56 初めての演習 其の参
 鉄パチ(鉄ヘルメット)に擬装網。  顔にはカモフラージュ。  まさに『ココだけ戦争』状態である訓練場の片隅。  滅多に車が通らない田舎駐屯地の前の道を乗用車が普通に走っていたり、トラクターがゆっくり走ってる姿に『やっぱり演習』だと気がつかされる訓練場の片隅。


 中隊長がドスの効いた声で、「赤の国からミグ29戦闘機、スホーイ爆撃機による領空侵犯及び本土爆撃が繰り返されており… 我が国は非常に劣勢の状態である!!」と全隊員の士気を上げつつ全隊員を状況下に置く。
 そして見た事もない階級章を襟に付けた大きな隊員がスッゲー大きな声で「ガス!!」と叫んだ。  どこかで聞いた事のある号令。  全隊員は防毒マスク(ガスマスク)をショルダーバックから慌てて取り出して顔面に装着している。  僕も大急ぎで装着。  そして呼吸ができるか点検して完了!

 一般人が公衆の前で「ガス!!」なんて叫んだら、おならしたぐらいにしか思われないし…  下手したらツッコミ入れられてお終い。

 ただ、この防毒マスク装着は中隊長達が隊員に気合いを入れたり状況下に置くのには即効性がある手段。  演習に慣れた陸曹クラスには防毒マスクが入ったショルダーバックの中に飴やガムなどを入れている隊員も多く…  突然のガスマスク装着に駄菓子をバラ撒く事も多かった。  中には防毒マスクを抜いて缶ジュースや酒・タバコ入れに使ってる酷い隊員も存在した。
 通常、この『ガスマスク装着』の命令が出るのは対空戦闘時が多いので、持ってなくても草むらに隠れていれば何事もなかったかのように時が過ぎる。

 このガスマスク…  冬なら寒い顔を覆って温かいけど、夏はヌルヌルして気持ち悪いだけの一品。

 そしてガスマスクを装着したまま各位置まで移動。  僕は発射機から少し離れた小屋まで小銃を抱えて小走りで向かったけど…  他の隊員は歩いてる。  「おーい!本多ぁ〜! あんまり頑張ると最後まで体が持たないぞ〜。」と後から声が聞こえた。  頑張ってるワケじゃないけど『3歩以上は駆け足』という教育隊の精神、自衛隊の精神がそうさせてしまう。  


 初秋というよりは晩夏。  太陽が昇ればまだ暑い。  
「ガスなし!」という命令で防毒マスクを外す事ができた。  命令が出る前に外しちゃう慣れた陸曹達。  狭い小屋の中はリラックスムードで直ぐにタバコの煙で燻製になる。  僕はこの小屋の中でこそガスマスクを装着したかったよ!
現在では喫煙者よりも非喫煙者のほうが多いと思うけど…  20年以上も昔の自衛隊は全隊員と言ってもイイくらい皆がタバコを吸っていた。  これには本当に耐えられなかったなぁ。  吸殻を片付けるのは新兵の仕事。  タバコ吸わないのに吸殻を片付けさせれるのは新兵ながらに納得がいかなかった。


 そのうちに「ガス!」と叫んだ偉そうな隊員が、タバコの煙で息苦しくて小屋の外で座っていた僕に話しかけてきた。  ★★が縦に2つ並んでいる階級章。  珍しい階級章だった。  赤い腕章をしていたので検閲官だという事だけしか分からない。

 「タバコくれるか?」  それが最初の言葉だった。
僕がタバコを吸わない事を伝えると笑顔で、「吸わないほうが体のタメだ。」と言った。  普段なら…「だったら吸うなよ!」というツッコミを入れる僕だけど、赤い腕章の隊員にツッコミ入れるほどの勇気はありませんでした。

 その隊員と肩を並べて15分ほど話をしました。  何を喋ったかはあまり覚えていないけど…  「彼女はいるのか?」という問に「文通相手しかいません。」と答えた事は20数年後になった今でもハッキリ覚えている。
 「そっか。 それは君のこれからの原動力になる相手だからキチンと文通を続けなさい。」と威張って消えて行きました。

 その赤い腕章の隊員が居なくなった途端、小屋の中に居た班長達が一斉に出てきて…  「本多!何を言われたんだ?」と真顔で聞かれた。  恥ずかしい事は隠して何気ない事だけを白状したら、「おまえあれが陸将補だと分かって喋っていたのか?」と言われた。  「何? 陸将補って??」

 ここで陸上自衛隊の階級をおさらいしておきます。
 
 3等陸士 ⇒ 
2等陸士(二等兵) ⇒ 1等陸士(1等兵) ⇒ 陸士長(上等兵) ⇒ 陸曹候補生(伍長) ⇒ 3等陸曹 ⇒ 2等陸曹(軍曹) ⇒ 1等陸曹(上曹) ⇒ 陸曹長(曹長) ⇒ 幹部候補生 ⇒ 准尉(特務曹長) ⇒ 3等陸尉(少尉) ⇒ 2等陸尉(中尉) 1等陸尉(大尉) ⇒ 3等陸佐(少佐) ⇒ 2等陸佐(中佐) ⇒ 1等陸佐(大佐) ⇒ 陸将補(少将・中将) ⇒ 陸将(大将)

 こんなに階級差があったのですね(^0^)  知らぬが仏とはよく言ったもんです♪  しかも座ってタメ口。  お互いに余裕の階級差だから出来た会話だったのだろうか?

 しかしこの陸将補との会話は泥沼の演習が終わった時、まさかあれほど身に沁みる事になるだなんて思ってもいませんでした。
by606