606的にカウンターは気にしてないけど… スーパーセブンに乗ってる悲しい定めで『7』という数字にはプチ敏感。
 『チキチキ通信』もHPを立ち上げてぼちぼち丸2年を迎えようとしている。 ずいぶん前に【プロフィール】のコーナーがあって、僕がセブンを買った動機や、買ってからのエピソードなどを載せてました。(怖い物知らずで家の地図なんてのもアップしてた) それを読んでいただいてない方の為、読んだけど覚える気がなくて忘れた方の為に、『チキチキ』が現在に至るまでの歴史を紐解いてみようと思います。

 1991年の暮れにセブン(1700BDR新車)を注文。 当時はボクゾールが出始めた時代でした。 『T LOVE SEVEN 1』がバラバラになるまで読んでて頭の中は何年もの間セブン一色・BDR一色。 迷う事は無かった。 考えてみたらショップには1回しか足を運んでなかった。 2回目に行った時に注文。 それもこれも当時行き着けの喫茶店のマスターがセブンを好きで、紀和商会さんから届いたパンフレット(当時は絵葉書数枚がパンフレットだった)を見せてくれて… ル・ボランの広告に載ってたディーラーを紹介してくれたのが引き金でした。 

 セブンを注文すると言っても半端な気持ちではありませんでした。 最初は1600BDR(1.6リッターが好きだったから)狙いでしたが、ショップの方々の説得で1700BDRになったのは半ば弱虫。 何が良くて何が悪いのかなんて全然分からなかったもん! 
 当時の車両本体価格は1600が550万円で、1700が580万円でした。 まだ消費税なんてものは無かったので580万円ポッキリだと思ったのが最初の失敗。 その後でオプションパーツの話し合いとなり… ストーンガード・ホイール・ロールバー、そして意味不明だったドライサンプ(60万ぐらい)に、はたまた4点式シートベルトまでもがオプションで… 車両本体価格と諸費用合わせて770万でした。 現在ならR-500に手が届く値段です。 これには本当に驚きました。

 4年間、血と汗と泥と葉っぱと男にまみれて稼いで貯めた貯金+退職金=頭金300万が消えました。 近所のATMで6回に分けて引き出してポケットに入れて小切手に換金しに行ったのは日本がまだ治安の良かった頃ならでは。
 残金は3年ローン。 23歳だったので親に頼んで動かす予定にない株券を担保にローンを組みました。

 ショップに完成したセブンが届くまでの予想日数は12ヶ月でした。 セブンが受注生産で納期が1年〜2年ぐらいなのは知ってたので驚きは無かったけど…わずか7ヶ月後に「セブンが(ショップに)納車されました!」という電話を受けた時は驚きました。 だってまだガレージが完成してなかったからね。
 嬉しかったので早く見に行きたかったけど、仕事の都合で10日ぐらい後にバイク飛ばして見に行きました。 狭いショップの中にはセブンが1台入ってて、ボンネットの上には薄い布が敷いてあり、その上にはいろいろなパーツやアクセサリーが置いてありました。 「セブンをテーブル代わりに使うなんて凄いお洒落なショップだなぁ〜!」と思いつつ、もうすぐオーナーになる僕はボンネットの上にならんだグッズをニコニコして見てました。 
 しばらくしてショップの方が作業を済ませて戻って来たので、「僕のセブンは何処に置いてあるのですか?」と尋ねたら… 「それだよ」と指差されたのはテーブル代わりのセブンでした。 笑顔でグーを握り締めて「勘弁してくれyo~」と心の中で叫んだ。 そういえばワインなんかも置いてあったなぁ!

 納車(引き取り)は1992年の真夏。 とりあえずテーブルの役目からは開放されてました。 当時は二桁(52とか53ね!)ナンバーが当たり前。 納車時に見たナンバー『三河53 xx・606』が現在のハンドルネーム606。 6月6日が誕生日というワケではありません。

 乗り込み方・エンジンの掛け方・ウィンカーの出し方・スイッチ類の説明を受けて恐る恐るショップを後にしました。 
 クラッチがツインプレートだし、目立つ車でエンストしたら恥ずかしかったのでスニーカー(当時はレーシングシューズなんて持ってなかった)を脱いで裸足で運転した記憶があります。 

 ショップを後にして燃料が無い事に気がつき、通りすがりのGSに寄りました。 セブン初の給油! 凄くドキドキしました。 国産乗用車ならレバー引けば簡単に給油してもらえるけどセブンは違う。 エンジン止め、おもむろに降りて給油口をカギを使って開ける。 買った当時はバルブシートが組み込まれてなかったので、燃料補給の前にモスリード(鉛)を入れます。 つまり有鉛ハイオクってわけですね! 何リッター入るのか分からなかったし、聞かれても困るから「だいたいで良いです。」と言った覚えがあります。 無事に給油が終わって現金で支払う時に緊張で手が震えていたっけ! カッコ良く乗り込んで、カッコ良くベルト締めて、カッコ良くエンジン掛けたまではよかったけどバックギアの入れ方が分からず四苦八苦! 結局分からなかったので店員さんにロールバーを押してもらって切り返ししてGSから脱出しました。 それ以来あのGSに寄る事は無かった。 だけど前を通る時はあの頃を思い出して恥ずかしくもなり懐かしくも思います。

 帰り道はエンストが怖かったので東名高速で帰る事にしました。 小牧ICから岡崎ICまでエンジンを慣らしながら帰ったなぁ♪ アクセル戻すたびにパンパン&ドッカンドッカン火が出た。 壊れやしないか心配だったけど、恐ろしいほど出るアフターファイヤーが快感&嬉しかったです。 途中の上郷SAでショップに電話してバックギアの入れ方を教えていただき…これで安心♪ 当時は携帯電話はおろかポケベルも無かった時代だもんね。

 なんとか家の近所まで辿り着き、交差点で友達の車と両右折で鉢合わせした時に第2の洗礼を受けました。 友達がホーンで挨拶したので僕もセブンのホーン(フェラーリホーン)で挨拶してやったら、フェ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ン と鳴りっぱなしになってしまった。 セブンのホーンは正確には『フェーン!』ではなく『すフェーン!』なんだけどね。  友達は笑いながら去って行くし、大きな交差点だったので周囲から注目され…とりあえず路肩に停めて確認したら、ホーンボタンがスイッチオンの状態になったまま奥にハマってる。 慌てた僕はステアリングをバンバン叩いた。 そうしたらホーンボタンが飛び出して鳴り止みました。 それ以来ホーンは鳴らなくなってしまいました。

 数々の洗礼を受け… 突貫工事で作ったガレージにショップから辿り着くまでにヘトヘトになった僕に再び熱い洗礼が待ってました。
 それは『近所の目』です。 ここまでは肉体的苦痛でしたが、近所の目は精神的苦痛。 ガレージの周りの家の窓からはこれまで見た事の無い『人間の目』を確認できました。 一番嫌だったのが、カーテンの隙間から片目だけ見えるの! あれには参りました。 
 バックギア初体験でガレージに格納して一日が終わりました。 ところがここから先が本当の泥沼の始まり!


 イギリス(ケーターハム工場)で組み上げられた606号は日本まで長いこと船に乗っていたのでアルミ地肌が塩害で紋々! 日本ではテーブルとして使われてもいたので凄く綺麗にしてやりたかった。 なぜならショップに行った時にピカピカのセブンばっかりだったからです。 「磨けば綺麗になるよ!」というアドバイスも頂戴してたので、とにかく磨いて綺麗にしたかった。 納車されて数年は仕事が無い日は天気さえ良ければ乗ってたし、乗ってなければ磨いてた。 部屋までボンネットを持って来て深夜まで磨きまくった。 自分の時間というものが100%セブンに注ぎ込まれてなぁ!

 一番最初の故障はラジエータでした。
 ラジエータ本体の上部からLLC(ロングライフクーラント)が滲み出て、黒いラジエータが部分的に青白くなってました。 どうしたら良いか分からなかったので、ショップに電話したら「わかった!何とかするから、ちょっと待ってて。」と言われ、ちょっと待ってたら…待ちくたびれた二日後にショップから大きな宅配便が届いた。 何だろ?と箱を開けたら白いカニチップスみたいな発泡スチロールの中からラジエータ登場! 「自分で交換しろって事?」 とショップに電話したら「簡単ですから〜! 工具はコレとコレがあれば…」との事。 泣く泣く狭いガレージで作業開始。 (そうだなぁ〜! 今思えばその頃からセブンが完調じゃないと夜も眠れない性質だったなぁ!) またまた四苦八苦したけど6時間かけて何とか完成したよ。 めちゃめちゃ疲れたけど、あの時は嬉しかったなぁ。 エンジン掛けて正常にLLCが流れた時は感動しました。 今は亡き祖父が植木に水をやりながら「これ入れとけ!」と残った水の入ったヤカンを手渡してくれたのが懐かしい。

 それからは日曜日が待ち遠しい日々が続きました。 ショップを通じてセブンの仲間がどんどん増えてセブンライフが何倍も楽しくなった。 毎週金曜か土曜の夜に「明日は何処へ走りに行こうか?」という仲間からの電話。 携帯メールもPCも無かったから普通の電話で、あーでもないこーでもないと長電話して予定を組んでました。 遊びに行く所はもっぱら峠。 僕はアルミに緑のクラムシェルフェンダーで背中にはしっかりスペアタイヤ積んでました。 『セブンはこれでしょ!』と胸を張っていた時代。 でも確実にサイクルフェンダー化の勢いは強かった。 一緒に走りに行く仲間は皆さんサイクルフェンダーでした。

 毎週日曜はセブン! 走りに行った帰りはショップに集い、ゆっくりしてから帰る。 雨ならガレージで磨く! 暇ならショップへ行って仲間と喋る。 そんな事が昔は常だった。 
…そんなセブン三昧な日々が何年続いた事でしょう。 毎月1000kmは乗ってたからオイル交換も頻繁でした。 最初の一年で20000kmオーバーを記録しました。 

 606号が初めてサーキットを走ったのは買って半年後くらいかな?  鈴鹿サーキットのフルコースでした。
 正直『走行会』なんてのは生まれて初めてだったのでワケわからなかった! ワケわからなかったから期待感も恐怖心も無かったです。 タイヤもノーマルタイヤ(グッドイヤー)だったし、ヘルメットはバイク用でグローブはゴム付の軍手でした。 なんだかんだと行事があって、走行開始時間は午後4時を過ぎてた。 晴天だったけど真冬なのでセブンの走行開始の頃には日没。 初めての鈴鹿サーキット! しかも真っ暗! 照明なんて1個も無かったからコーナーなんて先が見えない。 ただでさえコースを知らないのに…真っ暗の中をヘッドライトを点けない(付けていない)で突然抜き去って行くボクゾールレーシング。  わずか30分の走行会だったけど、『サーキットを走った!』という記憶よりも『長いトンネルだった!』という感じでしたよ。

 それからしばらく過ぎて瑞浪モーターランドのイベントに誘われました。
 これまた1月か2月のウルトラ真冬。 岐阜の山間部をナメていたので道に迷うわ雪降るわで散々! 途中で幌を張ろうとしたけど、幌は寒さ冷たさで縮みまくってて独りでは張れなくて断念しました。 トイレを我慢しつつ、寒さ冷たさ心細さで泣きながら瑞浪モーターランドに到着。 そしたら鈴鹿を走ってた三角ロールバーのボクゾールレーシングがウヨウヨ!  「またこの人達と走るのかぁ?」と来た事を後悔し始めた。 雪はジャンジャン降ってるし、速いセブンばっかりだし、雨天未使用を目指していた606号なのに…踏んだり蹴ったり。 その日が606号を濡らした最初の日でした。 
 嫌々ながらも走行開始。 好きな時に好きなように走って良いという午前中貸切り状態。 なぜか一番最初に並ばされた606号にコースインの合図。 「どぅえ"ぇ〜! 怖ぅぇよ〜!」とビビりながらコースインしました。 後ろからは直ぐにボクゾールレーシングがわんさかコースインしてきます。 「おいらは徐行運転しかできんよ! さっさと抜いて行け!」と思ったけど後ろのボクゾールレーシングはミラーから消えていく。 それどころか後から入ってきたボクゾールレーシングに追いつき、そしてコーナーで追い越す。 「おほほほ(^0^) 何? 何なの? 遅いじゃん! ヤル気あるの?」と強気の606号。 後で知識ついて分かったのですが、606号はその頃タイヤを懐かしのアドバン・グランプリM3というラジアルタイヤに交換してました。  ボクゾールレーシングや他のセブンはSタイヤ。 当時はセミレーシングタイヤと呼び、ほとんど溝の無いタイヤだったんですね! たぶんあの時僕は一生分のセブンを抜いたに違いありません。 あれ以来、抜かれる事ばかりで… (T。T)

 サーキットもプチサーキットも楽しく走り、気の合った仲間とツーリングしたり、606号に愛着を注ぎ込んだり… 全ての自由な時間がセブン中心に動いてました。 つづく…
チキチキ通信 回顧録 壱
引き取って直ぐの写真。
606号最初の写真です。

ピカピカなエンジンルーム
懐かしいです。




今から13年前の写真。
大雪の瑞浪モーターランド
左のかたは紀和商会の社長さんです。
この時は全然知らなかった。