで待っているのですが、みんなきょろきょろしていて、緊張感がなく、うちに来ていたユアンとそっくり、と私たちは大笑いでした。徴兵制だと聞いて驚きました。女の兵士もいました。希望すれば、男と同じように試験を受けて、入るのだそうです。病気だとはねられるのはどこも同じなのでしょう。
〔4〕保育園、育児休暇制度
 19年保育者として勤めていた私には、保育所訪問が楽しみでした。ストックホルム市庁舎のとなりにある公立の保育園は元、造幣局の後を改装したものでした。この国には珍しく塀と門があり、扉にはまるで菊のご紋のようなこの国の象徴らしき花の紋が大きく金色に飾られていました。中に入ると40歳ぐらいの男性が応対してくれ、1歳から6歳までの幼児が4クラスに分かれている、どのクラスも異年齢の集団でした。0歳がいないのは、すべて育児休暇をとっているので、保育所に来るのは1歳から1歳半なのだそうです。パパクオータ制といって1月は父親が取らなければ、返上しなくてはいけないもので、あとは、両親あわせて450日の育児休暇があります。この間360日間は所得の80%が、後の90日は一律1日60クローナ(700円ぐらい)支給される。この育児休暇は8歳までに消化すればよい、とのことです。
 父親が育児休暇を、1月取った程度では、なかなか育児が父親になじむところまで行かないらしく、共同生活を始めたカップルはかなり平等に家事の分担をしていても、いざ子どもが生まれてからは、家事育児が女に偏ってくるらしく、そのことをめぐる離婚が多いといいます。女の方が平均賃金は少ないのに、離婚を言い出すのは圧倒的に女からだということです。三女帆姿の彼氏福留慶君は、保育者です。彼が、この保育所(プレスクールと呼ばれる)に男性は何人いるのかと聞いて見たら、15人のうち、その人一人だと言うではありませんか。保育者全体の3%しか男性はいないのだそうです。スウェーデンの男女平等は制度が先に整って、一番遅れているのが家庭内の分業のあり方だと本に書いてあったのはこのことかと思いました。まだまだ育児は女性という観念が行き渡っているのでしょう。
 育児休暇をどちらがとってもいいということになっていますが、男はほとんど1月で、あとは母親が取っているのが現状で、それは、「母乳で育てた方がいい」という観念に左右されている面もあるようです。ここで育児休暇を男よりたくさん取る女が、職場で昇給が遅れるという結果になり、そのことが平均賃金の差を縮められない結果をも生んでいるというのです。これこそが、男女の違いが、差別につながる現実なのでしょう。産休や育休を昇給ストップに結び付けない方法を考え出さなくてはなりません。ちなみに、スウェーデンでは、出産の費用はすべてただです。これは当たり前のことだと思っています。なぜなら、社会にとって意味のあることなのですから、社会が負担すべきことだとずうっと思い続けてきました。こんなことが実現できないで、「少子化」をうれうなんてやめてほしいです。「少子化」結構という人はそれでもいいのかもしれません。

〔5〕民間委託の病院
 精神科病棟がどのようになっているのか、それを見たいと思いました。すでに精神病院というものは、すべて廃止されていることは知っていました。だからここも総合病院に併設されていました。このところ財政逼迫に付き、県立病院を民間委託していて、行ったところは、赤十字に委託されたばかりだということでした。赤十字というのは、なじみがあります。揺光の大学があるウプサラで、揺光が私たちを連れて行ってくれたところが「レッドクロス」つまり赤十字でした。揺光は、去年ウプサラに着くとすぐ、ボランティアをしたいと探して、赤十字に出入りするようになっていました。
 世界各国からスウェーデンに集まってくる移民の人たちのサポートをしているところで、揺光は毎週水曜日に、そこへ行って日本料理を作っている。ここは移民の人たちにスウェーデン語を教えているところなので、自分にとってもスウェーデン語の勉強ができるからありがたい。と言っていました。その彼が、案内してくれた赤十字は、なんと移民の人のための施設でした。色々な事業の中の一つかと思っていたら、そうではなく、ここの赤十字はそれだけをしているのです。言葉を知らないまま逃げ込んできた人たちに、まずは言葉を教え、住むところを紹介し、仕事も捜して、そのサポートをしているのでした。
 アフガンからきた盲目の人のこと、クルド人に「どこの国から?」と聞くと「クルギスタン」(国を持たないクルド人たちは、自分たちの国をそのようにいっている)と答えた話など、揺光から聞いていました。しかし行って見て、軽食喫茶風の部屋で、年金生活をしているボランティアの方からそれらの事業の話を聞いたら、大変なことをやっているということが伝わってきました。国民の10%ぐらいが、移民だと聞いていますが、その人たち一人一人にこのような手厚いサポートがあったのでした。
 ストックホルムの郊外にある赤十字病院の精神科病棟に話を戻します。14人の患者さんに30人のスタッフがいるという病棟で、その責任者は、70歳ぐらいの女医さんでした。この方は、説明をする前に、こちらの一行に自己紹介を求めました。そのおかげで、私たちはそれぞれの問題意識を少し伝えることができました。私は、登校拒否児や、障害児者を含めた大地塾をしていたときから、精神病院との付き合いはたくさんありました。閉鎖病棟や、保護室、抑制帯といわれるものによるベットへの拘束等、限りない問題続出なのが、精神病棟です。患者さんに対してどれだけの医者や看護婦が必要かという基準が、日本では、「精神科特例」といわれるものによって精神科だけ少なくてよいことになっているのです。これは、もともと、病気を治すことよりも、社会を彼らから守ると言うことのために隔離施設として精神病院が作られたと言ういきさつがあるからでしょう。
 新潟県の先進的な国立の精神病院で、拘束によって窒息死があったのは、数年前のことです。電話をかけるのも、受けるのも、医者によって禁じられるという病院がありますが、この病院ではすべて自由でした。患者の人権が尊重されているように思えました。そんな、先進的と思われる病院での、窒息死事故だったので、関係者のショックは格別でした。そんな日本の情況と比べて、14人の患者さんに30人のスタッフとは、なんて恵まれているのでしょう。その日も、女医さんだけでなく、事務長さんも同席されて、ゆったりと話し合いをしてくださいました。閉鎖病棟はなくなっていました。

〔6〕環境への配慮は?

 ユアンがうちにいる頃、ホストシスターの帆姿とよく話していたことがありました。「公害が少ない国」といわれる割には、ユアンは食べ物のことに関心ないね。」着色料いっぱいのキャンデーがよく送られてきましたし、添加物がいっぱい入っているミックスパウダーもよく送られてきていました。又、我が家では砂糖は黒砂糖を使っているのですが、彼は白でなくてはいやで、彼がパンやケーキを焼くときには白砂糖を買ってきていました。今回いって見たら、彼が食べていたキャンデーはそこここで売っていて、飴屋さんなんていうのが存在していました。つまり、たくさんの種類の飴だけを売っているとこがあるのです。かなりけばけばしい色のものがたくさんでした。
 ホテルのバスルームには液体石鹸があります。これは固形石鹸より添加物が多いのですよね。頭を洗うとぴりぴりしました。でも、よく探すと、固形石鹸も置いてあったので、いい事にするかって思いました。私は、いつも100%の石鹸を使っています。普通、売っている石鹸には香料などが入っているので、使いません。しかし、この香料のない石鹸を使っているのは我が家で私一人です。風呂といえば、スウェーデンは寒いからでしょう、バスタブに入るという習慣があるようで、シャワーだけの欧米とは違う、細長い湯船があってうれしかった。3日間同じホテルに泊まったとき、下においてあるタオルだけを洗います、とかいてあって、合理的だと思いました。
 それから、トイレットペーパーは新しいお客が来ると使っていないものをつけておくという日本のような無駄は省かれていて、どこでも、使いかけのペーパーがそのままにしてあり、これも省エネでいいなと思いました。スーパーに行くと、色々添加物の多そうな食品がたくさん並んでいました。でも、ペットボトルの回収器があって、どんなものでも1本1クローネ(12〜13円)で回収していました。環境という点で、うらやましいと思ったのは、今回はこのぐらいでした。そういえば、川岸をコンクリートで固めた姿は見たことがありませんでした。そういうところは、環境に配慮しているということなのでしょう。水辺はどこでも自然のままで、素敵でした。

〔7〕知的障害者の施設解体
 知的障害者のこと、帰ってきてから「スウェーデンにおける施設解体」(現代書館)を読んで、これはどうしても行かなくちゃあと改めて思いました。100年も続いてきた施設を解体するのです。規則尽くめの、不自由な暮らしから、自分で考えて自分で決める生活へと変化すること、これには、日本でもあるような「そんなことできっこない」という両親、そして「手厚い介助が必要な人を街に放り出すなんて」という施設職員、いや、この人たちも人間なのだから、普通の生活を、という改革派の人たちとの長時間にわたる戦いの記録でした。
 しかし最も説得力があったのは、施設に入所していた人が自分で書いた手記です。そして不安ながら入所者の子どもがグループホームに出て行くのを見送って見て、やはりでてきてよかったと思った親御さんの手記です。この本は、100年前に施設ができたときからの流れを書いています。親達は、「専門家」から「子どものため」と言われて、泣く泣く子どもを施設に入れる。家に置く限り、何のサポートも受けられない状態だったのだから。でも施設はどんどん規則が作られて、禁止事項がいっぱい。一人では何も決められない。そのおかしさに気付いた少数の職員達によって、少数の施設は変化していく。
 当事者の立場にたって改革が進められる中で、施設解体という考えにたどり着きます。そこまで来ると、後は、施設から出た当事者にとってどんなサポートが必要なのか、先進的な職員のいる施設では、家族と相談しながら、どこにでるのか、出たあとには、どんなサポートが必要なのか、話し合っていき、でることが簡単な人から順番に出て行きます。出たあとは、多くの障害者たちはこんなに自由な生活があったのか、自分で勝手に外にいける、勝手な時間に寝起きできる、私たちにとって当たり前なことがやっとできるようになって、自分に対して自信がつくようになる。家族をお客として迎え入れることもできる。
 施設では、大部屋に人と一緒にいて、家族が来てもその中でしか面会ができなかった。まわりに気を使ってくつろげなかった。施設では、職員に「手のかかる人」と思われていた人が、実は、施設の窮屈さに反抗していただけで、外にでると穏やかな人柄になるということが多くあったといいます。とにかく、施設から出てみると家族にとっても、本人にとっても、サポート体制さえあれば、生き生きとした暮らしがよみがえってきたというのです。これを読んで、昔からスウェーデンは上下関係がなかったわけではないこともわかりました。日本とちっとも変わらない情況があったことがよくわかりました。だから、希望が持てたのです。
 児童手当の問題です。18歳までの子どもがいる家では、15歳までは、保護者が、その上になると本人が、月100クローナ(12,000円ぐらい)もらうのです。ユアンももらっていました。高校生がそれだけのお金をもらうということによって、働く意欲がなくなるのでは、という意見もあるようです。このことと青少年の非行とも関係があるのかもしれません。ユアンが、友達のことを「働く意欲がない、お金があるから」と言ったことがありました。
 私の印象としては、スウェーデン人というのは、かなり冷静で、熱狂しない人種のようです。だから、やって見てだめだとわかったら、すぐに引き返すという冷静な判断ができるようなのです。幼保一体化にしてもかなりジグザグしながら、変えていっているようでした。管轄を文部省にするのか、厚生省にするのか、地方自治体にするのか、など色々と動かしているように思えました。
 そんな国で、知的障害者の「施設解体」というものがけんけんがくがくやりあったあと、元に戻すという意見が出ないということがとても重たいことだと思いました。つまり、施設から出て、グループホームなどで暮らしている障害者たちの生活が、施設にいたときには考えられなかったような充実したものになっていることを誰もが認めてしまったことの結果なのだと思います。だからこそ、今度は、その姿を見てきたいと思っています。今度は、夏休みでないときを選びたいと思います。とにかく、若者たちの犯罪など取りざたされていても、どこからでもやり直しがきくのが、この国、どんな年齢でも学習を始められるシステムが作り上げてあります。所得を得ながら学ぶということも保障されているのです。だから、転職も簡単ということになります。人も、国も、「やり直しがきく」というのが、この国の一番の特徴だと思います。

〔8〕ハンソン友子さんとの出会い
 2002年11月2日、東京の杉並公会堂で「スウェーデンの福祉の実際と日本の福祉の方向を見つめる」というフォーラムがあり、行ってきました。友人が、「あなたに必要だと思うから」といってこの案内をメールで下さったのが元なのです。スウェーデンから通訳を含めて3人がきているというのに、参加費が1000円というのは一体どうして?主催者の連絡先が杉並区職労だというのも、えっ?ていう感じでした。区役所職員の組合ということですから、役人ということですもの。「障害者の住みよい杉並をつくる会」が主催です。この会は様々な障害者団体が入っている集合体。この中のメンバーが去年、スウェーデンに行ってきたのがこの催しのきっかけでした。
 講演者の二人はエレーンさんとアンネリーさん、二人とも、西海岸にあるスウェーデン第二の都市イエテボリ市の職員でした。エレーンさんは重度障害者(32歳の女性でピアさん)の親で知的障害者の親や本人の会FUBの代表を務めたことがある人で、その頃できた、LSS法は、国会議員すべての賛成で可決、障害者が普通の人と同じ生活ができる環境を整えることを最重視することになったそうです。
 去年ピアさんが二人の介助者を連れて海外旅行に行った。介助者の旅費は行政が、本人の旅費だけ自分持ち。その旅行があまりに楽しかったから、今年も申し込んだ。今年は財政的理由で、介助者は一人だという。エレーンさんが、行政裁判に訴えたら、勝って二人付きで行くことになったという。LSS法で「障害者も普通の人と同じ生活ができるように、行政が環境を整えなくてはならない」と決まっているから。実は、以前読んだ障害者の旅行記で、介助者が一人では、お互いに息抜きすることがなく、帰ってきたときにはお互い顔を見るのもいや、状態だったそうです。
 このとき、東京までいった目的は、フォーラムを聞くことよりも、今度知的障害者の視察に行く手づるを確保するということだったのですが、しっかり目的を果たすことができました。通訳のハンソン友子さんがこの方面に実に明るい方で、私からのお願いを二つ返事で引き受けてくださったのです。さらに、私と一緒に行くといってくださった方もその日、見つけました。岡田弥生さん。
 なぜ1000円で済んだかというのは、このあと、横浜、伊達(北海道)と講演にいくのだそうです。そのあと、叉杉並で小さな会をいくつか催すようです。そうやって交通費の負担を分散させているそうです。
 スウェーデンでは、1800年代に障害者の施設が作られるようになり、1900年ぐらいまでは、知的障害者は、「白痴」と呼ばれ、乱暴する、泥棒するなどと思われていて、そのような「害」から人々を守るのが「施設」だと考えられていました。
 アンネリーさんの話にすごいことがでてきました。今、36歳のペーターを14歳のときから「里子」としてアンネリーさん夫妻が育ててきたそうです。知的障害児のキャンプで知り合って親子の縁を結んだのだそうです。彼は生後3ヶ月で施設に預けられ、いまだに実の兄弟とは全くあったことがないというのです。彼が生まれた頃は、そういう子はさっさと預けてしまって別の子供をどんどん産む、ということが言われていたのだそうです。彼が生まれる直前まで知的障害者は「優生保護法」(1975年に廃止)によって、強制的に不妊手術を受けさせられていたのでした。つい最近、意に反して手術させられた人に対して損害賠償金が払われる法律ができたようです。(2年前の著作に「近く国会で決まるはず」と書かれています。)
 スウェーデンがいかに短期間で考え方を変えてきたのかということがお分かりいただけるでしょう。考えが変わるとすぐに法律を変えてしまえるというのがすごいですね。
 「スウェーデンからの報告」(筒井書房)の中に32年間施設に住んでいた男性が、アパートに住むようになってやっと「行きたいときにトイレにいけ、のどが乾いたときに水が飲めるようになった」と書いていました。一体施設ではどうなっていたのかと考えてしまいますね。日本にもそのようなところがあるような気がします。
 1994年にできたLSS法は、「あらゆる障害者が普通の人と同じような生活ができるように環境を整えることを行政は最優先させなくてはならない」と決めてあるため、アイスホッケー場などをつくっているところで、「財政上」の理由で上のような環境を整えることができないということは言ってはいけないのだそうです。
 その考えに基づいてすべての施設を1999年までに解体しなくてはならない、という法律が96年にできました。グループホームやアパートなどに徐々に引っ越していき、大型施設は解体していったのですが、まだ二桁ぐらいの人が、施設に残っているということです。
 DPI(障害者インターナショナル)の世界大会(2002,10、札幌で開催された)に、スウェーデンの元社会大臣、ベンクト・リンクビクトさんがこられました。今回、エレーンさんがこういいました。こちらに来る前にベンクト・リンクビクトに電話して、日本に行くのだけど、なにか伝えたいことある?と聞いたら、彼がいいました。「DPIで日本にいったとき、日本の議員たちに聞いてみたら、差別禁止法を作ることに熱意のある人が一人もいなかった。皆さんの力で議員を動かしてくださいと伝えて」といったそうです。実際、障害をもった議員さんが「日本ではだめですよ」なんて言っていっているのを私も聞きましたから。
 話はこれからなのです。通訳してくださった友子ハンソンさんに帰りに「さっきの元社会大臣、DPIで」といいかけたら友子さんが「あの目の見えない人ね」というのです。「いいえ、目は見えたと思うのだけど」「いえ、あの方は視覚障害者です」と友子さんがきっぱりといわれました。全く目が見えないことを感じさせない人だったということですが、単に私が鈍感だっただけかもしれません。
 もう一つ、補足します。始めに書いた重度障害者の二人の介助者付きの外国旅行について疑問をもたれた方もあるのではないでしょうか?そこまで税金を使うの?って。やっぱり反対の判決がありました。グループホームに住んでたびたび旅行に行っている障害者に対して、介助者の旅費も自分で出すべき、という判決になっているのです。その判決はいいます。「介助者サービスは、重度の機能障害のために発生しやすい孤立を破るためのものである。この人の場合、グループホームで仲間と一緒に行動できていて、さらに、すでに外国旅行も2回行っている。そういう場合、今回の旅行の必要性は、決定的ではない」(「イエテボリの風を感じて」という前年の視察報告書より)ということだといいます。一つ一つみんなで悩みながら、どのあたりまでが「普通」ということになるのか、試行錯誤を繰り返していくのでしょう。それができていることがうらやましい!と思いました。
(追記)
 2003年の年賀状で、知的障害者にかぎったスウェーデン視察に同行する人を呼びかけました。5人の方から応募があり、すでに決めていた私と岡田さんで7人のグループができました。友子さんを含めた8人でメーリングリストを立ち上げ、その中で、何のために、何を見たいかなどのやり取りを重ねながら、友子さんは、現地の視察先と交渉してくださり、5月の連休の終わりから8泊9日の行程を作ってくださいました。折角行くのだから、その前に、日本の中の先進地を見てこようと思い、北海道伊達市の太陽の園、長崎の雲仙コロニー、埼玉県北部児玉町にある、アナンという「施設と言う名」(施設長吉沢好子さんの命名)のグループホームを見学しました。
(この後は、スウェーデン(2)に続きます)
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