私が感動した本
ひがん花の蕾








 「居場所のちから」

2006年刊    教育史料出版会  西野博之著

以前ちょこっとご紹介したのですが、この本は、教育史料出版会から出た西野博之さん(1960年生まれ)の本です。

私は1990年に大地塾を始めたのですが、ちょうど同じころ西野さんは、川崎で、大地塾のような「不登校、引きこもり,障がい者」などを含めた居場所を作ったのです。ちょうど同じような時期でしたから、わかるのですが、地域の皆さんからの目は冷たくて、「好きなことだけさせておいて碌な事にはならないだろう」「やっぱり学校に戻さなくては」という「常識」に囲まれてのスタート。私は、自分の家で始めたし、家の周りにはほとんどなにもないので、誰からもうるさがられずに済んだのですが、川崎では、まず場所を借りなくてはならない。それが実に大変。引っ越そうとした場所の周りからの反対で、契約を破棄しなくてはならないことまであったのでした。

その流れがかわり始めたのは、川崎市教育委員会から、「たまりば」(多摩川を多摩リバーといったことから付いた名前)に来ていたこどもたちのその後の調査を依頼され、その結果わかったことは、90%の子どもたちが、学校またはそれに準じるものに戻っているということ。それが、行政の意識を変え、1998年子どもの権利条例を作るために西野理事長が委員に委嘱されることになりました。2000年にできた子どもの権利条例には、「子どもの居場所」という条項が設けられ、様々なしょうがいのある子どもたちや、非行傾向にある子どもたちの居場所を川崎市が提供するべきという流れができてきてしまったのでした。2003年川崎市が作り上げた3000坪の夢パークの中に子どもの居場所ができ、そこをNPO法人たまりばに委託することになったのでした。

このおかげで、資金問題が一挙に解決します。私も大地塾のときにはお金のことでは悩みました。子どもたちから会費を取っていたのですが、中には、「自分はこの子たちの世話をしに来ているのだから世話をされている人のように会費は払わない」という人もいました。「たまりば」でも悩んだ末、大人も子どももみんなが会費を払って運営する。出せない人は出さなくてもいい、という規則にしたら、スタッフは、みな副業で稼がなくてはならず、それはそれは大変なことになっていたのでした。それが、公費から、人件費が出るようになり、給料が払われるようになった。子どもたちは、無料で来られることになった。

ところで、夢パークというのは、「冒険遊び場」として作られ、既成の遊具は一切なく、刃物、火、どろんこなど何でも使えて、「けがは自分持ち」というあり方です。

子どもたちは、何の規制もなく自由に活動をしていますが、この周りには、結構たくさんの大人たちがサポートしています。平林浩さんは、昔和光大学の付属小学校で先生をしていて、「ひと」という教育雑誌に「しのぶちゃん日記」を連載していました。しのぶちゃんは全盲の小学1年生でした。私は、この連載を楽しみに読んでいたのです。この平林さんは、「ヒラセン」と呼ばれて、「仮説実験事業」をしに来ています。

西野博之理事長は、松崎運之助先生が夜間中学にいた時の教え子。松崎さんも先日私が行ったクッキングハウスの松浦幸子さんもこことかかわっています。サマーヒルで先生をしていた永田佳之さんもメンバー。

俳優や、絵描きや、音楽家など、様々なジャンルの「専門家」がここを訪ねて、自分のやり方で子どもたちとかかわります。子どもたちは、自分と合いそうな人を選んで近付いて行って、いろいろと吸収するのです。提案はあっても、強制はない世界。大地塾と同じスタンスだと思いました。

こんなところがあることをこれまで知らなかったということにとっても驚きました。6月25日(土)には、岸本さんのコンサートを聴きに行くついでにすぐ近くの夢パークを散策してこようと鈴木智子さんと企画しています。7月2日(土)には、たまりば20周年コンサートに行って、周りにいる人たちと出会ってきます。

そして、平日には、こちらの関係者を含めて、孫の志重も一緒に大勢で見学に行くことを考えているところです。合流したい方はどうぞ。







「までいの力」

2011,4,11      KK,SAGA DESIGN SEEDS

飯舘村について、この4月に出た本を紹介します。飯舘村は、皆さんもご存じのように原発からは結構とおいいのに放射能が高くてそこに住めなくなっている地域です。ここの村は、すばらしい取り組みをたくさんしてきていて、その記録が、写真集のような感じで、出版されているのです。それが「までいの力」。朝日新聞519日の社説にここの取り組みの一部が紹介されました。

2011519日 朝日新聞(朝刊)

社説 余滴   浜田 陽太郎(はまだ ようたろう)

「生意気な嫁」を育てた村

 原発事故による計画避難が始まった福島県飯舘村で22年前、「若妻の翼」という村の単独事業が始まった。

 40歳代までの女性に、10日間、欧州旅行をしてもらう。日程は、わざと農繁期の秋に組まれた。その方が、家族にとって、ふだんは黙々と働く「お嫁さん」のありがたさが身にしみる。行く方も、家族の了解を得るハードルが高い。自己負担の10万円も安くはない。それでも行くには、「家庭円満が保てないのでは」という、引っ込み思案のカラを何枚も破らねばならない。

 旅から戻ると、今度は「嫁が生意気になった」という評判が立つ。「少し指導して下さい」という投書が役場に届いたこともある。

 しかし、村長や担当者は動じない。なぜなら、「せっかくカラを破りだした女性を自粛させては、税金をドブに捨てるに等しい」からだ。

 5年で91人が訪欧した事業を、酪農家兼公民館長として支えたのが、現村長の菅野典雄さん(64)だ。そのエッセーに経緯が詳しい。「男女平等を嫌う」「頭たたき、足引っぱりが常識」。こんな田舎の現状を直視した菅野さんは、危機感を持つ。

 「言いたいことを言い、したいことができる女性を増やすのが特効薬」と見定めて、事業に取り組んだ。飯舘村はいま1人の女性が生涯に産む子どもの平均が1.85人で県内一だ。「女を不幸にして、男だけが幸せになれない」という時代認識がカギだったと思う。

 2005年に日本が人口減少に転じたことを取材しながら、「少子化が始まった30年前から、こうなるのは予想されていたのに、なぜ有効な手が打てないのか」という疑問を抱いていた。

 これに対する納得のいく答えを、飯舘村の「若妻の翼」に見る思いだ。要するに、現実から目を背けず、対策を立てるかどうかなのだ。

 原発でも同じような構図が見える。「危険だし、事故は起きうる」という事実に目をつむり、必要な対策を怠ってきた。現実を見ようとせず、「安全神話」に慣らされた。私も、その一人である。

 いま、放射能禍が「生意気な嫁」を大切にしてきた飯舘村を襲っている。美しい田園風景は何も変わらないだけに、罪深さはかえって際だつ。でも、丁寧に紡がれた共同体は、きっとまとまりを保ってくれるに違いない。(社会保障社説担当)

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実は、菅野典雄村長が酪農家兼公民館長だったときに、呼んでいただいて、「若妻の翼」のみなさんに話を聞いていただいた経験があります。それは、日本青年館におられる板本洋子さんからのご紹介でした。菅野公民館長は、板本さんからかなりの影響を受けておられたと思います。なんとその日私を泊めてくださったのは、菅野さんのお宅でした。牛舎の光景をよく覚えています。20年ぐらい前だと思うのです。

「クオリティライフ」という言葉を使った菅野典雄さんに対して「までい」と言い換えてくれた村民の言葉。この言葉の真意は、この本を読んでいただくことで、おくみとりいただきたいと思います。「までい」が村のマークとなって、村民をつないできました。そんな村が今回このようなことになって、それでもアイデアマンの菅野村長はきっと素晴らしいアイデアを村民とともに作り出していくに違いありません。






「原発に頼らない社会へ」

2011,4,20   田中優著  ランダムハウスジャパン刊

この本は、今回の大震災以後、「はじめに」から33ページまでと、「おわりに」を付け足して、2010年7月に出されていた「ヤマダ電機で電気自動車を買おう」を少し修正して本にしたものでした。今、全国の関心が高まっている間に出そうということで、かなりの誤植がありますが、それだけ早く届けたい心だと受け止めました。

「ヤマダ電機で電気自動車を買おう」という本の段階ですでに、完璧な提案が出されていたのですね。それが今回の震災でもっとスピード感を持って移行できるということなのだと理解しました。

「スマートグリット」(賢い送電網)という送電の在り方を提案されていたのですが、それについて今回の事故で、東電は、ものすごい巨額の補償をしなくてはなりません。自分のところだけでその補償費は捻出できない。それを「税金で」と早々と言っている人たちがいますが、その前に送電線を撤収しようと呼びかけているのです。国が、東電から送電線を買い上げる、それが、補償費に回る、その結果、送電線が、みんなのものとなって、自由に使えるようになる。そうすれば、みんながいろいろなやり方で自然エネルギーを作り出し、余った電力をその送電線に送り込む、その結果電力の供給が増える、ということなのですね。

電気事業については、発電、送電、配電の3つの部門があり、この中で一番経費がかかるのが送電。青森で発電して、東京に送るなんて言うのは、一番コストがかかる。その上、送電中に電気が逃げて少なくなるロスも大きい。「スマートグリット」になって、各地で発電ができるようになれば、巨額な送電費用が要らなくなります。

さらに、独占企業である電力会社が、広告費をたくさん使い、その費用を電力料金の中に含めています。それらのために日本の電気料金はものすごく高く、電気料金だけのために電気を多使用する日本の産業が外国に移転してしまった。産業の国際競争力が電気料金のために落ちてしまっているのです。

電力会社の広告費用を取り上げるということは、電気料を安くすることには欠かせないものだが、それ以上にメディアへの電力会社の影響力をそぐという大変大きな目的を達成することになる。これまで、原発に反対する論調をマスメディアが締め出してきたのは、電力会社からの広告費用収入が大きかったからだ。広告費用がなくなったら、もっとみんなが自由に意見を述べられるようになる。このことはとっても大きなこと。

実は、「原発がなくても、電気の必要量は、確保できている」などという論調が、メディアに載らないのは、原発推進の電力会社からの圧力があったからなのでしょう。

スマートグリットにかかわる科学技術は、日本が世界1だった。「選手はいいのにベンチがあほやから」そのスマートグリットを使いこなすシステムができないままに、今にいたっているというのです。

みなさんが読みたいと思ってくださることを願って、この報告を書いてきました。

「生活の仕方を変えるのではなく、仕組みを変えるだけで解決する」というのが、彼の持論です。







平和と国際情報通信ー「隔ての壁」の克服

2010,9,30     早稲田大学出版部

この本は、早稲田大学の学生との討論を基に書かれています。この本を私に送ってくださった加納孝代さん(さつき会のmlで知り合った)の夫君加納貞彦さんは、この本の編者の一人、冒頭の「総論」を書いています。「隔ての壁」という言い方は、「差別」という言い方に比べて穏やかで、被害者加害者という概念を取っ払って問題に迫れる感じがします。「隔ての壁」を取り除く取り組みとして、核兵器廃絶を目指す「平和市長会議」(4069都市が加盟)を挙げてあります。この平和市長会議の会長は、秋葉忠利広島市長(当時)で、加納さんと秋葉さんは大学時代からの友人同士のようです。この本には、秋葉さんからの推薦の言葉がありました。「君も現代の龍馬になれる」というものです。

この本は9章にわたっていて、それぞれの章が、別の人によって書かれています。9回分のゼミを収録したものなのです。この中の一つが、藤末健三参議院議員によるものです。これを読んで私はとっても驚きました。こんな方が民主党の中にいるという事実を知らなかったことにも我ながら驚いてしまいました。彼の話は、「憲法問題と平和」がタイトルです。そして彼は「活憲」とご自分の立場を表現しています。これって、たぶん鳩山さんが言っていた言葉ですよね。

藤末健三さんは、1964年生まれ、宇洋と二つちがい。東工大を出て、通産省に入省。その後、アメリカで修士をとってきて、2000年に東大の講師、助教授を経て、2004年から参議院議員という経歴。

民主党の中では、「護憲のロジックを作っている担当」と話しています。

2005年に自民党の「新憲法草案」を出し、「国民投票法」と名付けているが、本当は、「憲法改正法」と名付けるべきものが、2010年施行される。憲法改正の眼目は、9条にあるのだが、初めはこまごましたものから改正していって、9条は最後に出すと自民党の人が言っていた。

防衛庁が防衛省になって、シビリアンコントロールが利かなくなった。

アフガニスタンでの米軍のやり方(無差別爆撃など)は、自爆テロを養成しているようなもの。識字率を上げる教育などの支援をすれば、「自爆テロ」などに走らなくなるはず。「週刊ダイヤモンド」(2007,10,13)にアフガンの人々が、平和に暮らしていけるような支援だけにすべき、と書いた。これがその後、民主党の政策に入ることができた。

「憲法とは、国家権力を抑えるためのもの」という伊藤真さんの言葉を使って自民党の新憲法草案を批判。「国防条項」といって、国民は国を守る義務がある、と書かれている。また、自衛軍を創設し、今は持っていない攻撃型の兵器を導入するということ。自衛隊の隊員で、「そうなったら辞めます」という人が結構な数いるということです。だからそうなったら徴兵制にするしかないのでしょう。

鳩山さんが代表選に出たときに、7人の議員で申し入れた。改憲論者の鳩山さんに「憲法改正を封印する」こと、そして、核廃絶を入れて、と提案、それをそっくり鳩山さんが、受け入れたので、鳩山さんを応援したのだそうです。

憲法の前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」というのを高く評価。「諸国」ではなく「諸国民」であることに注目させている。

「活憲」の例として「武器貿易管理条約」の提案を羽田元首相とともに国連への提案を外務省に出させることに成功した。「羽田元首相の力はすごい」と書かれています。日本が、武器輸出をしていないからこそ、このような提案ができると。

とにかくみなさん、この藤末健三さんをご注目ください。






ミボージン日記

2010、12刊        岩波書店 竹信三恵子著

「雇用劣化不況」(岩波新書)で貧困ジャーナリズム賞を受けた竹信三恵子さんの著書「ミボージン日記」を感動のうちに読み終わりました。これは、雑誌「暮らしと教育をつなぐWE」に連載されたものを少しだけ手直ししたもの、とあとがきに書かれていますが、私は、連載を読んでいたにもかかわらず、改めてこの本を読むと別の感動がわきあがってくることを感じました。

76年東大文学部卒の高橋三恵子さんは、70年代の大学のサークルで、チューターとしてやってきたタケノブさんと知り合い、同棲を始めます。高橋三恵子さんは、3歳で父が病死、母が経営する薬局で、周りのたくさんの大人たちとのかかわりの中で成長します。母子家庭で育てられた3人の子どもの一人として、貧乏が日常で、それを訴えても、外国語のようにしか聞こえない人たちに囲まれた高校時代。周りからの「外国人」扱いにびくびくしていた三恵子さんにタケノブさんは言う。「好かれなくたっていいじゃないか。自分のために生きるんだ」。この言葉に支えられて「横柄に、元気になった」三恵子さんは、「売約済み」の札をぶら下げようと、法律婚をし、竹信と改姓をする。家に男性がいると装うために軒下にステテコをぶら下げるという話が

あるが、「法律婚は、私にとって軒下のステテコだった」と書く。そして二人は、朝日新聞社の入社試験を受けて、二人で合格。記者となる。

かくて、タケノブさんは、精神世界で、三恵子さんの一部となってしまっている。そのタケノブさんが、2004年9月一緒に旅をしていたマレーシアのランカウイ島の海辺で亡くなってしまう。

「いいものはなんでも、いつか必ず終わりがきます」。この言葉が、三恵子さんの中で何回も行き来し始めて数年。突然「終わり」がやってきた。「いいもの」が彼女にとってどんなものだったのかは、詳しく述べられている。といっても、離婚を決意したこともある三恵子さんです。子育てに仕事にパンパンに膨れ上がっていた時、タケノブさんは、海外など単身赴任続き。「夫を更迭する」と宣言した三恵子さん。あわてたタケノブさんの「改心」で離婚が回避されたこともあった。二人で作り上げた夫婦だった。

ミボージンになってから、後追い自殺をするのでは?と息子を心配させたこともあるが、三恵子さんは、お母さんもミボージンだったおかげで、それにたいする「免疫力」が備わっていたし、ミボージンとしての生活力を受け継いでいた。また、「体の半分に夫が住み着いてしまっているのに、自殺したら、それまでもなきものになってしまう。私の中で生き続けているタケノブさんを抹消したくない」という思いでそこを乗り切ることができた。

身近な人を失って、深い悲しみの中にいる人たちを励ます力もさることながら、泣き虫だったという三恵子さんを「そのままでいいんだよ」とろうそくでポット暖かい場所を作ってくれたタケノブさんの優しさにもたっぷりと浸ってしまうこの「ミボージン日記」を皆さんにお勧めしたい思いでご紹介しました。






デフレの正体

2010、6     藻谷浩介著、角川新書

コスタリカへの道中で、感動して読み終えた「デフレの正体」(藻谷浩介著、角川新書)をご紹介しますね。

この本は、去年6月に出て、半年で13刷まで行っているほど売れているようなので、すでにお読みになった方もあるかと思います。著者は、以前、南魚沼市で講演されたことがあり、日本政策投資銀行の職員です。さらにわかったことは、以前私を長野県北御牧村(現東御市)の中学校に呼んでくださったPTA役員だった方の弟さんだということが分かったのでした。とってもわかりやすい本で、提案がちゃんと出ています。そして、ここに出ている様々な数字は、全部公表されているものばかりで、政府のHPで取り出せるものだそうです。

この本の中で主張していることは、今の不況は「デフレ」なのではなく、内需が、縮小しているだけ。輸出もそんなに減っているわけではないし、労働力が足りなくなっているのは、団塊の世代が、大量に定年になっているからであって、それ以外ではない。失業率だとか、有効求人倍率だとかに惑わされず、就業者数、を考えたら、生産年齢人口こそが問題なのだと。

ということで、どんな対策が提案されているかというと、3つあります。

 1、高齢富裕層から、若者への所得移転

 2、女性の就労と経営参加を当たり前に

 3、労働者ではなく、観光客と、短期定住客の受け入れを 

そのやり方ですが、かなり納得のいくものです。

 1、団塊世代が退職すると、かなりの人件費が浮くことになるので、それを、子育て世代への人件費または、福利厚生費に充てる。子育て世代にこそ、内需拡大の芽があるのですから。人件費が減った分を商品価格を下げることでたくさん売ろうとする、それは、子育て世代を長時間労働と非正規社員という形で締め上げることによって、コストダウンを図るのと同じで、どんどん内需が、減少してしまうのです。

それから、高齢者が買い求めたくなるような商品の開拓。

 さらには、生前贈与のすすめ。これには、相続税がかかる対象を増やして、生前贈与したほうがいいと選択されるようにする。現在の相続する人の平均年齢は、67歳。こんな年齢の人たちは、それを内需には回さないで、また貯蓄してしまう。もっと若い人に回すためには、このようにすればというのです。

 2、生産年齢人口の中の有償労働をしていない女性は、45%で1200万人もいる。この方々が、有償労働に就けば、団塊世代の退職分を十分カバーできる。そして、若い女性の就業率が高い県ほど出生率も高い。世界的に見た明らかに日本が低い、女性の就業率と経営参加率を上げよう。それは、企業にとっても利益になる。

 3、生産者ではなく、消費者を外国から呼んでこようということ。観光収入は、世界で28番目。観光業というのは、農業、製造業、建設業、不動産業、金融業、、サービス業まで含めた総合産業だという。公的支出の費用対効果が極めて高いのが、観光業。スイスを見習え。

とっても納得がいく事ばかりでした。まだ読んでない方々に是非と、お勧めしたいです。






丸腰国家〜軍隊を放棄したコスタリカ60年の平和戦略〜

   2009,9    扶桑社新書    著者  足立力也

2月3日に日本を発ってコスタリカに行くことになっています。チケットも届きました。行く人たち9人のmlができて、お互いに自己紹介をしあったり様々な情報を共有したりしています。

私のとって二冊目のコスタリカ本「丸腰国家〜軍隊を放棄したコスタリカ60年の平和戦略〜」を感動しながら読み終えました。

そもそもかなり昔から、軍隊はいらないという思想系譜がこの国にはあったそうで、1948年12月1日軍隊廃止式典が行われ、1949,11,7新憲法が公布された。第12条 「恒常的組織としての軍隊は禁止される」この憲法は、国会議員の3分の2で変えられるので、かなりの回数改定されてきたのに、12条は変えたことがなかった。

「軍隊がないことが最大の防衛力」この言葉を全世界に広げたい思いに駆られます。軍事力以外のあらゆる外交努力があってこその軍隊廃止なのです。様々な試みがあるのですが、私が最も感動したのは、女性の力です。コスタリカの周りニカラグア、エルサルバドル、グアテマラなどラテンアメリカでは、内戦が絶えません。たいていは、USAがからんでいます。その中で、コスタリカがリーダーシップを発揮するのです。あるときこんなことがありました。1986年に大統領になったアリアスは、積極的中立宣言を無視し続けたアメリカ(当時はレーガン大統領)にとうとう認めさせることになったのです。その過程で、アリアスは、「中米特命大使」というポストを作って、そこに軍隊を廃止した時の大統領フィゲーレスの妻オルセンを任命。オルセンは、中米各国のファーストレディーをコスタリカに招いた。そこで彼女はこう言った「内戦をしている国では、あなたの子どもが一番命を狙われているのですよ」そして「身の危険を感じている母子は、コスタリカにおいでください」このような外交力によって、中米でのリーダーの地位を築いたのでした。レーガンもコスタリカの中立宣言を認めざるを得なくなり、和平交渉が成立したのでした。

コスタリカの「話し合いで解決していく」という価値観は、中米諸国に輸出されている。そういう意味でも、コスタリカは、中米のリーダーなのだ。

国会の中にマハトマ・ガンディーの言葉が掲げられている。「平和に至る道があるわけではない。道こそが平和なのだ」

日本と同じようにコスタリカでも格差が広がって、政治家の腐敗もあり、国民の政治への信頼が減少してきて、選挙の投票率も落ちてきている。(といっても65%ぐらいだけど)それに対しては「平和とは終わりなき戦いなのです」ということらしい。

しかし、なんとこの本を出したところは、扶桑社です。固定観念で見てはいけないのね。扶桑社といえば、「新しい歴史教科書」という私たちから見たらひどい本を出すところだと思い続けていました。この本をもっともっと日本中に広めていきたいと強く念じました。








平和ってなんだろうー「軍隊を捨てた国」コスタリカから考える

   岩波ジュニア新書   2009、5,20     著者 足立力也

私の年賀状での呼びかけに応じて、3人の方がコスタリカへの旅に参加されることになりました。おかげさまで、6人という制限を突破することができて、今のところ8人の旅という感じです。その3人の一人は、うちの町の農業をしている友人の娘さん小沢陽子さん(29歳)です。こんな若者がいってくれるというのは、本当にありがたい。小沢さんのご両親は、都会の子どもたちのために田んぼを一枚作って、そこで、田植えや、稲刈りを体験させてくださっている方々で、私の孫たちも毎年大喜びで参加しています。もちろんこの行事は、小沢さんご夫妻のボランティア精神に基づくもので、稲刈りが終わるとしばらくして、そこで取れたお米を届けてくださるという念の入れようです。

さてそれで、その旅の予習をはじめたのですが、まずはじめに今回の旅のコーディネーターである足立力也さんの著書「平和ってなんだろう」−−「軍隊を捨てた国」コスタリカから考える、岩波ジュニア新書、を読みました。若者向けに書かれているだけに、とってもわかりやすく、コスタリカの歴史から現状(2009,5,20刊)まで、書かれていました。

この本の中で一番印象深かったのは、2003年3月のイラク戦争に関する事でした。私たちは、日本で、イラク戦争に反対するという意見広告を新聞に出す取り組みをしました。ニューヨークタイムスにも出しました。これらは、どんな成果があったのかわかりません。ところが、コスタリカでは、すごいことがあったのでした。このことを知らなかった自分を恥じました。

コスタリカでは、当時の大統領が、アメリカへのモラルサポートを表明し、有志連合33カ国のリストが発表された。それに対して、国民は激怒し、何人かの人々が憲法裁判所に提訴した。その中の一人コスタリカ大学の法学部の学生ロベルト・サモラは、本人訴訟(弁護士を頼まない)で臨み、なんと7人の裁判官全員一致で、「違憲」との判決が出されたのです。その結果がまたすごい!この判決には、拘束力があり大統領は、米国支持を撤回し、その後大統領の出身政党は敗退するのです。

この国の裁判制度も変わっています。最高裁判所には、家庭、民事、刑事の3つの法廷のほか、1989年に第4法廷というのができた。またの名を憲法小法廷と呼ぶ。ここは、違憲訴訟だけでは、なく、もう少し広い「人権」とか、国際法とかも扱い、一番すごいのは、提訴する人の「適格性」を問わないということです。子どもでも、外国人でも原告になれるのです。これができた当時は、使い勝手がわからなかったようですが、だんだんにその効力がわかってきて、今では、年間15000件以上の裁判が行われているという。ここでの判決は、何よりも強固で覆すことができないものだということでした。

それから、次に印象深かったのは、刑務所の在り方です。コンクリートの壁はなく、金網が張ってあるだけ。そして、中での生活が、「罰」を与えるというよりは、「教育」する所、という考えで作られている。罪を犯したのは、「人権」などについての考えがなかったからで、それを知れば、罪を犯さなくなるだろうという考えに基づいているらしい。「北風より太陽」が刑務所の中で実現されているようだ。

とはいえ、コスタリカが、楽園というわけではなく、貧富の格差が広がっていたり、いろいろと問題はあるという。そこまで含めて、自分の目で見てきたいと思う。





「聞き書き〈ブント〉一代」

      2010、10、25   世界書院刊 石井暎禧、市田良彦著、

「聞き書き〈ブント〉一代」は、本の帯にかの有名な鎌田實がこう書いています。「バリバリの左翼から、凄腕の病院経営者へ見事な変身。時には左翼と、時には闇の権力と、時には日本医師会と闘ってきた実践家。よく生き延びたなと思う。すごい!」

さすが鎌田さん。短い言葉の中に石井暎禧のたどった足跡が見事に表現されています。60年安保のころの学生運動の指導者であった石井暎禧が、語ったものをそのまま書きつづってくれたのが、市田良彦。石井暎禧は、黒岩卓夫の同級生。卓夫が私から逃げるときには、石井家を隠れ家にしていたほどの仲ですから、私たち二人、石井家には、足を向けて寝られない!

2005年から、2007年の2年間彼は、中央社会保険医療協議会(略して中医協)の診療側委員となって大活躍したことは知っていますが、何故に彼が、その委員になったのかなどほとんど知りませんでした。もともと川崎で、お父さんが、産婦人科の診療所をしていたところに関西から、事務長になる人を呼んで、川崎幸病院という産婦人科の病院を作り(1969年)、ここから病院経営者の腕を発揮していきます。

その後、埼玉県の狭山に狭山病院を作り、まだ制度化されていない時期に個室の特養を作ります。また、働きながら人工透析ができるようにと、夜間の透析を始める。地域医療の最前線。ちょうどそのころ、黒岩卓夫は、ゆきぐに大和総合病院を立ち上げて往診もする、訪問看護ステーションが中にある病院を作っていました。この本によれば、石井、黒岩、が地域医療研究会を作り上げたということになっています。昔の「医学連」仲間に呼び掛けて亡くなった今井澄なども中心メンバーになっています。その後、卓夫は、病院を辞めて、診療所を作り、在宅医療の全国組織に発展させていくのですが、この地域医療研究会の中から作っていったとあります。ちょっと違うと思うけど。

石井は、病院経営を通して、地域のニーズにこたえていきます。その力量が注目されて中医協にはじめて病院側の委員として入ります。それまで、医者は、日本医師会の人(つまり開業医)だけが入っていて、患者側の要求など無視して、単に開業医の利益追求に走っていたことから、もっと国民全体の観点で(つまり患者医療者双方のことを考えて)医療政策に取り組むように改善していく突破口を切り開いたのでした。その原動力が、「理論に憑かれたブント」だったそうで、彼の理論がまわりを説得し、方向性を決めていきます。

その理論とは、ひとつは、病気を急性期と慢性期に分ける。急性期は、高度技術を備えている病院で、慢性期になったら在宅で、ということで、実際にその体制を整える。そしてもうひとつは「医療」と「介護」を分ける。医療保険の改定で、どんどん需要が膨らむ高齢化社会に対抗するために医療費を抑制しなくてはならない。そのために、社会的入院を減らそうということで、療養型病床なるものが作られる。これは、介護と医療にまたがるもの。医療の対象でなくなった人は、家に帰って介護を受けるだけでいいはず。ところが、帰れる家がない、または、帰っても介護が受けられない、そんな「介護難民」の生活の場として作られる。そのころ、石井は、今井澄のパーティーで知り合った滝上宗次郎(当時有料老人ホームの社長、つまり介護畑)と組んで、医療保険介護保険、両方の改定に乗り出します。

実際には、狭山で病院を作ろうとしたときには、「過激派病院は来るな!」とがなりたてる右翼街宣車との戦い。これには、高校で同窓の加藤紘一(当時防衛庁長官)と防衛庁で並んだ写真を撮って、撃退。など様々なハードルを越えて、建設される。その戦いぶりは、政治運動で鍛えた腕がそのまま利用されている。

彼の理論と実践が、いかに日本の医療介護政策に影響を与えてきたのか、読み応えがある本でした。






  「国境に宿る魂」

     2010、10,1   世織書房刊  黒岩揺光著

 4男揺光が、こんな本を出しました。私も少し書いています。「教えないで育てる実験結果」として。

 新潟日報の書評欄を転載しますね。
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 書評「にいがたの一冊」黒岩揺光著「国境に宿る魂」

 世界中どこに行ってもグローバリゼーションの影響からは逃れられないと言われる。米国発のカフェやバーガーショップ、韓国製の家電は洋の東西を問わず見られる。ところが、こうした現代社会においても「世界標準」化から閉ざされた「街」がある。陸続きの国境をもたないわれわれ日本人には想像し難いが、数千から数万人もの人々が暮らす難民キャンプが国境沿いに散在している国がある。

 タイにはミャンマー(ビルマ)との国境沿いに9カ所設けられており、ミャンマーの少数民族が生活している。うち最大と言われるキャンプには3万人以上のカレン族が暮らしており、そこはキャンプというよりも街と呼ぶに相応(ふさわ)しい。もちろんマックやスタバはないが、人々は市場を営み、子どもたちは小中学校や高校に通い、民族存続のためのリーダー養成校まである。

 「国境に宿る魂」には、こうしたキャンプで調査をしたり、ボランティア講師をしたりした著者と難民との日々が綴(つづ)られている。著者は1981年に新潟で生まれた戦後世代。本書には、なかなか報じられない難民キャンプの貴重な情報であると同時に、「平和な国、日本」で育まれた著者が「民族のために命を捧げる」難民との出会いを通して自己変容していく軌跡も描かれている。民族とは、国家とは、国境とは何か…。さほどの強い愛情を「日本民族」に抱いたことのない著者は、自民族に誇りを抱く難民の人々との生活を通して彼らに羨(うらや)ましささえ感じるようになる。

 本書の後半は、著者がボランティア教師として民族のリーダー養成学校で過ごしたカレン族の青年たちとの日々がつぶさに描かれ、読者を閉ざされたキャンプの内側へと誘う。カレン族といっても20以上の異なる支族に別れ、信仰もキリスト教や仏教など多様である。日本の暮らしからは想像し難い多様な人々との生活の中で当たり前が当たり前でなくなる日々をくぐり抜ける筆者の姿はたくましい。

 日本の若者の「内向き志向」が指摘される昨今である。著者のように悩みながらも自由闊達(かったつ)に生きている若者は頼もしい。こうした若者はどうのようにしたら育つのか――そんなことを思いながら読み進めると、巻末まできて納得した。そこには著者の母親による付記が掲載されており、著者がユニークな教育「実験」の結果であったことが明かされている。説得力のある教育指南書としてもお薦めの一冊である。

 永田 佳之(聖心女子大学准教授) 
■世織書房(2520円)






「国をつくるという仕事」

2009,4,20  西水美恵子著(英治出版)

西水美恵子著「国をつくるという仕事」(英治出版)を息もつかずに読み終わり、感動に浸っています。こんな女性が日本にいたのか。その驚きが一番です。11月10日に長岡に彼女の講演を聞きに行くまでその存在を知らなかった。

世界銀行が何をするところかも知らなかった。この本を読んで圧倒された。世銀(世界銀行)との付き合いにあたって、貧しさを自分の目で見てくるように、と言われて行ったエジプトのカイロ郊外の貧民街。そこでナディアという幼女を看護疲れの母親から抱きとったら、そのまま腕の中で息を引き取った。1980年のこと。彼女は、民の苦しみなど気にもかけない為政者の仕業、と直感する。そこで貧困と闘う世銀で働くことを選ぶ。この幼女ナディアが彼女の活動の原点に。彼女の父は言った。「教壇の神職から、金貸しになり下がるのか」彼女は、大学助教授から、世銀に移った。

彼女の容赦なしの戦いぶりは、ぜひ読んでください。横領などによって私腹を肥やしていることを突き止めたらすぐに世銀からの融資をストップする。パキスタン、バングラデシュ、ネパール、それらの草の根を足で歩いて、その悪政を知る。同じ女性であるということにも頓着なくブットパキスタン首相には手厳しい。

草の根を歩いて一番感動したのは、ブータンだという。そしてそれは、歴代の王のリーダーシップによるところ大だという。ブータン王3世は、自ら設立した国会を次の言葉で叱る。「私の行為を批判せず、私の誤りに対して盲目になっている」この王を父として持つブータン王4世。「国民総幸福量」の名付け親はこの4世。GDPに変わる世界の指標だ。GNHともいわれる。2007年には97%の国民が「自分は幸せ」といったことを以前書いた。

「人の上に立つは下にいること」と知る謙遜、人を引き付けるビジョンと情熱、右へ倣えせぬ勇気、異なる視点や反対意見を重んじる寛容、ほれぼれするほどつながる頭とハートと行動、真の力は自ら権力を放棄してこそ授かるものと熟知する人徳。

これが、西水美恵子のリーダーシップの条件。そんな人はいないと思っていた彼女の前に現れたのが、ブータン王4世。すべてを持ち合わせている! 国民が寒さの中にいるなら、自分も暖房なし。そんな王様だから、国民も似てくるのだろう。

西水美恵子も実は、同じような人。水がない地域に行ったら、脱水症状と闘いながらも、ボトルの水は飲まない。

リーダーには引き際が肝心、とは二人の共通の生き方。西水美恵子さんは、23年いた世銀を、定年を待たずに退職した。ブータン王4世は、自ら王様の65歳定年制を敷いておきながら、53歳で、退いた。

最後に、アフガニスタン復興のための会議場での西水美恵子の演説を紹介する。

「インド建国の父ガンジーが残した言葉がある。『私は、真実以外、外交の術を知らない』この教えに謙虚に従い、真実を言おう。もし援助界がアフガニスタンの復興を主導したら、援助は、問題解決の術ではなく、問題そのものになり下がるだろう」

 

 

 

 

「世界で仕事をするということ」

2004.11.24   PHP研究所  グロ・ブルントラント著

元ノルウェー首相、元WHO事務局長、グロ・ブルントラント著「世界で仕事をするということ」を感動をもって読みました。堂本さんが、ブルントラントさんから贈呈されたと知らせてくださったおかげです。

小さいときからの家庭環境から始まっている。グロが生まれたのは、私と同じ学年1939年、ヨーロッパでは、ナチスの脅威がはじまりかけていた。医者で、政治家だった父親がナチへのレジスタンス運動に参加していたために、追われる身となり、スウェーデンでの難民生活。戦争が終って、小学校に入学、母親も父の活動を理解する働く女性。

小学校の時、先生から、「大統領と国王、どっちがいい?」と聞かれて、ほとんどのクラスメイトは「国王」と答えたのだが、彼女は「大統領。国民が選び、ときによっては取り換えることができ、民主的」と一人だけ答えた。そんな彼女の「正義感」は、幼いころから芽生えていた。

医学部に進学して、彼氏ができ、結婚。4人の子どもに恵まれる。中学、高校時代から、社会問題に関心持つ。中絶の権利、性教育、などで意見を述べていたことから、環境大臣に任命される。北海沖油田原油流失事故の後始末を高く評価され、その後国会議員となり、最年少の首相となった。10年間の首相在任期間で女性にかかわる問題はかなり前進し、閣僚も女性が半分近く占めるなど、「男が首相になれるの?」と小学生に言われるほど、ノルウェーでは女性首相が、あたりまえになってしまった。

ところが彼女の在任期間に大変なことに直面する。4人目の子どもヨルゲンの自殺!

うつ病という診断ができなかったらしい。25歳で亡くなり、ブルントラントさんは、ご自分も医者であるにもかかわらずうつ病という診断はできなかった。14歳で異常に気がついたにもかかわらず18歳で兵役に就く。精神科医にもかかっていたのに、慢性うつ病とは言われないままとうとう最悪の結果になってしまった。

私は、この本を読んで、もっといろいろなメッセージが込められているというのに、このヨルゲンの自殺、ということが、あまりにも強烈に飛び込んできて、私の頭はそれでいっぱいになってしまった。自分をそこに投入した時、私は生きていけるだろうか? そのことが一番重たい問題として残ってしまった。才能が豊富な母親のもとに生まれた子どもの運命だとして片づけられない深い悲しみに覆われてしまったのです。

その後、深く悲しみに暮れたのち、首相をやめ、その後、国連のWHO(世界保健機構)の初めての女性事務局長として、活躍し、世界の女性にとっての希望を実現すべく精力的に活動してきた足跡がたどれる本でした。







「完全な人間を目指さなくてもよい理由」

2010,10,13    ナカニシ出版刊、 マイケル・サンデル著

                         林芳紀、伊吹友秀訳

 熱血授業で今テレビをにぎわしているハーバード大学のサンデル教授の本です。「遺伝子操作とエンハンスメントの倫理」という副題が付いています。ナカニシ出版、2010,10,13初版、10月19日第2刷

 実は、この本は2007年に出たものを日本語に訳している。訳者によれば、まだ、著者が今のように有名になっていないときに、翻訳を始めたとのこと。訳者の一人は、鈴懸施設長の広田セツ子さんの二女愛さんの夫であるため、広田さんから頂いたものだ。読み始めたら面白くてやめられない。東大での講義に学生たちが、食いついたということがよく理解できる本だった。 

 ことの始まりがこうなっている。同性愛の女性カップルが、二人とも聾で、自分たちの子どもも聾であってほしいから、聾の男性の精子をもらって人工授精で聾の子どもが産めた、という話だ。このことがワシントン・ポスト紙に掲載されるや、その是非について議論が巻き起こったという。

 また、人工授精による子どもの出産に関して、知能や、ルックスなどについてある条件を課したうえで、多額の謝礼を積むことによってその条件をクリアした卵子や、精子をもらうということの是非はどうだろうか?

 エンハンスメントとは、遺伝子操作などによって増強することだという。病気の治療で、身長を高くする薬がある、それをバスケットの選手が飲んだらどうなのか? 筋委縮症の人の薬であるドーパミンを飲んで、筋肉増強を図ることは、スポーツ界では禁止されている。

 「教育ママパパ」による様々な操作、親の過干渉は、「贈られもの(ギフト)としての生」という感覚を見失う。そこには、優生学の不穏な足音が忍び寄ってくる。20世紀初めには、アメリカで、精神病患者、囚人、貧民などに対する断種法ができて、29の州で、6万人以上が断種され、司法もそれを正当化した。そんな「優生学」が世界に広まってヒットラーのガス室が出現したことでようやくそのことの恐ろしさが、人々に理解されるようになった。

 とはいえ、まだまだ「ギフトとしての生」がそのまま受け入れられているとは言えない。子どもの出生から、「設計すべき」と考えている親は様々な取り組みをする。大金をかけて精子や卵子を購入したり、スポーツ選手や、出世させるために大金をかけて「教育」する。

 だけど、それってもったいないのでは? と問題を提起する。

 子どもが生まれることによって、親は、招かれざる者への寛大さを教えられ、子育ては、謙虚さを学ぶ格好の機会である、という。本当にそうだと思う。私などは、たぶん神様が、「7人ぐらい与えておかなくては、謙虚さが学びとれないだろう」と配慮して下さったのでは? と考えている。

 「受容の愛」と「変容の愛」という概念を提起している。これは、前者が「生まれおちてきた子どもをあるがままに受け入れる」であるのに対して後者は「子どもが成長していくのをサポートする」ことだという。「受容の愛」だけでは足りない、という問題を出してくれている。

 子どもを育てている人たちには、是非一度読んで、と勧めたい。

 

 

ぶどう畑の笑顔―こころみの実践が自閉症の子供をかえた

   1982、初版    大揚社刊   川田昇著

 「活動報告」2010,10,13にご紹介したこころみ学園の創始者川田昇さんが書かれた本の紹介です。大揚社が、1982年に出しています。いやはや驚きました。すさまじい本です。1995年の10刷り版をアマゾンの古本屋で買いました。

 自閉症だと言われ、たくさんの問題行動を起こす子どもさんたちが、特に指導などするわけでもなく、こころみ学園の生活を始めると日に日にその問題行動がなくなっていくのです。それを学園長の川田昇さんはこのように説明されるのでは?「汗水流して働いている人たちを見ていて、自分もやってみようと思い始め、やってみると原木運びやら、ブドウ園の下草刈りなどの重労働ができることが分かってきて、やっていると夢中になって疲れるし空腹になるので、おいしく食べられて、よく眠れる、その結果自分に自信も芽生えてきて、自傷行為だとか、破壊行為、おちんちんいじりなどをする必要がなくなるのでは?」

 「魔法をかけられていたE君」の節では、性的に目覚めてきたE君が、家族の女性にセックスを要求するということで困り果てて連れてこられた。ところが2カ月して余りの変わりように親が言う「魔法をかけたのですか?」その答えは「いえ、魔法が解けたのです。ほしいものをほしいだけもらえる環境にいたら、空腹感を持ってのおいしい食事や、疲れ切った後の深い眠りなどを奪う魔法が掛かっていた。それが解けただけです」急斜面の山を登って行って、みんなが労働をしている。腹が減ったといって、大声で喚き散らしても山の中なので、だれからも注目されることなく、食べ物はない。降りてきての食事が特別おいしい。夕方遅くまでの労働で、くたびれきって、深眠りする。ただそれだけで、おちんちんいじりがなくなるには、3〜4日だったという。

 言葉はオウム返ししかなかったS君(中学生)2カ月たって面会に来た母親に「ママ」と呼びかけて「紅茶おいしいね」と母が持ってきた紅茶のことを言った。「10年ぶりに家族の中に戻ってきてくれた」と今まで4人しかいなかった家族が、やっと5人になった。というのです。

 しかし、川田さんは、許せない行為があったときには、叩きます。「児童虐待」と人は言うのかもしれない。養護学校中等部3年の時殴った女子生徒が頭がい骨骨折で死んでしまったという事件を起こしたQ君が、9日間預けられます。ここでも、たたく、食物の入ったなべをひっくり返す、石を積んだ一輪車をひっくり返すなどがあるたび、川田さんはたたく。「子どものくせに生意気だ」それに対して、はじめのうちこそ「おチンチンでっかい」という決まり文句を大声でわめくだけだったQ君、川田さんは、どうやら自閉ではなく意地でやっていると見抜く。川田さんとの真剣勝負で、「ごめんなさい」が言えるようになり、視線も合うようになった。親がびっくりしたのは、「じっとしていられるようになった」こと。「たたく」というコミュニケーションの手段、私は、本当にその子を思っての行為であれば、そして、その方法しかないと思われるときには、許容できると思っているのです。親たちは、暴れることをさせないように、要求にすべて応じてしまった結果いろいろな行為が、エスカレートしてしまったのではと思われるのです。

 何といってもここの施設では、「こども(入園者をこう呼ぶ)が食べる物、飲むもの以外職員は口にしない」と差別なし。また、ここを作る時、志を同じくして集まってきた職員たちは、外にアルバイトにいって資金稼ぎをしたり、はじめの1年間は全員が泊まり込んで生活を共にした。地域の中に自然に存在するような関係を地域との間で作ろうと取り組んだ結果、予防注射をしてくれる医者が、夜子どもたちが寝る前(8時半)に来てくれるようになっているのがその証だと思った。注射の後、じっとしているように、ということができないだろうから、自分が夜来ればそのまま寝るだけ。とその医者が言う。地域の人たちとの数々の協働が実っている。

 男子寮と女子寮にも分けたくないと川田さんは言う。

 補助金はいらない、ほかの施設がもらえなくなるだろうから。

 などなど「非常識」であるはずの私でさえ、「何と常識にとらわれているのか」と思い知らされる本でした。






「痴呆老人」は何を見ているか

2008,1,20      新潮新書  大井玄著

 「痴呆の哲学」を書かれた大井玄さんの新潮新書、なかなか読みごたえがありました。日本文化論ともいえる内容で、とくに「ひきこもり」が、日本特有の現象だということ、そしてそれがなぜなのかわかる気がしました。

 まず、「痴呆」になることを恐れる理由として、日本人の多くは

 「迷惑をかける」−−−1、

 しかし、欧米人は、

 「自立性を失う」−−−2、

 この二つの違いは、「他者との関係」のちがいとなります。1、では、他者とのつながりが問題になるのに対して、2、は、つながりとは無関係なところが問題になっています。

 この二つのことから、「自己」という時に二通りがあることを指摘された。ひとつは、「アトム的な自己」(=自立)、もう一つは、「つながりの自己」というのです。この「つながりの自己」というのが、大井玄さんの発明品でしょう。これは日本だけではなく、アジア・アフリカ・南米に見られる文化で、欧米との決定的な違い。

 人の成長を「環境・世界とのつながりを形成していく過程」老化・痴呆を「つながりを失なっていく過程」とみることができます。この失っていく過程には「不安」が付きまといます。私は、母が認知症になってから、毎日尋ねている私に、毎日同じ質問をしていたことを思い出します。「私がここにいることがどうしてわかったの?」私が反対に聞きました。「あなたは今どこにいるの?」「わからない」が答えでした。自分がどこにいるのか分からないというこの「不安」はきっと大変なものだったに違いありません。

 他者とのつながりが紡げなかったときに世界と自分とが対峙するという関係になり「ひきこもり」(これは、英語などに訳せず、そのままhikikomoriとして使われているそうです)となり、そういう人の性格の特徴として、やさしい、おとなしい、まじめ、几帳面、正直、素直、内向的、細かい、考え深い、神経質、内気などがある。これらはすべて、日本人の長所として認められてきたもの。

 戦後日本では、それ以前の世界を「封建的」ということで、すべて否定してきてしまった。だが、鎖国という閉鎖環境の中で、循環型社会を作ってきた日本には、日本的な知恵があった。たとえば、士農工商という身分制度はあったが、それら身分の中では、かなり平等が保証されており、奴婢という日本的な奴隷制度は、ヨーロッパの奴隷と比べると、先ずその数の少なさが際立っている。日本では、征服された異民族を奴隷化せず、同胞にしている。また10世紀に「奴婢解放令」が出されたのに対して、アメリカでは、19世紀後半になってやっと「奴隷解放令」となっている。「つながりの自己」を大切にしてきた日本文化を見直そうと呼び掛けている。





文芸春秋7月号(2010年)

‘「聖少女」樺美智子の青春と死’

 吊り広告などで、「聖少女」樺美智子の青春と死、というタイトルが飛び込んできていたのでしたが、卓夫と「買ってこよう」と言い合いながらまだ果たしていなかったときに、長崎暢子さんが送ってくださいました。

 長崎暢子さんが、大口勇次郎、北原敦、との座談会を江刺昭子さんの司会でなさっています。樺さんの同級生として、長崎さんが証言されることは、胸に迫ります。日ごろ樺さんから聞いてきたこと、当日すぐ近くにいたものとしての証言、ほとんどのクラスメイトが男性だったことによる居心地の悪さ、などなど、長崎さんならではの樺美智子像が浮かび上がります。

 そして、樺さんの死因です。「圧死」として葬ろうというのが、検察をはじめとする体制側。でも、あの時に、解剖をした方や、その他の方々から、そうではないという反証が出ていたのです。私は、そのことを早くから耳にしていたので、そのことが話題になるたびに「殺された」ということを言ってきました。今回は、長崎さんが、ご自分の体験を交えて、かなり詳細に資料にあたって、反論されています。

 亡くなって、遺体が警察病院に安置されていたときに、北原さんは、当時の文学部自治会委員長金田晋さんとタクシーで警察病院に駆けつけ、遺体と対面します。ところが、その後また大勢で、警察病院に行ったときには、けんもほろろで、会えなかったとのこと。どうやら、はじめは東大文学部、と言ったので、樺さんであることを確認したくて会わせたのだろう、ということでした。実は、ちょうどそのころ、私は、「黒岩卓夫さん」が飯田橋の病院に救急車で運ばれた、と聞いて、警察病院に駆けつけていたのでした。樺さんの遺体の搬入の直後でしたが、「黒岩さん」は、厚生年金病院だと教えられてその場を去ったのでした。

 あの頃、共産主義者同盟という政党があって、その方々が、指導的な立場にいたのでしょうが、長崎さんも私も、今回の座談会参加者もその政党には属しておらず、「一般学生」として、デモに参加していたにすぎません。この座談会の中にもありましたが、女子学生が亡くなったということをもって、岸内閣が退陣に追い込まれるなどということは、これを最後に全くなくなったということですね。あれが、日本の「戦後」の終わりだったということを改めて認識させられました。

 今回の普天間の問題も、実は、この「日米安保」という体制の問題であったにもかかわらず、なかなか議論はそこに行かないまま、行く先はどこか、という問題で終わってしまったように思います。私自身、「日米安保」についての深い取り組みがないまま過ぎて行っていることに、恥ずかしさを感じます。





「堂本暁子のDV施策最前線」

新水社刊 堂本暁子著   2007,11,5発行  1800円

これはなかなか読みごたえがあります。私が、初めて参議院のボタンを押した法律が、DV防止法案だったのですが、それが4月3日で、堂本さんが、知事に就任したのが、4月5日(2001年)。この法律が、どのようにしてできたのか、そして、千葉県でそれをどのように活用していったのか、すさまじい闘いの記録といえます。私は、ボタンしか押さなかったのですが、女性議員の皆さん、福島瑞穂、大脇雅子、南野千恵子、石井道子、大森礼子、小宮山洋子さんなどが、原ひろ子さん、戒能民江さん、林陽子さん、などの民間の力を借りながら、法案を作っていった過程がつぶさにわかります。なんといっても殺されそうな被害にあいながらサバイバーとなった当事者の皆さんとの深いきずながあってこそ出来上がった法律であることがよくわかります。そして男性の方々に分かってもらうのが、どれだけ大変だったかも。

アマゾンで安く買えます。





「愛するということ」

1956 エーリッヒフロム著  紀伊国屋書店  新訳版 訳、鈴木晶

 配偶者への課題図書として絶好の本をご紹介します。我が家では、昔はよく夫に本を薦め「一生のお願いだからこれを読んで」といったものです。たいていは女性に関するものでした。1970年代のウーマンリブから始まって、女性学、フェミニズム、とずいぶんたくさんの課題図書がありました。今回は久しぶりのことです。ところが、渡した途端、予想通り「今はいそがしいから」と遠くへ片付けてしまいました。それから、様子を見ていると、どうもそれほど忙しそうではない、と見定めて、「私がお願いするの何年ぶりでしょう?」と。これで早速読み始めたのです。そのあたりから、怒り声が減ってきましたよ。夫の日常生活の変化を生みだしてくれたこの本を皆さんにも薦めたいと思います。

 この本は、1900年生まれのエーリッヒフロムが1956年に出したもので、日本では、1959年に訳が出て以来、30年間で40万部ほど売れたと書かれていますから、今では、いったいどれだけ売れたのでしょう?卓夫の読後感の第一声は「これだけの本を僕らは、なぜ今まで読まないでいたんだろう?」でした。

 原初のタイトルは「愛の技術」だったそうです。以下の二つのフレーズが、私から夫に送りたかった最大のメッセージでした。

 「愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。その中に『落ちる』ものではなく、『みずから踏み込む』ものである」

「愛は何よりも『与える』ことであり、『もらう』ことではない」

 新フロイド学派と言われているフロムのフロイド批判は、「父権主義」ということでした。男であるという彼のギリギリまでの女性理解が、彼の「愛」に違いないと思います。ただ、やはり時代の制約は、「同性愛」などへの理解には及ばなかったようでした。




「資本主義はなぜ自壊したのか」

2008,12,20刊   中谷巌著、集英社インターナショナル刊

 「資本主義はなぜ自壊したのか」(中谷巌著、集英社インターナショナル刊)をやっと読み上げました。370ぺージにわたる書き下ろしの大作です。2008,12に初版が出され、2009,3に7刷りですから、相当売れているという本でもあります。定価が、1700円というのも、370ページの本にしては、初版をたくさん刷ったということだと理解しました。

 そもそも、この本は、小泉構造改革を推進してきた著者が、そこから決別する、つまり「転向」を表明するために書いた本です。「なぜ私は転向したのか」という章があります。

 日産自動車に勤めているときに、アメリカに留学して、すっかりアメリカかぶれになってしまい、ケインズを信奉して、日本に持ち込んだのが彼。一番アメリカが輝いていた時代だったのだろう。その後、小渕内閣のときに、堺屋太一経済企画庁長官から、「経済戦略会議」に入れと言われる。官庁にあるブラックリストのナンバー1だからこそ、といわれて、そこのメンバーに。その結果「構造改革」の旗手になる。

 もともと世界でまれにみる平等社会であった日本人として、「グローバル資本主義」を見てみると、その結果生まれる格差社会は、ブータンやキューバのような「幸せ感」を持っていないということに気づく。

 ポランニー(1886〜)の「大転換」(第二次世界大戦中の著書)にある資本主義批判は、マルクスのそれに匹敵しており、「資本主義とは、悪魔のひき臼」と断じている。人間を物質的欲望に基づいて行動するもの、という土台が間違っている結果だという。「市場経済の目的は利益と繁栄、であり、平和と自由ではない」だから、平和がもたらされないのは、市場経済の必然である。

 自然は征服するもの、という考えの一神教に対して、日本では、自然と共生してきた。稲作文化は、森との共生の上にあった。森に神が宿る、と考え、森の中に鎮守様を作ってきた。縄文文化と弥生文化が共存し、仏教と神道が共存する、そういうメンタリティーが、自動車業界がアメリカをしのいだことにつながるという。また、今、環境破壊が、世界的な課題であるが、自然との共生を培ってきている日本こそが、そのリーダーシップを求められているのでは?という。

 自動車業界では、日本車は、故障が少ないという点で世界を制覇したわけだが、なぜそうなったかということが興味深い。生産工程のすべてを入札で、単価を低くするというやりかたを取るアメリカに対して、日本は、設計段階から主要な部品メーカーに対して、設計情報を提供して、共有する。その信頼関係に基づいて、製造するので、一つに部品については、もっと低価格なものがあったかもしれないが、故障が少ないことによるメリットが大きい。アメリカに言わせると、日本的な「系列」は、非効率、ということになるのだが、トータルにしてみれば、この「系列」による信頼関係が、故障が少ない製品を作っているというのだ。長期的な信頼関係こそが、日本の文化であり、それが、あらゆるところで、力を発揮している、という。

 終身雇用ということには、欧米からの批判があったが、日本では、会社の中で、情報を社員全体で共有している、そのことが、社員にとって、「おらが会社」という意識になる。「情報の非対称性」という概念がある。欧米の会社では、経営者と社員との間に、情報は一方的に経営者だけが持っている、それに対して、日本では、情報を全員が共有していることによって、信頼関係を保ち、社員が、会社のために時間外でも働く、ということにもなる。

 江戸時代に、武士道から、商人道への転換があり、この商人道こそが、日本の「安心・安全」を支えてきた。武士道は、武士集団内部における団結だが、商人道は、見知らぬ人との間の信頼関係を重視するということ。

 最後に、彼からの提案は、「ベイシックインカム」です。これは、すべての人に必要最低限の生活費を保証するという考え方で、たとえば、年齢を問わず、一人40万円を1年間に補償するという制度です。5人家族なら、200万円が得られる。この考え方は、貧しい人たち特に女性たちから提案されてきたもので、「還付金付き消費税」に通じるものです。消費税は、貧しい人たちからも、平等に取られるけど、そのうち一定額を還付するようにすれば、貧しい人ほど還付の率が高くなる。その一定額が、ベイシックインカムということになります。はじめて、このベイシックインカムという概念に出会ったとき、かなり驚きましたが、だんだんに、これだなあ、という気がしてきました。

 中谷巌さんの本の中で、一つだけ疑問が残りました。それは、日本は、「一国家・一文明」である唯一の国、と書かれていたことです。アイヌの方からは、承認されないのでは?と思ったのでした。

 しかし、この本は、かなり考えを変えさせてくれた本として、みなさんにお勧めしたいと思います。




「差別と日本人」

野中広務、辛淑玉著、(角川新書)   2009610

この本を心して読みました。辛淑玉さんの書かれたものは、何冊か読んでいますが、野中さんのことはほとんど何も知らなかったので、一つ一つの情報が大変貴重でした。そして、自民党の中にもこんな人がいたんだという驚きでした。

私も、ずうっと昔から女であるというマイノリティーを大変意識して生きてきたので、部落というものにも特別の関心を持ってきました。辛淑玉さんは、よく知っていて、尊敬しているし、その対談相手が、部落の方とあっては、読んでみなくては、と私としては珍しく誰にも勧められたわけではないのに、購入しました。

部落解放同盟、という名前を聞くと、皆さん何らかの像が浮かぶのではないでしょうか?「怖い」、「汚い」・・・・もちろん汚いというのは、やり方のことを言うのですが、たぶん、野中さんが、当事者として努力されたのは、この「汚い」と人から思われる部分を是正することだったのでは?辛淑玉さんが言うところの「美しい被害者なんていない」という現実は当然、被害を受ける分だけ被害者意識が、「攻撃性」に転嫁されたり、みじめになれば、その分だけ「こすからく」なるし、・・・・いろいろの衣を着てしまうに違いありません。それなのに、この野中さんは、それを是正しようとして、いろいろなところにアタックしていって、たくさんのネットワークを作りだしてこられたのですね。

一番心に残っているのは、ハンセン病の方々とのつながりです。私は、厚労委員会でご一緒した坂口大臣が、「控訴断念」を小泉さんに迫ったのだと思っていましたが、その道を付けたのが、野中さんだったということを知りました。ハンセン病の原告団は、野中さんにお願いした。野中さんは、公明党の議員で、医者の福島豊さんと一緒に坂口さんに会いに行くようにと勧めたとのこと。自分は反小泉だから、小泉は野中の言うことは聞かないということで、迂回作戦をしたんですね。

そのあとがまたすごいのです。辛淑玉さんが、「でも在日は、そこには入れなかった」というんです。これに対して野中さんは、「あ、そう?いや、それは知らなんだな。自分で解決したと考えていても、大きく欠落しているものがあるんだね。恥ずかしい思いがする」というのです。立派だと思いました。

こんな野中広務が、これから生涯をかけて、日本の戦後未処理問題に取り組むと言っています。これは本当にありがたいこと。慰安婦の方々の問題も、「日韓条約でけりが付いている」という言い方ではぐらかされたままになっている。そこを「これから大人になっていく若い世代に残さないようにきちんと処理するということをこれからの課題にしたい」と述べています。今すでに84歳になっているのに大変な元気です。ぜひ完成させてほしいと願っています。

辛淑玉さんが、途中に解説を入れて実にわかりやすく仕上げています。マイノリティ当事者同士の語らいの世界に浸ってみませんか?




「精神病院を捨てたイタリア、捨てない日本」

     岩波書店  2009,10,6刊  大熊一夫著

 著者からの献本として送られてきて、さっそく読ませていただきました。週刊金曜日に連載していたものにかなり手が加えられていました。全体の構成としては、日本の精神医療のひどさ(大和川病院、宇都宮病院など)が第1部で披露され、第2部から、著者が見てきた外国の事情が紹介される。3,4部は、精神病院(マニコミオ)をなくして、地域での支援体制を作り上げていったイタリアの感動的な物語、5部では、日本で、同じ方向を目指して頑張っている人々を紹介する。という構成。

 1963年、アメリカでは、ケネディ大統領が、巨大州立精神病院をなくして、地域に精神保健センターを作ると宣言。そうして実際に精神病院は大幅に縮小された。だが、そのあとの地域ケアの体制ができないままに、ケネディは暗殺され、ベトナム戦争の泥沼化、などが相まって、退院した人たちが大量なホームレスとなってしまった。地域での支えがないままに精神病院をなくしたら悲惨な結果になるということを世界に教えてくれた。

 カナダのブリティッシュ・コロンビア州は、お隣のアメリカの教訓を生かして、地域で精神病の人々をサポートするコミュニティ・ケア・チームや退院してきた人々の住宅を用意した。こうした受け皿を整えたうえで、入院者をどんどん減らしていったのだった。隣同士の国でありながら、「自己責任」「民間での自由競争」が重視されるアメリカと、社会保障制度を国の基本に据えたカナダとの違いは、くっきりとしていた。

 イタリアでは、改革の中心になる精神科医のバザーリアが、14年間の大学での勉強を終えて、1961年にゴリツィアの精神病院の院長に赴任した。そこは、日本の不良精神病院でおなじみの手足を縛ってほっておくといった情景が当たり前の世界。バザーリアは、「やめるか、改革か」の選択を自分に課す。彼の選択はもちろん「改革」だった。同志もすぐに集まり、病院解体に取り組む。著名写真家を内部に招き入れ、マニコミオ内のあらゆる風景を写真集として出版し、世の中にその実像を公開した。そのうえ、テレビ局の記者とカメラマンにも同じことをさせてドキュメンタリー番組を作らせ、最後には、自ら告発本を出版。バザーリアは一躍有名人になった。

 1963年から68の5年間で、ゴリツィア病院の入院患者は、800人から300人に減った。ところが一人の入院患者が外泊中に妻を殴り殺すという事件が起きて院長も共犯者にされる。裁判では、無罪となったが、院長は首になる。ところが、トリエステ県はバザーリアを県立マニコミオの院長として迎える。イタリアの最東端に位置するこのトリエステが、イタリア精神医療改革のメッカとなった。
バザーリアは「就労のための生活協同組合」を結成して、入院中の患者たちが作業療法の名のもとにやっていた無賃の清掃業務を、給料の出る労働に変えた。

 彼は、ある数の患者を退院させると、それに見合った職員を院外に出した。その新しい医療・福祉の拠点として、精神保健センターを数か所設置した。こうして、かつては1200人もの入院者を抱えていた病院は、1978年ころにはほぼ空になってしまった。

 医者と患者の関係は、「君」「僕」の関係となった。
トリエステは、精神病院なしでも重い統合失調症の人々を支えうることを証明した。精神病院をなくしても、精神病の人々の犯罪が増えないこともわかった。

 1978年、イタリアのすべてのマニコミオをなくすための法律180法が成立した。トリエステやアレッツォは、1980年には、マニコミオを完全に閉めた。しかし惰眠をむさぼる州も少なからずあったが、これも少しずつ改革が進められて、1999年3月、国の保健省は全マニコミオの閉鎖完了を宣言した。こうして、シチリアからアルプスまでの全土に、とにもかくにも地域精神保健サービス網が敷かれた。地球上で初めて、精神病院のない国が出現した。

 ここに至るまでの数々のドラマが、著書の中にちりばめられている。

 最後には、日本で、「脱施設化」を目指して活動しているさまざまの試みも紹介されている。以前詳しく報告した「べてるの家」(北海道浦河町)のほかにも、東京都台東区での浜田クリニックの実践や、北海道十勝地域での門屋充郎たちPSWの方々の実践などが紹介されている。

 日本も180法のような患者さん本位の法律を作って、精神保健の体制を根本から変えていく時期に来ているということを痛感させられた。いまの日本に一番必要なのは、精神病棟の大幅削減と、精神病の人々が地域で暮らすための社会資源だろう。せっかく政権交代したのだ。目の覚めるような政策を期待しよう。




「病いの戦後史」

        1990,3,20     筑摩書房 向井承子著

 この本は、彼女の個人的な体験を織り込みながらの大作です。以前から、彼女がたくさんの病気を体験してきたらしいことは聞きかじっていましたが、ここまですごいとは、想像できませんでした。ご本人のみならず、二人の息子さんも、ご両親も、よくぞここまで、と驚いてしまう病気の数々!

 そしてそのどれもが、そこからたくさんのことをくみ出すことができる体験なのです。といっても、そこが向井承子の向井承子たるゆえんでしょう。さまざまなネットワークや、図書館などを使いこなして、それらの体験を普遍化してしまうのです。

 一番印象深い記事は、彼女が「瀕死」となった体験でした。「脳死は人の死」と法制化するための臓器移植法改正案(A案)が衆議院を通り、「脳死は人の死」がまるで常識のように言われていますが、彼女の体験を知ると、疑わなくてはと思い始めます。

 33歳の時、卵巣出血で、2600ccの大量出血。彼女の体重から行くと死んで不思議はない量なのだ。出血多量で亡くなった方の出血の量がそれよりも少ないことを聞くたびに「命拾い」に感謝したという。なによりも、ICUでほとんど死んでいるようにしか見えなかったというからだの内側で、自分になにが起きているのかとか、子どものこととかをさかんに心配している。彼女は外からは瀕死に見える人のからだの中で活動する意識を体験しているのですね。

 この体験があってこそ、彼女は現在の臓器移植法ができる時に「臓器移植を急いで立法化しないで」という趣旨の会を田中喜美子さんたちと一緒に立ち上げて、ほとんど「脳死を人の死」と決まりかけていた法案に「待った」をかけて、いまの法になったのです。

 今回、衆議院を通ったA案では、「脳死は人の死」ですが、これまでは臓器提供の意思表示ができないからとか、脳死の判定が難しいとされていた子どもの臓器についても家族の意思だけで、取り出し可能になる法律です。向井さんは、アメリカの臓器移植事情も調べに行き、「脳死移植はどこへゆく」(晶文社)という本を書いていますが、交通事故とか移植に適した新鮮な臓器の持ち主が死にかけると、関係機関がそれこそ連携プレーで臓器を取り出す準備に入るのには驚いていますね。そのことを国会の公聴会でも話しています。

 社民党政調会長の阿部知子さんのMMにはこんな情報があります。

 >脳死後の長期生存例も各国で報告されている。とりわけ小児ではその傾向が強い。脳死・臓器移植に関しては安易に脳死を人の死という判定基準だけに頼るのではなく、それぞれ国の社会的合意によって移植医療が進められていることを知っておくべきである。

 ところで、この本が出たのは、1990年。だから、介護保険など全く考えられてもいない時期のものです。たぶん、介護保険を作ろうとしていた人たちにとって、後押しをしたに違いない資料を提供する本だったことでしょう。ご両親が相次いで、要介護者となり、病気になってくれて初めて、入院でき、託老の機能を病院に頼める。ところが、この入院がまたひどいことを誘発します。いわゆる乱診乱療を招くのですね。

 お母さんがまだ若かった頃ですが(1960年)、抜歯した傷跡から、血が流れ出して、洗面器にたまっていった。病名は、高血圧と、高脂血症といわれ、たくさんの薬を飲まされながら、どんどん具合が悪くなっていく。国民皆保険がなかったころで、どんどん医療や薬に使うお金が高くなって、もうこれ以上は出せませんというと、「これは、まだ一般にはつかわれていないけど、見本だからお金はいりません」と言われて、新薬をもらった。難病奇病といわれ、どんどんいろいろな薬を飲み悪くなるばかり。転居して、医者を変えたら、その医者から、「こんな薬を飲みませんでしたか?」と言われ、いくつも飲んでいた薬の副作用と合致する症状があったことがわかった。「医原病」だったという証明はできないが、薬をやめたら治ったという事実もあるのです。

 予防注射にしてもそんな怪しげなことがあった。たくさんの予防注射が、法律によって義務付けられていたが、予防注射で死者が出て、緩和された。日本が、中国でやったような人体実験をアメリカが日本でやってきたのでは?と書いてあった。インフルエンザの予防注射、我が家では、ほとんど子どもたちに受けさせないできたのは、毛利子来さんとのつながりによるものです。「年寄りに予防注射は必要かもしれないけど、病気をしては、体を強くしていく子どもたちには、予防注射は最小限に」との主張に共感しました。

 向井承子さんは、心臓の治療を受けながら、二人の子どもをほとんど1年違いの年子として生んだ。流産も、中絶も体験しながら、周囲の反対を押し切って彼女の意志で生んだ二人の子ども。二人ともいろいろな病気で、入院したし、診察を受けたりして、それがもとになって「小児病棟の子どもたち」の本ができてきた。彼女の本は、いつも、とっても厳密に資料を集めて、客観的に描かれているのだけど、底にあるのは、彼女の体験。だから、とっても読みやすい。

 ICUのこと、病院でのお産のこと、まだまだ沢山の先見的なテーマがありますが、ここら辺でやめておきます。




アメリカにおける被曝実態

「放射線の衝撃ー低線量放射線の人間への影響」    1991,10,25

「死にいたる虚構ー国家による低線量放射線の隠蔽」  1994,10,22

 「日本は唯一の被爆国」という言葉は、この本を読むと絶対に使わないことにしようという思いを強くしました。アメリカでも、ヨーロッパでもたくさんの人が被曝しているのです。いえ、被爆と被曝は違うのですね。よく見ると、この本は、被曝なのです。被爆ではない!でも実は、本当は、被曝も被爆も同じ現象なのです。放射能にさらされて、同じ被害を受けるのですから。原子爆弾によるものを被爆といい、そうでない放射能では被曝となるのだそうです。だから言葉どうりに行くと「唯一の被爆国」となるのですね。

 本のタイトルにあるようにアメリカ政府は、何とかしてこの被曝の実態を隠蔽しようと画策しますが、しきれなくて、このような本が、世に出てしまうところがアメリカなのかなと思いました。

 アメリカでもイギリスでも原発がある地域の周りは、放射能によるがんの死亡率が上がっている、この厳然たる事実は、隠しきれないものです。また、核実験で、放射能が降下した地域でも同じように死亡率が上がっていたので、核実験を地下ですることにしたのでしょう。ところが、ネバダでの地下核実験で、その近くでの死亡率が上がり、これも多分やめたのではないかしら?ここら辺は、この本と関係なく、私の中にたまっている記憶です。「ジョンウェインはなぜ死んだ?」という本で、鮮明に記憶されています。

 アメリカ政府も日本政府も高線量放射線の害は認めていたのですが、低線量放射線は害がない、という態度で来ており、いまだにその態度を崩さずにいます。ところが様々なデータから、低線量放射線の害が明らかとなり、これらの本でそのことを実証したのでした。1986年のチェルノブイリ事故の後、もはや隠し通せるものではなく、たくさんのデータが、公になりました。ヨーロッパにおける放射能レベルは、USAの100倍から1000倍であるにもかかわらず、乳幼児の死亡率は、USAの10倍だったのは、ヨーロッパでは、「ミルクを飲むな」がいきわたっていたからだという。環境に敏感な野生の鳥たちが、1986年夏には、サンフランシスコの北25マイルのところにある鳥類研究所の研究者は、その地域の鳥類が激減してしまったことを見つけ、原因を探求した。その結果、放射性降下物が、植物の新芽にたまり、それを食べる幼虫などを食用にする鳥類が死んだ、ということを突き止めた。

 そもそも、アメリカでは、日本に原爆を落とす「マンハッタン計画」が1942年にできて以来、このたぐいのことは、秘密こそ大切。ということで始まっている。1970年11月12月にサウスカロライナ州サバンナリバーにある政府の核兵器工場で2回にわたって炉心溶融が起きたが、これが公衆に届いたのは、1988年10月だった。18年間隠されていた!この事故は、漏れた放射能が建物の外に流出していたら、1979年のスリーマイル島の事故と匹敵されるものになっていた規模だったという。

 乳児死亡率でみると、サウスカロライナ州の1971年1月の乳児死亡率は、1年前の1月と比べて、24%も上昇していた。事故後ストロンチウム90が人骨に蓄積した。子どもたちの骨には、45倍ものストロンチウム90が蓄積されたので、1971年以後、政府は、人骨でのストロンチウム90の公表を中止した。ストロンチウム90は、免疫系を破壊する。そうすると、妊婦では、胎児を異物として拒絶する。その結果として、流産、未熟児、低体重児、が増え、乳児死亡率が、増大する。

 1979年のスリーマイル島事故のときには、専門家A氏が、その日の記者会見の席上で、「妊婦と子どもはすぐに避難するように」と訴えた。その結果、2日後に知事による避難命令が出されたが、この間で十分な被害があり、その後、2500人の原告が訴訟を起こした。

 免疫が破壊されたことで起こるエイズ、敗血症、ヘルペス、などが増えてきた。エイズについて言うと、1980年から2年間に爆発的に流行した、その時期と場所について、追及していって、次のような仮説がたてられた。先ず、時期の問題は、1962,3年の頻回の水爆実験により食物中のストロンチウム90が、爆発的に増えた。このときストロンチウム90によって免疫不全になった乳幼児たちが、1980年から82年に成人となって性行為感染症にさらされてエイズが蔓延した。場所の問題は、中央アフリカ、カリブ海、USAの東海岸と西海岸という地域で広がったのだが、この地域は、雨量の多い地域。放射能は、その中の90%が雨の中にはいって降下してくるので、雨の少ない地域では、エイズが蔓延しなかった。

 太平洋核実験場の緯度に近接して雨量の多い地域でエイズが広がったのだが、同じような緯度であり雨量も多い地域である東南アジアになぜエイズが広がらなかったのか?この問いに対する答えには驚いた。それは、米と魚という食べ物によるというのだ。食物中のストロンチウムは、カルシウムとの比で、ミルク、パン、肉、果物、ジャガイモ、大豆に比べて米と魚は、10分の1だという。ストロンチウム90の摂取が少ないために免疫が落ちず、エイズも広がりが少なかったという仮説なのだ。それが、食べ物によるとすれば、米や魚を食べる「和食」をもっと大事にするほうがいいということなのでしょう。

 これらはほとんど、「死にいたる虚構ー国家による低線量放射線の隠蔽」によるものです。もう一つの「放射線の衝撃ー低線量放射線の人間への影響」は、「被曝者医療の手引」と書かれており、医療者が読むと有用な知識がたくさんある。「被曝軍人」という言葉が多用されており、その人たちの組織までできていることが分かった。だから、「唯一の被爆国」という言い方で、日本が特別だということは、おかしいと訴えたかった。

 高線量放射線よりも、低線量放射線のほうが、細胞破壊という点では、効果が大きいということをペトコウ医師が発見した。「ペトコウ効果」といわれるゆえんである。

 これら2冊の本は、1994,95年にすでに発行されていたものに、原爆症認定集団訴訟大阪高裁判決文に引用されたことから、裁判と本との関係や放射線の危険性について説明したものを付け加えて、2008,11に再発行された。私は、これらの本を一人でも多くの方に読んでほしいと思ったので、長々と紹介してきました。ほしい方は、下記に申しこんでください。代金については、非売品として発行されたもので、代金は不要ですが、送料など必要経費については、下記に直接お問い合わせください。

 PKO法「雑則」を広める会  小田美智子 inamomi-chi66@y3.dion.ne.jp




「人参から宇宙へ」ーよみがえる母なる大地

1993年 10月     著者 赤峰勝人

 これは、市販されていない本です。

 赤峰勝人さんは、大分県野津町に1943年に生まれた自称「百姓」です。百姓をしながら試行錯誤を繰り返して、たどりついた「宇宙循環」について、皆さんに知っていただこうということで書いたのがこの本です。有機農業関係の本で、知られていることは一通り書かれていますが、今まで私が知らなかったことがいくつかありました。

 草が、カルシウムを作る、ということ。牛、馬、象など草食動物は、草だけを食べて骨を作っているんですね。だから、草にカルシウムがあるというのですが、それが特に多いのは、ナズナとスギナ。スギナって、つくしの親ですよね。それが、70%ものカルシウムを含んでいるというのです。熱湯に浸して5,6分置けば、お茶として飲めるし、乾燥させて粉にしてふりかけにしても食べられる。ナズナは、ペンペン草です。

 虫食い野菜についての誤解

 虫が食っているのがいい野菜だと思っていました。そうではないのだそうです。健康な野菜だったら、ほんの少ししか虫は食べないということ。未熟堆肥の中にある猛毒の亜硝酸塩が、作物にいきわたった時に、ガの幼虫がその作物の葉っぱを食べつくして、無毒の糞に変えて出してくれるのだそうです。虫は、その猛毒は、平気なのです。

 塩について、

 海から取れる塩ではなく、工場でできた塩は、99%が塩化ナトリウムの工業製品。海の塩は、たくさんのミネラルを含んでいて、さまざまな治療にも使われ、この塩なら「塩分の取りすぎ」はないというのが、赤峰さんの説です。海の塩は、もとをただせば、草が作る塩分なのだそうです。とにかく味が違いますよね。海の塩には、甘みがある。消毒薬にもなるし、金魚が死にそうな時に、塩水に入れてあげると息を吹き返しますね。

 赤峰さんによれば、アトピーや花粉症は、塩不足とカルシウム不足とのこと。ここでいう「塩」とは、99%の食塩ではなく、海の塩のことです。彼は、海の塩のことだけを「塩」と言います。Naclだけではないものが塩だというのです。

 赤嶺さんは、陰陽を用いて考えていきます。陰は、体を冷やすもので、果物とか、葉っぱとか、地面の上に出ているものはほとんど陰です。それに対して、体を温めるものが陽で、地面の下にあるもの、イモやニンジン、大根など根菜類。ところで、化学肥料というのは、陰だそうで、陰のものは、物を大きく膨らませる働きを持っているそうです。だから、農作物が、大きく膨れて、農家は大喜び。ところが、何年か経つと土が死んでしまい、病気が蔓延します。そこで農薬を掛けます。農薬は、ダイオキシン、環境ホルモンです。化学肥料は、石油製品の廃棄物で作ります。

 赤嶺さんが一番大事にしている言葉は、「循環」です。元々宇宙は、循環するようにできていたのに人間たちが科学の力を持って、その循環を断ち切ってしまったことが問題なのだと、提起しているのでした。

 私は、この本をとりあえず5冊注文しました。1冊1365円です。

 注文は、0974-32-2800、FAX7793 なずな農園です。

 この本を読み始めたのが、孫と、孫の家の庭を耕して畑を作ったその日でした。その前に読んでおけばよかったと残念がったのは、雑草をむやみに抜く必要がないということがわかったからです。特にスギナは、抜いても、耕す時に土の中に埋めておくとカルシウムがあるというのですから。それでも、孫との畑つくりは楽しかったのですよ。いろいろな虫が出てきます。そのたびに歓声が上がります。げじげじもいれば、団子虫、みみず、そして幼虫も出てきます。「クワガタだ」と4歳の悠士。図鑑を見ているからわかるのだそうです。

 私のうちの庭の草取りも、今年はやめました。本当に周りのものを痛めてしまうつるとか、限られたものだけを抜いています。そうすると、いろいろなものが生えてきていて、これも楽しい発見となりました。これまで、シルバーの方々に草取りをお願いしていたのですが、そうすると、全部取られてしまうので、もったいなかったと思っているところです。




ルポ 雇用劣化不況

         2009,4,21   岩波新書  竹信三恵子著

 4月21日発行というホットな湯気が出ている岩波新書、一気に読んでしまいました。竹信三恵子さんが、朝日に連載したものに最新の情報を加えて「貧困ジャーナリズム大賞」を世に知らしめた著作です。

 次から次に出てくるひどい現場の話、なかでも特に驚いてしまったのは、第2章「労災が見えない」でした。労災になりうるけがや病気を、労災にさせない力が働いているという実態です。「怪我や、病気になるような人はいらない」と解雇される実態があるので、それを知っている人は、そうなったときに、会社には隠して、病院に行き、健康保険を使わずに自費で高い医療費を払ってくるというのです。怪我をしても、病院には行くなと言われ、カットバン程度で済まされ、後で自費で診察を受ける。

 このことが、実際のこととして私に理解できたのは、つい最近のことです。去年の秋に事務所で転んで骨折したことについて、詳しい報告を、という手紙が健康保険組合から来ました。「もしも労災なら、すべての医療費が労災から出ますので、健康保険は使えません」ということでした。昔、やはり骨折をしたことがありますが、こんな調査をされた記憶はありません。最近始まったことなのでしょうが、このようにして、健康保険を使うと労災がばれてしまうのですね。

 派遣労働者が、現場で感じたことを提案のような形で、上司に伝えると、それだけで、契約が打ち切られたという実例が出てきます。このことは象徴的なこと。つまり、現場のわかる職員が、現場で感じたことが提案できないのが、派遣労働だということなのですね。「派遣というのはとってもありがたい。首にしようと思ったら簡単で、ちょっと気に入らない人はすぐに別な人と変えてもらえるし」と言っている会社の経営者の言葉を思い出しました。もちろん現場を大事にする上司であれば、現場の意見を聞きたいでしょうし、そうすれば、現場の問題が奇麗な形で片付くわけですが、「文句は言わせない」と考える上司だったなら、現場で起こっている問題は、まったく手つかずに放置されることになります。

 「雇用劣化不況」という言葉が意味するものは、「不況の原因が雇用劣化にある」ということだということは、この本を読むと実によくわかります。それは、単に貧困家庭が多くなったために購買力が落ちた、という程度のことではなく、顧客と応対をしている現場の職員が、そこでの問題解決を提案することができにくいシステムとして、派遣労働の広がりがある。ということなのだということが、迫ってくる本でした。




反貧困-「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書) 湯浅誠著

                2008,4,22発行

 328日の「反貧困フェスタ2009」以後手に入れたこの岩波新書、湯浅誠さんの力作です。増刷に増刷を重ねているようなので、読まれた方も多いかと思います。いやいや大変な説得力です。

 いったん滑り降り始めたらきりがなく、どこまでも滑り降りてしまう、こんな社会を「すべり台社会」と命名し、どこか途中で、踊り場が得られたら、そこで止まることが可能になる。その踊り場を作れるのかどうかが、一人ひとりの中にある「溜め」の分量を増やしていくことしか、解決の道は開けない。という感じなのですが、この「溜め」というのが何なのか。

 その前に「貧困は、自己責任か」という問いをかんぴ無きまでに打ち砕いています。それは、彼が相談を受けた事例を叙述することだけで十分です。本人には、どうすることもできなかった様々な要因が重なって、滑り降りて行ってしまう事例には事欠かないのですから。「自己責任論」は、人々を励ます方向で作用するのではなく、とことん落ち込むまで助けを求めてはいけない、と思い込むことによって問題をこじらせて、最後には、自殺まで追いつめられることになる。自己責任の問題は、それが足りないことが問題になるのではなく、過重に思い込むことこそが問題なのだと説得されます。

 かなり驚いたのは、湯浅さんたちが立ち上げたNPOもやい、では、連帯保証人を引き受けているのですが、引き受けた後全く責任がかかってこない人が95%だということです。そのぐらい、彼らは、信頼が置ける人たちだということ。連帯保証人になったがためにすってんてんになってしまったという人を何人も知っていますので、連帯保証人になるということはかなり恐ろしいことだという先入観があるのですが、ホームレスにまで落ち込んでしまった人たちというのは、常識的な人よりもむしろ責任感が強くて自己責任を過重なまでに引き受けすぎてしまっている人たちなのだと理解してみると、この95%という数字が納得できます。

 もちろん5%の人は、その後も支援が必要だということなのですが。

 ところで「溜め」というのは、滑り台の途中で、助けて、としがみつくことができる踊り場のようなものであったり、ちょこっと休めるスペースであったり、連帯保証人を頼める人間関係であったりする。その人間関係を持たないばかりにアパ−トにはいれなくて、路上生活になっている人が少なくない。そこで、湯浅さんは、提起する。「人間関係の貧困も貧困問題である」貧困とは、お金がないだけではないということ。

 個人にとっての「溜め」とは、金銭であったり、元気であったり、エネルギーであったりもする。その「溜め」がなくなっている人たちが、何かが起こると他人を攻撃するばかりで、建設的な提案が出なかったりする。社会にとっての「溜め」もありそうだ。

 社会の貧困は、若者たちを軍隊に駆り出すのに好都合。湯浅さんは、憲法9条と25条は深い関係にあるという。貧困がなかったら、軍隊は成り立たない。アメリカを見れば歴然としている。日本だって同じだ。「貧困と戦争とは、セットで考えるもの」だそうです。

 連帯保証人を引き受けるということは、そのことを通して、ほかのいろいろなグループと連帯したかったからだという。そのほかのグループとは、シングルマザーズフォーラム、DV被害者のシェルター、非正規労働者の組合、障害者の人権団体、などなど。その方々と200710月に反貧困ネットワークを結成。2008年の暮れから、派遣村として、一躍有名になったのだ。

 2009328日に反貧困フェスタの第2回目が開かれ、私も参加しました。ここで、反貧困ジャーナリズム大賞が、朝日新聞論説委員の竹信三恵子さんに贈られました。竹信さんは、大学の後輩でもあり、東京都知事選以来の友人で、以前ジュネーブに一緒に行ったこともありました。そんなご縁から、5月9日(土)1335から南魚沼市男女共同参画会議主催の講演会に来ていただくことになっていました。このジャーナリズム大賞はその後に降ってわいたのでした。南魚沼市役所(六日町)二階大会議室です。どなたでもどうぞ。




「あぶあぶあからの風」(築地書館、2009,1,25)

 築地書館の編集者橋本ひとみさんが編集された本の紹介をします。橋本さんは、私の「7人の母国会を行く」もとても丁寧に編集してくださった方です。

 この本「あぶあぶあからの風」は、神戸で、知的しょうがいを持っている人たちが楽団を作って27年間も活動してきた報告です。著者のひがしのようこさんは、保健所に勤めたり、大学で教えたりしている方で、養護学校を卒業した後、就職しても、かなり孤独な人生を歩む方が多いことから、音楽の素養があることを生かして、「健常者」二人と、自閉症や、ダウン症などしょうがいをもつ青年たち6人で、楽団を作りました。それは、はじめは、お義理で聴きに来てくれる人がいるという程度だったのに、グループでのメンバーの成長と、そのハーモニーの力でどんどん発展して、全国はおろか、ニューヨークでの演奏など、大変な広がりをもった活動になっています。「あぶあぶあ」から派生していろいろな楽団ができ、それを手本に各地で同じような楽団ができ、自分たちのオリジナルの曲もでき、ミュージカルをメンバーの発言を基に作りつつあるというすさまじい希望が持てる本なのです。

 この楽団のドキュメンタリー映画「あぶあぶあの奇跡」が、2月3日にヤクルトホールであります。4月8,9日には、文京シビックホールでも上映されます。

 この本は、写真がたくさん入っていてとっても読みやすい本です。築地書館、1600円。
もう少しメンバーたちの具体的な話が入っていたらもっとよかったのにと思いました。



「家父長制と資本制」
           1990,10,31    岩波書店

 8月2日(土)渋谷の「花のえん」を会場にした最後の「女政のえん」が6時から開かれます。ゲストスピーカーは上野千鶴子さん。その予告を聞いて申し込んだ人が、定員の30人を早々と突破してしまったために、皆さんに広報することができませんでした。でも、立ち見でいいからという方は、当日おいでになっても構いません。

 私は、上野さんの著作は、難しい、わからないという先入観があって、ほとんど読んでいませんでした。ところが、数年前に「当事者主権」(岩波新書)を読んだら、すっかり彼女のイメージが変わってしまいました。この本のことは以前皆さんに紹介しましたね。中西正司さんという車いすの方との共著で、本当に二人が入り乱れて書いている本なのです。この本を読んで、それまで私が、女性問題と、障害者問題を分けて考えていたのが、なんだ同じなんだ、と思えるようになったのでした。

 さて今回上野さんの著作を何冊か読んだのですが、私は、1990年に出された「家父長制と資本制」(岩波)が彼女の一番の力作なのでは?と思いました。田中喜美子さんが、上野さんにインタビューをしたら、ご本人もそう言ってたということです。

 この本は、これまで労働、生産、などを市場の範囲で取り上げてきて、家族の中で行われている家事労働を除外してきたのをマルクス主義フェミニストとして、そこに切り込むということを1980年代に実にコツコツと世界中を見渡しながら分析していった力作だと考えました。

 1971年に浦佐に引っ越してきて、翌年から保育所に勤め始めたけど、前の年一年間専業主婦をしていたために、夫が全く家事をやらない習慣になってしまっていて、昼間同じに働きながらどうしてこういうことになってしまうのだろうと思いながら、毎日二人がどれだけの時間家事をしているのかという記録をつけ始めていました。ちょうどその頃、学生運動が、引いてしまった後にそれにかかわった女性たちが、ウーマンリブの動きを始めました。日本でもたくさんのその関係の団体ができ、雑誌が発行され、本も出るようになりました。そのころ、題名に「女」がつけば中身も吟味せずなんでも買い込んで読み漁りました。0歳、1歳の二人の赤ん坊と4歳の双子を朝は配り歩き、夕は、集め歩いて戻ってきていたその頃のことでした。「家事労働に賃金を!」「女は女の言葉で語ろう」と、いう動きに刺激されていました。時には、東京まで集会に行ってエネルギーをもらい、家では読んだ文字からエネルギーをもらって、家事労働の平等化を私なりに諮っていたのでした。そんな70年代のウーマンリブが、75年には、国際婦人年となって結実し、そこからまたたくさんのエネルギーをもらったのでした。

 世界中で同時多発的に運動がおこった60年代の学生運動のなかから、その後ウーマンリブが誕生した。そのころ理論的には、フロイドの「エディプスコンプレックス」を用いて家族を対象化しようとした。マルクス主義は、階級支配を解明したが、家族は対象から外してきた。フェミニストは、「市場」の外部に「家族」という社会領域を発見し、そこにおける「性支配」を解明し、理論化した。

 解放の理論を欠いた解放の思想は、啓蒙もしくは運動論に帰着する。啓蒙主義者にとっては、「男女平等」という単純な真理を受け入れられない人は、全く不可解と映る。「進んだ理想」と「遅れた現実」を埋めるのは、「啓蒙」という果てしない徒労ということになる。理論とは、なぜそうなっているのかという構造を分析すること。階級支配と性支配の相互関係を分析し、資本制と家父長制が相互に依存しながら、一つの支配体制を作り上げてきたことがかなりきちんと解明されている本でした。

 このような、理論書が、1990年から1999年までの9年間に16刷りまでいっているということに希望を見出しました。
 9月14,15日、京都で行われる在宅医療全国ネットワーク(卓夫が代表)の全国集会で、立岩真也と上野千鶴子がメインの記念講演となるため、今回卓夫もかなり熱心な読者になりました。私は、夫婦げんかの時「家父長制と資本制を読んでからにしてね」といったことがあります。


「墓をめぐる家族論」(平凡社新書)
             2000,11,20   

 桐鈴会では、納骨堂を建てようという話が、何年か前から起こっていて、最近の役員会で、「納骨堂検討委員会」を作ることが決まりました。そこで、タイトルのような本を参考文献として読みました。
 この本は、2000年に出ているので、まだ「厚生省」と言われています。2001年の1月に厚労省になったのですから。でも、読んでいて、そんなに前の本だとは思えませんでした。かなり新しい考え方が紹介されているからです。

 結婚していない、子どもがいない、いても頼りにならない。女の子だけしかいない。というようなお墓を守ってくれる人がいない、という状況にある人たちは、ずいぶん早くから、いろいろなことを検討してきていたのです。
 その中の一つが、共同納骨堂でした。過疎が進んでくる中で、寺が造ったり、部落が造ったりしたのです。1970年ごろからなのです。お墓だと草取りをしなくてはならない。というような事情もある。農村共同体が崩れて、それでも、都会に出ていった第一世代は、まだ故郷に墓参りに来るという人が多かった、でも、その次の世代になるともう無理ということらしい。

 お墓という概念も随分変わってきていて、散骨、樹木葬などいろいろな試みがある。そもそも、葬儀はだれのためのものか?という問いは、この本を読むまでは、「遺族のため」と思い込んでいました。だから、私は、せめて、死んでからのことまで何か言うということはしない、と考えていました。ところが、突然死んで、さあ、葬式をどうする?ということになったとき、遺族たちも何も考えていなければ、「みんなはどうするのか」と葬儀屋に聞き、結局葬儀屋主導の葬式になるというのです。だとすれば、「もしなにも考えがないのだったら、このようにしていただくのもいいかと思います。一つの提案として書いておきます」ぐらいの緩い提案を書いておくというのも遺族への愛情かもしれない、と考えはじめました。

 女性が家の中で、「自己」を殺して生きているという家庭が結構あり、せめて死んでからは、自立したい、という考えで、自分だけの墓を手に入れるという現象が結構あるらしいのです。介護が必要になったとき、だれに介護してもらいたいか、というアンケート、夫は妻にしてほしいのが70%なのに対して、妻は夫にたった28%、後の人は、「国や自治体の福祉サービス」と答えているのです。このことと、死後の自立と深い関係にあると著者の井上治代さんは言います。

 ところで、桐鈴会の納骨堂の行方は、まったくわかりませんが、鈴懸入居者で、夫婦がそこに入りたいと言っている人があり、この夫妻にも検討委員会に入っていただけることになりました。5月7日が初回の会合です。桐鈴会の生みの親鈴木要吉さん夫妻も、自分たちのお墓が山の上なので、お参りに行けず、納骨堂に私たち夫婦と一緒に入ると言っておられます。どうなるのでしょうか?


「病院出産が子どもをおかしくする」
           (洋泉社)奥村紀一著 2008,1,23刊

 著者の奥村紀一さんは、新発田市在住、妻のトヨ子さんがこの本を持って宇洋の事務所に来てくださったのが始まり。私は、面白くてのめりこんだ。目次を見ただけで、大体の論調は分かる。
「なぜ母親は変わってしまったのか」
  ・増加する児童虐待
  ・古来、日本は子どもの天国だった
  ・虐待する母親も実は被害者
「原因は出産と育児にあった」
  ・母子分離は自然の理に反している
  ・母性を発現させる三つの育児ホルモン
  ・米国小児科学会も認めるようになった母乳育児の恩恵
  ・母乳保育は親子共に人生最高の至福体験
「赤ちゃんはなぜスキンシップを求めるか」
  ・子ザルは哺乳瓶と柔らかい布のどちらを選ぶか
  ・日本人はミルクアレルギーになりやすい
「引き起こされた人工難産と後遺障害」
  ・自閉症発症率を押し上げる麻酔分娩
  ・なぜ出産日時に異常な偏りが現れるのか(土日の出産が極めて少ない)
  ・助産師介助の出産のほうがずうっと安全
「なぜアレルギー体質が増えたか」
  ・母乳に含まれる免疫物質を摂取できない
  ・授乳中のお母さんも卵や乳製品には要注意
「出産・育児と関係があった学力低下」
  
 あとはやめておきましょう。読んでみていただきたいと思います。実は、この本を先日の「女政のえん」に持っていって終わってから世話人の方々に見せました。反応は、「バックラッシュじゃないの?これ」でした。そういえば、昔の日本式育児をほめたたえているのですから、まさに「バック」であることは間違いないかもしれません。しかし、よくぞと思われるほど資料がそろっています。それを見るだけでも価値がありそう。新書版で、780円ですから、本屋で手に取ってみてほしいな。奥村さんは、これを育児書として書いたのではなく、世界観を書き下ろしたその中の一部がこの本になっているだけで、その他の膨大な原稿も、これから本になっていくようです。

 私の3女帆姿は、きっとこの本を喜ぶのではないかと思います。彼女がやっていることは、奥村さんにはほめられることばかりのようです。今まで、私は、彼女が牛乳は、人間が飲むものではない、と言って豆乳を飲んでいることに賛意を表しませんでしたが、この本を読んで、帆姿の言っていることを納得しました。彼女は、自宅分娩が気に入って、助産師になるということで、この3月で、教員をやめ、来年看護学校に入学するので、教員住宅から近々引っ越すそうです。
岡田さんの本と一緒に、私はこの本も、子どもたちに送るつもりです。

 この本の「参考文献」には、大野明子「分娩台よさようなら」とか、その大野さんの先生である吉村正さんの本などが挙がっており、吉村さんにこの本を贈呈したら、彼は自分の講演会でこの本を売っているとのこと。帆姿は滋賀県で「いいお産」のイベントに、この吉村さんを呼んでいます。



「むし歯ってみがけばとまるんだョ」
   −削って詰まるなんてもったいない
           梨の木舎刊   2008,3,3   岡田弥生著

 むし歯って、できたら、削って詰めて、とばかり思っていたのですが、2003年、岡田弥生さんと一緒にスウェーデンに行った時に、岡田さんから、初期の虫歯は削らなくても、対処の仕方で止まるという話を聞いてとっても驚いたのでした。そのことを、子育て中の親世代に伝えたいと思っていたので、こんな本として実現できたことがとっても嬉しいです。

 岡田さんは、杉並区の保健所に勤務する健診専門の歯医者さん。「歯の根草の根」という団体を主宰してこられました。まえがきにこう書いてあります。「20年の間に延べ10万人の子どもたちの口の中を見て、いろいろなことを教えてもらいました。とりわけ虫歯が治る、進行が止まる、という経験は、衝撃的で感動的でした」

 彼女もはじめは削るものと思っていたそうです。子どもたち、つまり患者さんから教えてもらった、その彼女の姿勢が感動を呼びます。C1にならないC0の初期虫歯では、「進行が止まった虫歯」(彼女はそれに「花まる虫歯」と名前をつけようと提案しています。)が見つかる。乳歯の場合にはC1でも、はなまるがあるそうです。彼女がすごいところは、一つのことを実現するまで、とことんそのことに取り組むという姿勢です。

 不正咬合って、私もよくわからないのだけど、歯並びが悪いということが、体全体に悪影響があるという場合、矯正をしますね。ところがそれには、保険が適用されない。歯科医の多くは「保険だと安いものしか認められないから質が落ちる」というのが反対理由。彼女は、矯正歯科の医院にアンケートを送って調査します。そしてこのことは、患者さんの側から提案するしかない。そのために彼女は、東大医療政策人材養成講座を受講します。まだまだ彼女はあきらめず、このことに取り組んでいくでしょう。

 介護保険に口腔ケアが入ってくるということになった時には、そのためのビデオを作って、厚労省に見せに行きました。彼女のとことん取り組む姿勢に感動してきました。そして、今回はこんな楽しい提案があります。夜寝る前だけでいいから、「寝かせ磨きを」というのですが、子どもが嫌がる場合があり、「両親がお互いにやりあってスキンシップを取ったら?」という提案です。皆さんもどうでしょうか?
 この本には、とても素晴らしい挿絵があって、お母さんの膝に頭を乗せて寝ているお父さんの口をお母さんが、「寝かせ磨き」しているのもあるのです。それを二人の子どもたちがうらやましそうにのぞきこんでいるさし絵なのでした。たかくあけみさんの挿絵がどれもとても素晴らしい!



かもめの叫び
      エマニュエル・ラボリ著 松本百合子訳
             2000,6,25  角川文庫

 次女海映から勧められて読んだ「かもめの叫び」は実に感動的なドキュメントでした。エマニュエルは、生まれながらに耳が聞こえない聾者。フランス語で、ミュエットは、唖のこと。ムエットはかもめ。声は出るので、叫び続けていた7年間。そのとき父がラジオで聞きつけた手話の世界と出会う。手話は、彼女にとって初めてのコミュニケーション手段として、自分も生きていける、という自信をもてることになった。それまで「ろう」の大人と出会ったことがなかったために自分は大人になるまでは生きていられないと思い込んでいた。手話を使う大人と出会って、自分も大人になれる。と思うことができた。父も、母も、一緒に手話を習ってくれたので、両親との会話もグーンと広がった。そして6歳違いの妹マリには、はじめからエマニュエルが、手話を教えたので、妹は、姉の同志となっていく。

 生まれたばかりの妹を祖父母に預けて、両親と三人で、「聾者の街」ワシントン一ヶ月の旅に出る。自分は「聾者」であるということを理解したことによって、一人の人間になれたと思えた。すると出てくる出てくる、たくさんの質問が。手話を使って質問することで、一つ一つ解決していった。

 ところが、フランスでは、法律で手話が禁じられている。1892年から、1991年まで!エマニュエルが生まれたのは1971年。彼女が通っていた聾児だけのクラス(幼少中すべて)はどこでも、手話が禁止されていて、口話のみが許されていた。でも彼女は、自分にとって命ともいうべき手話を友人たちに教えようと様々な方法で試みたが、そのたびに先生に叱られ、先生と敵対してしまう。その結果というべきか、思春期には、男の溺れ、さまざまな「悪」にはまって、荒れ狂う。両親は離婚。「なぜ手話が禁止されていたのか?」私の答えはこうだ。「日本が、植民地に対して、そこの言語を使わせなかったように、権力者は、自分にわからない言葉を国民が使うことが許せないのでは?」

 演劇にはまり込むエマニュエルに、バカロレア(大学受験の資格?)に合格したら、と言われ、2回目で合格。そこには、「沈黙の世界」という演劇の主役が待っていた。猛烈な訓練と研究。監督の力もあって、この演劇は、大成功!かもめはモリエール新人賞を受賞。監督もモリエール最優秀脚色賞受賞。そして二人は結ばれる。1993年。その年に、この「かもめの叫び」は、フランスで出版され、ベストセラーに。日本での訳書出版は1995年。その後、角川文庫に。


スモール・イズ・ビューティフル(講談社学術文庫)
    E.F. シューマッハー作、小島 慶三、 酒井 懋 訳 1986、4刊

 1973年に出版されて、世界的なベストセラーになったこの本、読まれた方も多いと思います。30年以上経っているというのに、今頃読んだ私が、感動しています。
 それは、1989年ベルリンの壁崩壊に始まる冷戦体制の終結に伴って、社会主義より、資本主義は優れているという結論が出たということになっていますが、私は、どうしても、それについて、はてな?と思い続けてきました。私企業が、競争しあって、市場での需要と供給のバランスによって、(つまり自由競争で)消費者が求めるものを創り出す企業が勝ち残る。という「常識」(かどうか自信はないのですが)が、どうも違うのではないか?と思い続けてきました。

 この本の作者、シューマッハは言います。「私的財産について言うと、創造的な仕事の助けになる財産と、そうではない財産と区別すべき」この後者については、自らは働かずに他人の労働に寄生する人の個人財産、だというのです。

 そして、彼は、経済学者であると同時に、実践家で、自分の論は、実践に移し、またその中で論を組み立てていくという人柄でした。開発援助について「大型技術ではなく、中間技術を」といい、どんなに先進的な技術であっても、受け取るほうの側にとっては、なるべくたくさんの場所に小さなものを、そして、失業者がたくさん職を得られるように、そのために役に立つ援助を、と唱え、63年には、自ら「中間技術開発グループ」を創設します。ODAのあり方についてとても参考になる論だと思いました。

 私が一番感動したのは、イギリスに1920年にできたスコット・バーダー社というものの存在でした。これは、この著作の中の「新しい所有の形態」という章に書かれています。アーネスト・バーダーが、設立したこの会社は、スコット・バーダー自治体というものを結成して、そこに所有権を移します。この自治体は、職員全体が構成員です。会社の規模は、350人を限度とし、それ以上にするときには、新しい同じタイプの自治体を作る。これは、スコット・バーダーが、収益性を失わずに、自由と幸せと、人間としての尊厳を感じ取れるような組織で、民間産業部門で広く受け入れられる手段、方法をとるための革新だったのです。シューマッハは、このバーダーと知り合い、10年後には、そこの顧問となっています。これが、彼の考える新しい所有形態だったのでした。私的財産でありながら、その構成員の意思で、共有の形をとっているのです。
 その後このバーだー社がどうなっているのか知りたかったので、友人に調べてもらったら、HPが存在しているので、まだ続いていることは確かだということでした。

 シューマッハは、あらゆる製品の特性を捨象して、ただ単にお金に換算されてしまうそういう経済学ではなく、もっと一人ひとりが大切にされる「仏教経済学」を提唱します。インドへの援助ということに深く関わり、ガンディーに深く影響されたそうなのできっとガンディーの崇拝者で、深く研究しておられる長崎暢子さんからいろいろお教えいただけるのでは?と期待しているところです。「無額面株」とか、「混合経済」とか、いろいろお教えいただきたいです。 



愛するということ」  (紀伊国屋書店刊、1991,3)

 1956年にエーリッヒ・フロムによって書かれた「THE ART OF LOVING」は1959年に日本語訳が出ている。このタイトルの意味は、「愛する技術」ということになるのか。フロムは「愛とは技術である」というメインテーマを差し出してくれた。
 わが子を愛していると思っているたくさんの親たちの子どもたちが、親から「愛されていない」と感じてしまっているというその現実との戦いが、私の大地塾体験だった。それは、年代でいうと1990年、だというのに、フロムが35年も前にそのことを提起していた!私は引き込まれる思いで読んできたが、読書時間は電車の中とベットの中だけという状況なので、ずいぶん長い時間をかけてしまった。
 「孤立しているという意識が不安を生む」それを解消したいがために宗教をはじめとする集団に寄属しようとする。しかしそのような一体感は、おだやかで、刺激的ではないので、不安解消には不十分。真の一体感が得られるのは、他者との融合、すなわち「愛」であるという。

 その「愛」についてのさまざまな考察があり、その中で私は特に興味を持ったのは、「母親の愛は無条件の愛、父親のそれは、条件付」というところだ。大地塾に来ていた人たちの多くが「うちの親からは、条件付愛情しかもらわなかった」と訴え
ていた。「何々ができたなら、愛してあげる」というもの。フロムは、マックスウェーバーの「理想型」として母親、父親、といっているのであって、個々の親については、それと違うことがあるのは当然ということだ。

 兄弟愛、異性愛、神への愛、神からの愛、などを、宗教、哲学などを論じながら、さまざまな愛の形に触れ、最終的には、「愛」の習錬で終わる。
 「愛」が可能になるためには、人間が、経済という機械に奉仕するのではなく、その反対の社会を作り出さねばならない。「愛」は、すべての人間の中にある欲求であるから、それが可能になる社会を作り出していくべきである。 という社会変革の書だったのだ。


「自閉症の僕が飛び跳ねる理由(わけ)」(エスコアール刊)
           東田直樹著   2007、2、28

 こんなタイトルの本を片桐公彦さんの紹介で読みました。いやいや驚くことばかり。そもそも、この本の著者は、会話ができない養護学校の12歳です。会話ができない人がなぜ文章などかけるのでしょうね。私などは、ほとんど会話のつもりで書いているのですが、この東田直樹君は、内なる言葉をパソコンに打ち出しているということなのでしょうか?

「大きな声はなぜ出るのですか?」
「いつも同じことを尋ねるのはなぜですか?」
「どうして質問された言葉を繰り返すのですか?」
「どうして耳をふさぐのですか?」
「偏食が激しいのはなぜですか?」
「衣服の調整は難しいですか?」
「すぐに迷子になるのはなぜ?」

 こういうのが「目次」です。私には想像もできないような回答が多いのですが、まるで私と同じ、と思えることもあります。数字が好き、これは本当に私も好きなのね。まるで絵のように見えるの。だから覚えている。電話帳がほとんどいらない。これは、遺伝です。母が、事務員をしていた昔、電話帳がいらなかったそうです。
 じっとしていられない。これも昔の私がそうだったようです。彼の表現を借りると「声を出さないようにしようとすると苦しい」のだそうで、私にも思い当たることがあります。10歳ぐらいまでのころのことでした。親はかなり苦労したようです。
 直樹君も、親が困っているということに困っているようです。でも、もし自閉症が治る薬ができても、治らないほうがいいと思えるようになったと言っています。掌を顔の前でひらひらさせる癖のある人がいますが、それは、あまりに光がきれいなので、そのままだと強烈すぎるので、気持ちよく光を取り込むためなのですって。

 なぜ表情がないように見えるのか、この本の表紙に直樹君の写真が出ているのですが、以前ご紹介したと思いますが、中川真理子さんの息子ミッタンとあまりにそっくりで驚きました。

 彼はすでにかなりたくさんの本を書いているようで、いくつか注文しようと思います。


「条例のある街」  野沢和弘著
                      2007,1,22  ぶどう社刊

 18日(日)神田の学士会館で行われた「条例のある街」出版記念会に参加してきました。大熊由紀子さんが知らせてくださったおかげです。前日やっと届いた本を読みながら行き、最後には、神保町の地下鉄ホームで、時間ぎりぎりまで読んで会場に着きました。浅野史郎さんが言われるように3回以上涙が出て、私も人間だと思いながら行くと、そこには、浅野史郎さんの姿が、ありました。
 先日このHPでアメニティーフォーラムの紹介をし、この本のことを紹介した部分が、受け取った封筒の中の案内文に載っているではありませんか!どうやら、大熊由紀子、野沢和弘、のルートで、編集者に届けられたらしいのです。会場を駆け回っている誰が見ても「発達しょうがい者」といわれる人だと思える青年がどうやら野沢さんのご長男武史さん(20才)だろうということが想像できました。

 封筒の中の参加者名簿には野沢さんが、一人一人にコメントをつけた蘭があり、その温かみが伝わってきます。由紀子さんの「えにしの会」を思わせるものです。本の中に登場している人たちが、たくさん参加していることがわかります。

 2002年、「もう施設には帰らない」というシンポで出会った大熊さんからの依頼で野沢さんも千葉の福祉を変えるプロジェクトにかかわり始めます。
 1、子ども、しょうがい者、高齢者、という縦割りをやめて、各分野横断型の福祉を目指す。
 2、政策立案段階から官と民が協同で取り組む。という健康福祉千葉方式、が出来上がります。

 色々なしょうがいを持つ人たちが夜の県庁に集まって、千葉県しょうがい者計画策定の作業部会を開きます。その中の知的しょうがい者たちが、議論についていけないでいることに気がついた竹林悟史しょうがい福祉課長(厚労省からの出向で30代半ば)は、資料にルビを振った。更に、その人が住んでいるグループホームに日曜日に出かけていって資料の予習をする。そのようにしてその人たちも意見をメモに書いていって、発言が可能になる。このことは、実は、課長にとってのすばらしい学習の場ともなったのだ。「しょうがい者差別をなくすための研究会」のメンバーを公募する。名乗りを上げた人たちは、市町村ですでに「有名人」。そんな人が入ったら大変、との忠告も官庁でささやかれる。座長の野沢さん、事務局長の竹林さん二人は、「折角だから」とその人たちに入ってもらった。その中には、企業の人など、差別する側の人にも入ってもらって、スタート。

 研究会でのけんけんがくがくの議論、タウンミーティングでの多種多様な発言、様々な過程を経て練りあげていって完成した「差別禁止条例」が、2006年2月の県議会で否決され、その後修正協議を繰り返しながら、9月義会で成立にこぎつけるまでの、おおくの方々の努力、落ち込んでいる野沢さんを「千葉は、1センチずつ変わっている」と励ました人、毎回毎回傍聴席をいっぱいにしたしょうがい児を持つお母さんたちの努力、最後にこの条例が可決したとき、堂本さんが、傍聴席に近付いて、皆さんとともに喜びを表現し合う写真が載っていて、見る人の胸までいっぱいになる。「小さな奇跡」で最後が締めくくられている。

 この本を会場で30冊注文してきました。そのうち皆さんに又押し売りしますね。

 パーティでは、この本に登場する人たちが、次々にステージでスピーチをした。浅野史郎さん、堂本さん、県庁の職員たち、お母さんたち、研究会の皆さん。堂本さんがスピーチをしているときに、野沢武史くんは、堂本さんの隣で、ぴょンぴょン跳ねていた。「うれしいのよね」と堂本さんが応じる。日頃からの付き合いを感じさせる素敵なシーンだった。
 お母さんの代表竜円さんは、「2月から10月まで無我夢中で生活していたので、終わった後、秋なんだ、としばらくぶりで季節を感じることができた」と話され、議会などというわけのわからないところへ、傍聴に行こうと誘う勇気は、かなり大変なものだったのだろうと想像できた。
 八代英太さんは、乾杯の音頭をとったのだが、選挙の後遺症で、「乾杯」という言葉はいやで、「おめでとう」にしようと提案。みなは了承した。金政玉さんなど、しょうがい者運動の中での「有名人」たちも見えていました。


小林茂著「ぼくたちは生きているのだ」
            (岩波ジュニア新書)     2006,7,20

 12月2日の小林茂さんの講演会(活動報告参照)で買ってきて読みました。珍しく一気に読んでしまい、早速茂さんに20冊注文しました。

 この本は、若者向けにたくさんの写真をいれて歯切れのいい文体で、読む人を感動の渦に巻き込みます。彼が、どのようにして映画を撮ることになったのか、どんな姿勢でとってきたのか、これが胸をうちます。

 彼は、京都の同志社大学のときに田中正造の本と出会い、一週間後には、足尾銅山を訪ねています。1970年代は公害といわれるものがつぎつぎに社会問題として登場。中でも一番大きかった水俣病。彼はそこにいって見ます。「同志社なら江口がいる」といわれ、戻ってきて大学で江口とであい、「京都・水俣病を告発する会」のメンバーとして活動を始める。初めて水俣を訪ねた茂には、全然見えなかったことが、土本典昭監督によるドキュメンタリー映画「水俣シリーズ」を見て手にとるようによく見えた。それが、彼を映画製作へと導いた。

 江口が卒業後就職したところが、滋賀県の第二びわこ学園。そこの写真集「ぱんぱかぱん」を出版したのが、徑書房の原田奈翁雄社長(当時)。小林さんは、ハンセン病の村長島にも深いつながりがある。14年も年代は違うけど、私と同じようなところを歩いて来た人だということが近親感を深めた。彼がその後製作した映画の被写体である、盛岡の市民福祉バンク、札幌の学童保育「つばさクラブ」なども、確か娘とか、知人たちのネットワークに近そう。

 「阿賀に生きる」では、水俣病の患者さんたちとともに働き、7人のスタッフがみんな共同生活をして、地域の方々と溶け合う。きっとその目線が評価されて、たくさんの賞を受賞することになったのだろう。

 その後、腎不全による脳梗塞で倒れ、入院。でも奇跡的に復活し、5ヵ月後には、第二びわこ学園の映画に取り掛かった。カメラは回せないと思っていたのに回せた。彼が、倒れたことも、この映画撮影にとっては必要なことだった。「わたしの季節」としてそれが結実した。重度のしょうがい者といわれている彼らの「存在感」をテーマとして撮影したと言う。

 一番印象が深かったのは、公明さん(51才)。重度の行動しょうがいといわれる。暴力で、そこらじゅうが壊される。でも、江口さんは、記録をつけ、よく観察した。その結果わかったことは、その暴力の一週間から10日前に、彼が傷ついていたということ。つまり、暴力の原因が突き止められたのだ。その結果、公明さんに「個室」が用意され、その部屋中に絵を書きまくる。それから、粘土に移行。粘土作家として、大変な存在感を示す。この映画ができた直後、江口さんは、肝臓ガンで亡くなってしまった。(53才)
 小林茂さんの人間性がそこここに現れて、人をホッとさせてくれる本だった。


非常の知ーーカプラ対話編
        (工作舎刊)訳、吉福伸逸、田中三彦、星川淳、上野圭一

 ガイアと言う勉強会で、カプラの名前はよく聞いていましたが、こんなに面白い本だとは!
 フリッチョフ・カプラは、私と同じ年、ウイーン生まれの物理学者、ですが、60年代、70年代を共通の体験をしていたのだと感じました。68年にクリシュナムルティ(「既知からの解放」の著者で、インド人思想家)と出会うことで、東洋思想にであい、タオイズムに惹かれる。70年代をヒッピーとして過ごす。

 この本の凄い所は、物質、生命、人間を宇宙全体の中で位置付け、特に精神とか意志といわれるものが、物質や、肉体に働きかけて動かしていくという側面に注目していることだと思う。

 今年の10月に卓夫の同窓会で松本に行ったとき、卓夫の友人の連れ合い滋子さんから聞いた話がとてつもなくとっぴなことではなく、もうかなり前から、世界中で知れ渡っていることだったのだということをこの本で知りました。
 滋子さんは、私と同じ年。18年前、48歳のときに、癌で余命3ヶ月といわれ、抗がん剤の治療をしていた。その病院から、スリッパを履いたまま逃げ出してきた。自分は、まだなすべきことを何もしていない。今死ぬわけには行かない、という強烈な思いで。それを感じ取った夫が調べて、二つの治療方法を見つけた。免疫療法と瞑想療法。
 免疫療法は、それをしてくれるクリニックを見つけ、瞑想もそれなりのところで手ほどきを受ける。その結果、自分の身体の中を瞑想で見通せるようになり、散らばっている癌を一箇所に集めて、それを捨て去ったのだと言うのです。そして彼女は生還し、その後、人の癒しをサポートしたりして、又、庭で作ったハーブや、有機野菜で、周りの人の癒しに貢献しているのです。

 カプラがこの本を書いたのは、1988年。この本の中には、滋子さんと同じ体験を持つ人がたくさんでてきて、それを医者が集めて、理論化しているとのこと。サイモントン夫妻が言うには、ストレスに反応して、一定の行動パターンを取る人は概ね癌にかかりやすい、ということを見つけた。夫妻は、ホリスティック医学の研究に没頭していた。ホリスティック医学とは、人間の身体を分解して見ることなく、トータルなものとして、特に精神が肉体に及ぼす影響を重視する東洋医学に通じるものと私は理解している。カプラがサイモントン夫妻に出会って、目を見開かされたのは、1974年のこと。そのころ、後にホリスティック・ヘルス・ムーブメントとして知られるようになる運動の創始者たちが、情報を持ち寄り始めたばかりの頃だった。滋子さんと同じ体験を持つ人たちがそのころすでに出始めていたと言うこと。実は、滋子さんも同じような体験を持つ人たちとグループを組んで、自分たちの身体のことだけでなく、癌にかかったけど、なんとかして治りたいと思っている人たちをサポートしている。

 私はもともと原子物理学を研究したくて大学に入学した。その後学生運動に触れ、原子物理学が、原爆を作り出し、結果としてたくさんの人の命を奪うことになった。自然科学の研究者たちが、自分の作り出したものをどのように使うのかということに口をはさめず、別の力が支配してしまうと言うことを知って、方向転換したのだった。しかしつい最近、アインシュタインが、原爆の製造にGOサインを出していたことを知り、「別の力」ではなかったことがわかった。
 このカプラは、元々原子物理学者だったのだが、「科学が社会的関心をともなわないなら、科学の価値はない」と考える人で、様々な人との対話の中で宇宙観をどんどん広げていく。その様を書いたのがこの本で、彼を新たな世界に導いた人たちとの対話には一つ一つ感動をともにしてしまう。

 「スモールイズビューティフル」の著者シューマッハは、ビルマに滞在し、ガンディーや、仏教に影響を受け、科学を「理解を目的とする」ものと「操作を目的とする」ものに分けた。前者は知恵と呼ばれ、その目的は個人の覚醒と解放にある。のに対して後者の目的は権力にある。と言う。そして、17世紀の科学革命の間に科学の目的は、「知恵」から「権力」へと移行した。西洋文明が操作的科学を基盤として誤謬への道を歩んでいるが、その基礎は、物理学にある、とシューマッハは言う。カプラが、尊敬している物理学者、ハイゼルベルグ(「部分と全体」の著者)の妻が、シューマッハの妹だと知ってカプラはとても驚く。そんなシューマッハの批判を受けながら、カプラは「タオ自然学」という現代物理学と東洋神秘思想の相似性についての本を著した。この本によって彼の名が知れ渡ったそうだ。私はつい最近まで知らなかった。

 「操作するための科学」についてなのですが、最近の子どもたちの様々な事件というのは、この「操作」というものが「権力」であることを見抜いた子どもたちによってこされていると思っています。昔は、きっと子どもの成長をただただ見守るだけでよかったのに、最近は、子どもをかくかくに育てたい、という親の「操作」が無意識のうちに働いていて、そこに「愛されているのではない。ただ親の見えだ」と感じ、それはつまり親の権力だと見抜いてしまう子どもたちが増えていると言うことなのでしょう。

 実は、カプラは、この本で、カウンセリングについても深く触れています。上記のイモントン夫妻の妻のほうがカウンセラーなのです。カプラが言うことには、カウンセラーは、そんなに深い勉強をしなくてもよい。昔、お寺や、近所のおばさんおじさんが担ったような役割を担えるだけでいい。つまり、聴くことに徹せられたらいい、と言っています。でも、実は、この「聴く」ということが難しいのですよね。
 昔大地塾に来ていた少女が、カウンセリングを受けに行って、ロジャーズによる「聞くだけで語るな」と言う教えを受けたカウンセラーが、「どうしてあなたはカウンセラーになったのか」と聞かれて、何も答えなかったと言うのです。それで、彼女はそこへ行くのを止めて大地塾に来たというのでした。
 何をもって「聴く」ことになりうるのか、これは難しいテーマだと思います。「聴く」ことによって、何か行動を起こさなくてはならないような内容を伴うことだってあります。それは例えば、自殺すると言うようなことを訴えられたときに、どうすることが「聴く」ことになるのか。

 実は、萌実から、すさまじい自殺の話が飛んできました。萌実からの個メールをつなぎ合わせて送ります。

 この40代の女性は、札幌の市民運動に関わっていた方で、精神障害者で生活保護、鬱でひどい状態だったんだけど、実際に自殺した理由は、自立支援法への抗議。10月31日に札幌市内の白石区役所の敷地内で首吊り自殺したんだ。新聞には小さく、テレビでは地方ネットで特集として報道された。その女性は性自認が男性だったこともあって、追悼集会にはゲイレズビアンコミュニティからの参加者も多く、あとは、障害者団体、旧くからの平和運動関係者とか、たくさん集まった。今後、自立支援法の被害者を出さないために、行政への働きかけも含めて、運動の一環という色合いもあった。1月16日にはこの件に関して、白石区役所との話し合いを持つ予定。

 新聞は北海道新聞にしかでてないはず。彼女の両親がそっとしておいてほしいということで、かなり私たちも最初慎重に動いた。自殺したときに手にもっていたというメモも両親の許可がでず、私たちもみてない。だから、報道にはもちろん名前はでてない。
 10月の初めに、彼女が発信したメールに、今年の5月頃自立支援法の調査員が突然来て、それから精神状態が悪化したこと、そして入院、でも半年入院すると家賃がでなくなるから無理に退院したこと(生活保護が打ち切られること)そして、自殺念慮と闘っていることなどがかかれていた。

 この本の最後は、フェミニストとの感動的な出会いである。1975年ごろから、科学史家キャロリン・マーチャント、「女に生まれて」の著者エドリアン・リッチ、そして「エントロピーの経済学」の著者ヘイゼル・ヘンダーソンと出会っていく。ヘンダーソンは、自分の子どもにきれいな空気を、ということからエコロジーに目覚め、「きれいな空気を求める市民」と言う団体を組織、ところが、何かを組織しようとすると必ずお偉いさんが、「それは経済原理にそぐわない」と言うので、とうとう経済学者になったと言う人。経済学の「嘘」を告発。

 「競合」「支配」「膨張」などが男性的な価値であるのに対して「協力」「養育」「謙虚」「平穏」など今日的には、軽蔑されている価値が、女性的価値である。と言うヘンダーソンに完全に共鳴してしまう。

 今、私と同い年のカプラはどうしているのだろうかと検索してみたけどわからなかった。知っている方は教えて欲しい。「久しぶりに読み応えのある本に出会えた」と言う書き始まりのHPで、「非常の知」の書評が出てきた。私も、同じ書き出しにしようかと思っていたので驚いた。


「操守ある保守政治家、三木武夫」(たちばな出版)
                       国弘正雄著  2005、11,21

 著者である国弘正雄さんからのお便りで知って、購入したタイトルのような本、あるひ一日中読みふけっていました。実は、10月14日(土)花のえんで、第3回目の女政のえんで三木睦子さんをお呼びするので、その予習にと読みはじめたのでした。

 この本の冒頭は、三木睦子さんと国弘正雄さんの対談。1937年、30歳で徳島から衆議院に立候補。日米同志会なんていうのを作って戦争がおこらないようにと論陣を張っていたので、大政翼賛会からの推薦はもらえず、それでも当選したと言うすごいことがあったのですね。国会でも、日米闘うべからずという演説をしていたそうです。1940年(私の生まれた年)結婚。

 国弘さんにブレインを頼むとき、国弘さんは、「あなたの政党には投票したことがない」と断ると、それは、あなたの良心に基づいてすることだから、と意にも介さず、週一ぐらいで国際、外交問題をレクチャーしてもらっていた。睦子さんが、自民党なんか出ればいいのに。と言うと、自分がでたら、改憲されてしまうと言う。戦争反対の平和主義者だった。スウェーデンのパルメ首相(何者かに撃たれて亡くなった)から招待されて、会いに行ったとき、ストックホルム国際平和研究所を見て、日本にもぜひこれを作る、といって帰ってきたのに、体を壊してとうとう実現できないままになくなってしまった。だから、その意思をどのようにして実現するか、睦子さんも、国弘さんも考え続けている。ストックホルム国際平和研究所は、王立委員会の提言をもとにスウェーデン議会の議決を経て作られ、世界各国から職員採用が行われている。理事も、世界中から。

 三木さんが亡くなったときの国会での追悼は、土井たか子さんがしていますが、その中で「土井さん、男はだめなんだよ。男は戦う歴史を作ってしまったのだから」といい、闘うことは間違っていると言う知恵を始めから持っている女の人たちの理性が政治を切り開いていく時代だと励まされたことにふれています。

 著者の国弘さんは、宇洋の議員会館に何回かきてくださっているようで、この本を読んで改めてこんな凄い方が支援してくださっていることを心強く思いました。石橋湛山、からつづく日本のリベラル派の系譜をたどって、さきがけ時代の田中秀征あたりまでを書いています。


「さらば悲しみの性」   高文研。初版は、1985年。

読んだのは、1994年の38刷です。(アマゾンの古本です)

 広島の産婦人科医、河野美代子さんが、私の長女萌実が勤めている北星学園(札幌)の生徒たちに講演してくださることになり、私も、それに合わせて、6月29日に札幌に行くことにしているので、その前に、河野さんの本を読んでおこうといくつかアマゾンに注文しました。今日届いたのが、この本です。9年間で38刷まで行くとは!正にロングセラーです。

 一挙に読めてしまったと言うのも珍しいこと。
 高校生に向かって、真剣に語っている本です。10代半ばで、妊娠して、中絶する、出産する、この二つの選択肢、どちらをとっても大変であることには変わりありません。どちらにしても、望まない妊娠であることには変わりない。「私がしたかったからしたの」とその女性が言ってくれるなら救われるのだけど、大抵は、「彼がしたいっていったから」「彼がかわいそうだから」「いやだけど断っちゃいけないと思ったから」などと、彼ができるととたんに従順になってしまう女の子たち。

 「お互いの責任」と言ってのける男性に「それなら結果にも半分責任持つのか?」と怒ります。結果はすべて女性が背負い、殺してしまった命への責任感をもち続ける女性たちに、自己主張をちゃんとしなさいと励まします。性欲の捌け口としか考えていない男性の行為を愛情と勘違いしないように。本当に愛し合って、育てていく覚悟ができたなら、どこまでも二人の意思を大切にしてとことん寄り添う河野さんです。
 16歳の男女が、生んで育てることを決心し、両親との葛藤をへたのち、両親のほうが変わっていって、寄り添えるようになった感動物語や、18歳の彼の子どもを二人の意思で親の反対を押し切って産んだ16歳の母。

 女の子たちに、本当は性というのはすばらしいもの。でも、二人にとってすばらしい性というのは、二人の間のコミュニケーっションと、時間が必要。と呼びかけます。自分の思いを相手に伝える努力なしには、関係は作り上げていけない。河野さんの夫が河野さんが落ち込んだときにしっかりと受け止め、慰めている。感動的な本でした。

 この本をめくると飛び込んでくるのは、生まれたばかりの赤ちゃんを取り上げている河野美代子さんと赤ちゃんの写真です。この写真をとったのは、英伸三さん。びっくりしました。英さんは、25年ぐらい前に、我が家に泊まりこんで、子どもたちの写真をとって、「みず」「じめん」などの絵本にした懐かしい方です。「みず」は、絵本のノーベル賞と言われるボローニア賞を取り、フランス語に訳されています。帆姿、乙水、巌志がその本に登場しているんです。

 こんな河野さんを広島県で講演をさせないようにしてしまっているバックラッシュグループは、広島県の高校生たちから性の知識を取り上げてしまっていることになります。今進行中の広島性教育裁判をもっともっと応援したくなりました。


「アメリカに『NO』と言える国」
                      文春新書、2006,2

 著者の竹下節子さんは、長年フランスに住んでいた方で、この本は、「欧米」という言い方で、アメリカとヨーロッパを一緒にしてはいけない。もう少し正確に言うと、「アングロサクソンは、ヨーロッパの中では、ちょっと違う」という感じ、それを彼女の言葉でいうと「ユニバーサリズムとコミュノタリズムの違い」、として対置しています。その一番の違いを私はこのように理解しました。アメリカでは、エスニックごとの統計を取って、例えば、黒人が、割合として、大学に入る率が少ない、ということがわかると、クオータ制(割り当て制)をしいて、何%は黒人に、という形で、平等を保障する。それに対して、フランスでは、そういう統計は取らず、フランス語を話して、フランス国籍をもっている人は、すべてフランス人ということで、それがユニバーサリズム。

 フランスの政教分離は、20世紀はじめ。アメリカでは、公立学校から、キリスト教の祈りの時間の廃止は、1962年。フランスでは、ライシテという「公の場は、非宗教化する」という伝統ができている。学校でのイスラムスカーフの禁止もその流れ。

 アメリカは、連邦制。ヨーロッパは、連合。連邦の場合には、その上に大きな権力が存在し、連合の場合には、緩やかなまとまりで、一つ一つの国に主権が存在する。

 ということできたのだけど、ココのところアラブ人たちの暴動などがおきて、フランスのユニバーサリズムも揺れてきていますね。アングロサクソンは、効率を重んじるが、フランスは、理念を重んじる、といってきていながら、どうなるのか?

 ただ、イラク戦争については、敢然とアメリカにNONをつきつけ、世界中の反戦主義者の先頭に立ったフランスは、今も、その点では、輝き続けていますね。益々のイラクの泥沼化が、益々フランスを輝かすことになるでしょう。この本は、そういうことができるフランスの「理念」に迫っていると言う点で、大変興味深い本でした。


「まだまにあうなら」(地湧社)
                  甘蔗珠恵子著  2006,4 刊
 
 「まだまにあうなら」という本が、20年ぶりで再発行されました。1986年のチェルノブイリの事故後に甘蔗珠恵子(たえこ)さんという九州の方が、お友達への手紙という形で書いた300円という薄い本がありました。そのころ100冊単位で購入して、押し売りをしたものです。それが、今、もう少し付け足された、同じ出版社から1000円で出ました。これもまた、20冊購入して、殆んど売れてしまっています。彼女は、まだまにあう、というメッセージを送ってくれています。

 私は、エネルギー問題という言い方で、この原発の問題を認めて行くということには納得できません。まずは、止めて、代替エネルギーの開発を、とおもっているのですが、それより何より、節電でしょう。とっても簡単なことは、待機電力を家の中からなくすこと。私は、テレビのリモコンを使いません。待機電力は、全電力の10%にあたるそうで、全電力の30%が原子力だということなので、そのうちの3分の一は減らせるはずです。チェルノブイリを記念して、毎月26日の夜8時から15分間電気を止めるということを呼びかけていたグループがありました。これは結構大変です。よほどの障害が無い限り、待機電力を無くすことは、誰にでもできることなのでは?


[こんな町なら老後は安心」(筒井書房)
                大熊一夫、岩川徹、飯田勤,編   2006、2 刊

 こんなタイトルの本が著者の一人大熊由紀子さんから送られてきました。実は、すでに購入済だったのだけど、ぱらぱら程度だったので、今回は、腰を入れて読ませて頂きました。

 以前にもこのことにふれたことがあるので、ご存知の方が多いと思いますが、秋田県鷹巣町で、岩川徹さんが町長になって、(91年)日本中が注目する「福祉の町」が出来上がりました。2003年の町長選で、思いがけない落選。その後、福祉の町が大変な状況になっていることは、羽田澄子さんの「あの鷹巣町のその後」という映画で報告済です。

 ところで今回の本は、この鷹巣町の福祉にかかわってきた方のほぼすべてが登場する実に立体的な本になっていました。そもそも、大熊由紀子さんが、92年に岩川町長に呼ばれて講演に行った。そこら辺から始まって、99年にケアタウンかたのすが出来上がるまで、大熊一夫さんは、何回も取材に行って報道します。羽田さんは、町長選挙などもカメラに収めて、この「福祉の町」が出来上がる過程を映画で報道していきます。大熊一夫さんは、いつもはらはらどきどきしていたそうです。だって、鷹巣町議会は、反対派のほうが多くて、はじめに全室個室の特養を作るということで、日本財団から15億円の補助が出るという申し出があったというのに、町議会はそれを否決!その後、町議会選挙で逆転し、1票差でやっと、老人保健施設ケアタウンたかのすの設立が可決するのです。

 反対派の言うことは、「身の丈福祉」「贅沢だ」などに対して、今はなき建築家の外山義(ただし)さんが調査結果を持って反論します。4人部屋から、個室に移った老人たちの変化を学生の力を借りて数値に表す。その結果わかったことは、個室に移って、老人同士の会話が増え、居室にいる時間が減り、家族の訪問が増え、オムツが外れ、笑いが増えた。これって凄いことですね。(この調査結果によって、厚労省は、全室個室に切り替えたのでした。)どうしてか。雑居部屋では、人間扱いにされていない、ということが、意欲の焼失を招いているのでは?私はそう感じました。

 町長が変わって一番驚いたのは、グループホームをなくしてしまったことです。私の母が、グループホームにはいっていますが、今、そこを立ち退けといわれたらどうなるか、と考えただけで、それがいかにひどいことなのか想像できます。

 大熊一夫さんは言います。デンマークの福祉が出来上がるのには、数十年かかった。鷹巣も、まだまだ発展途上だ、と。そうなのかもしれません。


「経産省、山田課長補佐、ただいま育休中」
              日本経済新聞社、山田正人著   2006,1,22

 1月22日に初版が出て、今何刷りまでいっているのかわかりません。とにかく注文のほうが多くて増刷が間に合わないことだけはわかっています。それもそのはず、なんと言っても楽しい本だからです。男女の双子が初産。何処かのうちと同じです!そのときには、母親が育休を取るのは当たり前で、何事も起こらなかった。

 3人目が、出現しそうだと気付いたとき、著者である正人さんは、やったー!と喜ぶのだけど、妻、その姉、その母は揃って「うれしくないことはないんだけど、ね」という反応。この夫婦は、大学の学部まで同じで、同期、経産省に入ったのも一緒。初産のときには、妻とそれを取り巻く女性陣が頑張ったのだ。

 とうとう今回は自分が育休をとることになった。妻は特にそのときやっている仕事が意味のある、重要なものだったようだ。
 妻の予定日前1月間たまっていた年休を取り、双子の保育園の送り迎えをはじめる。保育園にいってもコチコチで、育休を取ったなんていいだせない。そんな父親が、育児の楽しさにはまり込んでいく様子が、コミカルタッチで書かれている。妻とのやり取りなんて本当に愉快だ。どこのうちでも行われているような、喧嘩ともおしゃべりともつかない行き違いがリアリスティックに描かれている。最後は大抵、妻の言い分をうけいれる柔軟性がある本人の独り言で終わる。

 公務員である保健婦さんとのやり取りも愉快だ。「まるでお役人のような立場論だが、私も役人なので、ついつい納得してしまう。」そんな柔軟性が、読ましてしまう根源かもしれない。
 専業主婦が、家で子育てをしていると、帰宅した夫にしゃべりまくるということが良くあるが、これは、男女にかかわることではなく、昼間赤ちゃんと言葉での会話ができないので、彼もやっぱり誰にでもたくさんしゃべるようになったという。子どもたちの会話も、実にいきいきと描かれている。「無理しない育児」というテーマも、私とはしっかり共通する。

 全体として、こんな豊かな営みを女に独占させるのはもったいない。という呼びかけがさわやかに受け取れる好著だと思った。この本が売れまくるということを大歓迎したい。4月23日の「ダブルシフト」上映会で販売する。


 「驕れる白人と闘うための日本近代史
            (文芸春秋社)松原久子著、田中敏訳  2005,8,25発行

 この題名を見て「右翼?」と息子が聞きました。そうですね。そんな印象を与えるかもしれないけど、全然違います。

 著者の松原久子さんは、この本をドイツ語で書き、その本は、「宇宙船日本」というタイトルでした。文芸春秋社が、田中敏さんの訳で日本で出版するときに、このタイトルになったのでした。

 松原久子さんは、以前ご紹介した「日本の知恵、ヨーロッパの知恵」の著者で、「言挙げせよ日本・欧米追従は敗者への道」をその後著し、自ら言挙げし続けてこられて、この本にいたります。今はアメリカに住んでおられますが、長年ドイツに住み、ドイツ人からの日本批判を真正面から受け止め、著書で、テレビその他で、反論をしてこられました。テレビでそれを見ていた女性から、駅のホームで平手打ちを食わされるという事件まで発生しています。「われわれのテレビでわれわれの悪口を言うのはこれだ!」と。

 批判に対して一つづつ反論します。「革命を経験していないのは、意志が弱いから」対して「貧富の差がなく、農民も、年貢についてその代表を出して大名と話し合う、そんな民主主義があったからだ」と。そういわれると、あら?江戸時代は、農民は「生かさず、殺さず」で年貢は搾り取られていたのでは?それに一揆も続発したのでは?と思うのですが、日本は同時代のヨーロッパに比べて公正と自治が高度に発達していたということを資料に基づいて描写しています。読み書きも、村のことを相談して決める習慣があったので、同時代の西欧と比べて発達していたといいます。一揆もよく調べてみると年貢についての話し合いの延長のようなものまで含められていた、とのこと。

 鎖国時代、移住は許されなかったけど、旅行は、お伊勢参り、などで頻繁に行われ、それによって技術の均一化をもたらすことができた。大名は商人からは税金を取らなかったので、商売は大きく広げることが可能だった。度量衡や、建具の大きさも全国統一されていた。
 商品が、一般的にあふれていた日本では、買い手市場だったのに対して、商品が不足がちだった西欧では、売り手市場。だから日本では、商品を改良していくことの必要性が高く、技術が発達した。

 農地は、賃貸権と、使用権があるのみで、それは所有権とは違った。大名もサムライも所有権を殆んど持っていなかった。江戸時代は、農地は、共同所有だったので、自主的、民主的に使用方法が決められたのだそうだ。幕府は一部の人に所有農地が集中しないように、叉、農地所有を営利目的にしないように注意を払っていた。
 1872年明治政府による「農地改革」で、大地主が発生。西欧に習ってしまった。

 日本はなぜ自発的に近代化しなかったのか?
 機械工業化する必要がなかったのは、商品が余っていたから。機械化が必要になった西洋は、物不足による。
 叉思想的に、ルネッサンスのような躍動がなかったのは、キリスト教会が君臨していた西洋との違いが大きい。日本では、仏教が入ってきてもそれまでの土着の多神教を包み込んで、神話などは尊重していたので、対立する必要がなかった。キリスト教の君臨との戦いのために武器の開発が必要で、戦争が絶えなかった。

 「白人奴隷」の存在、皆さんご存知でした?
 なんと、西欧は、オリエントとの貿易で、白人奴隷が唯一つの輸出品だったというのです。
中国などなぜ、アフリカを植民地にしなかったのか、と西欧の人は言うけど、中国も日本も、国内で、不足するものがなかったので、その必要性がなかった。西欧は、植民地を獲得して、ようやく輸出品が手に入る状況だった。それまでは、金銀で返していたので、それらのオリエントへの流出が激しかった。

 アメリカ大陸を占領するとき、アラブの商人を壊滅させるとき、西欧人が何をしたのか、読むだけで身震いが起こってくる。キリスト教という後ろ盾があって、自分の正義に確信を持つことがいかに恐ろしいのか、この本を読んで感じ取っていただきたいと思います。


「靖国問題」  高橋哲哉著、ちくま新書 (2005,4,10)

 以前、活動報告の中で、靖国神社の隣にある遊就館の紹介をしましたね。あそこに行くと本当にひどい、何とかしなくてはという感じがしてきてしまいます。私は、東京生活の中で、3回いきました。まだの方はぜひ行ってみてください。戦争に駆り立てるという目的が隅々まで行き渡っています。

 この本は、どうしてそういうことがまかり通るのか、かなり複雑なことを、実に明快に説いてくれています。

 まず、戦死者の遺族、特に一人息子を無くした母親の悲しみをどのようにして昇華し、国家への反抗を抑制して、国家に尽くしたすばらしい息子だと納得させるか。そのために1869年に東京招魂者として設立され、10年後に靖国神社となる。そこに祀られることによって、悲しみが歓喜にまで変身する。そのことを高橋哲哉は「感情の錬金術」という。この魔術から逃れるには、「悲しいのにうれしいといわないこと。」といとも簡単に言ってのける。靖国信仰から逃れるすべは、国家の物語、国家の意味付けを受け入れないこと。ともいう。

 歴史認識が問われ始めたのは、中曽根首相の靖国参拝(1985)からであった。実は、その前にすでにA級戦犯の合祀(紙に名前を書いて張り出すこと。お骨は関係ない)は行われていた(78年)。そもそも、66年に厚生省は戦犯の名簿を靖国神社に提出していたのだが、靖国神社自体が国民感情を考えて、78年まで据え置かれたという。ところが、これも内緒で行ったようで、国民に明らかになったのは、79年4月19日の朝日新聞。このことで、諸外国からも、国内からもかなりの批判を浴びるが、85年中曽根首相参拝以後、中国からの批判が強力になる。それは、サンフランシスコ条約で、東京裁判の判決を受諾しているという事実が、中国からの批判のバックにあり、したがって、そこを覆すことはできない中曽根首相は、二度と参拝に行かなかったのだ。

 靖国神社には、明治維新以来、日清戦争、台湾征討、北進事変、日露戦争、済南事変、満州事変など、日本が植民地を獲得するために必要だった死者もたくさん祀られている。この方達は、天皇=国家=神による統治に逆らう蛮人を征伐した「英霊」である。ところが、植民地化されるや、それまで「蛮人」と言われていた人たちが「日本人」となり、太平洋戦争で亡くなった台湾、中国、朝鮮の人たちが靖国に祭られた。この方達から、戦犯と同じところへは合祀されたくないといわれても、靖国神社は拒否。2001年には、韓国の遺族5人が東京地裁に提訴した。

 小泉首相の参拝について、政教分離に反するということで、たくさんの裁判が行われてきたが、国家賠償請求が認められたところはないにせよ、違憲判決は複数ある。反対に、合憲という判決も一つもない。

 江藤淳が何とかして靖国と日本文化を結び付けようと苦労しているが、成功していないという。どこの国だって、自国の戦死者は、国の墓地に祀る、と言っているが、日本の戊辰戦争の東軍の戦死者は、手に触れてはいけないとされ、野獣が食べるに任せていたのだという。

 これは、アメリガが、南北戦争の勝者である北軍の戦死者を祀る墓地としてアーリントン墓地を作ったのと同じだ。ほかの国も同様に、国家のために闘ったものだけを祀っている。それは、文化の問題ではなく、国家の政治的意思による。

 それなら、無宗教の国立墓地ならいいのか?
 小泉参拝のあと批判が噴出し、当時の福田官房長官が、私的諮問機関を作り2002年12月、無宗教の国立墓地建設を進言した。「不戦の誓いを新たにした上で、平和を祈念する」施設だという。

 では、一体A級戦犯はどうする?そこをあいまいにして、歴史認識を鮮明にせず、でも、「日本の平和と独立を脅かしたり、国際平和の理念に違反する行為をしたものの中に死没者が出ても、そこには祀らない」となっている。それでは、靖国と変わらない。国を守る「正義の死者」だけを英霊として祀るのだ。このような墓地は、世界各国とも、戦争に駆り立てるために必要とされ、国家が戦争を行うために必要な施設だということで作られてきている。千鳥が淵、平和の礎もすでに第2の靖国になってしまっている。平和の礎で行われる慰霊の日に、軍服姿の自衛隊高官や、米軍などが参加するようになって来たのであるから。

 かつて首相を経験した石橋湛山が、1945年10月に靖国神社を廃止するという提案をしている。戦争中に小日本主義をかかげて、軍国主義と果敢に戦った石橋ならではの提言だ。

 最後に、高橋哲哉は言う。
 国家機関としての靖国神社を名実ともに廃止し、国家との癒着を絶つこと。
 合祀取り下げを求める内外の遺族の要求には、靖国神社が応じること。
 この二つが実現すれば、靖国神社は、そこに祀られたいと遺族が望む戦死者だけを祀る1宗教法人として存続するだろう。

 その上で、近代日本の対外戦争のすべてを正戦だと考える特異な歴史観(遊就館の展示が表現している)を自由な言論によって克服されるべき。そして、憲法の「不戦の誓い」を担保する脱軍事化に向けた不断の努力が必要。とまとめている。

 この本が、2ヶ月足らずで、7刷までいっているということに希望を見出しています。



「オランダモデル」-制度疲労なき成熟社会
                     -長坂寿久著(日本経済新聞社)(2000,4)

 今日は、5月23日。明日の朝早くに成田を発ってオランダに向かいます。その前に、オランダの勉強をしておこうと読んだのが、この本です。結構興味深かったので紹介させてください。この本が出版されたのは2000年なのでちょっと資料が古いかもしれません。でも、学ぶ点がたくさんあります。

1、「ダッチモデル」(ダッチとは、オランダの、とか、オランダ人の意)と呼ばれる経済成長を遂げた(オランダ病といわれるほどの経済の落ち込みを90年代に回復した)のは、パート労働が増え、しかも96年 に労働時間差差別禁止法を導入することでそのパート労働を国が支え、結果としてワークシェアリングが、スムースに実現した。その結果、一家の収入が1,5倍になり購買力も増した。経済の好調に拍車をかける。

2、労組の組合員の要求として、パート労働を増やし、パートとフルタイムの差別をなくす、が出てきた。その根拠は、家事育児を大切にするということ。その観点から、休暇、保険、年金なども、差別がない。労働時間に比例している。

3、雇用契約が、パートも、正規雇用。週35時間未満をパートと定義。期間労働は、フレキシブル労働といい、派遣労働が多い。

4、これらのことは、政労使の合意によってもたらされた。

 オランダの標高は、最大が、321メートル。人口の3分の2は、海面下の土地に住んでいる。だから、ふざけ半分に50メートル以上の所は「山」とよばれている。そんな地形があって、治水が発達し、コントロールが、キーワードだという。安楽死、売春、などが認められているのも、禁止してもどうせ行われるのであれば、法律で認めることによってコントロールするということを選択する。移民が早くから認められ、移民の数が多いことで、揺光がいっているユトレヒト大学に移民学があり、その講義は、英語で行われている。

 日本のジャイカに当たるものがなく、開発国援助は、NGOが担当している。官と民の提携もたくさんの移民で違いを認め合えてきたので、かなり容易らしい。日本では、姉妹都市を結ぶとき、自分にとってメリットがある相手を選ぶが、オランダでは、自分が相手の役に立てるところを選ぶという。

 日本の介護保険のモデルは、ドイツだといわれているが、実はそのモデルがオランダだという。老人のデイケアとか、保育所とか、見てきたいものと思っている。実際の姿を見てきて、修正しなくてはならないものかどうか?楽しみです。


「痴呆の哲学」   (弘文堂、大井玄著)    2004,6

 痴呆を受け入れるのにとっても参考になる本でした。
 著者は、医学の研究者として、佐久病院のスタッフと痴呆老人の家を回ります。すると、帰ってくると欝状態になってしまいます。ほかの人がならないのに何故自分だけ、と考えていたら、アメリカでの生活が自分を追い込んでいたと気づきます。というのは、アメリカという国は、勝者にとっては、すばらしい国。でも敗者にとっては? 

 アメリカ人が一番嫌がることは、アメリカ版特養(ナースィングホーム)に行くこと。競争社会の典型であるアメリカでは、知力が衰える事を始めとする能力が衰えること、それ自体が落伍者ということになる。それがトラウマとして残っていることを発見した。

 こんな調査結果が発見された。痴呆の出現率において東京都とほぼ変わりがない沖縄県島尻郡佐敷村では、痴呆老人に、東京で見られたような欝状態、妄想、幻覚、夜間せん妄状態などが一例も見られなかった。沖縄在住の精神科医真喜屋浩による調査だった。それは、沖縄のゆったりした生活状態、年寄りを敬う文化などによって、痴呆を受け入れやすい環境が用意されていることによるというのだ。

 叉更に、同じ痴呆の老人でも、受け入れがよければ、問題行動がなくなるという実践結果がでているので、なあんだ、大人も子どもも、お年よりもみんな同じなんだ。問題行動というのは、自分が受け入れられていないという思いを表現しているんだ、と改めて、当然過ぎる結論を得たのでした。

 このことがわかると、希望が見出せます。受け入れ状態を良くすると言うことに努力すればいいだけなのですから。「夕暮れ症候群」についても書かれていました。夕方から、「うちへ帰る」というのが、始まって、中には、生まれたときから同じ家に住み続けてきたおじいちゃんまでが、そういうことをいい始めるのだそうです。それも、決まって夕方から始まると。私の母も同じです。だから、これからは、毎日夕方訪ねることにしました。

 10日には、東京で孫たちの家に泊まって11日に帰る予定でした。その前日は、母をうちに呼んで夜ご飯を一緒に食べ、「10日にはこられない、11日にはくる」事をもう少し丁寧に書いた物を職員に渡しておきました。この紙は大層な効果を発揮したそうで、「秩子が来ない」といわれるたびに、その紙を見せるとしっかり納得するのだそうです。「2日間とっても安定していました。」といわれ、「痴呆の哲学」効果だと思った次第です。


「痴呆性高齢ケア」 (中公新書)小宮英美著  1999年10月刊。

 今ごろこの本を読んだのは、私の母の痴呆、いえ、認知障害がかなり進んでどうしたらいいのかわからないことが出てきて、すがる思いで読んだのでした。そうしたら、この本が、介護保険前に出ていると言うのに、内容がとても新しく、ここで提言されていることの多くが、実際に実現してきていると言うことがわかりました。この本の副題がーーグループホームで立ち直る人々ーーとなっています。

 私の母は、2001年、私が議員になって東京に行ってしまった頃から少しずつおかしな行動が始まり、2002年6月に転んで大腿骨骨折で入院したときには、自分自身の母親がまだ生きていると思っての発言があったり自分のいるところがわからなくなったり、退院してきて、少し改善はしたものの、骨折とか、入院とか、本人にとって思い出したくないような体験はすべて忘れてしまうのでした。これこそが、認知障害の真髄、と思いました。忘れられると言うことはすばらしいことですものね。その後2回大腿骨折、それも忘れているし、地震もすっかり忘れています。

 小宮さんのこの本は、1997年1月に放映された「ボケなんか怖くない〜痴呆老人ケアの新たな挑戦」と言うNHKの44分番組に向けての取材活動からでてきたものです。東京都立川市にあるグループホーム至誠のお年寄りを紹介しています。このホーム長の橋本正明さんはフィンランドで学び、フィンランド人の妻と暮らしています。このGH(グループホームの略)に入って来て、お年寄りのそれまでの問題行動がなくなっていく様がつぶさに描かれていて感動します。問題行動には、それなりの原因があり、それが取り除かれれば、問題行動はなくなるということでしょう。

 リロケーションという言葉がありました。私の母は、去年秋、ケアハウスからGHに移って来た、そのように住むところが変わることをリロケーションと言います。それは、お年寄りにとっては、混乱を招く、と書いてありました。実際、引越ししてから、がらりと悪くなっているのです。

 「私はこれからどうやって生きていったらいいの?帰るところはないの?」夕方から夜にかけて、このことで悩むようなのです。「ここはあなたのおうちなの」と言っても違うと言うのです。「雪がとけたら、私のうちに来るといいわ」といってもそんなにいつまでもここにいるの?といわれてしまいます。

 小宮さんは「痴呆になったら本人は気楽か?」と問い掛けます。私は、母を見ていて,NOと応えます。一番大変なのは、本人だと言うことがよくわかります。どうして自分がこんなに物事を忘れてしまうんだろう。いつもいつもそれは思っているようです。だから、私はいいました。「忘れてしまうことが多くなって、ご飯も自分で作れなくなって、そういうのは、認知障害っていうのね。そういう人たちのために作ったのがここ『桐の花』ってとこなのよ」小宮さんが、痴呆の告知をした方がいいのでは、と書いておられたことに助けられてです。「私のうちに来ても、私が出ていれば、一人でいなくてはならないでしょう?ここなら、皆さんお友達がいるでしょう?」「一人もいないわよ。何にも話したことないし」となってしまうのです。実は、いつも居間とか、食堂(この二つはつながっていて、共同の空間です)にいて、交流しあっているのですが。混乱すると、そこにも出て行かないようなのです。

 小宮さんはいくつかの提案をしています。その中の一つが、痴呆という言葉をなくそう、でした。これは、すでに実現されました。私が、母に告知をするときに痴呆というより認知障害という方がいいやすかったということがあります。名前を変えても何も変わらない。という言い方もありますが、やはり、ご本人が受け入れられやすい名前の方がいいですよね。精神薄弱、よりは、知的障害の方がいいと思いますし。「認知障害という病気なのだから、忘れるということを恥ずかしく思わなくていいのよ」といい続けていこうと思っています。

 小宮さんにお礼がいいたい気持ちで、ご紹介させていただきました。


[昭和天皇](講談社)上下,ハーバート・ビックス著 2002,11,25

この本を読む前に「天皇ヒロヒト」上下という文庫本を読みました。これは、イギリス人の書いたもので、天皇に対して敬語が使われていました。ここに書かれていたのは、私が今まで思っていたことと大して違いがありませんでした。ヒロヒトは平和主義者で、本当は戦争をしたくなかった、でも、軍部の要請で仕方なく「裁可」(許可)してきた。というものでした。
 ところが、このビックスの本は全然違っていました。敬語なしで、キチンと批判的に書かれています。1930年に入ってから、色々なことがおこり、「満州事変」という言い方で日本軍の侵略行為を薄めながら、どんどんエスカレートさせ、毒ガスや生物兵器まで、天皇は「裁可」しています。
 私は、ヒロヒトはもっと無能な人なのかと思っていましたが、そうでもないらしく、政府や、軍部がやっていることに対して、疑問があれば、どんどん質問して、納得がいかなければ、反対もしています。人事権も持っていて、彼なりのネットワークを通じて、それなりの人物評価をして、時には、自分で首相を決めてもいます。

 下巻になると、いよいよ戦争への道となります。かなり細かいところまで突っ込みを入れて、むしろ細かすぎることが判断を誤らせることになったりもします。敗戦が見え始めてきたとき、彼は、「もっと戦え」と激励することしかしません。引くことを知らないのです。ガダルカナルでの敗戦では、まるでそこにいた兵隊たちの士気がたりなかったといわんばかりのコメントをしています。

どうやら、日本が負けることはいやだけど、勝っている分には、何をしてもいい、いちばんの関心は、自分の身分が保証されるかどうか、というような矮小なところにある、日本の国民が殺されるということより、国内の反天皇制の動きが起こることのほうが怖いという観点から決断をしていきます。叉、中国人は人間とは思っていない、まるで奴隷のように見ている、だから、南京での虐殺や、蛮行についてそれをとがめることはありませんでした。

叉、日本の国民に対しても、戦後だいぶたってから、広島の原爆のことを聞かれて「戦争だから、そういうことも仕方ない」と答えているように、国民の意識とは相当ずれた認識で、まるで国民の命は、自分の所有物であるかのように思えました。

ものすごくたくさんの犠牲の上にやっと戦争が終わった、というとき、彼の意識は、自分の退位と戦争責任に集中されます。身の安全のために虚偽を装うことなどなんのそのなんですね。これは、その後の資料でどんどん明らかになっていきます。弟高松宮の回顧録で開戦を思いとどまらせようとしても、好戦的だったと指摘されてしまいます。

この虚偽報告によって、うその上塗りが必要になり、その後のモラルの低下と、国民からの政治家や上層部に対する根強い不信が後をたたないことを結果したのです。

そのような天皇制が国民の信任を得ている限り、この国に民主主義は、根付かない、とビックスは言っています。アメリカの占領政策も、日本の指導部も、日本を共産化しないためにという政治的配慮が、公正に戦争犯罪を裁くということより重視され、天皇を犯罪人にしないことによって、裁判とはいえないような裁判が行われてしまい、無責任体制を補完したのでした。

象徴天皇制になってからも、マッカーサーと10回も会見していたことから、その後も、政治家たちとつながりを持ち、自分の意志を伝えるというやり方で、政治に秘密裏に関与し続けてきました。その中で、平和条約を結ぶに当たって、沖縄に米軍を配置して欲しいと頼んでいます。どうやら、戦争中と終わってからも変わらないまま連続的に意志を保っているのです。「戦前と戦後の価値観の変化があるとは思っていない」と75年に発言しているのでした。

天皇に対する批判ということは、日本人としてはかなり恐怖心を持って行うことのように思っていましたが、この本を出したところが講談社だということにも、驚きました。

この本を読んで、一体どこから手をつけたらいいのかと、頭を抱え込んでしまったというのが、現状です。


「性差の科学」(ドメス出版、1997,3,31)
               編著 坂東昌子功刀由紀子、

 私が子どもたちを実験材料(?)として追及してきたテーマそのものの本だ。この本の中心は、編著者のお二人と長谷川真理子さんの3人が理科系の研究者として追及してこられた最新情報を、赤松良子さんが聞き取る、さらには、政治的、社会的な問題として投げ返す、という形で4人の座談会が数回に分けて長時間行われたことが元になっている。愛知大学教養部の総合科目での講義録も加わっている。
 2年ぶりでこの本を読み直して見た。新潟に山下泰子さんが講演にこられたときに紹介していただいた本だ。

フェニミズムの運動にかかわる多くの女性たちは、こういう。
「性差を言って何になるの?性差別を助長するだけではない?」
「性差より個体差の方が大きいでしょ」
「女性である前に人間でしょ」
こんな言い方で、庶民の中にある「生まれたときから男と女は違う」と感じている思いを封じているように思う。

 私の場合は逆で、男らしく、女らしく、と育てるから、こんなに違いが出てきてしまったので、生まれたときから同じに育てれば、もっとずうっと違いがなくなるだろう。と考えて、初めて生まれてきた男女の双子で「同じに育てる」実験をはじめ、その後に生まれてきた男女の年子や、19年間保育士としてかかわった来た子どもたちをも含めて観察し、「こんなに違いがあるんだ!」という驚きを感じ続けてきたのだった。

 この本の中で、理系の研究者たちに社会的、政治的観点から鋭い質問を投げかけるという赤松さんの役割も際立っているが、3人の研究者の、科学的に言い切れることと言い切れないことを実にキチンと分けて論じているのもとても好感が持て、引き込まれるように読んでしまった。

 ホルモンや、脳の構造による性差が、いくつか証明されている。(1996年現在)
まず、攻撃性について様々な角度から検討が加えられている。Y染色体の数が正常より多い男性は凶暴な犯罪を犯す割合が多い、ということでY染色体が攻撃性染色体といわれた時期もあったが、現在それは統計データで否定されているという。
 でも、殺人に限って言うと、男性の加害者が90%で、しかも、年齢で言うと、18歳から増え始め、ピークは22,5歳。これは男性ホルモン・テストステロンの分泌と深い相関関係がある。といってもこれは「状況証拠」程度だ。もう一つ、テストステロンの血中濃度は、アメリカ人が一番高く、アジア人、日本人は少ない。そして攻撃性のレベルはアメリカ人が高い。でも、アマゾンに住むヤノマモ族はテストステロンの血中濃度はアメリカ人より低いのに、攻撃性はアメリカ人より高い。というわけで、攻撃性とテストステロンとの関係は、まだまだこれからの研究に待つところだ。
 ヒトの胎児期における脳の性分化は、原型は女性型で、胎児期にテストステロンの作用によって男性型になる、といわれているが、動物実験では、違う結果がでたりしていて、これも確定できないらしい。
 でも、Xだけのヒトが存在し、それは、女性なのだけど、攻撃性が全然なくて、お人形あそびが大好き、乱暴なことが嫌い、そして方向感覚が〇だという。XX,XYという言い方で言うとXOといわれ、ターナー症候群と名づけられている。これは、Xだけでいのちは存在することができ、したがって、いのちの原型は女性であるということにつながっている。
 
 この攻撃性を抑える作用は、どこかにあるのだろうか?大脳皮質によって抑えられないか、という問いに対して、マッコビーは子どもの世話をするかしないかで、攻撃性の傾向が違う。子どもの世話に慣れている男子は、そうでないものよりも仲間に対しての攻撃性が少ない、と言っている。
 ただ、マッコビ―が言っているという次の点に対しては、私の実験結果から、反論したい。「ヒトは生後2年は男女に殆んど差がなく、すべて女性的な性格」。私の男女の双子は、1歳の誕生日の頃、与えられた人形をぎゅっと抱きしめてほお擦りをする女の子に対して、男の子は床に転がして目を閉じたり開いたりしていた。1歳にしてすでに性差があるという結論を出すには、少々データ―が不足しているが。

 この攻撃性ということについては、この本の中で、赤松さんがとってもこだわりを持って突っ込んでいた。あって話したときにも、こんな言い方をしておられた。「男が攻撃的だから戦争になるんでしょ。女がもっと議会に出て行けば防げるかもしれないじゃない。男と女が違いがなかったら、女が出て行く意味がないでしょ。違いがあるから、出て行く必要があるのよね。だからWINWINが必要なのよ」
 そうなのだ。違いがないという形で女性の地位を高めようとしてきたのは、その時代には、女の方が劣っているという言い方で違いを述べ立てられていたから、そういういい方が必要だったのだ。でも、いまは違う。違いがあって、その違いを認め合いながら、お互いの持ち味を出していくということが男女共同参画ということなのだろう。それがこの本のいちばんの存在意義だ。

 脳の構造の問題も最近はだいぶ解明されてきていて、言葉を話すときに男性は左脳を使い、女性は左右両方の脳を使う。言語能力は女性のほうが優れている、男性のほうが数学の力は高い、ということと、この脳の構造とどんな関係になるのか、それもこれからの課題。ただ、こんなことがわかってきている。数学が特別できる人は、圧倒的に男であるために、男が数学ができると思ってきた。ところが、できないほうも圧倒的に男が多い。これが、染色体のレベルの話と一致している。X染色体上のいくつかの遺伝子が欠損したり、並び方の順番が逆転したりして出来上がったものがY染色体、つまり、X染色体が原型であることがわかった。そのため、X染色体上の遺伝子は安定しているのに対して、Y染色体上の遺伝子は不安定で、突然変異が起こりやすい。そのために、女性は粒ぞろいだけど、男性がばらつきが大きいということ。

 最後にミトコンドリアのことに触れてみたい。赤松さんが興味をもたれたのは、ミトコンドリアにある遺伝子が、子どもに伝達されるとき、卵子の中のはすべて子に移動するのだけど、精子の場合、尻尾の部分に入っている遺伝子は、卵子の中に入っていくときに尻尾が切れてしまうために子に移動できないのだ。だから、その部分の性質は、母親からのみ伝達されるということがわかってきたそうだ。今は亡き私の父親がよく言っていた。母親の方がたくさん遺伝するのだって。

 最近女脳、男脳、の最先端の講演を聞いたが、この本が出てから後、ずうっとこの問題は進んできていると感じた。 

 
山本譲司、獄窓記(ポプラ社)−−2003,12,6

 岡田弥生さんに薦められて、この本を読んだ。薦めてくれたのは、水戸事件の控訴審の報告集会の最中だった。
だからこの本はきっと知的障害者にかかわる本なのだろうと思って読み始めたけど、なかなかでてこない。

 でも私は、はじめから興味深かった。彼は、大学を卒業してすぐ、色々な市民運動をしているときに、菅直人が新聞に秘書募集の広告を出しているのを見つけて応募、合格して公設秘書になった。菅直人は新党さきがけのときから一緒だったので、その秘書ということでこの事件のはじめから興味を持っていた。ただ、丁度私が議員をしていたときに逮捕され、彼が獄に入る時は、私の選挙の真っ最中だったために新聞や雑誌などゆっくり読んでいられなかったので、今回事件の経過そのものにもとても興味がわいた。彼という人物が、好感が持てる、何とかして、問題を自分に引き寄せて、人のせいにしないで解決していこうという姿勢に共感が持てる。刑務所の話は、先日、水戸事件を立件するのに大きな貢献をした人が、執行猶予付きで出てきたアカス社長に抗議したことで実刑判決を受け、下獄してからその報告を聞いたことがあるのみで一つ一つが好奇心の対象として興味深かった。

 第3章になって疑問は解消した。山本譲司の刑務所の中での仕事が、指導補助といって、様々な障害を持っている囚人たちの世話をする役だったのだ。痴呆、知的障害、自閉症、視聴覚障害、精神障害、身体障害など。刑務所の中では「掃き溜め」」と言われている場所だった。寮内工場とは名ばかりで、やっている作業は、生産にかかわるものではない。養護学校などで訓練と称してやらされていたものと似ていると思った。手先の訓練だけで、その作業が終わると職員が、叉もとの状態に戻してもう一回やるというようなものだ。指導補助の仕事の多くは、糞尿の処理、はじめその光景をボーゼンと見ていると先輩指導補助がやってみせてくれ「自分の子どもの便だと思えばなんでもない」と教えてくれる。彼の子どもは、彼が投獄されたときに生後3ヶ月、それまでずうっとお風呂に入れるのが彼の役目だったので、彼がいなくなるとお風呂に入る時に泣く、言葉が喋れるようになると「パーパ、パーパ」といって、面会に来ると透明なアクリル板越しに両手を伸ばして「パーパ、パーパ」という。

 妻が実によくできている。

 大学時代同じゼミの同級生だった辻元清美が同じ罪でつかまったとき「山本譲司は私的に流用したが、自分は違う。叉、彼は政策秘書に無断で名義貸しをしたが、私は違う」とうそを流した。それに対して早速抗議をしようと思っていると、妻は、ちゃんと面会の予定ではない日に面会に来る。

 結局辻元さんは国会の場で山本譲司に謝罪することになるのだが、彼は後に反省する。自分と大して変わらない彼女を告発することもなかったのでは?と。自分自身、自己保身のために、はじめは同じように虚偽発言をしてしまっている。そういう自分の性格を改めるために控訴しないで監獄に入るという選択をしたはずだった。と。

 読み終わって、さわやかさが残る本だった。岡田さん、紹介してくださって、有難うございました。去年の12月の出版されて、今年の5月には7刷となっています。

 この本の中に、江田五月、菅直人がでてくる。どちらも彼をかばってテレビや、裁判所で、弁護していた。このこともうれしかった。

        「帝国を壊すために」岩波新書(2003,9,19)
           インド人アルンダティ・ロイ著、本橋哲也訳

 この本はすさまじい本でありながら、とっても楽しく読めてしまいます。訳者がよほど上手なのかも知れません。私の預かり知らぬ世界です。でも、9,11以後、この本は、世界各国で大反響だった彼女の文のたった8編を選んだと言うことですから、すでに世界中に広まっているのでしょう。

 目次を見るだけで不思議な感じがします。
「無限の正義」という名の算術
戦争とは平和のことである
民主主義の女神―彼女は確かにこの地にいるはず、でも誰も彼女のことを知らない
帝国製インスタント民主主義―一つ買うと、もう一つただでもらえるインスタント食品はいかが?

 9,11の後すぐにアフガン攻撃が始まる。ビンラディンをかくまっていると言うカドで.。ところがこのビンラディンは未だにでてこない。そこで彼女はこう書いている。「彼はアメリカという家庭に隠された秘密なのだ。アメリカ合衆国大統領の影の分身。美しく開明的であるべきすべてのものの裏にある、野蛮な双子の片割れ」

空爆を始めるときのブッシュの言葉、「われわれは平和を愛する国だ」からこう続けます。「豚とは馬のこと、女の子は男の子、戦争とは平和のこと」アメリカでは、兵器産業、主要メディア、外交政策、は同じビジネス界の大物たちに牛耳られていると言う状態が、完全にに論証されている。

 グジャラートで行われたムスリムへの大量虐殺、ご存知でしたか?そこはインドの主要州として唯一インド人民党(つい先日まで首相だったバジパイの党)が政権をとっているところ。ヒンドゥ―・ファシズムの実験場として、限りない虐殺を果たした。ナチスになぞらえられるこのファシズムの嵐は、98年に核実験が行われたころから吹いてきたと言う。歴史的にみて、ファシズム運動は国家への幻滅感によって火をつけられてきた。グジャラートでの加害者は誰も逮捕されるどころか、国家によって守られている。大企業主導のグローバリゼーションによって階層化されたままのインド社会を引き裂いている。

 それでも、つい先日の総選挙で、インドの選挙民たちは、バジパイにNOを突きつけましたね。といっても、イタリア人だからという理由で首相候補からガンディさんを落とすとは! 政府発行のお札に10いくつもの言葉を書き連ねているインドの許容量もここまでなのかとがっかりしました。

 しかし、ここからが彼女の真髄です。このようなアメリカの「アメリカ合衆国愛国法」を2001年10月にほとんど審議せずにでっち上げたナショナリズム(=ファシズム)に対して一番の力を持つのは、アメリカの市民社会だと述べ、ハワード・ジンの「民衆のアメリカ史」を読むだけで、アメリカの民衆には輝かしい抵抗の伝統があることがわかる。われわれ外国のものは、アメリカを動かしている企業の不買運動などで闘うことはできるが、アメリカ人たちのように「帝国の宮殿にも帝王の私室にも入れることができる」わけには行かないので、「歴史があなたたちにその機会を提供しているのだから、この戦いの戦列に何百万の単位で入ってきて欲しい」と訴えている。

「イラク戦争と占領」(酒井啓子著、岩波新書)2004,1,20 発行

この本を読んだのは、2月の終わり。この文を書いたのは、3月始め。それでも、今とあまり変わりがないようにも思います。今回の人質問題で、ここに書いてあることが証明されてもいます。(4月16日)

終わったはずのイラク戦争が、終わるどころか、ブッシュによる戦争終了宣言の後、米兵を始め、イラク市民にも、たくさんの死者が出ています。一体どうなっているんだろう、という疑問に一つずつ丁寧に答えてくれるのが、この本です。以前ご紹介した「イラクとアメリカ」の続編とも言えるものでした。

アメリカの日本占領は実にうまくいったといわれていますね。それは、早々と占領後の日本をどうしていくのかを、丹念に調べてそれを元に占領政策を遂行して、ほとんどの日本人をアメリカびいきにしてしまったのですから、それは、うまい占領としかいいようがないでしょう。

今回も、イラクについて調べていて、こういうことはしてはいけない、と言う文書もあったのだそうです。それなのに、実際その場になってアメリカ軍がやっていることはそこに書いてあることの逆になっていると言うのです。なぜそうなったのか、克明な経過が報告されています。

フセイン体制と言うのは、社会主義で、国営の企業がたくさんあります。病院などはすべて国営で、アメリカの占領政策は、市場主義の導入ですから、国家公務員を全部首にします。その人たちが失業者になって街にあふれかえっているのは、テレビでよくやっていますね。

そうなった後の地域社会を、誰が治めてきたかというと、宗教団体だといいます。フセイン体制では、認められていなかった宗教行事が復活し、信徒が尊敬するウラマーに指示を仰ぐようになります。シーア派も、スンニ派も、どちらでもいいから宗教は統一して、イラクを守ろうと言う体制ができつつあるといいます。略奪されそうな公のものを、モスク(イスラムの教会)に運び込んでまもっています。

アフガンのときにも、新しい体制を作る選挙という段になって、「女はだめ」というような意見が出て、大騒ぎでしたが、そこに住む人の意識と言うものは、変わらないものだと思いました。今回も、フセインが、長く抑えていても、もともとある宗教心は、そのまま保たれていて、統治者が変わる程度では、変わることのないその国の人々の意識と言うものを改めて見せてもらった気がしました。



 「均等法をつくる」(勁草書房、2003,10,15)赤松良子著

 赤松良子さんが、今だからこそ書けるという内容をもった本として、これを出版した。去年出てすぐに読んで、なかなかの読み応えだったが、紹介しないまま年を越してしまった。

 官僚、という言葉は、ほめるときにはほとんど使われない言葉になってしまっているが、官僚というものもまんざらではない、人間のために正に「公僕」として尽くすことが可能な職種なんだと思わされるのがこの本だ。3年前、WINWINで推薦していただいたにもかかわらず落選してしまって、お礼とお詫びをかねて宇洋、乙水で、赤松さんを訪ねたときに言っておられた言葉を思い出した。「あのころは、労働省しか女性を取らなかったので、ほかの役所を回って女性を採るようにお願いしたものですよ」。そんな活動が、その後に稔っていったのだ。

 赤松さんの30代には、裁判で、少しずつ道が開けていく。結婚退職制度や、定年における男女差別などについて、憲法14条と民法90条の「公序良俗違反」によって勝訴が勝ち取られていく。その頃、こんな文章を書いている。「憲法14条、民法90条による論理構成は、よく見かける企業のエゴ丸出しの反論では到底覆せないであろう」。
 一方では、係長赤松良子の考えが、上司の許可が得られずに後退させられることもあり、そんなときには、その悔しさをばねにたくさんの資料を集めて「女子の定年制」という本をだしたりした。すると、その後、住友セメント結婚退職裁判で勝訴判決を書いた裁判長が、「あなたの本を参考にした」と言う。相互に勇気付けあいながら、司法と行政が同じ方向を向いて道を開いていったということが感動を呼ぶ。
 
 いよいよ均等法をつくる段になると、右から左まで、様々な考えの団体が色々な陳情を持ってくる。罰則付きでなくては意味がないという人、均等法には女子保護規定を残すべきという考えの団体などからは、「赤松局長糾弾」という声まで聞こえてきた。他方では、「女性に参政権などを持たせたからいけない」という経団連会長までを相手にしながら、調整していくのは大変なことだ。

 とにかく作って、足りないところは後で改正していく、というのが、赤松さんの考えで、体を張ってとにかく作った。その後の改正で、「醜いあひるの子が白鳥になった」と赤松さん。でも、白鳥どころか、もっと醜くなったといっている人もある。

 この本の中には、とてもたくさんの女性たちが登場する。大学卒業後半年間8畳一間に二人で住んだというエピソードもある。そんな女性たちの心を合わせた大変な事業だったということは確かなことだ。

 この本のユニークさは、「離婚」という項があり、ご自分の離婚について淡々と書いていることだ。本当はそんなに淡々としたものではないかもしれない。だが、ここにそれを書いてある、ということが、赤松さんの人間性だと思うことができた。そんな人間性が、「官僚」の枠から出て、今、WINWINというNGOに人生をかけるとまで言っておられる生活を支えているのだと思った。



「一下級将校の見た帝国陸軍」--山本七平著、文春文庫(515円)  
                  (1976,12 単行本。1987,8 文庫本)

「一下級将校の見た帝国陸軍」は、大変な読み物でした。
肉食人種である欧米人に比べて、草食人種である日本人は、攻撃性が少ない、といわれているにもかかわらず、第二次世界大戦の中では、特別ひどいことが行われたということを様々な書物で読み、これは一体どう理解したらいいのか?とことあるごとに訊ねていた私にこの本を読むように、と紹介してくださったのは、「日本の知恵、ヨーロッパの知恵」の著者、松原久子さんでした。

この本の前半は将校としてフィリピンへ行かされるところから、いってからの惨めそのものの軍隊生活を克明に描いている。1944年6月に日本をたって、輸送船で運ばれるのだが、この船は、畳2枚に10人を詰め込むもの。それだけで、すでに行く手の戦況は見えているというもの。やっと、フィリピンについてからも、騎馬隊の馬も、食料も現地調達。つまり、盗むのだ。

フィリピンを植民地として取り込もうというのに、現地のことは何も調べていないし、盗みをしていく軍隊を、現地の人が受け入れるわけはない。どんどん周りの人たちが死んでいく。時計の音が,still live still liveと時を刻む。「まだ生きている。」その感覚だ。

戦後、の総括が、圧巻!正に、私の疑問を説得力をもって応えてくれた。「軍人は、員数を尊ぶべし」員数20、欠5。つまり15なのに、員数は20。「気迫という名の演技」現実を伝えても、それを「気迫」でふっ飛ばせという。このような軍隊は、明治政府のでき方から発生しているという。軍事力で政権を手に入れたのが明治政府だった。つまり、軍事政権だったというのだ。言論の府である議会などより、「暴力装置」である軍隊が、権力をもっていた。人間の秩序は、言葉によって成り立つものだが、日本軍の秩序は、言葉を奪って(誤解に基づいて殴られても、それを指摘すると叉殴られる)暴力で成り立っていた。
「統帥権」「八紘一宇」などの言葉が、意味を確定しないまま使われていた。言葉による議論、という伝統がない、ということなのかもしれない。

最後に出てくる「死の哲学」によって生者を支配する日本の伝統は実に味わい深い文章です。実物を読んでいただきたいと思います。



「集団的自衛権と日本国憲法」 浅井基文著、集英社新書(2002,2)

2001年6月に、浅井さんが朝日新聞に集団的自衛権について書いたのを集英社が本にするようにといってできた本です。
その年の9月11日が、「あの日」ですね。この方は、3ヶ月も前から、まるで、そのことを予測していたかのように、集団的自衛権、を問題にしたのです。この本が出たのは、2002年2月ですが、今でもちっとも古くなっていません。

9,11以後、それまでには考えられなかったようなことがどんどん通ってしまうようになりました。
アフガン、北鮮、イラク、着々と、戦争ができる国、に日本を変えていきました。「海外派兵と海外派遣」「武力行使と武器使用」これらの違いってわかります?こんなに同じような言葉の、小さな隙間を広げることで、憲法9条がありながら、戦争に組することができるようにと舵を切ってきた日本政府の歩みが、実に説得力をもって書かれています。

イラク特措法のときに、首相が、憲法前文の国際貢献の部分だけを取り出しましたね。この本を読むと、それも折込済みのように思えてきました。[PKOのときには、みんな反対したでしょう?でも今は、みんなPKOならいいって言ってるじゃないですか。そんなものですよ」と首相が言っていました。すっかりなめてかかっていますね。どうしたら、なめられないようになれるんでしょうか?



  「当事者主権」岩波新書  中西正司、上野千鶴子著(2003,10)

 とっても興味深く読みました。知っている人たちの名前がたくさん出てきます。圓山里子さんは、この本の制作にかかわっているし、岡田弥生さんは、歯科医として、当事者主権を探っている人として紹介されているし、自立生活センターは、新潟でも、遁所さんほか、大勢の方がかかわっているし、なんかとっても身近な本でした。それでいて、ここに詰まっている情報量は大変なものです。

 そもそも、普通共著というと、何章は誰というように分担しているはずですが、これは、違います。明らかに、こちらの方が書いたとわかる箇所もありますが、二人が溶け合って書いているのです。中西さんは、中途障害者として、自立生活センターを立ち上げ、広げていった当事者。上野さんは、女性問題、の当事者、この二つ、実は、私自身、新潟にいった70年以来ずうっと継続的に取り組んできたのが、これだったのでした。

 今、障害者法定雇用未達成企業のことにかかわっていますが、障害者雇用に積極的に取り組んでいる企業を奨励していくということもやっていきたいと思っています。女性についても、女性が、子育てをしながら働く環境を積極的に作っている企業を支えていこうということで、アメリカでは、そういう企業の株を買うということをしているのだそうです。

 女や、障害者、が、福祉という視点ではなく、自分たちの声を世の中に届けていくということが、どちらも難しいという点で、似ているんですね。当事者の声を聞くという点で、北海道にある「べてるの家」では、精神障害者のカンファレンスを患者さんを含めて医療関係者が、やっているそうです。ここは、りーだーが医者ではなく、ソーシャルワーカーの向谷内(むかいやち)さんだということもユニークですね。

 圓山里子さんによると、この本の印税は、すべて、自立生活センターに使われるそうで、700円という安いものです。買って、読んでくださることを期待しています。


  「イラクとアメリカ」ー岩波新書、酒井啓子著(2002,8)

 この本は、第15回アジア・太平洋賞を取り、11月21日の毎日新聞に著者酒井啓子さんへのインタビュー記事が載りました。酒井さんは、イラクの研究者で、歴史的に、サダム・フセインが登場してくる過程、「そのフセインが、どのようにしてアメリカを発見し、アメリカに発見され、アメリカを利用しようとし、そしてアメリカと向き合うことで世界を総べようとしたか。イラクの現代史をその対米関係を軸に見ていくことで、アメリカの作り出した中東世界での諸矛盾を浮き彫りにしていきたい。」と書かれた前書きを、見事に実現した書だと思います。
 湾岸戦争のことさえほとんど知らなかった私には、一つ一つの史実さえも新鮮で、23日1日で読破してしまいました。私にはとってもめずらいいことです。




  「心の専門家はいらない」ー洋泉社、小沢牧子著(2002,3)

 林真未さんからの紹介で読ませて頂きました。本の題名で、内容のほとんどがカバーされています。私が開いていた「大地塾」にも「心の専門家」によって傷ついてきた子どもたちが何人か来ていましたし、当時中学2年生の目崎美絵のカウンセラー批判は痛烈でした。「先生はどうしてカウンセラーになったの?と聞いたら、答えなかった。それっきり行くのをやめた」ロジャーズのカウンセリングというのは「聞く」事に徹するという理論なのですね。この「聞く」ということだって、実はとっても大変なこと。本気で聞いたら、命がなくなることだって覚悟しなくてはならないはず。ただ、耳でだけ受け取るというのでは、「聞き流し」ですものね。人間としての交流ではありえませんね。
 
 この本では、行政や河合隼雄に代表される「心の専門家」たちが、「治す―治される」関係に疑問をもつことなく、専門化が奢っていくことと、専門家に頼ってしまう人たち双方への警告が発せられています。ばらばらになってしまった人間関係を「縁」によって取り戻すことの提案として受け止めました。ただ、すでにばらばらになってしまっていて、頼れる人はいなくなっているときに、たまたま一人のカウンセラーとの「縁」がつながって、生きる望みを取り返したというようなまれな例もあるということはありうると私は、思っています。


  絵はコミニュケーション」
         (燦葉出版社)
――さんよう、と読む(1998,4)

 重度の自閉症の娘田中瑞木さん(30歳)とそのお母さん、愛子さんの共著です。、
愛子さんは瑞木さんが小さいときから絵が好きで、描画に熱中する姿を見ながら、絵の先生を探してあげたいと思うようになり、12歳のとき、絵の先生と出会うことが出来、以来、瑞木さんは、油絵に没頭。今では、すでに個展を6回行い、瑞木さんの美術館を立てることを目指して活動中です。
 そんな瑞木さんの絵と、お母さんの文章でこの本ができています。絵の価値については、全くわからない私なのですが、美術館めぐりが趣味の夫卓夫が、瑞木さんの絵を気に入って、10枚、コピーを購入して、もえぎ園診療所関連の建物に飾っています。なぜコピーなのかというと、美術館を立てる計画のために、原画は手放せないからです。
 愛子さんの文章は、これまたすばらしい。かなり本音で、自閉症児の母の実態を書き綴っていて、胸を打ちます。うつ病になって寝込んでしまう愛子さんの没頭振りは、読む人すべてに勇気と感動のプレゼントです。
 この本が出てから(98年)夫と離婚、この本を読んで感動した男性と再婚、この男性が、美術館作りの牽引車です。
 お母さんの愛子さんは、長岡高校の出身で、なんと、2002年、田中真紀子さんの辞任に伴う新潟5区の補選の野党候補者石積さんと同級生でした。


       田中愛子http://umi.or.jp


  「1945年のクリスマス」
     日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝

            ベアテ・シロタ・ゴードン著 (柏書房)

 ロシア人の両親から、ウィーンで誕生、ピアニストの父が山田耕作に招かれて東京音楽学校の教授となったときから日本に住んだベアテさんはアメリカの大学を卒業してから、GHQの職員となって叉日本に来た。25人の憲法起草委員会のメンバーになり、人権を担当。5歳から10年ぐらい日本に住んでいたことがあるために、日本の情況を知った上で、男女平等を始めあらゆる差別をなくすべく、たとえば、「非嫡出子を差別しない」なども盛り込んだ、ところがそんな細かいことは憲法ではなく民法で決めるべきという上司に「日本では民法に盛り込めないから憲法で」と泣いて抗議したが敗れてしまう。

 当時22歳だった彼女が23歳当時の私の姿とダブってしまいました。大学卒業して勤めた私立女子高校で、自分の意見が通らないとトイレに駆け込んで一泣き泣いて、体制を建て直して叉職員会議に戻るということをどれだけやったことでしょう。私にとって当たり前のことが、通らない。生徒にとっていいことと経営にとっていいこととが食い違う。
 ベアテさんもずうっと年配の男性に抗議してもしても通らず、結局民法にはいまだに非嫡出子差別はそのまま残っている。70歳をすぎたベアテさんは、後悔している。あの時もっとがんばるべきだった、と。

 1990年代になって「日本国憲法を生んだ密室の9日間」というテレビドキュメントの撮影に、あの時やりあった上司と日本に来て、当時GHQだった部屋に入る。カメラマンのいうとおり元帥の椅子に座って記念撮影をしたことを夫に話すと、夫が厳しく注意した。「そんなことを冗談半分にするような軽率な人間が、日本国憲法を書いたと思われたらどうするんですか。それでなくても、今、日本に憲法”改正”問題が起こっているときなのに」そういわれて自己嫌悪に陥っている彼女も、まったく私の姿そのものだった。

 語学がまったくできない私だから、彼女のような仕事は絶対にできないのだけど、なんだか「子どものまま大人になったみたい」といわれる性格はよく似ているように思えてしまった。

 この本を読めば、「押し付け憲法」などすっかり跳ね返せると思ったのだけど、それもただ、私の意見にすぎないのでしょう。男女同権などとんでもないと思っている人にとっては、明らかに「押し付け」なのですから。でも、少なくとも、アメリカが自分たちに都合がいいようにということではなく人々にとって理想的なことは何か、という観点で作られたということは誰もが認めざるを得ないでしょう。



1)著者ベアテさんは、参院憲法調査会に参考人で、発言されてます
第147回国会 参議院「日本の憲法に関する調査」(1999年5月2日)
下記は、議事録全文です

http://www.sangiin.go.jp/japanese/kenpou/keika_g/147_07g.htm


2)下記はこの本が紹介されてるホームページです。 ご参考に。http://myriel.ads.fukushima-u.ac.jp/bookguide/1997/b9716.html



日本の知恵、ヨーロッパの知恵――――松原久子著(三笠書房)

 この本は、日本人である松原久子さんが、ドイツに住んでドイツ人に向けてドイツ語で書かれた本です。
 なぜ、日本は、ヨーロッパの国に植民地にされなかったのか、という問題意識をもって書かれた本はたくさんあるのかもしれません。私は、昔から歴史嫌いで、歴史の本は面白くないと思って読んでいませんでしたから、皆さんが知っておられるようなことをほとんど知りません。そんな私が、この本は面白くって没頭実に興味深い本でした。
してしまいました。
 このところ、「自虐史観」とか言って、日本がだめだという論調への挑戦が「新しい歴史教科書」という形で行われていますが、そのグループのいっていることには、史実の捻じ曲げがあったりして、(たとえば、南京虐殺は存在しない、とか) 納得できないでいました。日本をだめだと決め付けるのではなく、もっといいところがあるはずだと思っていた私には、この本で知らされた15世紀ぐらいからの日本が、なるほど、そこまで色々発展していたのか、ということにまず驚きを感じました。

 しかしそのことより、もっと驚いたのは、日本の封建社会に比べて、西洋のそれの方がどんなに残酷だったのかという事実です。キリスト教という一信教が、どこまで残酷に異教徒を虐殺してきたのか、それに比べて、日本の場合には、秀吉が、禁教令を出した後長崎で26人の磔(はりつけ)刑を執行したのみで、西洋のように、新旧の宗教対立で改宗してまで惨殺されるというような残酷さはなかったという。信長は、浄土真宗の信者が、宗教の域を越え、政治まで掌握しようとしたことに対して、長年戦い、瀬戸内海に鉄製の艦船を作って(西洋でこれができたのは、18世紀になってからとのこと)海上封鎖して、とうとう相手方が、降参。その後、あいて勢力を殺戮するのではなく、信教の自由を与え、政教分離をさせたのみだった。というのです。信長というのは、日本では、残酷の代名詞のように言われてきたと思うのですが、このことだけで相当に驚きました。単に私が無知だっただけなのかな?

 日本が宗教その他に関して、許容量が大きい現状の根源を知る思いがしました。細川隆元が、前書きで言っていますが、日本人の白人へのコンプレックスを克服する名著だと思います。松原久子さんは、私の東京選挙のとき後援会長をしてくださっていた田中喜美子さん(「わいふ」「ファム・ポリティク」編集長として有名)の親友で、現在はアメリカ在住です。この本は、インターネット・ブックストア・アマゾンを通じて、古本屋から買うことが出来ました。1983年ドイツで出版、世界各国語に訳され、日本語に訳されたのは、87年です。

入手方法:「古本屋か図書館にしかありません。
インターネットブックストアーamazonに注文すると、古本が手に入ります」

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